はてなキーワード: リバタリアンとは
総理大臣が衆議院を解散すべきだと思ったから。特に大義は明言されていない。でもやっちゃいけない訳でもない。
守らない。大体そっち向きで進める程度の意味。進み具合はやりやすさや能力による。
まず、はてな系では左側に偏った意見のほうが多いってことを知っててね。『はてサ(はてなサヨク)』なんて言葉があるぐらいはてな系のサービスにサヨクさんがたくさんいる。
サヨクにもいろいろあって、リベラル(社会自由主義)とかリバタリアン(新自由主義)とか共産とか。自分も良くは知らないんだけど。立憲はそのなかのリベラルらしいよ。
世間一般的には少し保守寄りの人が多いよ。特に大人になると変化が面倒だし、伝統も大事にしたいからね。
どの党が自分に合うのか知りたかったら「ポリティカルコンパス」と「イデオロギーポジションマップ」を調べて。マップのほうは多分少し古いのしか見つからないけど、Wikipediaの党の『政治的思想・立場』にある『中道左派』みたいな言葉でだいたいどんな党かわかるようになるよ。
http://sakidatsumono.ifdef.jp/draft3.html
設問や評点方法にはどうやっても恣意性が入り込むから、結果はまあ参考程度として。
なんでこんなこと言い出したのかというと、
この二軸で政治的立場を判断する方法(ノーラン・チャート)がすごく捗ると思うから。
現状のネットの議論って「リベラル」とか「ネオリベ」とか「右翼」とか「保守」とか、言葉の定義が(人によっては恣意的に)メチャクチャで、全然生産的じゃないよね。
(煽りとか思想誘導したい人は別として)真面目に政治の議論をしたい人にとってみれば、政治的立場とは関係なく、この状況ってマイナスだと思う訳よ。
しまいにはリベサヨとか、訳の分からない言葉まで創作しだすしさ……。
みたいに各象限が分類されてるけど、この「リベラル」とか「保守」って用語自体がもう定義から汚染されまくっている(例えば、どう見ても大きい政府なのに保守を標榜する政党とか)ので、この際、用語自体を破棄した方がみんなのためだと思うんだ。
そもそも2つの軸があるのに、それを1語で表そうなんて横着をするから、混乱が起きるんだ。
手間を惜しまず、2語で表現すれば、もっと議論が建設的になるんじゃないかな。
「私は『大きい政府』で『個人の自由』を支持します」とか、「あの政党は『小さい政府』で『社会の秩序』を志向している」とかいう表現を使えば、紛れが無くなるでしょ。
一時期ニートをやってたことがある。同い年がちゃんと仕事をしている裏で、自分は家にこもってパソコンをあれこれいじっていた。
パソコンをあれこれいじっていたということはネットもちゃんと繋がっていたので、ド底辺オブド底辺な癖してリバタリアンな主張を主に家族に展開していた。
底辺が政治を娯楽にしたら終わりってたぶん色んな人が言ってると思うけど、この頃の自分はマジで政治が娯楽だったような気がする。
それから色々あって定職につきそれなりの収入を得られるようになると、政治が娯楽じゃなくなった。というか、政治がどうでもよくなった。無論ミサイル飛んでこないかは心配するけど、実際に考えてるのはそのくらいで、結構やばかったなと思う。
フェミニズムとかリベラリズム、もっと言うと保守でもいいんだけど、
基本的にはそこで争っている。
「女がもっといい思いできる世界、虐げられない世界」を目指すのがフェミニズムなわけじゃん。
で、それってそもそもそういう欲望とか希望に向けて駆動しているイズムなんであって、
そもそも「みんなのこと」についてのモデルではなくてもいいわけじゃん。
ただ、「女がもっといい思いできる」っていうだけだと摩擦が色々生じる。
「なんだよ、女だけかよ」みたいな。
って、わけで各種もろもろ社会との調整でやっぱみんな自由がいいよね、ってことにもしとこう。
んなわけでリベリズムに接近していく。
リベラリズムも超簡単にいうと「自由がいい」っていう話じゃん。
自由だと幸せ。でも完全に自由(リバタリアン)だと色々不都合も起きるから、
意図的に自由が最大化するような制限をして調整するよっていう。
(ここでの「意図的」がお前らの都合じゃん!みたいなツッコミとかが入れられてるわけね)
めっちゃカリスマあるやつに任せた方が色々話が早いからそうしよう、みたいな。
それはそれで「それが我々の幸せにつながるのだ」と信じて歴史的に選択されるわけじゃん。
で、それも賛同するかどうかはおいといて「分かる」よね。
で。でね、反・リベラルとか反・フェミニズムってそうじゃないじゃん。
ようは「幸福になるために邁進してるやつにケチつける」っていう。
フェミズム/リベラリズムの限界とか本性とかいって貶すのやたら好きじゃん。
そこはいいや。
別になんでもいいのよ。
「エマみたいな女は生態系のバランス取るために非モテブサイク金なしと結婚せさズム」とか、
「俺以外全員俺の性奴隷ズム」とか。
誰も賛同してくれないかもしれんけど、超わかる。意味がわかるじゃんね。
ああ、そういう世界を望むやつってわかる。
めっちゃ好きに女蹂躙して、でもそれが俺の幸せなんで、その世界目指していきます!
