はてなキーワード: 勝ち組・負け組とは
Wikipediaでは「1993年から2005年に学校卒業・就職活動していた年代」と定義されている。
以下は、ちょうどそのど真ん中で新卒カードをきった者の独り言。
■ 女、四大文系、成績普通、親元を離れて暮らしながらの就職活動。自宅通いの友人たちが春先には内々定を決めた中、夏の終わりまで苦戦した。50社ほど履歴書を提出したうち、面接まで漕ぎ着けたのは6社だった。
■ 両親、特に専業主婦の母は、自分の知らない会社を娘が就職先としたことに不満を漏らした。人事担当者は、不況のお蔭で優秀な女子を採用できて助かると笑っていた。
■ 正社員採用だったが、会社からは消耗品扱いされ同期もたくさん退職した。退職した同僚の中には、なかなか転職先が決まらずマルチ商法に手を出した者もいた。
■ 次の年度、さらに次の年度と時間がたつにつれ正社員採用の数が減り、代わりに契約社員率が上がっていった。正社員のような福利厚生は提供しないくせに正社員同様のプロフェッショナリズムを要求する上司が滑稽に見えた。
■ その後、派遣社員率も上がったので、2008年の派遣切りも決して無関係ではなかった。非正規雇用をクールな働き方と喧伝していた者たちは、自己責任論者と化して何もしなかった。
■ 家賃が固定費としてのしかかり昇給率も低かったので、入社から何年たっても己ひとりを食わせるので精一杯だった。経済格差に勝ち組・負け組と名付けて面白おかしく流行らせた者たちのおかげで、必要以上に卑屈になった。
■ 何とか転職して待遇も改善されたが、年若い同僚がその待遇をはじめから屈託なく享受していることに複雑な思いを抱いた。
■ 金銭面で何となく親になる条件をクリアできた気がした頃には、肉体面で親になれる時期を逸していた。
元々焼け石に水だった厚生労働省の支援プログラムは、COVID-19と少子化対策で完全に忘れ去られた。ここ数年、メディアで就職氷河期世代の問題が取り上げられる頻度は極めて低い。我々の生殖適齢期が過ぎ、いよいよ加速する棄民か。
バブル景気を経験し、団塊世代は比較的順調な経済成長の中にいた。その結果その子供世代である団塊Jr.の世代は団塊世代と比較してもかなり高い率で大学に進学した。就職して3年が目安だった結婚適齢期は大幅に後ろにずれ込み、この世代は30歳で結婚しないことが珍しくなくなった。また高等教育を受け、海外の文化に触れたりすることにより、伝統的価値観に縛られない自由(リベラル)を大切にする価値観が主に高学歴の層に芽生えていた。
1990sはCDの全盛期でカラオケもブームであった。この頃すでに女性の社会進出は始まっており男女共働きが増えてきていたが、ここにきて平松愛理が「部屋とワイシャツと私」でコテコテの昭和の価値観の曲を歌い流行。その結果、団塊ジュニア女性の専業主婦志向が強まる。ちょうどこの頃、大黒摩季も「あなただけ見つめてる」で男に尽くす昭和的な女性像を、「ら・ら・ら」で結婚を前に一生を見つめて戸惑いつつ妥協交じりの結婚を考える女性を歌っており、当時においても昭和的な価値観の歌はヒットしていた。一方で、中島みゆきは「ファイト!」で辛い境遇の中でもがく女性を叱咤しつつ応援しており、この頃に適齢期の男女の中でも、女性は依存しながら男性を立てるといった昭和的な価値観から女性も自立して活躍する価値観にシフトしつつあった。しかしながら地方では依然として男が働き女が家を守るという考えが根強いところもあった。
小泉内閣のせいにされることが多いがこの頃から非正規は増えていた。バブル期に入社した世代は右肩上がりに給与を上げ、そのとばっちりを受ける形で新卒採用が減り労働力市場で供給過多となった。非正規が増えた影響が顕在化するのがITバブルの崩壊とリーマンショックだがその爆弾はすでにこの頃に日本に埋まっていた。
