はてなキーワード: 銃口とは
好きなキャラクターは冨岡義勇らしい。
「ふーん。でも就労するって生殺与奪の権利を他人に握らせることじゃないですか?」
彼女の表情が凍った。
しまったなーこれはパワハラ面接として上司に怒られる案件かなーと感じたので
「ごめん。あんまよく知らないのに話し合わせようとしてしまいました」
と謝って終わらせようとした。
終わらなかった。
彼女は捲し立てるように自分がそもそも間違っていて自分は今からフリーランスになるために努力すべきだと語り始めた。
人生相談コーナーになってしまった面接は面接でなくなることもあるし、そこが結果的に面接として成立することもある。
だが今回はどうも応募者の側からの被採用拒否という形で面接の体は失われていた。
生殺与奪の権を「せいさいよだつのけん」と何度も正しく発音し続ける彼女を前に僕はいつしか赤べこのようになっていた。
もしこんな所を上司に見られて、面接の一つロクに出来ないのかと言われるんじゃないかと僕は内心ビクビクしていた。
幸いその日のその時間帯に面接を受けているのは彼女だけだったので他の面接者にこんな話をドア越しに聞かれる心配はないのが幸いだ。
心のなかで救いを求めながらも、面接官という立場が持つ傾斜を利用して終わらせられるのではという考えも浮かんだし、逆に昨今のアンチ圧迫面接の風潮を思えば銃口を突きつけているのは彼女たち被面接者の側にあるようにも思えた。
会社という籠の中に飼われることを選んだせいで逃げ出すことも出来ない。
彼女のよく分からない人生プランに対して「貴方ならきっとだいじょうぶですよ」とそれらしく前向きな言葉を添えて面接室から送り出した。
働くということは生殺与奪権を誰かに差し出すことであると何気なく口にしたのは自分自身だが、その言葉が早くも自分の内側へと返ってきて、ゆっくりとその中煮詰まっていた刃が花開いていくのを感じた。
部屋の机と椅子を通常の会議用に戻してから、部屋の隅に裏向きにしていたホワイトボードをそっと反転させ使用予定カレンダーにカラスを飛ばし部屋を去った。
人事部に戻り報告をする。
「今日の分は終わりました。うーん。最近の子って難しいですね。とりあえず終わりました」
ややわざとらしく愛想笑いを浮かべながら明日の予定の確認と雑談をして席に戻る。
面接の内容を考えると彼女は辞退したわけだが、とりあえず面接の結果報告についてメールは出すべきだろう。
わざとらしく前向きな応援を口にしておいて定型文を後でまた送るというのもどうなのか。
いくつか案として出した不採用通知の定型文リストの中には、前向きに相手を送り出すようなものがあった。
今年はこれにするべきだろうか。
だが今の上司はそういったおためごかしをあまり好まない人で、不採用であるということをビジネスライクにスッパリ伝えることが礼儀だと考えている。
心の奥に刺さった破片がチクリと傷んだ。
Kindleに溜め込んだ商業BLのコレクションたち。最もお気に入りの作品たちについては前に書いてしまったので、今回は書かない。今回は「しゅみじゃない」~「けっこう好き」までのレベルが入り乱れる。せっかくの増田だし、辛辣なレビュー書いても消されたりしないので、素直に思ったことをぶちまけよう。
初めて買った商業BL。上下巻ある。表紙が綺麗だけど、中身はというと、そこまで絵が上手という訳でも……。特別下手でもないが。綺麗めの少女漫画といった感じ。ストーリーは、白泉社の匂いがする。と思ったら、作者は白泉社の、雑誌で少女漫画家としてデビューした人だった。
主人公(攻め)がドクズなので、受けの粘り勝ちなラストだけど、それでいいのかお前(受け)は? ともやもやした。あと、BLで性格の悪い脇役の女を見せつけられるのは、あまり気分のいいものではない。少女漫画でも性格の悪い脇役の女の登場はあまりいい気分ではないけど、まあ、必要悪だから仕方ないなと思う。
男だらけの登場人物の中で紅一点の女キャラが性悪って……。と思ったけど、初読み商業BLだったので、まあそういうもんなのかなと思ったし、実際、BLワールドでは女が悪役はそんなに珍しいものではないと後に知る。(悪役で出てくるくらいなら女一切出て来なくてよし!勢もBL読みには多いようだと、更に後に知る)
既刊三巻まで。一時期Rentaの広告でやたら出てきたので、興味本位で購入。もともと「メス堕ちBL」という企画のために作られた短編を長編化したものらしい。メス堕ちBLて。商業BL、たまに男性向けエロも真っ青なえげつない企画があるよな……。
そんな訳で、一巻は果てしなくセックスしてる(というか受けが攻めにレイプされている)感じなのだが、徐々にエロの頻度は減っていき、三巻では遂にエロはご褒美(巻末描き下ろしだけ)となる。
物語はタイトル通り嫁入り譚。だが主人公はララの双子の兄ラムダン(受け)で、彼が妹の代わりに政略結婚相手に嫁ぐというもの。どう見てもちんちんあるのに旦那(攻め)を騙し切れてるとけっこう長いこと信じている受け(濡れ場で紐パンぜったい脱がない)がすごい。んなわけあるかい!
