はてなキーワード: 求めないとは
Twitterのフォロワーに絵が下手だと嘆いている奴がいる。
確かに、下手だと思う。しかし、私自身絵の実力がそんなにあるわけでもないから画力に対しては何も言わない。その人が問題なのは、下手というよりもまったく上達しないのだ。というか、上達する気がないのだ。
その人は「私は絵が下手だ」「デッサンの勉強をしている」「ポーズ集を買った」「フォトショップを買った」等々つぶやいたり、私に直接そう言って来たりする。(絵に関連性のあるpostをしたときリプライという形で) たまには私にDMで絵を送ってきて、感想を求めてきたりする。勿論こちらからお願いしたのではない。別件で相手のオリジナルキャラクターについてDMで絵のリクエストをされ、そこから何故か絵を送ってくるようになった。はっきり言って興味もないが数年の付き合いがあり、無下にもできないので、当たり障りのない感想や、求められた時にはアドバイスをしている。
その人の絵は線がゴチャゴチャしていて、まるで下書き。体も勉強をしているとは思えない描き方。完全に手癖で描いているのだ。だからそれを、やんわりとアドバイスという形で指摘した。 しかし一向に直す気配がない。きっとハナからアドバイスなんて求めていないのだろう。今日もただただバランスが破壊された、手と足が描かれていない、上半身だけの絵を量産している。
気づいてほしい。あなたの画力が上がる兆しを見せないのは、自分の手腕を見誤っているから。そして私に絵の感想や助言を求めないでほしい。下手だと嘆くなら、何らかしら努力をしてほしい。そして、フォトショを買ったってあなたの絵は上手くなりませんよ。
>いやいやいやいや本筋に大いに関係ある部分だからね?ここのおかしさ・設定破綻が是正されちゃったら本編丸ごと成立しなくなるからね?
私の言っている「本筋」は晴風クラスのみんながブルーマーメイドとしての意識を育んでいく部分なので、
実弾使わせているのは本編に緊張感もたせるためだろうし、そこらへんは物語のための舞台装置部分だから根拠は求めないね。
>それ言い出したらそもそも視聴者は『大まかなあらすじ』じゃなくて映像作品全体をアニメとして鑑賞してるの
さっきの一文は私が感情的になりすぎていたような気がする。あなたが恣意的に見ているという批判は撤回するよ。
ただ、私が『おおまかなあらすじ』と呼ばれる部分を過大評価するタイプの人間であることは、自分でも自覚している。
全体として一本筋のある話の流れを見つけると、それに対して他の人よりも大きな心地よさを覚える人間なんだ。
>気にならなかったとする人たちは映像作品としてアニメを鑑賞したときに提示されてるものを摂取して理解する意欲もしくは能力が低いんじゃないかと思う
これはそうかもしれないね。
>俺はあんたがはいふり本編すら見ずに断片的な情報だけで釣りをしてるんじゃないかとすら疑ってるよ
これは残念ながら証明のしようがない。だが、あらすじ部分にこだわる理由は上で書いた通りだ。
書いていて気づいたんだが、確かに「あらすじ」だけでここまで作品を好きになってしまうのはいささか不自然な気がする。
私的な話になるが、私ははいふりという作品をわけあって7話から視聴したんだ。当然その時は全体のあらすじなんて分かるわけがない。
しかし、それまで同じく7話ぐらいまで見ていた同クールの作品すべてより面白く感じた。7話だけでだ!
