はてなキーワード: 偶像とは
こういう論議の時に必ず出てくる「努力」論。
「努力」って何?
「努力」という曖昧な偶像を洗脳で盲信させられてしまった結果が今の社会を作ってしまっていると私は思っている。
それは人の妬みや僻みや憎しみしか生まない。
「努力」をしていないと誰が判断評価できるのか?
基準は何?誰がその基準を決められる?
相対的な量で誰が誰より「努力」しているしていないなど言えるものなのか?
それをしていない者は死ねという感覚が正に格差社会の狂った人間の感覚そのもの。
人を憎しみ足をひっぱりなんでもひとのせいにして
浅田選手といえば、子供のころから活躍し、その純粋さ無垢さ天真爛漫さで、日本国民を虜にしました。
今回のオリンピックも、曇った表情、思いつめた発言、見ていられないほど追い詰められていました。
SPが大失敗に終わった後、彼女は「なにもわからない」と答えています。
もう3回転アクセルを飛ばないでいいという声も、ありました。
浅田選手ほどの技術を持っていれば、ほかのジャンプステップを磨くことで、他にも金メダルへ到達する道はあったはず。
それが、ファンやマスコミや日本国中が「飛べる!」と望みをかけたがために、彼女は3回転アクセルに呪われました。
羽生選手は、FPで何度も失敗をしました。それでも、彼自身の話す、「絶対に飛んでやる」という気迫が、最後まで見て取れました。
ロミオとジュリエットは悲劇ですが、その悲劇の物語と相まって、何度うまくいかなくても諦めないという
結果的にはある種すばらしいプログラムにすることができていました。
それは彼の話した「自分の中にいるオリンピックの魔物」との戦いでもあったでしょう。
羽生選手の一番のライバルは自分自身の影でした。これは羽生選手に限らず、多くの選手が戦っていたものでした。
一方の浅田選手は、抽選順が決まったときの記者会見でもアメリカの記者に突っ込まれていたのですが
3回転アクセルが「飛びたいジャンプ」ではなく「飛ばなくてはならないジャンプ」になってしまっていました。
日本中から、「3回転」「3回転」と言われ続け、飛べないときも飛びたくないときも飛ばされ続け
それが「存在価値」と言われ続け、思い込み、転倒し続けました。
自分の中で、飛ばないという選択肢を導き出すことが、彼女だからこそ、できなかったのです。
浅田選手の心を支配していたのは、3回転の呪いだけです。オリンピックの魔物すら近寄れませんでした。
ある種の思考停止状態のなか、それでも、強迫観念に似たものに突き動かされ、ただ、飛ばなくてはならないのです。
そして、飛んだのです。
あのような深い慟哭を、あの愛らしかった少女が、あんな慟哭をするとは、それほどまでに呪いが深かったのだと、思い知らされました。
うれし涙ではない、あれは慟哭です。
できた!!!!!飛べた!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
自分の生活のすべてを、人生を、人質にとられ、あらゆるものを犠牲にし、最愛の母も亡くし、それでも、強いられ、休むことも辞めることも赦されず
「真央ちゃんなら大丈夫!」「真央ちゃんならできる!」という無責任な期待を背負わされ、日本中から呪われ、
初日で大失敗をし、呪いの底で押しつぶされている彼女は、恐ろしいことに、それでもなお、泣くこともできず
私たちの、悪意ある無責任な期待を、背負わなくていいのに背負い続け、滑ってくれてました。
自分の意思とはまともに向き合うことを必要とせず、ひたすら耐え、為しました。
これは、ある種の奇跡であったことと思いました。あの慟哭は、あのシーンは神がかっていました。
でも、奇跡が起こったこと、それこそが、彼女が最も一途で、最も純粋な証拠で、だからこそ日本国から愛されのでした。
この呪いから、なんと、自らの手だけで、解き放たれたプリンセス。
美しかったです。強かったです。
クリスチャン新聞が伝えた報道によると、特定秘密保護法の制定は、分裂していたキリスト教の教派を、結果的に団結させ共同行動の実績を作らせた。
日本ホーリネス教団と基督兄弟団は、いずれもプロテスタント系キリスト教の分派教会の団体であったが、双方は教義や実践方法をめぐって対立し、戦前のキリスト教弾圧・戦争協力強制の対応をめぐって分裂していた。
しかし、ホーリネス系の両教団は、戦後、戦争責任をめぐって検証と総括・反省が行われ、和解がすすめられていたところ、特定秘密保護法の制定が結果的に、両者の和解・団結を加速させ、共同行動をとらせる契機として働いた。
国家公務員の中には少ないながらもホーリネス系信者がいるし、その家族の中にもホーリネス教会員は存在する。彼ら・彼女らは、秘密を守ることによって多くの人の生命財産を奪うことを知っている場合、秘密を守る行為自体がキリスト教義上の罪となるから、秘密を暴露するなどして奪われようとしている生命を守り、自らの信仰を最後まで全うしようとするだろう。そして、ホーリネス系教団の人たちは、告発者である信者を擁護するため、国家からの弾圧に対し、これまで以上に抵抗するだろう。
その意味で、特定秘密保護法の不正常な制定によって、国家の秘密を保全するという当初の目的は、かえって実現困難になったといえよう。
政府はおそらく、公務員の思想の調査をこれまで以上に徹底して行うだろうが、だとすれば、そのことがかえって保護法に対する世論の反感を招き、思想差別に対する抵抗も大きくなり、公務員の法令順守意識を低下させるという悪循環を生むことになる。政府の秘密保護法の対応は、確実に手詰まりに向かっている。
日本ホーリネス教団教団委員会と基督兄弟団理事会は11月26日、「特定秘密保護法」制定を危惧する共同声明を安倍首相に出した。両教団は戦前、日本基督教団第6部・第9部に属し、1942年治安維持法違反に問われて牧師が一斉検挙され、宗教団体法により教会が解散させられるなど、日本プロテスタント史上最大の弾圧を受けた。その経験から、「本法案が戦前の治安維持法に劣らない危険性をはらんでいる」と重大な危惧を表明。戦前の治安維持法同様、①「国益に反する」と見なされた思想・信条が抑圧される危険、②言論・表現の自由が抑圧される情報統制の危険を指摘した。
治安維持法は25年、共産主義革命運動等の取締りを目的に制定されたが、41年の全部改正で「国体の否定」という内心の思想を取り締まるものに拡大。この流れの中で、キリストが再臨し王として治めると強調したホーリネス系が同法違反に問われた。特定秘密保護法案は、防衛、外交、特定有害活動の防止、テロリズムの防止の4分野が対象とされるが、秘密の定義や範囲があいまいで政府が恣意的に「特定秘密」に指定でき、第三者が検証する仕組みが欠如している。「これでは、時の権力が『国益に反する』と判断すれば、思いのままに拡大解釈することが可能であり、憲法の思想・良心・信教の自由という基本的人権の根幹を脅かす」と危惧を示した。
