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2017-12-27

ポモで埋まった異世界生活

https://twitter.com/shinkai35/status/945771033696509952 へのリプライです。書くところが無いので、ここに書きます。この話は全てフィクションで、実在人物組織には一切関係ありません。

1.ブラウン管に広がる世界

その日、文筆家しんかいはPCから出るピピピ・・・と言う異音で目を覚ました。翌日が休日である事に安心しきって、ついついツイッターリツイートされてきたポストモダニスト著作いかおかしい話であるかを語っていたはずなのだが、顔にキーボードの模様をつける結果となっている。実感は沸かないが寄る年瀬には勝てない。相対主義が何を主張しようが、ヒトにはその限界がある。そんな事を思いながら、テレビスイッチを入れようとしたとき、しんかい異変に気づいた。

部屋に置いてあるそれは、平面的で画面が大きな液晶テレビではなく、画面は小さいが奥行きのある立方体、昔懐かしいブラウン管のもので、ダイアル式のスイッチチャンネル選択するそれだ。電源のオン/オフ金属トグルスイッチがついており、もしかしたら産まれから実際に目にしたテレビの中でもっとも古いものかも知れない。背面から出て壁につながっているテレビ線のコード同軸ケーブルではなく、平たいプラスチックの両端に二本の細い線があるものだ。もう平成も終わろうとしているのに昭和過ぎる。が、昭和であってもテレビの裏の埃は変わらない。くしゃみが出てきた。

パチンと電源を入れる。ヴォンと音を立てた後、数秒の間を置いて粗い絵が映し出された。4Kや8Kのテレビ宣伝をみるたびに、もう走査線の本数を向上させてもと思うが、いやおう無しにでもその重要性を認識せざるを得ない絵だ。北朝鮮テレビよりひどい。2017年12月27日、朝7時のニュースが始まった。アナウンサーの「おはようございます」は、普段通りの番組だが、他は普段通りとは言い難いものであった。見慣れたコンピュータグラフィックス今日見出しが、アナウンサーの横の黒板に置き換えられている。ボードですらない。何より、国家放送第一と言っている。

しんかいチャンネルを回してみた。チャンネルはかくんと90度づつ回転し、四つしかチャンネルが無いことがわかる。ぐるっと一回転させる。四つあるチャンネルのうち、一つは白黒の画素が激しく入れ替わるノイズが流れていたが、三つは使われていた。国家放送第二、国家放送第三、ノイズ最初国家放送第一。どうやら、国家放送しかないようだ。第二はこの時間帯なのに正しい文学について解説し、第三は老人が正しい体操実践している。しんかいは、この時点でテレビ登場人物全員が、カーキ色の上着を着ており、一列に並んだ大きめのボタンをきっちり留めていることに気づいた。

チャンネル国家放送第一に戻す。国民服のようなものを着たアナウンサーが読み上げるのは交通事故気象情報と言うところは、公共放送ニュース番組と同じだ。しかし、一つ一つについて解説を丁寧に与えていく。しばらく唖然としながら番組を見つめ、思わず「何だ?」とツイートした。ニュース解説があるだけであったら、驚かなかったかも知れない。しかし、先々月の災害被災者感情を、微分可能多様体と言う単語を持ち出して説明しようとしている。そう、ポストモダンだ。ポストモダンについては日本有数の知識を有すると自認しているが、寒気についてのポストモダン解釈は初めて聞く。

はっきり認識はできているが、全く理解ができない状況。自らの視覚聴覚を信じることができない。思わず、「テレビポストモダンになっている」となっているとツイッターに書き込む。「え、愛知だけでは?」「柄谷行人が死んだりでもした?」「ポストモダンに“なる”はおかしいだろう」とリプライが返って来る。誰もこのポモな国家放送を観てはいないようだ。ブラウザーポータルサイトニュースを見ても、特段、テレビ放送に関するものはない。ツイッターフェイスブック検索でも、しんかいと同じものを見ている人はいないようだ。

このブラウン管テレビけが、ポモな国家放送を流しているのであろうか。アンテナ線は壁につながっているが、これはモックなのであろうか。手の込んだ悪戯しか考えられない状況ではあるのだが、手の込みすぎたところが気になった。目の疲れを感じる。気づくと一時間国家放送を観ているのだが、同じ内容が繰り返し放送されているわけではない。チャンネルは三つ。ブラウン管テレビ昭和風ではあるが、チャンネルスイッチは特製だ。粗雑な出来とは言え、かなりの労力だ。現実とも夢とも断言できない。

しんかいは電器店にいって、他のテレビを観ることに決めた。冷静に考えればテレビを摩り替えられたとしか思えないわけで、窃盗警察に届出を行なうべきだが、この国家放送が持つリアリティがそれを躊躇わせた。無理な体勢で寝てしまったので二度寝の誘惑もあるが、“ブラウン”管からの一つの連想が心をざわめかしていた。ブラウン管発明者はフェルディナントだが、ポストモダン思想批判者にも有名なブラウンジェームズロバートブラウンがいる。

著作「なぜ科学を語ってすれ違うのか」でブラウンは、国家などの社会的構築物が必然ではなく、人々の考えの偶発的な結果によるものと考えると、社会が人々の考えを統制しだしてファシスト国家に陥る危険性を指摘していた。また、ポストモダン科学方法への懐疑は、科学の進展を阻害し、技術進歩を阻害する事になる。つまりブラウン管に映し出される世界徹頭徹尾ポストモダン支配された世界と言える。

ポモの危険性を指摘してきたしんかいにとっては悪夢しか言いようが無いのだが、しんかいは心踊っている自分自覚していた。日常からにじみ出る不穏な世界兆候アニメでは親しんだ別世界がそこにある。「けものフレンズ」は好物だ。このときしんかいは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』の結核の話をすっかり忘却していた。ポストモダン思想支配された世界であれば、繁華街の電器店がいか危険場所であるかは、最もしんかい理解しているはずであるのにである

