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2018-09-29

高齢処女ディルドで自力処女した話

事の起こりは数か月前、持病の薬を貰うため通っていたレディースクリニックにて

医者「じゃあ、次回は血液検査子宮頸がんの検診ね!」

私「え、あ、はい

比較的空いている朝一番の予約で、半分寝ぼけた頭のままぼんやりと、いつものように血圧を計られ、薬だけもらって帰宅する予定だったのに。

医師言葉に、ぼんやりしたまま普通~に返事をしてしまったが、私は、処女である

30歳にして、処女である

説明しよう、子宮頸がんとは、性的接触より子宮頸部に感染するHPVというウイルスにより発生するガンである

――吾輩は、処女である

性的接触は、まだない―――――

すみません、私経験がないので、がん検診はまた次の機会にしてもらっても良いですか…?」

と、この一文をサラッと医師に告げれば良いだけだったのに、

「ああ、はいはい、がん検診ですね?了解で~す」的な雰囲気を醸し出しつつ、私は澄ました顔をして承諾してしまった。

やっちまった。

完全にミスった。

何がやべえって、子宮頸がんの検診は、

<股にクスコをぶっ刺し穴をかっ開いて、器具入れて子宮入り口の粘膜をこすり取ってくる>

という過程を経る検査だというところだ。

処女の股に、クスコ入んなくね…?>

30年間使用されず、廃墟と化した山道トンネルに、いきなり車両が通行するようなものである

これはもう確実に事故案件である

病院からの帰り道、冷静になった頭でがん検診をシュミレートしていたら、じわじわと恐怖が襲ってきた。

(クスコとはどういうものか、イメージがわかない方は、「クスコ 婦人科」で画像検索されたし)

しかし私の頭には恐怖と同時に、一筋の光も差し込みつつあった。

<これは処女を脱することができる、チャンスなのではないか…!?>


話が前後するが、私は若いから卵巣嚢腫を患っていて、婦人科には定期的に通院している。

初診の婦人科では最初の問診で「性経験の有無」について必ず答えるようになっているものではあるが、問診表に素直に「性経験無し」と記載したところで、世の中のすべての人間が私に対して処女としての対応をしてくれるわけではない。

これは完全に個人体感であり、偏見でもあるのだが、「婦人科処女だと申告した時に、それを受け入れ当たり前のように処女として対応してもらえるのは、20代前半まで」であるように感じられる。(あくま主観ですが)

今まで転勤などによって、5カ所の婦人科渡り歩いてきたが、問診表で処女を申告していても、いざ診察室に入ると、もう一度経験の有無を確認されたり、酷い時には何の疑いもなく股に器具を突っ込まれそうになったことすらある。

残念ながら、

「30代にもなると、未経験の女なんてほとんどいない」

というのが、世の常識なのであろう。

実際、私の周りにも処女なんていないし、この年齢になると5割は経産婦である

肩身の狭いマイノリティ高齢処女。これが現実だ。

かといって、普通生活している分には何ら不自由はない。

友人同士の女子トークは、自分に話すことがあんまりいからか、ちょっとわずらわしく感じられる時があったりもするが、まぁ問題ない。

じゃあどういうときに肩身の狭さを感じるのかというと、高齢処女が一番のストレスにぶち当たる場面は、やはり病院なのである

私は卵巣嚢腫を患っている。

卵巣嚢腫の診察には、超音波器具を股にぶっ刺す必要がある。

経験者はマンコに、処女はケツの穴にこれを挿入して診察するのだが、例えば歳若いお嬢さんであれば、「経験が無いのでお尻から」というのはあたり前に受け入れられるだろう。

しかし30女になるとどうだ。

まず世の常識として、30代は大体非処女、という大前提がある。

医療従事者も人間だ、無意識に刷り込まれている先入観には抗えない。

そんな常識をぶち破り、

「男の経験無いのでケツからお願いシャス!!!」と申告しなければいけないこの心苦しさは計り知れないものがある。

羞恥心、虚しさ、自嘲感、気まずさ。

圧倒的ストレス

まだ1度や2度くらいなら割り切ってわりとサラッと言える。

しかしながらこれが定期検診となるとストレスの度合いがぶち上がる。

内診の度にじわじわと心が削られる。

しんどい

一切心苦しい思いをせず、マジョリティのひとりとして診療されたい…


そういう思いもあり、今回の子宮頸がん検診を念願の<非処女>として受診するべく、私は荒廃したトンネルを開通させることを決めたのであった。


そう、自らの手によって。

ここでタイトル回収。


使ったものは彼ぴっぴではなく、ディルである

まず彼氏を作る努力しろよという指摘には、30代で経験が無いことがすべてを物語っているので察してくださいとしか言えない。

始めては好きな人と…なんて可愛げのあるセリフ可愛い女が言えばいい。

誰がなんと言おうと、私の初めての相手ディルド!君に決めた!

アマゾンで1600円くらいで購入。

柔らかめのMサイズ、ローション付き。

実家暮らしの為、万が一家族に箱を誤開封された時のことを考え、コンビニ受け取りにする念の入れよう。

まさかこの中にチンコが入っているとは思いもよらないであろう、シンプルな包装。わかっていらっしゃる

開封

かい、思ったよりでかい

しかしこれが世の平均サイズ…事前に平均サイズを調べておいたけど、まさにこのディルドも平均of平均といった造形であった。

こんなものが入るのだろうかとヒヨりそうになるが、女の穴は本気を出せば赤子だって通すことができる穴だ。

なんかこう上手いこと出来てるに違いない、と信じるしかない。

さぁ、いざ勝負

と、思ったところで、ゴム存在に思いを馳せる。

衛生的には被せたほうが良いに決まっているのだが、気持ちが乗っているこの状態を一時中断して買いに行くべきか、悩む。

ゴム無いけど気持ちが盛り上がってるから生でやっちゃうとか、漫画100万回くらい見たことあるけど、なるほどこういうことね。理解理解

とりあえず一度ディルドを洗い、マキロンぶっかけてみる。

マキロン信者である私はマキロンにすべてをゆだねることによって、ゴムの購入を省略した。

乾いたバスタオルをケツの下に敷き、事後、すぐ体を拭う用に濡らしたハンドタオルをサイドテーブルにセット。

ディルドにローションをON

寝っ転がって股を開脚

オールグリーン

開戦。

「待って待って待って。無理、入らん。普通に痛い。無理。」

10秒後、敗北。

とりあえず先っちょだけ頑張ろうと思った出鼻をくじかれる。

先っちょが、まるで入らない。

入らないのに超痛い。

嘘やろ?世の女たちみんなこんな痛い思いして合体したの?

とりあえずググる

処女膜 位置

結果、処女膜はマンコのめちゃめちゃ入り口にあるということが判明。

先にググっとけよという話だが、なるほど把握した。

要は「先っちょ」が貫通の儀において最重要課題なのね。

たかが先っちょ、されど先っちょ。


再戦。

「ぐわあああああ痛ええええええああああああああ!!!!」

と呻きつつも、ディルドの先端を穴に当てがい、グググと押しやる。

ここで引いたら一生勝てない。

押し込む手の力を弱めず、攻め込む。

マン城壁へ攻め入るディルド軍。

激しい攻防は20秒ほど続き、そして

!?

