はてなキーワード: アマとは
毎週熱心に見入っているアニメ「響け!ユーフォニアム」も、気がつけばあと1話でおしまいである。
この作品、プロ・アマ問わず音楽に取り組んだことのある人、更に部活に明け暮れた経験のある人は否応なく引き込まれるのでは?と思わされる。
とにかく京アニブランドの名に恥じない、とんでもなく作り込まれた傑作であり、見どころも沢山あるのだが、その一つはなんといっても滝先生。
主人公たちが所属する弱小吹奏楽部に赴任するや否や、どこまでも紳士的な物腰と笑顔で効率よく、かつ凄まじい勢いで部員たちを引っ張り上げ、それまでのどこかダラっとした集団を、コンクールを戦い抜くガチグループに変えてしまった顧問である。
巷では「あんな人が指導者だったらなあ」という声も少なからず聞こえてくる。
自分も何となくそんな気分でいたのだが、よく周囲を見渡してみたらリアルでそういう人がいた。
既に習い始めて数年経っているせいでそのスタンスに慣れてしまっていたが、振り返ってみるとかなり衝撃的な教え方だったので、それをつらつらと書いてみる。
赴任早々、滝先生は部員たちを集め「どのレベルまで行きたいか」選ばせ、そこで部員たちが大した考えもなく、かなりいい加減な流れで「全国を目指す」と決めてしまったことから、先生の猛特訓が始まる。
翻って自分の場合、レッスンを再開するのは大学受験を機に止めて以来だったが、今思えばなんとも身の程知らずというか、「○○の協奏曲と✕✕のソナタをやりたい」と言ってしまったため、ガチのメニューが始まった。曰く
「実はそんな厳しくやらず『いいですよ~よく出来ましたね』とひたすら言って楽しく教える方法もあるのですが、増田さんがやりたい曲は本当に上手くならないと出来ません。
そして本当に上手くなりたいのであれば、私もそうそう甘い顔はしません(にっこり)」
さて、レッスン再開当時の自分は、高校まで習っていた分の貯金を相当食い潰しテクニック的に荒れ放題、かなりアクの強い音を平気で出すレベルに落ちぶれていたのだが、一番まずかったのはその場のノリと勢いだけで演奏してしまうこと。
それの何が問題か分からなかった自分に、先生は「増田さんの演奏を真似してみますので見ていて下さい」と、自分の楽器を借りて再現してみせた。
そのあまりに破廉恥な音に、しまいには「もう勘弁して下さい」と言って止めてもらったが、ショックで帰宅後泣いた。まさしく「悔しくて死にそう」だった。
それに限らず、あの頃は毎回レッスンが終わるたび「あー今日も上手く出来なかったなー」と思いながら家路についていた。
帰ってからの練習は悩むを通り越し、真剣に苦しんだ。「まだ音が荒い、一体どうしたら・・・」と試行錯誤の日々だった。
また先生は自分の特性を見抜き、かなりフレキシブルな教え方をしてくれている。
例えば練習メニュー。
普通器楽でも声楽でも、練習と言ったら基礎練と曲練がセットである。そうじゃない練習なんて聞いたことがなかった。
それもさらう曲は全てコンサートピース級の名曲ばかりで、さらう過程で問題が出てきたら、問題箇所のため部分的にロングトーンとかの基礎をやってみるという練習方法。
こちらとしてはそんな思い切った練習では不安なので基礎練はしないのか訊いてみたところ、こう返された。
「生徒さんにも基礎練で伸びる人と伸びない人がいますが、増田さんは基礎練では伸びないと思います。
多分増田さんは基礎練のスケールやエチュードをやっつけでこなすタイプでしょう?
その先にあるのは曲練もやっつけ、更には本番もやっつけ・・・それだと何のために演奏しているんだ?という話になります。
レッスンを止めた後、そうやってどんどん音が荒れていったのではないでしょうか。
ですから基礎練はやらなくていいので、その分曲練に集中して下さい。
そもそも曲が仕上がることが一番の目的なのですから、だったら直接曲に取り組むほうが分かりやすいでしょう。
技術は演奏出来るようになるために、必要に応じて身に付けていけばいいのです。
その代わり、一音たりともいい加減な音を出すことは許しません。
どういう音を出したいかきちんと頭でイメージし、それが音になるまで一切妥協せずさらってきて下さい」
・・・とまあ、そんな感じでレッスンを受け続けた結果、どうなったか。
これ以上ないくらい厳しい目で見ている先生をして
「半年でここまで出来るなんて、順応性が良すぎて逆に出来てるか疑いたくなります」
「一年前とは別人です。以前どんな音で増田さんが演奏していたか忘れてしまいました」
と、そんな褒められ方生まれて初めてというアウトプットを得られた。
この先生は本物だ!と思い知らされた。
そうは言っても、目指す高みはまだまだ遠い。
でも結果が出ていると意外と気にならなくなるのだから、「人は単純だ」。
主 文
事 実
第一、当事者の申立
一 原告
「被告は原告に対し、金四○〇円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との
判決を求める。
二 被告
第二、原告の請求原因
一、原告は、訴外株式会社東京スポーツマンクラブの株主で、同会社が東京都南多
摩郡<以下略>において経営するゴルフ場府中カントリークラブの正会員である
が、昭和四〇年九月二一日同ゴルフ場を利用したところ、被告は地方税法(ただ
し、昭和四一年法律第四〇号による改正前のもの。以下同じ)第七五条第一項第二
号、第七八条の二及び東京都税条例(ただし、昭和四一年東京都条例第五四号によ
る改正前のもの。以下同じ)第四八条の一五第一項第二号、第四八条の一七第二項
の規定により、右利用に対する娯楽施設利用税として、原告から金五〇○円を徴収
した。
二、しかし、右娯楽施設利用税の徴収は、以下に述べる理由によつて無効である。
(一) ゴルフ場の利用に対しその利用者に娯楽施設利用税を課することを定めた
地方税法第七五条第一項第二号、第七八条の二の規定は憲法第一三条に違反する。
憲法第一三条は、個人の尊重と生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利の尊
重を規定しているが、およそ人として健全な身体を有し健康を維持するのでなけれ
ば右の権利の保障はまつたく無意味であるから、国民が健全な身体及び健康の維
持・増進を求めて体育ないしスポーツをする自由は、当然同条の保障する国民の権
利に含まれ、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とするものと解すべきであ
り、このことは、憲法第二五条や教育基本法、学校教育法等の規定からも明らかで
ある。従つて、体育ないしスポーツを一般的に禁止又は制限することはもとより、
特定のスポーツを直接禁止又は制限することも憲法上許されないことは当然である
が、更に、スポーツ自体の禁止又は制限でなくても、ある種のスポーツをすること
に対して課税し、あるいはそのスポーツの性質上一定の施設を必要とする場合に右
施設の利用に対して課税することは、担税能力のない者からスポーツを奪う結果と
なる点において、スポーツに対する間接の制限に外ならないから、かかる課税はや
はり憲法第一三条に違反し許されないといわなければならない。ところで、わが国
におけるゴルフは、以前はたしかに一部の富裕者の娯楽とされていた時代もあつた
が、今や老若男女を問わず一般大衆に親しまれ、長期にわたつて人生最高の潤いを
もたらし、青少年の体位の向上、老壮年の健康の保持等国民一般の希望に密着し、
健全なスポーツとして異常な進歩・発展・普及をとげ、ゴルフ人口は二〇〇万人以
上といわれるほどであり、ゴルファを統合する団体も数多く設立され、また、最近
においては、高校、大学等でゴルフ部を設けているところが少くなく、ゴルフを正
式の体育の教科としている大学すら存在する。かくて、今日ゴルフは、社会通念上
スポーツとして観念され、これにより国民の体位の向上、健康の増進、スポーツ精
神の涵養をはかる重要な手段とされるにいたつたのである。そうだとするならば、
ゴルフにゴルフ場が必要なことは明らかであるから、ゴルフ場の利用に対し娯楽施
設利用税を課することを定めた地方税法の前記規定は、スポーツであるゴルフを間
接に制限するものとして、憲法第一三条に違反し無効であるというべきである。
(二) そればかりでなく、右地方税法の規定は、憲法第一四条にも違反する。
すなわち、スポーツに一定の施設の利用を必要とし、かつその利用に対して料金
を支払うものとしては、ゴルフの外にもスケート、テニス、水泳等があるが、テニ
スコートや水泳プールの利用に対して課税されたことはなく、また、スケート場
