はてなキーワード: 長所とは
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.landerblue.co.jp/blog/?p=18467
元のブログは大事な部分が省略されて(あるいは意図的に見過ごされて)書かれている。
第2部のデータだけを見るとかなり衝撃的だ。ただ、その後の第3部では、単に「日本の若者は不幸だ!」というだけではない分析が加えられていて、興味深い。(日本の若者が幸福であるといいたいわけではない、もちろん。)
http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/thinking/h25/pdf_index.html
諸外国に比べ日本の青少年の自尊感情が低いことが問題視されることが多い(古荘,2009)。今回の調査結果においても、自尊感情と関連すると思われる「自分への満足感(「私は、自分自身に満足している」)」をみると、他国の平均値が 3.00 前後であるのに対し、日本の平均値は 2.31 と際だって低い値を示している。
このような結果を見ると、「日本の青年は良くない状態にあるのではないか」と評価したくなるが、果たしてこのような評価は妥当だろうか。というのも、「自分への満足度」が低いということは、必ずしも「悪いこと」とは限らない場合もあるからである。(中略)文化によっては、「控えめ」に自己をとらえることが美徳とされる場合もありえる。
日本の青年は、ドイツ、フランス、スウェーデンに比べると統計的に有意に高い値を示したが、韓国、アメリカとのあいだには有意な差は見られず、逆にイギリスからみると有意に低いという結果が得られた。つまり、自己有用感について、日本の青年は他国の青年に比べて著しく低いとは言えず、アメリカや韓国の青年とほぼ同程度であり、イギリスの青年と比べると、日本の青年のほうが自己有用感が高いことがわかる。したがって、自己有用感という視点から自尊感情をとらえるなら、必ずしも日本の青年は、自尊感情が低いとは言えない。
今回の調査で日本の青年の「自分への満足感」は、他国と比べ際立って低い値であり、日本の青年が自分に対する満足感が非常に低いことが示された。しかし、その一方で、同様に自尊感情を測定している自己有用感では、ほぼ中間に位置し、他国の青年に比べ、特段低い値ではなかった。
こうした結果から改めて、「自分への満足感」について考察を加えるなら、次のようにとらえ直すこともできるのではないだろうか。すなわち、「日本の青年は『自分への満足感』は低いが、それは自己有用感との関連で考えられた上での結果である。それに対してアメリカ・イギリスの青年の「自分への満足感」は非常に高いが、それは自分が役に立つ存在であるといった自己有用感とは別次元で考えられた結果である」と。つまり、日本の青年の満足感の低さは、自己の有用性に関する判断と関連した上での自己評価であり、他国の青年とは異なる基準でとらえられた結果である可能性が考えられるのである。
以上のことから、今回の調査で他国の青年との比較で明らかになった日本の青年の自尊感情の特徴とは、長所や主張性といった個人の特性と関連しながらも、他者にとって自分は役立つ存在であるかという有用性と分かち難く結びついたものであるという点で、他国の青年にみられない特徴をもつものであったといえるだろう。このようにとらえるなら、日本の青年のみならず、それぞれの国において固有の青年の自尊感情のあり方というのが存在するのかもしれない。したがって、「自分への満足感」、あるいは自尊感情というものは単純に高い低いという視点から評価するだけでなく、どのような構造(関連性)をもったものであるのかという視点からもとらえる必要があると考えられる。
日本の若者は単に「幸せ」とか「満足」と定義するものが少し他国と違うのかもしれない。
個人的印象では「自分に満足」は結構ハードルが高いけど、英語の satisfied with はそこまで強い意味でもないように思う。
もちろん、日本の若者だけが本当に極端に不幸であるという可能性もある。いずれにしても、単におおまかな数値を比較して不幸だというより、こういった違いを踏まえて考えたほうがより的確な施策につながるのではないか、と思う。
はてなブックマーク - 思いつきで作った段ボール製ベッドを自治体に売り込んだ|たちこぎライダー|note
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/tegami/n/na21f05557f97
・ある人が災害用に新しい組み立て方をするダンボール製簡易ベッドを思いつき、その製品を発注し、自治体と契約するまでの話をネットに書いた。
・プロジェクトが成功するまでの話が淡々と書かれていて非常に面白い読み物になっていた。
・ブコメでも、「すごい」「ほしい」「いいアイデア」「特許を」などなど発想と行動力を称える賞賛コメントが多々あった。
・しかしテレビで以前に災害現場でのダンボールベッドを見たことがあった自分は、疑問をもった。
・それは単に災害と関係ないダンボール製ベッドの値段の話ではないのか?
・「ダンボール ベッド」で検索するとすぐに出てくる「暖段はこベッド」というものがある。組み立て方は違うが、避難所での活用を見据えてダンボール製造会社が開発した製品だ。
http://jpacks.co.jp/archives/category/bed
・災害用で一般には市販されていないようだが、検索結果からは過去にネット販売された痕跡がある。その時の値段は確かに1万円以上していた。
【楽天市場】ロゴスコーポレーション ロゴスコーポレーション LLL 暖段はこベッド 82100467 | 価格比較 - 商品価格ナビ
・しかし被災したときの自治体との契約では原価に近い、1つ2900円で届けることにしているそうだ。
http://ameblo.jp/mizutanijpacks/entry-11245294201.html
・例の記事では、「自治体に営業をかけたが断られた」「他にも営業をかけている業者がいる」とも書かれていたというのは、暖段はこベッドが既に130以上の自治体と契約しているのでそのせいもあったのでは。
http://jpacks.co.jp/agreements
・Jパックスの暖段はこベッドは、業界団体に設計図を無償公表して、普及を促している。
