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【コラム】米当局者「なぜ我々が韓日の仲裁をしなければならないのか」
「助けを要請されるまでは難しい…両国が自分たちで問題解決すべき」
同盟に大きな意味を置かないトランプ外交、過去の政権と違い介入に消極的
「韓国と日本が助けを要請してくる前に、米国が両国の確執解決に乗り出すのは難しいだろう」
日本が韓国の半導体・ディスプレイ中核材料の輸出規制を予告した直後の2日に会ったトランプ政権のある高官は、「2015年の韓日慰安婦合意をはじめ、悪化した韓日関係を米国が解決するために水面下で役割を担うのは、韓日両国が米国に助力してほしいと要請してきたからだった。今はそのころとは違う。今回の確執は韓国と日本が自分たちで解決していくだろう」と言った。
日本が韓国に対する輸出規制を予告した1日、米国務省が韓日確執について見せた公の反応は「米国は韓日との3国間協力をさらに強化することに専念している」というものだった。だが、この高官が告白したトランプ政権の本音は「韓日が望んでもいないのに、米国があえて乗り出す必要があるだろうか」というものだった。
韓日関係が悪化しているのにもかかわらず、米政府が積極的に動かない状況は例外的と言っていい。先月初め、ワシントンのシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)での討論に出席したリチャード・アーミテージ元国務副長官は「私が遠くから観察したところでは、米国の外交が常にしてきたこと、つまり、間に入って静かに合意を勧告する役割を、我々がしていないということだ」と語った。韓日確執について沈黙を守るより、アジアでの米国の影響力を最小限にとどめようとする中国の戦略に対応するためにも、韓日関係改善のために乗り出すべきだということだ。
ブルームバーグ通信も4日、トランプ政権が沈黙を守る中、韓日の不和は危険な局面にさしかかっている」と報道した。米スタンフォード大学ショレンスタイン・アジア太平洋研究センターのダニエル・スナイダー教授はブルームバーグ通信に「北東アジアにある米国の2つの主要同盟国同士で緊張が高まっているのは、米国の国家安保利益に対する脅威であることを米国は常に理解していた。トランプ政権はその責任を放棄した」と語った。
落ちるといいっすね、拳骨(笑)
単刀直入に言うと、ガーナ記録はレオナード・マイルズ=ミルズの9.98です。
ガーナではもうひとりアジズ・ザカリが9.99のタイムを出しているので、
サニブラウンが父親の国籍を選択していれば、ガーナ歴代2位タイということになります。
まあ日本と大して変わらないということですね。
Wikipediaによるとアフリカ出身で10秒の壁を突破したのは以下の選手だけだそうです。
フランク・フレデリクス | ナミビア | 9.86 |
オラパデ・アデニケン | ナイジェリア | 9.95 |
デビッドソン・エジンワ | ナイジェリア | 9.94 |
ダニエル・エフィオン | ナイジェリア | 9.98 |
セウン・オグンコヤ | ナイジェリア | 9.92 |
レオナード・マイルズ=ミルズ | ガーナ | 9.98 |
フランシス・オビクウェル | ナイジェリア | 9.86 |
デジ・アリウ | ナイジェリア | 9.95 |
ウチェナ・エメドル | ナイジェリア | 9.97 |
アジズ・ザカリ | ガーナ | 9.99 |
オルソジ・ファスバ | ナイジェリア | 9.85 |
ンゴニザシェ・マクシャ | ジンバブエ | 9.89 |
ガブリエル・ムブムブレ | ジンバブエ | 9.98 |
サイモン・マガクウェ | 南アフリカ共和国 | 9.98 |
アカニ・シンビネ | 南アフリカ共和国 | 9.89 |
ヘンリコ・ブルンジース | 南アフリカ共和国 | 9.97 |
ウェイド・ヴァン・ニーケルク | 南アフリカ共和国 | 9.94 |
タンド・ロト | 南アフリカ共和国 | 9.95 |
アルトゥール・シセ | コートジボワール | 9.94 |
ディバイン・オドゥドゥル | ナイジェリア | 9.94 |
同じアフリカでも、
マラソンではあんなに強いケニアやエチオピアが10秒の壁を越えられないとはちょっと驚きです。
逆にマラソンの記録では、
ナイジェリアが2:16:06、
