はてなキーワード: 監視とは
楽しいのは描画系とか、操作とか、シューティングだと色んな装備実装したりとか、そういうのは楽しい
敵の行動あたりから雲行きが怪しくなる
要はパックマンとかスーパーマリオの延長線がなんだかんだ多いのではないか
シューティングなんか、同じ動作パターンの繰り返しであり、それが幾重にも積み重なる、
例えば、同じ画面内に様々な敵が登場するが、それぞれの敵の行動パターンは非常に単純であるが、
それがミックスされたり、自機に向かってどんな感じで弾を撃つとか、自機と無関係にレーザーを放つとか、
結局は凝ったイライラ棒みたいなもんで、意外性がないというか面白くない
敵が、生きてるのではないか?と思うぐらいちゃんと考えてるように見せるというのは難しい
例えば監視の兵士がいるとして、兵士は巡回ルートを回りつつ、ときどき他の監視員とだべって、
しかし、プレイヤーが誰かに見つかると半数がプレイヤーの位置に急行する、
みたいなことをいちいち裏で計算してしまうと破綻してしまうし、
といっても、近接戦闘になって、目の前の敵が2Dシューティングのような動作をされても非常に機械的というか、
まあ、それでも初代doomみたいなのでも面白いっちゃあ面白いんだけど、
敵が単純動作するという前提があって、それで敵を利用したり、ロードランナーみたいなところがある
でも、今の時代にちょっとしたニューラルネットとか使わないとつまらん気もするんだよなぁ
その落とし所というか、どうやったら面白くなるのか、が未だに分からない
そう、ゲームみたいなものを作るのは誰でもできるんだけど、どうやったら面白くなるのか、を実現するのは非常に難しい
レトロゲーでも、最初考えたルールを実装したが面白くないのでルールを足した、
ルールを足したが矛盾が生じたので、最初のルールの一部を削った、みたいな試行錯誤が見えることがある
その結果としてできたゲームは面白い、ちゃんと新しいルールが成立している
特にレトロゲーは、ゲーム=新しいルールの発明、みたいなところがあった
最近はそういう感じではなく、FPSならFPSを突き詰めていく方向になっている気がする
面白ければなんでもいいということでもある
ゲームを作るのは楽しいが、完成させるまでは非常に苦痛だ、困難な茨の道だ
一方でプロゲーマーとかゲーム実況というのは、他人の作った手の上で踊るだけではあるが、
昨今の世の中は、そういういかに楽な立場でカネを得るかという方向に向かってるので、
何が言いたいのか分からなくなってきたが、
まあ、プログラムなんて書かない方がいいと思うんだよね
それよりもプロゲーマー教育とかYouTuber教育の方が、特にDQNヤンキー系の親の子供とかは喜ぶと思うし、
最後の章になる。
地方自治体はどんな人を欲しているのか、及びどんな人が職員として通用するのかしないのか、それらを説明して終わりにする。
とはいえ、もう4万字を超えそうだ。ここまで読んだ貴方は忍耐力を持っている。地方公務員に適合した人材である可能性濃厚である。
キャリアの棚卸しにしては壮大になりすぎた感がある。まずは、先達の書いた日記をひとつ紹介して記述量のショートカットを図る。
https://anond.hatelabo.jp/20200923212241
この日記を書く前に、はてな匿名ダイアリーで見つけた日記のひとつだ。短く簡潔にまとまっている。内容も概ね正しいと感じる。明白な誤りはない。単純に面接を突破したい人間はこれを見るといいだろう。惜しむらくは、上の日記を書いた人は公務員試験の面接官ではない。
せっかくの機会だ。民間時代を含めると十年以上に渡って面接官を務めた者として、採用可能性が高い人材の傾向を三箇条として述べてみたい。その後、面接評価表にはないポジティブチェック・ネガティブチェックの一部を示そうと思う。
モデルケースを挙げる。採用試験を受けようとする市町村で生まれ、小中高をそこで過ごし、進学や就職を機に都会に出たけれども、また地元に戻って働こうとする受験者がいたとする。
はっきり言おう。満点に近い。もうその時点で、「面接評価では4を取ってください! お願いします!!」と面接官に期待の眼差しで見られている。K市ではそうだった。というのも、そこまで地元愛のある若者はほとんどいないからだ。
覚えておられるだろうか。当時のK市の人事行政の問題点のひとつに若手職員の離職率があった。3年以内離職率が3割超えという高い数値の原因のひとつが、『他市町出身』の職員数の多さにあった。
採用試験を受けるまでの人生で、K市と接点のあった受験者があまりに少なかった。原因はシンプルであり、県庁や政令市や特別区の滑り止めで受ける人間が多かったことによる。みんな現役で地方公務員になりたいので、第一志望に落ちた後もなりふり構わず受けまくるのだ。採用された後も、第一志望の自治体に入るために勉強を続ける。いわば仮面浪人だ。
「何をもって他市町出身なのか?」を定義するのは困難である。ここでは30才以下の職員について、市外在住率(K市に住んでいない者の割合)が『他市町出身』の代替指標として機能するとしよう。さて、K市の市外在住率はどの程度だったと思う?
正解は……30才以下の若手職員のうち、8割がK市に住んでいなかった。私が辞める年には7割を切るところまで改善されていた。新人職員が居住地をK市に選ぶ割合が増えたことによる。改善のミソは、採用試験で評価されやすいポイントを変えたからだ。後述。
これはひどいな、と当時の私は思った。素人考えでもわかる。市外在住率が高すぎる。もし災害が起きたらどうなる? 全員すぐに集合できるのだろうか?