2.服装以外は昭和40年

テレビに見入っていたので気づかなかったが、家を出る前に、アパートの部屋が狭くなっている事に気づいた。振り返れば玄関が見える狭さなので迷子にはならないが、間取りも見覚えが無い。六畳一間と台所、バストイレ付きではあるが、便器和式である。昨夜、帰宅する家を間違えたのであろうか。しんかい映画パトレイバー the Movie」の帆場のアパートしか、似たような物件を見たことが無い。

机の上のPCの下には、書きかけの原稿用紙が散らばっていた。題は「科学のためのポストモダン思想からの脱却」とある。見覚えのある字ではあるが、自分のものを含めて久しく手書き文字を読んでいないので、誰のものかは思い出せない。大判封筒も置いてある。宛名は、自分であった。送り主は「鈴木幸子」とある。中はゲラ刷りで、赤が入っていた。出先で原稿を読もうと封筒を手に取る。

ポストが大きい金属製の重い扉をあけると、アパートの外側の廊下に出た。二階だ。表札は確かに自分名前が書かれている。鍵がないので施錠できないがやむを得ない。ところでここは一体どこなのか。スマートホンを出して地図アプリ位置検索をかける。すぐに「こんな所でスマホが使えるわけが・・・」と思うが、現在位置はあっさり示された。GPSの電波は届いている。インターネットも使えた。自分場所が異世界なのか、そうでないのか、明らかになってきた状況を元にしても判断が出来ない。

かなりの資力が必要になるが、古いアパートの部屋に自分を押し込む事は可能だ。しかし、衛星測位システム電波までは防ぐ事ができなかったのであろう。聖戦士ダンバイン以来、主人公が異世界に飛ばされる娯楽作品に親しんできたしんかいは、密かに期待した状況が否定されて落胆する。まだ十分な確信が持てないが、これは壮大な仕掛けの悪戯だ。街の中心部に向かえばはっきりするであろう。しんかいは、金属の音を響かせながら階段を降りていった。

5分後、しんかい自分が異世界にいる事を確信した。悪戯とすれば、神の仕業であろう。スマホ地図アプリ位置情報は機能していたが、道路の舗装が汚く、空気が汚れていて、高いビルが無いので空が見上げやすい。そして、旅行先でしかたことが無い路面電車が走っていた。しんかいの知る名古屋市には市電が無い。しかし、ベージュと赤と緑のカラーリング路面電車が走っている。地図アプリ位置情報は、間違いなく名古屋だ。

道を歩く人々の服装は、男性国家放送局アナウンサーが着ていた国民服女性もんぺ姿である。しんかいは人々が自分凝視するのが気になって仕方が無かった。しんかいの格好はPコートチノパンである。この世界では明らかに浮いている。この恥ずかしさをツイートして紛らわせたい衝動に駆られたが、文章だけでは何を書いても気がおかしくなったと思われるであろう。国民服もんぺ女性市電が映った写真を撮って、「ここはどこ?」とつけてアップロードをした。「戦時中名古屋市」とリプライがつく。

戦時中なのであろうか。朝のニュースではそのような事は一切言っていなかったし、テレビ戦後で、カラー化は高度成長期最中だ。昭和40年代ぐらいが相場に思える。状況を把握するために、一日中テレビを観ていた方が良かったかも知れない。古くて小さな家電店が目に付く。中に入ると、期待通りテレビが置いてあり、放送を見ることが出来た。店主は商売っ気の無い老人で、都合が良いことに客に関心がないようであった。テレビ出演者は全員、国民服もんぺであり、ドラマですらそうであった。アパートの部屋のテレビけがおかしいと言うのは否定された。

しばらくテレビに見入っていたが、空腹を感じてきた。何かを食べたいと思うが、この世界食事をとる方法が思いつかない。飲食店はあるようだが、市電で使われている硬貨は見かけないものだった。この世界で使える金を持ち合わせていない。このままでは行き倒れ、帰宅をしても孤独死になってしまう。途方に暮れたところで、家電店に若い痩せた男が入ってきた。肌が白い。「単一電池・・・」と言ったところで、ゴホゴホと口を押さえて倒れこむ。指の隙間から見える、鮮血。小説の中でしか知らないが、即座に結核と言う単語が思いつく。店主は男の様子を気にせず、「ろうがいかい。向かいの店のホメオパシーが効くよ」と電池を出してくる。これは、不味い。

しんかいは、危機を感じて慌てて電器店の外に出た。ドンと人とぶつかる。「ごらぁ、前を見て歩け!」と旭日章のついた帽子かぶってサーベルをつけたおっさん、明らかに警官に怒鳴られる。反射的に「すいません」と謝るが、警官はしんかいを上から下まで舐めるように見ると、「おまいさん、なんちゅー格好をしている。ちょっと署まで来い。三日はぶち込んでやる」と言い出した。その瞬間、中で物が落ちて割れる音がした。「お客さん、ちょっと、しっかり」と言う店主の声がする。警官はそちらが気になったのか、店の中に入った。

しんかいは、その隙を見逃さず走り出した。一瞬「逮捕されれば食事は出るかも知れない」とも思ったが、この体制国家的な異世界では逮捕されれば拷問を受ける可能性もある。どこにも行く宛てが無いと言うわけでもない。持って来た封筒の裏側には、住所が書いてあった。何者かは分からないが、「鈴木幸子」を頼る事にしよう。少なくとも、この世界のしかいを知っている人物である事は確かだ。

2017-10-19

anond:20171018225208

大学男子寮なんかに伝わる、猥歌・春歌替え歌の類で「大人ラジオ体操」ってのもあるね

♪新しい夜が来た 希望の夜だ

 喜びに股を開け パンツを下ろせ

 喘ぎの声に 健やかなナニを

 その濡れた穴に入れよう それ1・2・3

 自分が知ってる限りでも昭和40年代には存在していた模様です。

2017-05-05

ゲーム史を振り返りつつ○○向け企画について考える

平成になりもうすぐ30年を迎えようとしている。

特定の年齢層をターゲットにした製品企画に携わる機会があり、

想定ユーザーのズレがひどいなあと閉口した。

昭和からまるで変化していない。

ゲーム史を振り返りつつ、当時のユーザーたちの現在の年齢を書く。

ハードには [ ] を付けた。

1975 テレビテニス

1978 スペースインベーダー

電波規制が緩い時代に家庭向けとして登場したテレビテニスポンテニス)は、

映像出力としてU波を使うため、近所への電波障害が酷かった。

スペースインベーダーの登場により、喫茶店がめまぐるしく様変わりをはじめた。

ここからゲームの普及はじまったといっていい。

※当時20才=1958年(昭和33年)生まれ現在59~60才

1979 ギャラクシアン

1980 [ゲームウオッチ]、パックマン

1981 ジャンピュータードンキーコング、[IBM PC 5150]

