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はてなキーワード: 神経科学とは

2019-02-08

うろおぼえ“神経学

経学敬虔なしでは構造化されえない。

最新の医学の知見も、そのことを示唆している。

19世紀アメリカジェニファーという女性の神経学者がいた。彼女学者というよりは詐欺師として扱われていたようだが、彼女が打ち立てた理論、Karma theory はのちの構造主義の前身となった。専門は神経学だったが、それだけでなく倫理学哲学キリスト教神学にも通じていた。彼女論文の主張は、誤解を恐れずに言えば、神経学キリスト教視点を捨てて、もっと多角的分析されなければならないということだ。

昨今、神経科学倫理的でなければならないということは自明であるかのように言われているが、しかし実は全く自明ではない。

例えば、神経に電気を通して反応を観察する診断の事例がある。通電によって生じた影響が人体に長く残ってしまうかどうかは専門家の間でも意見が分かれている。もし倫理を優先するならば、治療現場はこのような瑣末な判断で溢れてしまうだろう。そのような状況にもかかわらず、この直観に反する事例が報告された。

Q. その事例とはなにか。

2018-10-21

anond:20181021154615

俺が生まれる前に〔というか生まれる原因になった性行為の前に〕

両親のどちらかが死んでいれば俺が存在しなかったとかわかるし

性交タイミングが一日ずれてもそうだろうが)、

神経科学研究が進めば心理的傾向や心理的活動の基盤となる

物理的なことは原理的にはわからないわけではないだろうから

結局は永井均みたいな話になると思う。

進化生物学的な自然選択による説明もわかる。〕

anond:20181020165322

URLが長すぎて100文字超えたかトラバで。

以下 インド神経科学者 アンジャン・チャタジーTEDMED2016「脳はどのように美しさを判断するか」

https://www.ted.com/talks/anjan_chatterjee_how_your_brain_decides_what_is_beautiful/transcript?awesm=on.ted.com_p05B2&utm_medium=on.ted.com-none&share=1d701dad3d&utm_source=direct-on.ted.com&utm_campaign=&language=ja&utm_content=roadrunner-rrshorturl

 

によると、3つの美しさがある。 1.グループの中で平均的な顔 2.左右対称である 3.ホルモン効果

無意識のうちに、生殖に有利な嗜好が、集団の中において普遍的な嗜好となる。

美しさを認識しなくても、魅力的な顔には快楽として反応する。

 

 ということらしいです。つまり、教えられなくても綺麗に見える ということだと思います

 ただ、他のところで

http://nama-gatsuo.com/archives/323

後天的要因で美しく見えるというのも見つけて、例えば、単純接触効果(何回も何回もみてるうちに親しみを覚えてくる)、認知的不協和(好みや意志とは違っていても”自分選択した”ってことから、きっと好きだったからだね! ってことで整合性を持たせていく…らしい)もあるらしい。

 

 ので、答えは、人は、人間の美しさを教えられなくても美しいと思うし、後天的に作っていくこともできる ということらしいです。

2018-10-11

anond:20181011184334

エビデンス

実証重視の方々にとっては「物語」の代表に見えるであろう精神分析系の心理療法も、ちゃん効果確認されるようになってきたたことです。

それこそ、そのエビデンス(論文)でも提示されればいいんじゃないですかね。

この辺りのこと?

Jonathan Shedler,"The efficacy of psychodynamic psychotherapy."(American Psychologist 2010)

Falk Leichsenring,Sven Rabung,"Effectiveness of Long-term Psychodynamic Psychotherapy: A Meta-analysis"(JAMA 2008)


フロイト理論の諸々の失敗

精神分析医のフィーリス曰く(1)、フロイト派のセラピービクトリア時代の人たちには、うまく機能していたが20世紀半ば以降、人々の「性格の鎧」の質が変わり、セラピーはうまく機能せずに行き詰まって失敗することが多かった。

フロイト派の精神分析法は、「幼少期の体験が成人してから人格の基礎となる」というものが骨子の一つ(2)だが、そのことに大打撃を与える調査が出てきた。1990年代マシュマロ実験の文献を詳しく調べたマーティンセリグマンは、幼年期のできごとが成人してから人格に影響を与えるということは、ひどい心的外傷や栄養失調があった場合にはありうるかもしれないが、それ以外では有力な証拠ほとんどないと結論づけている(3)。子供時代と成人してから性質に、ごくわずかな相関は認められるが、それは主に遺伝的(生まれつきの)性質、つまり概して明るいとか気難しいといった性質の反映として説明できるという。

また心理学者のバウマイスター一同がフロイト提唱する理論メカニズムの数々を現代の文献と付き合わせて検証したところ、最も最悪な理論昇華説だということが判明した(4)。そもそも昇華説には根拠がない上、事実はその逆だと考えられる理由が多いからだ。

もちろん、フロイト理論示唆的で興味深いものが多いし、余談だが「快感原則彼岸」については現代思想の中ではかなり重要位置づけになっている。ラカン執拗にこの論文にこだわるわけだしね。

それに、フロイト批判をしたバウマイスターは、フロイト提唱する説でエネルギー重要位置に置かれていることに敬意を表して、フロイトが使っていた自己を指す言葉自我(エゴ)」を使って、「自我消耗」という言葉を「人の思考感情や行動を規制する能力が減る現象」に名付けた。自我消耗に関しては、後に脳波記録検査法(EEG)で脳内の前帯状皮質におけるスパイク発火(エラー関連陰性電位)が対応する脳機能であることが確認された(5)。


科学的な心理学

著名な心理学者であるスティーブン・ピンカーは、 今回で言えば「人生全体」「物語の蓄積」「人生の深み」といったことで、科学基本的研究方略である単純化(simplify)」を退けようとしていることに苦言を呈している(6)。 研究対象をとなる複雑な現象をいろいろなレベル単純化し、いろいろなレベルごとに 解明していくことを拒んで、複雑な現象ありのまま理解しようとしていたのでは研究はいつまでたっても現状に停滞したままになる。単純化を嫌って、複雑な現象を複雑なままで捉えようとする人文系学問に多く見られるのこうした研究方略を、ピンカーは完全な正確さを求めて「原寸大の地図」 を作った愚かな地図職人を描いたホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)の寓話批判している。

現代心理学の始まりブント(Wilhelm Wundt: 1832-1920)のライプチヒ大学での心理学実験室創設とされるように、そのスタートから科学を目指したものだった(7)。 人文学科学化と言っても、物理学化学実験を導入するのではなく、心理学実験手法神経科学実験手法(EEGfMRIなど)を取り入れればいいのである。また、国際的科学心理学学会APS(Association for Psychological Science)の会長だったカシオッポはこうした点に注目し、心理学科学と他の文系学問とのハブとなるべきであると主張している(8)。

個人的には、人生全体から人間理解フロイト理論人間理解よりも、人類史から人間理解(進化心理学)(9)や神経科学から人間理解の方(10)がより多くのことと整合性が有ると思うし、「物語」を一切考慮しないで休職者の約53%を予測したリシテア(11)といったことの研究心理学がより一層取り組んでいくことを願ってるわ。


▼出典

(1)Allen Wheelis,"The Quest for ldentity"(New York: Norton,1958).

(2)Sigmund Freud,"Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie(『性理論三篇』)"(1905)

(3)M.E.P.Seligman,"What You Can Change and What You Can't :The Complete Guide to Succesful Self-Improvement"(New York:Alfred A.Knopf,1993).