すべての年代になると、市外在住率は約5割になる。K市の近くにある政令市などが魅力的なのもあるが、市町村合併でK市に編入された先の市町村職員が、「もう義理を果たす必要はない」とばかり、こぞって自分が住みたい町に移住していく事情もある。全国的に見ても人が多い地方であるため、魅力的な市区町村が多いのだ。
では、上の『後述』の内容について。私が総務部長に提案したのは、「K市を愛することのできる人間を採用する」というものだ。試験を受ける時点ではK市が好きじゃなくていい。K市出身でなくてもいい。入庁した後にK市を好きになることができる、そういう素地のある人に高い評価をつけるようにした。
申し訳ないが、具体的な内容は部外秘とさせてもらう。公開すると、ネット検索によってK市がわかってしまう可能性があるからだ。ご了承願いたい。
社会人として一番大事なことは何かと問われれば、30代前半までの私であれば、『実力』又は『正しい過程で正しい成果を出し続けること』と答えるだろう。
今の私であれば、『尊敬によって他者との繋がりを保ち続けること』と答える。これが社会人(使用者も労働者も)にとって一番大事な事柄であり、能力でもある。これは、Think CIVILITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である(Amazonのページに飛びます)といった名著においても明らかにされている。
このように自分のために何かをしてくれた人に対し、きちんと感謝の言葉をかけられる人が果たしてどのくらいいるだろうか。
あなたの人生にもキャディのような役をしてくれる人はいるのではないか。あなたが存分に仕事ができるよう、目に見えないところで条件を整えてくれている人、成功のための下地を作ってくれる人、ゴルフバッグのような重い荷物を代わりに持ってくれる人、困った時に助けになってくれる人。そんな人たちがいるのではないか。
たとえば会社の中では、誰もがそういう「裏方」の役回りをすることがある。あなたの会社は、そんな人たちの貢献に注目し、正しく評価する体制になっているだろうか。あなたは自分を日頃から笑顔にしてくれる人に、感謝の気持ちを伝えているだろうか。
単に協調性というと、「みんな揃って前ならえ」のイメージがある。今の日本社会では、善悪両方の社会的資質と見なされることが多い。
私が持っている神の辞書によると、協調性とは概ねこんな意味合いになる。
・異なる立場や環境、利害関係にある者が互いに力を出し合って問題を解決すること
本来はこうである。みんな揃って前ならえ、ではないのだ。仕事は1人ではできない。一般事務職として採用される公務員は、民間企業でいうところの総合職だ。常に誰かに依存し、依存されることで仕事を前に進める。
だが、自分ひとりで成果を出していると勘違いする者が後を絶たない。空しいことだ。こういった人の残念なところは、その知性の程度にあるのではない。俺だけが、私だけがスゴイ。もっと自分に注目してほしい、といった自己本位的な動機で仕事をしていることだ。
どんな仕事も、社会に生きる人間一人ひとりを幸せにするために存在している。彼らはそのことに気が付かないか、気が付いても自分の気持ちばかりを優先する。
百歩譲って、20代までは良しとする。だが、30代になっても学校の勉強や部活動で高い成績を上げ、周りに注目されて喜んでいる中高生と同じレベルでは困る。
あなたは、見知らぬ人に対して敬意をもった行動ができるだろうか。自分と考えの異なる人間を尊重できるだろうか。嫌いな人や敵に対しても、悪い感情に心を乗っ取られずに意思の疎通ができるだろうか?
面接においては、この人格的態度を最も高く評価する。私が市職員になる前からそうだったし、K市の面接官として責任を受け持つようになってからも変わらない。
話は逸れるが、あなたが面接官の経験がある人だったとすると、「この人、面接の時とぜんぜん違う!(もちろん悪い意味で)」みたいなことがあったはずだ。面接で猫をかぶるのが上手い人だ。そういう人を見分けるコツがある。
印象がいい――これに尽きる。あなたにとって印象がいいし、他の面接官にとっても印象がいい。特に、ハキハキとした明るい話し方。面接官全員にとって好印象だったのなら、その人は危険だ。本当に使える人が面接に来た場合、面接官が3人だったとすると、大抵1人は、「うーん……」と頭をかしげることになる。採用判断が下しにくいということだ。
それが普通だ。みんなにとってイイと感じる人格をもった人間はまずいない。いたとしたら、それは猫をかぶっているか、はたまた聖人のどちらかだ。
技術職や、職人芸を要する分野で人を雇う場合は特に気を付けよう。それに適合した人との面接では、極度に緊張した様子が伝わってくる。身体は縮こまっていて、声はたどたどしく、自己アピールも乏しく、挙動不審――そういった人が最高の素質(タレント)を持っていることがある。
一流の面接官であれば、誰が試験に来ようと、その人のいいところを最大限に引き出せるよう心がける。履歴書を読み込んで、実際のシミュレーションをし、面接ではよい雰囲気を作るよう心がける。その人が職場に適合している証拠を質疑応答によって全力で探すのだ。受験者が喋るのに苦労しているようであれば、なんとかして悪い雰囲気を壊そうとし、その人の考え方や過去の行動を引き出そうとする。
飲食店などアルバイトの採用では、あなた1人で面接を担当することもあるだろうが、それでも上記のことに気を付ければハズレを引くことは少ない。印象がいいな、と感じた人に気を付けよう。初対面で印象のいい他人はまずいない。たとえ面接官に嫌われようと、素の自分をちゃんと出す人間を採用した方がいい。
