はてなキーワード: ジョン・ウェイン・ゲイシーとは
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
あらかわ遊園な。おれは地元じゃないんでどっちでもいいけれど、地元民に「荒川遊園」っていうと「漢字で書くな!」ってガンガージャリーぶっかけられるぞ。
まあそれはいいとして、あらかわ遊園を、なにか有る、無いという施設面で理解しようとするのが言語道断満天星。
あらかわ遊園の本質はアリスの広場におけるイベントなので、施設があるないという話ではないんだよ。
荒川区の少年少女にとってItというか、もっとはっきり言ってしまうとジョン・ウェイン・ゲイシー・ジュニアともいえる「アンパンマンショー」があらかわ遊園の本体だ。
ガンジス+アンパンマン。踏まれてももがれても何度も頭部を変えて蘇るその様は、まさに輪廻転生であり、諸行無常の響きあり(円通寺の鐘)。
キングの小説に出てくる殺人ピエロ、ペニーワイズのモデルとなったジョン・ウェイン・ゲイシーは父親から常に完璧を求められ、少しのミスでも罵倒され続けた。
それでも彼は父を愛しており、父が求める完璧なアメリカ人になれば自分を認めてくれるだろうと思い、幾たびの挫折を乗り越え必死に努力して成功した。
福祉施設などを慰問し、子供たちの人気者になり、地元の名士としての地位を確立する。
だが父が自らの事を認めぬままに死んだとき、彼の精神は破綻し、33人の少年を殺害し、アメリカの歴史にシリアルキラーとして不朽の名を刻むことになる。
前置きはさておき、家族と30云年つきあってきてさすがに疲れた。
ここ数年間、精神科やアルコールの手を借りてまでどうにかしようとしてきたが多分もう無理だ。
近いうちに何も言わずに引っ越し、電話番号も変え、名前も変えようと思う(こういう時に外国人みたいな変わった名前であるというのは許可がおりやすくてラッキーだ)。
うちの両親が悪人なのか?と聞かれればいささか戸惑う。
彼と彼女は一個人としては極めて優秀な能力をもった人間であり、社会的地位も年収も僕とはくらべものにならない。
そしてこのタイプの人間の多くに見られるように(ワタミが典型例)自分自身の相対化というものがなく、自分ができることは他者もできるものであり、そうでないのは努力や精神力がたりないから、という風に考えている。
そして子供の立場からすると最悪なことだが、起きた出来事=その人間の人格として考える、「状況だのなんだのいうのは甘え、自分の人生はすべて自分で責任を負うべき」という思想がある。
「部屋が汚い」→なんでこんな当たり前のこともできないのか。お前らは狂っている
といった具合に。
こういう親とずっといると子供も同じ思想に染まってしまうが、すでに罵倒され続け自尊心というものを奪われているので、ゲイシーのような一部の強者を除けば両親のマネをして成り上がろうとするも失敗する=自分の存在意義の全否定になる為にたいていの場合、努力するのが怖くなり、逃げてしまう→俺は両親があたりまえにできたこともできない屑という風になり自尊心のデフレスパイラルに陥ることになる。そしてそれをみた両親はまともに努力もできない屑と見て(以下略
僕と兄はずっとこの状態だった。
必死に努力しようとしても怖くて仕方がなくなり、手がつかず「それでもあんな両親みたく立派になるんだ」などと愛情を抱いていた。
兄は勉強で頑張ろうとしたが、失敗し、ネトウヨになり、両親の代わりに関係ない在日に対して憎しみをぶちまけ続けた。
その後はヤのつく自由業になって成功し、今度は「金こそすべて」という価値観に逃避した。
そして生まれた子供に対して「こいつは俺が完璧に育てる。最高の教育を受けさせて海外で働けるような完璧な人間にする」と、かつて自分自身が親にされたのと同様の事をやろうとしている。
僕は普通に働いていたが、数年前から不眠症、アルコール依存、鬱を発症し、精神科やらカウンセラーのお世話になった。
そこで、起きた出来事=自分自身の人格な考え方(典型的なアル中やうつ病の人間の発想らしい)を指摘され、初めて自分自身のゆがみに気づき、修正していくようになり、だいぶ回復した。
なんだかんだでこの数年間で学んだのは「人間は結局全てを背負う事なんてできないし、色んな状況で成り立っている。そしてすべてが自分の責任という発想は宿命論を呼び込んで物事に対する選択肢を奪い、改善の余地もなくし、他者や自分自身を許そうという発想も出てこない」というごくごく一般的なことだった。