(4)Roy F. Baumeister,Karen Dale,Kristin L. Sommer,"Freudian Defense Mechanisms and Empirical Findings in Modern SocialPsychology: Reaction Formation, Projection, Displacement, Undoing, Isolation, Sublimation, and Denial"(Journal of Personality,1998)

(5)Michael Inzlicht,Jennifer N. Gutsell,"Running on Empty: Neural Signals for Self-Control Failure",(Psychological Science 2007)

(6)Pinker, S."Science Is Not Your Enemy: An impassioned plea to neglected novelists, embattled professors, and tenure-less historians." (New Republic, 2013)

(7)Bringmann, W. G., Bringmann, N. J., & Ungerer, G. A."The establishment of Wundt's laboratory: An archival and documentary study." (W. G. Bringmann, & R. D. Tweney (Eds.), Wundt studies: A centennial collection (pp. 123-157). Toronto: Hogrefe. 1980)

(8)John Cacioppo,"Psychology is a Hub Science"(Observer 2007)

(9)Martin Daly, Margo Wilson,"How evolutionary thinking inspires and disciplines psychological hypotheses." Pp. 15-22 in XT Wang & YJ Su, eds., Thus spake evolutionary psychologists.(Peking University Press,2011)

(10)一例を挙げれば、心の理論(Theory of mind)における神経科学役割とか。サイモン・バロン=コーエンが有名だろうが、研究は色々有りすぎて挙げきれない。

(11)HR テクノロジーで、人や組織パフォーマンスの最大化を図る 「リシテア/AI 分析サービス販売開始(https://www.hitachi-solutions.co.jp/company/press/news/2016/1201.pdf)

2018-01-18

意味を超えて。感覚に生きるということ。

「生きる意味とは?」考えたことありますか?

まさに中2のときから、今に至るまで、30になるまでずっと僕はこの問いに囚われてきた。

日見テレビの話とか、馬鹿なことをした知り合いの話とか、下ネタとかそんな会話で埋め尽くされる社会が嫌で避けて生きてきた。

一方で、人に誇れるものも無く、孤独自分が、損しかしていない気がして、世の人はとうの昔にこの問いを乗り越えたに違いなくて、自分はなんて馬鹿なんだとずっと思っていた。

この問いの答えを出さなければ生きていける自信がなかったし、棚上げして60歳くらいにまた悩まされたりしたら辛そうだから、考えようと思った。

「生きる意味」について考えようと思ったら、意味という言葉は何なのか、言葉とは何なのか知る必要があると思って、小説哲学書を読んだ。

「生きる意味」を問うてしま自分を知る必要があると思って、心理学神経科学の本を読んだ。

暫定的だけど、腑に落ちる答えは得られた。

種としての生存確率をあげられるように生物進化してきた。外界や自分の状況を組み合わせてシュミレーションすることで、より良い意思決定ができるようになる。そのシュミレーションを行う上で、世界事象を表す概念必要だ。概念文字という記号が結びついて言語が生まれた。

意味、つまり世界説明する言語の中で最も根本的なモノ、を求めてしまうのはこのシュミレーションを行う機能暴走だ。あるのはただ世界だけで、それを粗く写し取った言語がある。言語があって世界があるわけではない。

僕は「生きる意味から開放されたと思った。

意味は無いけど世界はここにあるのだ。ぐるぐると回り続ける思考の中にいて世界を感じられないは不幸だ。美味しいワインを飲んでも、好きな女の子セックスしてても、とりとめのない考えに囚われて、その心地よさを味わえないのはどう考えたって損なのだ

昭和文豪達は不幸だ。自意識をこじらせた不幸な人間たちを書き続けて評価されるなんて悲しい話だ。

巨大なペニスになりたい。ただ感覚だけの世界を漂いたい。それは動物的で人間らしく無いように感じるが、思考することこそが人間らしいのか?人間は肉体を軽視しすぎてこなかったか機械学習のおかげで人間思考なんか大したものじゃないことがわかってきた。産業革命で肉体が過小評価されるようになったんじゃないか

あなた幸福ですか?美酒を、セックスを、この世界ありのまま感じることができていますか?

2018-01-11

anond:20180111113217

その人はあなた迷惑をかけているの?

そうでないなら、他人をどうにかしよう、どうにかできると考えるのは傲慢ではない?

そういう思考一種の病的なもののように思える。

時代により比率は変われど、世の中には一定割合のそういう人が常にいるものだ。

それをどうにかしようとするのは複雑すぎる困難な問題だし、一個人の手に負える問題ではない。

から政治アプローチしようとしている分野。そこに、個人が「常識」やら「モラル」やら「病気」やらを説いて、

説得、恫喝暴力などで人を動かそうとしたところで、それは人権を脅かしかねないゾーンに足を突っ込むことになる。

から個人レベル戦略としては、他人を変えようとするより、自分が変わる・自分環境を変えることが良策だろう。

身内だったら、無理にでも叱ったり躾けたりして家族全員の価値観をある程度統一することも許されるかもしれないが、前時代的な考え方だ。

価値観多様化した現代においては、一緒に暮らす家族といえどまったく異なる価値観問題を抱えている。成人ともなれば尚更だ。

 

そもそも科学的には自由意志存在しないのが濃厚で、自己責任というもの存在しえない。

科学的には存在しないものを、社会的に秩序立てるために存在する、自覚しろと言っている状況がある。

不幸なことに人類は脳がたいへん発達しており、はっきりした自意識は持っている。

ただし、自意識を持っているからといって、神経系の全権を自意識が有しておりコントロールできる訳ではない。

しろ1%たりとも自分意図的に脳を動かせる人などいない。腸を意識して動かせる人がいないように、それは勝手に動く。

その脳は、感覚器を通した周囲の環境からインプットを、肉体的に好悪を選好しつつ電気的に保存しておくものしかない。

それに基づいて、その人の言動のようなアウトプットが成される。

それを私たちは、自分意思で決めたのだと感じているに過ぎない。

それでどうして、自己責任などと言って、一個体にその言動責任を負わせることができるだろうか。

その意味で、この宇宙には自由意思もつものなど存在しないだろう(宇宙を創った神のようなメタ存在を除いて)。

諸器官が作り出すハーモニー自由意志幻覚を見せているだけで。

脳をハッキングすれば、その人の好みも価値観発言コントロールできることは想像に難くないだろう。

そしてそれには、高度な神経科学技術必要なく、大昔から、脳のインプット源をコントロールする、

いわばソーシャルハックのような形で世に溢れている。

というか、教育からビジネスまで、人類の営みのすべてがそのソーシャルハックに終始していると言えるほどだ。

 

その人が社会に出ることを忌避する思考の持ち主に育った原因には、遺伝的(先天的)なものもあるかもしれないし、

育ちによる(後天的)なものもあるかもしれない。現代では特に後者の影響も大きいだろう。

人間の脳は成長の過程で、外部からさまざまな情報学習して、そこで個人個人で異なった価値観形成する。

普段似たような価値観もつ人たちと社会生活を送りがちな人間は、そのバラエティの深さについて思い至りにくいし、それゆえ寛容を欠きがちだ。

率直にいうと、あなたがもしその30になっても働かない人として生まれ、その人生を0歳から現在までトレースしてみたとき

彼と同じようにならない自信が持てるだろうか?持てる人は存在しないだろう。

彼のような状況、心境、価値観に至るには、他人とは共有できないさまざまな巡り合わせの累積があったに違いないからだ。

 