猫をかぶる受験者への具体策としては、面接が始まる前と終わった後の行動をこっそり監視するといい。椅子をちゃんと戻しているか、出入口で人とすれ違う時の仕草や、駐輪場で他人の自転車をぞんざいに扱ったとか、車の運転に危険があるなど、それなりの確率でボロが出る。
公務員に限らず、組織で働く人間にとっての血であり肉である。ここでいう知的能力には、知能であるか、知性であるとか、創造性とか言われるものを含む。
すなわち、数値計算やスケジュールの段取り、ある規則に従っての並び替えといった正解がある分析的分野から、新規事業の企画、プレゼンテーション、利害を巡っての交渉や調整といった正解(不正解)がいくつもある総合的分野に至るまで、脳を働かせて答えを導き出すありとあらゆる分野を含んでいる。
官公庁に特徴的な仕事の傾向として、業務の幅の広さ(薄く広く)が挙げられる。特に地方自治体だと、ひとつの役場で多種多様な仕事を行っている(この機会に、あなたが住んでいる市町村の組織図をみてみよう)。民間で例えると、とんでもなく多角化が進んでいることになる。
数年おきに全く新しい仕事を覚えることになるのだが――その意味の幅の広さだけではない。役場を訪れる人間も多種多様だ。男性も、女性も、一般市民も、民間企業も、若者も、中年も、高齢者も、子どもも、障がい者も、何らかの病気にかかった人も、とにかくいろんな人が来る。
それらすべてに対応(問題解決)しようと思うと、まずはその職員が賢くないと無理だ。これは、市役所の現場で働いたことのない私でも確信できる事実だ。傍から見ていてわかる。
礼節や態度は大事だ。植物であれば、花弁や果実など目に見える部分がこれにあたる。それらを支える意味で必要なのが枝であり、幹であり、根である。もっと細かく見ると、細胞質や葉緑体や核ということになる。職業人でいえば、脳というOSがこれに当たる。
このOSが大したことのない物だと、いかに素晴らしい性格や気質を具えていても結果を出し続けることは難しい。正しい答えや行動を相手に示すことができないからだ。市職員が、受付窓口で手早く計算をしたり、各種申請書の書き方の指導ができないと、市民や企業が何度も窓口に来たり、無駄な申請費用を払う羽目になる。
スポーツだと、柔道における心技体がわかりやすい。ある一流の選手がいたとして、その人の精神がどれだけ優れていても、技術が優れていても――風邪で高熱がある、骨や靭帯に損傷がある、五感の一部が機能しないといった事情が生じると、たちまち三流以下の実力になる。
多くの人は錯覚している。例えば、どんなスポーツでも面白い試合というのは――両者ともに拮抗している。心技体のうち、技と体が同じくらいのプロ選手がいたとする。となると、勝負を分けるのは必然的に『心』となる。
実力伯仲の者同士、わずかな差で勝負が決まれば当然盛り上がる。それが、スポーツで一番大事なものが心→技→体の順番と皆に思われる最大の理由だ。
官公庁が筆記試験を必ず行う理由がここにある。現在の公務員業界では、筆記試験(性格適性検査を含む)の作成をリクルートなど民間会社に委託する方向で進んでいるが、今後何年が経過しようと、筆記試験自体が廃止されることはないだろう。組織人として働く上での血肉であるところの、知的能力を客観的に測定できる唯一の機会だからだ。
A夫さんとの面談の日はすぐやってきた。先日と同じ面談室だった。
こちらは予定どおりの布陣で、A夫さん側は2人。今回は上司と一緒だった。「一緒に来てほしい」と上司に頼んだという。
あの時と同じく、だらしない恰好だったが、上司の指導によるものか、前回よりは綺麗だった。ネクタイはまっすぐで、謎のシミもない。
「A夫さんですね。今年から人事~~として採用されました××と申します。前回、あの端にあるソファに座っていた者です……いきなりで申し訳ありません。A夫さん、今日はどうして呼ばれたかわかりますか?」
「そうです」
※方言を標準語に直したうえで、特定のおそれのある箇所を編集している。以下、職員の会話はすべて同じ処置を行う。
会話のクッションを何度か挟んだ後、私はついに言った。
以下、主要なやり取りを抜粋する。
「単刀直入ですが、A夫さんには退職の道を選んでいただきたいと考えています」
「……ん?」
「いや、いや、それできないでしょう!」
「市としての決定です」
「労働組合は?」
「組合は関係ありません。組合に入っていようがいまいが、処分内容が変わることはありません。今回、あなたは万引き、窃盗という罪を犯しました。それだけでなく、過去に社会人としてよろしくない行為、仲間から尊敬されえない行為を繰り返している。改善の見込みもない」
私は、A4用紙にプリントされた罪状を読み上げていった。その数は20件以上にもなる。
どうしてこんなものがあるかといえば、人事課のデータベースに、職員のさまざまな問題行為が毎年追加されているからだ。三十年以上前の忌避行為であっても筒抜けというわけだ。
A夫さんは硬直していた。最初よりもはるかに緊張感に満ちている。睨むようにこちらを見つめながら、両手の指を組んでさするような手つきだった。
彼の上司は、何も言わずに片目でガラス卓の鏡面を見ていた。部下を庇う様子はない。
「なんとかなりませんか」
「なりません。しかし、総務部長とも話し合った結果、A夫さんが自ら退職願を出すのであれば、懲戒免職にはしません。通常どおりの退職となり、退職手当も満額出ます。これまで40年近くもK市のために働いてこられたんですから、この程度の寛大な措置(※諭旨免職)はあってしかるべきかと。そのうえ、今回は早期退職制度の利用を認めるので、割増退職金もつきます」