パンツ脱がなければ大丈夫と思ってる受けとか、飛んでくる弓矢がどう見ても矢印とか、突っ込み処が色々ありつつ、ストーリーは少女漫画を通り越して昼ドラの泥つき具合で進んでいく。途中から登場した攻めの第二夫人がすごくいい子で自分から身を引いて退場となる辺りは清々し少女漫画のよう。
BL読んでる感がどんどんなくなってきたので、三巻でストーリーに一段落着いたことだし、これ以降は読まなくてもいいかなと思った。いやまあ、少女漫画が好きではない人間には商業BLの7割くらいはノットフォーミーなんだけれども。
ところで、登場人物の装束や村や街の風景がどう見てもチベット。しかし、チベットって一夫多妻というより一妻多夫のイメージがあったのだが? 幼い頃に許嫁が決まっていて、許嫁同士で遊んでいたとかいう描写は、中国のどこだかの幼児婚的なものに見える。
アサリがBLする。ミル貝もBLする。たしかアサリが攻めだったと思う(人間が受け)。ミル貝は立派なものをお持ちながら受けである。アサリに詳しくなれるかもしれない。西洋画パロディが素敵。
誤タップにより購入してしまい、購入した途端にページが開かれてしまったので、返品できなかった。悲しい。
サンプル1ページ目を読んで合わないと思った作品はほんとうに合わないと思い知る。悪くはないと思うけど、私には合わない。
作者のペンネームが中二病拗らせている感あるけど、作風は中二病が炸裂し爆発している。サンプル1ページ目の主人公(受け)のビアズリー的な美に惹かれて購入したが、なかなか良かった。BL世間的評価がどうであれ自分にはヒットした。
あれ、これBL? BLでない? よくわからない。商業BLも読むんならこれ読んでみれと強くおすすめされた1冊。特に私の推しジャンルの二次創作クラスタにはたいそうウケるらしい。が、私には全く面白さがわからなかった。ここまで何が面白いのかわからないという作品に当たったのはじめて。まあ、同クラスタの人ほど案外趣味合わないというのは、よくあることかな。『地獄楽』(これは少年漫画だが)とかも、正直わからんと思ったし。推しに似てると言われても……。
表紙の銃口を向けられている方が攻め。銃を向けている方が受け。仕事でヘマをして逃亡の身になったヤクザ(攻め)とその舎弟(受け)が海沿いの街を転々とするロードムービー。オールドファッションなヤクザスタイルだけど、時代は現代。平成前期くらいで時代に取り残されてしまったような懐かしい旅風景。
おすすめかというと微妙だけど、個人的にはかなり好き。最寄りのTSUTAYAのBL本棚では、イチオシ作品として飾られていたので、人気はあるのだろう。
そういえば、同作者の非BL作品が町田啓太主演でドラマになったかこれからドラマになるかだったような。
うん、思ってたんと違った!