それでも彼が生きているというだけで立派で賞賛すべきものだ。

働かずとも生きているということは、養ってくれる存在がいて、愛されているということだろう。

愛されるに足るだけの存在でい続けているんだろう。

扶養者が親であれば、当人への理解も深かったり、あるいは親としての責任も感じてかもしれないが、

それでも勘当されないだけの関係性を保っているんだろう。

家事を手伝ったり、面倒事を代行したり教えたり、体を労ったり話相手となったり、あるいは存在だけで癒やしとなったり。

それらの価値を、扶養者が受け入れているという事だろう。

会社社会価値基準でみるとそれらは釣り合わぬ価値かもしれないが、その価値基準がすべてではない。

あるいは相続した蓄えで生活しているのかもしれないが、それはそれで認められた権利だ。

ここは社会主義国家ではないから、働けるけど働かないことが直ちに罪になるわけではない。

それぞれの境遇にあったそれぞれの生き方模索することが許される現代国家の、労働が急速に自動化されていく未来において、

増加していく「働いてこなかった人」はむしろキーとなる。

労働に心身と時間を費やしてきた人の目線だと、働いてこなかった人を見下しがちで怠惰人間だと思うかもしれないが、

人間無限怠惰はいられない。労働市場ただちに評価される形ではないかもしれないが、

彼らなりのスキル感性を日々研ぎ澄ましながら生きている。

オンラインゲームをしながら、最適解を導き出すために高度な関数APIを駆使して計算・発表する技術を身に着けていたり、

あるいはチートクラッキングについてのディープ知識をつけているかもしれない。

そういった類のものは働きながら学習するのは困難だ。

そこまで高度でなくとも、ゲームを続けていたならゲームについて人並み外れた審美眼が養われており、

テスターだとかブログのような形で何かの機会に活かされる可能性がある。

他にも、Webコミュニティ(wikiギルドなど)のメンテといった、有志に頼る、大変だけどお金にならない部分をニートが支えている例は多いのではないだろうか。

ニートはいえ、労働市場に出るのは嫌でも、人の役に立ちたい、褒められたいという欲求は人並みにあるものだ。

なので人知れず、市場経済にではなく人間社会に対して良いインパクトを与えている可能性を考慮してほしい。

きっと2ちゃん良識的で穏健な発言をして荒れるのを防ぎ、初心者に優しくしているのもニートおじさんなのだ

彼らは、働いて疲れて擦り切れて攻撃的になっている社会人のみなさんの棘を受け止めてくれているはずだ。

ニート歴数年とかの駆け出しニートは逆に精神不安定で拙い言動迷惑をかけることが多いのかもしれないが、

基本的ニートは肉体も精神も拘束されることがないので、金はないが心の余裕があるものだ。

その余裕で人を包んであげたいと思うのは自然なことで、ネットでもらう匿名の温かい言葉ニートによる率は高いと思う。

忙しい人は、そもそも無関心になりがちで、応じるにしても一言二言で短絡的に答えがちだから

 

そんなわけで、増田のみなさんには、働かざる人に対して一概に人格否定したり、どうにかしようと攻撃したりしない人になってほしい。

働かざる人を許容できるようになっていかないと、わりと深刻に国の未来は暗いと思う。

ミニマル環境適応し、モノやココロ断捨離に自ずと卓越していくニート知恵袋が、

収縮していく社会で穏やかに生きるためにはきっと役に立つはずだから

時にはフレンドリーに、いろいろ話を聞いてみてほしい。

よく話せば、誰しも決して無知蒙昧な人間のクズではなく、世界見方世間とは違うだけの、いい意味で「普通人間」だと気づくはずだ。

あなたとて、何かに躓いて世界見方が変わってしまう機会に直面したら、明日は我が身なのだし。

2017-11-30

ゲーム脳森昭雄の言い分が完全に低能先生と一致

毎日新聞岡山版のコラム「きび談語」では、ゲームインターネット進歩少年犯罪件数に負の相関があることを指摘しており、ゲーム脳は脳神経科学的な観点だけでなく犯罪統計的にも説明できない学説であるとしている[25]。

作家川端裕人が森の講演会に聴衆として参加し、質疑応答でこの疑問を投げかけたところ、「日本の子供が笑わなくなり、キレるようになり、おかしくなっているのを見て、日本のためにやっている。そういうのを問題にするあなたの方が日本人として非常に恥ずかしい。」と返答し、疑問に対する回答を示していない。

 

疑問や質問に対して回答になってない反応を示すって完全に低能先生と一致。

まり森昭雄低能先生

2017-09-24

anond:20170924021939

ストール精神薬理学エセンシャルズ第4版 神経科学的基礎と応用』の「第12注意欠如・多動症とその治療」を読むことをお勧めいたします。

そもそもADHDとは、のところを読んでて思ったんだけど、DSM-5(ミニDではなく分厚いほう)は読んでるの?

あと精神病理学はやめておいたほうがいいと個人的には思うけど、精神病理学からADHDアプローチしてどんなヒントが得られたのか聞いておきたい。

2015-09-09

東大生「僕は脳科学勉強して、効率のいい勉強方法を学んで、~~~」

コレに対して、俺は、

脳科学なんて分野無いです。ですので、学ぶことも不可能なはずです。ウィキペディアにも、『脳科学ってのは、神経科学などの俗称で、そんな分野無い』ってあるでしょ。本当に学んだなら、行動科学や、神経科学を学んだという発言になるはずです。あなた発言嘘ですよね」と返したことがある。

  

しかし、東大生は、「僕は医学部に行くつもりはないので、」という意味不明発言をした。

  

これ、どうなんだよって思うわ。

教養盾にとって、東大って名前だけで、実質伴わない発言で許されてるのって、どうなの。ってか、東大ってそんな勉強もしないしね。

こういうのが多いから学歴厨は恥ずかしい。

2015-08-26

http://anond.hatelabo.jp/20150826004214

そもそも専門分野で脳科学って言葉ほとんど使われないしな

脳にかかわるものって、医学方面からだったり生化学方面からだったり、心理学コンピュータ科学、あと工学方面とか

境界領域から様々なアプローチがあって、それぞれに分野名ついてるし、

まとめて神経科学とは呼ぶけど、わざわざ「脳科学」と肩書つけるのはシロートに分かりやすくする以上の意味はない

去年のノーベル賞朝日記事なんだけどさ、

心理学から脳科学に転じた異色の研究者」ってあってさ、

http://www.asahi.com/articles/DA3S11392974.html

いや生理心理学とか認知心理学とかって思いっきり脳を対象とする学問しょうが何が異色だってがっくりきてな

脳科学者」としてメディアに出てる某クオリア芸人アハ体験とか、認知心理学ど真ん中の領域だと思うんだけど、

図地分化とか非注意の見落としとか変化の見落としとかそれぞれ別個の問題を全部まとめてアハ体験って呼んでて

なんかいつのまにか脳に良いことにされてるっつうアレな話

一般人への認知度を上げてる、といって某芸人評価する向きもあるんだけど、どう考えても誤解しか生んでねえよな

右脳左脳とか極端なこと言い出す人は全部無視していいと思います

2015-04-11

http://anond.hatelabo.jp/20150411084437

ゾンビ物のフォーマットアニメに変えただけでそれが面白さに繋がるだろうか。

ゾンビなら主人公はビクビクしながら逃げればいいけど、その設定ならどうすればいいの?

耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせばいいの?

それ面白いの?