そこからずぶずぶ作品にはまっていった。12話見た後に「これはこういうあらすじの作品だったのだ!」と理解したが、それ以前にすでにはいふりが好きだった。
すこし自分の中で掘り下げてみる。
若い頃はどうして中年の人たちって何もかも面倒くさがるんだろうと思っていたけど、自分も同じような歳になって気づいたことがある。何か新しいことや困難にぶつかると、事の顛末が大体予想できるようになってしまうんだ。
話題の映画があったとしても、大体予想していた通りの範囲に収まっていることが多い。若い頃には技術の進展とかにワクワクしていたけど、歳を取るとどんなに新しくなっても似たようなことを繰り返すだけなんだな、と気付いてしまう。
脳科学の世界では、こういう感覚のことを結晶性知能というらしい。若い事は脳が新しいことをどんどん覚え受け入れていく。そのプロセス自体が面白い。でも、歳を取ると何を見ても以前見知った何かとの共通点・類似性を見出してしまう。
それどころか、以前見知ったものと似ていること、見慣れていること、馴染みがあることの方に親しみや優良であるというような感覚すら芽生えてくる。若い頃に聞いた音楽が何よりも耳に心地いい。
そういった具合で、歳を取ると何もかもが面倒くさなくなってくる。新しく感じることは少なくなっていくし、何をやっても徒労感を否定し切れない。だから、同じ事・同じものばかりを追いかけ始める。
若い頃なら、そういう中高年を脳が死んでるとか、終わった人とか言って軽蔑していたけれど、自分がその立場になってみると、奇妙なことに意外なほど心地良い。
歳を取るごとに不安が少なくなっていくし、次々と新しいものを求めない分、心に余裕も出来てくる。たぶんこうして自分自身が余裕になったところに、若い世代や社会に対して援助や貢献をする責任が入り込む余地ができるんだろう。
年寄りが若者と同じくらい物事に強い関心を持っていたら、若者や世の中のために何かをしてやろうなんて思えないだろう。ちょうど若い頃には自分のことに精一杯で、他人や世の中にあまり強い関心が払えないように。
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/10/15/102629
80年代に父の会社でCI改革のプロジェクトがあって父はプロジェクトの責任者だった
想像するにCI改革は、ロゴデザインの刷新もCMもあったりでかなりの額のプロジェクトであったんだろうなと思う。
代理店はH社
なお、父の会社は重厚長大系。父が就職した60年代はイケイケ業界だったが、バブル期は、業界構造として低迷で、株もびっくりするほど安かった。母は給料の少なさに嘆いていた。
父はいつも、打ち合わせで六本木だが麻布だがで代理店の人とごちそうになっていた。家に帰るといつも家族に食べたものを仔細に話していた。
その後、月イチくらい、接待で行った店に家族で行った。フランス料理の魚のムニエルが全く美味いと思わなかったり、中華風のしゃぶしゃぶで腐乳に閉口したりした。そういえば青山のフランス料理は松濤に引っ越す前のシェ マツオだったりしていた。
代理店の営業さんとサントリーホールでコンサートを聞きに行った、ということも良く言っていた。たまに私も連れて行ったもらって、休憩の時シャンパンを母に内緒で飲ませてもらった。あと、「スターライトエクスプレス」というミュージカルの券にも一緒に行った。
バブル恐るべし、と思う。
トイアンナさんの書くような下品なことを求めるクライアントもあるだろうし、それを全く求めないクライアントもいるだろうし、そこは当然営業さんは合わせるんだろうと思う。
今だったら昔より、品のないのは断ることがしやすい環境には思う
私は現在の仕事の関係上、コンサルティング会社と何回か仕事をしたが、ハードワークと、クライアントへの丁稚加減としてコンサルは似たような点があると常々感じていた。
コンサルティングに無理を強いる時には、申し訳ないと感じながらも、下請けにやらすのは当然という思い、そしてコンサルのみなさん僕らよりお給料高いよねという卑屈な思いが入り交じる。その時、たまに父が漏らしていた「士農工商代理店」という言葉を思い出す。
