はてなキーワード: 文学者とは
思った以上の反応を頂いて驚いてます。
コメントへの返信など、追記しようかと思ったのですが、長くなったので別記事にしました。
興味あったら見てください。
https://anond.hatelabo.jp/20200102201209
釣りっぽく書いたけどほんと。
結構色んな意味で読書や知識というものに関する意識が変わったので、なんかアウトプットしたくなった
なお、名著そのものを知ったことに関する感銘とかは今更私が言うまでもないので省きます。
書きたいのは100分de名著シリーズを対象にした読書を集中して実施したことに関するメタ効果に関して。
スペシャル版とか、ブックス版はもう少し厚いけど。どれも約120ページで、読書慣れしてる人なら2-3時間で読める量だと思う。
いやそれじゃ読んだことにならないだろ原典あたれよ、って思うよね。私もそう思っていた。
だから最初の20冊くらいは解説本を読んで、原典にあたって、と繰り返していたけど、以下の2つのことに気づいて一気に解説本を読む方向に転換した。
勉強とか、何でもそうだと思うんだけど、繰り返し出てくるものって記憶に定着しやすくなる。
さらに、その要素が「影響を与えられた」ものの解説として出てきたり「影響を与えた」ものの解説として出てきたりする。
何でもそうだと思うんだけど、流れというか構造の中にある知識って単発の知識より遥かに定着しやすくなる。
なので、バックナンバーの中で関連のありそうな同時代、同地域、同分野の本をグループ化して間開けずに読んでいくのが効果的に思えた。
まぁ要するに、それを読むだけで半年とかかかりそうなものがチラホラあったということ。
そこに突っかかっているうちに飽きて来ることを懸念した。
実に20年ぶりくらいに読書にエンジンがかかっていることを実感していたので、これに水を指したくなかった。
よく「文系は作者の気持ちでも考えてろ」と言われるけど、「本気で作者の気持ちを考える」ってのは実に尊い活動だと考えられるようになったこと。
今みたいにリアルタイムに意見のやり取りが出来るわけでもないのに、驚くほど人間の考えや意識ってのは「繋がって」いることがわかった。
ある偉い人がいいことを言うに至った過程を忘れてしまうのは人類の損失だなと。というか、理系と一緒なんだよね。
アインシュタインの相対性理論だって、洞窟で暮らしていたアインシュタインがある日突然思いついたわけじゃない。
それに、曖昧さを嫌い、論理にはもととなる論理が明確に存在する理系学問「ですら」そうなんだけれど、
現時点の主流見解は現時点の正解ですらなくて、考え直しが迫られるのはよくある。
そういうとき、どこから間違っていたかどこから考え直すためにも、歴史的な思考の経緯は絶対に失わせてはいけない。
文系の学問の究極の目的は、新しい思考を生み出すことと思っているけど、新しいものを生み出すために今までの流れを知ることも必要だ。
果実を生み出すのがポンと生まれてきた天才的な作家や哲学者だけれど、
天才の誕生を待つ間その過程を丁寧に残すのがむしろ普通の文学者の役割で、
アカデミズムとしての文系学問の真髄はそちらにあるのかもしれないと思った。
これ、理系のブレイクスルーを起こす天才待ちと同じ構図だよね。
(天才、と呼ばれる人間も自身の業績についてちょっと違う視点で物事を捉えただけ、とかちょっと違う組み合わせを思いついただけ、と語るのはよくあることだ。)
「かなりいい勉強になった」
「大学生の頃にこういうことをやっておくべきだった」
「あ、でもこんな事やってたらそれだけで四年間終わっちゃうか?」と。
そこで計算した。
100分deというくらいなので上記解説本一冊は、約100分の映像となる(補足説明踏めると1-2割、解説本のほうが情報量多い気がするけど)。
以下、とても雑な計算だけれど。
100冊なら、約11単位。計算してみて驚いたが、たったそれだけ。
一般的な大学生は1年に20-30単位取得するだろうし、卒業には120単位程度必要だ。
定義上サボり気味の大学生の半期分程度の勉強しかしていないことになる。
嘘でしょ?