http://jpacks.co.jp/archives/471
・暖段はこベッドと、例の記事のダンボールベッドとの価格差はない。暖段はこベッドはオープンソースでどのダンボール業者でも製造できる。
・暖段はこベッドは部品点数も多く、組み立てにも確かに時間かかりそう。しかし部品1点1点が小さい、普通の箱と変わらないので持ち運びや製造は楽そう。強度もありそう。指摘されていたガムテープが必要というデメリットは既に克服されている。
https://www.youtube.com/watch?v=P4ZEPEOBD2o
追記:
元の記事を読んで、既存製品が1万円だったのを3千円にした、という点が新規製品の最大のアピールポイントだと考えていた自分は、実際は同等の価格の既存製品が普及していると知り、新規製品の何が優れた点であるか分からなくなったということです。そして分からない点が置かれたままブコメが伸び続けていた点が気になったというだけです。まあ、最後に付け足したように、よく検討してみれば新規製品は、部品が少ない・材料費も少なくなって既存製品の価格は円安インフレ前なので現在では価格差あるかも、組み立てが早いらしい、ガムテープがいらない、ベッドと地面に広い空間ができるので湿気でダンボールが傷まなそう、見た目がいい(避難生活では重要)、などいろいろな長所が思い浮かびます。既存製品の長所を考えると、強度がある(11人乗っても大丈夫)、箱を重ねているだけなので部品の種類が少ない、その分輸送や製造が楽そう、かつてガムテープを使っていた短所は今では克服、箱なのでベッドの下に避難者が物をしまえそう、ベッドが余ったら支援物資の仕分けなどに活用できそう、など思い浮かびます。自分が被災者、職員だったらどっちがいいのか。新規品は土台のバッテンの空間部分の強度が気になるあの部分に何度も腰掛けたらすぐに壊れてしまうんじゃ。避難所の子供がベッドの上で複数遊ほうとしたら潰れるんじゃないか。既存製品はその点頑丈そうだ。いや、湿気がたまらない分清潔で避難所での要介護者には適しているかも。既存製品のダンボール箱感よりは、よりベッドらしい見た目の新規製品の方が避難所を明るくさせる。だが新規製品はバラしたら使い道はない。既存製品は箱としていろいろ利用できる。いや、それでも新規製品のほうが……。などと検討する意見をブコメで見たかったという話です。
「ベイマックス」の原題はBig Hero 6で、日本の感動主導のPRには問題がある!という意見を見る。
しかし、マーベル・コミックスに馴染みのないナイーブな日本人には限界のPR方法なのだ。
ディズニーの施したローカライズは実に巧妙で、とても良く考えられている。
大量の批判があるのを承知のうえであえて単純に言えば、マーベルヒーローは近親者の死がヒーローを生む構造が多い。
その為、Big Hero 6というヒーローモノを観に行って近親者が死んでも、米国ではそういうものとして受け止められる。
スーパー戦隊シリーズ好きやプリキュア好きの親子で観に行こう!とヒーローを全面に押し出して、
映画館に親子でやってきて、仲の良い兄弟のアニキがハッキリと死ぬシーンを描かれて、後半ついていけるだろうか。
未だに、鳥人戦隊ジェットマンの衝撃が語られるように、基本的に日本では人の死はとてもナイーブに受け止められる。
……まあ、世界に冠たるディズニーが、となりのトトロを観に来た母娘が火垂るの墓を観て茫然自失となったエピソードを知らないはずも無かろう。
映画全体として、兄タダシの死を乗り越え成長する弟ヒロの姿が描かれているので、
CMを観て感動モノかなと思って観に行った人は十分満足して帰宅できるレベルにある。
が、それだけでは無い。
主人公である14歳の天才少年ヒロは、兄タダシの友人達と共に、兄の死に関係がある犯人を捕まえようとヒーローにバージョンアップする。
勢いのあるカーチェイス、迫力のある戦闘シーン、そして過激な女性も可憐な女性も、それぞれの長所を活かして活躍する。
だから、戦隊好きは勿論、プリキュアが好きな女の子にもオススメできる映画なので映画館に行こう!
軽くネタバレすると、ヒロとタダシという兄弟の両親は、ヒロが3歳の時に亡くなっている。
今は、キャスおばさん(叔母か伯母かは不明)に引き取られて生活している。
当然、兄のタダシが死んでしまって、弟のヒロは、ショックを受ける。
劇中、キャスおばさんは、ヒロの前では一度も悲しい顔を見せない。
他の人物もそうだ。
人のつながりがそこには間違いなくある。
アナと雪の女王で有名になったが、ディズニーは単純な和訳を行って吹き替え版を作成したりしない。
劇中に出てくるパーソナル・ヘルスケア・コンパニオンであるベイマックスというロボットは、
米国版では、「I cannot deactivate until you say, You are satisfied with your care.」と言う。
日本版では、「『もう大丈夫だよ』と言ってくれないと離れられません」と言う。
他にも細かいセリフのニュアンスが違っているが日本版は「タダシの死を乗り越える」部分に焦点が当てられている。
「I'm satisfied with my care.」というセリフと
その為、ロボット工学者についてのみ、字幕版での鑑賞をオススメする。
ベイマックスは、「I cannot be sick. I am a robot.」という様に、徹頭徹尾ロボットとして描かれる。
ロボットが自分のことを人間だと考えたり、自らの存在意義に悩んだりはしない。
ベイマックスは、最初から最期まで、ヒロのパーソナル・ヘルスケア・コンパニオンとしての使命を全うしようとする。
ロボットをロボットとして描き、人間とは異なる存在として描きながらも尚、人間との触れ合いを描く。
心の痛みへの対処法すら学んでみせたロボットの「Your health is my only concern.」というセリフや
「Are you satisfied with your care?」と言うセリフには、限りないロボットへの愛情が込められている。
治療法の詰まったディスケットにTadashi Hamadaと書かれている事の意味を、重く受け止められるだろう。
自分の研究室をWelcome to the nerd lab.と言えるロボット工学者は、映画館に行こう!
全方位隙無く万人にオススメできる映画ベイマックスは、是非映画館で観よう!
字幕版を観た人は吹き替え版を、吹き替え版を観た人は字幕版も観に行こう!
