はてなキーワード: 求めないとは
菊池誠という人がいて、一時はてな論壇においてそれなりの存在感を放っていた。
現在では一山いくらのネトウヨおじさん程度にしか認識していない人もいる。もはや過去の人であると断ずる向きもあるだろう。
しかしながら、彼について再考することで、論壇で今も跋扈する科学対非科学という対立軸を新たに捉え直す機会を持てる気がする。
というわけで彼の言説とその評価の変遷を追っていきたい。
2000年代後半。ニセ科学批判という社会運動が産声を上げた。
これは、自然科学に関する嘘をエビデンス棍棒で殴打するというシンプルかつ大変に社会的意義のある運動で、その倫理的な正しさからはてな市井で好評を博した。
この運動には様々な人が加わり、皆それぞれの専門分野に関する多種多様な嘘デタラメを殴り倒していた。
また専門分野のない人は、非専門分野に関する言説の妥当性をいかに評価すべきかということについて学んでいった。
よくわからんという人はid:NATROM先生がたくさんいたと考えてください。
ニセ科学とはなにか。誰が、なぜ吹聴するのか。このあたりは先人の素晴らしいテキストが山程あるのでそちらを参照するのがよい。私も一応書く。
ニセ科学批判の対象となったニセ科学は多岐にわたる。多岐にわたるがざっくり2つに分ける。
証明されていないことを証明されたと言うか、証明されたことを証明されていないと言うか、である。
科学的知見というものは往々にしてひっくり返るので、この宇宙を縛る法則から演繹していった時に実はニセ科学が正しかったということは有り得る話である。
しかしながら個人が霊感で獲得した宇宙の真理よりも、定められた手続きを踏んで得られた結論(宇宙的には間違っていたとしても)の方を評価するというのがニセ科学批判のスタンスだ。
営利企業や大学教授や特定の肩書のない個人的なブログ、政党や国そのものである場合もある。
彼らは何故嘘をつくのか。その動機を大きく4つに分ける。経済的利益(金銭)・社会的利益(名誉)・思想的利益(党派性)・倫理的利益(善意の施し)である。
どのニセ科学もこのいずれか、もしくはそれらの組み合わせから生み出されていると分類できるだろう。
例えば近藤誠や武田邦彦の動機は金と売名だし、安倍晋三や下村博文や共和党の言動は党派性の発露であり、有象無象のブログが代替医療で他人の癌を根治しようと試みるのは無知に基づく善意による。
ニセ科学批判は党派性から最も遠いところにいるとは菊池誠の言葉であるが、定義上これは正しい。
また、個々人のレベルで見ればその批判対象の選択において党派性が働くこともあるだろうが、運動を総体として捉えればそれは働かない。
組織を持たない草の根運動であるため、一貫した思想により運動員を抑えつけるということが原理的に不可能だからである。
運動自体に対して外部から党派性を見出す人は多々いるが、それは往々にして自身の党派性を表明しているに過ぎない。
例えばid:finalventにはニセ科学批判が左翼的活動に見えるそうだし、反原発派の中の放射能デマを吹聴するクラスタからは当局におもねった保守的な運動であると批判されている。
ニセ科学は大きくデマという概念に内包される。デマの分野を自然科学に絞り、真実性の判定に科学的手続きの有無を利用している場合それをニセ科学と呼称すると言い換えても良い。
ここからニセ科学批判の方法論を他分野のデマの払拭に利用できるのではないかと考えられる。特に人文科学系や社会科学系等の他分野の学問においてはその応用が容易いだろう。
ニセ科学と人文科学や社会科学系のデマとは地続きの問題であり、ニセ科学批判がニセ科学だけを取り扱うのは、単にそれが自らの領分だからというだけである。
ニセ科学批判の参加者が自然科学系以外の言説に対して取るべき態度は、専門分野外の自然科学系の言説に対して取るべき態度と同一でなければならない。
そうでない時、その価値判断には先の4つの動機のいずれかが作用しているのである。
「えー、じゃあさじゃあさ、なんで菊池さんはネトウヨおじさんなんて扱いを受けるの?だってさ、人が科学的事実を前にした時にどういう要因が認知を歪ませるのか、またその考え方は自然科学分野以外でも応用できるってことを誰よりも分かってるはずでしょ?ネトウヨなんてポジショントークが凝り固まって人型を成しているような存在じゃん。おっかしーぜ、それ。一個人が党派性から逃れることは出来ないにしても、自覚を持っていてその都度自己補正に努めればそこまで極端なことにはならないでしょ。オレ、納得できないなー」
そうだね、たかし君。じゃあ次の章では菊池誠の言説とその捉えられ方の変遷を時系列に沿って見ていこうか。それから菊池誠の言動が本当にいわゆるネトウヨ的な物なのかということもちゃんと検証してみよう。
さて、ここから菊池誠とその周囲の言説を掘り返し、断片的な事実を拾い上げ、時系列を整理し、推論を検証し、STS辺りも総括し、ニセ科学批判史とも絡め、最初のテーマに関して結論を出さなければならない。
でもなんか今週入ってから超体調悪くて、鼻は詰まったり止めどなく流れたり、体はとにかく熱っぽくて横になっているのも辛い。
よく考えたら私は菊池誠の親族でも知人でも生徒でも何でもないわけで、果たして病体にムチを打ってまでこの駄文の執筆に労力を割くべきなのだろうか?ここは潔く挫折する。
でもこのテーマ自体は割と意義があると思うので誰か調べてまとめて書いといて欲しい、個人的にはid:ublftboさんが適任かなと思う。でも多分やらないだろう。面倒くさいし。
どうやらこの記事の続きは執筆されないことが確定したため、以下に執筆時の構想諸々を記しあとがきに代えるものとする。