レッツ!ハッピー!
それに向かってフェミやリベと戦うのって「分かる」んだよ。
だけど、反フェミニズムとか反リベラリズムはそうじゃないよね。
違う。
で、要はどういうことかっていうと。
俺より幸せなやつは死ね、そして大概のやつは俺より幸せなんで大概死ね、って話じゃない。
これはいかんよね。
あとに続くところがない。
「絶対にこないだろうけど、でも頑張って成り立たせたい世界」について、
いろんな陣営が戦うことについて、私は普通のことだと思う。超あるあるじゃん。
でも、とにかく反フェミニズム反リベラリズム的なものに汲みしているやつは、やばいよ。
幸福に至るための歩みじゃないわけじゃん。
とにかくなんらかの幸福に進むためのイズム「では無い」わけじゃん。
これは圧倒的にやばい。
だって、どう考えてもその反なんたら主義者が幸せに至る方法が無いんだから。
そのうざいやつの位置に立って自分がキャッキャッうふふしない限り、
キャッキャッうふふしようとする気はないけどキャッキャッうふふしてるやつは殺したい、
これが実はフェミニズムやリベラリズムが戦わなくてはいけないものだと思うわけ。
なんでって「この自分が幸福になれるであろう世界のモデルを持てない人間」というのは、
ある意味、リベラリズムが徹底された世界においての最弱者であるから。
まあ、よく言われることかもしれないけど、そういう反幸福主義者的なものが出てくるのって、
ようはフェミニズムはリベラリズムが結構な成功を納めちゃったことに起因してる。
平等だか自由だか知らんが俺の世界でキャッキャッうふふしてんじぇねえ!っていう怒りは、
やはりかなりたくさんの人間がキャッキャッ調子に乗り始めてるところによる。
昔、赤木なんとかいう人が似た感じで「希望は戦争!エリートどつきたい!」とか言ってたんだけど、
<希望は戦争!とか文章で書いちゃう奴>は戦争ガラガラぽんなってもどうせ、どつかれる側だわって思った。
そんな感想とよく似た感じで反なんたら主義者は、なんたらが敗北してもどうせどっかで敗北してるだろうし、
masudamasterはフェミニズムが世界から消滅したらブクマする話題なくて死にそうだなって思った。
困った困った。
https://anond.hatelabo.jp/20170715180955
↑連邦議会・党試案 2
「連邦」は大洋に囲まれた大陸国家である。その大陸では唯一の政府機関。
≪下院の説明≫
≪上院と地方自治の説明≫
連邦州ごとに異なる。
概ね…。
大きな州:3議席、中小の州:2議席、連邦市州:2議席、準州:1議席が与えられる。
選挙制度:自治体(州など)の議会(州議会)にて、連邦評議会の議員を選出する。
②人口が少ないなどの理由で、連邦州に昇格できないが一定の自治を有する「準州」(連邦政府の一定の監督を受ける)。
③連邦政府と「条約」を結んで、傘下に入った「連邦加盟共和国」。
…の三形態がある。
連邦に拠点を置く旧世界(北西大陸及び南超大陸など)の「亡命政府」や
地域の「少数民族集団の代表組織」がオブザーバー(投票権がない「組織」)として
評議会への参加を認められている。
ちなみに各々第一級自治体の議会構成も「連邦」のミニチュア版に近い。
自治体ごとに多少差はあるものの、全ての第一級自治体に「二院制&諮問機関」の形態が存在する。
→第一級自治体・連邦構成主体(連邦州、連邦州、準州、連邦加盟共和国)
地方警察の設置、社会保障の枠組み作り、租税の徴収や公共交通機関や大規模な都市計画などの複合的な公共事業を行う。
→→第二級自治体・地域中核自治体(市政府、郡政府、自治区政府≪少数民族集団の自治区≫)
中核自治体。州政府の干渉が強い群政府と干渉が弱い市政府、そして自治区政府に分けられる。
多くの場合、市政府は人口の多い区域に成立する。群政府は人口希薄区域に多い。