苦戦していたディルド軍が急に前進

どうやら城壁突破したようだ!

行けるところまで前進するべし、という軍師の命により、ディルド軍は奥へ歩を進めるものの、

半分くらい行ったところで、ちょっともう股間の痛さが無理すぎてギブ。


終戦


ディルドを引っこ抜くのもまた怖いやら痛いやら。

カリの部分で引っかかってもう参っちゃうほど痛かった。

準備しておいた濡れタオルで股をぬぐい、ベッドの上でしばらく放心。

体感時間は1時間くらいだったが、実際は途中ググってた時間を含め、10分ほどの戦い。

股間はなおもジワ~~~!!っと痛い。

もう完全に怪我。完全に怪我の痛さだわこれ。股間の怪我明日は出歩かず安静にしておこうと決める。

世の女の子たちはデートの途中でこれをやるの?すごくない?

それとも好きな男とのデートの途中だからこそ、心身共に盛り上がることによって軽症で済むのだろうか?

完全に正気のまま事務的に事に及んだ私は重症です。

30分くらい横たわったのち、そろそろ動くか~と体を起こしたと同時に、尿意を感じトイレへ。

おしっこめっちゃ股にしみる。

そしてふと股と便器のぞき込んだら、真っ赤で仰天。5秒おきに股から血が滴り落ちている。

たぶん地獄ってこういう景色

真顔で股の血をトイレットペーパーで拭き、パンツナプキンをセット。

事前に世の人々の初体験をググっておいた時に出てきた情報では、「パンツに血がにじむ程度」とか書いてあった気がするが、

な~~~にがにじむ程度じゃ馬鹿野郎!垂れ流しって書いとけ!!などと心の内で悪態をつく。

しかし翌日になると痛さは残るものの、

血はほとんど止まっていた。


一週間後、貫通具合を確かめるため、2回戦目。

「え?待って?普通に痛い。」

一度処女膜が破られたら、その後はもうズッコンバッコン余裕なのかと思っていたら、全くそうではないらしい。

初回貫通時の痛みを100としたら、2回目は40くらいの痛みであった。

しかし痛みはあるが、出し入れ自体は初回とは比べ物にならないほど容易ではある。

この調子なら、婦人科クスコ超音波器具も、もう大丈夫かもしれない。

謎の達成感と安心感を感じながら、私は婦人科の予約を入れた。


子宮頸がん検査日当日。


下半身晒したまま、例の婦人科椅子に座る。

椅子が動き、開脚される。

どうでもいいけど、この椅子アトラクション感あって、動き出すとちょっとクワクする。開脚されると正気に戻る。

器具を股に当てられ、そのまま何のためらいもなく流れるように挿入される。

「やべえ、普通に痛い。」

「まだ普通我慢できる範囲の痛さだけど、これ以上はやばい。これ以上痛くなったらやばい。これ以上は…!」

と頭の中でヒヤヒヤしていたら、一瞬で器具が抜かれ、終了。

早い。

想像以上に一瞬。

椅子に座ってから30秒も経ってないんじゃないかと思うほどの早さ。

この30秒のために大いに悩み、戦をした自分は一体何だったんだ、と思わなくもないが、

まぁ結果的スムーズに事が済んだので、良かった。

からホッとした。

これから先は婦人科にかかる時、何の心配、心苦しさも感じることなく、内診を受けることができる。


から見たらめちゃめちゃしょうもない事案だろうけど、

こういうめちゃめちゃしょうもない下の悩みを抱えている人が、もしかしたら私の他にもいるかもしれない、ということで

この日記をここに残しておくことにする。

2018-06-24

東京で暮らすことになったのだか、暮らす前から疲れている。

疲れています

ちょっとここでガス抜きさせてください。


新宿区まれ

10歳のとき、親の仕事の都合で関西引っ越しました

それから早30年。

まり地方暮らしが長かったため、もはや東京出身などとは言えません。

そして今夏、今度は夫の仕事の都合で港区に引っ越す予定です。

まず、家探しが難航を極めました。

夫の働きやすさ最優先で、職住接近にこだわりました。

路線図にらめっこ。ちょっと東京、複雑すぎです。

そして子供の通学区の選定。

食品スーパー病院、その他日常生活必要ものが揃うか。

いくつもの物件を見て回ってようやく決まりました。

ややこしく絡まり合った諸条件をひも解いていくような作業でした。

引っ越し後の家計シュミレートした結果、まず車を処分しました。

車が無くても暮らしていけそうなので。

それを皮切りに、今、懸命にモノを減らしています。いわゆる断捨離というやつです。

ミニマリストになる気はありませんし、なれる気もしません)

地方都市でそこそこ広い家でごちゃっとモノを持った暮らしから

都心機能的なマンションで厳選されたモノを持つ暮らしへ。

地方の同市内で引っ越すのとはワケが違うし、

なんというのか、ライフスタイルのもの見直しが迫られている気がします。

それにしても。

なんでこんなに変えることばっかりなんだ。

こんなことしてまで、なんで東京へ行くんだっけ?とか。

ふとそんなこと思ったりします。

いや、まあ、自分たちが決めたことなんで、なんでも何もないんですが。

きっと「判断疲れ」です。

ずっと取捨選択決断連続してるし、間違うのも怖いし。

なんか脳が疲れてる。早くこの状態を終えたい。



東京のみなさん。

都心ならではの楽しい話などをぜひ聞かせてください。

それを読んで、残りの引っ越し準備をがんばろうと思います

2017-11-21

シン・ゴジラの不満点

anond:20171121011908

シン・ゴジラの不満点なら

後半のペラペラい&痛々しい展開をやめればいい

 

ゴジラが来たシュミレートだか原発事故オマージュだか知らないが

解決策が都合よくゴジラが止まった間に丁度解決策が用意されていたので

解決しました(日本人は凄いよポエムを添えて)じゃ

くだらないのも良いところだよな?

 