また、言論・表現の自由が国策に沿った範囲に押し込められていた戦前の体制では、治安維持法や不敬罪等が取材・報道・出版等の言論活動や国民生活を萎縮させていた。
その結果、国民は権力の暴走に歯止めをかけるすべを失い、無謀な戦争遂行へ駆り立てられていった。処罰の対象や範囲が公開されず重罰が科せられる特定秘密保護法案も、
言動を自粛させてしまう恐れが強いと予想。「言論・表現の自由を無力化・無意味化させるこのような法制は、この国をもう一度、息の詰まるような情報統制国家に逆戻りさせることになりかねません」として、戦時中のキリスト教会が自己規制し、
偶像礼拝である神社参拝や「平和の福音」を歪めて戦争遂行に加担した罪を悔い改めた立場から、二度と同じ罪を繰り返さない決意を表し、戦前の情報統制に類似する危険性を持つ特定秘密保護法案に断固反対し、廃案とするよう強く求めた。
基督兄弟団と日本ホーリネス教団の前身は、1933年に分裂。戦後50年を機に両教団が戦争責任を表明したことをきっかけに、共同で歴史検証に取り組むなど和解の実を結んできたが、共同声明を出すのは初めて。
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2567
王として国を統べる器かどうかについて、民衆が何を以って量るか。
それには一にも二にも無く「国民にどれだけの愛情を注げるか」ということではないだろうか。
田村ゆかりには何故、こんなにも熱狂的なファンが存在するのかについて、突き詰めて考えてみたが、
彼女が「姫」たる器を十二分に備えているからではないかという結論に至る。
彼女のラジオを聴き、コンサートを観て、その他イベントに参加して何故こんなにも心地よいか。
それは我々が彼女に「愛されている」という感覚が実感できるからに相違ない。
彼女はファンを、王国民を、決して置いて行ったりはしない。ないがしろにはしない。
しかし、彼女のそういった振る舞いの中に、白々しさはないと感じる。それは何故か。
無論、そうやってファンに接する(接しようとする)アイドルや声優は他にもたくさんいるだろう。
「私は応援してくれている人達に、精一杯の愛情を注いでいます」
そんな風にいう言葉に、きっと嘘はないのだろう。
それは、確かな一つの王国であり、偶像と信者の幸せな関係がそこにはある。
けれども、楽園は泡沫。あまりにも儚く、崩れ去ることが多い。
それには様々な事情があるけれども、それはそういうものだし。それでいい。
その時を少しでも長く、少しでも多く、人々の期待に応えようと、
十数年ずっと走り続けてきた。
でも、田村ゆかりは王国民がいる限り、期待に応え続けるだろうし、
王国民は姫に忠誠を誓い続ける。
愛されたい。
許されたい。
姫は愛してくれている。許してくれている。もうずっと。
姫がずっとずっと王国民に愛情を注ぎ続けてきた実績があるからだ。
こんなに愛してくれた姫に対して、
王国民はどうして彼女自身が幸せを選びとるの障壁となることができるだろう。
今まで我々の目の前にいた彼女を白々しくは思わない。
(見るに堪えないので削除)
63 搾乳 近親相姦(母子) 薬物 幼女妊娠(腹ボテ) 乳幼児 ケモショタ 下手な絵(独特の画風?) 虫姦 植物姦 拷問(出血、流血レベル)
62 人外(娘ではない) 触手 欠損(身体) セルフフェラ 幼稚園児 洗脳(異種姦によるもの) 異種姦(謎生物) 単眼 デフォルメ
==========正直無理==========
61 尿道責め スカトロ小(飲む) 鼻フック 障害(身体) 母乳 人外娘(原型ほぼなし) オナホ妖精人形 自分(鏡、写真鑑賞) 食ザー
60 妊婦 髪コキ よだれ ふたなり ケモノ(人型) 臨場ごっこ(ググれ) 異物挿入(野菜など) 異種姦(怪物) 偶像(銅像など)
59 未亡人 腋コキ 生理用品 »16(デスタムーア的な?) BL 幽霊
58 おもらし(人前) 小学生(低学年) 催眠 生理中 孕ませ 寝取られ 洗脳 巨大娘(ビル程度等) 拷問(出血を伴わない)
57 視姦 露出 女装 見てるだけ デブ専 軟体 性転換 男の娘 メカ系 獣姦 ショタ スカトロ小(見る) 近親相姦(父娘)
56 痴漢 盗撮 中学生 剃毛 青姦 逆レイプ 乱交 トイレ姦 強姦 アヘ顔 体格差 ナレーション 空中姦(スカイダイビング)
==========リアルでどん引きされるレベル(この辺りから境がなくなる)==========
55 百合 ふんどし 拘束 イラマチオ ロリ巨乳 熟女 近親相姦(兄弟姉妹) ロボ娘 筋肉娘(戦士娘) 小学生(高学年) 人外娘(ほぼ人型)
54 SM オナホール ヤンデレ 罵倒 エルフ ロリババア 人妻 異物挿入(ローター等) 赤ちゃんプレイ 女装(自分が)
53 腋 体臭 靴 アナル ふくらはぎ 言葉責め ケモノ(耳尻尾程度) 鼻 セクハラ発言
52 スマタ 足コキ 尻コキ 綺麗な歯 汚れた下着 天使・女神等
51 のぞき ストリップ 顔射 ぶっかけ 魔法少女 主従関係
48 見えそうで見えない 方言
47 靴下 声 めがね
番外 無生物(文房具等) 自然災害 宇宙 観葉植物等(普通の) 埋葬 音響 高所 広・閉所 鏡に映った何か 聖なる物 死(死そのもの) 爆発、炎上(非対人) "
これを読んで本田透『萌える男』の一節を思い出したので、紹介しておく。
かわいらしいキャラクターに胸をときめかせて癒されるという萌え文化の源流のひとつは、アイドル文化にある。70年代から80年代にかけては、空前のアイドルブームが存在した。しかし写真週刊誌の隆盛によって、生身のアイドルにキャラクターを演じきらせることは困難になる。三次元アイドルが次々と彼氏とのデート現場などのプライベート写真を撮影されてキャラクター性を喪失させられるという構造が完成してしまったのだ。
かつて、アイドルファンの間では「アイドルはトイレにいかない」「アイドルは処女である」という信仰めいた定説があったが、情報過多な現代では、生身の女性であるアイドルにそのような偶像性を求めるのは困難となった。そのため、三次元アイドルに代わって二次元のキャラクターが萌え対象として選択されることが多くなったのだろう。二次元であれば、写真週刊誌にプライベートを暴露される危険はない。
これで二次元に行く男がまた増えるのだろうか。
友達のAKBオタのここ最近のアップダウンっぷりにちょっと呆れてたんだが、
丸刈り会見みて、あまりにも完璧なダメージコントロールに戦慄したんで、
このトンでもなく黒いショービズ界のアイドルに対する非人間的扱いも含めて、軽く。
まず、週刊文春にAKB48の峯岸みなみと、GENERATIONSの白濱亜嵐とのお泊まりがすっぱ抜かれる、
ってのがあるけど、これどう考えても事務所が抑えきれなくなったって話で、
徐々に対策してるのが見て取れる。