私が持ってる商業BL漫画のなかで唯一の、18禁作品。これ以外はどんなにエロがあっても18禁にはならないのだった。前述の『ララの結婚』など、そうとうエロいはずなんだけどなー。
だがKindleにかかればVOIDも白抜き修正祭りさ! 18禁というレーティングで描かれた漫画であるので、同作者の他の作品とは違い、体位で局部を見えなくする技を使わずに描かれているせいで、よりいっそう白抜き修正祭りになってしまっている。あと、ほかに何が18禁なのかというと、アブノーマルなプレイがある。道具使用とか、プレイを超えた言葉や身体的な暴力とか。受けをただ虐待するSMのようなやつ。
エロがメインの作品なので、座裏屋先生らしくハイクオリティーの映画的な画面構成だけど、ストーリーの面白さとか辻褄とかは今一つ。受けが可哀想過ぎるし無理やりハピエンにまとめているのが却って理不尽に思えてしまうので、私はあまり好きではない。
本物の18禁(修正無し)だったらしい紙の方は受注販売だったために、現在は新品での入手は不可能。中古本がとんでもないプレミア価格で売りに出されていることがある。
商業BL入門時代に、とりあえず一人の作家さんにしぼって単行本を集めてみるかと思って買った。そしてここで挫折した。(他にも初期短編集も買ったけど。)『カッコウの夢』『ララの結婚』ほどは少女漫画的ではない。あまり記憶に残らない作品だった。
主人公二人が粕谷と葛谷という名前からしてろくでもなさそう(実在の粕谷さんと葛谷さんにはすみませんが)な二人の織り成すリバーシブルなギャグBL。
ひとしきり笑う。時々可哀想。
続きはまた後で。
8月中にワクチン二発目完了予定だからシルバーウィークは休み突っ込んで地方の実家帰ってイヌと遊ぼうと思ってたんだけど
実家には高齢の両親(ワクチン済)と出産のために里帰り中の姉(ワクチン済)、
そしてこの前2歳になったばっかの可愛い盛りの甥っ子がああああ
俺は一人暮らし都内住みテレワーク歴一年半越え、外出は週一回〜二週に一回のスーパーかコンビニへの買い出しまたは持病の定期通院オンリーという筋金入りのコロナ脳
絶対に感染したくないでござるの精神でやってきたし今後もやっていくが
万が一、億が一、俺がどこかでもらってきてちびすけにうつしたらと思うとあばばばばばば
でもイヌと遊びたいようイヌかわいいようノーイヌノーライフの俺のメンタルが限界だよう
だがちょっと待って欲しい、今コロナのワクチンは12歳以上対象だから下手すると俺あと10年甥っ子避けていかなきゃならないの?少なくとも今すでに老犬のイヌはそれまでに確実に死んじゃうぞ??
都内では検査で把握できてない感染者がもうどこに何人いるかもわからないし俺がワクチン後に無症状感染状態になって「ヘーキヘーキ☆」で逆にうつす可能性あると言えるし
ああああああ
政府はコンビニ感覚でいつでもどこでも検査受けられるようにしろクソが
ちきしょおおおおお
ロシアンルーレットの引き金を!2歳の子どもに銃口向けて引くことはできないッ!!自分のこめかみならまだしもなッ!!
でもイヌと遊びたいようイヌかわいいようノーイヌノーライフの俺のメンタルが限界だようクーン
ああああああああ
※フレーズの流用や見解のサンプリングはパクりと言えないかもしれないけど、借金玉がreiにしてるパクリ認定基準を採用するとパクリ。また借金玉はパクるだけじゃなく、起源を主張して他人の流用を許さない領土化を行っている。パクリよりこちらの方が深刻な問題であり、発達障害当事者の言論が不当に制限されるのみならず、当事者が積み重ねてきた言語自体の強奪に他ならない。作家なら他人の言葉に敬意を払えよ
「フォロワーは自分に向けられた銃口の数」→元ネタはエターナル総書記の「フォロワーは自分に向けられた銃口の数だよ」と思われる。本人は自分のオリジナルと主張。本来の意味でのパクツイに近い
「お気持ち」→揶揄として使ったのはTwitterではむしが最古かつ界隈で使われていた。本人は自分のオリジナルと主張
https://i.imgur.com/vzU2ghf.jpg
「会話を独演会にする」→昔からずっと使われてた比喩表現。また同表現を使った『一流の人の話し方 二流の人の話し方』はベストセラー。本人は自分のオリジナルと主張
「やっていき」→界隈で普遍的に使われていたが借金玉が起源主張して領土化した為、ダサくなったのもあって使われなくなった。本人は自分のオリジナルと主張
「自己肯定感は塩水」→ショーペンハウアーの「富は塩水」を元ネタとして、精神科医高垣忠一郎が公演や本でよく用いていた表現。本人は自分のオリジナルと主張
「ポリコレ棒」→元ネタは砂鉄蛙の「ポリコレという棒を振り回してる」。本人は自分のオリジナルと主張
「発達障害は安易なライフハックに頼る前にまず基礎生活を整えろ」→まくるめの借金玉に対する苦言を、その翌日に自分の意見としてツイート
「奇妙な共感」→恒内
「身体にいいものばかり食べさせられた子供がマクドナルドにハマる」→まくるめが教育者の親族から聞いて借金玉に話した事であるが、本人は自分の見分としてツイート