驚いたついでにもっと攻めた想定をしてみる。
こんなことを意識している大学生はほとんどいないと思うけど、15時間の講義には、30時間の事前学習と30時間の事後学習が想定されているらしい。
http://www.ohshiro.tuis.ac.jp/~ohshiro/univlaw.html
原典には上記したとおり全16巻あるものもあれば、100ページもないものもあるから、慣らすとだいたいそれで読めてしまうとする。
「最も頭の冴えた4年間に」「専門家が選んだ良質なテキストを」「専門家の解説付きで、必要なら質問し放題の環境で」「1200-1300冊読んで理解する」
場所だ、ということだ。
ああ、確かにそれをこなせば立派な「学士様」になれたろうと思う。
私は修士を持っているが、この10分の1も学士になれた気はしない。俺はなぜあんな無駄な時間を、、、
可能なら、放送大学なりでもう一度大学生をやってみたいと思う。
なんというか、これから実施していきたい諸種のおもーい本を含む読書に挑む筋トレというかジョギングと言うか、基礎体力を作ってくれた感ある。
活字を追う体力、意味を捉え続ける体力みたいなのがないと、ほんとうの意味で読書を趣味にすることは出来ないと思った。
ていうか、楽しむ余裕がない。
スポーツと一緒で、やる気と勢いだけでやっても続かないと言うか。
この1年やってきたことは運動部の1年生が実施するような、練習をするための練習。これがまず必要だったとろこで、その役割を果たしてくれたと思う。
練習のための練習として、この「解説書読破」が有用だったと思う理由は以下の2つ
週末、朝と夕方に一時間読む気でいればその日のうちに「また1冊読めた」と思って寝れる。
平日でも、風呂に入ってる30分で読めば25%終わり、はっきりと進んだ位置にしおりを挟んで寝ることが出来る。
進捗が目に見え、さらにすぐ終わりが見えるというのは精神的に楽だ。
価値が保証されている書物を、その書物についての深い理解があることが保証されている著者が解説する本であるということは、
読んでいた時間が無駄になることはない(たとえ激烈につまらなくても3時間で終わるし、つまらなければ原典を読む必要はないという判断ができるということだ。)
という確信を持って取り組めるということだから、これも精神的に楽だった。
つらいだけのうさぎ跳びとかしたくないのよ。
いろいろな本の中で語られていたことだが、
日々「モヤッと」してることはたいてい昔の人も同じこと感じていることがわかった。
下手の考え休むに似たりではないが、自分程度が疑問に思ったことはきっと昔の頭の良い人が一生かけて考え抜いているので
自分の中で結論出そうとするより同じ疑問を持っているであろう偉人の著書にあたったほうが
考えを前進させる上でコスパが遥かに良いことが芯から理解できた。
実はこれが一番の収穫だと思っている。
というわけで、これから年末にかけていよいよ原典にあたっていこうと思う。
の前に
解説本読破の中で出てきたいろいろな付随知識、これがまとまりそうで纏まらなかった。
これをまとめてからの方が、今後の知識吸収速度が格段に上がりそうな気がすると思って、適切な本を暫く求めていたが結論はまさかの高校教科書だった。
今読むととんでもなく面白い本だ。まさに私の求めていたものだった。無論完璧じゃないが、知識の統合がすすむすすむ。
なぜ俺はあんな無駄な時間を、、、と思うけど、おそらく解説本読破と順番が逆じゃだめだったろう、OKOK。
さて、年末に山川をやっつけたあと、原典の中で特に気になっていたものを30冊ほど買った。解説本で実施した筋トレ効果で読むスピードが上がっているが、
途中で気になった関連書籍とかその年気になった本とかをはさみつつ、100冊(巻数でいうと200近い)読み終わるのは3年後くらいの想定だ。
来年もシリーズは続いていくので、積ん読もどんどん増えるだろう。