「わかりました。では、こちらがA夫さんが今回の処分に不服である場合の申し出のやり方を書いた資料になります。受け取ってください。それで、A夫さんがどうしても納得いかなければ」
「……はい」
「K市は妥協しないので、後は裁判しかありません。判決でA夫さんの主張が認められた場合は、K市に残ることになりますが、今の部署は相応しくないと判断されるため、異動を覚悟してください。今のところは、〇〇課か〇〇センター(※一般的な公務員にとって辛い労働をする部署。不要と判断した職員を、サイコパスと思しき管理監督者の元で働かせる。その管理監督者というのも、K市にとって不要な人材と判断されたため、同じく問題職員を監視するポストに就いている。いわゆる蟲毒)を予定しています」
「A夫さん。あなたは罪を犯しました。信用失墜行為です。全体の奉仕者としてふさわしくありません。繰り返しますが、本来の処分は懲戒免職です。しかし、法をそのまま適用すべきでない場面だとも判断されることから、これまでのA夫さんの功績を考慮して依願退職を認めるものです」
A夫さんは、不服申し立てに関する資料を受け取ると、そそくさと出て行った。彼の上司がその後に続く。
それからの1か月は、あっけないほど順調に進んだ。
まず、労働組合の執行委員長や書記長ほか数名が怒鳴り込んできた。彼らのスタンスはわかっている。怒鳴り声に2、3分も耐えていると、あちらも私達が本気であることがわかったのか、冷静になった。
「組合としては、A夫さんは必要な職員だというご認識ですか?」
「組合員としてA夫は仲間だと思っている」
「知ってのとおり、A夫さんは信用失墜行為を犯しています。K市としては、彼のような職員はいりません。A夫さんが、自らの意思で早期退職を選ぶのであれば問題ないですね」
「当局がA夫を脅迫しているなら話は別である。もしそうなら、仲間として守らせてもらう」
「そうでないならいいんですね?」
「当局は~」(以下略。何かあっても組合に責任はないことの確認をしていた)
さて、労働組合の本質は政治運動にある。K市の組合もそうだった。加入者の毎月の給料から約3パーセントを徴収し、その何割かを左派政党に納める。そして、プッシュした議員に労働者寄りの政策を実現してもらうのだ。
職員労働組合――職員同士の互助会であり、組合員を不当な権力から守るという本来的な意味での組合活動は、それに比べると優先順位が低い。口には出さないが、彼らはそう思っている節がある。この事件の後で、団体交渉を何度も経験した私はそう直感した。
A夫さんは、別に組合にいてもいなくてもいい。組合費が入らなくなるのは惜しいが、当局(※労働組合は経営者側をそう呼ぶ)に対して、「A夫さんをなんとかしてほしい」と交渉するまでの価値はない。とはいえ、組合員のために戦った、働いたという実績はほしいので、こうして形だけの食い下がりを続け、ほどよいところで悔しそうに退散する。それが私が見た、一市町村の労働組合の姿だ。
これ以降、私は計15人の問題職員に退職勧告を行い、そのうち13人が実際に退職した(残り1人はK市を訴えた。もう1人は更生の余地が認められたので勧告を撤回)のだが、労働組合が最後まで食い下がって助けた職員の数はゼロだ。本気で当局(私たち)を動かそうと行動に出た回数もゼロ。こうして辞めたうちの1人は、組合の元役職持ちだった。
彼らは、口酸っぱく、「当局、当局!」と騒ぎ立てるだけだ。本気で争うつもりなどない。ただ組合員に、「当局は許しがたい行いをしている」と知らせるにすぎない。
交渉のテーブルの上で、彼らはよく主張していた。「仲間をクビにするとはどういうことか」「同じ職員として恥ずかしいと思わないのか」「〇〇さんは十分市に貢献してきたはずである」と。しかし、同じ交渉の最中に、「職員組合としては、免職処分の取り消しと引き換えに、このようなことできる~」などといったバーターの提示や、「取り消さないなら現業ストライキを行うことを辞さないが~」(※公務員は労働三権の一部しか認められないが、現業職員に限ってはもう少し広く(+団体交渉権と協約締結権)認められている。なお、現業職員であってもストライキは認められないが、一部の地方自治体では事実上のストが行われることがあるという)といった、交渉者としての態度が出てくることはなかった。
彼らは、組合の利益が薄いと見るやいなや、交渉と見せかけた陳情だったり、見かけ倒しの規範論を繰り返すばかりだった。これは、まったく個人的な感情になるが――それにしても気持ちの悪い連中だった。偽善と嘘ばかりを繰り返している。ああいう男らしくない連中には虫唾が走る。
結局、A夫さんは、年度末での退職を選んだ。
何のことはない。あと数年で定年退職だったので、裁判で争うよりも、あと1年未満でいいので今の職場でゆっくりやりたいと考えたのだろう。正しい判断だと思う。
勝てるかどうかもわからない裁判を抱えて、勝ったとしても地獄のような部署で働くことになるよりは、早期退職を選んだ方が本人にとっていい。
今回の結果を受けて、副市長が激怒した。私は電話で副市長室に呼び出され、ほかの総務人事関係の幹部職員と一緒に説教を受けた。
上述のとおり、市長から退職勧告を行うことについての了解は取っていた。以後、A夫さんが退職を決めた後で正式に市長の了解を取り、文書での稟議を回していた最中の出来事だ。意思決定者の合意が先で、文書での伺いは最後。民間企業でも一般的なやり方である。
誤算の一つは、市長や他の幹部が副市長に一声かけていなかったこと、もう一つは副市長が同意しなかったことだ。主には、私がK市での仕事に慣れていなかったせいである。
・なぜ早まったことをしたのか?