・7年ぶりくらいに菊池先生の名前を目にしたら、なんか凄い扱いになっていたので驚いて、矢も盾もたまらなかった。
・菊池誠に対する周囲の評価の変化点は2つくらいありそうだと思ってる。震災とそれから1年以上後。
・2009年から現在に至るまで菊池誠はネトウヨおじさんではない。ただ看過できない発言は多々あるし、愛想を尽かす人もいるだろう。これは年を追う毎に悪化しているように見える。今の立ち位置はid:hazumaにちょっと似てる。
・2009年頃と現在で、周囲から投擲される評価は明らかに変質しているわけだけど、それは菊池誠と周囲のどちらかあるいはその両方が変わった/変わっていない結果なのかという大枠の問いがあって、これは菊池誠が変わったというよりは、周囲に今までいなかった(少なかった)人種が現れたからだと思う。
・逆に言うと震災以前にもある種の題材を絡めてその手の人種と邂逅する機会があったら、今よりもっと早くこうなっていたと思う。今の状況はなるべくしてなったと言える。
・どうしてこうなったかは意思疎通が上手く行かなかったから。上手く行かない原因は個人でなく構造に求めないと仕方ない。専門家と非専門家の間にはクッションが必要になると思うんだけど、IKEAが布にガラス片を詰め込んでこれはクッションですと言い張ったり、あるいはクッションそのものを用意しなかったりするから、専門家自身が夜なべしてクッションを作らないといけない。彼らは裁縫の専門家ではないので、その出来は個々人の技術によって大きくムラが出る。ところでIKEAはSTSである。
・STSとは、何の生産性もなく相対主義ぶって科学者を腐してあてこすりで飯を食ってる人間の屑が集う旗印である、というのがこれまでなんとなく聞いていた印象なんだけど、いくらなんでもそんなものが何十年も学問として存続するわきゃないと思う。思うので、この際ちゃんと調べて、その社会的役割と意義と実際のところを自分の中で明らかにしておきたかった。震災時に(震災時でなくとも)彼らが求められる役割を十分に果たした結果がこれなのか、あるいは十分に果たせなかった結果がこれなのか。またそれはなぜなのか。
・つまり不幸な例であるところの菊池先生の件を足がかりにして、自然科学分野における専門家と非専門家とのディスコミ問題をアレできるんじゃないかと思ったというところが発端です。
・ブクマにニセ科学批判ってもっと前からあったでしょと言う指摘があったんだけど、前出の"ニセ科学批判史とも絡め"というところで今現在ニセ科学批判とされる運動の形はいつごろ成立したのかも調べておきたかった。書籍で探すと、訳語としてニセ科学を当てはめてる物は結構前からあるんだけどこれは定義が今と違っていて、今使われている意味でのニセ科学という用語はwebだと2004年が初出だと思う。ニセ科学批判についてはgoogle先生になんとなく尋ねるレベルでは天羽さんとかid:kamezoさんの2005年位のログしか出てこない。水伝での田崎さんと天羽さんは運動の拡大に大きく貢献したよねとか海外情勢(主に米キリスト教福音派系の)はid:Kumicitさんの忘却からの帰還が強かったとか、ニセ科学批判史は最終的に年表にしたかった。
以上が主観的になんとなく思いついた推論なので、これらを補強あるいは反証する材料を沢山探して、結果何かがまとまる予定だったのだということを言い残したかっただけの年度末だった。
こういうマッチョな女性を目指すことが男女平等への正しい道なのに
なぜか休んでる間の負担を関係のない人間が仕事分担や税金などで背負うことで平等だという
北米の障害者はいろんな最先端の補助器具を取り入れていってどんどん強くなろうとしている
足の欠損などはもはや健常者より早く走れる義足さえあるほどでこれが加速すると健常者よりもハイスペックの身体能力をもつ障害者が出てくる
そのせいで治安に悪影響ないかなどの危惧が今の段階からされはじめてる
一方、日本では弱者に弱者のままでいさせて金を与えて権利を与えて誤魔化そうとする
60年以上遅れてる
女性専用車両の導入なんか、私たちは弱くない、と突っぱねるほど
それほど女性ということに誇りを持っている
就活を機にドンヨリいそいそとスッピンじゃあれだよなぁ等とググり出した過去の私へこのエントリを送る。
そもそも世の中の初心者向け就活メイクというのは丁寧すぎる。もちろん化粧というのはお絵かきのようなプラモの塗装のようなものだから丁寧に工程を積んでゆけば仕上がりは違うし、就活においては就活のルールの許す限り仕上げられるところを仕上げたくなるものだ。
しかしこちとら化粧なんてものは七五三で唇を紅に染められて以来、中学も高校もこっそり色気付き出したクラスメイトを傍目に素肌で生きてきている。描けば描くほど、この状態はあっているのかと不安になるのだ。
そこで、今回は最低限の薄化粧についてレクチャーする。(悲しいことに多分今から話すのは多くの女の子が中高生で通っている部分かもしれない。)
ビフォーアフターの違いは「自分の顔だから鏡で違いがわかる」程度で、「きちんと化粧をしている」感は求めない。それは貴女にはまだ早すぎるし、そもそも職種によっては「化粧がちゃんとできているか」は論点ではない。インターン等で、人事ではなく自分が採用される職種の若い女性の化粧をチェックしてみよう。同じ社内でも人事のお姉さんは「そもそも化粧するひと」が採用されてる率が高い。また、例えば技術職女性でも、年齢に比例してどんどん化粧がしっかりしてくる。
ここで求める化粧の効果は「すっぴんじゃないからマナーをわきまえられているぞ!」という内心の自信と、純粋な化粧の効果すなわち「見た目の印象を詐欺ることで同じ言動でも感じよく思わせる」こととする。いいか一部のサービス業・接客業やセクハラ親父のお膝元じゃなければそれで十分なんだ。