カメルーンが2:18:35、
ガーナが2:18:43、
ギニアが2:19:05、
コートジボワールが2:22:19です。
大迫傑の日本記録2:05:50が相当速いように感じられますね。
以上から分かることはなんでしょうか。
まず人種よりも国の影響が大きいということです。
単純に、国が積極的に陸上競技を支援していれば、その国の選手は速く走れるようになります。
いちど著名な選手が登場すれば、それに憧れる若き才能が陸上競技に多く集まるようにもなるでしょう。
もし日本の野球選手が揃って陸上競技に打ち込んでいたらどうなったでしょうか。
日本記録がコンマ何秒かは速くなっていてもおかしくはないんじゃないかと思います。
あるいは欧州でサッカーの代わりに陸上競技が盛んだったらどうなっていたでしょう。
ちなみに、現在のサッカーで最も足が速い選手は、ウェールズ代表のガレス・ベイルです。
ケニアでもマラソンが強いのは高地に住む特定の部族だけだ、なんて話もあります。
同じ黒人でも住んでいる地域によって体質や特性は大きく変わりますし、
そこに白人や黄色人種との混血まで絡んでくればさらに複雑化していきます。
白人至上主義者の遺伝子を調べたら黒人の血が流れていた、なんて笑い話もありましたし、
逆にアメリカの黒人の遺伝子を調べたら大半が白人との混血だった、という話もありました。
いまや多くの黒人には白人の血が入り、白人には黒人の血が入っています。
「彼は黒人だ」という認識すら大雑把にすぎるのかもしれません。
誤解が多いので追記しますが、特定集団間の遺伝的差異までは否定してませんよ。
それは「黒人」「白人」という大雑把な括りには合致してないでしょうというだけで。
「以上から分かること」について、
私は「国の支援」「競技の人気とそれに伴う選手の質」「人種より狭い集団間の(遺伝的なものを含む)能力差」の三つを挙げたわけですが、
【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店やネット書店、最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネルを選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説「断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます。
当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的で自己判断できる存在としての近代的主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的なイメージに対して、ハワイ・日本・沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます。
いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談「ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様の用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女の三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。
知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子をうつ。適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争(太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮の鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)
この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談の本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談の想像力」はキリスト教のテクストにも見出されるという点です。
(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)