1982 倉庫番、[PC-9801]

第2次オイルショック後、ギャラクシアンパックマンが立て続けにヒット。

ゲームウォッチ床屋等の待合所にもよく見かけるようになった。

PC-9801シリーズの発売が開始され、1990年代前半まで栄華を極めることになる。

※当時20才=1962年(昭和37年)生まれ現在54~55才

1983 ゼビウスドアドア、[ファミリーコンピュータ]

1985 グラディウスドルアーガの塔スーパーマリオブラザーズボンバーマン

ファミリーコンピュータ発売。

スーパーマリオブラザーズというソフトが登場により、一般家庭にテレビゲームが普及。

タイトル誕生し、ヒットを重ねていく。

※当時20才=1965年(昭和40年)生まれ現在51~52才

1986 [ディスクシステム]、ドラゴンクエスト

1987 ドラゴンクエストII、[PCエンジン]、ファイナルファンタジー

1988 ドラゴンクエストIIIスーパーマリオブラザーズ3、[メガドライブ]、テトリス

ファミコン周辺機器として、ディスクシステム発売。

スーパーマリオブラザーズ2ゼルダの伝説メトロイドを引っ提げて。

PCエンジンメガドライブ等、家庭向けハードが次々と発売される。

ドラゴンクエストIII社会現象になった。

※当時20才=1969(昭和45年)生まれ=47~48才

デジタル放送に切り替わるあたりからテレビリモコンに大量のボタンが増え、

新しいモノにはついていけない……とボヤきつつも、

地上波データ放送ミニゲーム操作できる世代が60才を迎えようとしている。

いまのF3/M3層は、昭和の老人とは違う。

余談ではあるが、つい先日C層向けケータイを選ぶことになったのだが、

ハードも、ソフトも、明らかな子供向けデザインだった。

厚ぼったいくせに、衝撃に弱い。子供だましにしても、雑だ。

まだまだテレビ生活の中心にあった時代は、茶の間テレビを使うファミコン時間が限られていた。

1989年にはゲームボーイが登場し、家庭の生活様式にも影響を与え始めた。

現在、多くの子供たちは、DSを持ち、Wi-Fi接続してYoutube等を見る。

ここでその賛否を論じるつもりはない。それが現実なのだ

2017-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20170325133034

田舎は時の流れが緩やかなんよ

昭和40年代ぐらいで停滞してるとこいっぱいある

2016-12-24

http://anond.hatelabo.jp/20161224215725

だがそこで考えてほしい。

もし昭和40年台後半~50年代序盤の団塊ジュニア世代自分たちのことを「他の世代よりもつまらない世代だった。不幸ジェネレーションだ」と言い出しそれに賛同する人が増えたとしたらどうだろう。

そやつらが定年を迎え社会保障必要になったとき自分をほかの人より不幸と思い込むやつらのクレクレ攻撃はいかようなものになろうか!

自分が周囲よりも恵まれてないと思い込まれることほど面倒な老害はない。

自分たち幸せだと思っているならいいじゃないか

しかしたら「ま、子供の時幸せだった俺らなんだし。かわいそうな他の世代にはちっとは遠慮してやるぜ」くらいに思ってくれるかもしれないぞ!

2016-11-10

[]ちゃんこ鍋

人間と同じように二本脚で立つ鶏から縁起を担ぐ意味で、肉は鶏が最も多く用いられている。かつては「四つん這い」=「手をついて負け」という連想から、牛や豚などの四足動物の肉は避けられていたが、昭和40年からはこれらもよく使われるようになった[4]。

ちゃんこ鍋 - Wikipedia

2016-10-10

http://anond.hatelabo.jp/20161010185050

過労死」は1978年(昭和53年)に生まれ新語ですからね。

そりゃ、昭和40年代には無かったんですよ。

当時は過労が死に至るという考え方がなくて、俗にいう突然死とかポックリ病などと同じものだと思われていたと思います

昔は過労死なんてなかったって言ってる人をときどき見るんだけど、本当かなあ

うちの祖父はまだ母が幼かったころに40歳で死んでいるが、祖母が言うには「今でいう過労死」だったらしい

残業出張続きで帰ってくる日はほとんどなくて、ある日突然倒れてそのまま死んだ

本当に珍しいケースだったんだろうか

昭和40年代の話だ

2016-09-04

[] ドリプシ

1. コーカサス山脈の南麓、黒海東岸位置するグルジアジョージア)国のアブハジア自治共和国のグダウタ地区にある

  村の名前アルファベットでは、「duripsh」と書く。

  1965年昭和40年1月1日朝日新聞に、長寿村としてこのドリプシ村が紹介された。100歳を超える人が数多く暮らし

  しか子宝に恵まれているその秘密は、はっ酵乳をたくさん飲んでいることだと書かれていた。

  

2. 同村にあやかって命名された日本酪農協同株式会社(毎日牛乳)が販売する乳酸菌飲料1966年発売。

  CMでは、「ソヴィエトのドリプシ村の飲み物」となっていた。

  

blog.georgianavi.com/?eid=98

georgianavi.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=3945507

2016-03-24

麻生太郎公式HPは未だに学歴詐称したままなんですが?

麻生太郎事務所

学習院大学卒業後、スタンフォード大学大学院ロンドン大学政治経済学院に留学

昭和38年 学習院大学政経学部卒業後、スタンフォード大学大学院昭和38年昭和40年)に留学

昭和40年 ロンドン大学政治経済学院(昭和40年昭和41年)に留学


これってまだ本人が記者会見なり国会答弁なりで詐称を認めてないからこのままって事?

それとも本当に留学経験があって、学位も持ってますって事なの?