大きな白紙にアイデアを書く→心理学者トニー・ブザンが提唱し、シリコンバレーで広まったマインドマップという手法。本人は自分のオリジナルと主張
茶番センサー→kentzが作り界隈で普及していたフレーズ。借金玉が起源主張して領土化した為、ダサくなったのもあって使われなくなった。本人は自分のオリジナルと主張
神棚ハック、本質ボックス、扉のない棚で視覚化&一覧アクセス→いずれも元財務省官僚野口悠紀雄の記したベストセラー『「超」整理法―情報検索と発想の新システム』に記載されてるライフハック。本人は自分のオリジナルと主張。ここまで一つの本から被ってるとなると本来の意味でのパクリの可能性あり
机の上の物をザーッとやる→小説家スティーブンキングが公演でよく言うジョーク。「小説の書き方」にて同じようなニュアンスのジョークを多数載せている。本人は自分のオリジナルかつ「ジョークである」と主張
生活では着る物を制限したして決断を減らせ→スティーブ・ジョブズがいつも同じ服装をしている理由として有名。本人は自分のオリジナルと主張
見えない通貨、会話のプロトコル→霊長類学者ロビン・ダイバーが「ことばの起源」で述べている考え方。ダイバー自身は言葉の交換を形のない通貨と表現。本人は自分のオリジナルと主張
就活の記事→借金玉が就活の記事案件を書けないので、まくるめが代理執筆していたような事をツイートする。また就活記事は大体本人の経験もしくは知見として語ったりTwitterで宣伝
https://i.imgur.com/zY7znRk.jpg
https://i.imgur.com/EjQdfkn.jpg
貸借対照表的な話なんだけどさ
権利と責任、責任と価値、価値と福祉みたいなのって鏡写しというか近い関係性をもっているのよ
たとえば、知的障碍で価値がない人を追い出していい、相手にしなくていい、というのなら
そうでない人の生活区域内に、知的障碍の人たちの住むエリアを別途確保することになってしまうよね
用意なんてしねえ一般人の目に触れないところに行けっていっても日本に権利者がいない土地はないんだけど
どこかに「知的障碍者が権利者となっている土地」を日本の国土として無料でお分けすることになるのかってことや
いや不要なので殺していけばいいじゃんって言うのだとすると「人を殺すということ」をする事になるので
人を殺すことに社会的リスクと支払うべきコストがあるよね 殺人を犯した人は法治国家では裁かれるの
それを「裁かれない」って大幅コストカットをすると「人の命としての価値」を大幅カットすることになるよね
知的障碍がどこまでか、微分積分ができない障碍者とか三角関数ができない障碍者って価値をいま普通だとおもってる人にもつけかねないし
人の命って不要になれば切り捨てていいんだ、一定の土地に住んでる人は水害にあうこと前提なので救助なんていらんわみたいな
いま生活してる人の価値そのものをダイレクトに削っていくんだよね
権利や価値を保証されている人たちのものを障碍者の人たちという区分で削ると同じ分だけそうでない人のものも削れるの
人を殺したり支配したりすることが上位だという表現があるから位置関係的に上というイメージに、行動に安全性が確保されてる雰囲気にとらえられやすいけど
実質それだけのコストを支払って安全圏を確保しているってことなんだよね
弱ければ強くなるってことではなくて、弱い部分を補強しているのが強さってことなんだわ
弱さを削っていけばフォーミュラカーみたいな強さとかサラブレッドみたいな強さとか手に入るかもしれない
でもふかふかのシートにエアコンがついてる車とフォーミュラカーなら一般生活はどっちが楽かな
毎日特訓のような生活に明け暮れるならフォーミュラカーでもいいとは思うけど
サラブレッドのような訓練と調整の毎日が幸福な人もいると思うけど自由を謳歌したい人もいるんじゃないかな
人を殺してでも生きていかないといけない社会って銃社会みたいなところがあるかもしれないよね
人に銃口をむけたり、手を挙げろっていってるのにポケットに手を入れようとしたりする人は撃たないといけないかもしれない
そんな人たちを殺してもいいってことになると、ころすひとが殺す準備をしたりリスクを背負ったり殺した責任とかを取らないといけなくなるよね
殺す自由が完全に自由だとしても遺体の処理からなにから税金でするとしてもその税金分なり処分費用をし払う必要があるよね
人として生まれたらどの時点でどう判別してどんなふうに対応するか、っていまはほとんどご家庭で家族でやってもらってるところを社会が人の生活を管理することになるかもしんないし
国がそこまで管理しないと基準も規定もつくりようがないかもって感じ
お部屋、常に片付いてるかな
あるべきものがあるべきところにあっていつもほこりを払ってきれいになってる
そんな感じかな
出しっぱなしとか汚れてるとかないかな
よごれたりだしっぱなしだったら捨てないといけないっていわれたらコストがロストな感じじゃない?