SFを目指すには設定にハッタリが効いてない。

たぶん神経科学社会学かの知見を盛り込んでちゃんと面白くした作品が既にあるだろう。

パニック範囲を狭めれば、ラノベで言えば「[映]アムリタ」みたいな、ちょっとしたサイコホラーにはなりそうだが。

2014-10-07

Nobel Prize for Physiology or Medicine 2014

Physics の青色ダイオード中村・赤崎・天野の受賞や私戦予備陰謀疑いのほうがさわがしいかもしれませんが,ノーベル生理学・医学賞に関して.

John O' Keefe, May-Britt Moser, Edvard Moser の三名が 2014 年のノーベル生理学・医学賞を受賞した.受賞理由は脳の位置定位系を構成する細胞発見に対してである.“for their discoveries of cells that constitute a positioning system in the brain”. 視覚聴覚,触覚で得た物理的な環境のあるいは自己の位置に関する情報脳内でどのように処理されているだろうか.力学的に考えると,質点と空間座標と時間の成分がありそうなものであるマウス生体での神経科学的な実験で,位置特異的に神経の活動活動電位の頻度)が上昇する細胞海馬でみつかった.最近の in vivo実験で place cell特性や grid cell特性視覚系・運動系との place cell 回路の連絡等がさらに解明され始めている.少し古い神経生理学に関連する著名な科学者では,James GibsonDavid Marr が有名かもしれない.聴覚系での位相から音源位置推定視覚系での網膜および外側膝状体 LGN,一次視覚野,高次視覚野の回路等感覚認知神経科学はよく調べられてきたが,受賞対象の位置定位系は脳内感覚運動統合する上で重要な具体的な情報表現情報処理にせまった分野になっている.

ごくごく戯画化した,脳の作動機構は,神経細胞は他の細胞と同様に細胞膜をもちその内外のイオン組成ポンプチャネルとよばれる細胞膜タンパク質で糖を燃焼してえたエネルギーを元に維持する.神経細胞が同士が突起を多数のばし接触点を多数つくりそこで,膜のイオン電位差をより正にする化学分子放出したり,より負にする化学分子放出したりする.電位差が十分小さくなると多くの神経細胞では電位依存的なナトリウムイオンチャネルが活発に作動し突起を一次元的に減衰せずに伝わっていく活動電位をおこす.多くの神経系での通信と計算実体は,この化学伝達と電気伝導の組合せで,静的な記憶細胞の結合(シナプス synapses)が構成する回路に,シナプス化学伝達特性や回路水準の論理演算やより高度な情報処理の結果であると作業仮説がたっており,具体的な情報処理の神経回路の機構を解明することは重要である

位置定位系の回路を構成する要素の place cell は,脳の大脳海馬とよばれる短期記憶や長期記憶化に重要な部位にあるアンモン角 (Cornu Ammonis)の錐体(神経)細胞 pyramidal neuronである特定場所活動が上昇することが証明されている.脳内空間情報処理で他の細胞とともにどのような回路をなしているか調べるには,place cell への入力と出力,place cell 間の直接的な結合をさらに調べることになる.O'Keefe, Moser 以後も熱心に研究されている神経科学重要問題である海馬に出力する嗅内皮質 entorhinal cortex の格子細胞 grid cell環境スケールに応じた格子を表現するようなユークリッド空間中の格子のような役割を担う細胞),各所の頭方位細胞 head direction cell時間細胞 time cell発見されている.物理学的な情報表現計算必要な神経回路の構成要素がわかりその作動機構がわかってきそうな気がしてくる.21 世紀は,人体生理学のおそらく最大で最後問題である脳の作動機構の同定にかなりせまってきており,先のことはよくわからないが脳のことは今世紀中にはだいたいのことがわかり,計算機もっとよい知能が実装できそうな勢いである.

ノーベル賞は「物理学化学医学生理学文学平和経済(ただし経済分野はスウェーデン国立銀行賞)」の分野で重要な業績を残した個人に贈られる.Physiology or Medicine の分野ではカロリンスカ研究所選考にあたる.ノーベル賞は,ダイナマイトの開発生産ノーベルが残した遺産基金としはじまった.現代では,数学Fields Medal や計算機の Turing Award とならびたつような権威ある賞として,世界中科学の営みに参加する人々・興味ある人々が注目する伝統儀式を続けるお祭りになっている.医学生理学の分野では生理学的に重要機構の解明や臨床応用で人類医学的な福利向上につながる発見などにおくられる.なかなか毎年趣味がよいとおもわれる.繰り返しであるが,選考委員会が示した,今回の授賞は,脳での空間認識の回路で重要な働きをする place cell 場所細胞発見理由である

匿名ダイアリーにこんな言い訳不要かと思うのだけれど,ノーベル賞委員会公式アナウンスメントとFundamental Neuroscience か Principles of Neural Science や関連論文日本語教科書・一般書等を読めばよい.高校生物に毛が生えた教養程度の神経科学の知識しかない劣等の学部生ながら,今回受賞の対象になった O’ Keefe と Moser 夫妻の神経系における自己位置の表現の神経回路の重要細胞というテーマに興味があるので駄文を書いた.

脳科学辞典 場所細胞 http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%A0%B4%E6%89%80%E7%B4%B0%E8%83%9E

脳科学辞典 海馬 http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%B5%B7%E9%A6%AC

2013-11-28

心理学()の行方

多分昔から当たり前のことを俺が最近知っただけなんだろうけど、

専門分野の一流雑誌総合学術雑誌

なんだなあ。

JEPGに乗せるよりもPlosなんですね。(if的に)

ということは院生の俺がポジションを狙うためには、

「JEPLMC載せたったwwwww」

ってレベルじゃだめで、

NSCのどれか狙ってたけどPNASになっちまったorz

みたいな研究(の発信)をしないといけないのか。

あと最近感じるのは、若手研究者と呼ばれる人の成果みると、純粋な心理系にも載せてるけど、

神経科学脳科学系もかなりの割合であるよね。

うちのラボも優秀な人はfMRIとか使ってるなあ。

はあ。

少なくとも、テーマは今のままだとしても、手法を見直す方がいいかもなあ。

2013-11-04

某「脳科学者」が科学者として崇拝されてる理由がわからない

ここ数年テレビに出たり本を書きまくったりしてる脳科学者の人なんだけど、あの人は本当に科学者なの?

科学哲学ではポパー反証可能性っていう考え方があって、「ある言論が実験などによって反証される可能性がある」事が科学であることの定義の一つなんだけど、あの人は「脳科学的には」とか言って素人目に見ても怪しいことを言っている気がする。

昔なんかのテレビ番組で、「坂本龍馬には〜という脳内物質が出ていた」とか言ってたけど、これデータあるんですかね?

昔「ノーベル賞に最も近いと言われる日本人」とか言われながらテレビに出てきた記憶があるけど、実際全然取りそうな気配ないしなんの成果があるのかもよくわからない。

というわけでGoogle ScholarKen Mogiでググってみた結果……

http://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0,5&q=ken+mogi

実験に参加してる論文でも最高の被引用数は57、しか20年近くも前の論文

主著論文にもなると最高で15。これもだいぶ昔。

(ちなみにiPS細胞山中教授は被引用数最高8649。サイヤ人か何かですか?)

最近論文がヒットしないんですが、今あの人は科学者としての活動してるんですか?