現在も、ましてやバブル当時も、品のない接待を要求しているクライアントはたくさんあるだろう。そこにはおれたちは客だろうという思いの奥に、高給へのひがみといった薄ら暗い感情があるんじゃないかなと思う。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/touch/20161008/1475969676
全体的に意味がよく分からないけれど、最もよく分からないのは「補償」という言葉の使い方である。
「補償」とは、例えば「損失を補って、つぐなうこと。特に、損害賠償として、財産や健康上の損失を金銭でつぐなうこと。」と定義される。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/203982/meaning/m0u/
冤罪に関して「補償」という言葉が出てくる場面としては、憲法40条に定められた刑事補償請求権がある。
件の記事における、死刑反対派が冤罪を持ち出す理由として補償の不可能性をあげている、という趣旨の文章の「補償」も、上記の意味で捉えて意味は通る。
しかし、「たいていの死刑反対派は、犯罪被害者への補償を軽視しているつもりはない。むしろ、必ずしも被害者は加害者への重罰を求めないのに補償として成立するのか、といったことを考える。社会的な補償が不充分ではないか、被害者の応報感情を満足させるという単純な方法で逃げていないか、といった主張すらされる。」あたりから意味が分からなくなってくる。
加害者が重罰を受けるか否かは、被害者への上記の意味での補償とは関係がないし、社会的な補償というのも意味が分からない。
善解すると、罪を償うというようなことが言いたいのだろうか。
「死刑囚の冤罪が判明した時、判決をくだした裁判官らはもちろん、死刑賛成派が死刑になる」ことは、死刑になった冤罪者への補償になる、というのも、上記の一般的な「補償」の意味だと考えると、意味不明である。
お金をあげるから20〜30年刑務所に入ってね、と言われて承諾する人は、そう多くはないように、懲役(特に長期のもの)に対して金銭で償いきれるものではない。
金額が非常に高ければ解決できる可能性はあるが、冤罪による懲役刑を受け、(受刑中又は受刑後に)本人が死亡し、その後に冤罪だと判明した場合、補償は不可能である。
この場合、記事中の論理だと、判決を下した裁判官らはもちろん、懲役刑賛成派を懲役にしなければいけないのではないだろうか?
一般的な意味での補償が不可能、ということが言いたいのであれば、単にそう言えば良いのに、独自の定義で「補償」を使っているのでいたずらに議論を混乱させているだけのように見える。
・過度な苦境に陥ったり努力を求められない
こういう視聴者に負担を求めない、至れり尽くせりのおもてなしコンテンツが男女向け問わず人気を博している。
よりコンテンツを(切実に)必要とし、積極的にお金を落とす層が求めているのがそういうものなので市場原理・自然淘汰的にこの傾向が発達したものと考えられる。
かつてのアニメがおもてなしよりも作家性・メッセージ性・リアリティのあるキャラ造形などを重視していたのは、
視聴者の潜在的な願望がまだ顕在化しておらず、市場が飽和していなかったので至れり尽くせりのおもてなしをせずとも生き残ることができたからにすぎない。
もちろん今でも意外性のあるストーリー展開や、リアリティを保ちながら魅力的なキャラ造形に成功し、必ずしも上記の条件に当てはまらない志の高いアニメは生き残っているだろう。
アフリカなんて遠い国を毎回説教に持ち出されるのが不快なのは分かる。
でも金で解決っていうのは、資本主義に骨の髄まで乗っ取られた感じがして嫌。
ますますこういう人が増えて、人間の根本である食とそれに伴う文化がないがしろにされていくのは見るに堪えないし、
食を冒とくすることに対して公共の場でエクスキューズを求めないで欲しい。
この感覚を宗教的だとみなす人は、きっと食べ方に対する感覚から発する考えを自分の中で育んでこなかった人なんだと思う。
あと、中国の食文化は、「相手が自分に食べきれないほどの御馳走を用意してくれた」ことに対する礼儀だから、あなたの食べ物の残し方と全く違う。
