はてなキーワード: 文学者とは
あのなあ。
ノーベル賞ってのは、勝った負けたじゃねーんだよ。その発想、いかにも頭悪いからリアルで他人に言うなよ? だいたい勝ち負けってなら先に取ってたやつは勝ちか?負けか? 取られたらその時点で負け? チャンピオンベルトかよ。そうじゃねーだろ。「その人の作品自体偉大であるとともに、そのジャンルで他に類のないぐらい偉大な影響を与えたことに感謝と畏敬の念を込めて表彰します!」ってことだろ。変なたとえだけど「命を救ったのですごいです表彰状」みたいなもんだろ。たとえば町の中学生が「命を救いました表彰状」をもらったとしたらその町の警察官と消防署の皆さんは全員「負け」なのか? 違うだろ?
ボブ・ディランはフォークシンガーで、でもその歌詞は実質「詩」と言っていいボリュームや質の高さをもっていて、その作品群は、時代性から同時代や後世の多くの文学に(村上春樹も含めて)多大な影響を与えたことは間違いないだろ。むしろ今まで表彰されてこなかったのが不当なだけで。「ハルキにやるならそもそもボブディランにやらなきゃならねえ」って話になるのは、なんだか理解できる気もするねえ。
というわけで、そういうものが評価されるようになったんだ。「第2の文学」って言いぐさは少し気に入らないが、いい時代になったと素直に喜んでる文学者が大半じゃないかと思うよ。
それは問題を取り違えてるよ。
あのコピーから感じ取れる主張は、少なくとも俺にとっては「文学はアニメより高尚です」という主張ではなくて「文学ファンは(ですらないと俺は思ってる。このサイト、要するに利権業者が広告代理店に発注したものだろ?)アニメファンより高尚です」というものだ。ようするに「文学が高尚であってくれないとそれをネタに商売ができねえ、都合が悪い」という意思だ。
この主張の差は、小さくはないよ。
そしてそれに対して、「いやいやそんなことはねーだろよ」と俺は思ったんだよ。
「そんなことはねーだろ。少なくとも、他ジャンル(今回はアニメ)を揶揄しないと自意識を保てないようなファンの自尊心ってどんなもんよ?」と。
そもそもの話、多くの文学者はアニメを下になってみてないわけよ。文学をそこまで高尚だと思ってすらいないわけ。高橋源一郎は「君が文学を苦手に思ったとしても文学の面白さはいつかきっと君に届く。安心しろ」と「文学がこんなにわかっていいかしら」の中で言った。書き手がそうであるのに、たかだか文学賞の選考委員や新聞などの、いわゆる外野が、書き手とファンの間に割り込んできて「ティーチングしてやる」という、その態度が醜悪だと思ったわけよ。そこにあるのは権威化して利権を得ようとする私欲だけだ。
少なくとも俺は、文学のファンとして、このサイトは許容できないよ。俺の大好きな文学は、こんなふうに、他を引き合いに出さなきゃコピーひとつ作れないようなものじゃない。文字と文章の力を信じて、独力で読者の心に豊かさを届けられるものだよ。そんな文学が、俺は大好きなんだ。
家族や人間関係に没入することで、自意識の不安から目をそむけるのは「賢い」生き方だけど、それができない人間も一定数存在するんだよ。
自意識というか、誰もが幼児期に一度は「神話」の崩壊を経験するそうだ。「人間はみんな死ぬ」とかに気づいてな。
ただ、一部の人間はそういう経験をずっと引きずって、死ぬまでそういう問いか目を背けられない。それが進化上何の意味があるのかは謎だけどな。
そういう連中は俗にいうメンヘラですらない。メンヘラと違って他人に依存したりしないし、基本的に迷惑をかけることもないしな。
ただ、他人と距離をおいて生きるし、周囲からは(人畜無害な)変人と思われる。『ハイジ』のアルムおじさんみたいに。
日本で嫌独感情が強まっているそうな。中央日報はそう報じていたし、ドイツ関係記事のはてなブックマークコメントを見ても厳しい意見が目立つようになっているのは確かだ。
中央日報はこれはメルケルが日韓問題に介入したことから来る、右傾化の現れと言っていたがそう言う面がまったくないとは言えないとしても、それだけじゃないと思う。
それ以前から次第にドイツ人へのあたりは厳しくなっていっていたからだ。
これはインターネットを通して多くのドイツ人に普通の日本人が接する機会が増えたからじゃないかと思う。ドイツ人の「嫌な奴」率の高さは異常だからだ。
1.ドイツ文学者やドイツ語学者などのドイツ学プロパーの人たち。
のおおむね二種類だったが、日本でのドイツのイメージは主に第一クラスタから発信されていた。
こういうプロパーの人たちは、おおむねその国への関心が自分たちの飯のタネに直結するため、実像よりも美化して、好意的に解釈してその国を捉えがちだ。明らかにマイナス要因になるようなこと、たとえばアメリカでの警察官による黒人殺害などでも、「理想へ向けて苦難の道を模索するアメリカ」みたいに、好意的に解釈して描こうとする。
悪意だけで解釈するのが間違っているように、善意だけで解釈するのも実はその実像は歪められている。
こういうプロパーの人たちがいつもいつも対象を好意的に解釈しているわけではなくて、要は周囲の関心が高まるのが目的であるから、実態以上に悪意をもって描かれる場合もある。ロシアなんかはその好例で、実際には何とかして没落せぬよう踏みとどまっている人口1億4000万程度の国に過ぎないのに、冷戦時代の遺物のソ連研究クラスタたちの人たちの声が大きいせいでアメリカ外交政策を歪めている(代表例はブレジンスキー。あの男ほどアメリカにとって害悪を成した人はいない)。