Windows95が発表され大学が主戦場だったインターネットは一気に広まった。パソコンは当たり前となりADSLやケーブルテレビでの高速通信が普及した結果、インターネットブームがさらに加速され動画コンテンツが増えるようになった。この頃、東風荘やYahooでゲームに興じるインドア派が増える。娯楽の充実は恋人と過ごすことに競合する余暇の過ごし方として今後も存在感を増していく。
DVDやCDではエロ動画が視聴できていたが、ブロードバンド+dmmでエロコンテンツへのハードルが下がる。男は金、女は体という暗黙の結婚の武器のうち、女性側の武器が弱体化され恋人の役割を右手が肩代わりすることになる。不景気も相まって女優のレベルが高く男の性欲を満たすには十分すぎるほどであった。さらにXVIDEOSやPornhubなどの無修正、高画質のVRとおかずの進化はとどまることを知らない。
さらにニコニコ動画のブームにより、市民権のなかったオタクに市民権が付与される。ブロードバンドは田舎にも浸透していたため、インターネット上の娯楽の充実は都会、田舎関係なく訪れた。その結果、恋人がいなくても夜の退屈さがなくなり、社会全体としてデートのニーズが相対的に弱まった。
永久就職とかつて呼ばれた結婚について、配偶者を探す活動を就活になぞらえて婚活と呼んで始まったが、相手があっての結婚ではなく目的化した結婚になった結果、その前段階である出会いにステータスが入り込み、逆に恋愛のハードルを上げてしまった。テレビ朝日ワイド!スクランブルに出演した玉の輿にのるために38万円の高額婚活会社を利用するR子さんの「年収400万円では化粧品も買えない」は当時派手にバズり、完全なATM扱いに適齢期男性がドン引き。この人が悪いわけではないが2005年の女性専用車両のネットミームも背景にこの頃から男女に分断が生まれ始めた。
団塊ジュニアが続々結婚し始めた頃、Facebookの流行で学歴や経歴をオープンにする機会が増え、ステータスが可視化された。その結果夫の収入でマウントを取る女性が続出し女性側のカーストにもつながった。配偶者のステータスでマウントをとること自体は昭和の時代からあった女性にありがちな行動だが、SNSによってそれが町内という小さなコミュニティから同級生や会社単位に拡大され、妥協して結婚するよりも高めを狙う傾向が顕著に。さらに、この頃すでに子供がいる世帯ではキャラ弁の写真をアップする主婦が現れる。賛否両論あり否が優勢のまま終息したが、時間のかけられる専業主婦が共働き主婦の普通の弁当にマウントを取る形で「共働き=負け組」を印象付けた。この世代は家庭科の必修が小学校のみなので女性が働いていても女性に家事が押し付けられることが多かった。ちょうどこの頃、負け組としてコンプレックスを抱いていた男により、秋葉原で大量の通り魔事件が発生する。
サブプライム住宅ローンに端を発した金融危機はリーマン・ブラザーズHDの破綻を招きそこから連鎖的に世界金融危機が発生した。これにより多くの非正規の雇止めが発生し、特に女性において非正規社員と結婚しようというインセンティブが大幅に下がった。
食洗機、ロボット掃除機、ドラム式洗濯乾燥機といった時短家電(いわゆる新三種の神器)が普及した。これにより、独身でも仕事をしながら掃除、洗濯、食事に概ね困らなくなり、家事の分担需要が相対的に低下した。
団塊Jr.世代(1970~1980生)は高学歴化によって結婚の年齢が4年~6年程度その親の世代よりも遅くなり、30歳で結婚していないのは珍しくなくなっていた。ちょうどその世代の適齢期となる00年代は娯楽が充実、進化をして男女ペアにならなくても楽しめるエンターテインメントが爆増したこと、価値観のアップデートができないまま専業主婦として高収入を望む女性と、その視界に入らない男性、娯楽の充実で配偶者を必要としなくなった男女といった形のニーズのミスマッチが発生。金さえ配ればなんとかなる的な政治家の思いとは裏腹に決定的な解決策が見つからないままタイムアップを迎えた。
KKOの問題点は能力の低さとか見てくれの醜さではなく団結できないところにある。