http://news.livedoor.com/article/detail/7198155/
http://www.youtube.com/watch?v=-jbgnAG8jE0#t=178s
週刊文春発売 →1/31
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/2306
んで、丸刈り謝罪会見 →1/31
http://www.youtube.com/watch?v=UlzrIgacADU
これなー、たぶんギリギリまで事務所かばおうとしてたんじゃないかな。
彼女が可哀想って言うことじゃなくて、「アイドル」としての利用価値として。
具体的に言うとCMとか、企業タイアップとか、超具体的には「峯岸みなみ」の価値がたぶん金額で出てる。
ただ、俺の友人であるAKBオタの様子を見てても、1/30の「恋愛は応援されない」云々は、
で、あまりといえばあんまりにもフツーのオタの反応見てさ、事務所も腹くくったんでしょ。
(傷害や強要にはたぶんならないけどね。本人が自分でヤッタって言い張るだろうから)
「AKBの峯岸みなみ」には、フツーに億の価値があるわけだろ。
ってことは、引退は本人が望もうがおそらくあり得ないし、
かといって、飛ばせるほどポジションが軽くもない、
なので、もしかしたらソフトにいけるかなーという淡い期待も込めて小出しにしつつ
「遊んでるんじゃなくて、結構真剣に恋愛もしたい普通の女の子なんだよ?」という色をつけつつ
丸刈り会見で落とすと。
秋元康の恋愛禁止言ってねえ云々は元々色々あるんだろうけど、この流れは見事すぎるだろ。
だってさ、どう考えてもこのご時世で、女の子が丸刈りしてYouTubeでてりゃイジメにしか見えんだろ。
この丸刈り会見を無視して、週刊文春にだけ触れるメディアは絶対に居ないだろ。
てことはだ、「恋愛禁止はおかしいとおもう」→「週刊文春が原因」→「丸刈り会見」の流れで、
『いや〜、峯岸みなみって子は、アイドルとしての自覚が足りないんじゃないですかね?』とかいう
コメンテーターが出てきたら俺は無条件でそいつのファンになるよ。
これで峯岸叩くヤツは人間じゃないよ。
んで、この後の流れは「カウンセラーへの通院も含めてバックアップしている」とか運営発表が出て、
どんなにゲスいワイドショーでも坊主頭の女の子の練習風景おっかけて叩く流れにはならんだろうし、
髪が生えてくるころ(半年〜1年くらい?)に、禊ぎを終えたっつって戻ってくるだろ。
パーフェクトなダメコン。
……でもな、これって峯岸みなみって言う20歳の女性にして良いことなのか?
金銭的価値があるのは判る。
アイドルはトイレに行かないとか、恋愛しないとか、そういう偶像を商売にしてるのもわかる。
でもな、やっぱ基本的人権すら守られていない感じがするこの対応だけは、許しちゃいけないんじゃないか。
いくら本人が叩かれても、莫大な損失を抱えることになっても、越えちゃ行けない一線だったんじゃないのか。
もう刈り上げちまった髪は戻ってこないけどさ、
どこで「間違っていることを説明」できてるの?
私の説明に異議があったならその時にその文を引用して具体的に
「ここに異議アリ!」とやってください。
後からなんとなく「出来てない」と言われてもどこに不満があったのかがわかりません。
「客観性がない」というのは初めて聞きましたがおっしゃる意味が良くわかりません。
それはそう思う。
オタクとか性欲剥き出し男向けの作品の類が叩かれるのって結局はそういう自分勝手でいい加減なところが気持ち悪がられてるからだし。
えーとつまり
『私モテ』が特別気に入らないのではなく
オタク向け作品全般が気に入らないだけですか?
>例えばイギリス人やイタリア人のフランス人やアメリカ人の皮をかぶった日本人なら出てきます。
どこに?w
代表的なところで
1部、5部、3部(5部)、2部
登場キャラは「英国紳士」や「イタリアンマフィア」の皮をかぶっていますが
彼等のスタイルや思考回路や好悪の感覚、正義、怒り…は本物の英国紳士やマフィアのものではなく
荒木自身が一番長い時間浴してきたのは日本社会であり日本文化ですので
あなたがいう「もっとリアルになるように描き直すべきだ」をあてはめるなら
JOJOは全部の舞台を日本に、主人公を純日本人にすべきでした。
「異様」という新フレーズが出てきましたが、これまでの類語です。
「気持ち悪い」「ちゃんとしてない」「まともでない」「真っ当でない」「超勝手」 +「異様」。
『私モテ』があなたの感覚に合わないことはもうわかっていることです。
「私の感覚に合わない」以上のことを言いたいなら論理的な言葉を使ってください。
「これこれこういう状況に陥った時『彼らなら』どう考え行動するだろうか?」と想像し描くことが出来ているだけ。だからリアリティがあるの。わかる?
荒木飛呂彦の思考回路や拘りをそれらのプロフィールや状況に当てはめているわけです。
あれは要するに…「荒木飛呂彦が独身の殺人鬼ならどういうポリシーを持ちどう行動するか」というエミュレーションです。
『私モテ』作者は智子について
自分の思考回路や思い出(主に駄目なもの)を女子高生というプロフィールや状況に当てはめているわけです。
あれは要するに…「私モテ作者が女子高生ならやっぱりこういう駄目な生活になるだろう」というエミュレーションです。
荒木作品のキャラクターって「こんな人居る居る!」感っていうのはあんまり無いんですよね。
独特の濃い思考回路の持ち主ばかりで、どこか共通の風合いがあり、あれは荒木の人格のいろんな角度の像です。
荒木ファンが荒木飛呂彦本人を偶像化して憧れるのは彼こそがJOJOやDIOの中身だと知っているから。
あなたは荒木以外の作家を持ち出した方がこの場の議論にはまだ良かった気がします。)
『彼らなら』がかけ落ちてるのが『私モテ』。彼らじゃなくて『俺なら』で通そうとしてるのがあなたの大好きな作品なんだよ。そうでしょ?
どうでもいいですが、私は『私モテ』が好きだなんて言った覚えは一度もありません…。
『俺なら』で通すなら『俺』をそのまま描けば良いのに、そこを(『俺でない誰か』を、でなく)『俺でない誰か』で描くのは不誠実だし超いい加減。
>「描けば良いのに」「不誠実」「超いい加減」。
論理的な言葉を使ってくれないと「私は気持ち悪いと思う」から踏み出した議論になりません。
しかもその『俺でない誰か』と『俺』との乖離はかなり著しいときたらかなり自分勝手じゃん。美醜を差し置いても男を女にするのって相当な飛躍だよ。
>「自分勝手」
意味がわかりません。
相当な飛躍だよ
エンターテインメントやフィクションに対して「甚だしい飛躍」は褒め言葉です。
主人公が女でなければ描けない、女でなければリアリティが出ない説得力を持たせられないものを描くために主人公を女にするならまだ意味があるけど、『私モテ』はそうじゃないじゃん。
不誠実でいい加減で自己チューって終わってるよ?