この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断」(34ページ)となります。しかしバベルの塔の神話が示すように、神は常に「言語と文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。
「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)
ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たちの理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)
「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述があくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります。
たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰を告白せずに死んだ祖父が天国でないどこかへ行ったのではないかと不安になった」という文章が地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラストの文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)
「聖書を怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者の信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります。
イスラーム法学の中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰者自身による学問的考察のいくつかには、相対主義と決断主義のあいだでさまよう私たちの課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます。
以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌の特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。
モノにこだわるのはくだらないという気持ちもあるけど、必要なものを買うにあたっていろいろ調べるとピンからキリまであって、自分の趣味と財力のバランスみて良い買い物ができると楽しい。
以下、欲しいものリスト。既に入手してるものも多いけど、家と車あたりの大物はなかなか難しい。傾向としては定番品に弱い。ミーハーである。さすがにロレックスは選ばないがIWCに行くのも一つの典型であると思う。
・腕時計 IWCポルトギーゼ、インヂュニア、ボーム&メルシエ ハンプトン、ティソ パワーリザーブ80
・壁掛け時計 セイコー KXシリーズ、アルネ・ヤコブセン ステーション
・椅子 ハーマンミラー アーロンチェア、セブンチェア、アルテックスツール60、リッショ 家具はアクタスあたりに置いてあるもの カッシーナとか高級過ぎて無理 ソファやローテーブルはカリモク60 手頃なのが良い
・ベッド カリモクはシングルの規格が105 ちょっと余裕があってよい ボックスシーツ専用のでないと合わないのが難点
・フライパン 山田工業所の鉄打ち出し ターク、デバイヤーもいいけど山田 釜浅商店のは包装がおしゃれ
・器 波佐見焼、美濃焼、小石原焼 いいほしゆみこ、ひしぬまみお バーズワーズ 柳宗理
・包丁 釜浅商店 ツヴィリング ツインセルマックス ボブ・クレーマー…は行き過ぎ
・鋏 プラス、林刃物、多鹿治夫鋏製作所 マーチャン&ミルズ ザ シザーズ
・ロードバイク ピナレロ プリンスFX 海外のディスクのオレンジが良かった… キャニオン、フジjari クロスバイクはジャイアントRX3、フラットバーならルーベ オーラ
・鞄 革 グレンロイヤル、ステファノマーノ 、ダニエル・ボブ、ゲンテン ナイロンならブリーフィング
・靴 JMウエストン、クロケット&ジョーンズ、オールデン、MOTO、ニューバランス
・ワイシャツ 鎌倉シャツ サイズ微妙なのでオーダーメイドしたい