一般向けの本の執筆活動とかがメインなら、せめて科学者としての肩書を捨てるべきでは?あと科学中立的に使わないのも腹立つ。

あとちょっと前大ブームになったアハ体験も気になる。

アハ体験で使われてた画像ちょっとずつ変わる画像あったじゃないですか。寡聞にして最近知ったんですけど、あれってもともと脳神経科学研究では、変化盲っていう人間の知覚の危うさを検証する実験のものらしい。

で、またgoogle scholar教授に"aha experience"と聞いてみた。それらしき論文はいくつかヒットするけど、あの画像が使われている様子はない。あの画像アハ体験どっから出てきたのか。効果検証されているのか。

他にもアハ体験バリエーションあった気がするけど、殆どが脳神経科学の違う分野のものを援用しているらしい…

そういえば数年前の脱なんとか。でも科学者関係ないしどうでもいい。良くはないけど。

科学者として研究するのでもない、科学ジャーナリストとして情報中立的・正確に広めるのでもない…あの人は一体何者なの?

2012-07-20

日記

 児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学読了。読みやすく、しかも、勉強になった。私は今年度初めに、「意味の分からない本は読まない」と決めたため、哲学系の本は一切読まなくなったのだけど、本書は、功利主義を理解するための知識がきちんとまとめられているにもかかわらず、倫理学素人である私にも意味の分かる本であった。

 とりわけ私にとって重要だったのは、功利主義に対する批判者の多くが、「行為功利主義」と「直接功利主義」を念頭に置いたワラ人形攻撃をしている、という話(p.83)。ちまたでは功利主義批判をしばしば目にするけれど、そこで批判されているのがワラ人形でないかどうか、考えるための一つの目安を手に入れることができた。

 逆に言えば、本書では、ベンサム説やJ.S.ミル説がそのまま示されるだけではなく(当たり前か)、それらへの批判を経てより洗練された形の功利主義が紹介され、擁護され、さらには今後の課題が提示されている。単に昔の人の思想を勉強するのでなく、論争(と現実的事例への適用)を通じて倫理学に触れられる本書には、「はじめての倫理学」という副題がよく似合うと思う。

 功利主義(と功利主義批判)そのものの解説以外にも、公衆衛生に関する政策、幸福論、心理学や脳神経科学による研究ビルゲイツ寄付先の決め方など、色々と興味深い話題が盛り込まれ、また、倫理学武道になぞらえた説明にも色々な点でとても納得できた(日常会話で友人の意見を批判するのは、通行人大外刈をかけるのと同様に危険!)。J美の出番がもっと多ければより楽しい本になっていたと思うが、それを望むのは欲張りだろう。

 以下、思ったことのメモ

p.20)食事のときに音をたててよい文化ルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる、というのがどういう解釈なのかよく分からない。音をたてることを禁止したがる人は周りの人を嫌な気分にさせるから、音をたててよいというルールがあるんだということ?

pp.154-155)選好充足と幸福のつながりを疑うための2つの思考実験から、「すべての選好を充足させることが幸福につながるわけではな」いということになりそう、という結論が導かれている。つまりここでは、「選好充足しても幸福にならない」感じのするケースが挙げられているわけだ。しかし、これら2つのケースで想定されている選好充足は、選好充足とは思えない。例えば、ある学者が「ノーベル賞をほしい」と思っていて、その後に政治的理由で「ノーベル賞なんか欲しくない」と思い直して、その直後にノーベル賞受賞発表があった場合、それは明らかに(かつての彼の選好に合致するものではあるが)彼の選好充足にはならないだろう。それと同様で、1つ目のケースでは、現在の妻の選好はかつての彼女の選好とは異なるし、2つ目のケースでは、受賞者発表の時点でカナダ研究者は(死んでいたので)ノーベル賞受賞を選好しておらず、受賞発表は選好を満たさない。したがって、これらは「選好充足しても幸福にならない」ケースではないのではないか。…と書いてる途中で、「じゃあたった今の選好しかその人の選好として認めないの? それ色々まずくね」という批判が浮かんだ。まあだから、どちらにしても、幸福につながる選好の定義は難しい、ということなんだろう。

p.204)「カント引用は…」。どこに引用されてるのか、本気で見つからない。

p.219)「同時に日常底に用いたりするのでなければ」。「日常的」の誤植?…と思ったら、仏教用語で「日常底」という言葉がある模様。あとで調べる。

以上。

 

 ところで、最近私が(本書とは無関係に)手に取ったいくつかの本によれば、功利主義者は必ず利己主義的傾向を持っていて、極端な場合世界は亡びても自分だけ助かればいいというところまで至る(*1)、のであり、また、ベンタムの思想は、ヨーロッパの恥ずべき日々に確立された「快楽苦痛に関する皮肉簿記学」であり(*2)、もはや、日本精神界では「浅薄」なものとしてあまり顧みられず英国でもムーアによる批判以来(理論倫理学説としては)過去の思想となっている(*3)、のであった。そんな中で、私が本書によって功利主義に入門できたのは、幸運だったと言えるだろう。

==========

(*1)井上哲次郎日本魂と米・英の功利主義」、『日本公論』1943年8月号所収、p.6。なお井上によれば、ベンタム・J.S.ミル・シジウィク・墨子荀子荻生徂徠・太宰春台などが功利主義である

(*2)アンドレ・ブルトン澁澤龍彦訳)「ルイス・キャロル」、『澁澤龍彦翻訳全集12』所収、1997年(仏語底本は1950年)、pp.313-314。ベンタムへの言及は、ルイ・アラゴン言葉としてブルトン引用しているもの

(*3)『世界古典名著:総解説 改訂新版』自由国民社2001年、p.204。

2011-12-24

認知の微視的構造 リマインダー

リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。

第一章

1

認知主義、古典認知主義

意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデル意味する。

 この主義の限界を

2

 ・チューリング

 チューリングの形式化が持っている特徴

(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括

(2)そのメカニズムいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している

(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している

⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している

フォン・ノイマンコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーLISPプログラム言語)を開発。

 ⇒ 研究開発が可能に

A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出

 ⇒理論的に自覚化・明確化される

3

・物理記号システム

①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、

②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム

by 1976 ニューウェル & サイモン

・強い物理記号システムの仮説

SPSS strong-physical-symbol-system

「標準的な記号アトムフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」

①仮想機械

現実の物理機械上で実行されるプログラムのみによって存在し、

そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」

 高級プログラムによって定義されるエミュレータ

フォン・ノイマン型の操作

コネクショニズムとは異なった操作

・記号を割り当てる

・変数を束縛する

・記号列の複写、読みとり、修正

・基本的な統語論パターンマッチング操作

等々

③標準的な記号アトム

「テーブル」「ボール」「愛する」「軌道」「電子」のような語

④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段

そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる

 このような主張(標準的なLISPアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践

彼らの仕事の特徴(例:BACON

 ・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している

 ・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能

 ・選ばれた課題領域を扱う

BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則

BACONに対するいくつかのコメント

BACONが取り組んだデータフォーマット化下のは、人間の労苦

BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。

 ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない

BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの

 ⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう

 サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。

 しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。

 心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える

 BACONは、人類の一部のモデル

 知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている

 古典システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。

 古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々

意味論的に透明、意味論的な透明性

STS semanttically transparent system

システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステム意味論的に透明であるといえる」

 きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズム記述レベル2)における計算の対象が、概念レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述レベル1)と同型である場合である

レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え

レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法

レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)

古典アプローチコネクショニズムの重要な違い

(1)古典理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論意味論を組み合わせた記号システムを仮定している

(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。

 もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない

◎要するに、古典システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである

第二章

 古典認知主義に対する懸念

 ドレイファス:古典認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当

 サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論意味論との間にギャップが認められる

 この二つの種類の懸念について検討する。

あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」

 この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念リストをあげる。

 ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。

 ウィンストンの、フレームを使ったアプローチも不十分

 ・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)

 ・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?

 ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか

ドレイファスの二つの主張

(1)身体問題

「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」

 コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない

(2)コード

 人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。

 このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?

 

 AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。

「強いAI仮説」を、サールは批判する

強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる

Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。

サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。

具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋操作者が中国語を「理解すること」の比較

「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」

 以下、サールの誤りについて論じる

 

 サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」

 脳シュミレータ説:あるりプログラム中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる

↑(サールの再反論)

(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)

(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである

 ↑(アナロジー

 光合成光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない

 では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?

  :外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること

↑(コメント

中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効

 微視的機能主義

 機能主義は、心的状態の本質を、

 入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。

 (適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)

↑(批判)

中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。

 こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう

・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか

×大まかなレベルに位置づけ

  ⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ

ライカンの「小人機能主義」

○微視的機能主義

・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981

ゲシュタルト

 :機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ

ライカン「小人機能主義」

 :機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)

 微視的機能主義

  :システムの内的な機能的プロフィール(内的状態の変換)を、

   内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で

   記述しようとするもの

   ・処理ユニット間の形式的な諸関係を記述する

   ・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる

第三章

 認知科学における民間心理学の役割はあるのかないのか

「民間心理学

 :自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解

 民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる

チャーチランド & スティック

「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学

 民間心理学問題点

(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。

 民間心理学は、子供狂人外国人を前にすると、まごついてしま

(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる

(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである

 最近の分析哲学

  :頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか

Daredevil believes that Electra is dead.

Mary hopes that Fermat's last theorem is true.

 のthat以下を、心的状態の内容と言う。

 心的状態が考えられる傾向

  :われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、

  われわれにとってどのように見えているかによって決まる

 ↓(言い換え)

 我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、

 本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない

⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、

 知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆

・双生地球……☆に対して疑いを投げかける

双生地球で、「海に水がある」と発話される。

地球A:海にH2Oがある

地球B:海にXYZがある

 この違い以外は同質だとする。

 すると、

 地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる

(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)

 もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、

 自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、

 単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して

二つの選択肢

(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、

 世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説

(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は

  〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう

プティ と マクダウェル

「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。

 しかし、

〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」

 筆者

 :あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、

 そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない

 その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。

 仮想反論

 :「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」とするならば、

 心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)

(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)

 仮想反論の詳細

:仮定①:

 二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる

 (そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)

 仮定②:

 行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない

 結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない

「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。

 限定的内容といっても、それを妥当概念として了解できるかは明らかではない」

 なぜなら、

「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは

 まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。

 その具体的理由として、

 ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。

筆者

 :広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、

 民間心理学カテゴリーや分類が

 頭の中で起こっていることに関することに関する科学カテゴリーや分類に

 きちんと還元されるなどということは

 とてもあり得ないように思われる。

・民間心理学は、科学心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない

 世界を記述しない信念であり、なおかつ

 ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学記述の上には)存在しないことも可能

 民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?

 :

 他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、

 その人の身体の動きを予測し説明するための手段

民間心理学の主要な目的

 :

 世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること

(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴

①世界に対する感受性、すなわち感覚生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している

②世界をわれわれと共有している

③彼らは我々自身のもっと根本的な関心と必要の大部分を共有している

④彼らの思考の有用性は、

(我々自身の思考と同様に、)

 彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、

 彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている

 この特徴があるので、

「~したい」という欲求さえ同じであれば、

 神経生理学的な詳細は関係なく、地球人にも火星人にも有効。

・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている

・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、

 さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)

 筆者の見解

 :私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、

 行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである

 ……関連する行動を可能にするものとしての、

 根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、

 そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が

 対応している必要はない。

――

 筆者の意見は全体論である。(行動全体に網をかけるから。)

 ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか

<Fordor>

意識の全体論というのは、

命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」

 という考え方。

 これに、Fordorは懐疑的

命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)

われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題認知的連関)を共有しているとは思えない。

 なので、意味全体論はありえない。

 →信念の内容が、その認知的連関に依存するということを否定。

 信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。

 外延的意味論の一形態に賭ける

:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである

「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」

</Fordor>

筆者

 :Fordorの間違い

 全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。

 Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。

Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。

筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている

 全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)

 一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。

(1)民間心理学は、狂人や言葉の通じない相手には使えない

(2)民間心理学は、長い間停滞している不毛な学問である

(3)民間心理学は、神経科学ときちんとつながっていない

(3)に対して、

 民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである神経科学とつながることを目的とはしていない

(1)に対して、

 民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない

(2)に対して、

 民間心理学の目的は限られたものである

 なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。

整理。

 心的状態に関するわれわれの常識的理解と民間心理学は、違う。

 民間心理学には、きちんとした定義がある。

 これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」

 因果関係と、構成的関係の区別

構成的関係

 :

 研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ

因果的に関係

 :

 因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、

 それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる

ということはない。

チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)

・広域的内容の理論認知科学は心を解明しえない

・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている

科学(物質、プログラム

(構成的関係)

科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。

では、構成的関係とは何か。

構成的関係←→因果関係

構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること

因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない

(駒はなくてもチェスは打てる)

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2010-03-02

社会 20歳の男性の45%が対人関係障害の可能性 東亜日報

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この数値は、米国ヨーロッパなど先進国の平均11~18%に比べて、2.5~4倍に達する。


研究チームによると、人格障害自分性格に問題があることに気づきにくく、家庭や社会生活、対人関係に支障があり、周りの人々を苦しめるという特徴がある。また、自分の問題を他人や社会のせいにし、極端な反応を示す。


そのため、各種の犯罪社会的葛藤を引き起こす原因になりやすく、早急に対策を立てなければならないが、社会的認識程度が低く、適切な診断と治療が行われていない。


教授は、このように潜在人格障害者の比率が高いことについて、「社会的価値観が混乱している中、家庭教育の不在が『人格成熟の成人』を量産している」と説明した。


研究チームは、今回の調査で、12種類に分けて人格障害の有無を測定した結果、1種類以上の人格障害があると疑われる人が71.2%に達した、と発表した。


具体的には、自分にこだわり過ぎて対人関係が円満でない「強迫性(49.4%)」、合理的な問題解決や人との係わりを避ける「回避性(34.7%)」、わがままで些細なことにも必要以上に反応し気まぐれな「ヒステリー性(25.6%)」、絶えずに他人を疑う「偏執性(22.6%)」の順で多かった。


教授は、「各国の社会文化的背景によって人格障害が疑われる基準点が異なるため、それを考慮して、基準点を30点から35点と40点にそれぞれ高めて分析した場合にも、32.7%、22.8%となった」「それでも、他国より人格障害可能性の比率がずっと高い」と述べた。


延世(ヨンセ)大学心理学科の李勲求(イ・フング)教授は、「設問の内容が普遍妥当であるため、韓国社会の特殊性によって人格障害可能性の比率が高く表れたという可能性は低い」とし、「韓国社会精神健康について関心を持つきっかけにすべきだ」と指摘した。


