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2021-04-05

三国志はおじさんばっか

日本作品では20歳以下のキャラ物語を動かしているが、三国志開始時を黄巾の乱(184年)とすると劉備24歳で曹操が30歳だ。三国志登場人物としては若いがすぐにおじさんになるし、お爺さんになる。

20歳以下の登場人物といえば19歳で家督を継いだ孫権。爺さんになって老醜晒すまで描かれる。曹沖はすぐ死ぬ献帝子供の時に即位させられた傀儡皇帝子供世界を変えることはない。16歳の少年が16歳のまま世界を救うのとは違う。

若くして死ぬといわれる周瑜郭嘉は30代だ。日本作品で30代といえば主人公達の壁となる大人組の年齢であって決して若手ではない。

姜維若い印象があるがいつの間にか爺さんだ。敵の年下のおじさん(40歳)を騙して共倒れする爺さんだ。

日本人よくこんな作品を楽しめるな。美少女も出ないのに。

2020-06-20

中国史大事抜粋年表

1 『北京大学版 中国文明掲載の「大事年表」をベースに、wikipedia中国の歴史年表」「夏商周年表」その他の記事で補った。

2 大事中、更に重要と見なしたもののみ掲載

3 < >内は王朝又は時代名(主要な王朝名のみ)

.

前1800頃 黄河中流域に二里頭文化(夏文化)出現 <夏>

前1600頃 殷(商)の創建(殷(商)・太乙(成湯)) <殷(商)>

前1250頃 高宗武丁の統治。甲骨文の使用

前1050頃 殷周革命(周・武王) <西周

前770 周の東遷(周・平王) <東周><春秋時代)>

前453 三晋(趙、魏、韓)成立(諸侯に列されたのは前403) <戦国時代)>

前359 秦において商鞅第一次変法が実施される

前350 秦が咸陽遷都する。秦において商鞅の第二次変法が実施される

前256 秦が東周を滅ぼす

前247 贏政が秦王として即位する(秦・始皇帝

前221 秦が燕・斉を滅ぼし、秦による中国統一成る。秦が貨幣度量衡文字統一する <秦>

前210 秦・始皇帝崩御する

前209 陳勝呉広の乱

前206 秦滅亡。鴻門の会。漢の高祖元年

前202 項羽滅亡。漢(前漢)成立。 <漢(前漢西漢)>

前154 呉楚七国の乱

前136 儒教官学化 ※異説多し

前115 均輸法(漢・武帝、桑弘羊)

前110 平準法

8 王莽皇帝を称する <新>

18 赤眉の乱

25 劉秀が皇帝を称する(後漢・世祖、光武帝)。後漢洛陽遷都する <漢(後漢東漢)>

166 第一党錮の禁

184 黄巾の乱 <三国時代)>

200 官渡の戦い

208 赤壁の戦い

220 後漢献帝曹丕(魏・文帝)に禅譲後漢滅亡、魏成立)。九品官人法制定 <魏>

234 蜀漢諸葛亮陣没

249 魏で曹爽が粛清され、司馬氏が実権を握る

263 蜀漢滅亡

265 魏・元帝司馬炎(晋・世祖、武帝)に禅譲(魏滅亡、晋(西晋)成立) <晋(西晋)>

280 晋が呉を滅ぼし、晋による中国統一成る

291 八王の乱

304 劉淵が大単于・漢王を称する(前趙成立) <五胡十六国時代)>

311 永嘉の乱

316 西晋滅亡

317 東晋成立 <東晋

439 北魏・太武帝北涼を滅ぼす <南北朝時代)>

485 均田法発布

581 禅譲により北周が滅亡し、隋が成立する <隋>

589 隋が陳を滅ぼし、隋による中国統一成る

610 隋・煬帝大運河を竣工する

613 楊玄感による反乱、隋の統治が崩れる

618 李淵皇帝を称する(唐・高祖) <唐>

619 租庸調制の実施

624 唐による中国統一成る

626 玄武門の変。李世民皇帝即位する(唐・太宗)