・スーツ セレショのセール品 どうも良いの思い切り買えない クールビズ期間も長いからユニクロの感動シリーズや綿パンでごまかしてる
・コート マッキントッシュ セカンドラインのトラディショナルウェザーウェアでも十分
・ダウン タトラス
・アウトドア ノースフェイス、パタゴニアに落ち着く 登山靴はスポルティバ
・プロテイン DNS 水溶け、味、コストどれとってもザバスより良い
飽きてきた。家電はいいや。そして、やっぱりモノにこだわるのは虚しい気もする。気に入ったものを使うと気分いいんだけどね。
モノじゃないところだと、通信キャリアはワイモバイルで散髪はQBハウス。脱力すると、すごく気が楽になった。お金もかからないし。モノに関しても、もうちょっと達観できるといいんだけど。
https://anond.hatelabo.jp/20180709055614
の続き
ダニエル F.チャンブリス著、浅野祐子訳「ケアの向こう側 看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾」
この本は、病院でフィールドワークを行い患者や医療者に起こっていることを目の当たりにしたことをもとに書かれています。目的は「ナースが日常業務の中で倫理的問題をどのように捉え、対処しているかを、詳細に、かつ弁護できる程度の一般化をもって記述すること」です。
第1章は、「ナースの世界、すなわち病院は、一般社会とは全く異なる道徳システムを持っている。病院では悪人でなく善良な人がナイフを持ち、人を切り裂いている。そこでは善人が、人に針を刺し、肛門や膣に指を入れ、尿道に管を入れ、赤ん坊の頭皮に針を刺す。また、善人が泣き叫ぶ熱傷者の死んだ皮膚をはがし、初対面の人に服を脱ぐよう命令する」といった衝撃的な言葉で始まり、「一般人にとって身の毛のよだつ残酷物語もここでは専門家の商売なのだ」と続いています。
確かに病院は一般の生活とは異なる独特の世界があります。しかし次第にそれが普通のこととして「日常化」され、業務は「ルーチン化」されていきます。チャンブリスはこの「ルーチン化」とともにナースの感情は平坦化し、そこで生じる出来事に対する感受性も失われていくと述べています。患者さえもそのルーチン化に含まれていきます。患者は人としてではなく、一つのケースとしてしか認識されないようになるのです。その結果、ナースは患者に生じる多くの倫理的問題、道徳的問題を認知しなくなっていくのだと分析します。
しかし、倫理的問題こそナースが積極的に関っていくべき必要があるはずです。なぜなら、ナースは患者を擁護する立場にあるからです。アメリカでも、アメリカ看護師協会(American Nurses Association )による「看護師の倫理綱領( Code of Ethics for Nurses)」にそのことが明記されています。
こういった事実を知っているかどうかで、未来は大きく違ってくるはずです。まずは、女性だから、看護師だから、そういった犯行は起きない、という偏見・先入観を捨てる必要があります。
それどころか、むしろ看護師という職にある限り、必然的にモラル・倫理的に気が付けば滅茶苦茶な様態になる職だと認識し強く自覚し、教育をしていくことが必要です。
根源的には人類共通の「死と病への畏れ」があり、日本においても仏教思想的な浄・不浄・穢れの概念から、科学が発達していない時代に、やはり皮膚・血や体液・死を取り扱う医師、助産師、看護師、洗濯、理髪は賤業と見なされていた。(ヨーロッパでも同様に血を扱う理髪師兼外科医)
それゆえ、日本の近代的な専門職としての看護の始まりにおいては、やはりナイチンゲールの「白衣の天使」というイメージを輸入し、キリスト教徒の信心深い修道女の禁欲規律使命献身と清純のイメージを全面に打ち出し、「聖**看護学校」「聖**病院」「**マリア病院」、はたまた教会の修道女の誓い(神との結婚つまり禁欲貞操の誓い)を真似た宣誓と戴帽式といった、実際には看護師はキリスト教徒でもなく修道女でもないのにも関わらずそのイメージを一般大衆に植えつけ印象付けてきた。
中身と行動が伴っていない虚飾はまったくの茶番。
問題なのは、日本の看護はその上っ面のイメージと形式だけを輸入し、本質的な使命と人間性の道徳教育や倫理観を輸入し損ねたことだ。欧米文化圏では文化的に刷り込まれているキリスト教的道徳価値観倫理観すらも持ち合わせていない日本で。。。