都市計画や選挙事務、大規模な公共施設の管理運営など基礎的な業務を行う。
自治区政府のみ州政府と調整の上、民族区警察を置くことができる。
→→→第三級自治体・基礎自治体(市の区部、郡部の町や村など)
基礎自治体。身近な行政サービスを行う。窓口業務やゴミ出し、インフラ管理、小さな公共施設の管理など。
他には、ある特定の行政目的のために複数の自治体が共同で設立した「特別行政区」がある。
指定組織:連邦議会及び連邦評議会の議決(3分の2以上の賛成)を経て「指定諮問資格」が与えられた組織。
の三種類がある。
→一例
労働組合、産業・商業団体、金融団体、生産者団体、専門職団体。
上記の組織は「指定諮問組織」として議会から諮問を受ける場合が多い
ただ、必要に応じて「指定組織以外の組織」も諮問されるケースもある。
(それ以外の組織も出すことは出来るが…。)に出すことが出来る。
連邦議会内のうち「3分の2以上の賛成」
がなければ、指定を取り消されることはない。
諮問は重視されるが、あくまで「結論は連邦議会の採決によって決定」される。
特別指定諮問組織は連邦議会内では、連邦議会の「諮問・補助」に徹しなくてはならない。
この仕組みは、コーポラティズムから(或いは職能代表制)影響を受けている。
≪議会制度のまとめ≫
下院優先主義。
上院と下院で意見が分かれた場合は、下院で再度議論がなされた後に決がとられる。
下院のみ解散が可能。
解散できるのは議会自らか、政府のみ。解散後速やかに再選挙が行われる。
≪主要政党≫
社会民主党、立憲民主党、緑風共生会議:387(217+107+63)
→民主主義・社会民主主義・自由主義・立憲主義・福祉国家・緑の政治
・進歩主義・ハト派・中くらいの政府・社会包括主義・連帯主義・共生主義
→→労働組合員、各種業界団体(特に社会福祉、教育、出版、芸能系)
(国政の最大与党。
左派リベラル各党が保守党に対抗すべく、3党が協定を結んだ政党連合の形をとる。
3党の中ではそれぞれ党内自治が行われているが、重要法案の際に同盟の中で党議拘束をかけられる。
「同盟」は福祉国家を目指した上で、経済の自由化を目指すことを表明している。
支持母体は自由主義・中道主義系の労働組合や宗教団体や商工業団体。
一部、穏健保守層や役人の支持もある。
支持母体は市民運動、左派系知識人、芸能団体、教育者団体、生産者団体など。
環境主義や農民主義のほか、社会的弱者の保護、多文化共生社会、脱物質主義を掲げている。)
保守共和党:301
(→保守主義・自由主義・共和主義・タカ派・地域分権・小~中くらいの政府
→→宗教保守系、農民団体、各種業界団体(特に建築、発電、製造、輸送、観光など)
(最大規模の野党。
連邦の地方都市や郡部で特に勢力が強く、全国広くに地域支部を持つ。
支持の中心は社会秩序を維持したまま、経済的な自由を促進したい者たち。)
:主要政党 計688議席
≪中堅政党≫
・「自由改革の集い」
自由改新党:42
→中道右派・新自由主義・市場原理主義・自由競争の原理・ベーシックインカム
・中央集権と小さな政府・表現の自由と科学の発展・公共事業の最小化
→→ベンチャー起業家団体、科学者団体、都市部住民、ポピュリスト。
右派の旗を掲げて、保守層に接近している。都市部で支持を固める。
保守党に接近しつつ、自党のテーマを浸透させるのが現状の目標。
リバタリアンの要素もあるが、保守層の理解を得るためその要素をなるべく隠している。)
・「緑の協同体」
大きな政府、協同組合の普及、市場の一部統制、持続可能な全国一律の開発。
連邦協同党は大都市や地方都市、社稷緑風党は郡部に基盤を持つ。
「反新自由主義」の観点から、自由改新党とは互いにけん制し合っている。
民主中道同盟とは関係が深い。事実上の統一戦線を組んでいる。)