も、以前はゴルフ場とともに娯楽施設利用税の課税対象施設に含まれていたが、昭
和三二年七月の地方税法の改正の際、スケートにはスポーツ性が強いとの理由によ
り課税対象施設から除外されたのであり、他にアマチユアスポーツ施設の利用に対
して課税している例をみない。しかるに、等しくスポーツのために利用する施設で
ありながら、ゴルフ場だけは依然娯楽施設利用税の課税対象施設として存置され、
その利用者に対してのみ右利用税が課されていることは、明らかに他のスポーツ施
設利用者との間に税負担の公平を欠くものであり、法の下の平等の原則に違反する
といわなければならない。
(三) 仮に地方税法第七五条第一項第二号及び第七八条の二の規定が違憲でない
としても、本件府中ゴルフ場は右規定にいう「ゴルフ場」には該当せず、少なくと
も原告の同ゴルフ場の利用に対しては娯楽施設利用税が課されるべきでない。
地方税法第七五条第一項各号は、娯楽施設利用税の課税対象施設を掲げ、それが
どのような実体のものをいうかについては格別の定めをしていないが、娯楽施設利
用税が娯楽施設の利用に対して課されるものである以上、営利の目的をもつて不特
定多数の第三者に利用させ、料金も徴する娯楽用の施設に限ると解すべきであり、
従つて、形式的には右各号に当る施設であつても、社会通念上右のような性質を有
しないようなものは課税対象施設に含まれないといわなければならない。例えば社
団法人日本クラブ内にあるまあじやん室や東京弁護士会内にある撞球室をそれぞれ
の会員が利用することに対して娯楽施設利用税が課されていないのはこの故であ
る。ところで、ゴルフ場にはいわゆるパブリツク制のものとメンバー制のものとが
あり、本件ゴルフ場はこの後者に属するがパブリツク制とは、個人又は法人がゴル
フ場を設置し、営業としてこれを不特定多数の第三者に利用させて一定の料金を徴
するものであり、その施設の設置には利用者はおおむね関係しないのに対し、メン
バー制は、主に法人が主体となつて会員を募集し、入会者から三〇万円ないし三〇
〇万円程度の入会金(保証金としての預り金又は株式払込金)を徴し、それによつ
てゴルフ場の施設をつくり、その会員にのみ利用させるもので、会員は利用の都度
若干の利用料金(府中ゴルフ場では二五〇円)を支払うほか、運営費として一定額
の年会費を納めるだけであり、会員以外の者(ビジターと称する。)は、会員と同
伴するか、又はわずかだけ発行されるいわゆるビジター券を所持する場合に限り、
相当高額の利用料金(府中ゴルフ場では三、五○〇円)で利用を許されるにすぎな
いという仕組になつている。そして、このようなメンバー制のゴルフ場において
は、施設の所有者である会社とは別に、会員によって組織されるゴルフクラブ(カ
ントリークラブ)という法人格なき社交団体があり、理事長、常任理事等の役員を
おき、会員総会、理事会等によつてゴルフ場の秩序ある運営にあたつており、その
主たる目的もゴルフ競技にあるのではなく、あくまでも会員相互の親睦によつてゼ
ントルマンとしての教養とモラルを涵養することにあり、このため、本件府中カン
トリークラブにおいても、会員を選定する手続は厳正で、正会員となるには、まず
前記株式会社東京スポーツマンクラブの株式六○○株を取得し、正会員二名の推せ
んを得て入会を申し込み、理事会がゼントルマンとしての資格の有無を厳格に審
査・選考して入会を決定するものとされている。また、メンバー制ゴルフ場におけ
るゴルフの競技についてみても、上記の点に重きをおいた厳しい規則が設けられ、
まつたく健全なスポーツとなつており、娯楽などというべきものではなく、まして
以上のような諸点からすれば、メンバー制のゴルフ場は、営利のために不特定多
数の第三者に利用させることを目的とするものではないし、また、社会通念上も娯
楽施設といわれるものには当らないというべきであつて、地方税法第七五条第一項
各号に併記されているぱちんこ場、射的場、まあじやん場などのごとき営利本位・
射幸的な娯楽施設とはまつたく性格を異にするばかりでなく、前記パブリツク制の
ゴルフ場とも本質的に相違し、これらと同一に取り扱うことはとうていできないも
のである。かように考えると、同条第一項第二号にいう「ゴルフ場」とは、パブリ
ツク制のゴルフ場を意味し、メンバー制のゴルフ場を含まないと解するのが正当で
あり、少くとも本件のようにメンバー制のゴルフ場をその会員が利用することに対
しては娯楽施設利用税が課されるべきではないといわなければならない(ビジター
が課税されるのはやむをえない)。
三、以上の理由により、被告が原告から娯楽施設利用税として前記金五〇〇円を徴
収したことは、なんら法律上の原因なくして原告の財産により利益を受け、これが
ため原告に同額の損失を及ぼしたものというべきであるから、被告は原告に対し、
右金五〇〇円を不当利得として返還すべき義務がある。
この前の日曜日は参りましたよ。
ついにここも国際的観光スポットになったのかと感慨にふけってしまったでござる。
やはりのこの店の常連を自負する拙者としては、この海外からのお客さまを「お・も・て・な・し」しなくては。
同じロットのよしみとして、食券の購入をお手伝いする覚悟を決めていたが、拙者の覚悟は杞憂に終わった。
スマホを見ながら、食券の自販機をみごとに操作してみせたのだ。
この時点でヤバい!ヤバいですよ!と拙者の赤ランプがピカピカ点滅!
大豚Wを無事に購入した外国人の3人が拙者に軽く会釈をしてきた。
この会釈は柔道の試合開始の合図と受け取った。ついにバトル。国際バトル開始か。
拙者も大豚Wで応戦。ついに国際バトルのお膳立ては整った。
3人は、拙者にわからないことばで、ひそひそと話していた。
会話の内容が皆目見当がつかないので、このロットバトルへの不安がつのる。きょろきょろと当たりを見回し他の常連からの視線を感じた。
常連たちのまなざしは「がんばれ日本」という声援が感じられ、落ち着きに満ち溢れていた。
このオリンピックにも似た大舞台、拙者も落ち着かねば。修行が足りん!
外人さんはニンニク入れますか?の受け答えの困るのかと思い、ここは武士道の精神でフェアネスにコールの支援をせねば、常連が廃る。
ところが、隣の外国人さんは、「ニンニクいれますか?」ときかれて、
「ヴァーデュア・アーリオ・オーリオ・アマンターレアマンターレ」
とこたえていた。
「ヴァーデュア・アーリオ・オーリオ・アマンターレアマンターレ」て、何だよ。助手の人も聞き返すこともなく作業に戻っていった。
まじ国際化でござるよ。拙者のしらぬところで、お店がイタリア語対応していたでござる。
拙者、「お・も・て・な・し」するどころかうろたえてしまい、コールに失敗。ニンニク入れますか?に「はい」と、言ってしまった。
一生の不覚。一生の不覚でござる。
こんなハンデ戦。海外からのお客さまを「お・も・て・な・し」するには最低の舞台だ。
一心不乱にどんぶりと格闘していたが、大豚Wをたいらげた外国人の3人組みが先に「ゴチソウサマ」と店主に挨拶して出ていった。
拙者がギルティでござった。
精神科医といっても、香山某ではない。マンガ家のほうである。
まずはこのツイートをご覧いただきたい。
https://twitter.com/sinrinet/status/602960511290904576
で、全体はこちら。
http://yusb.net/man/785.html
2013/5/3ということで二年前に描いたもののようだ。
まず健康的な習慣云々については、
「成功しているからこそ健康的な習慣を持てる」
というパターンではないか問う必要が本来あるところだが、
まあ論文のほうで検討されてないとも限らないので、
原典に当たっていない以上はあまりやいのやいの言うのは避ける。
問題は、ツイートで引用されたあたりのあれこれである。
彼のツイートの主張はこうだ:
「天才と凡人の差は「やる時間」だけ」
これを述べるために、ドイツの心理学者の調査を引いている。
紹介された限りでの調査内容はこうだ:
『音楽アカデミー所属のプロのピアニスト』と『アマチュアのピアニスト』を対象とし、
『普段の生活にどのような差があるか』を比較した。
結果、大きな差は『練習時間がプロのほうが10倍長い』ことのみであった。
(プロは週33時間、アマは週3時間)
さて、これから上述の主張を導くことは正しいだろうか。
まあ、全く正しくない、というのが私の意見なのはタイトル見ても分かるだろうが。
・アマチュアとはどういう存在か
プロではない。プロではないということは、ピアノで生計を立てていない。
週30時間、アマチュアは何をしているのか。他の仕事かなにかではないのか?