これはKKOなら誰でも理解してると思うけど、KKOは他のKKOが大嫌いだし、勝ち組になれなかった自分自身のことも嫌い。
だから黒人団体とか女性団体みたいに連帯できないし、素の自分に誇りを持つことができない。
そもそもKKOが人生に不満を抱える理由は単に愛情が不足してるとか、友人・恋人がいないとかそんな話ではなく、
本来であれば(上の世代の男たちのように)年功序列の高給と肩書を得て、女や部下の前でデカい面ができたはずなのに、
バブル崩壊や時代の流れでそれが当たり前には手に入らなくなった、という現状に対する不満がメインだから、
建前でも平等や博愛をうたう宗教やいわゆるコミューンへの参画では決して満たされない。
つまりKKOは自分だけが労せず勝ち組になって相対的幸福を当然の権利として享受したいのであって、格差の是正とか平等とか、そんなものは本音ではみじんも望んでいない。
しかしこんな願望は社会制度では実現できないし、能力が低いからKKO自身の独力ではもちろん不可能だし、そんなわけで彼らが一生救われることはない。
同じ底辺層でも二十代以下の世代は良くも悪くもバブル的価値観(勝ち組・負け組的な発想)に染まっていないので自分なりの幸福を見つけ出せる可能性があるが、
この「無能」の概念がよく使われる「個人的能力」以上の範囲に及ぶから。
例えば障碍者は無能レベルの能力であっても、助ける必要があり保護する必要があるから守られるでしょ?
あと無能だけど愛されるキャラっているじゃん。それコミュ力高いともいえるけど。
でもキモくて金のないオッサンに向けられるのは「自己責任」なの。
誰も「同情してくれない」の。
同情されないから自力で何とかするしかないけど、無能な上に金もないし、若くもないの。
ギリ健常者の能力だから一向に生活は良くならないし年収も上がらないの。
でも働き蟻として一生を過ごすしかない。
同情されたら頼んでもないのに助けてくれるの。
そこがただ無能なのと一線を引くの。
「同情されることはステータス」であるという認識が我々に圧倒的に欠けている。
だから(同情されない状態を表す言葉がない)ので(キモい)って形容になってるの。
そして無能であるから経済的・能力的評価を与える必要もなくキモいまま。
同情されたり保護されたり能力があった時点でキモい条件から逸脱して救いの道は見える。
だけどこれらの条件に当てはまった上で、金もなければ、若くもない。
金あれば金で慰められる、若ければワンチャンある。
KKOにはそれすらない。
「勝ち組負け組 由来」でググると、ブラジルの日本人が第2次大戦での日本の敗戦を信じるかどうかで、日本は勝ったと主張する組と負けたと主張する組で分かれたのが由来だと表示される。
ただ、自分個人の記憶としては、20年前に読んだ麻雀漫画のセリフが最初だ。
「勝者・敗者」という言葉は前から知っていた。「者」は単数形だけでなく複数形でも使えると思う。
しかし、この「組」という言葉は、複数形の意味はもちろん、ある基準でのまとまり、それも一時的ではなく固定化したまとまりの意味もあると思う。
その意味で、「勝率が悪い人たち」を表す「負け組」という言葉は絶妙だ。
だから自分としては「勝ち組・負け組」はギャンブル用語として認識していた。
だが、やがて一般でも広く用いられるようになった。自分はそれがずっと嫌いだ。
ギャンブルならば、評価基準は単一だから勝率を気にすることは重要だと思う。
もっとも、自分がこのように毛嫌いするのも、もともとはギャンブル用語だったはずだと考えているからだ。
自分が負け組に分類されると、「戦略や理論に誤りがあるのに、それに気づかず直さず、漫然と負け続ける愚か者」として痛烈に批判されていると感じてしまう。
「勝者」という表現ならば、その以外の人々は「敗者」もいれば「競争を継続中の人、再挑戦をしている人、また、そもそも競争に参加していない人、関心がない人」もいると想像できる。