一応お伝えしておくと、現在ペットロスで療養中の人にはオススメできない。
今さらですがディズニーの『ベイマックス』を見てきましたよ。ええ。
CMや予告編を観たときは「まぁ、ディズニーの子ども向け映画だわな。退屈はしないけど飛び抜けた部分はない75点の答案だわ」と思っていたんですよ。作品で言うと『ライオンキング2』みたいな。
それが妙に評判良いんで見に行ったらズッコケました。限りなく100点に近い答案なんです。
しかも、表現として尖った部分が何もない。驚異的な映像が詰め込まれているわけでも、作家の狂気があるわけでもないし、アッと驚くストーリーテリングもない。なのに、頭からお尻までワクワクする映像が続くんです。
そう感じました。だって、スタッフの中には天才って一人もいないと思うんですよ。秀才の集団。それが勉強に勉強を重ねて、頭に汗をかいて、切磋琢磨して物凄いものを作ってしまった。彼らは「チーム主義」でモノ作りをしている。だって、スタッフロールに脚本家が20人もいるんですよ。
それに比べて、日本は「作家主義」で作っているんですね。宮﨑駿や庵野秀明、細田守をカリスマと崇め立てて、彼らの手足になるようなスタッフを配置して、彼らのイマジネーションを忠実に再現していく。
それがクリエイティブの正解だって、みんな思っていました。作家主義じゃなきゃ尖った映画なんてできない。民主主義的にモノ作りしたって、誰にも刺さらない凡庸な作品が出来上がってしまう。
ちょっと前までのディズニー映画ってそうでした。刺激の何もない砂糖菓子のような、甘っちょろい子ども向けの映画。無難で、可も不可もなくて、つまらなくはないんだけど、心に何も残らない映画。うるさい日曜日のガキを数時間黙らせて、疲れた親御さんがぐっすり眠るような、そんな映画。夕食までの時間を埋めるだけのデートムービー。
チーム主義なんてくだらない。作家主義じゃないとすごい作品はできない。『崖の上のポニョ』や『かぐや姫の物語』、『ほしのこえ』のような刺激的で面白い映画は、ディズニーは未来永劫に渡って作ることはできない。誰にも邪魔させず天才作家の想像力を最大限に発揮させることが、良い作品を生む出す唯一のプロセスなんだ。
それがすっかり覆されてしまっていた。彼らはチーム主義で「どうやったら面白いか」をみんなで必死に考え、ダメな部分を補強していく。日本は作家主義なので、監督の長所を反映した尖った表現をやるけども、短所も露骨に作品に出してしまう。ディズニーはチーム全員で短所を埋める方法を見つけてしまった。作品の長所も潰すことなく。
もう完全に終わったな、と痛感しました。ジブリ映画の脚本がイマイチなことの、もう言い訳しようがない。ストーリーテリングを切り捨てたからこの躍動感があるんだ、なんて言えない。少なくとも今あるアニメーション会社のすべては、ここまでの仕事はできないでしょう。一人の天才に寄りかかった表現を続けている限り、日本は終わりです。作品の短所をチーム主義で補える体制を作らないといけません。でも、すっかり組織ができあがった今の状態では無理でしょう。
「それはおかしい」と思う人は教えてください。日本のアニメーションがなぜ世界市場に打って出れないのかを。私は作家主義が監督の短所を作品に反映させてしまうからだと思います。あなたはどう思いますか。
■その1。
久しぶりに会った友達から、『ツグナヒ』を猛烈に薦められた。「最強の妹ゲーっすよ!」と言われたんだけど、筆者はひねくれているので、同じメーカーの『Treating2U』をプレイしてみることにしました。まあ、巷の評価がかなり二分しているゲームだったので、結構、気になっていたのもあるんですが。
……まず、プレイしていて気になったのは、ストーリー重視型のゲームが陥りやすい罠なんだけども、ほのぼのとした雰囲気、ハートフルな人情ものを志向するあまりに、美しい描写にこだわりすぎて、物語の勢いが一本調子になってしまっていることだ。テンポの良い会話のおかげで、キャラクターの個性は際立っているのだけど、骨格となるストーリーが相対的に弱く、物語のバランスを崩してしまった。会話が上手く流れている時は気にならないのだが、会話の回転が狂うと、途端に物語は停滞してしまう。
しかも、この作品の場合は、その停滞が主に、Hシーンで起こっているのだ。物語の方向性として、杏菜シナリオを除けば、女の子が心をさらけ出し、伊之助がそれを受け容れる構図になっているのだが、心のキャッチボールが表層だけで流れてしまっているところもあった。キャッチボールには、力任せに投げる速球もあるだろうし、わざとコースを外して投げることだってある。けれども、会話の回転が狂うことを避けようとしたのか、Hシーンでも、他のシーンと同じように、ボールを投げてしまっている感じがした。Hシーンを物語の転回点として位置づけるならば、女の子たちは伊之助に向かって、あえてビーンボールを投げるべきだったし、伊之助もそれを望むべきだったろう。Hシーンに限って言えば、伊之助はもっとお節介であっても、良かったのかも……。
しかし、登場人物たちとの交流や恋愛描写に関しては、非常に上手い部類に属すると思う。この作品を評価している人は、おそらく、この部分が特化されていることを評価しているのだろう。だけども、転回点で互いの深層にもっと踏み込んでいたら、最後の[Treating2U]は、更に効果的になったと思うのだ。はじけるような笑顔の向こう側を見たいよ……某人気ドラマの主題歌じゃないけども、良い歌には、物語を凝縮して、感情を呼び起こす力があるのだから、思い切って、もっと歌の力に頼ってしまうのも、一つのやり方だったかも知れない。
あと、ゲームとしての自由度が低いのも気になった。これは、伊之助のキャラクターイメージが際立っていることの弊害だと思う。ストーリーに没入するためには、プレイヤーが【堤 伊之助】を演じるという段階を踏まなければならないし、まあ、それ自体はいいとしても、その敷居は若干高いような気がした。媒介となる選択肢で方向性が似たものが多く、プレイヤーがストーリーに介入できる場所も少ない。それが、キャラクターの幅を、良くも悪くも制限してしまっているし、個人的なことを言えば、ストーリーは楽しかったけど、伊之助の生活を俯瞰的に観ている感じは拭えなかった。
■その2。
この点については、最初からノベルとして割り切ってしまえば、問題はなかったと思う。しかし、このゲームは、基本的にAVGのシステムで作られているので、その辺の違和感が最後まで気になってしまった。
全体としては、ストレートな物語を志向しているはずなのに、細部でボタンの掛け違いが起きているので、一つの作品として考えると、どうもバランスが良くない。この辺が、評価が二分している理由なんだと思う。
冒頭から苦言ばかり書いてしまったけれど、長所と短所の差が極端だということは、当然、長所もズバ抜けている。ただ、その長所が分かりづらいという欠点があった。どちらかと言えば、[泣き]系のゲームでありながら、それを売りにしなかったというのは、個人的には好感を持ったけど、広告や紹介記事を見て、作品コンセプトが絞れてないな、と思ったのも確かだった。
また、[エロゲーの主人公]に関しては、以前、『夜勤病棟』をレビューした際にも触れたのだが、伊之助のキャラクターが、女の子たちの存在を霞ませる程に強烈だったのは、鬼畜系ではない、この作品ではマイナスに働いてしまった気もする。
また、伊之助はニヒリズムとは無縁のキャラクターだ。これも、最近のエロゲーでは異色と言えるだろう。しかし、そんな伊之助にも、ニヒリズムの影が忍び寄るシナリオがある。
先に書いた通り、杏菜シナリオは、他のシナリオとは異なる構造を持っている。受け容れる存在としての伊之助は、このシナリオでは病気のために成立せず、杏菜にその役割を肩代わりさせる。そして、霞夜シナリオでの主題がそのまま反転して、伊之助に選択を強いるのだ。