・身分保障という慣行を破ってはならない。先人が決めて守ってきた大事なルールである。
といった意見をぶつけられた。副市長とA夫さんが同じ年に入庁した同期という事情もあっただろう。ちなみに人事課長も同期だ。
ほかの幹部は、申し訳なさそうにしていた。私は堂々たる姿勢で、「K市にとって不要な職員だと判断しました。罪を犯したのに反省の色もなく、最初の面談ではヘラヘラと笑っていました……切るべきかと。市長もやってみろ、と言っていました」と答えた。
これらの台詞は、当時のメモを見返しながら書いている。そこまで間違ったものではないはずだ。私は確かに、副市長に対して上記のような返答をしている。
こういう時に大事なのが『自信』だ。自らの想い、行動への信仰と言い換えてもいい――下の人間に好き放題やられた副市長からすると、自信なさげだと「悪意でやった」と思われかねない。越権行為であるからこそ、組織にとって正しいことをしたのだとアピールする必要があった。
「目的はわからなくはない。理解はする。だが、こういったことをする場合は、私に事前協議するように。私を飛ばして市長のところに行くな。今後相談しなかった場合は、決裁の判を押すつもりはない」
それが副市長のメッセージだった。その後、幾人もの問題職員が諭旨免職によりK市を辞めることになった。副市長のところには事前協議に行ったが、判を押してくれたのは2人分だけ、A夫など比較にならないほどの悪に限って決裁の判を押してくれた。
『よくない人間を辞めさせることに利があるのはわかる。しかし、行政の世界はそういうものではない。不合理に見えても、ここの大事なルールだ。みんなにダメだと思われている奴でも辞めさせるな。それが本当にダメな奴、組織にとっての癌だと、人間の目でいったいどうしてわかるというんだ?』
これは、私が要約した副市長の主張だ。
一応言っておくが、副市長の考えは正しい。ただ、私や市長の考えと合わなかっただけだ。公務員の身分保障は、行政行為を円滑に回すための全世界共通ルールである。実際、公務員に身分保障がなければ、社会制度をまともに維持できないことには私も同意する。
例えば、税務系部署にいる職員は、自らの裁量で税務情報システムにログインし、市民の課税情報を書き換えることができる。K市くらいの住民規模だと、上司もいちいち課税情報の変更をチェックできない。彼ら彼女らは、やろうと思えば不正ができる。
もし彼らの身分が保障されていない(生活できないレベルの給与水準、簡単にクビを切られる環境、権力者に脅迫されても守ってくれる存在がいない)場合、何が起こるのかを想像していただければ、副市長の言うことに理があり、私があくまで慣習への一挑戦者にすぎないことを理解いただけると思う。
残業中インターン生にタイトルの通りのことを言われた。そのインターン生がデリカシーなさすぎだよね、って話ではあるけど、昔からよく悩みなさそうとかいつも笑顔でどうのこうの言われるので、純粋にそう見えるんだろうな。
地方都市部のそこそこ裕福な家庭で家族仲良く育ち、港区ラウンジで時給10,000円出るルックスで、早慶ランクの大学ストレートで卒業、みたいな。
こんな妬むくらいキラキラ人生じゃないですか、側から見たら。でも蓋を開けてみたら全然違うわけですよ。
家庭に関しては裕福で不自由ない生活ではあったものの、歪んだ愛からくる厳しすぎる躾と異常な束縛のもとで育った。
高校時代は勉強を強制されていたので、毎日帰宅後何をどのくらい勉強したのかノートを親に提出し、足りないとノートを突き返されていた。
成人してからも誰とどこで何をするのか証拠付きで親に報告していたし、GPSで常に監視、遊ぶ回数の制限もあった。勿論門限も。この異常さがあったからこそ良い大学に入っていい会社に就職できたし、大学でゴミみたいな男に引っかかることもなかったので、親にはすごく感謝してる。
ただ、当たり前に弊害があるわけで。私はこの異常な束縛と暴力的な両親に耐えられなくなって無理矢理家を出たんだけど、その後が本当に大変だった。
私は自分で意思決定ができない人間になった。常に親が全てを決めていたので、何かを決めるときにどういうプロセスを踏めば良いのか全くわからない。何も決められない。今でも自分で何かを決めるのが怖い、というか正直出来ないので他人に聞きまくって多数決で決めてる。敷かれたレールがないのにどうやって生きてるのみんな。天才すぎるでしょ。
人生の主導権を自分で握ったことが無かったから、何でもかんでも決めてくれる人に付いてくしかない。タイミングが無いからハマってないだけで、そのうち宗教とかハマるんだろうなと思う。だって私意思がないんだもん。実際私の色々を決めてくれた人から300万以上騙されたし、先日別の人間から100万程騙された。兎に角何もかも決めてくれる人を潜在的に欲してるんだと思う。
勿論全部親が悪いとかは全く思ってないよ。愛想の良さや立ち回りのうまさは間違えなく親の育て方のお陰だし、親孝行の為に仕事頑張ってるし。家を出たことに対する罪悪感、償う気持ちも充分にある。でも悩みも沢山あるよって話。
別に周りに自分の悩みなんか話さないし、嫌なことあってもそれを顔に出さないよ。だってもう大人だし。私の悩ましい気持ちを完璧に理解できる他人なんて1人もいるはずがないので、話しても意味ないしね。
これを読んで私のことを可哀想!って思う人も居れば、いや私の方が辛い、って思う人もいるだろうな。でもそんなお前らの価値観で語るなよ〜私は私なりの辛さ、お前はお前なりの辛さ、比較するもんじゃないと思うんですよ。
常に笑顔の人でも悩みはあるんだゾ!なんてことが言いたいのではなく、誰しもが悩みやしんどさを抱えてるけどそれに共感したり同情するのはキモいし、それらを求めるのもキモいってことが言いたい。
ワタシカワイソウ!みたいなアピールに必死な大人とかほんと見てられないんですよ。はいはいしんどいな〜辛いな〜強く生きような〜って励まさないといけないの怠いし、良い大人が負の感情剥き出しにして何やってんだ?