メッセージが込められてるだの社会派だの勘違いな観方してる

バカがやかましいのはうっとおしいか改善してくれりゃあいいのにな

2017-09-14

犬が好きすぎてつらい

犬が好きだ。

うちの犬のためなら死ねる。

散歩してる時、もし暴漢に襲われたらどうやって犬を守るか、頭の中でシュミレートしてしまう。

最近犬の調子が悪くて、毎月5万円くらい医療費がかかっているが、たとえ塩飯食ってでも病院を優先する。

塩飯は食っていないけれども。

2017-06-04

親が死んでも泣かないかもしれない

親は両親とも80近く2人で暮らしていて、自分は自立してかなり離れたところに住んでいる。

特に母は優しいし苦労もかけたし物凄く世話になったし仲もいい。

父は大嫌いだが。


どうイメージしようが、どうシュミレートしようが、泣くように涙が出るように思えない。

死因が老衰であれ、病死であれ、災害であれ、過失0の事故死だったとしてもそんなふうに思えない。

アニメとかラノベとかマンガだとちょっとしたことで涙は出るのに。


実際、数年前に姉が自殺したときもなんとも思わなかった。

まぁ、姉のことも父に似ていて大嫌いだったというのがあるかもしれない。

失業中の身で自身しんどい時にめんどくせぇと思いながらも泣き崩れる親をよそに淡々葬儀の進行を務めてた。


「死んだら死んだで事後処理大変そうだな」

とか

死ぬなら先に父が死んでくれないかな」

とか

「実際に死んだ時に、自分がこんなじゃ、誰かに『冷淡だ』とキレられるんじゃないか

そんなふうにすら思ってしまう。


自分が冷淡だとは思いたくはない。

自分が頑張ったことで誰かが喜ぶ笑顔はなんとも素敵に思うんだ。

ただ、リアルの人の死に対して、なぜこんなにも無感情なのが不思議なんだ。

なんでこうなったのか、自分でもよくわからない。

昔、もう20年近くなるだろうか、当時よく遊んでた友達自殺したときは泣いてたのに。


最近自分借金が辛くて、もういいやって死にたくなることが時々ある。

それなりに色々経験して辛いことも楽しいこともいっぱいあったし、少ないけど本気で気にかけてくれる友達もいるし。

こういうのもなんだけど、思い残すこともないし。

でも、他人迷惑をかけずに死ねいからと思いとどまるあたり、まだ余裕があるのかな。

でも、両親が死んだら迷惑かける身内も居なくなるし……。


てか、オレの周り自殺者3人て多い。

先の話の失業社長が多額の負債自殺したことが遠因となった倒産が原因。

務めてた会社倒産したのも4社くらいあって多い。

偶然なのか、それともなんかあるのかな。


つらつら書いてたら話が随分それてしまった。

でも少しだけ楽になったよ。

2017-03-27

コミュニケーションだめです

4月から新入社員

ちゃんと飲み会上司や先輩とコミュニケーションとれるように

脳内飲み会練習をしたんだけど、

何度シュミレートしても10分くらいで

「「「.................」」」(思い出したようにビールに口をつける)

となるバッドエンドにしか辿り着けない。

というかよく考えたらこれまで自分はきちんと他人と会話してきたのかな??

まれてこの方いじられキャラで、

ボケ寄りの行動とる」→「周囲にいじられる」というスタイルに頼ったコミュニケーションをしてきたので、

穏やかな会話の仕方がわからないことに気づいた。

まあでも聞き手でいても良いなら、なんとかやれるかも。

話し手は無から有を生み出さなきゃいけないから大変だけど、聞き手あんまりそれがないからラク。

あと自分主体的考える力がないので、大抵の発言に「なるほど!すごーい!!」と思えるから

…もうそんな年じゃないんだから

なるほどすごいマンでいることも、反応乞食みたいなボケで場を繋ぐことも、

卒業しなきゃなあって思うんだけど。

あと不安なのが、年代まちまちの人たちと会話しなきゃいけないこと。

年代が違う人との会話って、なんかいづさ(※東北方言。しっくりこないみたいな意味)を感じる。

特に20歳差くらいから感じる。通用しない冗談の幅がグッと広まると思う。

で、この違和感キャッチすると、なんかもう会話するのがやんだくなる。

そして相槌マンと化した私は、正しい反応を狙う博打をするのみ。

汎用性高い、野球サッカーの話ができればよかったが、どうしてもスポーツには興味持てなかった。

スポーツの会話できる人は強いと思う。)

というかスポーツに限らず、何か首ったけになれる趣味の一つでもあれば、会話の入り口要因くらいにはなれたかもだな。

また浅く広くでもいいから、見聞が広ければ、他人発言もっと適切に共感できたのになあ。

無趣味で無関心なんだよなあ。だから話題力もないし、それを補う会話力もない。

なんかインターネット見るだけの端末と化してる実家パソコンみたいな人間なんだよなあ。はあ。

2016-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20160903225901

http://anond.hatelabo.jp/20160903225901

一緒だ、ついでに年齢も一緒だ

女性側も大概そうだと思うんだけど私だけ?