640 貞観律令

660 武則天執政

668 唐が高句麗を滅ぼす

690 武則天皇帝を称し、国号を周と改める

703 中宗が即位し、国号を唐に復する。武則天崩御

755 安史の乱(~763)

780 両税法施行。租庸調・雑徭の廃止

845 唐・武宗による宗教弾圧仏教景教、祆教、マニ教)、会昌の廃仏(~846)

875 黄巣の乱(~884)

904 朱全忠、唐の実権を握る

907 朱全忠への禅譲(梁・太祖)。唐滅亡。梁の建国 <梁・五代十国

916 契丹耶律阿保機皇帝を称する(遼・太祖) <遼>

960 趙匡胤皇帝を称する(宋・太祖) <宋(北宋)>

1004 澶淵の盟

1038 李元昊皇帝を称する <西夏

1069 宋において王安石の新法が行われる

1084 司馬光資治通鑑』が完成する

1086 司馬光、宋の宰相になる

1115 完顔阿骨打皇帝を称する <金>

1125 金が遼を滅ぼす

1126 靖康の変、金が北宋を滅ぼす

1127 南宋高宗即位 <南宋

1165 南宋と金の間に和議が結ばれる

1206 モンゴル部のテムジンボルジギン氏)、ハンを称する(チンギス・ハン、元の太祖) <モンゴル帝国>

1227 チンギス・カン崩御モンゴル西夏を滅ぼす

1229 オゴデイモンゴルの大汗として即位する(オゴデイ・カアン)

1234 モンゴルが金を滅ぼす

1236 モンゴルのバトゥ(チンギス・カンの孫)らによる西征

1260 クビライがモンゴルの大汗として即位する(クビライ・カアン。セチェン・カアン。元・世祖)

1264 アリクブケ、クビライに降伏する

1267 モンゴル帝国、燕京に遷都する

1271 クビライ・カアン、モンゴル国号を元に改める <元>

1279 元が南宋を滅ぼす

1281 弘安の役

1351 紅巾の乱

1368 朱元璋皇帝を称する(明・太祖、洪武帝) <明>

    明が元の首都大都を攻略する。元の北遷(北帰) <北元

1371 明で海禁令が出される

1388 北元の滅亡

1399 靖難の変

1402 明で朱棣が皇帝即位する(明・太宗、永楽帝

1403 鄭和による第一次航海

1421 明、北京遷都する

1435 この頃より宦官の専政がひどくなる

1449 土木の変

1616 女真族ヌルハチ満州中国東北部)に後金建国する <後金(清)>

1638 ホンタイジ後金のハーンとして即位し、国号を清に改める。

1644 清が明を滅ぼす(北京陥落)

1673 三藩の乱

1683 台湾の鄭氏政権が滅亡

1689 ネルチンスク条約

1696 ジュンガル部討伐

1716 地丁銀制

1728 キャフタ条約

1798 白蓮教徒の乱

1840 アヘン戦争(~1842) <近代中国

1850 太平天国の乱(~1864)

1856 アロー号戦争

1860 円明園炎上

1861 西太后の垂簾聴政(~1908)

1884 清仏戦争

1894 甲午戦争日清戦争)(~1895)

1899 義和団の乱

1904 日露戦争(~1905)

1905 清・光緒帝、科挙廃止する

1908 清・光緒帝並びに西太后崩御

1911 辛亥革命

1912 清朝滅亡 <中華民国

1915 日本による二十一箇条要求袁世凱皇帝を称する

1928 張作霖爆殺事件、張学良の易幟

1931 満州事変

1932 満州建国(~1945)

1934 中国共産党による長征

1935 遵義会議毛沢東中国共産党のトップ

1936 西安事件

1937 中国抗日戦争日中戦争)(~1945)

1939 第二次世界大戦(~1945)

1945 日本降伏

1946 国共内戦(~1949)

1949 中華人民共和国成立 <中華人民共和国(新中国)>

1950 中国朝鮮戦争に参戦(1951年終戦

1951 三反五反運動

1957 反右派闘争

1959 チベットダライ・ラマ14世インド亡命する

1958 大躍進政策の開始(~1958)