霞夜シナリオを先にプレイした場合、この選択肢に直面することで、今度は生きることを強要される側の苦しみを味わうことになる。そして、ニヒリズムを持たない伊之助の格好良さ=完璧さも、無自覚なナルシズムの上に成り立っていて、一歩間違えれば、愛シナリオでの志摩先生と同じ過ちを犯しかねない、不安定な人間であることを悟るのだ。
その選択肢から分岐する伊之助シナリオは、己の美学を優先した結果、杏菜を伊之助の幻影に縛り付ける結末となる。伊之助に拒絶された杏菜は、受け容れる存在としての役割を全うできず、それゆえに、伊之助を理解することが出来ない。
看護婦としての職業意識で、心の眼鏡を曇らせ、ロマンティックな美学に殉じようとする伊之助を、曇った眼鏡を通して傍観することで、達成されない役割を続けていた杏菜は、伊之助シナリオの最後で、既に舞台から消えた伊之助に、幸せだったか、と問う。だが、己の美学に殉じることができた伊之助は幸せだったはずであり、そういう意味では、バッドエンドではないが……。
しかし、諦観と怨嗟が交錯した、杏菜の問いが、既に消えてしまった伊之助=プレイヤー自身に向けられることで、もう一つの選択肢である、杏菜シナリオでのエンディングが、強い印象を持ったのは確かだろう。
[生を肯定すること]をテーマに据え、病院を舞台に選んだのは、正しいと思う。だけども、同時に死も肯定しなければ、生も浮かび上がってこないような気がする……。また、杏菜&伊之助シナリオ以外では、死の予兆はあるが、全体的に、死は隠蔽されている傾向が強い。このことが、一本調子という印象を感じた、大きな原因になっている。
総合的な感想としては、全体的に素質は高いが、細かい駆け引きでの、経験不足は否めない。しかし、長所を殺さず、短所を克服できれば、次回作以降、大きく伸びる可能性を感じた作品だったのも確かだ。
■忍び寄る総括。
個人的意見。えっ、紅葉とラブラブにはなれんのですか? そうですか……がく。このゲーム、脇役な方々がいい味出しているんだけども、後半の分岐後は、影が薄くなってしまうのが残念かも。もっとも、舞台の病院から次々と消えていく寂しさは、祭りの終わりを感じさせて、それはそれでいい感じなんだけど。という訳で、今回は珍しくゲームレビューしてたような気が。ダメですか……そうですか。でもって、今回は連載一周年なのでした。
昨日、高校の友人と忘年会をしてきた。そこで、薄々気づいたことが改めてすごいと思った魔法使いの友人を紹介したいと思う。
年齢:33歳
身長:165cm
体重:58kg
髪型:黒髪、中途半端な長さ、セットをしているところを一度も見たことがない
年収:400万円
貯金:500万円以上(口座を見たことがなく正確な数字がわからない)
服装:どこで購入しているかのわからないような変わった服を着ている。中学生のような服装
靴:ダンロップ的な感じ
彼の凄いところはたくさんあるのだが、まず、33歳現在一度も彼女ができたことがない。いわゆる魔法使いという職業に分類されると思う。
しかし、厳密には素人魔法使いであり、お店のお姉さんとセクロスをしたことはあるらしい。
このお店のお姉さんというもが曲者で、この魔法使いから金を巻き上げやがった。
本人は納得しているし今では完全なネタ扱いなのだが、周りから見れば信じられない。
単純に計算をしたことがあるが、セクロス1発100万円ぐらい。これがモデルのようなお姉さんなら納得できるのだが、とんでもなく不細工なギャルであった・・・
だから、周囲の人間は誰も納得できていないというか理解ができないと全員が申している。
彼女ができたことがないピュアピュアな彼なので、親が入院してその費用が払えないというのを真剣に信じ、数百万円払ったという強者だ。
そんな事件があったので、彼は今はお小遣い制で給料の管理は親がしているために、貯金額の数字が不明らしい。
クレジットも、キャッシュカードも持たず常に現金のみという姿勢はありだと思うが、親に言わないとお金がないという自体を、彼本人はどう思っているのだろうか?
で、現在の問題なのだがまたしてもお店のお姉さんにハマっている。今度は、しゃべりのテクニックが得意なお姉さんで見た目も綺麗な感じだが、確実に腹黒女だ。
その女の元には、かれこれ4年ほど通っているのだが、現在は週に1回お店にいっている。だいたい、月に6万円、年間で諸々含めても100万円以下だと思うので、個人的には本人がそれで満足しているのであれば、それはそれでいいんじゃないか?とは思うが、真面目に結婚したいと言っているので、どうすれば諦めされることをできるだろうか?
婚活イベントに誘おうとしたが、仕事が忙しくていけないと断られたし、第一彼は初対面の女性とは確実に会話できないことが明白だ。お店でのやりとりを見てても、彼からネタをふったり話題を盛り上げる投入はなく、常に女の子語が必死に話しをしているようだった。
昨日の忘年会で他のやつの意見はとりあえず、お店に行く時ぐらいは小奇麗な格好をしていけ、靴、時計を買えとアドバイスをしたが確実に本人は買う必要性がない様子だった。
ピュアピュアだから会いにいくことが愛情表現であり、お店に来てと言われたら行くのが正しい行動だと思っているようだ。
こんな彼はどうしたら、腹黒女を諦め素人の女性とお付き合いができるのだろうか?
俺は一度、「貯金全額積んで、告白してこい」と極端なアドバイスをしたが全く受け入れてはもらえなかった。
たぶんなのだが、現状の距離感でそれなりに満足しているので、これ以上一歩前に進まなくても良いと思っているではないか?と個人的には思っている。
彼の長所
・優しい
・ブランド品などに興味が全くない
・浮気しない(できない)
・動物が好き
・スポーツは人並みにできる
・金遣いは荒くない
恋人として見ると欠点は多いが、結婚相手ととして見れば悪いスペックではないと思う。
●追記
コメントありがとうございます。俺は本人とは違った問題がある人間ですが、俺あんたみたいな人好きだぜのコメントには不覚にも笑ってしまいました。本人は、はてな、ツイッター、facebook、LINE、なにそれ美味しいの?レベルで超アナログ人間でたぶんパソコンの電源の入れ方もわからない人間です。
確かにトラックバックを頂いた通りでバカなのは間違いない。現に飲み会のメンバー1人に「バカ」の一言でバッサリ切られていた。
ピュアで通用するのはせいぜい20歳ぐらいまでで、それを通り越すと色んな意味で社会経験が足りない大人だと思う。金遣いが逆に粗いという指摘も確かに正しく、価値観がずれているのかもしれない。本人は自己投資だと思っているが、間違いなく掛け捨ての金で一切リターンはない。今でも問題なのはその数百万円という金を本人が納得している点なのかもしれないな。だから、現状を打破したいという気持ちもなく、何も変わらないまま生きているのかも。
俺が危惧しているのはこのままだと間違いなく35歳、40歳と進んでいくことだ。
通常友人からの紹介などがあるが、誰一人彼に女性を紹介したくないと口を揃えて言っている。紹介するこちら側の責任もあるから、安易に紹介はできないし(特に会話が続かない点)、数回お見合いに似たようなことをしたらしいのだが、当然上手く行っていなく連絡を続けている相手がいないのも納得だ。
女性は話しを聞いて欲しいだけという欲求があるコメントを頂いたが、一方的な話しでも基本のキャッチボールができないから、さすがに話し好きな相手でもちょっとしんどいのではないか?と思っている。
俺は、最初に風俗もキャバも一緒に連れていってしまった責任があるので、会う度になんとかしてやりたいと思うのだが、本人がこうしたい成りたいという欲望が見えて来ず、事あるごとに今好きな女性と結婚するのが目標と言って話は終了する。
このまま放置プレイで良いのか?俺に何かできることはないのか?