とにかくプロパー研究者が描き出す姿には注意をしなければならないという話である。
日本でのドイツのイメージはプロパーのせいで異常に美化されていたが、実際にドイツ人と関わる一般人、第2クラスタの間では以前からドイツ人の評判は最悪だった。
私の友人は海外視察をコーディネートする、逆に日本に海外からの視察をコーディネートする仕事をしているが、ドイツ人が問題を起こす比率の高さは図抜けているという。こういう話はごろごろあって、それぞれに癖はあっても、アメリカ人やフランス人、中国人、ベトナム人などを友好的に受け入れている組織団体でも、ドイツ人だけは勘弁してという処が多い。
こういう場所でのドイツ人の評判が悪いのは、彼らの性格が単に悪いからだ。それも、そういう人もいる、レベルではなくてそういう人ばかりというレベルでだ。自己中心的なことで知られるフランス人でさえ、ここまで評判は悪くない。
フランス人の自己中心性はあくまで利益レベルでの話であり、そもそも視察に来ているのであれば何かを学ぶのが自分の利益である。
イギリス人は皮肉屋ではあるが、こういうことでは我を張らないし、皮肉は自分自身に向けても行われている。
ドイツ人の自己中心性は、現象を尽く悪意で解釈する、他人を貶めて自分を持ち上げようとする思考態度に由来している。解釈はネガティヴにもポジティヴにもできるのだが、事後の報告書などではほとんど捏造レベルのことも書かれていて、それを発見できた俺は偉い、ドイツは世界一、というような態度が顕著に見られる。
第2クラスタの人たちからすれば、今まで日本にあったドイツへの好感などは幻想そのものだったのだが、ネットで次第次第にこういう実情が知られてきた結果の嫌独感情なのではないか。中央日報も、ドイツで韓国と言えばことごとく悪意を持って解釈されている事実を見れば、考えを改めるのではないだろうか。
「純文学」の世界に、もはや「文学」のかけらなんて残っていないのだから。
よく知られるように、日本でもっとも権威ある文学賞(と思われている)芥川賞は「純文学」の賞であるが、世界的な文学賞で「純文学に贈る賞」なんて無い。ただ日本だけで、「純文学」とそれ以外の間に垣根を作り100年近く特権化し保護してきた結果が、この体たらくだ。もういいだろう。もうやめよう。
幸いなことに、「純文学」の垣根に守られず、「読者」という名の狼たちと、荒野で100年戦いつづけたたくましい文学者たちが、日本にはたくさんいる。風俗小説家、歴史小説家、ノンフィクションライター、SF作家、伝記作家、エログロ、哲学者、詩人・歌人や俳人ももちろん文学者なのだからコピーライターもまたしかり、だ。「文壇の著名人」から「増田の名もない書き手」まで…彼らの豊富な仕事に目を向け、再評価すべき時が来たということだろう。そして文学「研究」もまた、野に放たれるべき時が近づいているのだろう。
といっても、いわゆる恋人関係ではなく、彼も私も独身ではあったものの不倫のような関係だった。
というか、彼は私を恋人ではなく、愛人のように扱っていた、のだと思う。今思えば。
彼は文章を書く人なのだけれど、私の書いた手紙の文面を見て、とても私をいとおしく思い、
たまたま彼は長く付き合っていた恋人と別れた後だったかなにかで、なんとか私に会いたいと思った、のだと言っていた。
私は当時(まあ今もだけど)非常に強い容姿コンプレックスがあって、会うのを先延ばししていた。
そのうちに彼が欧州某国へ半年間留学となり、その間もエアメールで何度も手紙が届いたりしていた。
帰国した後、彼と会った。そして、冒頭で書いたような関係になった。
デートといっても、食事をして、あとは彼のアパートで彼の好きなワーグナーを聞いたり、
文学だの野球だのについてのとりとめのない会話をして、それからセックスをし、
ベッドのなかでまたとりとめのない会話をして、それから送ってもらう、そんな感じ。
その関係はそんなには続かなかった。
彼の元の恋人は、恩師の友人の御嬢さんで、恩師は彼のいる世界では日本で一番の権威のような人。
その恩師から、元の恋人について、「そろそろなんとかしてあげたらどうだ」と言われたのだと。
「自分としてはとっくに別れたつもろだったのだけれど、そういわれたら断れない」と言った。
「自分は他人を愛せない人間で、君のこともとても大事に、たぶん彼女より大事に思ってはいるけれど愛していない。
もちろん彼女のことも愛することはないけれど、もし結婚して子供ができたら、子供を愛することはできると思う。
そして自分が今後もこの世界で生きていく以上、君は結婚の対象とはならない」
簡単にはあきらめられなかったけれど、結局は彼に従わざるをえなかった。
何年かして、時々彼の名前を新聞の書評らんでみかけるようになった。
そしてさらに数年して、彼の本は年間ベストセラー一位となり、テレビのバラエティでも何度か姿をみかけた。
その後ブームは去り、彼は今大学で教えながら、時々雑誌にコラムなどを書いているようだ。
彼の著書にあった新婚旅行の時期は、私に別れ話を切り出してからほぼ1年以内のことだったし、
たぶん彼の言葉は本当だったのだろう、と思う。というか、思っていた。
だけどここ最近のオタキング絡みの一連の、文化人が若い女の子を云々の話を読んでいて、
もうずっと昔のことだけれど。
追記:
小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県生まれ神奈川県・東京都育ち(1歳から小4まで東京/中学から神奈川/高校東京)
利根川進 ── 京都大 ── 愛知県生まれ富山県・東京都育ち(小学校富山/中学から東京)
白川英樹 ── 東工大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち(小3から岐阜)
朝永振一郎 ─ 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち(小学校から京都)
下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府生まれ長崎県育ち(幼少期に長崎/中学でまた長崎)
根岸英一 ── 東京大 ── 満州国生まれ神奈川県育ち(小学校から神奈川)
東京大7
京都大5
名古屋大2
■生まれ
大阪府2
■育ち
京都府3
http://kamomenome.exblog.jp/14156659/(元ソースから間違いを修正)
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湯川秀樹(出生地:東京都)両親は和歌山県 ※中間子論は計算間違いであった
江崎玲於奈(出生地:大阪府)親は大阪府、三重県 ※助手のアイデアのパクリ
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下村脩(京都)両親は長崎県 父が福知山連隊所属のため京都生まれ
根岸英一(満州)親は東京都、本籍は日本橋、目黒の根岸家に戦災で親戚が大勢つめかけたため神奈川移住
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わたしは1926(大正15)年9月19日に、愛知県の豊橋で生まれた。軍人だった父の
小柴俊男がそのころ豊橋の陸軍第18連隊に所属していたからだ。
母親は、はやといって、千葉の木更津の農家の末娘だった。木更津高等女学校を出て、
父と結婚した。どういうなれそめで知り合ったのかは知らないが、父も千葉の館山の
父は農家の三男に生まれて、中学に通うのも親せきの造り酒屋で小僧代わりに働きながら
学費をだしてもらった。さらに進学する学資はないから、学資不要の陸軍学校へ進んだらしい。
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祖父の塩川三四郎は1873年生まれ、政治家を志して長野県から上京し、東京帝国大学法学部を
卒業した。そして、渡辺千秋(長野県出身)の次女・千夏と結婚した。
「野依」は母方の血筋で、福岡県の東部、築上郡吉冨町に行き着く。「立野屋」の屋号をもつ
庄屋で酒づくりをなりわいとする大地主であった。
(野依良治『私の履歴書 事実は真実の敵なり』日本経済新聞社)
http://kingendaikeizu.net/gakusya/noyori.htm
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E8%84%A9
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朝永振一郎の父三十郎は、東京で真宗大学在職中に旧川越藩士大枝美福の長女ひでと結婚している。
朝永振一郎「なぜ京都にいながら東京弁使っているかっていいますと、おふくろが埼玉県生まれで、
おやじは長崎生まれで、中学の頃東京に出て、ずうっと東京にいた。そういうわけで、家庭では
東京弁を使っておりました」(『回想の朝永振一郎』みすず書房)
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私の父は仏壇屋の家業を継ぐのを拒み、文学者になろうと家をとびだした。東京で私が生まれた。
母は福島県の出身だった。しかし私が2歳のときあの大震災に遭い、一家はやむなく福井に戻った。
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利根川勉「私の親父は守三郎といいまして、福山藩(広島県)の貧乏侍の息子でした。ところが
同じ貧乏侍の利根川という叔父に子供がなくて、岡本という家から養子に行きました。
家内の父方は弘前藩士(青森県)の家系でした」(利根川進受賞時に父・勉氏へのインタビュー)
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北大理学部を受験した時、母は「落ちてくれ」と本気で祈っていた、と譲さんは明かす。
恩師は「章君を大学に進ませて」と勧めたが、家計に余裕がない。町で理髪店を営んだ
山形県出身の父の定輔さんは1946年に51歳で死去。長男の鈴木さんは16歳だった。
(「タウンガイド札幌2010年10月11日)(母ナエも山形県出身)
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http://toianna.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
に惹かれるものがあった。「自国」って何? とは思うが。もしかして「自分」の書き間違いか?