1966 文化革命の開始

1976 毛沢東の死去。文化革命終結

1978 鄧小平中国最高指導者になる。改革開放政策の開始

1997 鄧小平死去。香港返還

2012 習近平中国最高指導者になる

2019 湖北省武漢市で新型コロナウイルス(COVID-19)感染者が発生

2020 新型コロナウイルス(COVID-19)の世界流行

2015-04-22

中国十大奸臣

慶父

春秋時代の魯国の公子

兄の荘公の夫人と密通し、その兄が死んだ後に自分差し置いて魯公となった甥を殺した。

代わりに立てた閔公が、慶父の弟である季友を信頼する姿勢を見せると、これも殺してしまう。

自らが魯公とならんとするも、周囲の支持を失い追放され、後に送還されて季友から弾劾され、自害した。

趙高

秦の始皇帝に愛された宦官

始皇帝が亡くなると、丞相の李斯を唆して遺言を書き換え、本来の後継であった扶蘇自害に追い込み、その弟である胡亥即位させる。

功臣を殺し、圧政を敷き、それによって反乱を招くと、李斯胡亥を弑して劉邦に内通しようとしたが、扶蘇の息子と言われる子嬰に殺された。

梁冀

後漢大将軍で、皇帝外戚として権勢を振るった。

傀儡として立てた幼い皇帝に「跋扈将軍」と揶揄され、その聡明さを恐れて毒殺した。

桓帝の代になってようやく梁冀は粛清され、一族も悉く処刑された。

没収された私財は国家租税の半分ほどもあったという。

董卓

三国志演義においても有名な暴君

武力によって専横を極め、悪政暴虐の限りを尽くした。

少帝に退位を迫って献帝を立てた。

董卓討伐の連合軍が起こったが、それを破った。

しか養子呂布に裏切られて殺された。

来俊臣

密告を奨励した唐の則天武后の下、来俊臣は犯罪者を取り調べる役に抜擢された。

凄惨拷問を編み出して、次々に無実の者を死刑台へと追いやった。

ついに来俊臣は、これまで自分がやってきたように密告され、斬罪に処された。

街に晒された死体は恨みに燃える民衆によってバラバラにされたという。

李林甫

唐の玄宗の信頼を受けて十九年も宰相を務めた。

玄宗が気に入った者や、皇太子の周囲にいる者、自分地位を脅かすような人物を次々に陥れて殺した。

死後に庶民に落とされ財産没収された。

温和な顔をして政敵を追い落とす様は「口に蜜あり腹に剣あり」「真綿に針を包むごとし」と評された。

秦檜

南宋において宰相を務め、圧力を増す金との講和を唱えると共に、反対派を弾圧した。

名将・岳飛冤罪を着せて謀殺した。

後世、岳飛が忠臣の象徴とされると、秦檜の名は売国奴代名詞となった。

岳飛廟の前には、秦檜夫婦が縄で繋がれた像が立てられ、訪れる者はそれに唾を吐きかけたという。

厳嵩

明の嘉靖帝は政治を顧みず道教に熱中し、道教祭文に通じていた厳嵩は気に入られて高位に就いた。

そのため「青詞宰相」と渾名された。

賄賂が横行する悪政を二十年に渡って行ったが、やがて勢いを失った。

同じく権勢を振るった息子が処刑されると、家財没収され、庶民に落とされた。

清廉潔白で有名な海瑞の敵役として知られる。

魏忠賢

明の宦官

皇太子乳母愛人となって後宮で影響力を持った。

東林派と反東林派の争いに乗じて権力を握り、大々的に東林派を弾圧した。

全国に間諜を放ち、自分批判するものは全て投獄して処刑した。

周囲には「九千歳」と唱和させ、自らは「尭天舜徳至聖至神」とまで名乗った。

しかし崇禎帝が即位すると罪を糾弾され、絶望して自殺した。

和珅

清の絶頂期を築いた乾隆帝も老いては耄碌し、和珅はその寵臣として長年に渡り政治壟断した。

乾隆帝が亡くなり、嘉慶帝親政を開始すると、すぐさま和珅は死を賜った。

史上最悪の貪官と呼ばれ、当時世界最大の富豪でもあった。

死後に没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという。

 
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