しかし、「勝ち組・負け組」では必ず二分される。不本意な評価基準での比較に強制的に参加させられる。そのように感じてしまう。
ただ、はじめから一般用語として認識している人なら、もっとゆるいイメージなのかもしれない。
「勝ち組」も「勝者」も大差ないのかもしれない。
競争において勝者と敗者が生まれるのは必然であることも、現代社会の中に競争の形を取るものが散見される事を否定するつもりはない。
誰かを貶めてのし上がるものがいて、反対に奪われ続けた事で人生を台無しにするものがいる事も否定する気などない。
だがその前者が勝者だとはとても思えないし、後者が敗者だとも考えられない。
また同様に、生まれつき恵まれ生涯に渡り恵まれ続けたものとその反対に居るものを勝者・敗者と分けるのも相応しとは思えない。
では何故、世の人は己や他者の人生を勝ち負けで区切ろうとしてしまうのか。
競争に勝ち続けた者は自然と人生の良い側に進みやすく、反対に負け続けた者は悪い側に進みやすい。
知能の程度を下げれば一見正しそうに見えるが、知能の程度を標準レベルに戻せばすぐに誤りであると分かる。
だが人はこんな簡単な事になぜか騙されてしまう。
何故なら、多くの者が同じ間違えをし続けているからだ。
人間は暗示に対して脆い。
レミングスは集団であるからこそ崖に飛び降り、帝国海軍は一億総火の玉であるが故に神風と化す。
一匹のレミングスは崖の危険性を知り、1人の日本人は勝機の無さを理解しているが集団となった時それは失われる。
だが、もしも正しくなくてもそれが人を幸福にするのならば辞める必要はない。
だがこの信仰は人を救わない。
邪教である。
簡単なことだ。
勝者と敗者に別れる時、それは戦である。
そして戦において、そこには敵と味方が生まれる。
そして勝者と敗者の概念が個々人の判断に委ねられる時、回りにいる大部分が敵となるのだ。
あいつは俺よりも金があるから敵、あいつは俺よりもブサイクだから敵。
下手をすれば回りの全てが敵に変わる。
そしてその敵の群れに勝つためにその場その場の勝利ばかりを目指す。
他者を敗者と思い人に辛く与えればそれは真の敵になる。
己を敗者と思い人にへつらえば誰もが真の敵になる。
そうして回りの全てが本当の敵になるのだ。
勝ち組・負け組論なんだろうけど多くの人生は消化試合なんだろうなと思い始めている。
「普通」のレールから体調不良でドロップアウトして接する人たちが変わって感じたんだけど、一部の勝ち組以外の人って成功のイメージすら持ててない。負け分を少しでも減らすために生きてるように見える。きっと成功経験がなくてイメージできないんだろう。
どの社会的階層でもなし得る成功体験は恋愛であり、恋愛至上主義(男は美人とのセックス至上主義か)ともいえる文化的教育が行われている。「勉強ないし運動ができない冴えない子がふとしたきっかけでイケメンと付き合える」漫画がどれほどあることか。玉の輿は確かに階層を移るのに最高の戦法だ。しかし勉強ができるようになり社会的ステータスを上げたというサクセスストーリーはあまりない。恋愛のサクセスストーリーは多いしスポーツもある。なのに勉強のストーリーが小中学生に親しまれないのはなぜだろうか。
さて、社会的ステータスという意味での成功に戻るが一部の例外として本とかTVとかで見る「這い上がってうんたら〜」というのがあるけど、それはクリエイティビティじゃなくて自分が成功してる姿を想像する力なんじゃないか。それかいい環境に無理矢理身を置いてそこで生きていけた結果ではないだろうか。
このエヴァ騒動によって一時、オタクは「萌え」と「サブカル」に大分裂した。「萌え」系オタクは、エヴァでいえば綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーなどの萌えキャラにハァハァしていた純粋オタクの系統であり、「サブカル」系は、オタクよりも恋愛資本主義の側に擦り寄ってオサレ系を目指した連中だ。
だが、あれから数年、どうなっただろうか?