ポルトガルで学んだポルトガル語学習者、とブラジルで学んだポルトガル語学習者間で「さやあて」があるのだろうか、興味がある。
中南米のスペイン語の盟主というのがどの国かわからないが、同じような構図がありうるように思う。
cやzの発音を巡って話者の品定め的なトピックがあるのは知っているが、もっと具体的生々しい感情というものがあるのではないかと思う。
ともあれ、留学した先の言語や文化に自分を一体化するということは実際にあるのだな、
「新大陸のほうの分家が今や主導権を握っていること」に対する複雑な気持ちも共有できるくらいに自分を変えてしまうことができるのだな、と思った。
一方で、日本国内にも、イギリス人として生まれたわけではないのにイギリス英語(イギリス文化)にかぶれた人や、
フランス人として生まれたわけではないのにフランス語(フランス文化)かぶれた人もいる。
これらは少数派としての挟持、マイナーな選択をした自分に対する誇りを上乗せしている感じがあって、
それは自分語りの道具として、由緒の有りそうなものを利用しているのだと思っている。
つまり、「誇り」の有効範囲は日本国内までであるということを、おそらく自覚していると思う。
イギリスやフランスに行って名誉イギリス人、名誉フランス人として扱ってくれるとは、まさか思っていないだろう。
その意味では、このブログを書かれた人とはやや違うのかもしれないと思った。
後、旧制高校などではドイツ語選択、フランス語選択などを元に、自分の文化上の宗主国を主体的に選ばせるような習慣があったのだろうか、と思うこともある。
一方で、諸外国()では、ある国・ある地域の言語を学ぶことはその言語の文化圏の代理人になることを意味しない。
中国の王毅外相は、日本語の機微まで理解し、日本人も舌を巻くような日本語使いだが、彼にとって日本語は手段であり、知日派ではあるが親日派ではない。
サイデンステッカーやドナルド・キーンみたいな人もいるよ、と言われるかもしれないが、実務の人と文学者はまた別ではないかと思う。
今みたいにAOや公募で簡単に入学できた時代と異なって昔の早稲田大学は慶應義塾大学よりも入学が厳しかったと聞く。
というのも幼稚舎からエスカレーター式に進学できる上にその生徒の殆どがどこそこの名家や華族の出身者で犇めいてたわけで
それらから選抜的に大学へ進学してきたという歴史があったからだ。
一方早稲田大学は文学を志す者、法律を志す者、政治を志す者とで多くの庶民階級がその入学を希望したものだった。
今ではそんな早大も慶應並に簡単に入学試験を通過できるようになってしまったし、犯罪団体スーパーフリーや小保方晴子の一連の捏造案件もあって
今、早稲田と慶應は私大の二大巨頭である事は周知の事実であるが、マスオさんの時代はどうだったのか。
今週放送のサザエさんでは、マスオさんが英語を話せるという事にサザエさん以下家族の誰もが驚きを隠せなかった、という話があった。
その当時、早稲田大学というのはあくまで学問を志す者が行く大学であった、という事なのだろう。
つまりステータスを重視する、あるいはステータスとなった現在と異なる、という事である。
要するに、サザエさん一家はマスオさんの出身大学に関して何一つ関心がなかった。
という事は早稲田大学というのは当時無名に等しかったと言う事であろう。
無名である事が悪いのではなく、むしろそこから文学者や政治家、新聞記者などが輩出されてきた事を受けて学問の大学として有名になったという境遇がある事を証明するものである。
今でこそ早稲田大学は、無知な人間が多く通っているし無知な人間が捏造をしたり犯罪を冒したり等をして有名になってはいるが、それは誤りである。
何故ならば、マスオさんが早稲田大学出身である頃の早稲田大学は無名であったが、そこから学問の大学へと全国的に知られるのはそう遅くはなかったのである。
ま、要するにだ。
マスオさんが居た頃の早稲田大学はあまり知られてなくてその後学問における優秀な人材が国内どころか海外の様々な分野で活躍して有名になったのだろう。
だからこそ、サザエさん一家の中で高学歴でありながら英語が話せるかどうかについてマスオさんが疑われるエピソードがあったのである。
そうでなければ説明が付かない。
1)論破厨
特徴:
自己承認欲求が強く、満たされていない。そのため論破して下を作りたがる。好戦的な性格。
2)正論厨
特徴:
正論をかざすのが好き。物事の表面や全体像しか見ていない。楽天的。やや権威的であり頑固。
3)現実主義者
特徴:
正論厨と対立しやすい。現場ではこうだろという目線から、現実的な話をしてしまい、正論厨から嫌われる。<4.4追記>現状追認を好み露悪的。やや視野が狭い。
4)夢想家
特徴:
ニートや学生や主婦に多い。正論厨と仲が良い。正論厨と違うのは現実主義者の意見を「そういう世界もあるのか!」と感心するが、自分の身近なものとは認識できず、自分には不幸は起こらないと信じ込めること。時々、否定されると激しく噛み付くことがある(自分の世界観が強い場合がある)増田の中で反対意見が多くなり、劣勢になると、自演乙とか、洗脳乙と言い始めやすく、逆に自演によって自分の世界観を擁護し始めることもある。場合によって成り済ましも多い。一般社会では普通にしてると人当たりもよくいい人が多い。
5)釣り師
特徴:
孤独感が強いのか、極論を投げるのが好き。脈絡がなかったり、論理的にわざと破綻させたりする。自演やバカ、クズなどの発言が多い。いわゆる構ってちゃん。
特徴:
悲壮感のある投稿が多い。現実主義者と相性がいいが、リアルにはポジティブで外交的で友達が多いことが特徴。その点現実主義者とは違う。ただ、根っからのポジティブではないので時々吐き出すために増田を使っている。人生を楽しめないちょっとかわいそうなタイプ。でも友達にしておくと良いタイプ。
7)真面目
特徴:
所詮は増田は匿名で語り合うだけの場であるにも関わらず、社会勉強の一貫に思っていたり、問題提起をしたつもりになっている。夢想家とつるむことが多いが、粘着気質がなく、ほとんどトラバやブクマもせず読んでいるだけ。夢想家はしつこく主張(というか自分の世界観を防衛)するので、行動は違う。
8)毒吐き厨
特徴:
単に日常の鬱憤を言い返せないから書き込むだけ。社会的弱者がほとんど。単発的であり、常駐はしていない。Twitterの匿名アカウントに類似の厨が多く存在する。
9)変態(ムッツリ)
特徴:
変態のくせに日常生活ではオープンにできない。だから増田となる。あまり他の文章は読んでいない。
特徴:
人畜無害。草原で言うとシマウマみたいな感じ。今日はスーパーでなんだったとか、そんなレベルの感想。たわいのない会話をする相手を持つと、聴く方もやらないといけないので、増田に書くことにした人。
特徴:
世間の反応を試してみたいセミプロと、頭の中がポエムで構成されていて増田文学になってしまうもので構成される。
特徴:
7の真面目と対立しやすい。増田を娯楽、遊び、暇つぶしと割り切っており、一般的な良識のある人間が多い。リア充か、遊んでもらえる相手がいない寂しがりか。
ただし、時々ユーモアのあるトラックバックをつけることがある。増田の発展には欠かせない。真面目以外には敵はいない。
13)通り魔
特徴:
相手は誰でもよくて噛み付きたくて仕方ない。ストレス発散を目的に読んでそうな相手にとにかく噛み付く。性格が悪く、周囲からも嫌われてるタイプ。
14)改変コピペ厨
特徴:
正論厨に類似。自分の正当性を説得できないため、一般論かのようなコピペを用いることによって説得を計る。
2chまとめをつくるやつのように、コンテンツを生み出す能力がなく、かつ権力もないために、そういうセコいことに走って自己満足をもとめる。通り魔や論破厨に絡まれやすい。
https://twitter.com/tm2501/status/337084076311863296
やっと、ブログ記事の反響を見た。割と反響が良かった。僕のブログにしては批判が少なく心お穏やかに見られてましたが…まぁ、酷いのが一つあった。「一ミリも文学理論を使っていない批評に何の意味があるのか?」(ブコメより)←アホでしょ?なんでそんな高尚ぶったモノをかかないといかんの?バカ?
https://twitter.com/tm2501/status/337084710763245568
『一ミリも文学理論を使っていない批評に何の意味があるのか?』と怒られたんだが…俺は経済学部出身だ。だから、文学理論何か体系的に習ってないから、そんな理論は知らん。だけど、文学って文学者・文学オタクのものなの?その人らが論じるだけのクローズなメディアなの?答えは俺が語るまでもないよ
https://twitter.com/tm2501/status/337085791891238913
頭の悪い学術的なことが好きな連中ほど「学術的なあの言葉を使え・あの理論を使え」というが、理論は後に考察した人「あとだしジャンケン」だぜ?名前とか言葉で定義を狭めるのではなく、現象をありのまま見て、それをちゃんと成文化して、研究する。そっちの方が真理の探求であり、学術的なのでは?