元のエントリは、具体的行為の描写の割に現在の一応の安定描写が薄くて、増田が意図しなかった作用で誰かをあちら側に引き寄せやしないかと心配していた。
このエントリは割とリアルな日常、あちら側に行くことから距離はあるのかな、と感じられた(私には)。
妻の監視というのが文字通り増田を心配しての差し迫ったものか、恐妻家仕草的な諧謔かはわからないけど、どちらにしても増田を信じてノンフィクションとすればこの描写でなんとなく「増田はいまんとこバランスをとっているのかな」と納得した(私は)。
私は、『妻が見てるから美人と書かざるを得ないんですよ〜wね?わかるでしょ?こわいこわいwこの記述も見られてるから怒られちゃう〜、けど円満なんすよ惚気〜』みたいな妄想してしまって苦手なのだけど…フェミ(私を含む)が怒りそうな割と一般的な定形表現をする人、という人物像が見えて、私の持っているステレオタイプに当てはまって安心しただけかもしれない)
いじめが何故起き、そして何故黙認されるのか、それは学校という空間が異常だからだ。
個人的背景も経済的背景も違えば勉学に対する意欲も成長の度合いも違う人間を集めて管理するなどそもそも無理がある。
その無理をどうにかするために行われているのが学校の治外法権化である。
治外法権となれば当然「外の世界」の法律は適用されなくなり、中の都合によって法は定められていく。
多くの教師が考えているのは生徒を管理下に置くことであり、分かりやすいヒエラルキー構造が教室に広がるのは管理するのには都合がいいのだ。
端的に言えば教師にとってはいじめは程度さえ大きくなければ歓迎してもいい状況である。
個人が個人の感情で暴力を奮っても、力関係が強いものがやったのであれば黙認されるべきであるという風潮は、教師が体罰をするにあたっても都合がいい。
クラスのリーダー的な存在が生まれれば、教師が機嫌を取るべきはそのリーダーと取り巻きであり、下位層にいる生徒は卒業までの間に壊れないかだけを注意しておけば良くなる。
社会が教職者に押し付けた無理を、教職者は学校という空間の法とモラルを歪めることで解決しているのだ。
もし、その歪んだ法を正そうとすれば何が起きるか?
「いじめ問題だけを隠蔽することを辞めさせれば良い」なんて簡単に考えているのだろうか?
そんなことを生徒や親が許すはずがない。
生徒が法によって裁かれるなら教師も同じでなければならない。
逆を言えば、生徒が法で裁かれることを免れているという後ろめたさが学校の治外法権化を支えているのである。
鎖はどれか一つの輪が断ち切られれば全体が意味を為さなくなるという話である。
学校とはそもそも教育施設を兼ねた監獄であり、現代の社会が抱える無理難題を無理矢理に押し込めた地獄の釜である。
この状況を生み出しているのは教育の現場であり、そこに子供を預ける両親たちであり、子供というものを無知な獣としか思っていないこの社会全体である。
そもそもをして全く違う背景を40人の人間に対して1人の人間が監視を行って管理するということ自体が容易ではないのだ。
これはなにも相手が子供だからではなく、大人であっても同じだ。
免許の更新、職場における集合教育、失業保険目当てで通う職業訓練センター、そういった所で後ろ側に席をとって周りを見渡せば話を聞いているフリをして寝ている大人やバレないようにスマホを弄っている大人が如何に多いかを目にできるだろう。
大人か子供かではなく、意欲もないのに教育の場に参加させれば自然とそうなるのである。
だが多くの大人たちはそういった場面で見かけ上はマジメに聞いている。
彼らには、免許を更新したいとか、教育を受け直しになりたくないとか、失業保険が欲しいとか、そういった極めて直接的な理由がある。
だが、小学校や中学校においてはこういった要素が薄く、それこそ出席をしなくても卒業をして次のステージに進むことが出来てしまう。
学校という空間は如何にして1人につき40人を真っ当な報酬系統も存在しない状況で監視するという異形をなしているのだろうか?