今回の研究結果は、国内学術誌「精神病理」と米国の学術誌「精神医学と臨床神経科学」に掲載される予定だ。


FEBRUARY 10, 2003 22:22 by 李成柱 (stein33@donga.com)

<<

http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2003021117138

2009-09-07

http://anond.hatelabo.jp/20090906004349

この分野では、ピペット土方とよばれる単純作業を繰り返すことが必要不可欠であり、教授学生労働力確保の手段として、修士博士に進ませることが一般的なのだ。

その過程では、

「製薬研究職に行きたいなら博士まで進まないとね。」

博士に進み、生命科学研究者を目指すことこそ醍醐味。」

のような宣伝学生に対して刷り込まれる。

もちろん研究職である大学教授にとってはそれは本音である場合も多いのだろう。しかし、実際にはテクニシャンを確保し金を落としながら作業を行ってくれるピペド確保の点は否めない。

物理などの分野であれば、教授学生に対し

「お前は博士に来るな」

と言う事は珍しくないという。それは物理などであれば数学力などの学力がない学生は何の役にも立たず、研究活動において足手まといになる可能性があり、また学生の将来のためにもならないからである。

日本生命科学が、労働力確保のためだけに博士修士学生使い捨てにしているのは否めないと思う。

学生時代にたくさん見た30越えのポスドクの人々を思い出すといたたまれない。

最近では、バイオを生かした技術開発も進んである。2005年NHKで「サイボーク技術人類を変える」という番組が放送された。

http://www.nhk.or.jp/special/libraly/05/l0011/l1105.html

これは神経科学を神経工学として応用し、神経とLSI接続するもので失明した人に対しイメージセンサー回路を利用し人工視覚を作ったり、腕の神経とつなぐことで機械的な義手を作ろうという試みである。

また、バイオ半導体技術に使おうという試みもある。

http://panasonic.co.jp/ism/koremo/02_ferritin/index.html

この研究ではのフェリチンを半導体プロセスに利用しようというものだ。

また、酵素を利用した生物電池の開発も進められている

http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200708/07-074/index.html

論文を調べていただければ分かるであろうが、これらの研究工学物理学出身の人によって進められているのである。

私自身は、生命科学の院進学をやめ大学院大学半導体研究室に進学した。

その中で量子化学バンド理論半導体有機化学や熱化学などを勉強した。量子力学光合成の関係を知ったときは目から鱗が落ちた思いだった。

結局、天下り的に知識のみ教える現在生物学科の教育ダメだ。

原理を知るためには物理数学が必要であるし、応用するには工学の知識が必要なのだ。

うーん、こうゆうサイボーグや医工学の分野ってどうなんだろうね。

こっちも発展には時間がかかりそう。

2009-09-06

生物系の学生生命科学に見切りをつけろ ~専攻ロンダのすすめ~

日本生命科学が駄目な理由を書いていこうと思う。

たとえ死んだとしても生命科学研究者を志してはいけない

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20090222224732

の方も書かれているように、日本生命科学学生ポスドクがおかれた環境悲惨な状況にある。

問題点の一つ目は労働力確保目的ポスドクと院進学である

この分野では、ピペット土方とよばれる単純作業を繰り返すことが必要不可欠であり、教授学生労働力確保の手段として、修士博士に進ませることが一般的なのだ

その過程では、

「製薬研究職に行きたいなら博士まで進まないとね。」

博士に進み、生命科学研究者を目指すことこそ醍醐味。」

のような宣伝学生に対して刷り込まれる。

もちろん研究である大学教授にとってはそれは本音である場合も多いのだろう。しかし、実際にはテクニシャンを確保し金を落としながら作業を行ってくれるピペド確保の点は否めない。

物理などの分野であれば、教授学生に対し

「お前は博士に来るな」

と言う事は珍しくないという。それは物理などであれば数学力などの学力がない学生は何の役にも立たず、研究活動において足手まといになる可能性があり、また学生の将来のためにもならないかである

だが、生物学科では奴隷確保のために博士進学を勧めているとしか思えないことが多々ある。研究能力がどれだけあるかも分からない学歴ロンダ生を積極的入学させたり、生物に見切りをつけ文系就職を狙い就職活動をすると煙たがり、嫌味を言う教員も珍しくないのである

その結果、職にあぶれポスドクが量産され、さらにはポスドクにさえなれないものも出てくる。

このような実態は、バイオポスドクの特集として産経新聞で記事にもなったので読んでいただきたい。

http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/life/trend/080628/trd0806282146020-n1.htm

二つ目問題点としては、就職が無いことである

以下のデータを見ていただきたい。

http://saponet.mynavi.jp/release/needs/rikou/2008/03.html

これは、毎日ナビが企業アンケートをとり、理系の専攻ごとの求人ニーズを表したものである

求人数で見ると一位の電気電子系の1/10程度の求人しかなく、少ない枠を奪い合っていることが分かっていただけるだろう。

生物学生が主に目指す企業といえば、製薬会社研究職と食品会社研究であるしかし、こちらがどちらも難関なのである

まず、製薬会社研究職については薬学部出身者が主体である。それは製薬企業という点を考えれば同然であろう。しかし、薬学部出身者にとっても製薬研究への内定は容易ではなく、MRになる者が多々いるのが実態である現在薬品は、生物による手法一般的ではなく現在でも化学有機合成によって作られている。そのため、化学出身者、薬学出身者以外の採用はなかなか難しいのが実態である

それでは食品研究の方はどうだろうか?

農芸化学を専攻していれば若干優位ではあるが、数人の採用枠に農学部化学バイオなどが殺到する。そのため、こちらも非常に難関になっているのが現実である

これらのプロセス職はというと、やはりそこは機械工学電気工学の主役であるバイオの出番は無い。

もちろん一部には製薬につける人もいるのであるが、旧帝大クラスでも学科で数人というのも珍しくない。

その結果、独立系のSEなどに流れる学生がたくさんいる。こちらの世界情報系が主体なのだ

三つ目の問題点は知識を天下り的に教えているということである

生命現象は地球上にある現象でもっと難解な現象であると思うが、その教育もっとも程度の低い生物学者が調べ、教育も行っているという実態である

たとえば、光合成であればエネルギーの変換が絡む以上、厳密に考えればそこでは量子力学必要なはずである。また、生体内の化学反応を考える上では有機化学量子化学、熱化学なども必要になってくるだろう。

しか現在生物学科では、CELLに書かれた知識を天下り的に暗記させており、そこにはどのような物理的、化学的裏づけがあるのか教えない教育が行われている。

酷い大学おいては、講義教授研究内容の紹介であったりする。

私は日本高等教育の最大の問題点は副専攻制度がなく、ダブルメジャーを取るような人間がいないことだと思う。知識の幅が限られるから新しい発想が出ず重要なことを見逃す可能性があるし、弟子師匠を超えず、劣化コピーけが生産される。

もちろんこれは生命科学に限った問題ではない。

それでも工学は良い。知識の幅は広いほうが良いが単一分野の知識の学生でも即戦力として企業が欲しがる。

また、物理学もよい。難解な数学量子力学古典力学熱力学電磁気学現代科学技術の基礎で、会社に入ってから工学の知識を上乗せするやつはたくさんいる。原理を知っている彼らは、10年選手になると工学部出身の奴を追い抜いたりする。