https://twitter.com/tm2501/status/337088722707308544
文学系がみんなバカだとは思わないけど、歴史と哲学以外の文学部の連中とはあの人らと話が合わない。法学部も頭でっかちな奴多いし、経済学部もデータ魔系バカ多いけど、文学部は…もっとこじらせた類の馬鹿が多いから個人的に関わりたくない。自分達の理論やメゾットに酔いすぎてキモい
メゾット
ほとんどの場合、大学院を持たず、教授は学部学生の教育に専念する。
著名なリベラル・アーツ・カレッジ出身者
宋美齢 (中華民国の指導者、蒋介石の妻) (ウェルズリー大学)
ジェームズ・ガーフィールド(第20代アメリカ合衆国大統領) (ウィリアムズ大学)
カルビン・クーリッジ(第30代アメリカ合衆国大統領) (アマースト大学)
ゴー・チョク・トン(シンガポール第2代首相) (ウィリアムズ大学)
スティーヴン・ソンドハイム(作曲・作詞家) (ウィリアムズ大学)
ウイリアム・スミス・クラーク(札幌農学校初代教頭・"Boys be ambitious!") (アマースト大学)
マイケル・ヘイデン・アマコスト(アメリカの元駐日大使) (カールトン・カレッジ)
ジェフ・バーグランド (帝塚山学院大学教授) (カールトン・カレッジ)
ウォルター・モンデール (アメリカの元駐日大使) (マカレスター大学)
ヒラリー・クリントン(元上院議員・国務長官) (ウェルズリー大学)
マデレーン・オルブライト(アメリカ初の女性国務長官) (ウェルズリー大学)
コフィ・アナン (元国際連合事務総長) (マカレスター大学)
バラク・オバマ (第44代アメリカ合衆国大統領) (オクシデンタル・カレッジに最初の2年間。その後コロンビア大学に転学)
最近の国語の教科書には掲載されていないとかいう情報を耳にした。
真偽のほどは定かでないが、事実だとすれば理由はいくつか思い当たる。
改めて読み直すと何度読んでもごんぎつねは涙が出てきてしまうし、
たびたび議論されていることだろうが、この二作品にはどうも腑に落ちない点がいくつかある。
すでに逝去している作者の真意を知るすべもなく、
後世の読者が独自に解釈をした上で内容を改訂できるようにしたらよいとも思うのだが、
勝手な改変を加えるのは文学作品に対する冒瀆であり、すべきでないとも思うので、
「ごんぎつね」
これはもともと新美が草稿として創作した「権狐」を文学者鈴木三重吉が全国的な童話の普及を目的として改訂して上梓したものであり、
元々の草稿とは変わっている点がいくつかある。
有名なラストシーン、「ごん、お前だったのか、いつも栗をくれたのか」と発する兵十に対して、
「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」が、
新美の草稿では「ぐったりなったままうれしくなりました」だったそうだ。
どっちがいいんだろう、と自問しているがいまだに答えが出ない。
本来の草稿を尊重して「うれしくなりました」にした方がいいようにも思うが、
うれしかったのかどうか読者に想像させるに留めて客観的な状況だけ描写したほうがいいようにも思うし、
しかし「感謝されたかったという思いが叶って満足なのか、自分の評価が一番大切なのか」という印象も持たせる終わり方になってしまうし、
かと言って「うなずきました」だと一層「自分が評価されたいだけなのか」という感を読者に植え付けてしまうし、
撃たれてもなお「うれしくなりました」の方が、自己犠牲的で感動を与えるような気がする。
どちらにすべきなのだろう。
最大の疑問はこの悲劇的な結末で子供たちに一体何を新美が伝えたかったということだ。
わかりやすい勧善懲悪物語よりも善意が報われない理不尽さを表現するこの童話のほうがよほど処世術の教本として理想的である気もするが、
それにしても得られる人生訓が一向に見えて来ない。
子供たちに、何をどう受け止め、どう人生に生かして欲しいというのか。
それとも作者はそんなことは考えていない、何の教訓も込められていない童話こそ教育材料として相応しい、ということなのか。
次に「手袋を買いに」。
母狐は自分が恐ろしくて行けないような街になぜかわいい子狐を一匹で買い物にいかせたのか。
母狐は病弱で動き回れないとかいろいろやむを得ない事情があると思いたかったが、
残念ながら作中の描写からはそのような状況は推測されない。
そこで狐の習性上の理由を思いついた。
子供が一定程度成長すると、近親交配の防止のため、親狐は本能的に子狐を強制的に巣穴から追い出す。
噛み付き、襲い、遠くに追いやって戻ってこなくなるまで攻撃を続ける。
子狐は昨日まで優しく育ててくれた親狐の豹変に驚き、必死に親にすがるが、親は心を鬼にして子供を突き放す。
母狐はいずれ子供を自立させなければいけないことを悟っており、
それの前段階として、人間とのかかわり方も含めて、世間の渡り方を学ばせるために、子供に冒険をさせた。
そう解釈したい。
作者にその解釈でいいかと聞きたいところだがそれが叶わないのでむずがゆくて仕方ない。
他にもいろいろ突っ込みどころはあるが、今更作者に聞くことができない以上、
宇野常寛「南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、 好きなほうを信じればよい」 (宇野常寛『ゼロ年代の想像力』50ページ)
宇野常寛は南京大虐殺について、大きな物語が失墜したから捏造か実在か「好きなほうを信じればよい」と書いた。
意味不明である。大きな物語云々という話と、歴史学における個別の実証研究に、何か関連があるのだろうか?