アマゾンの奥地の南方の端にある「ポスカネリプカ」って部族は、成人としての儀式に「顔の型をとって掲示する」ってのがあるらしい。
泥で顔の形をとって、焼く。そして部族が住んでいる中心にある大樹にそれを置く。立ち上がる煙が空に届くことにより神に認識され、顔が大樹に置かれる事により
同じ部族に対して成人だぞ、って事を示すんだ。
顔の形をとるのは大体12-16歳で、その儀式をすると天の神に自分を認識され、周りにも認識されたって事で、結婚やセクロス、戦いに行くことが可能になる、というかほぼ強制になる。
でも顔の形をとるのは任意で、取らなければ戦いに行かなくても良いし、求婚もされない代わりに恋愛をしちゃいけないし、自分の住居を自分で選んだりすることも出来ない。
そういう「責任と自由は共に与えられる」部分に現代文化との共通点を見つけたのがケイケイ=オンっていうアマゾン出身の社会人文学者で
フェイスブックやツイッター、タンブラーで自分の顔を出すことはある意味現代人の成人的儀式行為で、ポスカネリプカのやっている事と同じって事を説明したのが
結構話題になった。ネットという人類の意識の集合体=神に対して顔を晒す、そして同じコミュニティに顔を晒すことで、責任と自由を得ているのだと。
文学ベスト100と検索すると、国内に限ってもいろいろなランキングが出てくる。英語圏では、ベスト100を選んだときどのような小説がランクインするのか、気になって調べてみた。
そうすると、日本と同様にたくさんの種類のランキングが出てくるが、これらをひとつひとつ紹介するのも退屈だ。
だから、それなりに信頼がありそうないくつかのランキングを選んで、それらにくり返し選出されている作品名をここに挙げてみたいと思う。
なにをもって信頼があるというのかは難しい問題だが、だいたい以下のような基準を満たしているランキングだけを取り上げることにした。
英語で検索しているからには、英語で書かれた小説が多くランクインするのは当然なのだが、英語圏に限らず、世界の文学を選出の対象にしていることを条件とした。なので英米文学オンリーとかなのは避けた。
2000年以降に発表された小説の割合が高すぎたり、「ハリー・ポッターシリーズ」のような、あまりにエンタメ寄りの小説を選出しているものは除外した。
「ハリー・ポッター」が文学かどうかは知らないが、それが文学ベスト100に選ばれているランキングが参考になるかというと、あまりならないんじゃないかな。
どのランキングにしても19世紀以降の西洋文学に偏りすぎなのだが、そこはもう仕方がない。
このような基準で選んだランキングは以下の4つ。検索すればソースはすぐ出てくると思う。
・ガーディアン誌による「The 100 greatest novels of all time」(いつ誌上に掲載されたのかはわからなかった)
・Goodreadsによる 「Top 100 Literary Novels of All Time」(国内でいうと読書メーターや読書ログみたいな位置づけのサイト。ユーザーが投票して選出している)
・Modern Library(アメリカの出版社)による「100 best novels」
・アメリカの文学者Daniel S. Burtによる「the Novel 100: A Ranking of the Greatest Novels of All Time」(同タイトルの書籍がある。Burtは英文学の講師をしていたらしい)
4つのランキングのうちすべてに選出された作品は、ナボコフの「ロリータ」と、ジョイスの「ユリシーズ」の2つだった。ロリータすごい。
4つのランキングのうち3つに選出されたのは、以下の28作品。
このうち22作品はすでに読んでいた。
けっこうそれっぽいタイトルが並んでいるように見えるが、日本ではほとんどなじみのない作家も中にはいる。ジョセフ・ヘラーとかフォード・マドックス・フォードとか。