>「不誠実」「いい加減」「自己チュー」
意味がわかりません。
>「叩かれたってしょうがないと思う」
意味がわかりません。
あ、アナスイの例とか出すのやめてね。アレは男女チェンジがどうこう以前に『俺』でない『彼ら』のひとりだから前提から違っちゃう。
別に持ち出す気はありませんでした。
それを持ち出すぐらいならまずジョリーンや他の女囚が別に女性的でもないことを持ち出します。
「主人公が女でなければ描けない、女でなければリアリティが出ない説得力を持たせられないものを描くために主人公を女にするならまだ意味があるけど、
『ストーンオーシャン』はそうじゃないじゃん。」
またあの刑務所内エピソードの元ネタ本の著者も男性元服役囚です。
感情の経路って何のこと?
この作品の欠陥はもうかなり指摘されてるよ。それがわからないってこと?
残念ながら。
あなたがすごく気持ち悪いと感じていることはよくよくわかりましたが
客観的な批判をしたいならまず
「気持ち悪い」「ちゃんとしてない」「まともでない」「真っ当でない」「叩かれたってしょうがないと思う」
「超勝手」「異様」「自分勝手」「不誠実」「いい加減」「自己チュー」「終わってるよ?」
というような非論理的・感情的・主観的な言葉を使うのはやめるべきだと思います。
(大学のレポートや卒論で何かを批判するとき、このような言葉を使ったか思い出してみてください。)
誰かのトラバだけど
ttp://anond.hatelabo.jp/20120810111827
まず、
かなり長くやりとりをしてきたのに
論理的な説明を自分のログから出せずに他人のものを引くあたりに
次に
喪男中心の価値観に基づいて作られた作品は全てが喪男を喜ばせる方向に動いている。
…本当にこれでいいんですか?
「気持ち悪い」「いい加減」というふわふわした言葉の連呼よりは手ごたえがありますが、
1行目と2行目が繋がらないと思います。
例えば「作品」のかわりに「社会」であれば1行目と2行目は完全に繋がりますし、
そのような社会は間違いなく不当です。
が、「作品」と言い出したら、そんなもん、購読者の絞り込みでしかないと思いますが…。
「全てが喪男を喜ばせる方向に動いてる作品」は喪男以外の人が期待読者層から排除されているかもしれませんが、
排除された人達にはそんな喪男向けコンテンツなんか以外の無数のコンテンツが用意されています。
ないがしろにはされていません。
「レディースデーやってる映画館は男をないがしろにしてるので不当」とか
「CanCamは全て女性を楽しませる方向で誌面が作られてるから不快」みたいなレベルですよ。
あ、またつけちゃった。でも本当に煽ってるわけじゃないんですよ。
ただ単に可笑しいだけ。
私はあなたの怒りや苛立ちを誘おうとしていないのに
あなたがそういう感情に囚われているのを見るのは心から残念です。
可能であれば楽しく、それが出来なくてもせめて静かな心でお話がしたいと思います。
非難されるべき理由は私もこれまで書いてきたけど、そもそもでっち上げるまでもなく大元の増田記事が大体指摘してくれてますよ。
これまでの所あなた達が書き得たのは
「気持ち悪い」という感情の話か
「レディースデーは男をないがしろにしてる」レベルの”論理”です。
感情は尊重するし自由だということを私は繰り返し書いてると思います。
ただそれ以上のこと、「客観的にこの作品は批判されるべきである」といった主張をするなら
好きな作品が叩かれるのに耐えられないんじゃないかなとは思うんだけど、でも非難されるべき理由というか要素は全部認めてますよね。
「非難されるべき理由や要素」というのは残念ながら一つもわかりません。
イジメられっ子みたいな気持ちなのかな?「いじめられるのはいじめられっ子に理由があったとしても責任は無い」ってよく言うし。
ファンタジーにおける主人公の血統なんて超人的な力を使うことへのエクスキューズみたいなもんだし何で萎えるのかわからん。
純地球人(だったはず)のクリリンが物語終盤まで頑張ってついてきてることとかミスターサタンが張りぼてヒーローでありながら英雄偶像になったのに胸熱くなることはあるけど、悟空やベジータがしっぽ持ちだからって萎えるとか意味分からんやん。
エンダーのゲームくらいまで行かないと血統ちやほや型は萎える。確かに。
アレだ、「血統(とそれに由来する能力)があって初めて辛勝できるか下手したら負ける」くらいの敵とブチ当たらないと感情移入とかないしあんまりスカッともしないんだ。
つまり主人公がどうこうっていうより、「所謂『強大な』敵」が所謂止まりじゃなくて本当に強大じゃないとダメ。
DIOやダッキちゃんやフリーザ様やトグロくらいの圧倒的な力量差。これ。
それは、画面の中だけでなく、リアルにおいてもだ。公演、ライブはもちろん、握手会など近い距離でも、僕らは彼女らを感じられる。
日常をただ、平々凡々と暮らしていたのでは出会うことさえ、許されなかった弩級の美少女に。
僕は、彼女に憧憬を好意を覚える。彼女らは資本主義世界でプロダクトされた理想の美少女で、彼女らはマスプロダクトされた彼女らについてのプロダクトを以て、僕に彼女らを伝えてくれる。
好きだ、大好きだ。愛してる。
まるで、この世の理、万有引力に導かれるかのように。不思議な話だ。
現実世界では、近づくことさえ、許されなかった彼女らに、恋することが許される。
彼女らがアイドルになってくれたおかげで。彼女らは僕らの想いを拒絶しない。
しかし、彼女らのファンは残酷な真実に気づくだろう。画面の中で、ステージで、輝く彼女らを見て。
いや、むしろ、無数にいる彼女らのファンや握手会で自分の後ろに立つ係員を見て気づくかもしれない。
もっと、自然に、もっと、普通に。例えば、クラスメイトのように、近くで出会えればよかったのに。
でも、僕は気づく。もともと、彼女らは特別で、本当は、出会えなかった。
だから僕は、彼女らがアイドルでいてくれたことに感謝しなくてはならないのかもしれない。
【秋元康の罪】
今や、過熱したアイドル業界を牽引するAKB48を始めとする48グループ。
古くはおニャン子クラブの時代から、アイドル業界を手のうちに収める彼には、その業界を発展させたという功績がある。
そして、罪もある。
AKB48の最新曲『真夏のsounds good!』でその罪について検証しよう。