そもそも現代日本の看護教育は、戦時中の軍隊式日本赤十字の従軍看護婦養成の伝統をそのまま引き継いできてしまったものだ。
日本では戦後長らく,看護学研究に関する倫理の問題はおろか,「看護倫理」一般についての空白期が1980年代初頭まで続いた.かつて日本の看護師には,清楚さ,奉仕的精神,医師への従順さ,組織への忠誠,規律と秩序の維持等の,専ら内面的な美徳を備えた者であることが期待され,それに応答することが看護倫理であった.しかし,戦後民主主義が浸透し,経済的に豊かになる中で,過去の看護師像に対する強い反発と反動が日本の看護界に広まり,抑圧された過去の看護師像を想起させる「看護倫理」そのものが敬遠されたことが,この空白の背景にあるといわれる.その結果,米国では1960年代からすでに看護学研究に伴う倫理的課題に対する積極的応答が看護界全体においてみられたのに比して,日本の看護界における対応は1980年代中頃になるまでほとんど皆無であった.
この時期(1951-1966 年)の看護倫理に関する教育内容は、「ナイチンゲール誓詞」などの倫理規定のほか、看護師にとっての礼儀・作法、心構え、守秘義務、対人関係など、戦前の流れを引き継ぎ美徳中心であったとされる。
1967 年の指定規則の改正では、看護学が基礎科目と専門科目に分けられて体系化がはかられる一方で、「看護倫理」という独立した科目は削除された・・・
この時期(1967-1988 年)には、1967 年のカリキュラム改正前の看護倫理は、看護婦としての心構えや人類愛、使命感、奉仕などの精神性で貫かれており・・・
1989 年に指定規則が改正されたが、このとき看護倫理を「看護概論」の中に含むという「注」も削除された。これによって、看護倫理に関する記述は指定規則から全く無くなり・・・
1996 年の指定規則の改正でも、看護倫理に関して独立した科目は設けられていない・・・
2002 年に出された文科省看護基礎教育の在り方に関する検討会報告「大学における看護実践能力の育成の充実に向けて」(文部科学省, 2002)の中では、人間尊重・擁護の方法について「看護職者は、対象者が治療及びケアを受ける過程で遭遇する具体的な場面で、常に、その人の尊厳と権利を擁護する立場で行動できることが不可欠である」と述べられている。また、その教育方法についても「学生自身がその意味に深い関心を持ち、看護職者が対象者の権利擁護者として機能することの意義を追求できるよう、具体的な看護事象を用いた演習を組むなど、学生同士の討論や患者などの対象者などから学ぶ方法を採用することが大切である」とされている。さらに、人間尊重について「対象者の立場に立つこと、個人の文化背景・価値・信条の理解、意思決定に必要な情報の提供、自己決定権、人間としての尊厳・人権尊重、インフォームド・コンセントの実践と支援、プライバシーの保護と個人情報の取り扱い、セカンドオピニオンの意義などについて」と具体的に言及し(た)
プライバシー尊重とか超超基本的な倫理についてやっとここ数年になって看護教育の課程に組み込まれただけ、以前は全くありませんでしたとか、冗談かよ、な状態。
恐ろしいことに、本来あったり前の守秘義務でさえ、看護師においてはほんの10数年前まで存在してなかったというお粗末さ。
秘密の保持に関する保助看法上の条文は法 制定当時にはなかったが、平成 13 年(2001) の法律第 87 号で第 42 条の 2 として新たに追加されたものである。
今の30代以上の看護婦世代…そしてそういう世代から教わる今の看護師達。
ところが,我が国には,このような基本的人権である患者の権利を定めた法律がない。
そのような中で,今日,我が国の医療は様々な場面において多くの重大な課題を抱え,患者の権利が十分に保障されていない状況にある。
...
ところが,いまだ,患者の権利に関する法律は制定されていない。
...
日本医師会生命倫理懇談会による1990 年の「説明と同意」についての報告も,こうした流れを受けたものではあるが,「説明と同意」という訳語は,インフォームド・コンセントの理念を正しく伝えず,むしろ従来型のパターナリズムを温存させるものであるとの批判を受けた。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/jfba_info/organization/data/54th_keynote_report3_1.pdf