しょっちゅうトイレなんて行けない、ましてや生理だとしょっちゅう行かなきゃならないし、その様から邪推されたくない

そもそも会う予定をずらしてもらう事もある。それくらい重要で、どのタイミングトイレに行こうかって朝にシュミレートする位。

多少の緊張はお互い様から、正直に言って欲しい。そうすればお互い行きやすくなる。

2016-08-18

就活留年したけど何も変わらなかった。

夢を目指して始めた就職活動

とは言っても呑気なもので、4月の半ばにスーツを買いに行ったら店員のお姉さんに笑われた。

「えっ、3月説明会とか行かなかったんですか?w」

好きな会社情報しか見ていなかったから、就活3月から始まることなんて知らなかった。

行きたい会社説明会は少し時期が遅かったので別によかった。

それから行きたい会社説明会を回ったりエントリーシートを書いて送ったりした。

結局受けた企業10社もなく、ある1つの会社を除いてエントリーシートは全て落ちた。

エントリーシートの書き方も知らず、バカ正直に自分の書きたいことばかり書いていた。

就職活動の場において「やる気と熱意」というのはあまりにも無力だった。

たった1つだけ最終面接に漕ぎ着けた会社があった。大本命だった。

グダグダ面接だった。

夜行バスの中で眠り興奮して眠れずにシュミレートした、たくさんの喋りたいこと。

何一つ喋ることはできなかった。

そもそも面接官が聞きたいことはそんなことではなかったのだろう。

まりにもトンチンカンなことばかり言うからきっと面接官も困っていたはずだ。

なにより、

通らないエントリーシート不安になり、

夜行バスでの東京往復と

他人より残りすぎた単位を集めるための講義

ゼミのための予習と

時々やってくる卒論演習での中間報告と

資金を稼ぐための土日のフルタイム夜勤バイト

消耗戦フルコースで疲れきった私には驚くほど覇気がなかった。

あれほど行きたかった会社の最終面接を目の前にして。

結果は言うまでもなく「お祈り」だった。

持ち駒がなくなったが、なんとか志望の業界に近い仕事を探しだし、

説明会エントリーシートを提出するためだけに再び東京へ向かった。

藁にもすがる思いだった。

やっぱり落ちた。

この辺りで心が折れた。

7月だった。

テストも近いというというのに身体は動かない。

クーラーもない蒸し暑い部屋で泣いていた。

自分にはやりたいことををやる資格がないことがとても悔しかった。

それでも頑張ってテストのために学校へ行き、

中身のないレポートを書いて、拾える単位だけ拾った。

そうして夏休みを迎えた。

就職活動卒論があるからと週1に減らしてもらったバイト身体を引きずる以外、

本当に一日中寝てすごした。夜は眠れず、不安に泣いた。

時々起きて求人サイトを見るが、やりたい仕事は見つからず、さらに泣いた。

手付かずの卒論に心は焦る。でも焦るだけで、なにもできなかった。

前期の授業料を払った口座の残高を見て肝が冷えた。

12万。これから半年間毎月奨学金が振り込まれるにしても、あまりに心もとない金額だった。

そうして本当に何もしないまま2ヶ月が経とうとしていた。

これからのことを考えなくてはいけない。

内定絶対に無理なことではないのだろう。秋をすぎて内定先を得た先輩たちをよく知っていた。

卒業もできないことはないだろう。うんこみたいな卒論を書くことになるが。

でも自分にはそれに立ち向かっていく勇気はなく、これ以上に心が潰れていくことが怖かった。

なによりも半端な気持ち就職が決まっていくのも、

せっかくやりたいと思うテーマを見つけた卒業論文をてきとうに済ませてしまうのも、

嫌だった。

親の前で泣き、先生の前で泣き、そして留年を決めた。

4年生の残りの半年は残った授業の単位を取ることに集中し、

あとは自分の心を立て直すこと、メンタルをしっかりとコントロールすることに費やした。

そう安心した矢先、家庭やバイト先、人間関係などプライベート面で信じられないほどのトラブルにも見まわれたが、

残った単位をしっかり取り、卒業論文も進め、心も立て直し、新たな気持ち3月を迎えることができた。

そうして、新たな気持ちで始めた就職活動はとても楽しかった。

就職活動の流れようなもの理解して、しっかりその波に乗っかることができた。

去年の反省から違った業界を覗くようにもなった。他にもやってみたい仕事を見つけることができた。

エントリーシート面接の乗り越え方もなんとなく理解し、選考を進んでいくことができた。

面接に落ちることはあっても割り切り上手にもなった。

なんども行き慣れた東京でも時間の使い方なんかも上手くなってきた。

それでもやはり就職活動の大変さに驚く。

完全に学校に縛られることはなくなったはずだが、暇ができたような感じは全くしない。

ピーク時には1ヶ月中半月ほども東京滞在していたし、

やっぱり工夫はしていてもお金はどんどん減っていく。

去年失敗したのはしょうがないことだなと思えた。

はいえなにより、また夢を目指せることが本当に嬉しかった。

やりたい仕事のために頑張れることは本当に嬉しかった。

ところがどっこい、6月の頭にまた持ち駒を失った。

面接ではどこでもそれなりにしゃべれていた。

落ちていくのは「合わないな」と思った会社だったので気にしなかった。

2つの会社でかなり良いところまで進んだが、

片方ではヘマをしていまった。片方はサラッと落ちた。

ヘマをしてしまったのは惜しいことをしたが、

受けていたところはどこも狭き門だったのでそれこそ「ご縁」がなかったのだろう。

持ち駒を失った時、自分が体力的に疲れ始めているのを感じたし、

資金の消耗も激しく、交通費などでクレジットカードの支払いがかさんでいた。

少し休んでまた始めればいいや、そう思って就職活動を2ヶ月ほど一度休むことにした。

そして2ヶ月経って就職活動を再開し、

少し興味のある会社に応募するものの、

説明会にいっても心は沸き立たず、

面接にいってもどこか身が入らない。

そのうちに求人を見ていても興味が湧かなくなった。

このままでは拉致があかないと思い、いわゆる求人紹介会社を利用してみる。

まり話も聞いてもらえないままにとにかくIT企業を紹介される。

正直なところそうとう気持ち萎え気味だったが、

いつまでも駄々コネてられない、何も見ずに判断するのも良くないだろう、

そう思ってとりあえず紹介された会社選考スケジュールを埋めてみる。

やはりちっとも興味を持てなかった。

イヤイヤ選考に足を運ぶ日々が続いた。

そしてある日、面接官の女の人に怒られた。若い人だった。

それは圧迫面接相手と試そうとするようなものではなく、

ただただ怒っていた。そして、至極もっともなアドバイスをくれた。

「しっかり目的意識をもって行動できるはずの人なのに、全然うちに入りたいという意識が感じられなかった。

 本当に入りたいの?違うんじゃない」

「本当はやりたいことがあります。」

「いやいや気持ちを取り繕ってもすぐやめちゃうよ」

「そう思います

 多分自分は取り繕いきれません。」

「ちゃんとやりたいと思える仕事探した方がいいよ」

はい……」

結局自分にとってはどれも紛い物でしかなかった。

この1年で何も成長しなかった。

この期に及んで自分のやりたいことしかやりたいと言えない、わがまま不器用クズだ。

どこかでちゃんと覚悟を決めなきゃと思いながら、ずっと心はイヤイヤ言っている。

社会人になるという覚悟が足りない。知っている。

でも、どうしても自分の心にふたをすることができないのだ。

時々取り繕う言葉に混ざる本心に涙が出る。

半端な気持ち面接に言っても「ははっ、やりたいっすね~w」みたいな舐めた態度に見える。

じゃあこんなクズは素直に卒業してアルバイトいからでも行きたい業界に潜り込むか。

でも、今から全てを投げ打ってでもそういう努力ができない自分は結局クズなんだよな。

時々ある行きたい業界二次募集や小さい零細会社求人に手を出す勇気がない。

つのまにか「やりたいです!」と言う気力さえ失ってしまった。

あれも嫌、これも嫌。

結局自分はなにをやりたいんだろう。

結局就活から逃げたいだけ。

ああ、そうなんだろうな。

おそらく面接官のお姉さんの言葉警鐘だったのだろう。

毎年多くの人が入社し、それと同じくらい多くの人たちが辞めていく、そんな会社だった。

そんな中で自分のような同期や後輩たちがくたびれて辞めていくのを目にしていたのだろう。

やりたいと思える仕事を見つけたい。

なるべくそ努力をしようと思う。

でも、少し疲れてすぎてしまったし、

なんだか見つけられる気がしないんだ。

2016-08-09

仕事が出来なさすぎる同僚の特徴

自分の作った段取り脳内シュミレートできない

・なのでその人が主体プロジェクトが実際に走り出したらボロばかり出てくる

・周囲がそれを必死カバーして結果的に丸く収まっただけなのに本人は満足気