>もっとちゃんとした就職予備校設置してほしいけどそういう変革は無理なんだろう。
↑
でもたぶん本質的にはあまり変われないところが多いんじゃないかな。
半端な時期に実施される検定ありきの専門学校が、半年のカリキュラム制に合わせられるか超疑問だけど。
▲専門職業大学創設を答申 文科省、3年後の開学目指す:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ5V3HL0J5VUTIL00J.html
>パソコンのご本を読めるようになるのが難しい、という感じのお話。独学? が難しい。
>全体的なビジョンがないわけ。実際の世界がそれで動いてるようなビジョンが。だから読めない。
↑
→わかる。そういうことじゃない、ってやつだよね。丁寧さはそこに求めないというか。
→でも丁寧に作らねば、苦情来るので、丁寧になる理屈もわかる。
>僕は社会の役に立つことを直接学びたかったよ。社会がどういう風に動いてるかみたいな話をさア
>技術の実態みたいなやつ。そういうのは学校で教わらないんですよね。
→実際のコードとか見れたら最高ですもんね。でも実務のそれは守秘義務で出せないから、技術者がプライベートで造ったものくらいしか見せられないジレンマ。
>優秀な人はバイトとかやって知ってるっぽいけど、それみんなバイトでやるの? みんなはやらんでしょ。
→意志があるひとは飛び込むやろな。
>というかバイトみたいな形で社会参画しないと学べない知識だったら、それはそれでやばくないですか? という提起でもあります。
→やばいけど、安定しない市場規模だから、なかなか学生育てる体制がな整えられない状況だし、状況が変わる見込みも少ないという。
>そういう知識があれば、大学の図書館に置いてあるような「技術本」っぽいやつ? の扱い方がわかるんだろうなーと思う。
→うん、その通りかもしれない。(そうか、学生は、「技術本」の拾い読みの仕方がわからないことに今気づいた…)アルバイト大事。
>僕が何を期待しているのかって?それは実務のうちで難しいお話が出てこない、環境の話、という感じ。
→?
>あるいは別にアプリなんか作ってないのかもしれないよな。とすると何かしらサーバーを使って捌くようなシステム・サービスの細かい調節のお手伝いをしてたりするわけだ。
>その具体的なトラフィックがどうだからどうのこうの、というお話をしたり、アクセスの仕方がどうの脆弱性がどうの、新しい技術がどうの、という話だと思うんですけど、
>端的に言ってそういう話がぜんぜんわからない。そういう話がわかるとスンナリ進めるはずなんだけどな~と思いながら。
>親の金で大学行ってるのに、なんかもっとこううまくできるはずなのに……という感じでつらい。
→これはわかる超わかる。出資者の親への申し訳なさ。でも親は子がしあわせそうだったらお金払う価値感じるから、
学び取りきらなくても、せめて増田が学業を楽しんでれば、それが孝行になっているはず。
>そういうの、本とか、自分の足りない知識とか、おそらくその辺にあるんだろうな~と思いながら、でもバイトで働くにも微妙にプログラミングの知識が必要で、「これまで何作ってきましたか?」と言われても、
→いや、ホント1つ完成させるだけでいいんだと思うよ。スペシャリスト期待してない。新卒に。どちらかというと、0から実装する発想力とか、完遂力とか見てるんだと思う。自分は求人担当した時にはそれだけ見てた。
>絶対手打ちより良いやり方あるはずだけど、僕は知らんし、知らない以上何が効率的に作れるのかもよくわからないし、わからないことにはできるだけ手を出さない方がいいな、と思う。
→いや、そこはやった方がいい。愚鈍でも。
→なぜかと言うと、あったとしても、まずは手打ちの手順理解してないとそれのメンテが全然できんからね?メンテしないで済むフレームワーク(ツール)は存在しないですん。
>同年代で「めちゃくちゃプログラミングできちゃいます!(漠然)」みたいな人間いるけど、僕が例えばどういう本読んでどういう道筋を歩んだらそういうカンジになれるか、かなり見えなくてつらいし、
で、それを実装するための手法を、泥っぽくても良いから考えろ。これな。