・「人民戦線」
:30(23+3+3+2)
→社会主義、共産主義(愛郷同盟は保守・地域主義)・急進主義・労組組合経済論
非正規の組合、衰退した地方層、マイノリティ、アングラや前衛系文化団体。
(「人民戦線」は議会中心主義を掲げているが、しばしば街頭で直接行動も行う。
ただし要所では協力する。
全体的にアクティビストの連合と言う面が強い。
①「人民共産党」は左派貧困層やマイノリティ、反主流派の知識人から熱い支持。
主に都市部からの支持が目立つ。支持母体は急進的な労働組合、退役軍人組合
農民団体、中小企業の商工団体など。都市部に多くの拠点を持っており
支持母体と共同する形で、救貧活動や労働運動などの社会活動も直接行っている。
もともとは「旧社民党」の中で「急進主義」を掲げる者か離党して結成した政治グループ。その後、他の左派の小規模勢力が合流したため政党化した。旧党名は「急進社会党」。「人民戦線」結成を機に党名を変えた。
いくつかの加盟組織の会議体という面もある。
相互扶助や啓発のため、シンポジウムや相談会を良く開いている。
③「愛郷同盟」は、地方政界や一部の右派を取り込むために活動している。
宗教や農民団体との関わりも強く、時には保守系との橋渡しも行う。
④アングラ系のアート集団や知識人、あるいはより個性的なアクティビストの
支持を取りまとめるのが「雑民の党」。彼らは「表現の自由」にも力を入れる。)
中堅政党:計104議席。
≪小規模政党・独立系≫
地域主権合同党:14(12の州で加盟組織が活動中。内、9の州の加盟組織から議員を輩出)
→右派左派混合・主権の地方委譲(徴税権の地域政府への大幅譲渡、地域政府の限定的再軍備)
→→地域主義者、地域系労組、地域系商工組合、地域独立を望む住民。
(地域政党の集まり。反中央集権、地域分権を掲げる。イデオロギーは保革混合である。
「党」よりも加入した連邦議員(或いは地域政党)の緩やかなネットワーク団体に近い。
ただ、党内連合会議は存在しており、最低限度のルールの尊重は義務付けられる。)
独立系議員団「民主中道同盟」海賊党・公正連合:17(13+4)
・表現と情報の自由・民主共助・へき地福祉支援・公正主義・中くらいの政府・社会自由主義・共生主義
独立系業界団体、独立系右派労組、保守系革新層、ポピュリスト。
自由改新党とは互いにけん制し合っている。
緑の共同体は党議拘束がある。こちらには「原則は存在しない」のが特徴。
立場上は「政党」となっているが、事実上の「保守、中道系の無所属系議員の連合」
と言う意味合いが強い。
海賊党を会派に引き込んでおり、左派や若者の支持も集めている。)
・「第三の道」
国家革新党:10
→国家社会主義・国民団結主義・大きな政府と中央集権・反移民政策
→→独立系右派労組、独立系業界団体、神秘主義者、革新アート系、傍流系地方農家
(いわゆるネオナチ。
派手な示威行動のなかで「国民団結主義」と「我らの敵の存在」を呼びかける。
計41議席。
社387+(閣内協力:協32+民17)+(部分協力:人30):466議席
保守301+自改42:344議席
第三の道:10議席
436議席の場合も。
→→準与党:人:計30議席
・地域政党:14議席(地)
各議員の自由度が大きく、党員拘束はされない。)
・野党:343+10議席(保改・国)
:計833議席(過半数:417議席)。
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/1386963.htm
引っかかる事は多くある。
特に「一度流れると回収が不可能」などと世の大人達をうまく丸め込んでお上は賛同させようとする。
「一度流れると回収が不可能」だと言うなら、性的な文脈においては成人女性がAVに出演するのもそうではないか?