・注意されたらその時は神妙な顔でしんみりするのに後々全く活かされない

自分仕事の「後に」仕事する人の存在認識できない

・だから周囲からかいイライラを買ってばかりなのに本人は気付かない

・直属の上司が優しすぎる

・常に時間ギリギリ

・机が汚い

デスクトップショートカットだらけで汚い

・やることリストは書きだしただけでやった気になっている

・単純に処理が遅い

・だから残業も多く休日自主出勤する

・それでも自分なりに一生懸命やっているので自分の「できない点」に目が向かない

バイタリティ「だけ」は人一倍

・打ち合わせをちゃんと聞いていなくてよく聞き返す

時間ルーズ

自分が受ける仕事を緊急性や重要性で分類できずにただ受けた順に消化する

・人に仕事をうまく頼めない

・やる気だけはあるのですぐに出来もしないのに安請け合いして後々自滅する

自分仕事のゴールを想像できない

責任を被るような仕事役割をとにかくビビって避ける

・誰かに強く当たらなければならない場面でそれができない

自分なりのこだわりが強いのにすぐ人の意見に流されて後で愚痴をこぼす

2016-08-05

日本はまだやれるとか福一に特攻とかそういうのは臭いし割とどうでも良かったな

カット割りの速さとかゴジラの動きとかテンポの良さとか災害シュミレートみたいなエンタメとして好きなんであって

日本はまだやれるなんで微塵もあの映画見て思わなかった

そういう意味評価してる人なんているんだろうか

ただ自分の住む国や自分生活を守りたい平和を守りたいというのは誰もが感情的に抱くものなんじゃないか

2016-06-14

仕事が出来なさすぎる同僚の特徴

自分の作った段取り脳内シュミレートできない

・なのでその人が主体プロジェクトが実際に走り出したらボロばかり出てくる

・周囲がそれを必死カバーして結果的に丸く収まっただけなのに本人は満足気

・注意されたらその時は神妙な顔でしんみりするのに後々全く活かされない

自分仕事の「後に」仕事する人の存在認識できない

・だから周囲からかいイライラを買ってばかりなのに本人は気付かない

・直属の上司が優しすぎる

・常に時間ギリギリ

・机が汚い

デスクトップショートカットだらけで汚い

・やることリストは書きだしただけでやった気になっている

・単純に処理が遅い

・だから残業も多く休日自主出勤する

・それでも自分なりに一生懸命やっているので自分の「できない点」に目が向かない

バイタリティ「だけ」は人一倍

・打ち合わせをちゃんと聞いていなくてよく聞き返す

時間ルーズ

自分が受ける仕事を緊急性や重要性で分類できずにただ受けた順に消化する

・人に仕事をうまく頼めない

・やる気だけはあるのですぐに出来もしないのに安請け合いして後々自滅する

自分仕事のゴールを想像できない

責任を被るような仕事役割をとにかくビビって避ける

・誰かに強く当たらなければならない場面でそれができない

自分なりのこだわりが強いのにすぐ人の意見に流されて後で愚痴をこぼす

2016-05-05

批判はつまらない

とある記事について批判的なレビューを残したところ、「そういう批判はつまらない」といった趣旨反論をされたことがある。

家入一真が大好きな界隈にそんな感じの人が多いイメージだ。功遅拙速面白ければなんでもいいじゃん!って感じでWebサービス濫造してる界隈のひとたち。

こっちゃ内輪で楽しくやっているし、やってることはイノベーションだし、いろいろ理由をつけてやらない奴らより多少アラがあってもやる奴ら(=俺ら)のほうがすごいでしょ?って意見のひとに大賛成のひとたちだったと思う。

自分自分号外を撒き散らしといて批判しないで!っていうのもなんだか微妙であるならば、レビューコメントに対して「つまらない」っていうのも、それは反論になっているのか?っていう疑問が残る。じゃあ何を言ったらアナタにとって面白いって思えるの?僕はアナタ友達でも恋人でも家族でもないので、アナタ面白いツマラナイを考慮しながらコメントしないといけないのか?アナタ面白いツマラナイとかマジどうでもいいと思うのだけれど。

やらないほうがやるほうより遥かにマシっていうパターンがちょいちょいあるので、たぶんそういうのを具体的にシュミレートして提示しないといけないのかねって思うけど、そんな時間もねーしな。

2016-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20160212122611

映画演劇文学は?

演技であっても声優アニメーターの身体性は排除できないのでは?

人工知能シュミレートした音や図像なら完全な虚像と呼べるかもしれないが

2015-10-13

実録(ry

http://yunojix.hatenablog.com/entry/2015/10/13/110218

300時間はさすがにいやだが120時間くらいまでならねっていう。辛さは性格とお給金とその後によると思うわたくしなのでございます

お金には困らない

残業代は全部出たので別に困らんかったが、修羅場中は特に使う場所もない。そもそもホテル取ったりタクったりがふえて立替がかさむので実感としてはたいして楽になった気はしない。

ただ給与明細をみるとにやにやが止まらない。

見た目は残念にならない

もともと残念なのでそれ以上悪くならないというかどこに労力を振り分けるかによる。

しろ日本語能力コミュ力が残念になった。

時間あたりの生産性はあがる

仕事に労力を全振りしていたのでむしろ生産性は上がった。が、その他のことが適当すぎて修羅場後は家と家計修羅場家計残業代バーンと入ってくるのでさして問題にはならないのだが片付けはね…わがままボディとか習慣とかね…

欲望のままに生きることになるのでかなりわがままだしズウズウしくなったと思う。人間性は確実に低下した。

トイレの個室にこもっても普通

別に特に何もなかった。月経が止まるのはいものこと過ぎて気にならないし、修羅場中は早起き快便であるアドレナリンが出すぎかもしれない。

自己破壊にいた――らない?

最初に80時間超えた時はまだ仕事に慣れてなかったこともあって胃腸炎になったが、その後は100~120時間程度ならさして体調にでなくなった。

しろ閑散期のうつ状態がひどい。アドレナリン中毒なのかもしれない。

人間性が低下したという意味では自己破壊されてるのかもしれんが

まとめ

まー超残業しまくるのって躁鬱のジェットコースターシュミレートみたいなもんなんで、乗り越えられるかどうかは体質によると思う。もともと気分障害があったりするとむしろ好調になったりとか。

あとはちゃんとおちんぎんが出るかどうかも大事ポイント。忙しい時期の後に代休をとれるかどうかとか。上の理解があって終わったあとはねぎらってくれるかどうかとか。そうじゃない会社は速攻やめるべきだし、残業時間数をじまんするのはいくない。

自分は一時期ものすごく残業が多かったがそこでストレス耐性がものすごく高いと思われたのか今は海外の協力会社に出向している。英語できないのに。流石にストレス耐性つよくても語学できなさすぎて最初の2ヶ月は会社行きたくない病になった。そういうストレスには弱いんだよ!

でも今じゃもう慣れちゃって毎日5時間くらいだけはたらいて(三時間しか働かない日もある)余暇を楽しむ人生だ。おちんぎん少ないのが不満なのと海外出張手当が三ヶ月ごとにしか支給されないのとか祝日の少ない国なうえに有給取れないのがストレスで、100時間超の残業のほうが楽だったなと思っている俺がいる。転職したい。

2014-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20140226225412

横だけど増田特有の変なツッコミで今閃いた。

俺は昔、子どものわりに頭の回転が速いほうだったんだけど

相手と自分の会話を何手も先にシュミレートしすぎて逆になにも言えなくなる子どもだった。

たまに気を抜くと相手がまだ答えてもいない先の先の言葉にたいして頓珍漢な返事をしてた。

増田ツッコミはそれに似てる。

2012-11-10

http://anond.hatelabo.jp/20121110052450

ネット深淵に潜む最悪の7人の7人目が動くときは、警察個人情報の公開にいくら気をつけていても留めることはできなかったろう

悪意を持って行動する人には学習シュミレートする時間が有り余っていて、安全を守る側にはその時間が乏しい

悪意に特化した人が仕掛けるトラップは実に巧妙

普通」の人は「人間」を信じているから「善意」を装われるとホイホイ個人情報を公にして吸われてしま

今回は情報保護について漏らした人は当然批判されるだろうけど、その人が漏らさなくてもインターネットにいる

被害者の友人・知人・同僚などに「善意メソッド釣りを仕掛けてコツコツ長期間小さい情報を集めて

ストーカーインターネット環境が無ければこつこつ集めた情報分類していきながら電話帳と地図や足で聞き込みして)