長くなりました。
本題に入ります。
まず前提として(まだ塗る話にいけない)洗顔と保湿はこれまで通りでは足りなくなる。化粧と化粧落としは肌に悪いので意識しないと荒れてくるので、放置派の貴女も最低限化粧水は用意するように。心細いなら乳液も。化粧水は洗顔後と化粧前に顔にパシャパシャ付ける。
銘柄はドラッグストアで定番商品っぽく売られてる安いやつでよい。最初は選び方がわからなくてもだんだん「クサい」とか「こんなの水道水とかわらないのでは」とか好みが見えてくる。徐々にPDCAを回して行け。個人的にここはあんまり安いと怖いから百均は避けておきたい。
次に、毛をなんとかしよう。ひげとほほげは剃ろう。足腕ふくめカミソリを使ったことないなら切り傷をこさえちまうから剃らない方が良い。とはいえヒゲが濃い自覚があるならせめて「横滑り防止」とパッケージに書かれているものを慎重に。切れ味カミソリ級のものを顔に当てるので不慣れだと血が滲みまくる。
フェリエという電動カミソリが絶対切り傷ができないのでとてもおすすめだけど4000円弱するので無理にとは言わない。
眉毛は剃るより抜く方がゆっくり処理できるし怪我もないから抜こう。幸い今は太眉がはやっているので俺物語でもマイナスは小さい。まずは眉間と瞼だけでよいので「そこは眉じゃないでしょ」というところに生えているやつらを抜き尽くそう。濃い人は特にそれだけでは心もとないかもしれないが、眉毛本体を変形させるような行為には慎重に。しばらくテレビや雑誌で美人の眉毛をまじまじと見る期間を持って勉強していこう。
さてやっと塗って描く話にしよう。ここで化粧童貞が誤解しているのは「化粧は基本的に色が薄くて透明度が高い」という点である。例外はアイライナーと一部のコンシーラーや口紅(ルージュ・グロスではない)くらいなもので、基本的に画用紙にクレヨンで描いたようには塗られない。うすーく塗って、すこーし変えるものだ。
世の中によくいるガッツリ塗られている人は、カバー力が高い色んなものを何層にも厚めに塗っているもので、普通にささっとやると、ああはならない。
化粧下地はファンデーションを使いたいなら必要になる。化粧のノリが違う。
化粧のノリといわれてもよくわからないかもしれないが、化粧以外に例えるなら素材による汚れやすさとか汚れの落ちやすさが似ている。電柱にぶつかってウワッというくらい汚れる上にちょっとはたいたくらいじゃ変わらないのがノリが良い状態である。下地の第一の役割はファンデをノセることなので、化粧水と同じで、割となんでもいい。逆に下地にも使える日焼け止めもよいだろう。下地をミスると肌が荒れたり乾いたり、ときにはかぶれたりするので、訝しんだら早めに使用中止&買い替えを。これは他も同じだけれど下地・BBクリーム・ファンデは商品点数豊富な上に、体質に合わない時は明確に合わない。自分の好みや肌質が掴めてくるまではプチプラで試行錯誤を。
BBクリーム、あるいは「下地がいらない」と書いてあるファンデなら下地は不要だ。
次に、ファンデとどっちが先でもいいけど、コンプレックスがあるなら(目のくま、鼻の赤み、部分的なくすみやニキビ跡など)コンシーラーを塗って隠す。これは質感は二の次でとにかく塗り潰すというものなので多様すると変になるのでピンポイントに。合う商品はかなりケースバイケースなので(塗り面積、地肌の色、症状など)、値段が3ケタのものから買っては試すしかない。具体的なブランドでいうと、キャンメイク、セザンヌ、ケイト、ちふれ、メイベリンあたりが定番か。百均も最近はふつうに使い物になるらしい。
次にファンデあるいはBBクリーム。これは、顔の色味を整え、かつ質感を盛るためのものだ。顔がテカりやすい人ならパウダーファンデ、それ以外ならBBクリームでいいだろう。1000円台が安くてそこそことしては相場。ここで欲張って色白になろうとすると事故るので、なるべく地肌に近い色をできればドラッグストアで顔に、抵抗あるなら手や腕に塗って試す。いざ顔に薄く塗り伸ばすと何も変化が無いような印象があるが、もう一度言う、そういうものだ。肌荒れが気になったり塗る行為に抵抗があったらCCクリームを買おう。CCはBBから塗り潰す力を犠牲にして代わりに色々いいことがあるようなやつである。
BBクリームやリキッドファンデの上からはフィニッシュパウダーあるいはフェイスパウダーを塗るのが定石だけどまぁ、無くてもまぁ。
文を打つのに疲れてきました。
チークは顔色が良くなるので必須。ほとんどの人がピンクが似合うタイプの人いわゆる「ブルベ」か、オレンジが似合う「イエベ」のどっちかだけど、売れ筋人気はコレと書かれたのを選べは大抵ピンクとオレンジの中間の色なのでそれを買おう。プチプラ相場は3ケタ円。本当に塗ったのかどうかよくわからないくらいにほっぺのらへんに載せればオッケー。
眉を描くなら、自眉が薄いなら、「輪郭ボケてていいから、眉が有る」という状態まで持っていけば良い。描くと眉が有るようになるので自分でびっくりするので、まずはそれに自分で見慣れてから形状は徐々にトライアンドエラーで修正する。
アイライナーは今の流行りからしても別にいらない。アイシャドウはいらん! 不慣れだとラメやパールにびびる。(化粧することに慣れてから、目元は塗りがいがあるので手を出してみよう。まずは焦茶色の単色や、パッケージがまぶたの形になっている「見たまま塗るだけ」商品から。)
ビューラーは失敗も少ないししたほうが良いけど、まつ毛が抜けたりまぶたを挟みやすかったり苦手なら無理しなくていい、とはいえ、まつ毛長いね〜とよく言われる人は変化が大きいから練習したいところ。つけま? いらん。カラコンもいらん。