誤解しないでほしいのだが、私は反ポルノグラフィーを掲げている訳でもなければ、AV強要問題とか、そういう筋について語っているのではない。
寧ろ私は、表現規制にも反対だし、ポルノグラフィも完全に認めるべきだと思っている。
漫画でしか見た事がないが、「AVに出演した過去が彼にバレた……」「AV出演の事実が友達の間で噂された」などとよく聞く。名前のない女たちかな。
最近ではそういった事は昔に比べては減っているとは思うが。
AV強要問題は、タチの悪いAVメーカーならそういった事はしているのかもしれない。
ただね、私は合意の上であれば例え未成年と大人、未成年同士でも性行為はOKだと思っているし、売買春も構わない。
性教育がダメだったり一部の保守派が反対するなら、家で教えるのもありだし、今はWikipediaもある。
Wikipediaは難しい?性教育の本を図書館で読み漁ったりすればいい。
手段は無制限にある。他人の基本的な権利を侵害しない限りなら。
マジレスすれば、他人の基本的な権利を侵害する手段も選べるのは選べるが、それは高い代償を払わねばならなくなる。
私も小学生の時は性教育の本を読み漁ったり、Wikipediaで調べまくったりしてたよ。今もだけど。
というか、未成年が自発的にやる売買春に国家が介入すべきでないと思うよ。
というか、合意の上での児童売買春を禁じる根拠が薄いと思うんだよ。
先の話で言うと、「裸の写真を送れ!」と無理矢理送らせるのは強要罪であり、自己決定権の侵害です。
それを、お偉方が「裸の写真を送らない!」と啓発するのは、裏に(裸の写真なんか送るから被害に遭うんだ)と言う言外の意図が含まれていると私は考えます。
これでは、ISISにジャーナリスト・後藤健二さんが殺害された事件で、「シリアに行ったからお前は殺された。行かなきゃいいのに」と言うのとどこが違うのでしょうか?
もっと言えば、「レイプに遭うのは露出度の高い服を着ていたりふしだらな行いをしているからだ」となり、こうなるとふしだら侮蔑と変わらないと思うのですが。
最も、後藤さんの件でも、フィフィやデヴィ夫人など、自己責任論を振り翳して一定の支持を得る所を見ると、こういうものには寄せ付ける何かがあるのかもしれない。
あいつらよくアメポチとか言われてるけど、絶対に民主主義とか人権とか憎んでるじゃん
たしかにアメリカはクソな部分がすげえ多い国だけど、国是として民主主義、自由ってのがあるわけでさ、トランプとかに抗議してる人たちもこれを根拠に抗議してるわけ
だからリベラルも愛国の一形態なのがアメリカな訳よ、そしてそれがアメリカの真の強みだと俺は思っている
翻って我が国を見ると、ネトウヨがこれらの思想に賛同してるか?リベラルどころかリバタリアンにすらなれないだろあいつらじゃ
むしろ日本のリベラルの方がアメリカの根本的な価値観に共鳴していることが多い、そういう意味でリベラルこそ真の親米
ネトウヨはトランプやアメリカ軍事の話題だとアメリカ大好き左翼は反米と抜かすが、それ以外で突かれるとすぐ顔を真っ赤にするじゃん
こっからは俺の勝手な妄想で根拠ないものであってほしいけど、ネトウヨ自民はいずれ中国韓国をやっつけてくれると思い込んでたアメリカにも裏切られたと勝手に発狂してまたアメリカに牙をむくよ
ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。
↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義、ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。
ついでに、最近話題のポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。
文章はいい加減だし、今日の日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである。
たとえば、労働問題について考えてみよう。
「過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?