障碍は出しっぱなしじゃなくて傷だろって思うかもだよね
傷はここでいうと個性みたいなもので多少あっても「おさまっていれば許容される」ことだよね
傷があろうとなかろうと収納の規範から逸脱するもを逸脱することについて「障碍」って言ってると思うんだけどどうかな
よごれはそのお部屋の規範とはちがう基準で存在してるものだとしたら、基準にあうように洗ったりそういう基準の扱いにしたりすべきがいいかな
捨てるよりは洗って使えるなら洗ってまた使ったほうがいいと思うんだよね
それよりやっぱり部屋のものは使ったらすてる 片づけてないものは捨てる いつのなにをもって片づけというかって決めるほうがいいかな
毎週金曜日の20時の時点で片付いてない物は捨てるって基準だといいのかな
その日帰りが遅くなってたまたま、みたいなことでもごっそりすてていいのかな
基本捨てる捨てないっていうなら、捨てないほうがありがたくない?
優遇しないっていうなら優遇しないって対処をするコストを自分か誰かか何かがその分補填することになるんだよね
なんかもうすでに言葉になってるものを言葉で示した方法で操れる感覚みたいなのがどっかある人たちがいるとおもうんだけど
障碍者ってもなにが障碍者かって1例だけでいえばはっきりそうかもしれないけど自治体レベルの数でいうと
「どっちかわからない」なんて人もでてくるし、それを排除する社会って機能があったらそれを誰かが担う必要があるんだよね
お子さんがもしいらっしゃるご家庭で最初の反抗期がくるあたりを経験されていたら思い出してほしいんだけど
「それやだ、これがいい、こうじゃなきゃやだ!」ってものすごく無駄なものをせがんだり同じものを欲しがったり
どうせすぐ捨てるのに買うとか言い出したりするのを対応したことがあるかなって思うんだけどもちろんない人もいるかも
そんな問題は欲しがってるもの与えればいいだけで簡単に解決する話ですよね
それが親御さんからの目線だと最善の解決方法だとして買い与えていたかどうかって、同じもの無駄にしたりいくつもあったり
使い道まちがってたり、お値段の価値もないものだったりすると、そういう買い物なんかにコストどれだけ払ってるのかって
子供目線から「今日はお弁当じゃなくてハッピーセットがいい!同じお昼なのにハッピーセットじゃないのは嫌だ!」って選択肢には
ご家庭でお弁当をつくったりする材料の備蓄や料理の手間、他の時間帯に波及する食器やダイニングの掃除なんかのコストを無駄にしてるよね
要望をあげる目線からのメリットの陰に、大きくコストを払っている人がいたりするってことね
制度を作るって考えてみてさ、その執行や処理や対応をする人たちがいるとして、その人たちのお給料・生活・気分・保証その他もろもろ
どれだけの予算でどう運営していくのかってことと、共存ってカタチで予算があればそれぞれの家族や地域や近い人やお仕事をそれもかねている人たちを
既存のまま運用できるのとどっちがコストがかかるかってことを考えたら処分専用に高いお金払うより共存のほうがコスト的に浮くとおもうんだよね
高度に管理された社会って結局人間がその高度で管理されながら生きるっていう意味なわけで
相手が大きく失うものがあるとしたら、奪う側はそれを奪い取っても吸収できたり自分のものにできたりしないんだよね
たとえば命をうばっても命は2個にならないよね
奪った命で褒められるのなら褒められるために社会的地位を上げるために奪うだろうけどそういうお仕事って地位あがりそうかな
だれもがやりたくない仕事をさせられる人をふやして、命が奪われることになったとして人の住む領域として健康が最低限天賦されていることが基準という狭さになって
人とはなにか人のあるべきはと定義されて逸脱すると障碍として排除されるようなのって
提案しちゃいたい人からしてみても暮らしやすい社会ではないとおもうんだよね
いまの嫌いな人間はみんな死んでほしいとか、異世界に云って無双したいとか、自由に発言できてその呪詛がどこにも届かず
父親が息子をモーツァルトの再来に仕立て上げるべく7歳3ヶ月だったのを6歳とした話は読んだ。そのせいでベートーヴェンは中年すぎまで自分の年齢を正確に把握できなかったとか。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』では、父親はアル中でとんでもない奴だけど根はいい奴で、自由主義者としてベートーヴェンを導く役割を果たしている。まあさすがにこれは現実ではなかったかな。なおこの漫画の中でもベートーヴェンの難聴の驚きの理由が判明している。