この夏を代表するであろうこの曲のPVは彼が指揮したらしく個性的な設定が付与されている。
その最高指揮を執るのが、彼、秋元康だ。
軽快な曲、爽快な歌詞とは裏腹にPVの物語性にはダークなものが感じられるだろう。
AKB48を卒業することが予定されている前田敦子を助けようとする渡辺麻友。
「もういいよ行って。行きなってば先に。私たちは私達が変わるためにここに来た」
次々に倒れていくメンバー。
そんなダークな情景を見せたあとに、PVは青空の下で彼女らが踊るものになる。
真っ白な水着。真っ青な海と空。清々しいほどに爽やかで、それが先ほどの情景と対比される。
これほどまでに綺麗な未来が、つまり、新生AKB48が生まれ得るのだと期待させる。
それはPVの終盤、渡辺が前田を連れていくシーンだ。行く先は、先程、白い水着を着て、砂浜で踊っていたメンバーの下。
生まれ変わるなら、彼女らは前田を迎えるべきではないし、前田はそこを目指すべきではない。
渡辺もそれを助けるべきではないし、助けているということは、前田が抜けた後の新生AKB48の可能性を否定しているとも言える。
前田もAKB48を抜けた後の自分の可能性を否定しているのかもしれない。
つまり、秋元氏は彼女らに新生AKB48の可能性を彷彿とさせるPVを提示しながら、その可能性をPVの中で否定しているのだ。
アイドルグループは予定調和でなく、突き進んだ結果であるべき、ジャンケン大会のようにガチであるべきだという秋元氏の思想とは反するようにも思える。
しかし、よく考えて欲しい。
私にはそうは思えない。
彼は、凋落したことのない、紛うことなき、この時代の寵児であり続けたし、今ではその世界の重鎮だ。
彼に単なる根性論など通用しない。
努力だけではだめだと、成功するには運も必要だと、グーグルプラスで語った彼には美辞麗句に賭された、文字通り飾り物の世界ではなく、本当の世界が見えている。
だから、単純にがんばれば、努力すれば認められるというメッセージを発さないのだろう。
それは、彼の信念に反するから。
そう、彼の思想はこの世界を精緻に写しだしたものであるように思えるし、それに僕は同意する。
だが、この思想が彼の罪を生んだ。
つまり、それは、その一種リアリティ溢れる思想、イデオロギー性を伴った作品を彼女ら、世界で認められうる美少女らに歌わせ、演じさせてしまったというところ。
僕らは、アイドルに夢を見ている。
小難しいことを、批判めいたことを歌ってほしくはない。
社会批判。その歌詞、そのメッセージ性は痛いほどに、僕の胸に届く。
しかしそれを彼女らに歌わせることで、彼女らは政争の具のような体裁を見せてしまう。
なんの色付けもされていない、ピュア=純真な女の子を僕は見たいのにも関わらず。
別の例では、秋元氏は純真な、つまり、彼女らが思っていることを彼女らが歌っているという構図の作品を生み出すことに成功している。
それが、SKE48(KⅡ)の『お待たせsetlist』だ。
選抜総選挙で高柳明音は、秋元氏にこう叫んだ。「私達に公演をやらせてください」と。
彼女らは、それまでリバイバル公演(他のチームの公演楽曲で公演する)ばかりを行い、自分たちのオリジナル公演が行えなかった。
だから、彼女らSKE48(KⅡ)とファンの思いを高柳は秋元に代弁した。総選挙の会場で熱を込めて語った。
秋元氏はそれに呼応するように公演楽曲を書き、オリジナル公演を与えた。
『お待たせsetlist』には、SKE48(KⅡ)の思い、そして、ファンの思いが込められている。その歌詞は秋元氏が書いたものだが、聞く者にとっては、彼女らの気持ちそのものが歌われているように感じられる。
僕は、彼女ら=色付けされていないプレーンな彼女らを望んでいるのではないか。
そこには、如何に崇高な思想やイデオロギーであっても介在するべきではないのではないか。
だからこそ、僕らは秋元氏が秋元氏の思想、イデオロギーを彼女らに歌わせ、演じさせることに強烈な違和感を覚えるのである。
さて、散々彼の罪を述べてきたが、彼の功績は大きい。夏に控える前田敦子の卒業に関して、彼はこのように述べている。
「相変わらず表現は下手だが、その分、ストレートに伝わってくる。時々見せるはにかんだ表情は、あの頃の“あっちゃん”のままだ」と。
彼女につまり、この世界で美少女と認められたアイドルにバイアスをかけることなく、アイドルというひとつのステージを卒業させる。
そのことには頭が下がる思いだ。
さて、そのようなイデオロギー性の濃いアイドルの対極にハロープロジェクト系列のアイドル、モーニング娘。やスマイレージといったアイドル勢がいる。
一時程の勢いはないが、それでも業界内で存在感を放っている。そんな彼女らはイデオロギー性から解放されたアイドルといえる。
彼女らの歌う曲の歌詞や、日常を何の疑問も持たずに歌いこなすものであり、楽曲名からさえ強い思想は感じられない。『プリーズミニスカ ポストウーマン』(スマイレージ)『ピョコピョコウルトラ』(モーニング娘。)といった曲名からは、いわゆるおバカな空気さえ感じられる。
純粋な気持ちを歌っているかどうかで言えば、アイドルを眺める視点では、こちらの方が、彼女らの気持ちが歌われていると想像できる。
まさか、つんくがうぶな乙女の気持ちを持って生活しているとは思うまい。
【つんくの罪】
そんなつんくにも罪はある。
それは、作品そのものではなく、それらを歌いこなす際の彼女らについてである。疑問に思ったことはないだろうか。
彼女らの楽曲は、つんくが曲詩ともに担当する。48グループの秋元氏が詩のみの担当であることとの差がここに出ているのかもしれない。
よくよくハロプロメンバーの歌い方のくせを聞いていると、そのくせが似たものであることに気づくはずだ。
そう、つんくの歌い方のくせに似ている。と。
つんく自体、アーティスト時代の歌い方のくせは強いものだった。
それ自体はなんら問題がないのだが、その歌い方のくせを彼女らに楽曲提供することで一種押し付けているのではないか。
ピュアな彼女らの、女の子らしい歌い方を黙殺してしまっているのではないか。そう感じられて仕方ないのだ。
ここでも、僕らは嘆くことになる。彼女らの気持ちを彼女らの歌いたいように歌っているものが欲しいのに。本当の彼女らが欲しいのに。
資本主義に浸け置きにして、彼女らの骨を抜くのはもうやめてよ!そんな不自然な美少女見たくないよ!