私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。
「過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府が長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。
人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権の範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しかし労働問題においては、そういう権利を適用するべきではない。
長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合、ブラックな労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである。
女性が労働するときのハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。
明治時代の日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化の過程では必ず「上からの改革」がある。
「旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊を排除することで、国民はようやく新時代に適応できる。
たとえば女性差別がひどい国では、政府が女子教育の権利を提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。
権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層や田舎にまで女子教育を普及させるには、政府が国民に権利を与えるだけでは不十分であって、その権利を行使することを国民に義務付けなければならない。
「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親や祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子を学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。
そして女子児童は、当人がまだ子供であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。
ここにおいて「多様な価値観を尊重せよ」などという主張は有害だ。政府は旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。
当然ながら現代の日本で、後進国が近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府や会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。
たとえば就活の会社説明会で服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令が必要だ。
上から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的な手段なのだ。
私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社や官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである。
前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベートな時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)
私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。
もし本物の極左ファシストであれば、プライベートな時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である。
近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。
そのときのリベラル側の主張は、「女性蔑視の表現は政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由を制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレに配慮せよ」というものであった。
私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視的であるからだ。
もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。
「女性の主体性を尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ。
しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性がハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別を肯定するという現象だからである。
被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別を正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。
(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)
私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。
そしてこれはあまり知られていないことだが、お上が纏足を強制していたわけではない。とりわけ清朝は漢民族のこのバカらしい習俗を忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足を選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。
この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。
そして子供のときは纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。
さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊を強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。
「纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性は成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」
http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html
西洋で女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。
これはまさしく、現代日本の女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしまい自家撞着するのと同じ心理だ。
ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性の主体性を尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。
無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足やコルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別が過酷なものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。
だから我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしまう女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである。
なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働の問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家・知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。
この理論を適用すれば、女がオシャレをする自由を是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。
twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。
リベラリズムの本質的価値-自由、平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。
「スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より
https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995
前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。
乗り越えてもいいと言っている(少なくとも国家による禁止に言及していない)し、フェイルセーフを”国家が”用意するとも言ってないから俺が分類するならリバタリアンかなぁ。
フェイルセーフについては大きな国家を前提としなくても、個人の経済的、合理的、倫理的判断によって自発的に生じる可能性は十分あるし。
↑↑ではないけど横から失礼。
少なくとも現代の一般的な区分では、リバタリアンとリベラルは国家の大小の違いはあるけど、個人の自己決定権を重んじるのは同じだよ。
語源からしてlibertyだし、リバタリアンはリベラルから出てきたものだし。
そこら辺はリベラルが(リバタリアンからみて)自由じゃなくなってきたという政治哲学史の話になるのでややこしいけど、とりあえずはノーラン・チャート(政治思想を「個人の自由」と「経済の自由」の二軸で分類)を調べてみるといいと思う。
>最小国家で法律とか最小限のルールだけ決めてあとは市場原理に任せて好きにやってれば最適化されるんだからそれでいいんじゃね
というのは主に「経済の自由」についての主張で、ここはリバタリアンとリベラルが違う部分。
おれはリバタリアンだけどそういう息苦しい社会は持続可能ではないと思う。
増田が挙げているのは自己責任論というより、自分のもつ特定の思想に反した振る舞いをする人間を罵倒するお墨付きが与えられる社会って感じだ。
本当の自由主義社会は、どんな行いも基本的に(迷惑を掛けない限り)許容され、
それによるどんな類の失敗であっても、ある程度社会がフェイルセーフしようとすることが肯定される社会だ。
増田のと真逆なんだよ。増田モデルは全体主義やファシズムに近い。
そして、自己責任論と結びつけられやすいリバタリアニズムだけれども、
非リバタリアンが想像するリバタリアンは「個人は自分のやることを理性的に判断して行動できる合理的個人である」
と主張して暗に「賢くなれ、さもなきゃ死んで当然」と言わんばかりのマッチョだと捉えられがち。
でもリバタリアンと言われる人の多くはそんなに凝り固まっていない。賢くなることは重要だとは考えるけどね。
だってそうでしょ、人間はつねに合理的行動ができるなんて思っている人はそうそういない。
認知症だから重大事故を起こしてしまった、お前が認知症なのが悪い、
ギャンブル依存だから破滅してしまった、お前がギャンブル依存なのが悪い、
そういった例が100%自分の責任、自分のコントロールの圏内にあったのか、と言われれば誰もが難色を示すだろう。
そもそも情報があふれかえる現代、人は自分の意志で「自己決定」していることなんてあるのか、
「~からの自由」である消極的自由は守られるべきだが、「~する自由」である積極的自由を認めすぎると
衝突にあふれた社会になり、他人を攻撃・制御・統制しようとする邪悪な自由に侵食され、消極的自由が脅かされる。
穏健なリバタリアンは、車を持ったりタバコを吸ったりする自由などほとんどは認めるけれど、
それによりどうなってしまうか、合理的な判断ができるように、越境する前に柵を設置して、注意書きをするんだよ。
そうやって「自分の意志で乗り越えてる」ことを明確に意識させる配慮をした上で「自己責任ですよ」と言う。
もちろん乗り越えて死んでも知らんぷり、というわけでもなく、最低限の救いは用意するし。
理性的な判断可能性をブーストしたうえで(これがリバタリアニズムがITとの親和性が高い理由)の自己責任。
それは、乗り越えて失敗した人を切り捨てる(ザマーミロする)ための自己責任ではなくて、
猜疑心が強すぎるのでは。そういう乱れた場もあるのかもしれないが、