ショーンKの事で学歴詐称疑惑として飛び火したのは残念ですけど、もう少し正確にお書きになるべきではありませんかね。

2016-03-03

http://anond.hatelabo.jp/20160303130556

検索能力が足りないな。

パヤパヤ昭和40年代の日本歌謡曲によく使われたフレーズで、スキャットという特に意味のない台詞

(ジャズなどで使われるシュビドゥバなどがその代表)

だが歌謡曲では、時代の風潮を反映して、「浮かれたイメージ」を表現するフレーズという印象が強かったようだ。

要するに浮ついた、頭がお花畑だというニュアンスで使ったのだろう。どんだけ古い人だよ。

2016-02-18

湯シャンを勧める記事ホットエントリ入りしていて

それに「湯シャンだと臭い迷惑」みたいなブコメが何件もついてる。

日本人毎日洗髪するようになったのは昭和50年代あたりで、それ以前は湯シャンどころか洗うのが数日に一回なんだが。

風呂自体毎日入る習慣が広まったのも昭和40年代。

臭いのは本人は気づかないけど周囲は迷惑!」とのことだけど、潔癖症の人のほうが自分の異常性に気付いてほしい。

2015-10-22

「学園」に呪縛されるライトノベルについて

なぜ物語の少年少女が「学園」に呪縛されるようになったのか - Togetterまとめ

このまとめの最初のあたりで芦辺拓氏が例に挙げている作品刊行年は以下のとおり。

小林芳雄と少年探偵

→『怪人二十面相1936年

西條八十の白ばと組

→『あらしの白ばと』1952年

高木彬光の古沢姉弟

→『覆面紳士1950年

森下雨村池上富士

→『少年探偵富士夫の冒険1923年

横溝正史の御子柴進

→『幽霊鉄仮面』1937

まず、このくらいのスパンの話だということを理解しておいてほしい。

たかだか十年前と比較するくらいの感覚で「最近ラノベ作家は楽をしたがるから」などと言っていると論点がズレてしまう。

さて、そもそも「昔は学園ものは少なかったが今は学園ものばかり」というのはラノベだけの問題なのだろうか。

Wikipediaの「学園漫画」の項には以下のように書かれている。

少年少女主人公とする作品学校を場としたりその人間関係が中心になることが多いことは当然であり、漫画以前の小説時代から学校もの存在したし、学校舞台とする漫画作品昭和30年から存在した。ただ昭和30年代には、放課後に家の手伝いをする者や中学卒業して実社会に出るものがまだ多く、学「園」ものという呼び方にはある程度の生活階層青春もの意味するイメージもあった。

結果的に、雑誌漫画において学園漫画という「分野」(市場分野?)が生じたと言われるのは、日本高度経済成長が成果を安定させて生活の向上や学歴の向上が既定路線となった1960年代半ば(昭和40年前後)からである

学園漫画で言えば『ハリスの旋風』が1965年、『夕やけ番長』が1967年、『ハレンチ学園』や『男一匹ガキ大将』が1968年である

芦辺氏と同じ論法を使えば「戦前終戦直後には学園もの少年漫画は少なかったのに今は学園漫画ばかり」とも言えそうだ。

もとより、「学園もの」増加の原因を、一足飛びに現代ラノベに求めたところで、何が分かるものでもあるまい。

同じくWikipediaから学園小説」の項。

学園小説一定の発展を見せたのは、少年雑誌よりも少女雑誌においてであるもっとも著名な作家としては『少女世界』の読者から作家デビューした吉屋信子があげられる。

1916年に連載が始まった吉屋信子の『花物語』は、当時ベストセラーとなった連作短編で、女学校舞台とした話が多い。→エス

これは「漫画以前の小説時代から学校もの存在した」「学園ものという呼び方にはある程度の生活階層青春もの意味するイメージもあった」ということの実例と言える。

こうしてみると、むしろ1960年代以前の少年向け娯楽作品において学校舞台とならなかったのは何故か」というほうが問題なのではないかと思えてくる。

そしてそれは、Wikipediaのとおり経済力理由を求めるほうが、現代青少年の心性を大仰に言い立てるよりは筋がとおっているだろう。

(もちろん他の要因もあるだろう、議論するならその点についてすべきである

最後に、筆者が最近読んだライトノベル50作品を「A. 学校が出てこない」「B. 学校は出てくるが事件が起こるのは学外である」「C. 学校が主な舞台である」で分類したところ、以下のような内訳となった。

A. 18作品 B. 16作品 C. 16作品

まり芦辺氏が言うような「全てが学校で起きる学園ものラノベ」は16/50=32%である

言うまでもなく、このサンプル数は少なすぎるし、個人の嗜好による偏りなどもあるので参考程度にお願いしたいが、

最近ライトノベルの全てが「学内で完結している」ということはありえない、とは確実に言えるはずだ。

大ヒット作だけを見ても、SAOダンまち「A」であるし、禁書目録魔法科高校は「B」に分類されるだろう。

正直なところ芦辺氏がどうして「最近ラノベは学園ものしかない」と強固に思い込んでおられるのか理解に苦しむ。

どうか賢明なる読者諸氏においては「へえ最近ラノベは学園ものばかりなんだな」などと鵜呑みにしないでいただきたい。

2015-10-15

昭和40年代後半以降、右翼運動を行なうかたわら街頭宣伝車を使用し、企業などへの執拗糾弾活動を行い、その中止と引き換えに経済的支援を得ようとする暴力団体系の右翼団体が現れはじめ、これがいわゆる街宣右翼の始まりである

(中略)

街宣右翼活動資金獲得が主眼であり(会社ゴロ)、街頭宣伝車の普及により少人数で効率的資金獲得が図れるようになった事や、昭和39年から始まった暴力団壊滅作戦などから逃れるために暴力団政治結社を結成した事などが街宣右翼拡大の要因と見られている。

2015-09-20

置き時計デザイン昭和すぎる

5年位使っていた電波目覚まし時計電池の液漏れでこわれてしまったので、新しいものを買おうと思い、ネットで下調べをした。

いままで使っていた、比較シンプルデザイン製品生産終了となっており、別のものを探さなくてはならないことがわかった。時計メーカーサイトAmazonで30分くらい探し続けて、驚いた。