「看護師=モラル高い人達」という幼稚な幻想や、看護師が何か問題を起こせば「環境による被害者」という風潮を、周囲やメディアも含めて、煽り過ぎている現状があります。
今日の日本では、医療現場のみならず、世間一般の中にも無知が蔓延し、患者の当然の権利を「モンスター患者」の一言で黙殺しようとする風潮がある、とまで言える。
続く
手がかりは「やわらかいトゲ」「今ごろ…痛い」であり、ウチワサボテンの一種と推定される。「金烏帽子」「白桃扇」などだろうか。ウチワサボテンには柔らかく短いトゲがたくさん付いているものがあり、触れるとそれが刺さりっぱなしになってしまい、ふとした時に痛みを感じる。
私はそれを知らずに素手で植え替えをしてしまい、夜中チクチクと痛みに悩まされることとなった。ホームセンターなどで広く販売されているので、触れる際には気をつけるべきだ。不意に軽く触ってしまっただけでもトゲが刺さっている場合がある。
手がかりは「君がそだてたサボテンは小さな花をつくった 春はもうすぐそこまで」「この長い冬が終わるまでに」と冬に花を咲かせる品種であるのが明示されていること。と言うわけで、シャコバサボテン(ジャコバサボテン。間違えていた。コメントより。ありがとう。以降は修正済み)である。サボテンと名は付いているけれどトゲはなきに等しく、多肉植物や観葉植物と言ったほうがピンとくるかもしれない。広く販売されている。冬に花を咲かせるサボテンはこれ以外に知らない。
冬に花を咲かせる多肉植物としてはリトープスやコノフィツムなどのメセン類があるが、これをサボテンと誤認していたとは考え難いので、やはりシャコバサボテンが正解だろう。
(追記)冬に咲くサボテンとして「マミラリア類」があるとブコメで指摘頂いた。ありがとう。確かにこちらの方がイメージに近い。
手がかりが「サボテンに花が咲いたとか 小さな幸せ 数えるんだ」という部分しかなく、判別不能。「小さな幸せ」であることから、花が咲きにくい品種でないことはわかる。花が咲きにくい品種だったら大きな幸せだからだ。
「灼熱の太陽と 風が乾ききった砂漠の ど真ん中で叫ぶサボテン トゲを持ち夢の花を守れ」という部分から推察するに、砂漠にそびえ立つ大型の柱サボテンであると推測される。
手元ある『サボテン・多肉植物ポケット事典』(NHK出版)によれば、該当しそうな品種としては「武倫柱」「大鳳竜」「亀甲柱」「ネオブクスバウミア・マクロケファラ」などがある。ちなみにタイトルの「覇王樹」は品種名ではなく、サボテン自体の別名。
「僕はサボテン 見かけよりはすごくやさしいよ」という部分しか手がかりがなく、特定困難。「見かけよりは」と言っているということは、「金鯱」のようなトゲの激しい品種であると推定される。
「トゲトゲが伸びてつらくなってきて」とあることから、トゲの長い品種であろう。そして「歩く」とタイトルにあって擬人化されているということは、縦に長い柱サボテンであることが推測される。前掲書によればそれに該当しそうなのは「近衛」「錦鶏竜」「金城丸」あたりだろうか。
歌詞に「トゲ」とあるので、トゲのないサボテンではない(つまり「兜」「ランポー」「老楽」などではない)ことはわかるけど、それ以上は手がかりが少なくてわからない。
■『レッツゴー!サボテン』サボ
歌詞に「砂漠」「トゲ」とあるので、砂漠に自生するサボテンであり(つまり「シャコバサボテン」ではない)、トゲのないサボテンではない(上のももクロの曲参照)というところまでしかわからない。
(追記)サボさんを見た。全体的な形状とトゲの長さ・少なさから判断するに、これは「墨こけし」で間違いない(https://greensnap.jp/post/311512)。特定した。
(追々記)墨こけしは3年くらい育てているけど花は見たことないなぁ。
歌詞中の「あなた」が何らかのサボテンをプレゼントしてくれた以上のことはわからない。(追記)たまに園芸店でハート型のサボテンが売られているが、それかもしれない。
「さむいのはにがてなんです」と歌い出しにあるが、サボテンは意外と寒さに強い。私は北関東に住んでいるが、育てているサボテンは冬でも外に出しっぱなしにしてある。但し、寒さに弱い品種があるのも確かである。幾つかは冬に枯らしてしまった。従って、ここで歌われているサボテンは寒さに弱いタイプの種類であると推測される。おそらくたくさんあるので特定は困難を極める。
■『サボテン』VIXX
