映像機器がデジタル化で「格安」になったから、自主制作映画本数が「激増」して、作品を「上映しきれない」らしい。
2000年前後が年間500~600本の作品数、2014年は1184本に倍増。
★なんでも、「知人友人に出演を依頼して人件費をケチれば、製作費300万円程度でできちゃう」らしい。ポケットマネーで簡単に映画が製作できる時代。
さだまさしが趣味で映画「長江」作って破産しかけて、その後NHK御用達芸者になったというエピソードも今は昔。
「以前は5本の中から1本をセレクトして上映していたのが、20本から1本を選ぶような感覚。選び間違いがないか不安」
「埋もれた才能を見逃さないか怖い」「2日に1本のペースで新作を公開している」状況になっているらしい。
★で、日経記事では、「元々、本数が多い=多様性で、いいこと」だったのが、
「本数が多すぎる=果たして観客にとっても、映画界にとっても、いいことだろうか?」と「多すぎる現状に警鐘を鳴らす」記事になっている。
「??」と思ったが、要は
「一作品毎の上映期間が短くなると、口コミで評判が広がって尻上がりにヒットを伸ばす、の流れが起きにくくなる」
「作品を育てる・監督を育てる、というミニシアターの機能が失われる」とのこと。
★でもキツイ言い方だが、「作品・監督を育てる」のは、果たして「ミニシアターの役目」なんだろうか?
「一定程度、本数を制約して、一定程度の予算を作品に集中させるようにすべき」的ツイートを見かけたが、そういうものなのか?
「300万円作品が1000本な世界より、3億円作品10本の世界の方が望ましい」という映画関係者の意見は「正しい」のか?
★「300万円で製作される映画」って、もはやプロ目指してないよね。
本業がサラリーマン、な人が、貯金をはたいて「趣味」で映画取っている、そういう世界。
そういうアマチュア作品が映画界に溢れ、映画作品をダンピングさせている。
で、「映画でおまんまを食おうと思っている連中」が「お前たちのダンピングのせいで、俺たちがおまんま食えないじゃないか!!」といちゃもんつけている、
★この構図、どっかで見たことあると思ったら、そうだケータイ小説の世界だった。
別に作家を目指さないフツーの人が、ケータイで小説書いて、それをノベライズ出版したらミリオンセラー(例:恋空)。
プロ作家志望な人からすれば、『趣味作家』に完敗した格好で、プライドがズタズタ
でも、観客・読者からすれば、『作り手がプロか?アマか?』なんてのは『どうでもいい話』であって、『面白ければいい』。
『映画の作り手は、やっぱプロじゃなきゃならない。そうしなければ映画文化が続かない』は、プロの身勝手な思い込みだと思う。
★つまり映画を『商業映画』に限定する試みは『空しい抵抗』であり、
むしろミニシアターは『アマチュアの自費出版的作品』を積極的に上映する『ワナビーの自己満足充足ツール』にしちゃった方がいいのかも。
元記事読んでないからよくわからんが、総本数が増えたところで、目利きがちゃんとして「趣味レベル」と「有望な若手」を見分ければいいだけのような気がするが。要は目利きがいな...