どのメーカーデザインも、30年位前から全く変わっていないように見えるのだ。というか、ばーちゃんの家に行くと置いてあった昭和40年代の時計と大差ないように見える。

SEIKO

http://www.seiko-clock.co.jp/product

リズム時計工業CITIZENブランド保有)

http://www.rhythm.co.jp/search/result2.php?category_id=03011

CASIO

http://casio.jp/wat/search/clock/result/?page=0&sort=1&pr1=&pr2=&type=YTowOnt9&wa=&mo=&func_s=1&brand=YToxOntpOjk7czoxOiI5Ijt9&func=YTowOnt9



置き時計たちの、この「昭和テイストはいったい何なのだろう。

自動車携帯電話デザインに比べると、驚くほど変化に乏しいように見える。

電波時計になったりして、内部の機構進化しているはずなのに、デザインだけは、昭和アパートの畳の上に置いてあるとしっくりくるものばかりだ。

置き時計デザインは、変わらないことが求められているのだろうか。つまり消費者昔ながらのデザインを求めているから、古臭いものが売れ続けて、デザイン上のイノベーションが起きないのだろうか。それとも、置き時計はもともと利幅の薄い商品なので、デザインを変えて消費者に訴えかけるだけのコストメーカーの側が払わないから競争原理が働かないのだろうか。

自分は以前と同じ製品ヤフオクで見つけて1000円で買ってしまった。

2015-05-16

http://anond.hatelabo.jp/20150516105235

どんどんあほルールが出来ていくな。

もう昭和40年ぐらいのほうが豊かなんじゃないの?

2014-12-26

2014年2015年過去

今年もそろそろ終わる。

俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?

思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。

そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。

西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。

すげえな。

ありがとうウィキペディア

「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。

2014年の10年前と2015年の10年前。

1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい

とりあえず100年。

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2004年平成16年

・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る

関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡

アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)

・「新潟県中越地震」死者68名

紀宮さま黒田慶樹さんがご婚約

2005年(平成17年

中部国際空港が開港

スマトラ島沖地震

アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任

・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る

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1994年(平成6年

ビートたけしバイク事故で重傷

関西国際空港が開港

オリックスイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録

大江健三郎ノーベル文学賞を受賞

1995年(平成7年

阪神淡路大震災

地下鉄サリン事件

・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)

オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される

・「Windows'95 日本語版」発売

・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始

・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。

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1984年昭和59年

・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝

・「かい人21面相」によるグリコへの脅迫が始まる

都はるみがNHK「紅白歌合戦」を最後に引退

1985年(昭和60年

日航ジャンボ機墜落事故

・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退

・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足

豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される

松田聖子神田正輝と結婚

フジテレビで夕方のバラエティ番組夕やけニャンニャン』が放送開始

たこ八郎が水死

・「かい人21面相」の似顔絵“キツネ目の男”が公開される

阪神タイガースが21年ぶりのセ・リーグ優勝

阪神タイガース日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一

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1974年(昭和49年

・永谷園が「あさげ」を発売

小野田寛郎陸軍少尉がフィリピンから帰還

日本赤軍オランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)

ウォーターゲート事件ニクソン大統領辞任

テレビアニメ宇宙戦艦ヤマト』第1作が放映開始

フランスで『エマニエル夫人』公開

1975年(昭和50年

まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売

山陽新幹線博多まで開通

広島東洋カープが初優勝

イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出

沖縄国際海洋博覧会開幕

・俺が生まれた

……俺と同い年の人たち

赤江珠緒アナウンサー

雨宮処凛(作家、エッセイスト

山田花子タレント

アンジェリーナ・ジョリー(女優)

上原浩治(野球選手)

高橋由伸(野球選手)

チュートリアル徳井義実タレント

平野啓一郎小説家

・四代目・市川猿之助歌舞伎役者

さかなクン(魚類学者、タレントイラストレーター

・俺(商店街で鮮魚店を経営)

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1964年昭和39年

カルビーが「かっぱえびせん」を発売

本田技研工業が「S600」を発売

・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き

東海道新幹線開業

東京オリンピック

・坂本九『明日があるさ』がヒット

・映画『モスラゴジラ』公開

1965年(昭和40年

大塚製薬が「オロナミンCドリンク」を発売

アメリカ軍による北ベトナム爆撃が始まる(北爆)

・淀橋浄水場廃止

朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞が決定

・中国で文化大革命が始まる

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1954年(昭和29年

武田薬品工業が「アリナミン糖衣錠」を発売

・日本の高度経済成長期が始まったとされる年

アメリカで世界初のカラーテレビの本放送開始

・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始

ニッポン放送開局

琉球放送(RBC)開局

・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる

・洞爺丸事故

加藤芳郎4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了

・映画『ゴジラ』(シリーズ第1作)公開

1955年(昭和30年

トヨタ自動車が「クラウン」を発売

日産自動車が「ダットサン・110」を発売

武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。

ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化

・広辞苑初版発行(岩波書店

後楽園遊園地が完成

自由民主党日本社会党二大政党制55年体制)が始まる→1993年崩壊

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1944年(昭和19年)

・全国の新聞で夕刊が廃止

・日本軍がインパール作戦を開始

・松竹少女歌劇団解散→松竹芸能本部女子挺身隊結成

関西急行鉄道南海鉄道が合併し、近畿日本鉄道設立

アメリカ軍サイパン島に上陸、日本軍が全滅

・連合軍によるパリの解放

ゾルゲ事件

・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件

1945年(昭和20年

・ 2月 4日 ヤルタ会談ルーズベルトチャーチルスターリン

2月18日 アメリカ軍硫黄島に上陸

2月14日 近衛文麿昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)

3月10日東京大空襲」/死者は約10万人

・ 4月 1日 アメリカ軍沖縄本島に上陸

6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決

6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結

7月26日 ポツダム宣言発表/連合国は日本に降伏を要求

・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下

・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始

・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下

8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)

8月15日 正午「玉音放送

8月18日 満州国皇帝愛新覚羅溥儀退位

8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)

・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)