この調査は、「プロを目指していた時は毎週33時間練習していたが断念して他をメインにしている」
とかいうのを排除できる調査なのだろうか。
今でもプロ目指してて週3時間ということはさすがにないと思うのだが。
・『天才』とプロを同じものとして扱うのは適切か
プロは一般のアマチュアより演奏技術が一段優れている、ぐらいまではまあ前提としてよいだろう。
だが、プロの全員が全員天才だという認識を一般に持たれているか、というとそうではあるまい。
いわゆる天才はみんな努力の産物なんだ、ということを示す際に、プロは努力量が多い、とか言い出すのは不適当だ。
・普段の生活の差は才能の有無にかかわらない
普段の生活で示せるのは普段の生活がどうかであって、
普段の生活に大きな差があったとして、
それはその差が影響しているかもしれないことを示唆しても、
才能というものの存在を否定しない。
・プロは多く練習する、は練習時間が多いからうまい、を特に意味しない
かもしれない、という可能性を示唆するものではあるが、
プロであるから練習時間を長く取るべきだったり、単純に取れるから練習しているが、
それが技術の上達につながっているかどうかはこの調査からは明らかでない。
ざっと上げてもこんなものである。
天才というものが存在するとして、天才だから努力しなくていいか、というともちろんそうではあるまい。
天才でなくとも、努力を積み重ねることによってそれを生業とできる、ということもあろう。
だが、こんな雑な論理で才能なんてない、ひゃー、とか言ってしまうのは問題だ。非常に。
プロとしての書き物として認知され、このシリーズは教科書にもなっているわけで、ますます。
//
とか書いてたらTLに何か流れてきた。
https://twitter.com/msugaya/status/602997088226549760
リンク先を見ても、
「最低10年間は集中した日々の練習が必要」という趣旨はあっても、
才能は時間の差にすぎない、ということを言うような例は挙げられていないのだが。
才能は時間の差にすぎない、ならば、同じ時間を積めば同じようにできるということになる。
そういう趣旨のことは何も書いてないよね?
まあ、精神科医がはまるなら他の人が同じ罠に落ちても仕方ないが。
この人の影響力も大きそうだしついでなので書いておく。
アマギフ最高額の50万でいいよん
と言ったらすぐ
「さっさと死ね」
とトラバされるのに
「お金欲しい!」
と言っても
と言う奴には会ったことが無い
多くの人に正しく意図を読み取ってもらえなかったのは俺の筆力のせい(牽強付会だし)が大きいから反省しつつ突っ込まないけど
id:catbears 要点だけ取ると、他人に行動要求すると対価を支払うか自分で行動しろといわれるが自分で行動したいと発言すると「どうぞ行え」といわれる。これ扶養から一度もはずれたことがない人が疑問に思うことでは。
自分の気に入らないウヨ、フェミ、オタク、etc.をルサンチマンやら非モテやら別視点の軸上で下方に置いて溜飲下げようとする連中多いよなあ
そういうのマウンティングって言うんだろ
あー気持ち悪い
因みに俺は外れてるぞ
ところで50万アマギフをくれそうな風を漂わせていたトラバ主はきょうもえに50万送っただろうか?
俺に送ろうがきょうもえに送ろうが、赤の他人に送ることには変わりないはずなんだがな
まあ送ったとしてもたったの一事案ではいけない
皆も金無い君に積極的に金を与えるように
GWに突入した。
でも筆者は金がない。
旅行は諦めた。
外出も労力を使うし。じゃあネットサーフィングでいいや
堕落した人間と思うかもしれないが、低所得者などこんなもんである。
「昔はこんなの無かったのに」
そう思い、失望するサービスはこの世に多い。
その一つに。
「エロ広告」
時にグロテスクなav女優や男優の気持ち悪い性交姿が表示されたり、
アダルトビデオのグロ広告を除き、
これらの漫画には作者を自己投影したグロテスクな男女が登場する。
彼らが恍惚と性行為に励む姿には、もはや呆れを通り越して圧巻だ。
例に挙げれば、女性に対する強姦。殺人。
暴力などの理不尽な行為ばかりが、
頼んでもいないのに眼前に表示され、嫌でも目につくのである。
だが、驚くことに、広告バナーの女性達は、いかに人権を侵害され、
性暴力を受けようが、満更でもない様子に描写されている。
「伯父さんのモノで感じちゃう」
吐き気を催すこの煽りには、悪意すら感じるが。
現実の女に対する憎しみが強いと思われる。
「キモオタが女を強姦する」
などという稚拙な設定が思い付くのだろう。
いずれにしろ、歪んだ男尊女卑的なものが見え隠れしているのが気持ち悪い。)
中でも最も気持ち悪いのが、三次元のアダルトビデオ女優の姿が、画面のど真ん中に表示される瞬間。
健全なサイトを閲覧しているのに、おもわず罪悪感すら感じてしまう……。
そんな喉元にまでゲロが込み上げる素敵なラインナップに、阿鼻叫喚の嵐だ。
商業誌やネットのみならず、児童ポルノをはじめとする性への規制が厳しいこのご時世。
しかし、大人の事情が絡むゆえか、一向に改善される余地はない、エロ広告。
まるで中学生の妄想を愚見化したような「便所の落書き」に、果たして何の意義があるのだろうか?
筆者の知識が乏しく申し訳ないが、自分なりに考察してみたので、ここにまとめさせて頂きたい。
まず、サイト運営には、サーバー代を安く浮かすため、広告業者と契約する必要があるのも事実だ。
そのため気が狂ったように消費者の目を引こうと設置されているが、時にはスクロールしても広告が追ってくる!
……まさにホラーだ。
一時期はあまりに不愉快極まりないため、広告非表示のフィルターをダウンロードしてみたのだが、……愕然!
これではまともにネットが見れない……。
その原因も改善されなかったため、いまは諦め、我慢しながら使用しているのだが……。
運営と業者にとって、広告を描く底辺絵師様も、ユーザーも、金儲けの道具であることにはかわりない。
一般の商業誌やらアニメであれ、いま流行りのソーシャルゲームも然り。
性に直結しなければ売れない、悲しい時代であるのは確かではある。
某イラスト投稿サイト、pixivでも、ユーザー作品に対する検閲が厳しくなっているが、ただ誠に思うのである。
中にはプレミアム会員と言われる課金ユーザーが一定数いるため、
運営はその資金により成り立っているのだが。
そのプレミアムユーザーと、無課金ユーザーの使用環境について、思う点があるのだ。
それは、「広告の非表示設定」だ。
私は無課金で数年間pixivを使用しているが、この機能には釈然としないものがある。
課金したユーザーは、不愉快と感じる無数のエロ広告を、削除することができるらしいが、
どうにも頂けない。
無料でサーバーを間借りしているとはいえ、何故このようなグロテスクな広告を見せられねばいけぬのか。
金を落とさなければ、使用者としての権利は奪われるものなのか。
運営に問いたい一心だが。
たかだか一人の消費者がメロスのごとく憤怒しようが関係ないのが現状だ。
小動物を扱った内容であれ、
「俺氏がセックスした件についてwww」
文面だけでもゲロ必須のリンク候補があらわれる。
まとめ同士がお互いにアフィリエイトで稼ぐ始末だ……。
悪質なのは、業者が「男性器肥大化サプリ」 「出会い系」を推奨するため、
2ちゃんねるを装ったステルスマーケティング。
これも堂々とリンク内に混じっており唖然する。
逆に唯一の利点と言えば、まとめブログにより、
沢山のスレッドが多数の眼に入る機会が増えたことだろう。
しかしどれも前後や後尾に不可解なものがある。
「俺氏が○○した結果ww」
「ンゴwwワイ将○○するやで~」
「キチママを退治した」
挙げれば切りがないが、大体このようなものに絞られてくる。
「なんj」「VIP 」「鬼女速」というテンプレに包まれたものばかりで、
もはや三行で終わるスレをまとめることに対し、何の意味があるのだろうかと閲覧する度に考えさせられる。
「はぇ~TDN に草生えるワイ将、打率四割ンゴ (白目) ゴメスくん!だいじっこするニキーwww」
……これを人目見て、理解できるだろうか?