くちびるは荒れてるならまずはリップクリームで治そう。色が薄い、あるいは悪いならプチプラ商品を試す。安いのはどれも一長一短。特にコンプレックスは無いなら放置でよい。
あと何かあるかな。
ああ、クレンジングは(同じ価格帯なら)化粧が落ちやすいものほど肌に悪いので、肌の調子と自分のマメさ丁寧さを見ながら…。
家にもうすぐやっと着くので終わりにします。
するブコメを多數見たので、他のオープンワールドをやっている自分が感じた違いをザックリと。
ちなみに「オブリビオン・スカイリム」「フォールアウト」「アサシンクリード」「ファークライ3~4」「GTA3~5」あたりはプレイしてます。
「オブリビオン」が絶賛されていたので、噂を聞いて購入。2時間程度で挫折。スカイリムで再挑戦しメインストーリーはクリア
→ただただ力技で対抗する単純なゲーム性、ゼルダは敵の攻撃が多彩で特に今回は攻撃方法も幾つもあり飽きない。
→日本人には受け入れがたいと思う、今回のゼルダのキャラクターのビジュアルやUIはシリー次の中でも洗練されている
・ストーリーがわかりづらい
・移動がめんどい
→スカイリムは景色がキレイで散歩気分を味わえた、ゼルダは馬やパラセールでの快適ない移動や道中の仕掛けが多彩で飽きさせない。
・アイテムの配合が分かり難い
→どれがいいのか分からずゴミばかり生み出してた、ゼルダは素材に説明があり自分で良い組み合わせが想定でき、実際想像に近いものが
生成されるので納得感がある
▼フォールアウト
これは2時間でやめたので語る資格なし。ほぼ前述の「オブリビオン・スカイリム」と同様の理由でやめました。
戦闘や移動などのアクションも面白く好きな作品。ただ先日PS4で100円セールやっていたので、
「アサシンクリード4」を買ったのですが、以下の理由で萎えました。
・敵がバカ過ぎる
→序盤に6人ぐらいの敵を暗殺するミッションがあるのですが、1人1人倒して最後の1人だけになっても
敵が無反応。いやいや自分1人だけになったら普通の人間は流石におかしいと気付くでしょ。
正直ゼルダもボコブリンが最後の1人になっても無反応だけど、どちらかと言うと知性がない存在として
・ネコが逃げない
→街につくとネコがいて、当然追いかけたら逃げると期待していたんだけど逃げない。
脚にスリスリもしてこない。ただただ無反応。
ゼルダはすべての生き物に近寄れば反応するし、犬を矢で打てば吠えてくる。
ビジュアル面ばかり強化されて、その他のリアリティがかけてると思う。
これも戦闘や移動も面白く3は一通りコンプリートするまでやった。
けど4は5時間ほどで一時中断。
→動物を狩ったあと近くによって肉をはがなきゃいけないんだけど、
「狩る」→「近寄る」→「下向く」→「狩りボタン長押し」の1連の作業がめんどくさい。
その際に血まみれの肉塊が画面に映るんだけどそれがグロい!3の時もグロかったけど、
4になって余計生生しくなった。そんなの求めてないから!
PS4になって汚さが目立つようなビジュアルになったように感じる。
あと3とやってたことがほぼ変わらないので飽きる。
これも好きな部類。5はビジュアルも世界観もアクション面も強化されて素晴らしかった。
→このゲームが受けている最大の理由でもあるんだろうけど、やっぱ一般市民を丸焼きにするのは
どこか心に引っかかりはあるよね。自分の子供にはやらせたくないし親御さんも心配だろうし。
適正な報酬があるのであれば、やりがいがあったほうがいいのは言うまでもないが、大切なのは報酬であってやりがいではない。
いかに大きなやりがいがあろうとも、報酬が適正でなければ徒労以外の何物でもない。
そもそも仕事とは報酬=生活の糧を得るための手段にすぎず、必要以上の労力を奪われるものではない。
また時間は万人にとって1日24時間等しく有限であり、仕事だけに費やせるものではなく、会社に従って仕事だけしていれば安泰という時代でもなくなった。
理屈の上では間違っていないはずなんだけど、こういう類の姿勢や発想ってとことん忌み嫌われるよな。
こういうのを嫌う人は一体何がそんなに気に入らないんだろうか。
謎は深まるばかりである。
お母さんへ
こんにちは。 娘です。突然の事で驚かせてしまってごめんなさい。今日はどうしても伝えたいことがあって手紙を書きました。LINEだとどうしてもうまく伝えることができないので、手紙という形になってしまいました。時間がある時に読んでください。
結論から先に言います。お母さんは私に対しての距離が、世間一般の親が子に対する距離より近すぎると思うので、私はお母さんに少し距離を置いて欲しいのです。
私はお母さんにとっても世間一般にとっても、とても育てにくい子供だったと思います。何度同じことを言っても治せない、教えたことを忘れる、不潔、常識がない、頑固な割に自分の意見がコロコロ変わる、勉強ができない、運動もできない、不登校にはなる、体調をしょっちゅう崩す、叱ればキツイ言葉で言い返し反省の態度がみられない……沢山迷惑をかけたし、沢山お母さんを心配させ苦しませたと思います。
推測だけど、お母さんはそんな私になんとかできることを増やしてあげよう、直せてあげられないのではないかと考えたのではないでしょうか。だから、色々な習い事をさせてくれたり、できないことは何度も注意し、厳しく躾け、駄目なところを直そうと根気強く教えてくれたのでしょうね。お母さんは責任感も強い人だし、努力家な人だとも私は思います。それが更に拍車をかけたのでしょう。世間の人に「躾がなっていない子供」「子供がキチンとしていないのは母親が躾をしていないせいだ」と思われるのが辛かったのもあると思います。お父さんも助けてくれない、周囲の人に話しても分かってくれない、とても大変だったと思います。