加えて宇野は、自身の利益に直結する論争ともなれば、東浩紀を「嘘つき」だと批難する、実証主義の立場から反論した。
wakusei2nd:
嘘をついて自分の罪を後輩になすりつけ、それを彼我のフォロアー数の差を利用して論点をずらし、ストーリーをでっちあげてのりきろうとする人には無論ライダーの資格はない。無論会社社長や文学者の資格も。
東浩紀のツイッター論争テクニックは、とにかく自分の捏造したストーリーをフォロアー数の差を利用して喧伝する、というもの。だから今回も読者に証拠まで突きつけられているのに、そこはスルーして全力で別の話題にシフトしようとしている。もう誰もそんな手には乗らないし、呆れてものも言えない。
自身の利益保護についてだけ「実証研究」を求めるのは、明らかにアンフェアだろう。
youtubeに上げられた動画を見れば、宇野は笑いながら東浩紀に相槌を打っている。
東「知ってる?黒瀬が俺に言ったの。カオスラウンジのメンバーの一人は年収7000万なんですよ」
http://www.youtube.com/watch?v=qyV1okRD1rU
よく読めばわかるけど、この文字起こしは「宇野が黒瀬の年収は7000万と語った」などと書いてないよね。
そして東浩紀は、「宇野が黒瀬の年収は7000万と語った」などと責任転嫁していない。
宇野のいう「自分の発言を本気で僕(及びその友人筋)のせいにして押し通すつもりだった」という東浩紀像は、どうみてもフェアじゃない。
それに、あなたもustreamで「7000万ちょっと黒瀬君名言すぎるよそれはw」と参加しているじゃない。
自身も制作と流布に関与しているのに、<東の7000万発言がデマだとは知らなかった>という自分の(法律的な意味での)「善意(・知らなかった)」だけは絶対の前提にする。
しかし東が「善意」から“カオスラウンジのメンバーの一人”の年収を間違ったり忘れていたりしたかもしれない、という可能性は全否定する。
これはフェアな思考じゃないでしょう。
流布における瑣末な間違いを、さも論敵の能動的で極悪非道の悪意のごとく、繰り返し執拗に印象操作するのはどうなんだ?
どうやら、宇野常寛自身の「小さな物語」だけは圧倒的に正しいようだ。
しかも、東浩紀に対してだけではない。これまでも宇野の信じる小さな物語を害する『小さな物語』を語る相手には、高圧的な恫喝をくりかえしている。
「宇野常寛の想像力とかの批評」批判として成り立っているのかいないのか
はあ? そんなこと言った? あなたこそ勝手に人の主張を誇張して批判して悦に入っているだけでしょ?