そんな思いにかられて、すべてに思想やくせのないアイドルを探す。いることはいるのだ。
例えば、SUPERGiRLS
例えば、YGA
天下のavex、そして吉本興業のプロデュース。資金力も申し分ない。ルックスも申し分ない。でも、なかなか売れないのだ。
吉本興業に至っては、NMB48という48グループの力を借りて、アイドル事業に参画する始末。
女性の身体の重要な機能の一つは、男性を発奮させ、生殖を行わせ、人類の種の保存機能を果たすということである。したがって、基本的には、すべての女性にはそのような機能が備わっているものである。しかるに、現代においては、男性を発奮させる役割を主に担っているのは、アイドルやAV、アニメ、声優である。もちろん、男性は一般的に、そのような偶像によって発奮することについて異論はないであろうと考えられるものの、それらアイドル等による発奮には種の保存機能がないのであるから、果たすべき機能を完全にそなえた女性であるとはとうてい言いがたい。
さらに、男性は、本来であれば、発奮することによって、一般女性とコミュニケーションをとることを求められ、そこでコミュニケーション能力の発達がみられるであろうところ、男性らがアイドル等を対象とするときは、そのような能力が発達することは考えられないのであるから、そうした基本的能力の発達を推進するについて、弊害がないとはいえない。
ボカロの賑わいの表層部を分厚く覆っているプギャ層を観察すればわかりそうなものだが
この界隈ではプロになれなかった人たちの憧れやコンプレックスが大きな原動力になっており、
作者連中はプロデューサーごっこに明け暮れ
劣化商業作品を生み出してはプギャと一緒に盛り上がろうとする風潮が前面に出ている。
そこのところの理解がうまくいかない。
昨今のマスコミはまず「すごいプロダクト、人材ありき」でものを語る。
あるいは無数のユーザ達が集まって力を合わせて大きなムーブメント(プロダクトアウト)を起こす。
そんな構図で界隈の動きを捉えさせようとする。
事実を伝えるのではなく、偶像崇拝という姿勢を強要して共感を押し付けている。
「へえ、世の中にはすごい世界があるな。勉強になるわ。これだからテレビは面白い」
プロにしか許されないものづくりをアマチュアに許すための儀式と場。
そう思わせる何かである。
逆に完成されたボカロ曲を番組で紹介するのは界隈に絶望を振りまく行為でしかない。
ああ、あいつらは俺たちとは違うんだ。プロなんだ。遥か先を行ってる。もう追いつけない。
俺たちの役目は終わった。
初音さんは高く、高く羽ばたいたんだ。
僕らの手の届かないところへ。
またいつかどこかで会えるといいな。
とか言うわけないだろ。
もともと商業にも使えるソフトなんだから。(むしろそっちメイン?)
ていうか、いつかは俺もそっちで飯食ってみたい。
二次創作、同人において誰でも手軽に「歌」を作れるようになったことは重大なイベント。
初音さんをはじめとするボカロ軍団は俺と共にあって、俺の歌を歌ってくれるパートナーだ。
商業の舞台でどれだけ活躍しようとも。どれだけハイセンス、ハイクオリティな楽曲が垂れ流されようとも。
決して偶像なんかでは終わらない。
まずさーその増田だからナイーブなもんまき散らしてもいいやみたいな精神性なんとかしようよ。
そのくせ問題点は切り分けられてないし、大人と子供の悪いとこ取りみたいになってるよ?
あなたの父親や周りや社会が最低だからって、それはあなた自身の問題点を解決するもんじゃないんだってば。
その上で元の日記の中で提起されてる問題について見ていくと
1.四六時中電車が混みすぎてるという問題
2.痴漢報告に対する周囲の反応の問題
3.そもそも痴漢が発生するという問題
と、5つくらいには切り分けられると思うんだけど、
それぞれすごく深刻ではありつつも、これらを解決したら「男女別に分ける」ってことにならないと思うのだよね。
だって電車が混雑しなければ密着することもないし、周りに報告してちゃんと一緒に怒ってくれる人が多いなら、
その社会では痴漢に対する考え方も今と違うでしょう。痴漢したことで大恥をかく社会なら痴漢そのものの発生件数も減るだろうしね。
で、なんでこういうきつい書き方をするかというと、結局のところあなたは、
痴漢を避けたいんじゃなくて単に男を避けたいんじゃないかというのがひしひしと伝わってくるからなのだな。
しかもその「男」って、人間の汚さを「自分とは違う属性」に投影した上での偶像かもしれないって感じもするのだ。
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実際のところ痴漢ぐらい我慢しろよとは言わなくても、
「んなもん自分で言えよ」ということを平気でいう女というのはいるし、
それは女同士で面と向かって言うことは憚られるから、逆に女であるが故になかなか知ることができない、というのもある。
2ちゃんねるもある意味今の社会の本音でもあるからね。男女比までは分からないけれど。
あの人たちが自分の立場だけ考えてめちゃくちゃに書くのは、増田がここで社会全体に考えが及ばず書き散らかしてるのと同じことだったりもする。
また、男だって人間である以上ナイーブな人間っていうのはいて、
今はただのおっさんのようだけど、かつてはそういう人たちもあなたのようにナイーブで、それを乗り越えてきたのかもしれないよ。
そしてそれは若い増田が思うほど完全に別世界の人間ってわけでもないのだな。
誰しもが状況次第でそういう人間になってしまう可能性があるのだよ。
(まあそれを分かっても男は嫌だというならそれはしょうがない)
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ということを、まだ若い増田は聞きたくないかもしれないけれど、世界は残念ながらこんなもんでもある。
若さを言い訳にしてるうちはなにも変わらないけれど、若さを武器にできればこれほど力強いものはない。
(無論若くなくたって有効な方法を考えて働きかけてやることはとても力強い)
痴漢被害を馬鹿にする奴には顔面パンチを喰らわせてやれば良い。恥ずかしさを感じたらそれを感じる必要はないから自分の強さを信じる。
ところで、エロ年代の想像力って知ってる?ゼロ年代の想像力っていう2000年代のサブカルチャーの批評本のパロディ。
2000年代のエロアニメの批評してる本とかサイトらしいので詳しくは検索で。
最初そのパロディを知った時はすごいいい着眼点だと思ったけど、コンセプトの「未来のエロの想像云々」で、自分が思ったこととは違う事に最近気づいた。
自分の着眼点はエロ年代の想像力というかエロ年代の妄想力による「二次元美少女」のパッケージ化についてだった。
ゼロ年代なんて複雑すぎて無いに等しいようなどうでもいいものなんだけどゼロ年代のエロアニメにまで焦点を絞ると確かに
マニアックだからこそ明確な変化があると思った。しかもそれは意外に最近の傾向と関わりがある。
それはエロ年代では半ばに一つのエロアニメのレーベル、グリーンバニーが資金難で消えたことに象徴される。
今思うとこの会社があった頃までは火の車なのが見て取れるクオリティーが多々ある作品を出さざるをえない業界にも関わらず、コピーのコピーのコピーだとしても
物語もエロと同じくらい随分と凝ったものが多かったように思う。だからこそ妙にシュールな雰囲気に惹きつけられるものがあるとさえ思わせた。
それにそのシュールさを極めた人はエロの枠を火の車からか、意欲からか飛び越えざるをえないのかもしれない。結構メジャーな所で活躍してますからね。名前変えたり変えなかったりして様々な方面で。エロ年代は縁の下の力持ちなのかもしれませんがここでは割愛。
最近のエロアニメはそういった雰囲気は無視して、エロに突っ走るので本来はこっちが需要に従順で正しい。それに最近は美少女文化の社会での浸透率の高さがあると思う。
つまり、一々物語から順を追ってエロしなくても「二次元美少女」は無条件に主人公(特定の青少年)に惚れるよ!⇨(エロいとこ観れるかも!?)ということがあらゆるサブカルチャーっつーかもうメディアを通して誰にでもわかるパッケージ化した社会になったということ。
つまり自分の着眼点はエロ年代の想像力というかエロ年代の妄想力による「二次元美少女」のパッケージ化についてだった。
最終的にこの文脈で行くとけいおん!だってすごい。なにがすごいって「「二次元美少女」は無条件に主人公に惚れる」んだから主人公(特定の青少年)を消して「誰にも惚れない美少女」というある意味偶像の境地をパッケージ化してんだから。
結論から先に言う。彼らがCDを売るのは、コミケに自分のスペースを確保する名目である。本当の頒布物は、「偶像化された自分自身」である。要は「アイドル」になりたくて来ているのだ。
なら、お帰り願うの一択じゃね?