でも本当にごめんなさい。そのお母さんの思い遣りの気持ちが、強い責任感が私にとってはとてもしんどかったのです。
私は多分もう何度注意されても直せないものは直せません。反省しても、後悔しても、失敗しても絶対に無理です。そういう生き物なのです。何故お母さんが怒っているのかがわかっても、私ができていないことでどう周りに迷惑がかかっているか、自分に不利益が降りかかるかが分かっても、絶対に直せません。直せていたら今まで生きていたウン十年間の内に直しています。だってそれは自分でも直したい部分でもあったから。自分の駄目なところで、周囲の人に迷惑をかけている自分が、堪らなく嫌で申し訳なかったから。でも私は直せませんでした。どう頑張っても無理でした。
だから、もう諦めてください。お母さんがどんなに頑張っても私は忘れ癖を直せません。お母さんが何度言ってもお弁当を出すことをこれからも絶対忘れ続けるでしょう。お部屋も片付くことはないでしょうし、忘れ物をし続け髪の毛を引っ張り続けます。そしてそれはお母さんの責任ではありません。私がそういう生き物だからです。だからもう諦めて下さい。お母さんの責任ではない問題は私の問題です。お母さんの問題ではないのです。忘れるなら何度でも注意してあげなきゃ!そうすればいつか直せるときに直せるようになるはず、という考えは捨ててください。逆です。今まで何度言ってきても直せなかったならこれから何度言っても直るはずがありません。もし直せたなら、それはお母さんが注意し続けてくれたからではなく、私自身がふとしたきっかけで、なんとか自分でもできる方法を見つけたからなのです。
お弁当を出さないなら次の日のお弁当を作らなくていいです。たくさんの洗濯物を一気に洗うのが嫌なら「そんなに沢山は洗えません」と言って部屋のまえに服を放置して下さい。カップを部屋に持っていかれるのが嫌なら自分専用のコップを100均で買っていきますし、そのコップは自分で洗います。自分の服を放置されるのが嫌なら服はもう一切貸さなくていいです。髪の毛が散らかしてあったら掃除したゴミを私の部屋の前に捨てておいてください。私のしたことで不利益を被ったら、不利益を被ったことに関係することで存分にやり返してください。
我慢してしょうがないけど可哀想だから「やってあげる」から腹がたつのです。できないならお母さんが「代わりにしてあげる」から過干渉と私に言われるのです。ならもう不利益を被らないようにし、被ったらやり返して下さい。私が困っていても「あなたの問題だからお母さんは知りません」でいいのです。それで私が何か文句を言ってきても「お母さんには関係ない」と突っぱねて下さい。それが私にとって一番いい距離間です。私ももうお母さんに送り迎えを頼みませんし、自分のミスの尻拭いも頼みません。必要以上に頼ってきたら突っぱねて下さい。下手な情けは必要ありません。それは決して私のためにならないと私は考えます。あえて冷たくしてくれた方が私は嬉しいです。
「私は間違っていない」「あなたが悪いから私は怒っているの」「あなたのためにしてあげたのにどうしてそんな酷いことをいうの」「努力していないから、話しを聞いていないからできないんでしょう」「言い訳ばかり達者になって」「お母さんが選んだ服の方がセンスがいい」「あなた一人じゃ無理だから私がやってあげる」という考えは私に通用しないと思って下さい。
価値観が違えば、「私は間違っていない」と思っていても、相手は「自分の方が正しい、あるいは間違っていてもそれ相応の理由がある」から怒っているのです。「あなたが悪いから私は怒っているの」ではなく、お母さんは「あなたに怒っているから私は怒っている」のです。「あなたのためにしてあげたこと」が相手にとって不快であることだってあるだろうし、寧ろ迷惑極まりないこともあるということを認めて下さい。「努力していない、話しを聞いていない」と思っても、あなたが思いつかない方法で努力していたりするのです。「言い訳」は「相手にとっては正当な理由」だし、「分かっても努力したくないし具体的にどうすればいいか分からないし出来そうもない」なら「そんなの知らない」で構いません。「お母さんのセンス」が必ずしもいいものであったり私に似合うものではないし、「私のセンス」は似ていてもお母さんのセンスによって育てられたものではありません。「私一人で無理なもの」はお母さんが助ける必要は、私が助けを求めない限り必要ないのです。本当に困ってないからお母さんを呼ばないのです。
私とお母さんは他人です。私の悩みごとはお母さんの悩みごとではありません。
バイトを探してくれたのも嫌でした。酷く打たれたのも嫌でした。お洋服を選んでくるのもお母さんの服を頼んでもいないのに貸してくるのも嫌でしたし、塾に毎日迎えに来てくれるのもしんどかった。小学校受験も嫌だったし、習い事も苦痛だった。急に美容院に連れて行かれるのも、部屋の掃除を勝手にされるのも、メイク道具を選ばせてくれないのも、髪を短くしてはいけないのも、怒鳴られるのも、お父さんの愚痴を聞くのも、彼氏に口出しをされるのも、テレビも良くないゲームもよくない、バラエティは質が悪いからみせないし、それが理由でお友達の話しについていけないのが辛かった。駄菓子は食品添加物があるから食べさせないという制限のせいでこっそり食べたい駄菓子を買うのも、友達に恵んでもらうのも嫌だった。全て私のためを思って行動してくれてると思っても、お母さんを恨む気持ちが変わることはなかったし、感謝したくても、お母さんを大切にしたくても恨みが勝ってしまってどうしても無理でした。自分で選択したかった。自分で苦労して学びたかった。ダサくても自分が着たい服を着たかったし、初めて自分で買った服ですら母のセンスだと言われた時は本当に虚しかった。デキモノがでても駄菓子をお友達と一緒に食べたかったし、バラエティの話にもついて行きたかった。お母さんのいないところでこっそりゲームをしていたときは本当に楽しかった。初めてのバイト代で自分で買った化粧品は今でも重宝してる。結局やめてしまったけど、自分で受かりたいと思ったバイトに受かったときはこれで少し自立できるのではないかと希望に満ち溢れていました。大学へ行き、家にいる時間が減った途端に私は自分の感情が今まで以上に素直に出せるようになりました。私達は遠い方が上手くいくのです。だから、ごめんなさい。私のためを思って、見放してください。もう、お母さんがいないと何にもできない私から卒業させて下さい。