9月25日 外国人記者2名が昭和天皇インタビューを行う

10月19日 駅名の表記が左書きに統一される

12月31日 NHKラジオ第1で『紅白音楽試合』

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1934年(昭和9年)

・ドイツ・ポーランド不可侵条約締結

日比谷映画劇場開場

忠犬ハチ公銅像除幕式

クライド・バロウとボニー・パーカーが警官隊に射殺される

東郷平八郎元帥国葬(日比谷公園

・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始

東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大

ヨシフ・スターリンの「大粛清」始まる

1935年(昭和10年)

築地市場開場

フランス人民戦線結成

モノポリー発売(パーカーブラザーズ社から)

日本ペンクラブ発足(初代会長島崎藤村

・天理教本部が脱税で捜索

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1924年(大正13年)

・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚

・日本でメートル法が採用

阪神甲子園球場完成

・孫文が神戸市で大アジア主義講演

谷崎潤一郎痴人の愛』連載開始(大阪朝日新聞

宮沢賢治春と修羅』出版

トーマス・マン『魔の山』

1925年(大正14年)

イタリアベニート・ムッソリーニが独裁宣言

・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)

治安維持法公布

朝鮮総督府庁舎完成

・上海で五・三〇事件

ベトナムホー・チ・ミンベトナム青年同志会を結成

・広東に国民政府が成立

東京放送局(後の日本放送協会)がラジオ放送開始

鈴木商店(後の味の素)設立

・芦ノ湖にブラックバスが放流

・娯楽雑誌『キング』創刊

同人雑誌『青空』創刊、巻頭作は梶井基次郎の『檸檬』

……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。

まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。

なつかしい。

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1914年(大正3年)

・孫文らが東京で中華革命党を結成

サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国セルビア最後通牒

オーストリアセルビア宣戦布告し、第一次大戦が始まる

・三越呉服店新装開店(エスカレーターライオン像が話題に)

・『少年倶楽部』創刊

1915年(大正4年)

第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される

袁世凱中華帝国の皇帝を宣し、元号を洪憲とした

サマセット・モーム『人間の絆』

芥川龍之介『羅生門』

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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。

自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。

それと昭和、長いな。

明日も朝早いし、そろそろ寝る。

2014-12-18

バブル世代 ~「クズ」の定義

バブル世代バブルせだい)は、日本で、バブル景気の時期に就職した世代である

定義

労働市場の分野では、バブル景気(第11循環拡張期、1986年昭和61年11月から1991年平成3年2月)による売り手市場時(概ね1988年昭和63年から1992年平成4年))に新入社した世代を「バブル世代」と呼び、より以前の「モーレツ社員」(団塊の世代)や、それ以降の「就職氷河期世代などと比較されることがある。

・成長過程

学生時代

小学校に入った時期はオイルショックの直前か直後であり、「四畳半フォーク」が流行した時期であった。小学時代から中学時代にかけての1970年代には、この世代の間でスーパーカーブームブルトレブームが席巻した。

中学時代から高校時代に当たる1980年代前半はツッパリ文化の最盛期で、矢沢永吉横浜銀蝿などの、リーゼントロックとツッパリ(不良)ファッションが、当時の管理教育に反発する少年層の間で大流行した。

校内暴力発生件数が戦後最多を記録したのもこの時期である

一方、入学試験などの競争が徐々に激しくなった世代であり、当時のいじめ問題について、要因の一つとして受験競争によるストレスが挙げられている。

高校進学率は当時総合選抜地元集中などの制度実施していた都道府県も多かったため、進学率の低下傾向はほとんど現れず、90%台を維持していたが、大学短大合格率は、1967年昭和42年度)生まれから1971年昭和46年度)生まれ1986年昭和61年度)から1990年平成2年度))にかけて低下し続け、1990年平成2年度)には大学合格率は63%になり、1967年昭和42年度)の62%以来の最低の値となった。

大都市大学に進学した者は、バブル文化の発信源として華やかなファッションブーム文化を生み出していった。

1980年代の「女子大生ブーム」の時期にあって、都会の若い女性は消費対象としてもてはやされた。

大学卒業時にはバブル景気により就職市場は大幅に好転、売り手市場となった。

企業から人気の高い有名大学の学生3S寿司ステーキソープ風俗))やディズニーランド海外旅行接待されたケースもあるという。

当時の大卒就職市場の状況は、映画就職戦線異状なし』が参考になる。

昭和60年代にデビューしたおニャン子クラブの大部分(一部のメンバー団塊ジュニア世代昭和45年まれから昭和46年まれ)のメンバーバブル世代昭和40年まれから昭和44年まれ)でファンもバブル世代が多かった事から団塊の世代ビートルズ世代のようにバブル世代の事をおニャン子世代と云う。

就職期・就職

就職期にはバブル景気で、日本の景気が極めてよく、これを受けて事業を拡大・展開し業績を拡大するべく、各社こぞって高卒大卒を問わず人員募集数を拡大した。

その結果、企業求職人数は就職希望者を大幅に上回っていた。

また、バブル世代女性高卒短大卒・専門学校卒の者は、1986年昭和61年)に施行された男女雇用機会均等法以後に初めて社会に出た世代でもある。

個性至上主義が騒がれた世代でもあったため、バブル世代就職するころ、企業側も個人を尊重するライフスタイルを加味し、年俸制の導入やフレックスタイム制を取り入れた形態が現れ始める。しかし、個人を尊重する弊害としてコミュニケーション不良による問題が生じ、2000年平成12年)頃からほとんどの企業がこの形態を取りやめ、従来型運営にもどる。

バブル崩壊による不況が始まると、その影響で企業採用人数が大幅に絞られたために労働負荷が増え、過密労働に陥る者も多く発生した。

また、成果主義などの導入もあって賃金給与賞与などの所得が伸び悩んだり、社員研修などの教育費が削られ、経験すべきことを経験せずに昇格してしまうという事態が起こった。

1997年平成9年)にはアジア通貨危機消費税増税による景気後退が起こり、多くの会社が大規模な人員整理を行った。

人員削減といっても関連会社への出向などで済んでいる者が多数派ではあるが、一部には企業倒産整理解雇を被り、派遣社員フリーターに転落、「派遣切り」に遭遇した者もいる。