ネットがあろうがなかろうがいつかは必ず被害者に行き着いていたと思う

ネットストーカーって名前割れしても民事裁判になっても何年でも粘着するし他に興味が逸れるまでは止めないので誰にも止めようが無い

というのを実例知ってる 

人が他人に悪意を持った時、それを未然に防ぐのは難しい

今まであの手の善意メソッドって金貸しがやっているのかと思っていたけど、殺人とか超怖い

2012-01-17

虚数時間に、並行世界パラレルワールドが発生したと思った件

先日、暇つぶしパラレルワールドについて考えました。

その結論として、宇宙インフレーションが起きる前の、

虚数時間に、並行世界パラレルワールドが発生しているん

じゃないかと達しました。

良くパラレルワールドと言うと、シュレディンガーの猫

出てきて、生きているか死んでいるか、観測するまで分か

らないっていう話が有名です。

猫が生きている世界と、死んでいる世界に分岐しているの

パラレルワールドなんて話しでありますが、死んでしま

う毒が、例えば浮遊している原子1個だとします。

それを吸うと猫が死に、吸わないと猫が死なないとします。

もし都度、世界が分岐している考えだと、原子1個がちょっと

迂回して、5秒遅く猫を殺す世界、4.9秒etc、4.99秒etc、4.98秒etc

無限に考えられてしまます

さらに、原子が1回転多かったり、少なかったり、その間に

猫の毛が1つ抜けたり、抜けなかったり、それらが組み合わ

さったり、無限なっちゃうんじゃないかと。

で、違う可能性の世界から見たら、猫が生きているか死んで

いるかも、原子が位置がちょっと違うかも、世界に違いが無い、

または別の世界と見れるんじゃないかと考えたわけです。

から、コップいっぱいの水、も水分子の組み合わせが無限

に分岐しているわけで、現時点の世界から、可能性によって

世界が分岐しているとしたら、分岐しすぎて、成り立たない

と考えたのです。

猫が生きているか死んでるかは、可能性から世界が分岐する

のではなくて、生きている世界存在し、平行して死んでいる

世界存在していると考えました。

それらは、可能性で分岐したんじゃなくて、前から別の世界

として、同時に存在しているんだとしました。

いつから、その世界があるかと考えると、分岐しない訳ですから

宇宙が始まったころ、ビックバンの前、インフレーションの前、

もし一つのから世界が始まっていると、パラレルワールド

存在できないので、

インフレーションの前の虚数時間から世界スタートしたなら

なら、すべての形と時間が別々に同時に存在できるとして、

似た様な宇宙であるパラレルワールドが、ガンガン生まれる

んじゃないかと考えたのです。

生命シュミレートするゲームのように、微妙に違う条件で、

様々な宇宙が、平行世界として展開されていると考えたのです。

その中には、4次元以上の世界もあったり、僕らと同じ3次元

世界もあったり、僕と同じ人間がいる世界もあるのじゃない

か。

ただその一つ一つの世界からは、パラレルワールドは分岐せず、

つの太いチューブのような、中の行動では分岐しない世界で、

チューブの中を、異なる経路を通る可能性はあるが、向かう先

は一緒で、世界は同じだと考えたんです。

とか、寝ながら考えていると良く眠れます

2011-12-24

認知の微視的構造 リマインダー

リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。

第一章

1

認知主義、古典認知主義

意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデル意味する。

 この主義の限界を

2

 ・チューリング

 チューリングの形式化が持っている特徴

(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括

(2)そのメカニズムいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している

(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している

⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している

フォン・ノイマンコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーLISPプログラム言語)を開発。

 ⇒ 研究開発が可能に

A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出

 ⇒理論的に自覚化・明確化される

3

・物理記号システム

①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、

②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム

by 1976 ニューウェル & サイモン

・強い物理記号システムの仮説

SPSS strong-physical-symbol-system

「標準的な記号アトムフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」

①仮想機械

現実の物理機械上で実行されるプログラムのみによって存在し、

そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」

 高級プログラムによって定義されるエミュレータ

フォン・ノイマン型の操作

コネクショニズムとは異なった操作

・記号を割り当てる

・変数を束縛する

・記号列の複写、読みとり、修正

・基本的な統語論パターンマッチング操作

等々

③標準的な記号アトム

「テーブル」「ボール」「愛する」「軌道」「電子」のような語

④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段

そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる

 このような主張(標準的なLISPアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践

彼らの仕事の特徴(例:BACON

 ・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している

 ・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能

 ・選ばれた課題領域を扱う

BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則

BACONに対するいくつかのコメント

BACONが取り組んだデータフォーマット化下のは、人間の労苦

BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。

 ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない

BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの

 ⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう

 サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。

 しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。

 心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える

 BACONは、人類の一部のモデル

 知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている

 古典システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。

 古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々

意味論的に透明、意味論的な透明性

STS semanttically transparent system

システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステム意味論的に透明であるといえる」

 きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズム記述レベル2)における計算の対象が、概念レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述レベル1)と同型である場合である

レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え

レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法

レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)

古典アプローチコネクショニズムの重要な違い

(1)古典理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論意味論を組み合わせた記号システムを仮定している

(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。

 もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない

◎要するに、古典システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである

第二章

 古典認知主義に対する懸念

 ドレイファス:古典認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当

 サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論意味論との間にギャップが認められる

 この二つの種類の懸念について検討する。

あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」

 この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念リストをあげる。

 ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。

 ウィンストンの、フレームを使ったアプローチも不十分

 ・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)

 ・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?

 ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか

ドレイファスの二つの主張

(1)身体問題

「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」

 コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない

(2)コード

 人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。

 このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?

 

 AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。

「強いAI仮説」を、サールは批判する

強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる

Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。

サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。

具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋操作者が中国語を「理解すること」の比較

「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」

 以下、サールの誤りについて論じる

 

 サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」

 脳シュミレータ説:あるりプログラム中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる

↑(サールの再反論)

(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)

(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである

 ↑(アナロジー

 光合成光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない

 では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?

  :外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること

↑(コメント

中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効

 微視的機能主義

 機能主義は、心的状態の本質を、

 入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。

 (適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)

↑(批判)

中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。

 こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう

・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか

×大まかなレベルに位置づけ

  ⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ

ライカンの「小人機能主義」

○微視的機能主義

・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981

ゲシュタルト

 :機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ

ライカン「小人機能主義」

 :機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)

 微視的機能主義

  :システムの内的な機能的プロフィール(内的状態の変換)を、

   内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で

   記述しようとするもの

   ・処理ユニット間の形式的な諸関係を記述する

   ・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる

第三章

 認知科学における民間心理学の役割はあるのかないのか

「民間心理学

 :自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解

 民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる

チャーチランド & スティック

「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学

 民間心理学問題点

(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。

 民間心理学は、子供狂人外国人を前にすると、まごついてしま

(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる

(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである

 最近の分析哲学

  :頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか

Daredevil believes that Electra is dead.

Mary hopes that Fermat's last theorem is true.