→それ繰り返してる内に、『調べる力』がまずつくし、点がたくさん生まれて、その内つながるから。
>「でも本当に役に立つ本って開いた瞬間に読みやすいのでは?」みたいな信念がある。 これが原因なのかな。でも、この信念、少なくともこれまでめちゃくちゃ役に立ってきたものなんだよなあ……。
→それだな!それは『教科書がある世界』までのお話や。先人がいる世界までの話。
→温故知新じゃないが、先人が残したものの先からが私たちがやるべき領域で、独自の領域になってくる。(学問の「研究」が指すところ)
独自の歩みを始めると人口がぐっと減るから、読みやすさ極めた本はなくなるぞ。じゃなきゃ英語のリファレンスなんか読まないんよ……。()
>そういうのができるようになるのかと思ってたらあんまり学校でも学べる感じじゃない。全体像とは……となっているけど、こういう悩み、自然に解決したりしなかったりするんだろうな。
→自然解決はしないね。地道に自分でトライアンドエラーするしか。で、全体像は、個別すぎて全種類フォローは不可能なので、共通部分となると、理論の話とか、すでに学校でやってる内容がそれなんですな。振出しに戻るみたいになるけど;
→だから、共通部分やった後、大学ではゼミ制になるんじゃないかな。
>できるところからできるところだけ勉強していきたいと思います。それが、僕にとって、よくわからない本をじっと読まなきゃいけない義務から抜け出した罰の引き受け方っぽいので。
→自分のカンを働かせて調べようとしてるこの姿勢こそ、この記事での悩みの解決策になると思う。とてもよい増田。
→これが遠回りだとしても、これも一つの近道(学生にとっては必要な過程)だから、まずやってみて、そしてまた詰まったら増田に投稿してほしい気がする。
→これは個人的なレスだが、まずは「何を作りたいか」「何をやりたいのか」を持つと、自然とやることや調べる事も見えてくるから、それを大切にするのが一番近道だと思う。
こういう投稿するってことは、悩みを外に伝えて
前に進もうとしてるってことだから、
すごい成長するにおいがする。
ハナコ先輩へ
1.先輩のご指導のお陰で、僕は試験で初めてA評価を得ることができた。僕は心から先輩に感謝している。
3(1)思うに、「感謝」とは、何らかのプラスの行為をされた者が、行為者に対して抱く、好意に準じた自然的感情であると解する説がある(計算無価値論)。一方、一切の自然的感情を否定し、損得によって対人関係をみる説(感情無価値論)があるが、いずれの説が適切か。
(2)本来、感情とは本人の意思とは関係なく発生するものである。そして、愛とは与えるものであり、見返りを求めないものである(マザーテレサに同旨)。
(3)これらの点から考慮すれば、一切の自然的感情を否定する感情無価値論は適切な考え方ではなく、計算無価値論を支持すべきである。
4.これを本件についてみると、僕は先輩から法律論文の書き方を教わるというプラスの行為をされており、先輩に対して好意に準じた自然的感情を有している。
5.したがって、僕は先輩に感謝しているということができる。
第二 僕が先輩を好きになったことについて
1.次に、僕が先輩に抱いてしまった恋心について検討する。恋心は恋愛の前提であるが、いかなる状況で恋愛が成立するか。性別および社会通念、ならびに感情の相互性が問題となる。
2(1)思うに、恋心ないし恋愛感情とは、他人に対して抱く特別かつ唯一無二の感情をいう。ここで、本感情が異性に対してのみ成立し得るかが問題となる。
(2)この点、恋愛は異性間においてのみ成立するとする説がある(同性愛否定説)。しかし、この説は同性愛の歴史および生得的可能性をも排除するものであり、支持できない。
(3)もっとも、先輩は女性であり、僕は男性であることから、この点は問題とならない。
(2)思うに、美味しいパスタを作った相手に一目惚れすることは、社会通念上充分にあり得ることである。但し、家庭的な女がタイプの男でなければならない(湘南乃風に同旨)。
(3)この点について本件をみると、先輩は僕に美味しいパスタを作ってくれた(先輩の家H28.5.15)。そして、僕は家庭的な女がタイプである。