彼らは専門用語を多用することにより、自分達がグループであるという和に快感を得るのだ。
「感動した、名作」
このような流れが日常茶飯事であり、
彼らにとっては一体感を高めることにこそ真の意義があるのだろう。
「キチママ殺しトメ腹パン!エネオはウトメとプリンし、私子流産! 」
統合失調病患者の方がよほど美文を書きそうだが、
ネット民もまた歪んだ病におかされているので、気づきそうにない。
きっと現実の孤独感が、2ちゃんねるを安住の地だと返還してしまったのだ。
せめてチラシの裏の駄文ならば、どうかそっとしてあげて欲しい。
そんなものを間違えてクリックして、検索履歴に残ったらと思うと……ゾッとするからだ。
加えてエロ広告が過度に表示された日には、吐き気で目をそらしてしまう…。
未成年者がこんな狂った世界を見て育ち、
誤った性に対する知識を得たとしたら、
これら製作陣はどう責任を取り、対処するのか。
「ウリイイィィィ~!俺らの広告は世界一イイイイイイイイイッッ 」
と言わんばかりに、グロテスクな有害物を主張し続ける。
「選ばされる」ことを望まない人間は、一定数いることを忘れないで頂きたい。
「性癖の押し付け」で嫌悪する人間がいること。
制作者側には、一度でも実感してほしいと切に願う。
両者とも、「選ぶ」 行為に対し、今まで以上に考えるべきであると思い立ったのが、 今回の記事に至る経緯である。
無論、広告だけではない。
これらは人気なジャンルらしいが、個人的には大嫌いなジャンルだ。
また、
ストレート、ゲイ、レズ、ネクロフィリア、ペドフィリア、ズーフィリア…。など。
上記以外にも、星の数ほど性癖はある。
先に断っておくが、
このような多種多様な性癖を否定するわけではない。
アンチスレに溜まる住民も五万といるが、なにも自分と違う性癖が嫌いならば、
関わらなければいいだけの話である。
なぜそれが出来ないのだろうか?
わかりやすい例として、
最近流行りのBl を支持する腐女子は大多数いる。
一方で、ゲイと腐女子 には、深い隔たりがあることはご存じだろうか。
そのため商業誌でも厳しく区分化されているのだが、昨今ではおかしなことになっている。
しかし、腐女子にとって、その壁は今や無いも同然の振る舞いが目立つ。
何のかんの理由をつけ、誤魔化しているが、
男性同士が執拗にベタつく姿を描くことにより、
というような自己肯定感に浸りたいのが本心であると思われても仕方ないのである。
アンチスレでは彼女らを「腐マンコ」と敬称する事が多い。
悲しい男の吹き溜まりでもあるのだ。
また、世間の誤った認知により、腐向けとゲイ向けは同様のものだと近距離を強いられてきた。
残念ながら、
両者は生理的に嫌悪しあうため、根本を理解しあうことはまず無いと断言できる。
あまりに危険すぎる距離感が、互いの傷をえぐりあい傷つけあう。
ゲイがある面では「性被害者」であるということを、少しだけ理解して頂けたら嬉しい。
そんなゲイにとって、
このような絶対的不等号がゲイの潜在意識には存在するため、今後もゲイと腐女子の冷戦は改善されないと予測する。
「俺はノンケじゃないけど、女よりは格上の人間だ」
この都合的な思想が覆されることはないし、
そして女に対する憎しみとは、切っては切れないのがゲイゆえの由縁かもしれない…。
を交えた三つ巴合戦は、各々にこのような心の不等号がある限り、永遠に火種を消すことはできないだろう……。
ゲイにとってストレートの男は性の対象ということもあるせいか。
腐女子叩きに比べ、萌え豚叩きがわりと少ないのもゲイの特徴である。 )
まとめブログなどでよく見かける、淫夢語や、有名なゲイ作家の作品の一部など。
それらを遊び半分におもちゃに使う人間には、異性愛者のセーフティがあるからこそ、
はじめて「優越感」が持てるのだ。
2ちゃん民にとっての不等号とは。
リア充(敵だが怖い)>>>>>>>>2ちゃん民(異性愛者だかキモオタ)>>>>バイセクシャル(敵)>>>>>
女(ただのマンコ)>>>>>>>>>>>>>
ゲイ(異端者)
このような精神構造ではないかと感じる。
少なくとも2ちゃんねる民ほど数に迎合する特性があり、少数派を毛嫌いする傾向にある。
現実では得られない優越感がほしい。
ただそれだけだ。
「異性愛者」であるという唯一のアイデンティティーを振りかざし、
少数派を馬鹿にすることで、よりコミュニティの結束を深めたのが 現在のなんj、VIP辺りだろう 。
彼ら2ちゃん民。
お相手である女に、生涯を通じて拒絶されること、じつは彼らは痛いほどに知っているのだ。
だから「二次元で女を犯す 」という観念が支配するのだ。
エロ広告絵師などの生産する、「キモオタが時間をとめる強姦」「昏睡中に強姦」など。
他にも様々な幼稚な設定はここから生まれたに違いない。
運営よ、金が欲しいのは分かった。
だが何の興味もないユーザーに提示し続けることにより、利益は上がるだろうか?
売り出す業者、運営の社員は、
……それを、ほんとうに読みたいのか?
それが成人向けのサイトのみの広告ならばまだ許せる。
ここ数年の尋常でない広告の数に倫理的なおかしさを感じるのだ。
いったい金儲けのためだけだろうか?
もはや利益も苦情もそっちのけ。
あるのは価値観の強要のみ。
「わたしは性同一性障害で、心は男なの。でも男が好きだから、わたしはゲイに決まってる」
などと言う腐女子もたまに見かける。
では彼女らに、
という二重マイノリティを背負い、生きる覚悟はあるのだろうか?
音信不通の友人の中には、
「日本は変態の国だから、大抵のエロは許される」
という冗談を放つ腐女子もいた。
くれぐれも勘違いすべきでない。
この国が性に寛容でないことを。
「性差別」をより深いものにしていると強く思う。
異なる性癖をもった人間の固定観念が及ぼす、見えない差別が。
いかに少数派の尊厳を侵害するか。
かといって、マイノリティ側を完全に擁護するつもりはない。
多数派であれ少数派であれ、何に属そうが関係ない。
性癖の異なる人間同士の衝突は、一見個性を認めないゆえの足掻きともとれる。
だが今までの派閥争いは、前向きに見れば、ある意味では
他の個性、多様性を認めあっていたのではないだろうか……。
しかし、そんな内戦時代も変わった。
水面下の殴り合いさえ休戦し、本当の無個性が紙面が飾る。
「異性愛」の名の元に、ただ生産される無機質なエロに、筆者としては、真の氷河期が訪れたと思う。
例えば、
これらを嗜好とする人間に、
答えはNOだ。
小規模どころか大多数の生産者、消費者によるひとつの「都市」として運営されているからだ。
真のニッチ産業とは、
すでに死んだ町を指差すのである。
巨大な異性愛という迎合主義の傘下にくだるのであれば、
このような一見特殊だと思わせるような性癖であるからといって、
名乗るのはいささかなものか。
彼らにニッチもクソもないと私は考える。
そんな迎合した彼らのみが、我が物顔でコミュニティを、業界を、支配したつもりで繁栄するのだ。
つまり性の迎合化とは、究極の無個性化を望んだ破滅の道ではなかろうか。
主観に偏るが、流行には逆らわず、あのジャンプも今や腐女子や萌え豚という存在に迎合し、
軟派なハンコ絵が軒を並べる時代だ。
商業、同人界では。
自分とは性の対象が違う人間は異端者と決めつけ、とことん粘着してきた。
これはこの業界のみならず、すべての差別的行動にも一貫する。
大の大人同士が、まるで幼児のように傷つけあい、醜さを撒き散らす様は、まさに滑稽といえよう。
その小さな戦争は、ついに終戦を迎えるのだ。
ニッチな性癖だろうが、何だろうか、
自らの畑を捨て、
巨大な市場に迎合し媚を売るようなイナゴ達に、御旗のもとで戦う資格などないからだ。
世間に没檻する迎合主義とは何か。
筆者の考える迎合主義とは、
ある日突然。ニッチと呼ばれる大陸を発見し、植民地化したイギリス開拓民のようなものだ。
黎明期からそこにいた層でさえ、
アメリカ大陸を侵略されたインディアンのごとく、淘汰され出来上がったのが、
常に疑問に思ってきた。
はたして、時世に奪われたニッチを取り戻さず、
このままでいいのか?
もう一度、過去の認知を取り戻すべきではなかろうか?
そして一般大衆に迎合し、金儲けするための道具ではない。
ましてや、通ぶった素人と優越感を共にするためのファッションでもない。
ニッチとは本来、薄暗い底で性欲をたぎらせた人間のみが、性の捌け口として、
どうか思い出してほしい。
決して現在の迎合しきった風潮とは真逆の砦であったはずだ。
ただ消費者の購買欲を煽るため、強姦や暴力などの「派手」さを重視したものばかりが集う。
そんな金儲けのおもちゃに興奮するか?