こんな世代が今、年功序列に胡坐をかい会社組織の中枢部で横暴を振るっているわけだ。

そりゃ民間企業経営方針も迷走するし、国家運営方針も滅茶苦茶になるわな。

団塊の世代は既に2007年前後に逃げ切ってしまった。

よって、世の中の会社組織には殆ど残っていない。

稀に嘱託として残っていても、権限殆ど無い。総数としては少ない。(但し、役所天下り組織問題は別)

まり日本国内に於ける世の中の会社組織の実権は今(量的問題於いてバブル世代が握っている。

よく「世代間格差を煽るな!」と言う馬鹿が居る。

勿論、それは自分立場が危うくなる為に自己保身で言っている者が殆どではあるから無視しておけばいい。

ただ何故、『「世代」で区分するか?』は常に考えておいた方がいい。

日本人口を分析する時、量的問題では現状そうするしか分類方法殆ど無い為である

勿論、資産分類や所得分類もあるが社会現象分析する時にそれは使えない。

更に、儒教思想が浸透し、年功序列固定化してしまった社会では資産分類・所得分類は結局同じ事を意味する。

それと、「身分制度階級制度」は既に解体された。

よって、「身分」や「階級」によって分析する事は不可能

それは日本人自分達で望んだ事だ。

2014-10-23

今昔

norton3rd氏はあまり若くなさそうだという印象は持っていた。

俺が大学に入ったとき授業料12,000円/年で、近所の工場バイト時給が150円/hだった。同学年には親に仕送りをしているフトドキ者さえいた。いま学費が535,800円/年でバイト時給はなかなか1,000円/hいかないだろ 2014/10/16

http://b.hatena.ne.jp/norton3rd/20141016#bookmark-232661785

国立大学学費(年)が12,000円だったのは昭和40年代のことらしいので60代なのだろうか。歳のことはどうでもいいか。

工場バイト時給が150円なら80時間で当時の学費が賄えるのか。

535800円を80時間で稼ぐには、およそ時給6700円。かなりの商才か何かが必要な気がする。

学生時代からなんかやってたk氏にはできたのかも。

2014-01-27

犬も歩けば棒にあたる その1

自分いちばん古い記憶っていったいなんだろうと考えていたら、父親の下手な子守唄だったかもしれないと思い至った。

父は歌が下手だった。

そして酒乱だった。

夜になると酒を飲み、家族暴力を振るった。

彼は働き者の労働者ではあったが、田舎長男坊で甘やかされて育った無神経な言葉暴力にも家族は傷ついた。

母は過保護だった。

そして過干渉でもあった。

子供を守ることだけの人生に、疲れ果てていた。

服を買う金もなく、父と歩いていると女中のようだった。

昭和40年代の日本の、どこにでもある貧乏家庭にわたしは育った。

永遠とも思える小学生時代、わたしは早く大人になりたいと願っていた。

それは、父に叱られないようになりたい、母を助けたい守りたい、その一心だったのだと思う。

小学校も高学年になると、わたしのこころの中にはぼんやりだがしかしはっきりと、恐らく自分は一生結婚しないだろうという思いが芽生えていた。

結婚は忌むべきもの、どちらか一方が耐えに耐えても結婚生活は成立しない。

から、わたしは結婚しない、そう思っていた。

中学生になり、どうやら自分が悪くて暴力を振るわれている訳でもなさそうだと気がついてからは、「わたしが悪いから叱られる」という自責の念はやや薄れ始め、父に対する嫌悪と母への依存けが残った。

結婚についてはより実生活に近い男女交際にすり替わり、相変わらず中二病的な剣呑さで異性を寄せ付けないオーラを出すようになっていた。

本当はクリスマスサンタクロースが来るような家庭に強烈な憧れを持っていたのかもしれない、とこの歳になって思う。



>なんで焦るの?

そうなった理由をぼちぼち書いていこうと思ってます。よろしくお願いします。

>せっかくなんで

まとめ、ありがとうございます

主夫でもいいなら

家事からきしなわたしに有難いお申し出感謝します。

2014-01-08

http://anond.hatelabo.jp/20140107195818

いや本当にその通りなんだよね。

昭和40年代くらいまでは人口爆発日本は困ってた。兄弟が5人6人いる家なんて当たり前だったからね。よっぽど勉強が得意でない限りは中卒高卒でほっぽり出すのも普通だったし。

子供コントロールして作るものではなく、「できてしまもの」だった。

で、政策としてコンドームを普及させた。「明るい家族計画」の名のもとに。ようやくコンドーム実用に耐えるものになってきたというのもある。ゴムの薄さ、穴の開く率の低さなど。

コンドームフリーセックス化、性意識の変化に革命的な影響を与えた。そりゃコンドーム以前はそんな簡単にそこらの男にやらせませんよ。子供できちゃうんだから。そしてそういう社会の中では女の中でなかなか「恋」意識は生まれなかった。初恋の年齢などは今よりずっと遅く、初恋という感情のないまま生きていくものも多かった。「恋」というのは社会の状況によって作り出された欲望の一種にきれいな名前をつけたもの過ぎない。

と、いうことは、これ逆もまた真なりなんだよね。コンドームなんて人口の調節弁として使えばいいんだよ。増えすぎたら解禁、減りすぎたら禁止。これこそ「政策」としての人口コントロール法となる。

2013-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20130511224233

オッス、元増田です。ご検証ありがとう礼儀としちゃ言うべきなんだろうけど、そんな話じゃないんだけどなーという印象。

「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。

また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。

ここで全称命題の話にしますか(笑)前世代、前々世代比較すればあながち的外れ考察でもないと思いますけどね。もちろん統計データなんてありませんけど、クラスほとんどが読んでいた、半分くらいは読んでいた、5人くらいは読んでいた、と比較すればほとんど読んでいないという大きな主語は、この場合、個人的にあれも読んでいた、これも読んでいたというのよりはよほど実態に即していると考えます。それともそれこそ何か統計的なデータでもお持ちでしょうか。

