王として国を統べる器かどうかについて、民衆が何を以って量るか。
それには一にも二にも無く「国民にどれだけの愛情を注げるか」ということではないだろうか。
田村ゆかりには何故、こんなにも熱狂的なファンが存在するのかについて、突き詰めて考えてみたが、
彼女が「姫」たる器を十二分に備えているからではないかという結論に至る。
彼女のラジオを聴き、コンサートを観て、その他イベントに参加して何故こんなにも心地よいか。
それは我々が彼女に「愛されている」という感覚が実感できるからに相違ない。
彼女はファンを、王国民を、決して置いて行ったりはしない。ないがしろにはしない。
しかし、彼女のそういった振る舞いの中に、白々しさはないと感じる。それは何故か。
無論、そうやってファンに接する(接しようとする)アイドルや声優は他にもたくさんいるだろう。
「私は応援してくれている人達に、精一杯の愛情を注いでいます」
そんな風にいう言葉に、きっと嘘はないのだろう。
それは、確かな一つの王国であり、偶像と信者の幸せな関係がそこにはある。
けれども、楽園は泡沫。あまりにも儚く、崩れ去ることが多い。
それには様々な事情があるけれども、それはそういうものだし。それでいい。
その時を少しでも長く、少しでも多く、人々の期待に応えようと、
十数年ずっと走り続けてきた。
でも、田村ゆかりは王国民がいる限り、期待に応え続けるだろうし、
王国民は姫に忠誠を誓い続ける。
愛されたい。
許されたい。
姫は愛してくれている。許してくれている。もうずっと。
姫がずっとずっと王国民に愛情を注ぎ続けてきた実績があるからだ。
こんなに愛してくれた姫に対して、
王国民はどうして彼女自身が幸せを選びとるの障壁となることができるだろう。
今まで我々の目の前にいた彼女を白々しくは思わない。