フォードの「善良な軍人」が翻訳されているかはわからなかったが、これを除けばすべて翻訳で読むことができる。すばらしい。
ブコメの指摘から、フォードの"The Good Soldier"(上では「善良な軍人」と訳した)は、「かくも悲しい話を…」という邦題で翻訳されていることがわかった。ありがとう。
最近の増田には2chの書き込みを転載しただけのものがよく投稿される。
内容としても元から釣り目的で書き込まれたのか?と思うようなものが転載されているため、ブコメを多く集めてホッテントリに入ったりしている。
他人の土俵でいいから目立ちたい人達の犯行なのだと思われているようだが、実は違うのである。
彼らが期待しているのは、まず第一に元スレにあるレスの転載で応じてもらうこと。
文学者や歌人が過去の名歌の応酬で意思疎通するがごとく、知っている者にだけわかるやり取りを介して過去を再現する。
それを終えてようやく、元スレにはなかった生まれたばかりの新たなレスがつくことが望まれる。
一度終わったはずの会話、一度決着を見たはずの結論。
もうスレッドが終わって口を挟めなくなった空間への、歯がゆい不快。それを塗り替えることが可能になる。
過去を再現し、付け加え、歴史を変える儀式。昔話が今の形になるまでに辿ってきた進化の道筋のように、ネットにこぼれ落ちた話もまた生まれ変わり続けるのだ。
アフィカスがまとめたくだらないまとめをまた読んでしまった http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1236466
ラノベオタクはすぐにラノベの「定義」がどうのと言うけど、このことこそ彼らがいかに無教養かということを示している。「定義」を絶対視し厳密に議論しようという科学的態度の自分たちこそ教養ある人間だと思っているかもしれないが、実はそれは単なる盲目的な科学主義にすぎず、文学(もちろんラノベも含まれる)という現場とは相性が良くない。いかにも中途半端な理系が多そうな発言ではある。
本来言葉の定義というものは存在しない。辞書に書かれてあるのは編纂者が勝手にまとめたものにすぎない。彼らは神ではない。権威ある辞書の存在しない時代にも言葉はすでに存在したなんてことは誰にとっても明らかだろう。
言葉というのは使い方によって意味が決まってくる。言語使用こそがすべてである。辞書に書かれた定義という閉鎖的な意味だけを持つのではなく、言葉というのはもっと開放的で自由なものだ。もっといえば創造的なものだ。それこそが詩というものであるわけだし。極端なことを言えば、同じ言葉でも発されるたびにすべて意味的にも差異がある。本質的に言葉というのはいつもアドホックな意味を持っている。辞書の定義そのもので厳密に語られるということは実はそれほど多くない。
文脈を共有し言葉にアドホックな意味を込める、そしてその意味を共有しあう、そういうのが人間同士のコミュニケーションだ。定義通りにやり取りするのはAに対してはBという動作で確実に反応するようにプログラムされたロボットだろう。ラノベオタクはこういうロボット的なコミュニケーションこそ科学的で崇高で尊敬されるべきだと考えているのかもしれない。しかし現実はそうではない。むしろ逆だ。冗談を言い合うとき、無意識のうちに通常の辞書的言語使用とはずれた使い方をするし、そういうずれをお互いがすぐに理解して笑いあう。そんなことは日常生活に当たり前に存在する。「定義」がどうのと言っているのはそれこそ文字通りにしか文章を読めない人たちであり、彼らはたしかに科学者ではあろうが、文学者ではない。ラノベオタクにはそういう科学者的態度の人が多いというのが不思議だ。彼らは文学愛好家ではないのか。