生物出身者にはプライドだけはあっても、このどちらも無いのだ。

四つ目 21世紀はバイオ時代であるが、その時代を作るのは生命科学者ではない


物理手法を駆使し、生物研究する生物物理コンピューター生物の解析に生かす、バイオインフォマティクスなどの研究分野がある。

しかし、生物物理研究している研究者は多くの場合物理学出身である。また、バイオインフォマティクス物理学者情報工学出身の人が非常に多い。

考えてみれば当然だ。多くの場合生物学科は生物または化学で受検できる。高校時代から物理を選択していない生物学生がいくら年を取ろうとも物理手法など理解できるはずが無いのである

最近では、バイオを生かした技術開発も進んである2005年NHKで「サイボーク技術人類を変える」という番組が放送された。

http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011034654SA000/

これは神経科学を神経工学として応用し、神経とLSI接続するもの失明した人に対しイメージセンサー回路を利用し人工視覚を作ったり、腕の神経とつなぐことで機械的な義手を作ろうという試みである

また、バイオ半導体技術に使おうという試みもある。

http://panasonic.co.jp/ism/koremo/02_ferritin/index.html

この研究ではのフェリチンを半導体プロセスに利用しようというものだ。

また、酵素を利用した生物電池の開発も進められている

http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200708/07-074/index.html

論文を調べていただければ分かるであろうが、これらの研究工学物理学出身の人によって進められているのである

私自身は、生命科学の院進学をやめ大学院大学半導体研究室に進学した。

その中で量子化学バンド理論半導体有機化学や熱化学などを勉強した。量子力学光合成関係を知ったときは目から鱗が落ちた思いだった。

結局、天下り的に知識のみ教える現在生物学科の教育ダメだ。

原理を知るためには物理化学数学必要であるし、応用するには工学の知識が必要なのだ

生命科学研究室に残っても労働力として利用されるだけだ。

学生が金を払うのは労働力になるためではなく自分自身への投資のためであるべきだろう。

声を大にしていいたい。

生 物 学 生 は 生 物 を 捨 て専 攻 を 変 え よ !!

2009-06-07

http://anond.hatelabo.jp/20090607195715

実はあるんだけどね。神経科学SNSとか。予想通りgdgdになりましたが。

2009-02-25

http://anond.hatelabo.jp/20090224143719

確かに高い。

でも最近はどんどんフリーアクセス論文誌が増えてきてる。

冊子体を刊行してないオンラインジャーナルではほとんど、どの論文もタダでダウンロードできる。

一番の大御所はPLoSシリーズ(http://www.plos.org/journals/index.php)。

生物系の雑誌が多いけど、PLoS ONEサイエンスのすべての領域をカバーしてる。

ただ編集方針として、結果の新奇性は問わず、内容的に正しければ採用、というやりかたなので

面白い論文もつまらない論文もごちゃまぜになっている。

他にはFrontierシリーズとか(神経科学ばっかりだが)、New Journal of Physics とかも

フリーアクセスオンラインジャーナル

あとCell Pressの雑誌の多く(CellやNeuronなどのその分野のトップジャーナルも含む)は

発行後1年たった論文フリーアクセスだし、PNASも半年でフリーアクセス

あと物理系だったらArxiv(http://jp.arxiv.org/)知らなきゃモグリ。

2008-10-19

http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/20081018/1224287687

に、

毎年5-6本ぐらいはペーパーを出し、ほぼ全て一流紙。

てすごい研究所の話が紹介されていて、私もすごいと思った。まだ修士課程なのでよく知らないんだけど、領域によってだいぶ年間の論文投稿件数は違うらしいじゃないですか。指導教員博士課程やポスドク助手の間は年3本かそれ以上書くもの、って言っていた。

神経科学、って分野だとひとりが一年間にかく論文はどのくらいなんだろうか。

物理とか化学とか実験系とか理論系とか、ってか学会レベルで平均投稿数が全然違うんじゃないかと思うんだけど、みんなどのくらい論文を書いているんだろうか。

誰か教えてくれるとうれしいな。

2007-02-12

本能と計算高さと

http://anond.hatelabo.jp/20070209121148

こういうの読んで、女性は本能で相手を選ぶっていうのは経験的にもなんか納得がいくんだけど、それと同時にまた別の経験則として、女性の方が計算高いってのがあるんだよなあ。

本能的であることと計算高いこととは両立するのかしら。でも、例えばヘッジファンド中の人の計算とかって、感情とか本能とかを排したところにあるように思うし、そういう意味では計算高さと本能は背反のようにも思うし。女性数学科には少ないし(それとこれとは別問題)

よく認知神経科学とか脳科学とかで、無意識のうちの判断はものすごく高速で処理されているっていう話があるけど、それで考えると、女性ってのは男性には思いもよらない方法で、選択を処理していて、それを本人達は別に「計算してやっている」とも思っていなかったりするのかな。彼女達はたんに本能に従ってファジイ処理(死語)してるだけなんだけど、男性達からするとそれが高速に「計算している」ように見えちゃうっていうことなのかなあ。高度に発達した計算は本能と見分けが付かない(?)

そういえば、離婚率と景気循環が相関しているっていう統計があって(あくまで統計だから眉唾で読んだほうがいいよ)、その相関はかなり明確なんだけど、その理由について

 女性特有の動物的なカンが景気を予知し、子供養育費慰謝料離婚後の就職可能性などを考慮し早め早めに手を打つのではないかなど、仮説はいろいろ立てられようが、詳細は不明である。

http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2780.html

って書いてあったのが興味深かった。

2007-02-08

日本科学技術が振興しないのは**が無いせいである

圧力団体がないから科学者技術者たちがワリをくうのだ、という説があります。

http://d.hatena.ne.jp/sivad/20070129#p1

では圧力団体があれば科学者技術者たちは報われるのか、という疑問は明らかにされていません。

おそらく、圧力団体があっても事情は変わらないでしょう。なぜなら、圧力団体が圧力をもてないからです。

圧力を持つためには利権が必要です。しかし科学者技術者が一体どのような利権を持っていますか。

みな結局サラリーマンです。プロフェッショナルではありません。

フリードマンの説を俟つまでもなく、全ての人間活動は価格論に内部化されなくてはなりません。

要するに、市場経済が全てを決めます。

市場は既に存在する物の価格を調整することは可能です。

しかし、新技術が勃興してくるためにはその市場の外に出ることが必要です。

市場の外には一体何が広がっているのでしょうか。無です。

誰も無に金を投入しようとはしません。ある一群の人間たちを除いては。

軍人たちです。

軍人たちは、常に、「完全に新しい技術」を必要としてきました。

石器・金属器に始まり、狼煙、火薬、馬術、造船、航空機化学、微生物医学、核物理学無線通信電子工学、宇宙工学、そして、情報工学に到るまで、すべて、すべての発展には、ただ、敵を殺す、そのためだけに、無尽蔵に資源が投入されてきました。

日本経済発展をもたらしたといえる科学技術レベルの高さは何だったのでしょうか。

どうして、ホンダは、トヨタは、ソニーは、戦後、世界で伍していくことができたのでしょうか。

それらの会社の勃興期の技術者たちの出自を考えてもよいのではないですか。

自動車を開発したエンジニアたちは、戦中、戦闘機を作っていたと聞きます。

腕の立つ無線技師たちを擁していたのもまた軍でした。

サイエンスをするには世の中が平和でなければならない。

http://nosumi.exblog.jp/3973705

そんなことはありません。サイエンスを推し進めながら同時に戦争を推し進めている国がございます。

次に五稜郭軍人たちが発展させようとしているのはなんでしょうか。脳神経科学でもやろうとしてんじゃないですか。

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