コミケはそういう場じゃないし。
あくまでも同人誌即売会であって、受け入れる「すべて」に、上に挙げられたようなのは無いだろ。
どうしてもやりたきゃ、コスプレブースにでも行けよって感じ。
http://togetter.com/li/173853 を読んで。
結論から先に言う。彼らがCDを売るのは、コミケに自分のスペースを確保する名目である。本当の頒布物は、「偶像化された自分自身」である。要は「アイドル」になりたくて来ているのだ。
よって、サークルの周りに溜まったり、写真撮影したり、握手会をしたりといった、アイドル化に必要な行為を画一的に禁止しては、サークル参加者本人の最大の目的が果たされない。コミケは彼らの承認欲求を満たし、「すべてを受け入れるコミケ」でありつづけるか、古い秩序を強制し、従わない者を排除するかの岐路に立たされている。
コミケの伝統である「大手もピコ手も買専もみんな同じ。例のアレが好きな同志」という意識が、歌い手クラスタには存在し得ない。もちろんサークルと一般参加者の意識に格差がある状況はよくある話だ。が、このジャンルに於いてはそもそも構造的に「同志」になり得ないのだ。
サークル参加者が好きなのは自分自身であり、一般参加者が好きなのはサークル参加者本人である。すなわち、サークル参加者は一般参加者の欲求を一身に背負った「神」であり、一般参加者はひたすらおこぼれをもらうだけの、只のしがない取り巻きに過ぎない。
こんな構造では同じ意識を共有しろというほうが無茶である。サークル参加者は「施しをする者」として振る舞うのが自然であり、当然のごとく一般参加者は「お客さん」化していく。
こういう構造を理解せず、あるいは無視し、単純にみんなの問題として黙殺しようとするのは、今あるコミケを守るための最善手であるのかもしれない。が、あまりに保守的ではなかろうか。見なかったことにしたい範囲が大きすぎはしないだろうか。現在進行形の問題として、あるいは将来再びあり得る危機へのたたき台として、議論すべきだと考える。
なんか2chまとめブログとかですげー叩かれてたからどんなもんなのかなと思ってYoutubeで見てみたら意外と好感を持ってしまった。ものすごい冷静というか、全くトップアイドルと言う立場に舞い上がってないというか、そういう意味では客観性があってまともだ。けど、AKBはブームが去ったらみんなに忘れ去られるんだ、心にずっと残るような価値というのはないんだ、というある意味ではAKBファンよりAKBアンチに近い見方をしていて、しかもそれをそのまま言ってしまうというクソ正直さというのは、なんだろう、アイドル=偶像と対極にある姿勢だと思う。ファンの方が怒るんじゃないだろうか。大島優子も、前田はストイックだ、みたいなこといっていて、アイドルとストイックっていうのも対極だよな…と思う。いや、アイドルをやるにはある種ストイックでなければならないんだろうけど、そういうんじゃなくて非社交的な感じのストイックさだ。アンチアイドルという感じだ。
でも、だからこそ、前田敦子がセンターである意味というのが見出せた。
今の素人はテレビ慣れしていると言う。街頭インタビューでも、よどみなく、それっぽいことを喋れるという。プロとアマの垣根が小さくなってきた。
そういう時代にあって、素人よりもテレビ慣れしていない…わけでもないんだろうけど、不器用な振る舞いを見せる前田というアイドルには価値がある。等身大で。身近な。会いにいけるアイドル。まさにそれだ。AKBのコンセプトを最も体現しているのが前田というわけだ(もちろんAKBという器なくしては芸能界で生きていけないだろうけど、その時はカンボジアとかいって国際貢献をするのが本人にとって一番幸せなセカンドライフかもしれないよ、なんて超おせっかいな提案)。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクのLAコンサート「Mikunopolis」関連の感想和訳その3。今回は初音ミクを文字通りの神話(ブードゥー教とか日本神話とか)と結びつけていた文章を紹介する。とはいっても生真面目なものではなくどちらかというとノリと勢いで書かれており、読むのも訳すのもそんなに苦労はない。肩の力を抜いて軽~く読むのにちょうどいい感じ。
http://animediet.net/conventions/vocaletariat-at-mikunopolis-unite
ボカレタリア(ボカロ階級)革命だ。ボカレタリアート(ボカロ階級者)とはボーカロイドを使う人民階級である。アニメタリアート(アニメ階級者)のようなものであり、そして多くのボカレタリアンたちとアニメタリアンたちは間違いなく重なっている。ボーカロイディアン(ボカロ人)、ボーカロイディスト(ボカロ主義者)、ボーカロイディズム(ボカロ主義)。そう、ミクノポリスは確かに革命的体験であった。ミクノクラシー(ミク政治制)、ミクノクラティ(ミク官僚)、ミクノロジー(ミク学)、ミクノレプシー(ミク症)、ミクノマンシー(ミク術)!