件のまとめも、定義がどうのと言わず意図を読み取ろうとすれば読み取れるわけで、またつまらない揚げ足をとって、他者の発言を理解しようとしていないではないか。ラノベオタクというのは基本的に他者に対する興味が乏しい。世間の人々は平凡な言葉にアドホックな意味を込めて使うが、ラノベオタクはそういった辞書的定義から外れた言語使用を嘲笑して、そんなものは厳密な言語ではないからと認めようとしない。これは他者を理解しようという意志がないということを意味する。要するにラノベオタクにとって世界に他者は存在せず、自分しかいない。だから自分の攻撃性には無自覚で、簡単に人を傷つけ、ひどい差別語で罵るようなことを毎日やっている。
ラノベオタクはたくさん読書をしているのに、想像力が貧困で、人文科学を蔑視し、科学主義に凝り固まっている堅物でしかない。そして彼らは自分たちこそ真に教養ある知識人だと思っていて、自分たちのやり方以外のもの、自分たちの思考様式を外れたものは非科学的で嘲笑すべきと思っている。これによって出来上がるのは他者に対して不寛容な厄介なおっさんなのである。
NHK-BSで、朝ドラ再放送~最新朝ドラ早版を30分連続でやってる朝の枠があって、出かける準備をしながら斜め見するのにちょうど良くて見ている。今は再放送の花子とアンとわろてんかが、どちらもちょうど太平洋戦争中というタイミングである。
朝ドラにおけるお約束として、当時の世相は「軍国化する体制側」と「軍国化に追随する常識的な市井」と「不本意ながらも追随せざるを得ない主人公界隈」という構図で書かれがちである。ドラマなので美化しているところも現実とは違うところも沢山あるだろうが。
まぁ、言論弾圧に反骨し投獄され獄死した人も実際にはいたわけだが、朝ドラで取りあげるには明らかにカロリー過多だし、結果的にぼろ負けした戦争を指揮したボンクラどもの尻馬に乗っかって踊った「善意の市井」を主人公にしてヒロイックに描くほどさすがに無知性に極右化するわけにもいかないだろうし、「善意の市井の恐ろしさ」を皮肉として描くには、獄中死を取りあげる以上に高カロリーすぎて朝から胃もたれ必至なので無理だろう。
増田は若いころから、「こんなに分かりきって馬鹿げたことをやっているのに、なぜ当時の「善意の市井」たちはそれをどんどん受け入れていったのだろう」というのが不思議で、戦時中もののルポやら文学作品やら日記やらを読むのが好きである。
朝ドラはフィクションである、とはいえ、歴史資料(あまり正確なものが残っていない。当時も今と同じように時間がたつと自動的に消える仕組みになっていたのだろう)や日記(文学者が残した戦時中の日記はとても興味深い)などを読んでみても、朝ドラと同様の「アホな指導層/それに踊らされる自称常識人/不本意ながら付き合わされる主人公」的な構図を見つけることはできる。
こういう趣味があるどちらかというとリベラル寄りの増田なので、ついそう読んでしまう面もあるが、太平洋戦争ではそれでまんまと、長期人口グラフでもあっここだよね!と分かるレベルでかくんと人口が減った戦争を、戦後は「ぼくら踊らされたんですー」みたいな顔した「善意の市井」の多大な協力で成し遂げたわけで、「善意の市井」の暴力性というか、大義(お国のために)と生活(逆らうと生きていかれない)が直結したときの怖さというか、そういうものがもうちょっと、朝ドラで書かれたらええのにないっそ、と思ったりもする。こういうご時世ですし、なおさら。
まぁそれはそれとして黒木華と藤井隆はほんと良い俳優だな、以前から両者とも好きだったが、どちらも難しい立ちどころの役をこなしている。藤井隆はマシューズベストヒットTVがベストアクトだと思っていたが、万丈目はんも相当良い。ドラマはまぁ、ちょっと吉本配慮が過ぎまへんか?とは思うが。
昨今は、民放局が良いドラマを作る体力がすっかり無くなっているせいか、NHKのドラマが相対的に良く見えるということもある。昨晩は録画しておいた弟の夫を見て号泣したところだ。あれは、演出演技脚本含めほぼ100点。
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。