おそらく実際としては、現役コスプレの子たちの言っているような健全な場の方がはるかに多いのだと思う。
往々にして、外部の風評というのは特別醜悪な部分だけ抜き出し、誇張され、時に捏造されたものなので、
それをベースに現役の子たちに聞くと、その聞き方によっては自分たちを愚弄していると捉えられ、頑なに反発されるのは当たり前のことだ。それを隠蔽と受け止めてしまったのでは。
というより、そのコスプレイヤーたちもあなたの友達だったくらいだから、概ねあなたと同じくらいの知性や倫理観の世界で生きてきた人だ。あなたの憂慮するような事に遭遇したなら辞めていたはず。
続けているということはそういう乱れた層の人間とは遭遇していないか、したとしても距離を置いて、真っ当にやっているのだろうと汲んであげ、配慮した上で訊いてほしかった。
このような、内側の人と外側の人との乖離を、私も別の件で感じたことがある。
私自身、ラブライブという作品のファンで、その作品性に、キャラクターたちの関係性に、演じる人たちの熱意に、心動かされ感動することしきりだった。今も作品を大切に思っているし、ファンも大半は悪い人ではないと思っている。
なにしろ内容が、多様性を尊び、拙さにも寛容で、思いやりにあふれた優しい世界観でありながらパワフルなベンチャー精神を鼓舞するような内容だからだ。
けれども、偏見の目でみられやすい美少女ものかつアイドルものでもある。大ヒットしファンを大量に抱える中で、やはり外部の人からは「気持ち悪い」と思われる部分が、ことあるごとに抜き出され続けてきた。
全身にキャラ缶バッチをつけた人や特攻服を来た人が徒党を組んで街を闊歩しているだとか、ファンが聖地の甘味処で騒いだだとか、あるいは殺人事件を犯した学生がファンだったとか。
そういう悪評に繋がりそうなことを、ネットの暇人たちは目ざとくみつけてきて、そのたびに作品のファンの呼称であった「ラブライバー」は、ネット上においては蔑称として認知されていった。
実際にそれ単体で迷惑を掛けているとは言い難い「痛ファッション」などについては、私自身はいい歳のおっさんでありグッズ収集欲も見せびらかし欲もないとはいえ、
あまりに叩かれるのが不憫で擁護していたりもした。もっと生暖かい目で見られるくらいでいいとは思うのだが、やはり外部の人は弾圧の対象にしたいくらい気持ち悪がるものだ。
ネットを見ていると、非ファンの人が触れる情報は、そういう「ラブライバー」を揶揄するものばかりだから、「あの作品はクズのキモオタ・ヤンキーの集まりなんだな」という印象になってしまっているだろう。
けれども、私が街や劇場などで目にし、触れてきたファンの若者たちは、平均的な若者たちと大差なく、基本的に礼儀正しく、親切で、真っ当なバランス感覚を持っている人が多かった(あとカップルが多すぎ)。
その乖離は、私が運良くファンの一員として内側に居たからこそ気づけたようなもの。
もし2013年のあの時、偶然スクフェスをDLせず、ネットに篭ってゆるいアニオタを続けていたら、ラブライバーにいい印象は持っていなかったと思う。
それほどまでに、「理解しがたい奴ら」への「嫌悪感」は容易に人の心へ侵入してくるものだと言うこと。
2ちゃんのファンが集う板でも、「前は『ラブライバーwww』って見下してたけど…」という人はよく見かける。
けれどもそうした人は、ラブライバーdisで溢れているメジャーなまとめブログのコメ欄などには行かなくなるし、可視化されない。
結果として、他人の醜態を嘲る卑小な感性の人々の持論ばかりが、ネットの総意になりやすい。
同じようなことは、もちろん他作品でもある。○国嫌悪だとか、著名な人、政治家・芸能人・経営者への態度でも起こりうる。
そういえば私はその前に、堀江貴文さんに関しても同じことを経験していた。
彼がなぜ罪に問われたのかについて興味をもって、ニートで暇はいくらでもあったので、日本の司法や経済についてWebコラムや本を読み漁った。
いろんな方面の有識者の彼に対する見方を総合した結果、彼は過剰に批判されていると私は判断した。
そして、むしろ彼の才能や考え方は尊敬に値するものが多いと感じてファンになった。もともと自分の思想傾向が彼同様リバタリアンに近かったせいもあるだろう。
もちろん世間の感覚とは真逆だ。いつまで経っても彼を「でも犯罪者でしょ」と思考停止して評する人が多いのは、息苦しいがどうしようもない。
ただ、彼が他と違うのは、今でも著名な大学に招かるなど、風評と切り離して是々非々で評価する人たちからは求められていること。
彼に限らず、歯に衣着せぬ物言いをする人は、どうしたって悪印象を持たれ、する事なす事マイナス補正が掛けられる。
それでもやってる事が保守的な職人キャラなら好かれることもあるが、破壊的急進的な行動様式の持ち主であれば、多くの日本人は嫌う。
私は「叩かれまくっている人から良さを汲み取れるオレカッコイイフェチ」になっているのかもしれない。
ほかにも、極論ばかりと叩かれる池田信夫だが、氏のブログは普通に勉強になることが多い。感化されて『資本主義と自由』や丸山真男を読むようになったり。
一種の中二病と笑わば笑え、それでも「安易に悪意に染まらない」心という得難いタレントを得たと自分では思っている。
話を戻すと、増田が難儀なのは、コスプレの世界に踏み込みそうなのが彼女だと言う所。
これが自分自身であれば、まだ傷つくのを恐れず飛び込んできちんと判断してやろう、という良い選択肢があるのだが、そうは行かない分、慎重になるのは分かる。
もし、増田があげた彼女のくだりが虚構で、コスプレへの嫌悪感を表明するための方便だったとしたら、この下衆がと罵倒してやりたい所だが、本当にそういう事なら、提案がある。
彼氏彼女の仲なのだから、二人そろってコスプレに参戦してみたらどうか。
彼女を守りつつ虫除けもできるし、彼女にとってもその方が嬉しいし楽しめるだろう。
コスプレの元ネタ作品を一緒に鑑賞する機会などもつくれるし、一石三鳥だ。
それをせずに、彼女にコスプレの醜悪な部分ばかり語って忌避するように仕向けるのも手としてはある。
それも彼女が保守的な性格ならいいが、そうでなければ「了見の狭い男」と取られる可能性もある。
そもそも結婚という制度自体が政治的なもので、そういう部分に嫌悪感を抱くリバタリアンは結婚制度を批判したりするんだけどね。
結婚という風習、人類の営み自体は否定しないけれど、それを国家が制度化して承認/否認をしたり、結婚した人間を優遇したりしはじめる時点で、
「この国において男女はこういうものであるべき」という思想が入り込んでいることは避けられないわけで。
まあネットの偉そうな婚活アドバイスに関して言うなら、性に対して何かのコンプレックスや複雑な思いがあるせいで、無意識に、
アドバイスに対してセクシズムを見出そうとして読んでしまい、それでモラハラに感じてしまう面もあると思うね。