まあ先の例でいうなら
「部屋が汚い」→「俺は屑だからできない」
「部屋が汚い」→「動線の確保はできているか?ごみ箱を増やしては?本は電子化。ルンバ購入して楽しよう」
といった具合に変化したわけだ。
で、先日そのことを両親に伝えたところ「いろいろつらい思いをさせてすまなかった」・・・などということはなく「お前は自分自身で責任を負わず、親に責任転嫁しようとしている。そういう甘ったれた考えだから、アル中や鬱なんかになる」「精神科医なんてのは責任をそらして甘やかすのが仕事。お前はそれに洗脳されている」などと言われた。
特に「お前は6歳の頃、勉強をやれと言って課題を与えてもやらなかった。俺はそれが信じられなかった。そういう無頼な生き方が現状を招いたのにそれを他人のせいにしようとしている。うちは普通の家庭なのにおまえらだけが異常だった。普通の子供なら親にやれと言われたことはやる。我々は普通の子供が欲しかった」と言われたときに家族を捨てることを決意した。
僕と兄が育ったのは普通の家庭ではなくたった一つの事で六歳のガキんちょに異常者のスティグマを張るような家庭であることにようやく気付いた。
子供のころから特別に優秀な人間になって両親に認められたら幸せになると思っていたが、結局僕の幸せは「家族と関わらず、静かに日々の生活を送ること」なのだろう。
収入が下がるのは痛いがこのままこれを続けると遅かれ早かれロード・オブ・ジョン・ウェイン・ゲイシーに乗っかる予感がする。
長々と駄文にお付き合いさせてごめんなさい。
結局一言でまとめるとこういう事になる。
「我々は一見して家族のようであったが、残念ながら異なる惑星の住人だった」
追記1
部屋の掃除のたとえが誤解を招いたようですいません。
両親とは就職して以来、近所ですが別居です。
追記2
反響がとても大きくて驚いています。おそらく僕の文章云々ではなく、家族との関係に悩まされている人が想像以上に多いのだろうと思います。
釣りだとおっしゃってる方もいらっしゃいますが、本当に釣り宣言でもできたらどれだけ楽かと思いますw
ジョン・ウェイン・ゲイシーの例は自身の投影というよりも、自尊心を奪われた人間の行動の一つの極北として記しました。
自尊心を傷つけられ続けた人間に残る憎しみというのは消すことができないし、それは兄やゲイシーのようにまったく無関係な人間に向けられるか、僕のように自分自身に向けられるかの場合がほとんどであるように思います。
残念ながら自分を傷つけた人間に返して、謝罪なりされて許してハッピーエンド、といなるのはなかなか難しいのではないでしょうか。
あと、ブコメ欄で舞城王太郎の「奈津川家サーガ」に触れていた方がいらっしゃいましたが、僕自身がうちの家庭や自分は普通ではないのではないか?
と疑念を抱いたのが、この本の元ネタになった村上春樹が翻訳した「心臓を貫かれて」だったりします。
内容はこれまた殺人犯ゲイリー・ギルモアの家庭について弟がしるしたもので虐待を受けた親がそれを子供にそのままぶつけ、子供たちは自分自身にぶつけるもの、無関係な人間を殺したり、みんな一様におかしくなっていく様を記したもので我が家に似ている部分が多々あり非常に衝撃でした。
まあ三十年以上問題がある家族と過ごした身としていえることは「対話による解決は難しいだろうし、まず逃げ出すことを考えた方がいい。」ということでしょうか。
時間が解決することもあればしないこともありますが、こういう生活は常に毒を飲み続ける生活に似ていますし、どんな人間でも毒に対する耐性には限界があります。
そしてその貯めこんだ毒は自分自身のみならず、周りにも向けられるものでもあるのです。
僕は自分自身が家族をつくったとして、その毒が子供や伴侶に向けられ、その子供が家庭をつくってさらに毒の拡大再生産をするような事態に一番怯えています。
表題の「家族を捨てることにした。」というのはそういう意味では今ある家族のみではなく、将来家族を作るという選択肢を放棄するという意味でもあります。
さて最後に暖かいご意見をいただいた方も厳しいご意見の方も、ろくでもない我が家の家庭事情にお付き合いいただいた全ての方に感謝を。
ありがとうございました。