そう、サブカルは市場として成立せず、萌え市場だけが拡大したのだ。サブカルは短期間で事実上滅び、講談社のノベル雑誌『ファウスト』のような「半萌え・半サブカル」形態によってかろうじて命脈を保っているばかりとなった。
これは当然の帰結といえる。
オタク文化そのものが「二次元>>>>>>>>>>三次元」という前提によって威力を持てる妄想の文化である以上、サブカルが「三次元>>>>>>>>>>二次元」とやらかしたら、オタクの大勢がサブカルから離脱するのは時間の問題だった。
この「サブカル」ってのを「一部の批評系」にしたらしっくり来る。
萌えオタ罵倒してフニャフニャ主義だとか言ってた本人が、いざ容姿を出すと初音ミクの痛車よりも映像映えしないリア充ならぬリアル三十(さんじゅう)だったり、映像だと(字幕の向こうの群衆におびえて)大人しくなりキャラ崩壊してたりとゼロ年代批評はいろいろありました。
『電波男』は要するに「萌えには階級格差を無化する力があるんだ!」という本です。現在は『はがない』『IS』『けいおん!』など、良かれ悪しかれそうした表現が主流になりつつある。いかにも小泉構造改革以後の空気感みたいなのと関連付けやすい『カイジ』や『ウシジマ君』は有名になったけれど、なぜ彼らはアイドル(=偶像)になれなかったのだろう。
代わりにネットオタクの偶像となったのは『初音ミク』や『アイドルマスター』や『ラブプラス』それに『けいおん!』だった。
そして社会に出て自らの文化的アイデンティティを主張できたのは、『スクールカースト』ではなく痛車と聖地とローソンだった。そこにある想いは「余暇の時間まで勝ち組・負け組を意識させられ自己啓発されるのはキツい」というあたりまえのものだろう。
それすら許せん、となにかと理由をつけて萌えオタ罵倒してた件の人物は映像に出たらしょぼしょぼで(以下略。
映像やまとめサイトが「差異化ゲーム厨」への抑止力になるならば、少なくとも差異化ゲーム厨が野放しな環境よりは良いと思う。まあともかく萌えからフニャフニャ主義への流れなんてなくて、フニャフニャ主義こそむしろサブジャンルに過ぎないっつうか、萌えだけで刺激が足りない時に触れる程度。
ようするにゼロ年代は「差異化ゲームの思想」ではなく「無関連化する思想」が勝利した。2005年の段階でこのことを説明し得た『電波男』は、フニャフニャ主義本よりもよっぽどゼロ年代の「正史」を正しく語っている。
小泉政権以後、このはてなダイアリーでも勝ち組・負け組、格差論、努力論がわいわいと議論されてきた。
議論の出始めの頃は、抽象的な概念を戦わせてた覚えがあるけど、
2008年以降は非常に具体的な例となって世の中に顕れてきた。
負け組の代表的な例は、秋葉原通り魔事件の加藤くんで、自動車製造業での派遣を転々として
つなぎを隠されて、世の中に絶望して、白昼日曜の秋葉原でサバイバルナイフを使って通り魔殺人をするという
なんとも酷い事件だった。
ほかにも正月に派遣村に大量の失業者があふれるなんて事態もあった。
勝ち組の例は、先日の衆院選で世襲を武器にして対抗馬の東大卒の弁護士に勝った小泉進次郎や
押尾学事件の延長上に浮かび上がってきた六本木ヒルズでアイドルやモデルと豪遊する森元首相の息子が
あげられる。
こういう現実の例を前にしてみると、「ちょっとこれはないんじゃない?」と感じる。
いい加減に「正社員」を雇用形態や人生のキャリアプランの最上位にあるという前提で語るのはよさないか。
そもそも「既婚、正社員」組と「独身、非正規雇用」組が勝ち組・負け組みに分かれているように見えているのも本人の思い込みのような気が。
多分、独身者は良い意味でも悪い意味でも独善的で、そういう人間は家庭を持つことをうざがるし、さらに会社に帰属意識を持つこともうざがることがあっても不思議じゃない。
「なんとなく家庭を持って結局独りよがりに生きて、かつての父の様に嫁や子供を不幸にするぐらいなら最初から結婚しない」という人間は居る。
てなことをこの間従姉妹が話していた。