「棘の先に華やかに咲く花」と歌詞にあることから、サボテンではなく多肉植物ユーフォルビアの一種であると推測される。具体的には「紅彩閣」あたりだろうか。
トゲのようなものを持つ多肉植物が幾つか存在するが、サボテンとの見分け方は「トゲの根元に綿みたいなものが付いているのがサボテン」と言われている。ユーフォルビアの「紅彩閣」にはトゲみたいなものはあるものの、綿みたいなものはないから多肉植物である。
で、その「トゲみたいなもの」は実はトゲではなくて「花座」と呼ばれるもので、季節になるとその先端に黄色い花を咲かせる。一方、サボテンのトゲは葉っぱが変化してできたものであり、棘の先に花を咲かせることは私の知る限りない。サボテン本体から蕾が出てきて花が咲く。
―追記―
「サボテンが赤い花を付けた」ことから赤い花を咲かせる品種であることはわかるものの、赤い花を咲かせるサボテンは結構たくさんあるので特定は困難を極める。今日、育てている「ランポー」が鮮やかな黄色い花を咲かせたので、ランポーではない。
歌詞中の手がかりが少なくて判別できない。「緑」というキーワードがあるので「(白い)ランポー」「老楽」「月世界」あたりではないと思う。
(追記)PV見た。ぷっくりとした美しい形だった。知る限りあの形に一番近いのはユーフォルビアの「大正キリン」かと思うが、断定はできない。
■『孤独のRunaway』B'z
「サボテンが街を笑い」とあるので街を笑うことのできるサボテンであることは確かだが、街を笑うことのできるサボテンは寡聞なので誠に遺憾だが判別できない。
あまりにも唐突な台詞であり、リアリズムと言うよりはメタファーであると思われ、品種を特定するための手がかりが少なすぎるので特定には困難を極める。(追記)画像を見るにこれ(https://www.iris-gardening.com/leaf/33_01.asp)に似ている。ただ、名前がわからない。わかったら書く。わかる人いたら教えてください。
―追記2―
「変な形してるのに 可愛い花咲く」が手がかりとなると思われるが、サボテンは厳しい環境を生き抜くために殆どが変な形にデザインされているし、変な形から比べると殆どが可愛い花を咲かせるので一般的な情報を越えない。
また「力一杯 握ってごらんよ」の部分からトゲがそんなに鋭利ではない種類であると推測される。鋭利なものだったら「力一杯」握ったらスプラッターと化すからである。これ以上のことはわからないものの、敢えてあげれば「金烏帽子」などのウチワサボテンあたりが妥当かと思われる。
■『仙人掌哀歌(サボテンエレジー)』二階堂衝(CV:織田優成)
ヒントが少なくて品種の特定は困難である。「仙人掌」とはサボテンの異名。
ちなみに、歌詞中に「仙人掌はただ見つめてた 君の勇姿とあふれる夢を」とあるが『植物はそこまで知っている』(ダニエル・チャモヴィッツ、河出文庫)によれば「植物は、あなたが近づいてくるのを知っている。あなたがそばに立って、見下ろしているのを知っている。青いシャツを着ているか、赤いシャツを着ているかも知っている」とある。つまり単なる擬人化ではなく「仙人掌」は少なくとも「君の勇姿」はきちんと見ていた(モニタリングしていた)と考えられる。
「ここにサボテンを植えよう 花が千年に一度咲く」とあるけれど、千年に一度花を咲かせるサボテンは寡聞である。サボテンではないが、たまにニュースで見かける「スマトラオオコンニャク」は「7年に一度2日間」しか花を咲かせないらしい。
また、これもサボテンではないが、砂漠で千年以上も生き続ける植物としては「奇想天外」がある。2つの葉っぱが延々と伸び続けるだけという奇特な植物で、成長は遅く、「種子が発芽してから種子をつけるまでに、25年ほどもかかる」との情報がある。これをサボテンと誤認した可能性がなくはない。
歌詞に「紺碧の仙人掌」と出てくる。「サンタマリア」とはポルトガル語で「聖母マリア」のこと。「紺碧」とは「やや黒みがかった青」とのこと。
「やや黒みがかった青」っぽい色のサボテンには例えば「豹頭」などがある。また、サボテンではないが多肉植物として黒っぽいものには「黒法師」がある。いずれにしても特定は難しそうだ。
―追記3―
「棘」「砂漠」というキーワードがあることから、上に挙げたようにトゲのない品種ではなく、「シャコバサボテン(湿度が高めの森林地帯に自生する)」でもないことはわかる。自己防衛のメタファーとして「棘」と表現されているらしいので「金鯱」のような棘の鋭いものをイメージして書かれていると想像される。「金鯱」は丸く成長するので(つまり柱サボテンではない)、歌詞中に描かれる主人公が落胆してうずくまっているような様子とも合致するし、かなり大きく成長するので擬人化も容易そうだ。