青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』には、父親が宮廷に出した手紙の書き出しが「尊敬すべきお慈悲深き大司教兼選帝侯殿下」、結びは「御足下にひれ伏し服従申し上げます」だったと書かれている。ベートーヴェンと父親の関係については、ベートーヴェンが、バッハのカンタータの未完成写譜を「父が書き写したもの」と書き込んで大切にしていた、とある。
謎の女=死
ヴェーゲラーはベートーヴェンの5歳上。ロールヘンは2歳下。ヴェーゲラーとベートーヴェンの出会いのきっかけは明らかではないらしい。ヴェーゲラーの紹介でブロイニング家に出入りするようになった。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』ではヴェーゲラーは出てこないが、ロールヘンとの出会いは本作と似ていて、いじめられてたベートーヴェンをロールヘンが助けるシーンになっていた(ただしこれがきっかけでブロイニング家に出入りするようになるわけではない)。
ここで出るか。
強さ、か。生きるための、成し遂げるための。
fffはFuto Final Forever説を信じているけど、第2場で触れた通り交響曲第7番と第8番でベートーヴェンが史上初めてfffを使ったとのこと(第7番は手元にスコアがあるので確認済み)。これは、難聴が関係していたのではないかなと邪推している。難聴の時期は高音があまり使われなくなった(=自分で聴こえる音で作っていた)らしいし。そしてほぼ聴覚を失ってからは高音が再び使われるようになった、というか、第九は演奏困難な高音であったと。そしてこれも触れた通り、第九にはfffはない(オーケストラの編成の大きさも関係してるのか?)。第九は、実際ちょっと常軌を逸した曲だと思う。聴覚がないからこそ書けた曲。第4楽章のコントラバスとかもそうだけど(これはベートーヴェンのお友達コントラバス奏者のドラゴネッティのせいか)、第3楽章。美しい理想が見えるけど、理想に近い演奏を探してみたけど出会えなかった、何年も前の話だけど。オーケストレーションに難あり、だよなと。もしくは時代がまだベートーヴェンに追いついていないのか。
実際は出入りする間に自然と啓蒙思想に触れていったのかなと想像。
なんか泣ける。朝美マジック?
あらきた。1804年12月。
謎の女「心のおともだち、ナポレオン」
んーー、第4場Bで少し構えていたけど、ここハイリゲンシュタットの遺書だったのかあ。いつの間にかハイリゲンシュタットに移動してた?劇場のままかと思っていた。時間もほんとは結構経ってる設定だったのかなあ(ナポレオンの戴冠式はあったけど、もともとの劇場の時間もふわっとしてるし、伝わるのに時差あるかなと思うし。あ、謎の女からの情報だからリアルタイムだったかな)。気が付ける要素あったかなあ。
難聴や失恋からくる衝動は救済の記憶でおさまった後(実際の遺書ではただ"芸術"が引き留めたと)、心のおともだちナポレオンが皇帝になったショックからのシーンだしなあ。
ベートーヴェン(歌)「
歌い続けろ 聴こえない カラダ
歌い続けろ カラダ カラダの そとに
歌い続けろ 中に鳴り響く音
歌い続けろ 出し尽くすまで
大きく 大きく 大きく もっと
強く 強く 強く きっと
たとえ命 たとえ魂
この体が朽ち果てても
たとえひとり 声もしない
孤独の道 ひた走ろうと」
「大きく」「強く」 3回ずつ(=fff)。
ハイリゲンシュタットの遺書から該当しそうな箇所を以下に抜いてみる。
私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。(片山敏彦訳)
遺書の中の「難聴の苦しみ」「孤独の叫び」「自死願望」ついて参考までに抜き追加。長いけど。一部難読字は平仮名に、一部ルビ省略。
社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。
しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。
私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう***!