予め断っておくが、正しいからと言って面白いとは限らない。「科学的には正しいけど面白くない話」は「科学的に正しくなくて面白くもない話」と大差ない。
共振器で光を励起させ、指向性を揃えて撃ち出したものがレーザーである。レーザーの実体は「光」そのもので、この点で実体弾ともビームとも大きく異なる。当然光であるから、レーザー兵器は弾道が伸びる様子は見えず、基本的に撃った瞬間着弾する。※1 従って「弾道の伸びが見える時点で、その兵器はもうレーザー兵器ではない」という考え方は、概ね正しいと言える。この前提を踏まえると、現存するゲーム、マンガ、アニメ等で「レーザー」と呼ばれている物のうち、いくつかは、あるいはほとんどは、実はレーザー兵器ではないという事になる。SDI計画がミサイル迎撃にレーザーを使おうとした理由もスピードにある。トップスピードで移動しているミサイルに対して、後から撃って高い確率で命中させられる兵器は、究極の弾速を持ったレーザー兵器しかなかった、ということだ。
レーザーは発射に際し反動がないのも特徴である。※2 これにより「射撃に際して反動があるようならそれはレーザー兵器ではない」という言い方もできる。また銃身が不要なのも特徴の一つである。レーザー兵器が発するのは光であり、飛翔体を飛ばすわけではないので、銃身は必要ない。CD/DVDプレイヤーのピックアップレンズのような形状が、レーザー兵器の基本的形状である。
レーザー兵器には実弾兵器では得られない様々な利点があるので、ビーム兵器のような「そもそも何のために作られたのかよく分からない」兵器とは異なり、実弾兵器と共存していても何ら不思議はない。また、レーザー発振器は非常に巨大でかなりの電力を食うが、ビームを撃つために必要な粒子加速器に比べればまだマシなレベルなので、単体での存在確率もビーム兵器よりはだいぶ高い。
弱点について考えた場合、例えばレーザーは光なので、鏡面コーティングによって拡散し、減衰する、という点がある。とはいえ、ただ単に「鏡を貼ればレーザーは無効」というところまでは行かない。励起されレーザーとなった光のエネルギーはそんなに生易しい物ではない。より大きな弱点と言えるのはやはり減衰率だろう。レーザーは空気中では直進せず、また距離によって減衰する。従って、レーザー兵器が完全のポテンシャルを発揮するのは、基本的に真空状態の時だけである。
ビームとは、加速され、一定方向に指向性を持った粒子の事である。つまり「ビーム」というのは固有名詞ではなく、単なるジャンル名に過ぎない。例えるなら、レーザーは「自動車」ぐらい具体的だが、ビームは「乗り物」くらい曖昧である。しかし現実として「ビーム」はなぜか固有名詞と扱われている。そうなった原因は言うまでもなくガンダムにある。
加速した粒子の集合体を対象にぶつけよう、という発想がビーム兵器の発想だが、粒子加速するためには巨大な粒子加速器と巨大な電力が必要であり、コストは絶望的である。現時点においては、粒子加速器は広大な敷地に建築物として作成するしかない。将来的にどうなるかは曖昧だが、単に対象を破壊するなら、同じエネルギーを使って別の手段を講じた方がまだマシという可能性は高い。
またシステムの複雑性とコストの問題を無視しても、ビーム兵器には威力、弾速などがレーザー兵器や実体兵器に比べて強力であるという根拠がないという、存在意義そのものに関わる問題点が残る。レーザー兵器はその速度から明らかに独自の用途があり得るが、ビーム兵器はそもそも何のために作られるのか、という部分が既に怪しい。そのためビーム兵器をフィクションの中に登場させたとしても、実弾兵器と共存する理由を持たせる事すらできない場合が往々にしてある(色々な話がこの部分で苦しんでいるのをよく見かける)。
手持ちの銃から「ビーム」が出るというのはかなり突飛な発想であり、ガンダムの持っている「ビームライフル」は、過去から現在に至るまで、誤ったビーム解釈の象徴としての立場を維持し続けている。撃っていると途中で「エネルギーが切れる」など、バッテリーで撃っているような描写が見られるため、あれは結局レーザーライフル的な発想だったと思われるが、撃ち出される「何か」の速度は非常に遅く、また射撃に際して大きな反動がある。そのためあれは、「実弾」でも「ビーム」でも「レーザー」でもない、何か全く別の兵器と考えるしかない。銃自体の形状にも謎は多い。ビーム兵器もレーザー兵器同様銃身は不要である。仮に銃身を付与したとすれば、発射時に通過するビームによって破壊される(ちなみにガンダムのビームライフルは銃身内にライフリングまである)。語感でつい「ビーム」と命名してしまっただけで、実際はただの実弾兵器が何となく光っているだけなのだ、と考えるのが一番辻褄は合う。
ビーム仲間のビームサーベルはさらに状況が深刻である。理由は言うまでもないだろう。
なお、現実に照らし合わせた考証を全てぶち壊すために生まれた概念がガンダムで言うミノフスキー粒子であるが、それを言い始めると考える意味がなくなるので、ここでは無視する。
ショットガンは非常に単純な発射システムおよび弾体を持っている。具体的に言えば、通常の銃と異なりライフリングがなく、銃身はほとんど「散弾に指向性を与える」ためだけに存在している。拡散性は銃口先端の形状に依存しており、この構造をチョーク(絞り)と呼称する。銃口が小さく絞られている方が、より狭い範囲に密集して飛ぶ。
拡散性や軌道、散弾が実際に何発出るか、といったようなことについて、基準となるようなラインはない。例えば鳥を撃つような、数百発もの散弾が入ったシェルを始め、ごく狭い範囲を効果的に狙う六粒弾や九粒弾、さらには一粒弾(スラグ)というものまである。