親の心子知らず。お母さんはよくこの言葉を使います。確かにそうです。私はお母さんの気持ちなんて全然分かりません。でも、お母さんだって私の気持ちを理解したことなんて殆どなかった。
私的には書いた人が悪い。
『甘える』というのは(関係性の近さに因り)許されるだろう、迷惑行為を犯すことである。
この時点で
という形式が確定する。
迷惑行為をする以上は『許す/許さない』の判断は被害者によるものであり、被害者は『許さない』を選択した。
感情というのはまず、受けた刺激を『快/どうでもいい/不快』のパラメータで認識する。
本能でその感情に直結した行動がデフォルトで設定されるが、経験や価値観、性格、総じて理性といったもので取る行動を設定しなおすことができる。
書き手はそれをするように求めている。
が、行動の再設定は『判断するリソースがある』時に限る。つまり正常な思考能力と考える時間がある時にしかできない。
状況は「眠くて寝落ちするほど眠たい状況で叩き起こされた」場合であり、また用件は「叩き起こされてまで聞くほどのことではない」ことだ。
(この「聞くほどのことではない」というのは典型的男性脳で思う「解決策を求めない話」「知っておくべき情報ではない話」という類のものである。今回の場合、痛み止めと医者以外に解決手段を持たないし、そもそも話し相手が自分である意味がないため価値を感じない)
ここで
(1)書き手の訴えを聞く(メリット:好感度アップ / デメリット:解決しようがない、睡眠時間が減る)
(2)自分の睡眠を優先する(メリット:充足 / デメリット:怒られる、または不明)
という行動選択になる。
直前まで睡眠を取っていた脳に、(1)のメリットもしくは(2)のデメリットを検討材料として挙げられていたかというと難しいと思う。
となると必然的に(2)を選ぶことになる。
なので私にとって、彼の選択はごく自然で全く非のないことだと思う。
だがお腹が痛かったら迷惑をかけたり法を犯していい訳ではない。
要望は迷惑行為であり受け入れられなかった。その現実を早々に受け入れた方がいいのではないだろうか。
というか『甘えたっていいだろう』という善意の強要をする姿勢(または自分の要望は全て通るものだと思う姿勢)を根本から改めた方がいいと思う。
要望を通すかどうかを決めるのは要望を通せる権限を持つ方である。
世の遍くほどこしを受ける全てに、ほどこす側の善意を強要する権利はない。善意は当たり前ではない。
(なお文句を言う権利はあり、文句を聞くかどうかの権利はほどこす側にある。)
それに世の誰が許しても彼が許さなければ有罪である。であれば罪は償うべきだ
書き手がまずするべきは「寝てるときに起こしてごめん。腹痛はもう大丈夫です」と謝罪することだったのではないだろうか。
もうとっくに手遅れのようだが。
なお、書き手の怒りは自分の要望が自分の思い通りに通らなかったことへの憤りであり、こちらも生理という肉体的苦痛により行動の再設定に割くリソース不足で怒り以外の選択ができなかったための残念な結果である。情状酌量の余地はあったと思う。
が、反省する意思はなく再犯の恐れが増大したため、情状酌量すべきではない(やっぱなし)との考えに私は至った。
書き手自身も、冷静になって考えさえすれば、自分の全ての要求が100%通るなんてことはないということに気付くだろう。(気付かないならそれはそれで。どうせ私に実害ないし)
また立場を逆転させてみて、夜中叩き起こされて唐突に自慢話(典型的女性脳が判断する「聞く価値のない話」)をされれば電話を切り睡眠を優先するのも分かるだろうと思う。
手遅れではあるものの、そういった時に本当は自分がどの行動を選択するべきだったかを考えるべきではないだろうか。
そして次回は受け入れられない甘え方をしないように、経験として蓄積するといいと思う。
なお当カップルが今後も交際を続けるのに必要なのは理解であると思う。
生理の痛みの理解ではなく、痛みを感じているときにとる行動と目的の理解である。具体的には
「生理の苦痛から逃避する手段として甘えたいと思っている。甘えるというのは好きな人に『大丈夫か』などと気遣ってもらう行為などのことを言い、心配されている・優しくされているというのは精神的な鎮痛薬になるため大変有用である。あなたとのコミュニケーションのみで成立するため、是非とも協力して欲しい」
ということだろうと思う。
まぁ共有のみならず理解までを求めるなどというのは大変な手間であり、つまりデメリットであり、それを差し引いてでも恋人でいて欲しいかどうかは当人たちの愛の強さ()によるのではないだろうか。
という訳で通りすがりの他人としては「とっとと別れろよwww」と感想を述べておく。
なお短絡的に『彼氏が己の罪を認めて土下座して謝り「二度と生理中のきみにひどい対応をしない、優しくする」と誓う』という対応が彼女の要望が通りかつ優越感も得られて単純明快だとは思うが、今後DV女になる可能性が高く、また彼氏が浮気か自殺をする要因になると思うので、老婆心ながら選択すべきではない行動だと愚考する。
お前女か?