RT @teramat セカイ系好きな連中はオタクのマザコン野郎でレイプ願望もってる、って冷静に考えるとありえないでしょw
wakusei2nd 2011/01/19 00:09:58
挙句の果てに「トンデモ」認定されました。批判する対象の主張を適当なイメージに基づいて罵倒して、ご満悦の人に。うわー。
RT @teramat 【結論】宇野さんはコンスタティブに読むとトンデモ。しかし「あえて」やってるのだとしたら、つまりパフォーマティブに読めば、これほど影響力のあ
↓こんな雑で恣意的なマッピングで無数の作家や読者を貶めてきた奴が、よく言えるよ。
http://nariyama.sppd.ne.jp/comment0707b.html#070722
これでも宇野常寛の自己イメージは「適当なイメージに基づいて罵倒して、ご満悦の人」ではないんだろうな。
どうやら、宇野常寛自身の「小さな物語」だけは圧倒的に正しいようだ(大切な事だから二回言いました)。
これらの振る舞いって、どうみても彼が批判する「決断主義者」そのものでしょ。
東浩紀氏は、「自分の思い通りにならない玩具は床にたたきつけて壊す」という人で、周囲に対してそんなコミュニケーションを繰り返してきた。しかしそれでは仕事仲間からも、読者からも信頼されない。僕はそのことを彼から反面教師的に学んだ。
wakusei2nd 2011/06/12 13:17:49
その結果が、今の「裸の王様」的な「東浩紀3.0」で、挙句の果てに堂々と嘘をつき、他人を陥れ、それが追求されても誤魔化すようなことを平気でやるようになってしまった。震災以降、言動が以前にも増しておかしくなってきたが、ついにここまで墜ちたか、と思う。
wakusei2nd 2011/06/12 13:19:40
そう思って周囲(僕含む)が、「東さんはそういうキャラだから」と彼の横暴と嘘と卑劣さを結果的に承認してきた。それがこのような事態を招いているのだと思います。RT @soujibucho: @wakusei2nd 東さんが子どもっぽいところがあるのは今に始まったことじゃないし
「結果的に承認してきた」とか言って、宇野は全ての罪悪を東浩紀に押しつけているけど、
例えば↓大澤信亮を東浩紀が批判したとき、宇野は 主体的に大澤バッシングに便乗している。
「責任を仕事で取る方法を探すつもり」)なんて曖昧模糊とした事を言う前に、まず公然と大澤信亮などに謝るのが、
もしも反省しているなら自然な感情だと思う。( http://twitter.com/wakusei2nd/status/79915073577025536 )
吉六会/AZM48による 大澤信亮+文芸誌へのクロスカウンター
大澤信亮: 枝葉末節をつっついて本題をなし崩しにする汚いやり口はよくわかっています。僕はべつにあなたたちを憎んでいない。
ただ、誰かに釣られて振るってしまった暴力をなかったことにせず、内省してほしいと思うだけです。
叩けそうなものを叩いてすっきりする敗北の人生や、子分として忠誠を示し続ける惨めな生き方を克服し、個として生きてほしいだけです。
要するに、全然信頼できないんだよこの人の言動。
決断主義批判していて自分が決断主義者だし、東と宇野というホモソーシャルな関係でとんでもない言葉の暴力の応酬に発展した点で、
同性間の友愛をもちあげてみても説得力が無いし。
宇野氏はまた、
「今回の震災で明らかになったのは、こういう事態が起きたときには、今あるリソースをどう活用するかが問われるということ。そういうときには、原理論ばかりをふりかざして、テンプレ的な批判を繰り返しても話はまったく進まない。中間的なものを考える想像力の不足を感じる」
これもね。
さっさと相反する2つの批評家をつなぐ「中くらいのもの」への想像力とやらを発動してくれよ。
議論における寛容さを。
口だけかよ。
入学おめでとう。
本当は新しく大学生になる青年たち全員に向けて書くべきなのだが、とりあえずわたしにできることとして、母校について書く。
君は同志社が第一志望だったのかも知れないし、本当は他の大学に行きたかったのかも知れない。何故かよく分からないままこの大学に辿り着いてしまったのかも知れない。どんな経路でここに入学することになったにせよ、まずは、おめでとう。それはきっと、何かの縁だったのだろう。わたしがこうやってこの文章を書いていることも、君がたまたまこの文章を目にするようになったことも。
君が入学することになったこの大学は、基本的に学生を放置する大学だ。学生は好きなことを好きなだけやれば良し、そういう思想を持っていると思う。パンフレットか何かで既に見たかも知れないが、創立者はこんな言葉を残している。
わが校の門をくぐりたる者は、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、実業家になるもよし、教育家になるもよし、文学者になるもよし。かつ少々角あるも可。奇骨あるも可。ただかの優柔不断にして安逸をむさぼり、いやしくも姑息の計をなすがごとき軟骨漢には決してならぬこと。
この大学は奇骨のある青年を求めている。勉強せずに卒業しようと思えば、それも可能だ。授業に一回も出なくても、試験答案さえ良ければいい、という先生も数多くいる。逆に徹底して学問をしたいという人間には、真摯に向き合ってくれる先生もいるだろう。
君は四年間で何をするつもりだろうか。サークル活動だろうか。テニスか、軽音か、環境に興味があるか。ビジネスか。友人と徹夜で騒ぐのもいい。せっかく大学に行っているのだから、本を多く読んでみるのも良いかもしれない。何をするにせよ、しかし、自分の頭で考えて決めることだ。自分に何ができるか、そして、何をすべきか。
それも、走りながら。
京田辺の別館が、ローム館が、そしてキャンパス内にある様々な穴場が。今出川の明徳館が、寒梅館が、そして近くにある天下一品が、君の生活の一部になることに、わたしは興奮している。わたしもまた、あの場所で人生のひとときを過ごした人間だからだ。これから様々な発見があるだろうが、君の世界がこの四年間で大きく広がることを願う。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?