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。
「大人を詰って憂さ晴らしをするための歌」という解釈(anond:20210126022247)にはあんまり同意できない。確かにあの歌は攻撃的な歌詞に満ちているけど、その矛先は語り手自身にも向いてるし、そのためには「語り手自身が大人」という設定がめちゃくちゃ重要なんだよね。
でも遊び足りない/何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するエイデイ
サビで「うっせぇわ」と怒りを炸裂させるとき、その相手は眼前の「大人」なのだけど、その前の段階で語り手には、自分自身が「つまらない大人」になっているという絶望感がある。それをつかみ取っていなければ、この歌の一番オイシイ所を聞き逃してると思うんだ。それを踏まえて
頭の出来が違うので問題はナシ!
という最後の言い切りを見れば、当然これは”自信”の言葉じゃなくて”悲鳴”なんだということも分かってくる。凡庸な大人になりそう、なりたくない、頑張って生きてきたのに、どうしてこうなる?というイライラを貯めて爆発寸前……そう、この語り手は、実は「爆発」はしていない。
マジヤバない?
言葉の銃口を突き付けて「撃てば」、なのだ。まだ撃っていない。だから「不平不満」を抱えて精神は「サディスティックに変貌」していく。世間的には「模範人間」を演じつつ、内面だけが「うっせぇわ」の「私」に変貌していってるのがここに描かれる「私」なのだ。そんな自分の繰り返しにうんざりしているから、
うっせぇうっせぇうっせぇわ/アタシも大概だけど
という一言が入るのだ。
そして最後に、それら社会嫌悪、自己嫌悪をひっくるめて一所懸命「問題はなし!」と言い切るところが、この歌のケナゲでエンパワーで「爽快」な所であって、この歌を評価する人はそこに共感したのだと思う。
私は増田よりだいぶ年上だけど、まあこの歌自体はめちゃくちゃ素朴単純なところもあるけど(まあかつてパンクロックも登場時にはそういう言われ方をしたしね)、歌い手の表現力はもとより、そのやり方でしか表現できなかった上のような歌の内容にそれなりに共感もできたし感心もしたよ。尖った内容だからそりゃ批判も来るだろうけど、この曲を少しでもいいと思ってる者として、この曲の「面白さ」も記録しておく必要があると思ったので書いた。以上。
正しさとは 愚かさとは
それが何か見せつけてやる
気づいたら大規模になっていた
持ち合わせる訳もなく
でも予算足りない 人手足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するPJ
それもそっか
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
嗚呼よく似合う
うっせぇうっせぇうっせぇわ
土日も出勤するので問題はナシ
つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー
その頭に突き付けて撃てば
マジヤバない?辞めれやしない
不平不満垂れて成れの果て
クソだりぃな
手が空いたメンバーは直ぐに割り当てなさい
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
もう見飽きたわ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
私が俗に言う底辺です
うっせぇうっせぇうっせぇわ
何回聞かせるんだその武勇伝
うっせぇうっせぇうっせぇわ
元請けも大概だけど
先日Twitterで男性恐怖症を克服してAV女優をやっている人の話を読んだ。その方が男性恐怖症になったきっかけは幼少期に母親の再婚相手から性的虐待を受けた事だそうだ。Twitterの漫画なんてたいしたページ数ではないが最後まで読むことが出来なかった。
幼少期に性的虐待を受けていた話(特に被害者が女の子の場合)を読むのが苦痛だ。自分の生まれ持った“好き”を否定されているような気分になる。
俺は小さい子が好きだ。性的な意味で。7~13歳くらいの女の子しか好きになれない。
これまで1度も手を出したことはない。これからも手を出すつもりはない。被害者の体験談などを読んで、被害に遭ったその時だけでなく今でもずっと苦しみ続けている事や障害が残ってしまった話などを知った。その苦しみを少しでも想像しただけで、誰かを傷つけなければ性的に満たされない自分が生きている事が嫌になる。