答えはシンプルだ。
教師と生徒という関係に超巨大な傾斜を設けて、教師が白を黒といえば生徒はそれに従うほどの力関係を用意するのだ。
これにより教師が与える体罰、精神的苦痛、各種のハラスメントは教育という概念として昇華され、一生傷が残る行為と物理的な接触を伴うセクハラ以外はあらゆる行為が黙認されることになる。
そもそもをして、強制的に集められた40人を1人が管理するなど、こういった異常な環境下でなければ容易には実現し得ないのだ。
もちろんキチンと環境を構築するという容易でない道を選ぶことも出来るが、それを実行しようとしたものもゆくゆくは燃え尽きていく。
25歳で教職についたとして定年までは40年、個々人の意欲のみを報酬とするには長すぎる時間なのである。
かくして学校という空間は独自の法によって運営される出島、監獄となる。
ではこの監獄島に外の世界をルールを真っ当に適用したらどうなるだろうか?
教師と生徒が平等になれば、暴走する生徒を止める手段は通報のみとなる。
教室において教師が出来るのはハラスメントにならない範囲までの注意、いわば善良な管理者の注意義務までである。
その範囲は決して広くはなく、今までであれば先立って体罰によって躾けることで無理やり予防できた数多くの人災に対処が及ばなくなるだろう。
教師は超人ではないので、人間としての限界を超えることは出来ないが、法の縛りを逸脱することを許可することで擬似的に半超人化していたものがなくなるのである。
授業や生徒の管理を妨害された時、今まであれば超法規的措置によって体罰をして解決していた。
だがそれが不可能になったらどうなるか?
証拠を集め、公務執行妨害を適用し、少年院に送られてもらうことを選ぶしかない。
他の生徒のことを考えればそうならざるを得ない。
生まれついての犯罪者として真っ当な職業に付く機会は、少なくともテレビで名前を聞くような企業に入る機会は場末のアルバイト以外では望めないだろう。
今までであれば鉄拳制裁を受け、顔の腫れが3日後に引けば終わったものが、これからは一生消えること無い履歴書の傷を引きずって生きることになるのだ。
そしてこれは何も極めて救いがたい悪童に対してのみ行われるのではなく、多動性を持つ生徒、注意力散漫な生徒、偶然虫の居所が悪かった生徒、いわばほぼ全ての生徒がそう言ったリスクを背負って通学するようになるのである。
元からそうだったと言いたい人にはこう言おう、もし治外法権がなくなれば通報されるリスクが10000000倍になった学校に通うことになる、と。
我々が声高に「いじめをなくせ。隠蔽を辞めさせろ」というのは簡単だ。
だがそれは「学校への治外法権の適用をやめろ。これからは学校で起きたありとあらゆる犯罪行為が法的措置の対象となるべきだ」ということなのだ。
さて、貴方の家の子供は悪戯の一つもしないで今日まで生きてきただろうか?
悪戯とは、相手が許さなければ犯罪になる行為であり、犯罪歴がつけば人生の可能性が半分以上消えるということを理解できているだろうか?
そんな自信は自分にはないなあ
https://anond.hatelabo.jp/20211226230142
上の記事を書いた増田なのだけど、思っていたより反響があったのでブコメに上がっている疑問点に可能な限り答えたいと思う。内容の重複するコメントが多かったので、要旨を丸める。
Q 本当に死にたい人間はこんなに精力的になれない、婚活も結婚もしようとしないはずだ。
A 友人は、婚活をしていたし、結婚もしていたし、国内外の旅行にも行っていたし、資格の勉強をし、亡くなるほんの数か月前に簿記2級に合格するような知性とバイタリティを持っていたし、貯金もあった。だが、死んだ。
活動的であるかどうか、「自分が生きると思わせてくれる何かがあるかもしれない」という一縷の望みに賭けて努力する(婚活や資格取得)かどうかということと、死にたい気持ちは全くの別物であることを理解されたい。寧ろ努力した結果、報われなかった、あるいは何らかの果実を得たものの「やっぱり生きたいと思えなかった」と落胆することで死に一歩近づくことがある。
そしてこれは言っておかなければいけないことだと思うけれど、「本当に死にたい人間なら」というのは、単に「私の観測範囲内では」という話に過ぎない。実際のところ、死にたい人間も多種多様だ。
希死念慮者は死によってでしかその意思が肯定されないのか、それは違うと思う。希死念慮者は、「死にたいという気持ちを抱えた生きた人間」だ。単に自分の想定に沿わないからといって「ニセモノだ」という話をされたのでは、サバイブした事例の話は出来ないことになってしまう。
Q 2019年に破産の申請が通り、仕事がうまくいかなかったにもかかわらず2020年にはバイクを買って数か月も働かずに旅に出られるだけのお金が貯まるのか?
A 裁判所から破産の決定が下りたのは2019年だが、相談をしたのは2018年であり、相談時点で全ての債務の返済及び利息の加算は停止する。その為、2年近く給与を貯蓄し続けることが出来た。仕事がうまくいかなかったのは、単に自分の無能さに嫌気がさしているということ。私は歩合の無い普通のサラリーマンなので、無能でも減給になったりはしなかった。
A 実際ひときわ美人だから。もはや生きることにうんざりしていた私は、「まあ、この人でも良いかな」みたいな妥協をしてまで他人と付き合う気はなかった。なので、ひときわ美人だったことはやはり俗っぽいけれど重要な点だったと思う。しかし最も重要なことは、このエントリは妻も監視しているということ。
Q 2020年年末から「新潟経由スタートで南下」し「冬の北海道をバイクで走破」は、積雪によって不可能ではないか?
