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はてなキーワード: 川端裕人とは

2020-09-17

anond:20200917143254

恥ずかしながら本屋にふらっと立ち寄って購入した本は40年生きてきて4冊(雑誌除く)

Newtypeエヴァ特別号 当時エヴァにハマってて表紙がかっこよかったか

ふたりえっち単行本 当時エロに飢えてたか

プラネテス単行本 立ち読み用に用意されてたのを読み終えてめちゃくちゃ感動したか

・夏のロケット川端裕人小説) 本屋のポップでおすすめされてて面白そうだったか

 

このどれもハズレは全くなかったから満足しとる

古本屋にふらっと立ち寄って購入した本はいくらでもある)

2018-10-23

王立宇宙軍の展示会、手書きで組み立てられていくロケットをつぶさに見ることができて宇宙熱が再発したのでアポロ管制センタードキュメンタリー映画みている。管制室はそのままに空席が目立つ老人たちの集合写真は寂しかったけどそのあとはめっちゃ楽しい

川端裕人さんの研究室訪問じゃないけど、自分仕事説明するって楽しそう、

管制官だけが聞けるプライベート回線!!うぉぉぉぉ着陸だーGoいいたい。やばい

1202きたーwwwww

2018-02-22

川端裕人さんの記事古代日本マングローブ分布状況について調べる。

日本全国にマングローブ林がかつて広がっていたと言っていたが、日本(本州)とか日本(北海道を除く)とかよくある話で。津軽海峡は遠い。

はてさて、マングローブ一種であるヒルギの花粉化石は全国津々浦々から出土し、最北端だと岩手県の地層からも見つかっているそうな。

マングローブ林の植生に沿う形で亜熱帯性の干潟に生息する二枚貝や巻き貝ならさら北海道でも確認されているらしい。花粉は見つかってないけど、生息できる干潟もあるし一次資料発見が望まれる。

日本全国にマングローブ林がかつて広がっていたと言っていいだろう。日本(北海道を除く)とかじゃなくて良かった。それだけ。

2017-11-30

ゲーム脳森昭雄の言い分が完全に低能先生と一致

毎日新聞岡山版のコラム「きび談語」では、ゲームインターネット進歩少年犯罪件数に負の相関があることを指摘しており、ゲーム脳は脳神経科学的な観点だけでなく犯罪統計的にも説明できない学説であるとしている[25]。

作家川端裕人が森の講演会に聴衆として参加し、質疑応答でこの疑問を投げかけたところ、「日本の子供が笑わなくなり、キレるようになり、おかしくなっているのを見て、日本のためにやっている。そういうのを問題にするあなたの方が日本人として非常に恥ずかしい。」と返答し、疑問に対する回答を示していない。

 

疑問や質問に対して回答になってない反応を示すって完全に低能先生と一致。

まり森昭雄低能先生

2009-01-01

http://anond.hatelabo.jp/20081231204502

上橋菜穂子がアリなら、梨木香歩でもアリですよね。映画になった「西の魔女が死んだ」もいいけど、生き人形の「りかさん」とか、主人公幼女だけど、大人の視点はあっても作者の説教臭さは感じないと思う。

あるいは川端裕人「川の名前」。こういうのが「正しいジュブナイル」なんだとも思うけれど、元増田趣旨ともしかしたズレてるかもしれん。

それでダメなら、最終兵器小野不由美でどうか。

2006-12-29

妄想科学日報の人は何が人をニセ科学に向かわせるのかを全然分かってないように思う。

http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20061228/1167272368

以下上記エントリから引用

かつて川端裕人は竜とわれらの時代の中で、古生物学の権威でありながら創造論に傾倒するアメリカ人学者を描いた。人口の8割がキリスト教徒であり(日本人の家に仏壇や神棚があったり初詣葬儀で寺社仏閣を訪れるレヴェルよりも広く深く)信仰が生活に浸透している欧米では科学者と雖も信仰と無縁ではない。

科学者信仰を持つことを否定するつもりはないが、同時にそれが強固なイデオロギーであることも常に意識せねばならない。判断基準を神仏に委ねた瞬間、それは科学ではないものとなる。

この点では、普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けた日本人というのは、実は一番科学向きなのではないかという気がする-----その割には科学離れが進んでしまっているのだが。

引用終り


この人は一体何が人をニセ科学に向かわせるのかを全く分かってないように思う。(普段読んでないので何か見落としている文脈があったら申し訳ない。と先に謝っておく)

「目には見えない(観測できない)けれど、あたかも何かがそこにあるかのように感じる」というのが宗教の奥底にある。そして、上の例に出てくるキリスト教というのは、キリストの肖像を信仰の場に持ち込むか持ち込まないかで争う例から分かるように、その、一体何を信じるかということに対して、血で血を洗うような抗争を起こしたりもするけれど、その結果それを非常に明確に峻別する宗教だ。(異端と正統)

ニセ科学というのは本来科学で計ったり、観測できないことを、あたかも科学的に計量できるかのようにふるまうことだと個人的には理解している。

そして、ニセ科学は、本来なら(観測できないんだけれど)「ある」んですよ、と主張するだけの、信じるか信じないかで済む問題を、科学的に裏づけされている(勿論されてない)から「正しい」「信じるべき」なんだ、という押し付けがましいことをする。上に書いたキリスト教はそれをやらないで、観測できる科学と、宗教は別々のものですよ、という方向にいった。これは評価できる。(キリスト教聖書に出てくる事柄を科学的な側面から裏付けられないか、という視点で科学を発達させてきたという歴史がある。)

つまり、目には見えないけれど信じている対象を具体的に了解する、何に対して信仰するかを明確に決める、ということはニセ科学を見破る手だてにもなりうるし、その逆もまた言えるということだ。

「観測できることじゃないけれど、そこには確かなことがあるんだよ」というのは凄い安心する。だからこそ、その対象はできるだけ明確でないと危険である。日本人信仰を明確に規定しないことの善悪は問えない。けれど、そのことが「科学向き」とは到底思えない。信仰の対象が「科学」となってしまうことがあるからだし、そのことこそがニセ科学への危惧だと思う。

(30日午前四時四十九分に日本語が不自由だった部分を修正しました。)

 
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