20代後半にさしかかって来たので、そろそろ真面目な相手を探さなければとのこと。
今付き合っている相手は、外見が整っていて遊び相手としては十分だけど、性格面や
よくある話題だし、その時は気にも留めなかったのだけれど、はてなで恋愛関係の
ブクマ等を見たりすると何故かこの事が思い起こされ、その度に形容し難い気分の
悪さに襲われた。
「恋愛と結婚は別」とは、価値判断の基準を変えることだと思っていた。
外見偏重から、収入面偏重へ、性格面では刺激性重視から安定性重視へ
結婚を考えて評価されるものが置き換わることだと。
推測でしかないが、彼女が言っている「恋愛と結婚は別」というのは価値判断の基準を
変えず、行動だけを変える事だと思う。
自分は恋愛勝ち組、しかしながら同じ恋愛勝ち組の中での結婚条件を満たした相手との
結婚には到らなかったから、恋愛負け組で妥協してやらないこともないよ、と。
「婚活」とやらは、こういう事で上手くいかないのではないか。男女双方が「結婚市場」
で評価されるなら、男性側の収入や社会的地位に比して女性側にも相応の年齢や容姿
生々しい話だけど実際そうだろ?
しかし今「婚活」しているのは20代後半から30代半ばくらいの女性。若さを失いつつあり
収入も男性に比べれば平均的に低い。どうやったって相手に求めるリソースに見合うモノが少ない。
だから「恋愛市場」でそこそこ評価されてきた自分が「結婚市場」でそれなりに評価できる
貴方にアプローチする、という歪んだ構図にせざるを得ないのだ。
そりゃ男性側は引くよな。
生きていればそれで幸せ教は「はてな匿名ダイアリ」から発生した多神教である。
はてな匿名ダイアリでの下記の書き込みが直接の起源であるといわれている。
http://anond.hatelabo.jp/20081019202806
自分で「生きていればそれで幸せ教」を設立する勢いで行け。
この時期、多くの生きていればそれで幸せ教徒は、宗派に属したという意識をもたなかったとする学説が、現在の主流を占める。
21世紀初頭のアメリカから始まった金融危機以降、「生きていればそれで幸せ教」が「勝ち組・負け組み教」から独立して「生きていればそれで幸せ教」としての自覚を持つに至ったとされる。
好景気以下での「生きていればそれで幸せ教」は「勝ち組・負け組み教」「恋愛すぃーと教」と相容れず、また、過度な努力を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。
ニートだの、ワープアだの蔑まれ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。
しかし、時の総理大臣、杉村太蔵により公認され、その後、日本の国教とされた。
生きていればそれで幸せ教の教義をもっとも簡潔に述べているのが信条である。以下に重要な信条をあげる。
・社会にも他人にも自分にも期待しない。
・恋愛はイケメン・美女という動物が行うもので人間が行ってはいけない。
・労働を行うことは、敗北である。
・我々は負け組みではなく、あらゆる欲望から解放された新人類である。
信者には、平信者と聖職者に分かれる。聖職者は、魔法使い、ニート、ホームレス、即身仏に分けられる。
魔法使いとは性欲から開放されたもので、30歳になるまで性行為を行わないことで昇格する。
ニート、ホームレスの区別は共に働かないことであるが、ホームレスは家からも自由になっているため、「生きていればそれで幸せ教」においては階級が高くなっている。
即身仏とは、瞑想状態のまま、断食をおこない、そのまま仏になったものである。食という概念から開放され仏となり、永遠の生命を取得するこの職種が最高位とされている。
一部、異教徒の手先であるマスゴミからは都会の孤独死だの、無職の男性が食事もとれずに餓死だのとネガティブな報道がなされているが、これは、自ら食を立ち永遠の命を手に入れるという荒行を冒涜するものである。
即物的なものから解放されない、未熟な信者のために以下の特典が用意されている。
・ニコニコ動画にて時報OFFが行える。