(4)したがって、本件恋愛は社会通念上認められるものと解する。
(2)この点、恋愛は相互に思いを寄せることによって成立するものと解する。なぜなら、上述のごとく恋愛感情とは唯一無二の感情であるところ、同一の感情を相互に持っていなければ、その唯一性が成立しないからである。ここで、先輩が僕をどう思っているのかが問題となる。
(ア)まず、先輩が僕に対して恋愛感情を抱いている場合はどうか。先輩が僕に対して恋愛感情を抱いている場合には、本件恋愛は問題なく成立する。
(イ)次に、先輩が僕に対して恋愛感情を抱いていない場合はどうか。この場合、本件恋愛は成立せず、僕の片思いにとどまるものと解する。
(3)思うに、相手が自分をどう思っているのかは、平均的な精神能力を有する一般人を基準として考えるべきである。すなわち、①頼み事の承諾の有無、②ボディタッチの有無、③自宅に上げてくれた回数、④恋人の有無、等を総合考慮して決する。
(4)以上を本件についてみると、先輩は僕の指導を快諾してくれている(①)。そして、指導中に複数回のボディタッチがあった(②)。また、先輩は自宅に上げてくれた(③)のみならず、美味しいパスタを作ってくれた(湘南乃風に同旨)。さらに、先輩には彼氏がいない(④)。
第三 告白処理
よって、先輩は僕と付き合うべきである。
以上
議論になりそうなテーマを取り上げると、個々の意見を持った人々がたくさんのコメントを残していく。
これを俗に炎上というのだろうけど、そうした記事を見ていると筆者が不憫にあるケースが多くある。
理由としては重複したコメントが多すぎることにある。同じ内容を、別の人が違う言い回しでコメントするのだ。
筆者はそれに対して真摯にコメントするも、同様のコメントが何度も何度もつく。
もっと厄介なのは、同じ内容のコメントであることをコメントを書く側が理解していないことだ。
別のコメントへの返事を参照させても、そもそも国語力がないから理解していないし、無視された、軽く扱われたなどと憤慨する。
これはたまったものではない。
性善説を信じるものに取っても、やはりバカは悪なのではないかと思わされてしまうだろう。
そういったコメントの汚染が進むと見栄えも悪くなり、筆者の意欲が削がれていくのを感じる。
新たにコメントをする側も、動物園で議論をしても仕方ないと考え退散していく。
ネットはバカと暇人のものとはよく言ったもので、スマホの普及によるものか、バカがさらに目立つようになってきた。
一昔前にインターネットの免許制にすべきという話題があったが、そこまでは求めないが、
日本は、ちゃんと指定した日に小包が届くし、コンビニもスーパーも24時間やってて、細々とした雑貨も快適に設計されている。海外から離れて見ても、これほど便利な国はないと思うのだけれど、僕はどうして、日本に帰ることに、日本の生活に今から少しだけうんざりしてしまうのだろう。
蓋し、便利さと生活の質というのは、通じているところはあるけれど、同一ではない。便利な生活はある程度の生活の質を保証してくれるけど、便利さを突き詰めていったところに最高のクオリティの生活が保証されているのかというと、どうもそういうことではないようだ。
そしてその便利さを突き詰めていった袋小路に、今の日本に生きる僕たちの生きづらさがあるように思うのです。
あるいは、便利さと言うのは「生活の短期的な幸福の効果」と言い直すことができるかもしれない。僕たちは時に近視眼的にその手近な効果を追求しがちなのだけれど、長期的な幸福の効果というのにはてんで無頓着で。
ネットで注文した商品が即日に届いたり、深夜にお酒が買いにいけたりする便利さは、確かに有り難いものではあるけれど、そのために誰かの生活を犠牲にしているのであれば、僕はそれを求めない。
ドイツでは未だに日曜日になるとレストラン以外のお店は法律でしまってしまって、うんざりしたものだけれど、日曜日にショッピングができなければ、家族と散歩をして過ごすようになるものだ。不便さを楽しむことが、長期的な幸福の効果の最大化の近道である、と最近は思うのです。
風磨ソロ入りました。多少のネタバレがあります。ご注意ください。
まず感想。
面白かった!!