子供に手を出したゴミカス鬼畜野郎が逮捕されたり裁判があったりしてニュースになると、手を出したクソ野郎だけに留まらず、まだ何もしていないロリコンも殺してしまえ!ロリコンに内心の自由無し!ロリコン死すべし慈悲は無い!!!!!みたいな意見を見かける。わかる。めっちゃわかる。外国人が犯人の凶悪事件とか起きると道行く外人みんな凶悪犯に見えるもんな。
だけど必要以上に厳罰を求める意見や、ロリコンは手を出してる出してないに関わらず死刑にしろとか、司法が役立たずなら私刑にしてやるなどの言葉を目にすると、その言葉の数と同じ数の銃口を向けられているような気分になる。正直しんどい。「ロリコン」を「黒人」とか「在日」に置き換えたら瞬間で差別になるような事を平気で言われてるし、どうやら悪者を迫害すればするほど社会的に正しい人になれるようだ。
自分が悪者なのは知っている。この性のあり方が正しくないなんてこれを抱え続けてきた自分が1番よく分かってる。だけど多分実際手を出してるロリコンってロリコン全体で見たら1割にも満たないと思う。だって本当に好きならまず相手のことを考えて接触しようとも思わないだろう。子供からしたら大人は存在自体が何となく怖いものだったりするし。あとそういう目で見られてることって子供でも結構わかるからなるべくで関わらないようにしている。以上壁打ち長駄文でした。別にこんなの気にしてロリコンに傷つけられましたって言うのやめたりロリコンに石投げるのやめたりしなくていいです。どうせ頑張って耐えてる善良なロリコンと手を出してるクソ野郎の区別あんまりつかないだろうし(俺も人のことなんかわかんないし)雑にでも石投げとけば俺みたいに勝手に傷ついて自分は子供に手を出さないぞ!ってなる奴他にもいると思うんで。
P.S.こういう話題出すと大概湧いてくる大人で抜けるようになれって言ってくる奴とか治療すれば性癖変わると思い込んでる奴は80過ぎの末期ガン患者で抜いてから言ってください、俺の知り合いにはそういう性癖の奴がいるから君も鍛えれば抜けるはずだ!性癖は変えられる!そうだろ!?
あとは死ね死ね人格攻撃罵倒その他無駄に攻撃的な奴!お前が死ね!
以上!!!!!
フェミニスト自認腐女子はナマモノについてそろそろ考えた方がいいんじゃないか?
ということについて一昨日この記事を読んでから改めて考えている。
https://news.livedoor.com/article/detail/19250036/
>「僕らもAIとかじゃないんですけど」と前置きし「僕らであろう2人組が漫画で愛し合っているのがあったりする」と苦笑交じりで打ち明けた。
当然の反応だと思う。
私は長年腐女子として「ナマモノってよく考えたらダメなんじゃないか?」と思っていた側の人間ですが
いつも隠れる隠れないの話になってしまうけど、
存在自体がハラスメント、加害を肯定する文化でしかないと思う。
ここ数年ツイッターで腐女子でフェミニストを自称する人も多くなり
個人的に長年の疑問であったナマモノそもそもダメじゃない?問題も
一向にその流れが来ない。どうなってんだ。
でもなんとなく理由はわかっている。
どういうわけかこの実在人物を使った男性同士の性妄想創作については
まるで問題がないかのように振る舞っている人ばかりのように見える。
このナマモノジャンルに手を出している人がぼちぼちいるわけで、
このナマモノ(実在人物を使っての性妄想創作)の是非については
アニメや映画やドラマの中のハラスメント描写に敏感で鋭いツッコミをする人が
インターネットにアップしてるのって、
目眩がするほどダブスタ極まりないと思うんですけど、私がおかしいのでしょうか?
そして男性向けエロと違って私達には自浄能力があるというのなら
加害の文化についてそろそろ考え直してもいいんじゃないだろうか。
実在人物を使ってその名前もバッチリ出したエロ漫画や小説がバンバンアップされ
相当異常な事じゃないか?
こういうことを言うと
「だからナマモノは隠れないと」という声も出てくるだろうけど、
そもそも隠れるとはどういう事なのか?
専用のSNSでPW付きで発表していれば、
ツイッターの鍵がかかっていれば、あとは何をしてもいいのだろうか?
本当にこのまま放置していい問題なのかという気持ちがどうしても湧いてしまう。
ここもそろそろアップデートしたほうがよくない?