なぜわざわざショットガンで単発の弾を撃つのか、という点については、単に「そうそう何丁も銃を持ち歩けない」という非常に現実的な理由による。ゲームのように何丁も銃を持ち歩き、用途に合わせて使い分ける、などという真似はできないので、ショットガン一丁で色々撃って使いまわそう、ということだ。ライフルドスラグの存在はショットガンの特性を顕著に表している。つまり、ショットガンは実は単なるランチャーに近いという事である。ショットガンは「散弾銃」と訳されるが、役割から考えれば必ずしもそうとばかりは言えないのである。一丁で散弾もライフル弾も榴弾も撃てるような、そういう潰しが利く「ショットガン」こそが、真に優れたショットガンである、とすら言える。
ガンダムには「ビームショットガン」というものがある。バーチャロンのアファームドも同名の武器を装備していた。現実のショットガンは、シェル底部の火薬の爆発によって散弾に推進力を与えて放出する。しかしこれが「ビーム」だった場合、そもそもショットガンのショットシェルにあたるものが何なのか分からない。普通に考えれば、「ビーム」を拡散して発射しようとするなら、発射する方向のぶんだけ別々に発射口を用意するしかない。謎が謎を呼ぶばかりである。
ある飛翔体を、火薬とその爆発力ではなく、電力とローレンツ力で発射するのがレールガンである。つまりレールガンがやっている事は、根本的に言えば火薬式の銃と何も変わらない。だから、ビームガンのような怪しい物とは異なり、火薬による射撃武器の正当進化形として使用される可能性がないとは言えない。コストも悪くない。もっとも度を越した小型化(「このハンドガンはレールガンです」というような)はギャグでしかないが。
レールガンは理論上電力を上げれば上げるほど高速な弾が撃ち出す事ができ、その限界値はおそらく火薬で飛翔体を飛ばすよりもだいぶ高い(銃身の耐久性の方が先に限界に達するので、無限の速度が得られるわけではないが)。なお、なぜレールに電気を流すと物が飛ぶのか、という説明については長くなるので、この文書では省略する。
「バズーカ」という名称は「ビーム」と似たような立場にある。現状、「この手の武器」はジャンル名として一般的に全て「バズーカ」と呼称される傾向になっているが、これは誤用であり、バズーカという固有名詞は本来米軍のあの「バズーカ」しか指さない。代表的な歩兵用携帯対戦車兵器には、パンツァーファウスト、カールグスタフ、RPG(Rocket Propelled Grenade)等があり、しかもこれらは、ロケット弾発射装置だったり、無反動砲だったりと、構造にも統一性がない(この2者の違いは現物を見ればすぐ分かる)。これらを総称で呼ぶなら、それは「バズーカ」ではなく、やはり「歩兵用携帯対戦車兵器」以外にはない。
端的に言えば兵器としての描写が正しいかどうかに関わらず「バズーカ」と呼んでしまった時点で1手ミスということである。ガンダムでは何とかバズーカが色々出てくるし、バーチャロンのライデンも「バズーカ」という名前の武器を持っているが、これらは典型的なパターンと言える。
名称の問題を置いておいたとしても、まだ問題は残る。まず無反動砲の場合、これらの兵器は基本的に一本で一発しか撃てない。ハンドガンやアサルトライフルのように、一発撃ったら自動で次弾が装填されるという事はないし、現場での再装填すら困難である。この理由は、歩兵が携帯するので体積的に余裕がない、というのはもちろんだが、最大の理由は、これらの兵器が無反動構造を持っている、という点にある。無反動砲がなぜあの形状なのかと言えば、前方に飛翔体を発射すると同時に、後方にも同じ運動量を発生させ、見かけ上の反動をゼロにするからである。歩兵用の無反動砲には必ずこの構造が備わっている。※3 従って、再装填なく砲弾を連射していたり、あるいは発射に際して大きな反動が見られる場合、それはかなり正体不明な兵器ということになる。
また、これらの兵器については、成形炸薬の「指向性を持った爆発エネルギー」で敵装甲を貫通する構造であり、そもそも運動エネルギー兵器ではない、という点にも留意すべきである。つまりこれらの兵器の弾体は高速飛行する必要がない。元々速度で貫通する気はないので、弾はとにかく当たりさえすればよく、後はどれくらい火薬が積めるかの勝負となっている。この性質を長所とすべく、これらの兵器の一部では火薬の爆発による推進機構ではなく、弾体自体が推進能力を持つという、いわゆる「ロケット弾」構造を採用している。この構造により、弾体は弾丸ではなく爆薬に近くなり、弾体の発射速度は著しく遅くなって、さらに無反動性が高まる結果となっている。つまり、ロケット弾であるにも関わらず、発射と同時に弾体がライフル弾か何かのように一直線に目標に向かって飛んでいくようなら、それは何か間違っている、という事になる。
ちなみに似たような間違いとして、戦闘機のミサイル描写がある。戦闘機のミサイルは羽から切り離されたあと空中で点火して自力推進を始めるのだが、一部の作品では羽に付いている段階のミサイルがいきなり火を噴き始める。あれではミサイルを撃つたびに羽にダメージを受けてしまう。
※1 有視界距離を想定した話。光も無限の速度を持っているわけではないので(約30万km/sec)、異常に距離が遠ければ遅延は発生する。
※2 非常に微弱なだけで厳密には反動ゼロではない。しかしいずれにせよ火薬武器とは比較にならないレベル。
※3 一般的な無反動砲では平衝体を用いず、発射ガスを後方に排気することで無反動構造を実現している。しかし、この構造では至近距離で排気炎が発生することになり、車両ならともかく、歩兵用の携帯火器では深刻な弱点となる(射手や味方が排気炎に巻き込まれてしまう)。このため、歩兵用の無反動砲では、発射ガスを後方に放出せず、平衝体を用いて相殺を行っている。
※間違ってるところがあれば教えて下さい。超能力で。
たまに考えるんだけど、もし自分がもう一人居たら、どうなるのかな。
長所も短所も同じな人間だったら、まったく合わなくて反発し合う?磁石みたいに。
もしそれが同性ではなく男と女だったら?