「程度低い女と付き合いたくない」ってのは
「ブスと付き合いたくない」って言ってるんだ
「僕は東大出たんだから可愛い子と付き合ッたり結婚したりしたい」って言ってるだけ
(その願いが分相応かどうかはしらん)
って言ってんじゃねーんだ
実際高学歴で高収入の成功者的な男性は必ずしも同じものを結婚相手に求めないでしょ?
あの人達は結婚相手に自分と同レベルの高学歴や高知力や高収入を求めるんだよね
なんで?
ほんと不思議
そりゃ高卒とかじゃ話がかみ合わなくて楽しくないってわかるけどさ
これらは何か問題が起きた時に、責任を誰に課するか(課さないか)という話だ
なにか悪いことがあったとして、「なぜ自分が解決できなかったのか」と考えるタイプだ
これは何でも人のせいにする他罰よりはマシかもしれないが
何かあるたびに自分の不出来に悩むので、非常にうつ病になりやすい性格だ
私は相手に対して怒ることが嫌いだ
そもそも怒りなんて、ほとんどの場合自分の感情を爆発させているだけだと思っている
「お前のために言ってるんだぞ」なんていうのは8割方言い訳に違いない
安易に怒りを露わにする人を軽蔑するし、自分でも感情を抑え込んで、自分の責任にしていた
しかしある時気づいたのだけど
自罰というのは、言い方を変えれば「自分に対して怒っている」のだ
そして私は自罰すらやめようと思った
でも無罰的にもなりたくなかった
問題を放置するというのは、ただの逃避で、また同じ問題が起こると思ったからだ
そんなわけで、「問題には取り組むが、怒らない」というスタンスを取るようにした
そうしているうちに、このスタンスにはいくつか利点がある事に気づいた
一つはどんな状況になっても冷静に目の前の課題に取り組めることだ
目の前の階段を一歩ずつ踏みしめることができる
怒らず、過去を攻めることなく、前だけ見て問題を解決することができる
自分を卑下することもせず、ただただ目標のために自分ができることを着実にする精神が身につく
これは自然災害に対して怒らないのと同じだ
雨が降ってきてイライラする人は少ないだろう
しかし相手が人間だったり、小さい事象だと思わずイライラしてしまう
もう一つ良いことは、場の怒りが増幅されないということだ
怒りというものは伝播する
相手が怒ってるからと言って自分も怒ると、怒りは増幅されてしまう
どんな状態でも、相手に責任があっても自分に責任があっても、とにかく怒らないことで場の怒りは抑制される
ある意味「他人事」「冷たい」対応になるが、ミスが起こるようなシーンではそちらの方がいいと思う
最後に良いこととして、自分に対し寛容になれるということがある
まあ、それでもPCが動かないと未だにキレるんだけど
街コンとかペアーズってセックスする相手を探すためのものでしょ?
セックスしてもいいかなという相手ならもれなくセックスするし。
もちろん彼氏や人生のパートナーが欲しいという気持ちは尊重する。
あと知っておいて欲しいのが、セックスのためなら瞬間的にハードルを下げられるのが男という生き物です。
性欲に負けてブスとセックスをすることも厭わない。射精するまではブスも少し可愛いと思ってしまう。
だから元増田におかれましては、彼氏が欲しいというなら街コンではなく、サークル活動とかカルチャー教室とかの
しかし彼らはそれで金を稼いでいるので、ある程度の責任が発生する
インターネットに間違った(と自分が解釈した)情報が流れていると
彼らの行動がどんな害を及ぼすかはWikipediaを見ると分かるだろう
現れてもすぐに潰される
間違ってるか、間違っていないかは書いたものを放置して、指摘した者か権威ある者、声の大きい者が決める
1.致命的な指摘かどうかの判別
(致命的でない些末な指摘は、小姑の小言に近い)
3.指摘より主張や提言の形にする
だがこれが難しい
最近何かしたってのじゃなくて、数年来、自分を許すことが出来ない人生で苦しい。
人外が人間関係で色々やらかし続けてきた結果、自分のせいで孤独になった。
受け入れてもらえなかった事は変わらないし、決裂した関係は元に戻らない。
だから一人後に残った自分は、常に贖罪先のない罪悪感に囚われている。
自分は悪事をし、許されなかった。っていう強く重い絶望が、前向きになる可能性の全てを奪う。
許しを求めるのが傲慢なのは頭では分かってるし、忘れたいんだけど、ふとした時にどん底に落ちる。
「過去は取り戻せないから先のことを考えよう、現実忘れて楽しい事を考えよう」と努力すると
同時にその時関わったもの・人の苦い記憶が周囲を彩る。 あまりにも簡単に曲がり角で撃たれる。
真っ当な人間関係って私の場合は共感を求めないこと、友達にならないことだとようやく覚えた。
相手がはっきり楽しいと思わない程度に不快にさせず会話を終えるって対応で、しばらくやっている。
個性とか出そうとすると絶対こじれてきたから趣味や内面の話はしない。
これだと話し相手は別に私である必要がないし、関わるだけ砂漠に霧吹きしたようにすぐ心が乾いて辛い。
そのように分をわきまえることが どうして辛いのかは、
人間関係に対して私が真に求めるタイプの幸福は得られないってことを、
慰められない幼稚な本心が事実の受け入れを拒んでるから。 赤ちゃんだから。都合よく理解者を欲しがるから。
そうするのが一番だと分かってるのに、なんて言えば良いんだろう?
