まさに中2のときから、今に至るまで、30になるまでずっと僕はこの問いに囚われてきた。
昨日見たテレビの話とか、馬鹿なことをした知り合いの話とか、下ネタとかそんな会話で埋め尽くされる社会が嫌で避けて生きてきた。
一方で、人に誇れるものも無く、孤独な自分が、損しかしていない気がして、世の人はとうの昔にこの問いを乗り越えたに違いなくて、自分はなんて馬鹿なんだとずっと思っていた。
この問いの答えを出さなければ生きていける自信がなかったし、棚上げして60歳くらいにまた悩まされたりしたら辛そうだから、考えようと思った。
「生きる意味」について考えようと思ったら、意味という言葉は何なのか、言葉とは何なのか知る必要があると思って、小説や哲学書を読んだ。
「生きる意味」を問うてしまう自分を知る必要があると思って、心理学や神経科学の本を読んだ。
暫定的だけど、腑に落ちる答えは得られた。
種としての生存の確率をあげられるように生物は進化してきた。外界や自分の状況を組み合わせてシュミレーションすることで、より良い意思決定ができるようになる。そのシュミレーションを行う上で、世界の事象を表す概念が必要だ。概念と文字という記号が結びついて言語が生まれた。
意味、つまり世界を説明する言語の中で最も根本的なモノ、を求めてしまうのはこのシュミレーションを行う機能の暴走だ。あるのはただ世界だけで、それを粗く写し取った言語がある。言語があって世界があるわけではない。
意味は無いけど世界はここにあるのだ。ぐるぐると回り続ける思考の中にいて世界を感じられないは不幸だ。美味しいワインを飲んでも、好きな女の子とセックスしてても、とりとめのない考えに囚われて、その心地よさを味わえないのはどう考えたって損なのだ。
昭和の文豪達は不幸だ。自意識をこじらせた不幸な人間たちを書き続けて評価されるなんて悲しい話だ。
巨大なペニスになりたい。ただ感覚だけの世界を漂いたい。それは動物的で人間らしく無いように感じるが、思考することこそが人間らしいのか?人間は肉体を軽視しすぎてこなかったか?機械学習のおかげで人間の思考なんか大したものじゃないことがわかってきた。産業革命で肉体が過小評価されるようになったんじゃないか?