最後の一人になろうと、
私はしない。
せめて性を売り物にするならば。
「愛をもって犯せ」
それが私の信念だ。
( 話が逸れるが、
意味不明な展開がアートだと信じるのだろうが、その脳みそは永遠に理解できない。
やはり凡人の筆者には理解しえないのだと最近納得した。 )
性欲とは着飾るものではない。
特殊性癖を誇りに思うべからず!
一般人とは違う自分(笑)に酔いしれるな……!
独りよがりなオナニー漫画は、いつか廃れることに気づいて欲しい。
最初から最後まで偉そうだということは、重々承知しているが。
汚い欲望を、お互い黙って認めあうことが我々にできる最善策であると私は思う。
猥褻なコンテンツを断絶しろとは言わない。
むしろアダルト業界により、社会の性犯罪の被害を軽減することになるのならば、
充分に存在意義があると言えよう。
ことさらに性欲ばかりが肥大化してしまったようで、あまりに残念だ……。
「食う、寝る、セックス」だけならば、いっそ人間をやめた方いいのではないか?
高尚ぶる必要も決してないが、下半身に乗っ取られずたまには生きてみよう。
人は性の奴隷ではないのだから。
(なにも画面上の結合したムカデ人間を見ずとも、
最後に、
ずば抜けた狂人をご紹介しよう。
彼らは求めずとも糞を提供してくれる、世話焼きサイコパス。
そう、
「飯を食う他人の前でクソするような輩」
とは。
「エロ広告」だ。
いわゆる「飯」を食いたいのであり、
「クソする輩」は見たくないのだ。
万が一、業者のひりだすクソを求めるのであれば、おのずと探しにいくだろう。
「たまにはクソ食いてえなぁ~ 」
そんな客のニーズに応えるのが業者。
「でしたら、こちらの糞アマはいかがでしょうか(ニコッ)」
「ひぇ~なんちゅう下痢便!ブリブリ 」
初めて「需要と供給」が満たされ、
お互いの利害が一致するのである。
性被害とは、なにも現実での性暴力だけではない。
私はネット上に起こりうる
「心の性被害」 も無くすべきだと考えている。
最後に、この記事を読んだ方にも「性の押し付け」とは何か、ぜひ考えて頂きたい。
マイノリティ側として、一方的に推し進めてしまい申し訳ないが、お許し願う所存だ。
意見や批判なども遠慮なくご送信いただけると幸いである。
補足も大歓迎だ。
以上。
GWに突入した。
でも筆者は金がない。
旅行は諦めた。
外出も労力を使うし。じゃあネットサーフィングでいいや
堕落した人間と思うかもしれないが、低所得者などこんなもんである。
しかし、快適なネサフ生活に、ついに終止符が打たれた。
「昔はこんなの無かったのに」
そう思い、失望するサービスはこの世に多い。
その一つに。
健全なサイトを使用する度に出る
「エロ広告」
時にグロテスクなav女優や男優の気持ち悪い性交姿が表示されたり、
下手クソな画力で描かれた金太郎飴のような漫画の数々。
これらの漫画には作者を自己投影したグロテスクな男女が登場する。
彼らが恍惚と性行為に励む姿には、もはや呆れを通り越して圧巻だ。
例に挙げれば、女性に対する強姦。殺人。
暴力などの理不尽な行為ばかりが、
頼んでもいないのに眼前に表示され、嫌でも目につくのである。
だが、驚くことに、広告バナーの女性達は、いかに人権を侵害され、
性暴力を受けようが、満更でもない様子に描写されている。
「伯父さんのモノで感じちゃう」
吐き気を催すこの煽りには、悪意すら感じるが。
現実の女に対する憎しみが強いと思われる。
「キモオタが女を強姦する」
などという稚拙な設定が思い付くのだろう。
いずれにしろ、歪んだ男尊女卑的なものが見え隠れしているのが気持ち悪い。)
中でも最も気持ち悪いのが、三次元のアダルトビデオ女優の姿が、画面のど真ん中に表示される瞬間。
健全なサイトを閲覧しているのに、おもわず罪悪感すら感じてしまう……。
そんな喉元にまでゲロが込み上げる素敵なラインナップに、阿鼻叫喚の嵐だ。
商業誌やネットのみならず、児童ポルノをはじめとする性への規制が厳しいこのご時世。
「男性ユーザーの暴力的な性衝動を助長させるに過ぎない」
しかし、大人の事情が絡むゆえか、一向に改善される余地はない、エロ広告。
まるで中学生の妄想を愚見化したような「便所の落書き」に、果たして何の意義があるのだろうか?
筆者の知識が乏しく申し訳ないが、自分なりに考察してみたので、ここにまとめさせて頂きたい。
まず、サイト運営には、サーバー代を安く浮かすため、広告業者と契約する必要があるのも事実だ。
そのため気が狂ったように消費者の目を引こうと設置されているが、時にはスクロールしても広告が追ってくる!
……まさにホラーだ。
一時期はあまりに不愉快極まりないため、広告非表示のフィルターをダウンロードしてみたのだが、……愕然!
これではまともにネットが見れない……。
その原因も改善されなかったため、いまは諦め、我慢しながら使用しているのだが……。
運営と業者にとって、広告を描く底辺絵師様も、ユーザーも、金儲けの道具であることにはかわりない。
一般の商業誌やらアニメであれ、いま流行りのソーシャルゲームも然り。
性に直結しなければ売れない、悲しい時代であるのは確かではある。
某イラスト投稿サイト、pixivでも、ユーザー作品に対する検閲が厳しくなっているが、ただ誠に思うのである。
中にはプレミアム会員と言われる課金ユーザーが一定数いるため、
運営はその資金により成り立っているのだが。
そのプレミアムユーザーと、無課金ユーザーの使用環境について、思う点があるのだ。
それは、「広告の非表示設定」だ。
私は無課金で数年間pixivを使用しているが、この機能には釈然としないものがある。
課金したユーザーは、不愉快と感じる無数のエロ広告を、削除することができるらしいが、
どうにも頂けない。
無料でサーバーを間借りしているとはいえ、何故このようなグロテスクな広告を見せられねばいけぬのか。
金を落とさなければ、使用者としての権利は奪われるものなのか。
運営に問いたい一心だが。
たかだか一人の消費者がメロスのごとく憤怒しようが関係ないのが現状だ。
小動物を扱った内容であれ、
「俺氏がセックスした件についてwww」
まとめ同士がお互いにアフィリエイトで稼ぐ始末だ……。
悪質なのは、業者が「男性器肥大化サプリ」 「出会い系」を推奨するため、
2ちゃんねるを装ったステルスマーケティング。
これも堂々とリンク内に混じっており唖然する。
逆に唯一の利点と言えば、まとめブログにより、
沢山のスレッドが多数の眼に入る機会が増えたことだろう。
しかしどれも前後や後尾に不可解なものがある。
「俺氏が○○した結果ww」
「ンゴwwワイ将○○するやで~」
「キチママを退治した」
挙げれば切りがないが、大体このようなものに絞られてくる。
「なんj」「VIP 」「鬼女速」というテンプレに包まれたものばかりで、
もはや三行で終わるスレをまとめることに対し、何の意味があるのだろうかと閲覧する度に考えさせられる。
「はぇ~TDN に草生えるワイ将、打率四割ンゴ (白目) ゴメスくん!だいじっこするニキーwww」
……これを人目見て、理解できるだろうか?
彼らは専門用語を多用することにより、自分達がグループであるという和に快感を得るのだ。
「感動した、名作」
このような流れが日常茶飯事であり、
彼らにとっては一体感を高めることにこそ真の意義があるのだろう。
「キチママ殺しトメ腹パン!エネオはウトメとプリンし、私子流産! 」
ネット民もまた歪んだ病におかされているので、気づきそうにない。
きっと現実の孤独感が、2ちゃんねるを安住の地だと返還してしまったのだ。
せめてチラシの裏の駄文ならば、どうかそっとしてあげて欲しい。
そんなものを間違えてクリックして、検索履歴に残ったらと思うと……ゾッとするからだ。
加えてエロ広告が過度に表示された日には、吐き気で目をそらしてしまう…。
未成年者がこんな狂った世界を見て育ち、
誤った性に対する知識を得たとしたら、
これら製作陣はどう責任を取り、対処するのか。
「ウリイイィィィ~!俺らの広告は世界一イイイイイイイイイッッ 」
と言わんばかりに、グロテスクな有害物を主張し続ける。
ならば、ユーザーにも主張する権利はある筈だ。
「選ばされる」ことを望まない人間は、一定数いることを忘れないで頂きたい。
制作者側には、一度でも実感してほしいと切に願う。
両者とも、「選ぶ」 行為に対し、今まで以上に考えるべきであると思い立ったのが、 今回の記事に至る経緯である。
無論、広告だけではない。
これらは人気なジャンルらしいが、個人的には大嫌いなジャンルだ。
また、
ストレート、ゲイ、レズ、ネクロフィリア、ペドフィリア、ズーフィリア…。など。
上記以外にも、星の数ほど性癖はある。
先に断っておくが、
このような多種多様な性癖を否定するわけではない。
アンチスレに溜まる住民も五万といるが、なにも自分と違う性癖が嫌いならば、
関わらなければいいだけの話である。
なぜそれが出来ないのだろうか?