1971年生まれで、チャンピオンを追いかけている人は相当稀少だったのではないでしょうか。何といっても同時代的には「ドラゴンボール」「北斗の拳」「聖闘士星矢」「キン肉マン」などのジャンプ黄金時代だったわけですし、6割ジャンプ、2割マガジン、1割サンデー、残りの1割でその他というのが実感です。70年代黄金期を過ぎてのチャンピオン凋落ぶりは言うまでもなくて、看板作品でも老若男女誰でも知っている作品というのがもうここ30年ないですよね。

たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイ本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチ岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。

漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったもの想像します。

いやまあ「一般雑誌」は週刊朝日週刊新潮週刊文春のみというなら別ですが。

ま、これは確かにそうですね。一般週刊誌は文春、新潮朝日のみというのが感覚的には正しいと思います。この三誌とそれ以外では、オーソリティがまるで違うからです。この三誌がクオリティマガジンとは言いませんが、WILLに連載するのと、中央公論に連載するのとでは全然意味が違うのと同じです。ロッキード事件リクルート事件など社会的な問題でたびたび尖兵となってきた雑誌と、スポーツ新聞に毛が生えたような雑誌とでは社会的意味が違います。それは現在に至るまで、掲載されている作品の内容でも歴然と異なります

特に80年代は、週刊文春花田体制の下、絶頂期にあって、100万部を毎週越えるような規模としても内容としても一軍でしたから、基本的には政治経済、時事的なトピックでそれだけ中心的に扱われているメディア漫画が乗った(プレイボーイならいざ知らず)ということ自体がトピックであったという意味で、アドルフの例は出しましたけどね。ただしアドルフ以後、この三誌での漫画連載は定着しませんでしたが。

ブコメで「サンコミックス昭和40年代に出るまで単行本ハードカバー普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります

80年代記憶でいえば「のらくろ」の復刻版がハードカバーで出てました。

純粋ハードカヴァーの作品自体であれば貸本屋漫画は基本的にハードカヴァーでしたし、店頭でよく見かけるものとしては、学研の「ひみつシリーズ」もハードカヴァーでした。ただしサンコミックスなんてほとんど誰も知らないように、社会的景色の話ですからマニアックな話をしてもしょうがないわけです。平積みにされて、多数の人が「おお、漫画ハードカヴァーになる時代なんだな」と認識することが重要であって、消費物としてではなく作品としての漫画芸術としての漫画という意味合いを一般化したのは手塚がやはり尖兵であったという、そういう話です。「火の鳥」と「のらくろ」のどちらが先なのかは分かりませんが。


赤塚さんはあと、コロコロでは「花の菊千代」を連載しています。その後、ボンボンでも何作か連載していますが、知る人ぞ知るという程度の作品で、連載作家として仕事はしていたわけですが、雑誌の主力になるようなパワーはなく、その仕事自体が大御所としての余暇的なものであったと思います

2013-05-11

手塚治虫などについて

http://anond.hatelabo.jp/20130510192931

1971年生まれが事実関係を指摘するエントリです。

手塚マンガを読んでいない世代

「僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね」は主語が大きすぎてなんともですが、個人的には少年チャンピオンで「ブラック・ジャック」終了後も「七色いんこ」や「ミッドナイト」はよく読んでました。「ゴブリン公爵」は忘れてください。

また手塚クラスになると過去の名作に触れる機会も多く、「火の鳥」(「太陽編」の前まで)は朝日ソノラマ版で読んだし「ブッダ」も床屋で読みました。

マンガハードカバー

ブコメで「サンコミックス昭和40年代に出るまで単行本ハードカバー普通、ただし人気作しか単行本化されなかった」とあります

80年代記憶でいえば「のらくろ」の復刻版がハードカバーで出てました。

一般週刊誌に連載されたマンガ

たとえば週刊ポストには「弐拾手物語」が長期連載されていましたし、週刊プレイボーイ本宮ひろ志の「俺の空」を載せたり平凡パンチ岡崎京子の「ジオラマボーイ パノラマガール」を連載してました。

漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね」は勇み足というか、元増田の興味に引っかかるのが「アドルフに告ぐ」だけだったもの想像します。

いやまあ「一般雑誌」は週刊朝日週刊新潮週刊文春のみというなら別ですが。

余談

このエントリを書くにあたって事実関係を調べるためにWikipedia手塚治虫やその作品、藤子不二雄赤塚不二夫などの項目を読んで懐かしい気持ちになりました。赤塚不二夫コロコロコミックの連載が「チビドン」だなんてすっかり忘れてましたが画像検索で思い出しました。

日本人共同幻想体をシェアしてた」という表現はまさにその通り。

元増田がどういう心境で元のエントリを書いたのかはわかりませんが、この年になるとこうやって昔をふり返るのも悪くないものです。

2013-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20130415202800

嘉門達夫のは、彼のラジオ番組投稿ネタから拾ってるんだよね……。

から最初かどうかは分からない。

昭和40年代生まれの視点から言うと、日曜日の憂鬱昭和の週休1日、土曜半ドン世代の共通認識で、例えば自分場合は日曜の朝のアニメドンチャックとかマクロスとか)から感じてしまったり、サザエさんでなく笑点で感じてしまってた。(ブルーマンデー症候群サザエさんで語られるけど、鬱とかそんな重い話でなく)

きっかけは人によってバラバラで、私はサザエさんで感じるって話(多数派)、いやオレは笑点(他、少数派)で、というのを中学か高校で友達と話したから、それって1990年より前か?

いや、小学校の時に近所の連中と話したかもしれない……。1980年代かなやっぱり。

そして、詰まるところ土曜日が昼からどっか遠くに行って遊べて満足して、体もくたびれてたら、こんな風に後悔しないって思ってたよね。

からサザエさん憂鬱って話は、週休1日・土曜半ドンあってのものだと思うよ。

そうすると、CDリリース1993年というのは、ちょっと微妙に遅い気がする。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%91%E6%97%A5#.E9.80.B1.E4.BC.91.E4.BA.8C.E6.97.A5.E5.88.B6

1980年代スタート(この頃は聞いたことなかったけど)して、1993年公務員週休2日になったという話だから、もうちょっと前だと思うんだよね。

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