A 年末という書き方が悪かったと思う。これは「12月」と読みかえて欲しい。当時、新潟から日本海沿いに寒波が下りてきていた。私は寒波から逃げるように日本海を南下したので、日本海では積雪に遭遇していない。九州では、大分の九重連山で積雪に悩まされたが、それは乗り切ることが出来た。また、東北・北海道については春に入り雪解けを待ってから上陸したので、「冬の北海道を走破」はしていない(春季でも所どころ積雪はあったが)。
A 実際に行動を起こした(自殺未遂、友人の自死、発信し続けたこと)という点において、漠然と死にたいと思うだけで気付いたら理解ある彼くんが人生をリードしてくれたという案件とはフェイズが違うと思う。
が、「人間を救えるのは人間しかいない」と結んでいるように、一度袋小路に陥り自力では抗えないほど閉塞してしまった人生は、理解してくれる(しようとしてくれる)他者によってしか救われないと思う。犬も歩けば棒に当たるみたいなことが伝わってくれれば嬉しい。
Q 首を吊っても縄が切れることはあり得ない。
A 私の場合、購入して数年経った中型犬用のロープを用いたので、劣化していたことと、そもそも中身がスカスカだったこともあり切れたのだと思う。また、これは私が体験談を聞いた範囲での話だが、縄が切れて首吊りが失敗する事例は割とあるようだ。
Q 「遺書は、私に書かされたものではないことを示すために、自宅に届いた携帯料金の請求書の裏に書かれていた」ってどういうこと?
A 友人がわざわざ自宅から持ってこなければ、通常、携帯料金の請求書は手に入らない。そういう紙の裏に書くと、遺書が自発的に書かれたものである(私に無理やり書かされたのではない)という事実を裏付ける証拠になる。
Q ホテルで死のうとするなんて、ホテル側に迷惑だと思わないのか?
A 誠に申しわけございません。
Q 実話? 創作?
A この種の疑問に回答しても栓ないと思うけれど、実話。読んでくれてありがとう。
昭和ジャパン風耽美系。BLでないのは、BLレーベルの作品ではないから。
原岡凜一(はるおか りんいち)は華道の家元の跡取り息子で、中高一貫の名門男子校に通う中学三年生だ。虚弱体質な彼は、よりによって高等部への進級判定がかかる期末考査試験の時期に高熱を出してしまった。
凜一が寝込んでいる間に、祖母が勝手に凜一の従姉 省子に、凜一の替え玉として期末考査の追試を受けるよう命じてしまう。
回復後、凜一は省子から恩を着せられ、厄介事を押し付けられる。それは省子の服を着て彼女になりすまし、美術館の監視係を勤める、というもの。だがそれは罠だった。省子のボーイフレンド 氷川が美術館まで会いに来たのだ。凜一を省子と勘違いしたまま、待ち合わせをすっぽかしたことを詰る氷川。凜一は人違いだと明かそうとするが、その時、氷川は思いもよらぬ行動に出て……。
ふぅ、そんなに長い小説ではないのだが、読了するのにかなり時間がかかったぁー。というのも、長野まゆみ作品は四季折々の花鳥風月の描写がただでさえ多いというのに、本作は主人公が華道の師匠であるために、やたらめったら沢山の花の名前が出てくるからだ。
そういう物を全く気にせずに生きてきた私には、あれもこれも知らない花。一々調べることもないような……と思いつつも、全部読み飛ばそうとすると却って眠くなってしまうので、特に気になるものだけをググってみた。それでも一頁読む間に数回スマホを手に取る羽目になるくらいの、花の名前地獄だったのだ。はぁー。その時は「なるほどこういう花なのね」と思うんだけど、まるで覚えられなかった……。幸か不幸か、長野まゆみ作品では花の名前は多く出ても花言葉には拘りがなさそうなので、花言葉調べ地獄にハマらずには済むのだけど、花言葉と関連づかないだけにむしろ記憶に残りづらいというのはある。
『左近の桜』シリーズは茶道の話がよく出るけど、この凜一シリーズは華道なわけね……。私にはよく分からない世界だ。分からなさすぎて、どう想像したらいいものやら。
なお、時代は1976年の冬から1977年の夏! 私、生まれてない……! なおさら想像がし難い。時代が微妙に近いだけ余計に。私の父がロン毛でパンタロン履いてたような時代だろうか。江戸時代とかよりイメージしづらい気がする。
想像力の翼を折られそうになりながらも頑張って読んだ。ちょっと甘酸っぱい感じの耽美調のBLだった。なかなか距離感の縮まらない恋……。こういうのもたまにはいいな。
最初の方は、凜一は病弱で可憐で名前通りに凜としていて、他の長野まゆみ作品にはあまりいない感じのタイプの主人公かなと思ったら、ストーリーが進むにつれて、安定の例のメンタルがいやに太くて小賢しい性格だというのがわかった。期待を裏切らない! そしてやはり、そんなちょっとスレた性格の凜一を構う年長者たちは、やはり意地悪キャラばかりなのだった。長野先生の定番だなぁ。
凜一の叔父でしかも凜一にとっては初めての男であるらしい千尋の意地悪具合がいい味を出している。『左近の桜』シリーズに登場する柾を幼くしたようなキャラだなあ。昔の恋人の面影をいまだ追ってるところといい。
凜一の想い人の氷川が長野まゆみ作品の登場人物とは思えないほどの健全スポーツマンタイプなために、すごく爽やかな恋愛模様だった。なんか、凜一シリーズを好きな人が『左近の桜』シリーズを嫌うの、ちょっとわかった。