わかりやすい例として、
最近流行りのBl を支持する腐女子は大多数いる。
一方で、ゲイと腐女子 には、深い隔たりがあることはご存じだろうか。
そのため商業誌でも厳しく区分化されているのだが、昨今ではおかしなことになっている。
しかし、腐女子にとって、その壁は今や無いも同然の振る舞いが目立つ。
何のかんの理由をつけ、誤魔化しているが、
男性同士が執拗にベタつく姿を描くことにより、
「同性愛を理解する私ってすごい…」
というような自己肯定感に浸りたいのが本心であると思われても仕方ないのである。
一部ゲイが腐女子を異様に嫌うのもこのためか。
アンチスレでは彼女らを「腐マンコ」と敬称する事が多い。
悲しい男の吹き溜まりでもあるのだ。
また、世間の誤った認知により、腐向けとゲイ向けは同様のものだと近距離を強いられてきた。
残念ながら、
両者は生理的に嫌悪しあうため、根本を理解しあうことはまず無いと断言できる。
あまりに危険すぎる距離感が、互いの傷をえぐりあい傷つけあう。
ゲイがある面では「性被害者」であるということを、少しだけ理解して頂けたら嬉しい。
そんなゲイにとって、
このような絶対的不等号がゲイの潜在意識には存在するため、今後もゲイと腐女子の冷戦は改善されないと予測する。
「俺はノンケじゃないけど、女よりは格上の人間だ」
この都合的な思想が覆されることはないし、
そして女に対する憎しみとは、切っては切れないのがゲイゆえの由縁かもしれない…。
を交えた三つ巴合戦は、各々にこのような心の不等号がある限り、永遠に火種を消すことはできないだろう……。
(※ ゲイの敵は女とゲイ。
ゲイにとってストレートの男は性の対象ということもあるせいか。
腐女子叩きに比べ、萌え豚叩きがわりと少ないのもゲイの特徴である。 )
まとめブログなどでよく見かける、淫夢語や、有名なゲイ作家の作品の一部など。
それらを遊び半分におもちゃに使う人間には、異性愛者のセーフティがあるからこそ、
はじめて「優越感」が持てるのだ。
2ちゃん民にとっての不等号とは。
リア充(敵だが怖い)>>>>>>>>2ちゃん民(異性愛者だかキモオタ)>>>>バイセクシャル(敵)>>>>>
女(ただのマンコ)>>>>>>>>>>>>>
ゲイ(異端者)
このような精神構造ではないかと感じる。
少なくとも2ちゃんねる民ほど数に迎合する特性があり、少数派を毛嫌いする傾向にある。
現実では得られない優越感がほしい。
ただそれだけだ。
「異性愛者」であるという唯一のアイデンティティーを振りかざし、
少数派を馬鹿にすることで、よりコミュニティの結束を深めたのが 現在のなんj、VIP辺りだろう 。
彼ら2ちゃん民。
お相手である女に、生涯を通じて拒絶されること、じつは彼らは痛いほどに知っているのだ。
だから「二次元で女を犯す 」という観念が支配するのだ。
エロ広告絵師などの生産する、「キモオタが時間をとめる強姦」「昏睡中に強姦」など。
他にも様々な幼稚な設定はここから生まれたに違いない。
運営よ、金が欲しいのは分かった。
だが何の興味もないユーザーに提示し続けることにより、利益は上がるだろうか?
売り出す業者、運営の社員は、
……それを、ほんとうに読みたいのか?
それが成人向けのサイトのみの広告ならばまだ許せる。
ここ数年の尋常でない広告の数に倫理的なおかしさを感じるのだ。
いったい金儲けのためだけだろうか?
もはや利益も苦情もそっちのけ。
あるのは価値観の強要のみ。
話は腐女子とゲイの対立に戻る。
「わたしは性同一性障害で、心は男なの。でも男が好きだから、わたしはゲイに決まってる」
などと言う腐女子もたまに見かける。
では彼女らに、
という二重マイノリティを背負い、生きる覚悟はあるのだろうか?
音信不通の友人の中には、
という冗談を放つ腐女子もいた。
くれぐれも勘違いすべきでない。
この国が性に寛容でないことを。
近年の商業やネットの発展とは、
「性差別」をより深いものにしていると強く思う。
異なる性癖をもった人間の固定観念が及ぼす、見えない差別が。
いかに少数派の尊厳を侵害するか。
かといって、マイノリティ側を完全に擁護するつもりはない。
全てのユーザーの権利が保護されるべきだ。
性癖の異なる人間同士の衝突は、一見個性を認めないゆえの足掻きともとれる。
だが今までの派閥争いは、前向きに見れば、ある意味では
しかし、そんな内戦時代も変わった。
水面下の殴り合いさえ休戦し、本当の無個性が紙面が飾る。
「異性愛」の名の元に、ただ生産される無機質なエロに、筆者としては、真の氷河期が訪れたと思う。
例えば、
これらを嗜好とする人間に、
答えはNOだ。
小規模どころか大多数の生産者、消費者によるひとつの「都市」として運営されているからだ。
すでに死んだ町を指差すのである。
巨大な異性愛という迎合主義の傘下にくだるのであれば、
このような一見特殊だと思わせるような性癖であるからといって、
彼らにニッチもクソもないと私は考える。
そんな迎合した彼らのみが、我が物顔でコミュニティを、業界を、支配したつもりで繁栄するのだ。
つまり性の迎合化とは、究極の無個性化を望んだ破滅の道ではなかろうか。
主観に偏るが、流行には逆らわず、あのジャンプも今や腐女子や萌え豚という存在に迎合し、
軟派なハンコ絵が軒を並べる時代だ。
商業、同人界では。
自分とは性の対象が違う人間は異端者と決めつけ、とことん粘着してきた。
これはこの業界のみならず、すべての差別的行動にも一貫する。
大の大人同士が、まるで幼児のように傷つけあい、醜さを撒き散らす様は、まさに滑稽といえよう。
その小さな戦争は、ついに終戦を迎えるのだ。
ニッチな性癖だろうが、何だろうか、
自らの畑を捨て、
巨大な市場に迎合し媚を売るようなイナゴ達に、御旗のもとで戦う資格などないからだ。
世間に没檻する迎合主義とは何か。
筆者の考える迎合主義とは、
ある日突然。ニッチと呼ばれる大陸を発見し、植民地化したイギリス開拓民のようなものだ。
黎明期からそこにいた層でさえ、
アメリカ大陸を侵略されたインディアンのごとく、淘汰され出来上がったのが、
常に疑問に思ってきた。
はたして、時世に奪われたニッチを取り戻さず、
このままでいいのか?
もう一度、過去の認知を取り戻すべきではなかろうか?
そして一般大衆に迎合し、金儲けするための道具ではない。
ましてや、通ぶった素人と優越感を共にするためのファッションでもない。
ニッチとは本来、薄暗い底で性欲をたぎらせた人間のみが、性の捌け口として、
どうか思い出してほしい。
決して現在の迎合しきった風潮とは真逆の砦であったはずだ。
ただ消費者の購買欲を煽るため、強姦や暴力などの「派手」さを重視したものばかりが集う。
そんな金儲けのおもちゃに興奮するか?
最後の一人になろうと、
私はしない。
せめて性を売り物にするならば。
「愛をもって犯せ」
それが私の信念だ。
( 話が逸れるが、
意味不明な展開がアートだと信じるのだろうが、その脳みそは永遠に理解できない。
やはり凡人の筆者には理解しえないのだと最近納得した。 )
性欲とは着飾るものではない。
特殊性癖を誇りに思うべからず!
一般人とは違う自分(笑)に酔いしれるな……!
独りよがりなオナニー漫画は、いつか廃れることに気づいて欲しい。
最初から最後まで偉そうだということは、重々承知しているが。
汚い欲望を、お互い黙って認めあうことが我々にできる最善策であると私は思う。
猥褻なコンテンツを断絶しろとは言わない。
むしろアダルト業界により、社会の性犯罪の被害を軽減することになるのならば、
充分に存在意義があると言えよう。
ことさらに性欲ばかりが肥大化してしまったようで、あまりに残念だ……。
「食う、寝る、セックス」だけならば、いっそ人間をやめた方いいのではないか?