 のthat以下を、心的状態の内容と言う。

 心的状態が考えられる傾向

  :われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、

  われわれにとってどのように見えているかによって決まる

 ↓(言い換え)

 我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、

 本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない

⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、

 知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆

・双生地球……☆に対して疑いを投げかける

双生地球で、「海に水がある」と発話される。

地球A:海にH2Oがある

地球B:海にXYZがある

 この違い以外は同質だとする。

 すると、

 地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる

(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)

 もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、

 自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、

 単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して

二つの選択肢

(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、

 世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説

(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は

  〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう

プティ と マクダウェル

「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。

 しかし、

〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」

 筆者

 :あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、

 そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない

 その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。

 仮想反論

 :「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」とするならば、

 心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)

(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)

 仮想反論の詳細

:仮定①:

 二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる

 (そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)

 仮定②:

 行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない

 結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない

「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。

 限定的内容といっても、それを妥当概念として了解できるかは明らかではない」

 なぜなら、

「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは

 まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。

 その具体的理由として、

 ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。

筆者

 :広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、

 民間心理学カテゴリーや分類が

 頭の中で起こっていることに関することに関する科学カテゴリーや分類に

 きちんと還元されるなどということは

 とてもあり得ないように思われる。

・民間心理学は、科学心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない

 世界を記述しない信念であり、なおかつ

 ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学記述の上には)存在しないことも可能

 民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?

 :

 他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、

 その人の身体の動きを予測し説明するための手段

民間心理学の主要な目的

 :

 世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること

(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴

①世界に対する感受性、すなわち感覚生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している

②世界をわれわれと共有している

③彼らは我々自身のもっと根本的な関心と必要の大部分を共有している

④彼らの思考の有用性は、

(我々自身の思考と同様に、)

 彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、

 彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている

 この特徴があるので、

「~したい」という欲求さえ同じであれば、

 神経生理学的な詳細は関係なく、地球人にも火星人にも有効。

・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている

・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、

 さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)

 筆者の見解

 :私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、

 行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである

 ……関連する行動を可能にするものとしての、

 根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、

 そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が

 対応している必要はない。

――

 筆者の意見は全体論である。(行動全体に網をかけるから。)

 ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか

<Fordor>

意識の全体論というのは、

命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」

 という考え方。

 これに、Fordorは懐疑的

命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)

われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題認知的連関)を共有しているとは思えない。

 なので、意味全体論はありえない。

 →信念の内容が、その認知的連関に依存するということを否定。

 信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。

 外延的意味論の一形態に賭ける

:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである

「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」

</Fordor>

筆者

 :Fordorの間違い

 全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。

 Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。

Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。

筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている

 全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)

 一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。

(1)民間心理学は、狂人や言葉の通じない相手には使えない

(2)民間心理学は、長い間停滞している不毛な学問である

(3)民間心理学は、神経科学ときちんとつながっていない

(3)に対して、

 民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである神経科学とつながることを目的とはしていない

(1)に対して、

 民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない

(2)に対して、

 民間心理学の目的は限られたものである

 なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。

整理。

 心的状態に関するわれわれの常識的理解と民間心理学は、違う。

 民間心理学には、きちんとした定義がある。

 これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」

 因果関係と、構成的関係の区別

構成的関係

 :

 研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ

因果的に関係

 :

 因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、

 それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる

ということはない。

チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)

・広域的内容の理論認知科学は心を解明しえない

・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている

科学(物質、プログラム

(構成的関係)

科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。

では、構成的関係とは何か。

構成的関係←→因果関係

構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること

因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない

(駒はなくてもチェスは打てる)

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2010-11-30

コンタクト外して

現実にうまく参加できない私。今日脳汁放出させながら、時給700円の仕事淡々とこなす。

頭の中では電子音ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダと鳴っている。

家でやっているDTMの打ち込みをシュミレートさせているのだ。

もちろん目の前の単純作業との同期は完璧

時々意識が無くなってそのまま死んでいまいそうなときもあるけれど、天国で曲を作れるのなら、それでも良いのかもしれない。

もう百万近く音楽の機材に金を使っている。

両親は最初小言を言っていたが、最近では何も言わない。諦めたというか呆れたというか飽きられたというか。その違いは別にどうでもいい。むしろ曖昧なまま。それが続けば良い。

不安定で超低賃金で、別に将来音楽で食おうと思っているわけではないのに音楽の機材を買いまくっている。何故だろう。やっぱり音楽が好きだからだろうか。しかし偏執的な気もする。音楽をすることによって愛される可能性があるとでも思い込んでいるのだろうか。

いや、もう人気が欲しいとか、そういうことはどうでもいい。僕はとにかく曲を作り続けたいのだ。曲を作り続けて、それを音楽神様の前に差ししたいのだ。神様だけが僕を救済してくれる。人間のために作っているわけではない。資本主義のために作っているわけではない。ただ、自己の救済のためだけに。いつか、光に包まれて僕が報われるのを待っている。永遠の安息が訪れるのを待っている。死を待っている。

2010-08-21

アホなことしてすごい恥かいた

その日、仕事が長引いて終電に間に合わなかった私は先輩に車で家の近所まで届けてもらった。

ここで大丈夫ですよ、と送ってもらったお礼も伝えて下りた場所は家までまだ少しある。

いつもの駅はちょうど反対側だったから最近あまり通っていない道だ。

川づたいに延びる土手をテクテク歩く、昔はよくこの土手で遊んだなあ。

坂の上から寝っ転がってクルクル回りながら「あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!」とかしたっけ。