自分の怠惰や甘えには最低に鈍くて、呼吸するように人を傷付けるくせに、図太くないから自分を責め続けて病む。
間違い泣き叫びはするが反省し学ぶことが出来ないのを、人間性が欠如してるという以外になんと言えばいいのか?
自分でも呆れるほど辛いことが一切したくなくて、物凄く打たれ弱くて、死ぬほどわがままなんだ。
私だって自分に苦行を課して過去を乗り越えて 無事に老いてやすらかに死ななければいけない。
11月〜12月で炎上、というより「コミュ力の圧倒的足りなさ」から揉め事や騒動を起こしている人たちが軒並み40代だった。
SQLおじさんこと生島勘富は40代(クラウドワークスのページより)
ちょまどの例のスライドを作ったおっさんこと山本康彦は1957年生まれの59歳。
その酒巻裕一を擁護しつつ自身もアドベントカレンダーで特定人物の攻撃記事を上げているRichMikanことシェルショッカーこと松浦智之は1975年生まれの41歳。
職人エンジニアみたいな言葉を使ってエンジニアにコミュ力を求めない風潮を是とする記事を読んだことがあったけど、こんな若気の至りでやるような揉め事をいい年したオッサンたちがやっているのを見ると、コミュ力0のまま一定の年齢を超えたエンジニアは、社会と完全隔離させないと誰かを不幸にするだけの存在になるんじゃないかって気がしてならない。これは社会人全体にも言えるが。
ゲームの現場は平均年齢が30くらいなので、フリーランスで40越えたときには周りがみんな年下で、そこに同対応してゆくかというのはある。というか、対応できずに昔のままの感覚で腫れ物扱いや疎まれていく(もちろん、本人には言われない)というのを最近たくさん見てつらい。
https://twitter.com/obenkyounuma/status/806253887036366849
あとドラえもんの「大人ってかわいそうだね。自分より大きなものがいないもの。よりかかって甘えたり叱ってくれる人がいないんだもの。」っていう台詞を思い出した。もうこんなおっさん達を正しく叱ってくれる人間はいないだろうから、やはりただちに現実からもネット上からも隔離するしかないんじゃないか。
何度も空き地側の大きなガラスを割られ、盆栽も割られ、本人にあたってこぶを作っているシーンもあった記憶がある
大概ボールを取りに行くのはのび太でたまに逃走したりもするが、彼はいつも怒るだけだ
大きなガラス修理には二万程はかかるだろうし掃除も大変、盆栽も数万から数百万数千万する高価なもので大変な手間もかかる、めちゃくちゃにされて精神的金銭的負担は重いだろう
ガラスが割れる勢いのボールがぶつかりこぶができるだけでも嫌だが、当たり所が悪ければ大怪我に繋がりかねない
子供達は何度怒っても何十回も同じ事を繰り返して逃げようとする
しかし彼は最低でも数百万は越えているであろう損害賠償を求めない、空き地での野球禁止を訴えない
いつも家にいる彼はおそらくジャイアンリサイタルの被害も受けているはずだが止めさせようとしない
小さい子を虐めているのを見たら竹刀を持って怒りに行く
しかも空き地の掃除も度々やっており、ドラえもんが放置したどこでもドアなどの粗大ごみもノコギリで解体して片付けている、のび太達は彼のおかげでゴミのない空き地で遊べているのだ
益々酷くなっている気がする。
二人のやり取りは、まあいい。
トガタが氷の魔女なんていないって言っていたのに、やっぱりいた展開。
もちろん、氷の魔女を名乗る何者かっていう可能性もあるけれども。
問題は、トガタの氷の魔女はいない発言はメタ的にみて何だったのかってことなんだよね。
『BLEACH』の「すんません、あれ嘘言いました 言うたほど長く伸びません 言うたほど迅く伸びません」発言とかが代表例だが。
「これはこうです。実はこうでした。と思ったけれども、やっぱりこうでした」なんて過去のやり取りや情報を茶番にしたり無意味にしたりして、のらりくらりやられるのは正直あんまり印象よくない。
だって、今後もそういうことやられる蓋然性が高いと思われ、受け手に冷めた目で見られるようになったら、物語作りにおいてはマイナスに働きやすくなる。
相変わらず口は悪いし、嫌いなものは嫌いなまま。
ただ、そんな自分自身や周りとの付き合い方の認識が少し変わったということか。
棘のある言葉も感謝の言葉も、南条のためになるか区別がつかなくて井戸アプリに入れていって、そうして出来た井戸アプリの水は白と黒のマーブル調で、それはそれで綺麗かもしれないという表現は上手いね。
悪意と善意に対して、安易な是非を求めない構成なのはよかったかと。
過去にすがろうとすればするほど、逆にミジメになったり新たな傷ができるという悪循環。
ただ、そんな主人公に同情する必要がない、させる気がしない描写が所々あるのがまたなんとも。
作中で何度も主人公がどうにかしようとすればどうにかなった事柄であることが提示されるのが余計に。
2ページ目あたりで「あ、これ絶対関係ない話だ」と思ったら案の定だった。
それはそれとして、今回のようなやり取りって好きなんだよね。