高尚ぶる必要も決してないが、下半身に乗っ取られずたまには生きてみよう。
人は性の奴隷ではないのだから。
(なにも画面上の結合したムカデ人間を見ずとも、
最後に、
ずば抜けた狂人をご紹介しよう。
彼らは求めずとも糞を提供してくれる、世話焼きサイコパス。
そう、
「飯を食う他人の前でクソするような輩」
とは。
「エロ広告」だ。
……我々は「健全なサイト」。
いわゆる「飯」を食いたいのであり、
「クソする輩」は見たくないのだ。
万が一、業者のひりだすクソを求めるのであれば、おのずと探しにいくだろう。
「たまにはクソ食いてえなぁ~ 」
そんな客のニーズに応えるのが業者。
「ひぇ~なんちゅう下痢便!ブリブリ 」
初めて「需要と供給」が満たされ、
お互いの利害が一致するのである。
性被害とは、なにも現実での性暴力だけではない。
私はネット上に起こりうる
「心の性被害」 も無くすべきだと考えている。
最後に、この記事を読んだ方にも「性の押し付け」とは何か、ぜひ考えて頂きたい。
マイノリティ側として、一方的に推し進めてしまい申し訳ないが、お許し願う所存だ。
意見や批判なども遠慮なくご送信いただけると幸いである。
補足も大歓迎だ。
以上。
http://www.asahi.com/articles/ASH465DMZH46UTIL026.html
この記事で朝日新聞が触れてないことがあるので書こうと思う。高齢者宅だけじゃなくて薬が山積みになる原因の一つは
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38866
こういう記事だ。薬が多いのは悪、薬を捨ててしまえという記事だ。間違って処方されれば1つでも死に至る(例をあげればアルマールとアマリールの取り違えで死んだ患者の原因薬は一つである)のが薬である。多いからというのは全く意味がない。副作用を承知でしかし患者にはメリットがあるので処方される薬もある。なのに、である。
こういう週刊誌記事に影響されて、薬が多くなると自分で医師・薬剤師に相談せず 勘で 薬を減らしてしまう患者が地味に多い。その結果病気が悪化して死にかけるのもしばしばなのだが(心臓病患者が勘で薬を減らした結果発作を抑える薬だけを自己断薬したなんて話はほんとうにゴロゴロしている)、週刊誌で、えらいやくざいしの先生がいったりしてるものだから、町医者の処方など無視して自己断薬する人が後を絶たない。しかし飲んでるふりだけはするので冒頭の記事のような事態を同じく引き起こすのである。
過剰な処方はそりゃ悪だろう。でも、数が種類が多いからって、それは悪じゃない。1日1回計15粒の薬飲まないとまた心臓発作起こして死んじゃったり寝たきりになったりする人は実在する。そういう人たちが「こんなに薬飲んでるなんて」と負い目を感じるようなことは、やめようやほんと。
逆に法人設立の方について調べてたけど最低でも云十万単位でぶっ飛びそうだなぁ
>商標(ロゴ、テキストでの「Amazon」を含む全ての商標)のご利用には
>法人向けAmazonギフト券の売買契約締結、弊社の使用許諾が必要です
ってでっかくかいてたけど「どこかの電子マネー100円分」とかで伏せて
使えば問題ないんかね?
客寄せとか超簡単なコンペとかやるにしても送金の手間が省けるアマギフとかウェブマネーが100円単位で
買えると便利だよなーって思って調べたけど大体どこのポイントサービスも個人は1500円から、法人は100円からみたいな仕様になってるよね。
あれなんでなんだろうか 法律で決まってたりするの?
たまーにヤフオクとかで100円分×100個が1.3倍くらいの価格で売られてたりするけど無承諾で使うのはいろいろと面倒くさそう。
そういうことが普通にできる電子マネーサービスがあったらWebサービスとか作るにしてもすげー自由度があがりそうなんだがなぁ。
個人でアフィ代以外で金が動くサービス作るのってなかなか難しいけどそういう障害がなくなるって考えたらワクワクしちゃうやん?
写真の中の高橋圭一には、今も手錠で作られた鎖ががんじがらめに絡まっている。もう一方の鎖の先は、共犯者に繋がっているものだと思っていたが……
「冤罪、か」
翌日、俺は全国に展開している喫茶店でコーヒーを飲んでいた。高橋圭一の勾留されている警察署に面会を求めに行って、門前払いされた帰りだ。
「面会できれば、何か分かったかもしれないのにな……」
美味くもないコーヒーをすすりながら、俺はつぶやいた。西織あいかの話では、彼女は憧れの先輩である高橋圭一を追って『光の華』に入信したらしい。その後一年ほどは何事も無く過ごしていたが、最近良くない噂を聞くようになったとか。
子供の信者なんて滅多に見なかったのに、最近やけに子供の姿を教団内で見る──
誰の子供か、知っている人は居ない──
話を聞いてみると、知らない人に連れて来られたと言っていた──
いつの間にかその子供は居なくなり、二度と姿が見えなくなる──
数日すると、違う子供が代わりにやってくる──
もしかして、信者の中に子供を誘拐して施設に監禁している人が居るのではないか? そんな噂が誠しやかにささやかれていたそうだ。そして報道される女子児童に限った連続誘拐事件と、高橋圭一の劇的な逮捕。信者達は噂の真相を知ることになった。
しかし彼の人柄を良く知る西織あいかは納得しなかった。憧れの先輩である高橋圭一がそんな犯罪に手を染めるはずがない。また、忙しい芸能活動のスケジュールをぬって誘拐事件を起こすなど、客観的に考えても不可能だった。にも関わらず、誰も高橋圭一の犯行に疑いを持たず、しかもそれを裏付ける物的証拠まで上がるに従って、彼女は教団が組織ぐるみで高橋圭一を陥れたのだと悟ったのだった。そして彼女は、手練手管を駆使して教団の幹部に接触して内実を探っていたらしい。今のところ、これと言った情報は得られていないそうだが。
彼女の話を全面的に信じたわけではないが、教団を探るという共通の目的がある俺達は、お互いに協力しあおうという事になった。俺達は連絡先を交換し、俺は彼女を、彼女のマンションまで送り届けたのだった。
図らずもアイドルの個人的な連絡先を手に入れた形になった。嬉しいような、どうでもいいような。思春期の子供じゃあるまいし。だいたい、俺は別に西織あいかのファンじゃないしな……
「続いてのニュースです。昨夜、タレントの西織あいかさんが帰宅途中に男に連れ去られ、行方不明になっているとのことです」
喫茶店に置いてあるテレビからそんなニュースが流れてきた瞬間、飲んでいるコーヒーを吹き出しそうになった。
「警察によりますと、あいかさんを連れ去ったのは渋谷区在住の佐々木誠也容疑者26歳」
テレビの画面には俺の顔写真がはっきりと映っている。冗談じゃない。いや、確かに誘拐まがいのことはしたが、でもなんで警察が動いている?