多分、神経質過ぎるし、人の気持ちをさぐるようなところがイラつくかもしれない。
きっと、異性として惹かれるなんてことは、無いな。人間がくっつくのは、お互いの足りないものを埋め合わせるためだからってどこかで聞いたことあるし。足りないものが同じだったら、埋め合わせることもできない。
だけど、ここまで書いて何だけど、まったく同じ人間なんて存在するわけがないな。
ちょっとずつ違うだろう。例えば、交通事故で怪我が残っているとか、片親が死んでるとか、影響していることも違うし。
双子がちょっとずつ違うのも同じかな。一卵性とか二卵性とか、よく分からないけど。
自分がもう一人居たら、多分愛することはできると思う。上手くは行かなくても、受け入れるというのかな。ただ、その関係性ってどこに落ち着くのかな。友達とか。
きっと興味本位で近づいてみる。もしかしたら、助け合えるかもしれないって思ったりして。でも、最初から分かってるのは、そんなのは絶対にうまくは行かないっていうことだ。俺を救ってくれるのは、俺自身。君じゃなくて。君はやっぱり他人だから、他人として出合ったら、また少し違うのかもしれない。
彼は弱さ、怠惰、嫉妬、その他のダメな部分こそが「人間の本当の姿」で、
だから私が頑張ろうとすると「そんな頑張らなくてもいいのに。僕は自然体の○○が好きだよ」と言ってきて、
私が落ち込んだり、腐ったり、ダメになっているとき、とても優しかった。
そして彼が上手くいったときに「頑張ったね!やったね!」と言っても彼は喜ばず、
彼がダメになっているとき、私に彼を肯定することを強く求めてきた。
彼と付き合ううちに、私は体調も精神状態もじわじわと悪化していった。
仕事にも遊びにも意欲がなくなり、表情が乏しくなり、髪がボロボロになって、友達や同僚から「どうしたの?」と言われるようになった。
「この人と一生一緒に居ちゃいけない…」という本能から来るような強い危機感を覚えて、別れを決めた。
別れたいと言うと、「こんなに尽くしたのに、やっぱりまた捨てられるんだ」というようなことを言われ、
別れたあとも何度か電話がかかってきて、ずっととらずにいたらかかってこなくなった。
友達も元彼氏について「あんなにやさしい人だったのに」という調子で、突然振った私がなんとなく悪者な空気。
韓国人がウリナラは世界一と言うときも、関西人が関西最高と言うときも、野球ファンが野球文化はすばらしいというときも
同じく長所に同調せず、現状の欠点を指摘して水を差すというなら一つの態度として判ります。
リベラルの成果をアピールしないのもリベラルの自画自賛になるからって理解出来ますし。
日本という国は別に私は自分の作品とは思わないんですけど、自画自賛ってことは、日本を褒めてる人はそうじゃない
「自慢している」から嫌いという主旨でいいですか。
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→アニメでもエロゲじゃなくてもボイスはある。ただ、自分のペースでボイスをきけるのはメリット。
→アニメも早送りすれば自分のペースで見れる(テンポが変わることで制作者の意図が変わっちゃうおそれはあるが)。本は言わずもがな。
→アニメには負ける。本には引き分け。想像力にあえて任せるほうがいい場合もある。
→本には勝てる。アニメには引き分け。計算されつくしたBGMがアニメ。それはそれなりのよさがあるけど、結局一定のテンポを強いられることに対するめんどくささはある。エロゲは自分のペースで場面にあった曲を終始を聞ける。一部演出上の都合があったりもするけど。心地よい空気に浸ったままいられるのはエロゲの長所。
→エロゲに限らない。ただ、エロゲならではのテーマ性と組み合わせると化ける場合もある。
うーん・・・やっぱりエロゲならでは!!!っていう長所がなかなかないんだよな。
思考回路そのものより一言多いと言うか、余計なネガティブワード入れちゃうのがまずいんじゃね?
ってシンプルにまとめたらええだけの話でないの。
最初からそうできるよう努力する気もないのに「努力します」って言っちゃったらそれはウソになっちゃうけど、「成功できるように努力する」部分が言動共に事実であれば、結果はともかくとして増田は嘘つきとは呼ばれないよ。
自分が増田について直すべきと感じるのはここだけ(相手に不信を与えるような余計なネガティブワードを使わない)だったけどな。
出来もしないと分かっている事に嘘をつきたくないって誠実さ自体は、その動機がどうあれ増田の長所なんじゃねえの。
あともう一個お節介をするなら、自分で生きる分の金を稼げて人様の迷惑や法に触れることをしない(=意図的にしないよう努力している)なら、ダメだろうがクズだろうが向上心がなかろうが高い目標設定ができなかろうが予防線張りまくりの責任逃れ野郎だろうが、もう人間として上々だと思いますよ、自分はね。
そうやって開き直ることを「変わる」行動の一つとして考えたら、苦しかった頃と比べて随分生きるの楽になりましたよ。
電車内にて。「民意が…」を多用している人がいた。その人、曰く「民意は絶対」らしい。
ほんとにこういう人間がいるんだね。ネタじゃないんだね。びっくりしたよ。
曰く「民意は絶対だから権力の側は民意に基づいて動かなきゃいけないんだ」だって。
ほんとにこういう人がいてびっくりした。ネットの世界だけじゃなかったんだね。
そんな気がしたよ。こういう団塊の世代に影響を受ける馬鹿が増えそうで怖い。
そう、団塊世代らしき人だった。ほんとだよ。
だから、以前ほどの動きがみられないんじゃないの?
どんどん劣化してアメリカ並みの格差社会になっていきそうだよね、日本も。
そうそう岩城幸一が「サッカー日本代表は猿まね」云々と言って叩かれていたけど、
間違ってないよね。日本人の長所を生かそうとせずに、外国のまねばかりしているんだから、
日本代表に限らず、そんな馬鹿ばかりじゃないか。そういうのも込みでこんな発言したんじゃないの?
サッカー日本代表はスポンサー様だから逆らえないのか、マスコミは。
この国は、すでに東アジアの国々に近づいているんじゃないのかね。
そんな気がするよ。彼の国の価値観に。
婚活サイトの年収800万で妥協します、みたいな書き込みが叩かれてるのを目にする。
そりゃあ、結婚する相手の年収が高いに越したことはない訳だけど、
何をどうすれば自分がそんな高級取りと結婚できると思うのかを聞いてみたい。
本気で書いてないのかもしれないけど、冗談でもそんなことを言う気に自分はなれない。
人よりさして得意なこともないし、人から褒められるのも謙虚だということくらい。
この謙虚と言われる長所も誇ったところで、謙虚じゃなくなるから、実際のところ自分には自慢できるところもない。
卑屈になるな、と言われることもあるけど、これは適切な自己評価だと思う。
そして、そんな自己評価してる自分を誰か見つけてくれないかな、とか訳の分からない期待を抱いたりしてしまうことがある。
結局は同じ穴の狢ですね。
かわいいとかおしゃれは食べ物の長所じゃないんだよ。別ジャンルの話だったりする。
そこが女なんだよね。つまりよく言えばジャンルの壁がなくトータルでものを見ることができる。
ところが男は「食べ物」というジャンルに目が行っちゃったらそこに隣接している他のジャンルのことがあまり見えてこない。まったく見えないわけじゃないけど、重要度がかなり下のほうになっている。
牛丼屋とかラーメン屋にいる男の食い方って本当に汚い。ベチャベチャ、ジュルジュル、フゴフゴ。
個人差は多少あれども、「食い方」に関して言えば女の方が圧倒的にきれい。
これは男が「食う」という行為に集中してしまったとき、「食い方」という隣接しているジャンルが見えていないことに関係している。
だから男には教育が必要なんだよな。ほっとくとひどいことになってるから。女性はその辺、勝手に空気読んでそれなりにこなすからそこはそんなに手がかからない。