小さいの頃のことを色々思い出してノスタルジックな気分になる。

時刻は深夜、昔と何一つ変わらない場所に、夜ハイな私、水面は街頭を反射してキラキラきれいだ。

辺りをぐるりと見回してみたけど誰もいない、今がチャンスだとばかりにバックを置いて横になる私。

と、こんな風に書くとまるで生粋の頭の悪い子なのだけど、もちろんそこに至るまではためらいもあった。それもおおいに。

でも子供のころ楽しかったことが大人になるとできないのは何か嫌だというか、もう半ば意固地になってしまい暴挙に及んだ。

つまり「あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!」である。

いざやってみると恥ずかしさもあったけれど、童心に帰れた気がして少しの満足感もあった。

河原の部分まで転げ落ちる。

そしてふと顔をあげ。

あ、人がいる。

寝転がる私とそれを見る男性というのは遠くからシルエットだけ見てみればさぞシュール光景だったろう。

私は光の速さで服を整えさっと起き上がったが何もかも手遅れだった。

どこかのスナイパーみたいに全身に草を散りばめた前衛的なファッションの私にその若い男性は明らかに笑いを堪えている。

もういっそ川に飛び込みたい、走って逃げたい。でもそうもいかず足の指先から頭の先まで真っ赤に染まった私はそこから動けずにいた。

いっそトコトコとすぐ側まで歩いて来たその人を川に突き落としてやろうかとも考えたけど、たぶんご近所さんだろう足が付く。

気まずい空気が流れる。

笑いながら通りすぎていってくれれば良かったものを変に律儀なのか

その男性は立ち止まって、さっきまでの吹き出しそうな顔はどこへやら今にもごきげんようなんて言いだしそうなポーカーフェイスを装っている。

髪に絡まった葉っぱをできる限りの上品な仕草で取り除きつつ私は「こんにちは、お散歩ですか、じゃあさようなら」なんて

適当に会話を済ませて一刻も早くこの状況から抜けだしたいと頭の中で会話をシュミレートしていた。

が、

「楽しそうですね」これが男性の第一声だった。

後から考えればこの人なりのフォローだったのだろう、でもこのときそれを言われた私は正直恥ずかしすぎて涙ぐんでいたと思う。

大の大人スカート履いてああああ言ってればそれは楽しそうに見えただろう、でもそこは武士の情けでしょう。

毛を逆立て顔を真っ赤にしながら押し黙ってしまった私に

少し挙動不審となった男性は、昨日引っ越してきたばかりで近所を歩いていた、そこの建物に住んでいる、近くにコンビニはないかみたいなことを身振り手振りで聞いてきた。

コンビニはあるけど駅の近くなので私の帰り道と同じ方向だ、ゆっくりと腕を上げ向こうの川岸を指して、私はあっちとまるっきりデタラメを言ってしまった。

そのままバックを拾って振り返らずに家まで帰ったけれど、あの人は橋の方までUターンして行ったのだろうか。

後日よくよく思い出してみると相手はいいお年頃の男性だ。恋愛上手なお嬢様ならこれも出会いのひとつにしてしまうのかもしれない。

でもやっぱりあんな出会いは嫌だなあ。

2010-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20100325101946

言っていることは、理解できる。

論理的に。

ちょっと思ったことを反論してみる。

前提として、

「本来異性に好かれないような人間財産や地位を築き、そういうのに寄ってくる異性と付き合う」

これは、程度問題であるという認識

若かろうが、なんだろうが異性と付き合う時に、将来性みたいなものはみてしまうし、その(欲しい)将来が現実に目の前にあるというだけではないのだろうか?

つまり、「そういうのに寄ってくる」人の中にも本当にコントロール不可能な人もいるし、「そういうのに寄ってきちゃった」おっちょこちょいもいると思うのだ。

極端な話。

ここで大事なのは自分コントロール不可能な異性を見分ける能力だと思う。

若い時に恋愛してないと、それを見分ける能力が育たないというのはあると思う。

1.客観的に醜い・見苦しい

醜さや見苦しさって若くてもある。

本質的に、恋愛って醜く、見苦しいものでもあると思う。

自分を客観的に見てるうちは恋愛って、やっぱりできない。

そのことは、若い時から何も変わっていないのでは?

2.時期のズレ

二十代後半だの三十代だので異性に寄ってこられてもそもそもあんま嬉しくなくね?

うれしいだろー。

この気持ちは、全く理解できない。

どんな年齢でも人って、それぞれにおもしろいところがある。

同じ人でも年齢によって変わっていくものってあるし。

これは、とにかくセックスをやりたいという時期が過ぎたということだけではと思う。

3.そうして出来た恋人は実は恋人ではない

金や地位でひきつけた異性なんて、本当は俺の相手なんかしたくないわけで。言ったら恋人と言うより愛人でしょそんなの。

いやいや、愛人みたいな存在だった子を恋人に変えるゲームを楽しむんじゃないの?

こういう場合。

それはそれで楽しい

てか、徹底的に楽しもうとしないよね。元増田は。

10代の時にここまでシュミレートできる能力はすごい。

だけど、こういうのって相手の女性自分と同じ性格でやってることが多いんだよね。

大体において。特に若いと。

だから、詰んじゃう。

人の反応はここに書かれてるほど単純じゃない。

みんなお金は大好きだけど、お金の先に見てるものはそれぞれ違う。

てか、やっぱりこれって単なる「こじらせ」じゃね?っていうのが自分感想&結論。

2009-11-10

性について

さっき、巨峰巨乳と言ってしまった。別に巨乳好きとかじゃないのに。

別にこの話はどうでもいいんだけど…

自分は今のところ高校生童貞、多少女性恐怖症のような感じ。

それで、先日ふと思った。

俺もいつか童貞じゃなくなるのだろうか、そんなこと有り得るのだろうか…と。

頭の中で、性交渉をシュミレートする(童貞なりに)。

まず、人見知りで、劣等感がある自分が、好きな人に欲情したとして、

おもむろにキスをするとか、「僕とXXXしてください!」って言うなどの事象は、有り得ない。

つまりただひたすら待つしかない。なんて哀れな…まあしかしこれが俺だ。

そして俺がいつか誰かさん性交渉に及ぶ場合、当然服を脱ぐだろう。

それが嫌だ。

なんというか、全く、異性と対等な自分というのがイメージできない。

異性に劣等感を感じている。

そのせいで、恐らく、異性の裸体を目前にしたとき、

自分に嫌気が差して、冷めてしまう…ような気がしてならない。

実際は、うわ裸の女の子だウヒョーみたいになって、暴走するのかも知れないけど、

今なるべくリアリティをもってイメージしてみると、そんな気がしてしまう。

2009-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20090324203228

あんたのやったことで、少なくとも係の人は自分のされてることが理不尽だって思えたろうから

悪いことじゃあないよ。バカに餌付けしたのはそうかもしれんけど。

次にそなえいて、バカのプライドぎっちょぎっちょんにできるいい方法がないか

シュミレートしておきなよ。自分もよくそういう光景を見てしまったり体験したりするけど、

若い頃よりはだいぶものを言えるようになったなあと思う。

でもそういうバカを見ると、心が寒くなってこっちがへこむんだよなあ。

結局ダメージ受けるのはこっちっていう。

2009-03-08

ちょっと考えてみた

ミクにしても、テクノにしても、打ち込みにしても、シンセサイザーすらも、否定するのかな?

歌うことだけが人間アイデンティティかな?

音楽は道具=楽器を通じて進化してきたし、メディアを使って一般化してきた。

でも、それはみんな人間が求めて作り上げたもの。

DTMだってもはや一昔前のテクノミュージックだけのものじゃない。

アコースティックの音と区別が出来ないほど、自然な音をシュミレートしてる。

ミクだって、シュミレーター。それはたまたま人間の声をシュミレーとしているだけって事。

音楽は自由でいいと思う。

アカペラの、人の声だけの歌も良い。

アコースティック楽器弾き語りも良い。

クラシック音楽も良い。

テクノもポップも自由自在。

どんな楽器を使ってどんな感情を表現するか、それが音楽

そこから何を受け取れるのか、聴き手の感受性を試すもの、それが音楽

作り手の感性と聴き手の感受性の化学反応、って事かな。

ということで、頭ごなしにミクを否定することの意味は無いと思う。

だからといって、人の声の持つ感情表現を否定するものでもない。

http://anond.hatelabo.jp/20090308190204

2008-10-14

http://anond.hatelabo.jp/20081014221604

元増田かもう振られちゃった増田か分からないけど、

自分限定でその状況をシュミレートすると…

痛いけどそれは言い出せないよね…。

相手だけ気持ちよくなってると、

ますます自分だけ一人ぼっちで置いてかれた気分になるもんだよ。

あと元じゃない増田も言ってるけど、愛してないから拒むとか禁句。

セックルの際に他にもいろいろやらかしてるはず。

触っただけで鳥肌って一体どんなことやらかしたんだか。

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