「警察は男を指名手配とし、市民からの情報提供を募っています」
西織あいかはちゃんと自分の家に帰ったし、おそらく今日も問題なく仕事に出かけたはずだ。行方不明になんてなっているはずがない。となると、考えられる可能性は一つ。
テレビの中ではどこから手に入れたのか、俺の小学校の卒業文集が晒されていた。画面にデカデカと、拙い文字で書かれた『お笑い芸人になって天下を取る!』という子供の頃の俺の夢が映っている。ああ、懐かしい。そんな事を考えていた時代もあった。俺の感慨をよそに、コメンテーターが芸能界への憧れが犯行へ繋がったのではないかとか、勝手なことを言ってる。うっせえ黙れ。お前になんの権利があって、純粋な子供の夢を汚すんだ。
その時、隣を喫茶店の店員が通り過ぎていった。俺はとっさに顔を伏せた。卒業文集がどうのこうの言ってる場合じゃない。俺は指名手配中なんだ。しかも全国ニュースで写真が公開されているんだ。
店員の様子を伺う。俺の事を不審がっている様子はない。誰も、自分の喫茶店に今しがた放送されたばかりの指名手配犯が居るなんて思わないだろう。ニュースをちゃんと観ていたかどうかも怪しい。しかし、俺はひどい不安に駆られた。今にも警官が大挙して俺の元に押し寄せて来る気がする。顔を隠さなくては。
俺は、いつも持っているサングラスをかけて目元を隠した。これだけで焦燥感が三割減した。慌てて喫茶店を出る。外に出ると、人、人、人。全員が俺を見ているような錯覚を覚える。
「ごほっ! ごほっ! あー! 風邪だ!」
誰も聞いていないだろうに、俺はわざとらしく咳をしながら近くのコンビニに入った。ごほごほ言いながら、口元を押さて顔を隠してマスクを買った。会計の瞬間、店員に気づかれやしないかと肝が縮み上がった。コンビニを出てすぐさまマスクを付けようと、包装のビニールを破ろうとするが、顔を隠すために片手が塞がっているので上手く開けられない。もどかしさのあまり、口でビニールを咥えて包装を破った。取り出したマスクをつけ顔を完全に隠すと、俺はやっと落ち着きを取り戻した。
さて、これからどうするか。俺は指名手配中の身だ。外に出ていてよかった。おそらく事務所には警察の捜査が入っているだろう。しばらく事務所には帰れない。とにかく西織あいかに真意を問いただす必要がある。俺は携帯を取り出すと、昨日交換した彼女の番号にかけた。数回呼び出し音が鳴った後、回線がつながった。
「おい、どういうつもりだ」
無機質な音声案内の声だった。
* * *
映像機器がデジタル化で「格安」になったから、自主制作映画本数が「激増」して、作品を「上映しきれない」らしい。
2000年前後が年間500~600本の作品数、2014年は1184本に倍増。
★なんでも、「知人友人に出演を依頼して人件費をケチれば、製作費300万円程度でできちゃう」らしい。ポケットマネーで簡単に映画が製作できる時代。
さだまさしが趣味で映画「長江」作って破産しかけて、その後NHK御用達芸者になったというエピソードも今は昔。
「以前は5本の中から1本をセレクトして上映していたのが、20本から1本を選ぶような感覚。選び間違いがないか不安」
「埋もれた才能を見逃さないか怖い」「2日に1本のペースで新作を公開している」状況になっているらしい。
★で、日経記事では、「元々、本数が多い=多様性で、いいこと」だったのが、
「本数が多すぎる=果たして観客にとっても、映画界にとっても、いいことだろうか?」と「多すぎる現状に警鐘を鳴らす」記事になっている。
「??」と思ったが、要は
「一作品毎の上映期間が短くなると、口コミで評判が広がって尻上がりにヒットを伸ばす、の流れが起きにくくなる」
「作品を育てる・監督を育てる、というミニシアターの機能が失われる」とのこと。
★でもキツイ言い方だが、「作品・監督を育てる」のは、果たして「ミニシアターの役目」なんだろうか?
「一定程度、本数を制約して、一定程度の予算を作品に集中させるようにすべき」的ツイートを見かけたが、そういうものなのか?
「300万円作品が1000本な世界より、3億円作品10本の世界の方が望ましい」という映画関係者の意見は「正しい」のか?
★「300万円で製作される映画」って、もはやプロ目指してないよね。
本業がサラリーマン、な人が、貯金をはたいて「趣味」で映画取っている、そういう世界。
そういうアマチュア作品が映画界に溢れ、映画作品をダンピングさせている。
で、「映画でおまんまを食おうと思っている連中」が「お前たちのダンピングのせいで、俺たちがおまんま食えないじゃないか!!」といちゃもんつけている、
★この構図、どっかで見たことあると思ったら、そうだケータイ小説の世界だった。
別に作家を目指さないフツーの人が、ケータイで小説書いて、それをノベライズ出版したらミリオンセラー(例:恋空)。
プロ作家志望な人からすれば、『趣味作家』に完敗した格好で、プライドがズタズタ
でも、観客・読者からすれば、『作り手がプロか?アマか?』なんてのは『どうでもいい話』であって、『面白ければいい』。
『映画の作り手は、やっぱプロじゃなきゃならない。そうしなければ映画文化が続かない』は、プロの身勝手な思い込みだと思う。
★つまり映画を『商業映画』に限定する試みは『空しい抵抗』であり、
むしろミニシアターは『アマチュアの自費出版的作品』を積極的に上映する『ワナビーの自己満足充足ツール』にしちゃった方がいいのかも。
それであの子の中で私がトラウマになってちゃんとした恋愛できなくなって一生恨むような忘れられない女になりたい。
嫌われるより忘れられる方が辛いからずっと嫌いなまま覚えていてもらいたい。
籠絡して永遠に身も心も引き裂きたい。
あのクソアマとか罵って私を想いながらでしか果てられないカラダにしてやりたい。
あざとい態度を思い出して憎々しく感じながらも夜な夜な煩悩で苦しんでほしい。
得意な勉強が捗らないのを全部私のせいにして自己嫌悪に陥ってほしい。
もう二度と自分の事を大事にはできなくて自分にも他人にも誰にも心を開けなくなって
女とか全員クソとか言いながら一生独身を貫いてほしい。
ってこれ全部私の事だわ
アイディアを生み出すための想像力は「鋭い観察眼と知識」によって培われるものだと西谷は言うが、こうした知識に対する態度は他の多くの作家にも多く見受けられる。例えばクーンツは何かを調べる際、それについての参考書一冊を読んで満足するのではなく、2冊から3冊は確認しなければならないとするし、五代/榊も知識を増やす労を惜しむようでは作家になるのは無理だとする。
知識の広げ方という点では、例えば榎本はネットは有用だとして、わからない単語が出てきたら放置せずその場で調べる、新書、辞典、専門書を読むことなどを推奨している。またキングはテレビを否定し、読書が重要だとしている。
重要なのは何かを盲信しないことである。五代/榊は単純に何かを鵜呑みにしたり、逆に根拠なく切り捨てることは思考停止であり、これは「極めて危険」だと明確に述べる。クーンツの複数の文献を確認することへの指摘も同じことだろう。
一方、情報収集なぞ必要ないという主張も存在する。水島はラノベを書きたいならラノベだけ読んでいればそれでいいのであり、ラノベに限らず幅広い文献に目を通すべきだという意見は作家の見栄に過ぎないと言う。
ラノベ作家を目指すのならばラノベを読んでおくべきだ、という指摘は至極もっともだが、しかしラノベ以外の知識は不要だ、というのはいささか乱暴な主張と言わざるを得ない。もちろんそれでラノベを書くことはできるだろう。しかしラノベしか知識がないのだとすれば、そこで描かれる内容は他のラノベで既に描かれたものの域を出ない。もちろん、大塚の主張するような抽象化と具体化による工夫は可能だが、そこで具体化するための材料もまたラノベから引っ張ってくるという引き出しの無さは、相当の才能が無い限りすぐに限界を迎えるだろう。
知識という点で、飯田は作家がオタクであることを求める。しかし飯田がいう「オタク」とは流行のラノベを楽しみ、流行のアニメを楽しみ、ニコニコ動画で流行している動画を楽しむ人のことである。
一方で五代/榊は「新しく入ってきてる人達は、オタクと呼べるほど濃くない」とそれをオタクではないと断じる。共に作家が「オタク」であることを求めるが、両者の言うものは似て非なるものに思われる。とはいえオタクとは何か、オタクの濃さとは何か、という問題に本稿で踏み込むつもりはない。
最後に、知識の無さはワナビが創造する登場人物の幅にも影響することは理解されておくべきだろう。プロアマ問わずラノベにはよく「天才」が登場する。問題はこの「天才」が知っている知識は作家本人の知識を限界とし、その発想力や考え方もまた作家本人の能力に制約される、という現実である。
天才を出したいのならば、作家本人が天才の知識と思考を模倣できなければならない。幸い、作中の天才と異なり作家には十分な時間をかけてあらゆる文献を調査する時間的猶予があるのである。
何度となく推敲され書き上げられたものは珍しくない。にもかかわらず全く面白くないそのラノベの問題点を、例えば登場人物に魅力が無い、物語にリアリティがないとあげつらうことは容易である。それが欠点であることは間違いないだろう。しかし仮にそれが解決されれば、つまり偏差値30が50になれば、それは面白いラノベなのか。
五代/榊はワナビを「自分が知らない事は考えたくない、考えたくないところは考えないですましている」と批判するが、ワナビはそもそも「面白さ」について、とりわけ学術的に考えることを避ける傾向があると筆者は思っている。先行研究の調査は思考の基礎であるが、ネット上で飛び交う様々な「面白さ」についての議論がそれらに言及することは残念ながら稀である。
練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。
faridyu
本稿の整理が的を射ているとは限らない。しかし「面白さ」を構成する要素について、先行研究の重要性を幾ばくか示すことができたのではないかと考えている。それが本稿をここまで読んだ時間がワナビにとって価値あるものだったかはわからないが、しかしせめて、なにかの気づきに役立つことができればと願っている。