80年代になって、アニメの製作現場に女性が入るようになったら、登場人物の服や髪が一気におしゃれになったという時代もあったりする。
男は「アニメを製作する」というとき、そのことばかりに気をとられて、「登場人物が何を着てるか」とかそういう普通に重要な要素にさえ気が回ってなくて、それまでは記号としかいえないような適当なシャツとズボンとスカートだけ着ているキャラクターばっかりだったりする。
「なぜ、女性は牛丼屋に行かないのか?」という本に書いていたネタだが、
男性は「うまい」「安い」「量が多い」など、一つでも長所があれば、他は短所だらけでも、その店を評価する。
一方、女性は一項目でもマイナスポイントがあると、他がいくらプラスでも、全く店を評価しない
飲食店評価項目をレーダーチャート的に表示したら、男性はいびつな形のレーダーチャートでも気にしない。
・・・このロジックって、なんか異性評価でも当てはまる気がする。
しかし数多くの項目について欠点ゼロな男性は非常に少なく、だから女性は結婚できない
(その点、男性は、自分が好きなポイントをクリアしている女性なら、他の欠点には目をつぶる)
でも、その中身は、
「年収は平均以上、容姿は平均以上、体型はデブでも痩せでもなく、学歴は平均以上、家事能力は平均以上、性格は平均以上」てな感じになる。
上記で項目は6項目。つまりこの6条件を全て満たす男性は、2の6乗分の1。つまり64分の1だから、2%もいない。
物事は存在している形で存在している。 言葉は写真のようなもので、薄っぺらい一時的なものだ。 人間は環境の生き物。 表現のためだけに環境という言葉で表現したけども、目に見えるものの話ではない。 同じ環境に違う個体を投入しても違う反応が得られるであろうが、 その個体をどの環境に投入するかによっても異なる反応は得ることはできるはずで、そちらの方。 すべての人間は、人間らしい行動をするはずだと思っている。 気づき。ためらい。 最初は意識的に行い、無意識となって習慣となったりする。 今ちゃんとやったという行為があってそれは過去になる。 過去ちゃんとやったと言えるために今を生きる。 人は評価を求める生き物。 評価する能力のない人からの評価ではだめ。 自分が評価していない人からの評価ではだめ。 評価している人から評価されたい。評価していない人からの評価はどうでもいい(理不尽な評価に対する皮肉的返し) なぜ人は生きるのか。理想が存在するからだ。 私は相手に言葉を求めることはいたしません。私が求めているのは言葉ではなくて、人間であることです。 相手が人間であることを求める目的のために、言葉は使われるだけです。言葉自体には価値はございません。人間であることに価値があります。 人間を求めて、その上で言葉を求めるものなのに、言葉だけを求める、過去が存在しない人たち。 ポエム書いても仕方無いけど思うことは存在するし、存在しなきゃ存在できないし、存在するものが存在するように存在しなきゃ存在するものが存在するように存在しないし、承認欲求とかも表現でしかないし、存在するそのものではないし、 承認を求めるというより、存在を求めるってのがまだ表現としてマシに思う 自分で自分(の認識空間)に満足しているから誰よりも幸せ。自分は自分を尊敬しているし、生まれ変わっても自分になりたいし、そう言えるように生きた。 誰も幸せにならないことは誰も望んでいない。 美しいものが好き。美しくありたい。 ◆ 生き苦しいところがあって、生き苦しさの解消が一番コスパの良い投資に思える。 自分が嫌になることも昔は全くなかったけど最近は体が死んでてなにもできなくて嫌になるし、他人がもっと若い頃に経験するイベントをかなり遅くに経験してる感じがすごくあるけど、別に自分が経験してて他人が経験してないことだって…… 人をまともに評価する気がないって宣言した人を称賛する人間たちが嫌 楽しい、という言葉も昔はよく分かんなかった気がする。とにかく言葉がよくわかんなかった。 表明したくないことは私にもあって、簡単に言えばやる気がないことだったりするけど、表明をためらうことによって悪循環しかないなって思ってるところはあって まず何よりも他人の言葉に対する認識が謎すぎる。信じられない。どう認識してるのかさっぱり分からない。 よくカウンセリングとかいう文字列を見るけどそんなに身近なものなのかしら。別世界のワードだと認識してしまってるところが強くある。 忘れたくないという思いが強くて、すごく足を引っ張ってる。忘却は恐怖。 問診とか何も異常がないです以外の応答をしたことがないのだけど、カウンセリングを受けさせるためのカウンセリングがまず必要な気がする コミュニケーションに飢えてる自覚あるけど、そんなことしてる場合ではない自覚もあるけど、これ両立しないからしんどい 言葉に対する葛藤が一番大きい。ふつうの人は言葉に葛藤がないのか、ないのか。 体がかゆい→かく→手を洗いたい、の動き、毎日十数回繰り返してると思うけどかなり時間と水道代使ってると思う 許可がないと何もできないみたいなところある。完全な自由などはなくて部分的な自由。いろんなものを整理したい欲求があって、でもノウハウがない。無駄に潔癖症でマスクと手袋では足りない。目がいたいから嫌だ、みたいな 納得できないことは納得できない理由がたしかに存在したからめんどくさい 適切な環境を与えればとても高度な出力ができた体であった、と思うのは人類共通ではないのだろうか まじめで丁寧に仕上げることができるという長所は漠然とした自覚があって、でもなんか言葉に対する不信感があって表現しようがなかった 忘れられない一瞬一瞬の場面はなんだったのだろう。発声こそしないものの頭の中ぐるぐる
きっかけは転職。職場の男女比7:3位だった仕事を辞め、1:9の女性まみれの職場で同性のみでのコミュニケーションを重ねていくうちに少しづつその事実に気付き始めた。
思えば以前の職場にいた私は知らず知らずのうちに男性にフォローされていて、私自身も無自覚にそれに甘えていたんだと思う。
私は今の職場がこわい。
ある日は上司や同僚と仕事の話をしていたら突然私の口調を真似して返事をされ、またある日は私の勘違いを天然だと囃し立てられた。
ひとつひとつ些細なことだけど、今までの職場では全く感じることのなかった疎外感が今の職場にはある。
世間話ひとつにしても、私の発言の返しは「さすがだね」「計算しているんでしょう?」「かわいい」などで話は早々に切り上げられ、かついずれも目が笑っていない。とても私を扱いにくそうに接してくる。一見褒めているようにもとれる皮肉たちにどう返していいのかわからない。
学生時代にも同じような事を言われたことがあったが、親しい人は私を理解してくれていたしあまり付き合いのない人に好き勝手言われても気にもとめなかった。いじめられた経験はないが、部活内で無視された時期があったことを急に思い出した。
私の容姿は平均的だと思う。とびきり可愛くもなく、とびきりブスでもない。ただ母親に「女の子は女の子らしく振る舞いなさい」と徹底的にしつけられたおかげで身の振る舞いがそう映るんだろうと思う。親しい友達からは皮肉ではなく、そういう面で女子力が高いと言われることもある。私自身、それは自分の長所だと思っているし、異性や年輩の同性からは好意的にとってもらえることも多いので一長一短なんだろうとは思っている。だが、今の職場でそんな私は成立しない。
明言された訳ではないし、思い過ごしている部分もあるのかもしれない。
態度を使い分けされるのは凄く胃が痛むことではあるけれど、私自身が成長して変わるべきなんだと思う。
ただどうしていいかわからない。
考えをまとめたくてこの日記を書いてみたけれどうまくいかないな。
でもきっと社会人として生きている限り何度もぶち当たる壁なんだろうな。