さて、俺がミクノポリスで期待していたのは、実は完璧なホログラムだった。つまり三次元立体画像を考えていたんだ。けど彼女はスクリーンから決して出てこようとはしなかった。ステージから降り、聴衆の中に飛び込んで踊りまくることはできなかった。だから俺の期待とは違っていた。だから技術的にいえばそいつはまだマクロス・プラスのシャロンには及ばなかった。シャロンはステージを降り、お前らと交流することができる。スキンシップできない点だけだよ、同じなのは……。
初音ミクのようなボーカロイドは、新たなる神だ。伝統的にアイドルってのは三次元の人間、つまり役者/歌手が偶像(アイドル)の役を演じていた。偶像が彼女に憑依した時、彼女はアイドルになる。それが演技という概念だ。日本語で演技はhaiyuu(俳優)と言い、その本来の意味は「神に憑依される」というもの[俳優の語源については違う説明もある]。そんでもって多分、日本で最初のアイドルはウズメちゃんだな。彼女は最初のエンターテイナー兼、踊り子兼、お笑い芸人兼、役者兼、演奏家兼、歌手だった。そう、彼女こそ最初のGeigi[芸妓]、Geisha[芸者]だったんだよ。なんだってー。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ame-no-Uzume-no-Mikoto
最古の文学はどんな文明でも常に神話だった。つまり、最初の文学に出てくる登場人物は神々であり、そして役者は神々を演じた。だから演技は神の技、つまりオリシャ[ブードゥーの神々で、神ごとに踊りやリズムがある]と見なされたんだ、当然。それこそかつて俺らがmarebito[客人]を迎えたやり方だ。だけどボーカロイドの降臨以来、俺らはもはや四つ辻でエシュ=エレグバ[ブードゥーの神]を演じる人間を必要としなくなっちまった。コンピューターが女優を生み出し、本物の女優に取って代わったS1m0ne[映画]のように。そしてコンピューターに生み出されたアイドル歌手のミクが、本物のアイドルに取って代わった訳だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Orisha
http://en.wikipedia.org/wiki/Marebito
http://en.wikipedia.org/wiki/Eshu
http://www.youtube.com/watch?v=Yd60nI4sa9A
http://www.imdb.com/title/tt0258153/
ボーカロイドは演じる際に三次元の人間を必要としない。そう、miko[巫女](女性のシャーマン)は不要なんだ。日本で最も古い音楽劇はkagura[神楽](神の音楽)という。まとめて「Sarume」[猿女]と呼ばれていたウズメの末裔たちが神楽を演じた。そしてまさに、ミクノポリスこそが最新の神楽なんだ。つまりミクはウズメの直系子孫ってわけ。そしてミクはもちろんneo-marebito[新たなる客人]ってことになる。
アイドルってのは架空のキャラだ。なにしろそれはリアルじゃないんだから。なのに本物の人間がアイドルを演じるってことは、つまりアナログのアイドルとは偽物の人間、言い換えれば架空の人間ってことを意味する。かつてアナログ時代において、俺らは神の声を聞く巫女を必要とした。でももう巫女はいらない。なにしろ俺らは直接、神の声を聞けるんだから。それこそがデジタルアイドル! ボーカロイドのアイドルは偽物じゃない。架空じゃない。正真正銘、まさにそのままなのだ! 存在す、故に存在すってか。
そして今や俺らみたいな連中は好きなように音楽を作ることができる。俺らの歌を歌わせるために優秀な歌手を雇う必要はないし、音楽制作のためのスタジオもいらねえ。完全に大衆指向だ。誰でもボーカロイドを使って作曲ができる。
もしスティービー・ワンダーが音楽フレーズを創り出すためにボーカロイドを使ったらどうなるんだろうな。彼は様々な楽器からその潜在能力を引き出す方法を知っている人物の一人だ。モーグのようなとても原始的で陳腐なシンセサイザーですら、スティービー・ワンダーが使えば空前の偉大な楽器のように音を響かせるだろうさ。
http://www.youtube.com/watch?v=9CWqY94kwH4
これはプロレタリア革命というよりむしろボカレタリア革命なんだろうか? そう、確かに鏡音リンはプロレタリア革命を唱道している。だがな、労働に従事する人民は実は今なお奴隷状態にあるんだ。なぜなら、労働をするのは奴隷だけだから。労働はお前らを自由にせず、むしろ奴隷にする。アルバイト・マハト・フライ。労働は俺らを労働から解放しない。プロレタリア革命は俺ら全員を貴族ではなく、むしろ被搾取階級に仕立て上げる。
一方、ボカレタリア革命は俺らをまさに特権階級にする。かつてアイドルを雇うなんて贅沢ができたのは、成功したプロの作曲家だけだった。だが今や誰もがアイドルに自分の歌を歌わせられる。アクセスは力なり。インターネットは誰もが情報にアクセスすることを可能にし、そしてボーカロイドは誰もがアイドルにアクセスできるようにしたんだ。
ミクノポリスはフリッツ・ラングの映画メトロポリスの正統なる後継者だ。あるいは手塚治虫の方のメトロポリスかもしれない。アイドルとはつまり作曲家と聴衆の間をつなぐ仲介者/メッセンジャー。でも今じゃ仲介者に本物の人間は必要ない。かくしてフリッツ・ラングの予言は成就せり。それこそがミクノポリスであーる!
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
このエヴァ騒動によって一時、オタクは「萌え」と「サブカル」に大分裂した。「萌え」系オタクは、エヴァでいえば綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーなどの萌えキャラにハァハァしていた純粋オタクの系統であり、「サブカル」系は、オタクよりも恋愛資本主義の側に擦り寄ってオサレ系を目指した連中だ。
だが、あれから数年、どうなっただろうか?
そう、サブカルは市場として成立せず、萌え市場だけが拡大したのだ。サブカルは短期間で事実上滅び、講談社のノベル雑誌『ファウスト』のような「半萌え・半サブカル」形態によってかろうじて命脈を保っているばかりとなった。
これは当然の帰結といえる。
オタク文化そのものが「二次元>>>>>>>>>>三次元」という前提によって威力を持てる妄想の文化である以上、サブカルが「三次元>>>>>>>>>>二次元」とやらかしたら、オタクの大勢がサブカルから離脱するのは時間の問題だった。
この「サブカル」ってのを「一部の批評系」にしたらしっくり来る。
萌えオタ罵倒してフニャフニャ主義だとか言ってた本人が、いざ容姿を出すと初音ミクの痛車よりも映像映えしないリア充ならぬリアル三十(さんじゅう)だったり、映像だと(字幕の向こうの群衆におびえて)大人しくなりキャラ崩壊してたりとゼロ年代批評はいろいろありました。
『電波男』は要するに「萌えには階級格差を無化する力があるんだ!」という本です。現在は『はがない』『IS』『けいおん!』など、良かれ悪しかれそうした表現が主流になりつつある。いかにも小泉構造改革以後の空気感みたいなのと関連付けやすい『カイジ』や『ウシジマ君』は有名になったけれど、なぜ彼らはアイドル(=偶像)になれなかったのだろう。
代わりにネットオタクの偶像となったのは『初音ミク』や『アイドルマスター』や『ラブプラス』それに『けいおん!』だった。
そして社会に出て自らの文化的アイデンティティを主張できたのは、『スクールカースト』ではなく痛車と聖地とローソンだった。そこにある想いは「余暇の時間まで勝ち組・負け組を意識させられ自己啓発されるのはキツい」というあたりまえのものだろう。
それすら許せん、となにかと理由をつけて萌えオタ罵倒してた件の人物は映像に出たらしょぼしょぼで(以下略。
映像やまとめサイトが「差異化ゲーム厨」への抑止力になるならば、少なくとも差異化ゲーム厨が野放しな環境よりは良いと思う。まあともかく萌えからフニャフニャ主義への流れなんてなくて、フニャフニャ主義こそむしろサブジャンルに過ぎないっつうか、萌えだけで刺激が足りない時に触れる程度。
ようするにゼロ年代は「差異化ゲームの思想」ではなく「無関連化する思想」が勝利した。2005年の段階でこのことを説明し得た『電波男』は、フニャフニャ主義本よりもよっぽどゼロ年代の「正史」を正しく語っている。
現在日本人の殆どがこの空気教に入信していると言われています。
空気様を信じることによって、人々は素晴らしい共存関係を築くことができます。
空気様を信じることによって、職場、学校、家庭でも充実した生活を送ることができます。
具体的には入信時に支給される「TV」と呼ばれる偶像に向かってお祈りします。
この「TV」によって空気様の心をより具体的に知ることができます。
ですから、この毎日のお祈りのによって空気様をより身近に感じとることが出来るのです。