風磨担でも、他Gを通ってきた生粋のジャニオタでもありませんが、単純に楽しかったです。
風磨くんのソロにレーザーを使った演出はハマってて気持ち良かったですし、
お?そうくるか~!!という意外性もあり、知らない曲が多くても楽しめました。
何よりコントの完成度が高くて、こんなコントを日替わりにするなんて贅沢だな~と思ってました。
でも、ごめんなさい。映像のストーリーはまったく響きませんでした。
風磨くんの言ってるまぶしい言葉、受け入れられない。
今までなぜ風磨くんのことをどうしても好意的にみれないのか疑問でしたが、
彼のスクールカースト高い感が合わないんだ!
カースト低くて、でもプライドだけは無駄に高くて捻くれていた中学時代。
カースト高い人が苦手で。その理不尽さに傷ついて心の中でバカにしてた。
仲間のノリを強制するとこが苦手。ノれないと笑いものにされる理不尽さ。
仲間のノリは受け入れさせるのに、こちらのことは受け入れてくれないのね。言えないけど。
文化祭とか合唱コンとか仲間内で勝手に盛り上がるだけにしてよ、熱くなっちゃってさ~こっちにもそれ求めないでよ(笑)
こんなでバカにしてた。
それがもう悔しくて悔しくてたまらなかった。
こんなに私イヤなのに、でもしょせん下。下だから怖くて何もできない。そんな自分にムカつく。
あいつら、自分たち仲間が言ったら周りもそれを当然やるって信じて疑わないんだよ、
むしろ当たり前だから信じるとかすらそういう段階でもないんだろうよ。
私許さざるを得ない。
すっごくムカついてた。でも怖いからそれを表に出すことができなかった。
そう、八つ当たりです。
風磨くんたち仲間のカースト高い感に触発されて、過去のカースト高い“仲間”達へのムカつきが蘇って。
怖くないから、ここぞとばかりに勝手に過去のムカつきを発散してるだけです。
ふうまくん、ソロコン終わりのあいさつで魔法をかけてくれたね。
過去は変えられないから、10年後、20年後の未来の私を今からやりなおせるように。
でも今さらでも発散したいくらいのムカつきを溜めこんだのは、変えられない過去なんだ。
ふうまくん、ごめんなさい。
大変身勝手だけど、私が発散しきるまでムカつきのサンドバックにさせてください。
常々思っていることだが、
多少の大小はあるものの基本的な構造がシンプルで少ない性感帯と一瞬の快楽しかもたらさない男性器に対して、
和洋多彩な色形で多くの性感帯と連続的な快楽をもたらす女性器を持つ女性が、むしろ、なぜもっとSEXをしたがらないのか。
妊娠したらSEXしてもさらに妊娠できるわけではないのだから、そんなにする必要がない。
他にももっとあるのだろうが、たぶん、生物学的な理由はこんなのだろ。
結局のところ、いつもシンプルな動きで刹那的な快楽しか得られないことはわかっていても、
男性はイケメンもドブ男も、極一部の草食系を除いて、それぞれその多くがSEXしたいと思っている。
それならば、性器の構造的には男性よりもむしろ女性の方がSEXしたがらないと理屈に合わない。
例え、同じ流れでSEXをしたとしても、気持ちの入った男性とそうではない男性では、得られる快楽が全然違う。
女性はその人との気持ちが大事なんだと言ってくるかもしれない。
そんなことは分かっている。
分かっているが、それでも、女性の方がSEXしたがるはずだと思っている。
理屈通り世の中が回っていれば、俺に抱かれたいという女がもっと寄って来るはずだ。
その原因、それはイケメンにあると俺は睨んでいる。