「荒んだサボテンは 世界を敵に回すほど トゲを伸ばしたんだ 喉が渇いてSOS」なので、砂漠に生えてトゲの長い種類であることはわかる。柱サボテンであれば『歩くサボテン』(奥田民生)のところで挙げた「近衛」「錦鶏竜」「金城丸」あたり、丸いサボテンなら「金鯱」あたりがイメージに近そう。「金鯱」の汎用性の高さ。
歌詞が見当たらないので全く見当がつかないが、汎用性の高さからすると「金鯱」あたりが妥当かと思われる。
クライマックスで「サボテン持って」といきなりサボテンが登場する。サボテンを持ってどこかに出かけるつもりのようだから、携帯に容易な品種であることは確実で、間違っても直径30cmの「金鯱」でないことはわかる。
「サボテンの花さいてる 砂と岩の西部」とあり、曲はアメリカのフォークソングであるようなので、アリゾナ州あたりに自生する何らかのサボテンであると思う。
前田有一氏の超映画批評は、10年以上前から続く個人映画批評サイトなので知っている人も多いと思う。
2004年あたりの「デビルマン」酷評レビューなどでネットで人気になっていたが、映画レビュー内に前田有一氏のかなりアンチ韓国・中国、右寄りな思想がにじみ出る感がリベラルが多いはてな村では嫌悪されてきた記憶がある。最近は昨年の「シン・ゴジラ」のレビューが話題になったくらいで、あまり読んでない人も多いと思う。
なんか最近ふと思い出してここ最近の映画レビューも読んでたんだが、いい意味で前田有一氏かわったなーと思えて面白かった。
昔はそれこそ「ネットで真実に目覚めた!」系のお方で、それこそいまでもチャンネル桜でレギュラーもっているようなネトウヨめんどくさいおっさんだったと思う。それがどうもいつの時期からか彼の視野が開けてきており、ネトウヨおっさんというより小林よしのりのような「話の通じる保守」的な言動が増えてきている。
最近のレビューで特に印象に残っているのは「ハクソー・リッジ」と「わたしは、ダニエル・ブレイク」だ。「ハクソー・リッジ」については少なくても10年ほど前の反日ハリウッド映画を叩くことしかしなかった彼には書けなかった素晴らしい内容になってる。「わたしは、ダニエル・ブレイク」ではまさか前田氏から緊縮財政批判が聞けるとは思わなかった。レビュー最後に英国のメイ首相、日本の新自由主義的政治家(名指しはしてないものの明らかに安倍晋三)に痛烈な批判を残してしめられている。あの前田有一氏がここまで弱者に寄り添って権力者に怒りをぶつけるレビューが書けるのか!とうれしい驚きであった。
超映画批評のことを「右寄り思想がウザイレビューサイト」と思い込んでいるはてサの皆さんにこそ、時間があったらチェックしてもらいたい。この変化の度合いはなかなか新鮮である。
もうヤベーほど可愛い。一時期芸能事務所に所属してたぐらい。目はぱっちりした二重で、睫毛も長くてお肌は白くてニキビひとつ無い。背こそ高くないが、華奢で色白で…しかもおしゃれだ。とてもおしゃれだ。あとお金持ちだ。前世何したんや。高僧の腹を満たす為に火に身投げでもしたか。彼女と一緒に歩いているとよく視線を感じる。男女問わず私の友達を見ているのだ。トロフィーワイフ(?)を連れ歩くオッサンの気持ちがわかるようになってしまった。
最近は会えていなくて、久しぶり(といっても2ヶ月ぶりとか)に遊んだのだが
可愛かった。おしゃれだった。綺麗だった。ちょっと見ない隙にまーた可愛くなっていた。
私の友達はバイト帰りの私服、私は学校終わりの制服姿だったんだけど、同い歳には見えなかった。彼女は幼顔で背があまり高くなく、それを嫌がっていたほどだったのに。何故か。それは単に彼女が垢抜けていたからだ。髪を明るい茶色に染めて、ダニエルウェリントンのペアウォッチとブレスレットをつけた私の友達は最高に可愛かった。せめてメイクぐらいしてくればよかったと恥ずかしくなるぐらい。
色々と溜まりに溜まった話題を尽きることなく話したが、私は彼女の話が7割ぐらいしか入ってこなかった。あとの3割は〝ほんまに可愛いなあ〟で占められていた。
彼氏と一周年記念で交換するプレゼントはバーバリーの小銭入れぐらいしか予算で済むやつ無かったーとか(三万ギリしないくらい)