SEXに持ち込めるイケメンたちの技術がことごとく未熟だから、女性がSEXを追い求めないのだ。
あんなガチャガチャ乱暴に女性器をいじり倒して、気持ち良いわけがない。
それを鵜呑みにした馬鹿だけど女とSEXできるイケメンが実践して、女性を失望させる。
すると、俺たちドブ男はよりSEXできなくなる。
というように、AV業界があえて正しい女性の扱い方を刷り込ませないようにしているのかもしれない。
しかし、俺が一生抱くことのできないレベルの美人のSEXを見せてくれる、AV業界には感謝している部分もある。
お前たちは自分がリア充だと思っているかもしれないが、それは所詮オナニーレベルだ。
「フレンチ、イタリアンと続いてるから、たまには牛丼も良いわね」
どーした?俺に女を抱かせてみろよ。
ということに気づいた。
Googleなどの検索エンジンはSEO対策と呼ばれるサーチエンジンの検索結果においてトップに来るようにする対策で
利益を求めないサイトつまり非商用主義のサイトは死に、商用主義のサイトが栄えた。
アフィリエイトと呼ばれる広告収入を得るために人は何でもする日本人特有の気質が見え隠れする。
某ブラウザゲームに関してはまとめブログの管理者が対立を煽っていたことが発覚し、炎上していた。
フラッシュ倉庫の乱立によって廃れたフラッシュと呼ばれる文化にもアフィリエイトの影見え隠れしていた。
Youtubeはどうなった? Youtuberとも呼ばれる商業主義の塊が食い荒らしている。
商用主義のサイトと非商用主義のサイトを比べれば面白いのは後者である。
個人サイトは今や死語であるが、和塩における機械の修理サイトの残骸は今でも面白い。
検索エンジン避けのイラストサイトもまた感嘆すべき存在である。
大雑把に言って
左翼=自由よりも平等を重視。弱者救済、金持ちに多く負担を求める
右翼=平等よりも自由を重視。自己責任論、金持ちに負担を求めない
…だと思うんだけど。
こう考えて行くと、出産・子育てという『社会にとって価値のある仕事』をしたから優遇しろという発想は明らかに右翼的である訳だ。
しかも日本死ねの人はツイートから見るに年収960万円を超えると推定され、そのような高収入エリートを率先して保育園に入れろというのは弱者いじめの金持ち優遇そのものの考え。
その証拠に「朝鮮学校よりも保育園に金を出せ」という舛添批判のツイートもRTしているらしい。
どう考えても保育園落ちた日本死ねの人は差別主義者で排外主義のネトウヨ
なのに何故か左翼認定されてるんだよなー。変なの
結局あれ出来レースでしょ。
結局得てして受賞ないし候補になってるじゃない、特に最終選考は。
多分なろう系はアニメ化したら大ヒットするだけの余力はあるんだけど、
文学賞は無理だろう。
結局出来レースの文学賞に応募するだけ時間と労力と金の無駄なんだ。
じゃあ、どうすればいいって?
簡単な話、ネットで小説を書いて信者を作って行ったりネットで話題になればいいんだよ。
これが一番の小説家への近道だって事はラノベの現在の主要作家陣を見れば明らか。
しかも作家の年収ランキング上位は皆なろう系とかネット小説から這い上がって来た人ばかり。
時代は文学賞を求めない事は、直木賞や芥川賞を含む文学賞の顔ぶれを見れば分かり切っている。
正直面白くなくても受賞するのがそれらで、線引きは多分家柄とか学歴とか作家本人の認知度の高さで決まってくる。
それ以外、つまりそういうのを持ってない才能のある人はネット小説で試せばいい。