はてなキーワード: 昭和40年とは
https://parupunte-life.com/archives/2625
小学校から英語を習う時代なんだから、国際化に遅れちゃいけないでしょう、やっぱりパンを増やさないとまずいでしょう,について、
付いていた指摘。
味気なかったかな
ご飯でいいと思うけどな
うーん、昼はやはりご飯がいいと思う。
噛む事で歯も鍛えられます。
給食でパン食はコッペパンや揚げパンに代表されるノスタルジックな感じがする主食だと思います。
国際化は欧米の真似事ではないのでパン食よりも自国の酒食を誇れるほうが良い気がします。パン食は配膳が楽かもしれませんが、アレルギーなんかはパン食と米食ではどちらが多いのでしょうね?
良く小麦や卵などのアレルギーで米粉を使うパンなどもあるようですし、給食のパンには入っていないと思いますがイーストフードなどが入っているパンもあると聞きます。
おかずに合わせるのも米食の方が合わせやすいのでは?などと色々理由を考えてしまいますが、最近のパン食以上に減ったソフト麺が中年のおじさんには懐かしくて仕方がありません。
無形文化遺産にも登録された和食を、きちんと理解し楽しめる事こそ国際化の波に乗る上で重要だと思います。
旬と地産地消にこだわり、温かいものは温かく、冷たいものは冷たいうちに、その方が大切な事でしょう。
給食費踏み倒しの問題も有るけど一部で報道されたような、食中毒防止の為にわざわざ「冷やした」ハンバーグとか感覚的におかしいし、コスト優先で不味すぎる給食こそぜひ改善して欲しい。
国際化だから米よりもパンこれはちょっと違いますよね確かにパンを主食にしている家庭は増えているとは思いますだからこそ学校給食では米を中心にするべきとも思えます
昔の給食はパンばかり正直美味しくてなかったです今はかなり良くなっているとは聞いております
>「国際化に遅れちゃいけないでしょう。やっぱりパンを増やさないとまずいでしょう」
苦しい主張だな。。。。w
大変だとは思うが、市場というのは何十年も同じままではいないものだからね。逆に町のパン屋さん、つまり高付加価値のパンは増えているでしょう。
パン工場には申し訳ないですが、現在の給食をパンに戻すと時代に逆行します。地産地消も大事ですが、お米の美味しさをもっと子どもたちにアピールしないといけないと思います。私は昭和40年代後半に小学生でしたが、パン食になじめずほとんど美味しいと感じた事がありませんでした。
「小学校から英語を習う時代なんだから、国際化に遅れちゃいけないでしょう。やっぱりパンを増やさないとまずいでしょう」
本当に「国際化」を考えるならパンを増やすのではなく、パスタやイモ、トルティーヤ、フォー、豆などを主食にした「国際的な」給食になるんではないでしょうか。
国際化は、自文化と他文化の違いや共通点を認識しながら理解を深めることで進むと思う。他文化を知ろうとすることは大切だが、同時に自文化を疎かにしてはいけない。
「小学校から英語を習う時代なんだから、国際化に遅れちゃいけないでしょう。やっぱりパンを増やさないとまずいでしょう」自分の会社を中心に考えてしまうのだろうが、浅はかだなと思う。
https://twitter.com/w_ns/status/1103145378281545728
>「小学校から英語を習う時代なんだから、国際化に遅れちゃいけないでしょう。やっぱりパンを増やさないとまずいでしょう」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190306-00010002-sp_ctv-l23
ウルトラマンがテレビ放送されていない時期に子供時代を過ごした世代のことを言うらしい。
具体的にはウルトラマン80放送終了からウルトラマンティガ放送開始までの期間らしいので
私はウルトラマン80を幼稚園時代に見ていたらしく、家に絵本も人形もあったのを覚えてるのでウルトラマン空白世代にはギリギリ該当しないようだ。
むしろ小学校時代のガチのウルトラマン空白時代に毎日夕方に再放送していた昭和40年代のウルトラマンシリーズをよく見ていたのでそちらの印象は色濃く残っている。
(怪獣が)気持ち悪い、怖いという印象ばかりで、(ウルトラマンが)かっこいいとかすごいとかは全然なかった。でも何故か見れる限り毎回見ていた。多分怖いもの見たさだったのと、昭和40年代の人々はどういう暮らしをしていたのだろうという興味関心が強かったからだろう。
そのおかげで、昭和40年代は恐ろしい時代だったんだなーという印象がものすごく強くて、自分は昭和50年代以降に生まれてよかったなーとずっと思っていた。
(追記)
(1)2020/08/16
これ書いたきっかけは
紅白帽を立てにかぶった男の子のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_27.html
のコメントで「ウルトラマン空白世代」という用語を使っている方を見かけたことでした。
私もイラストのような、紅白帽を縦にかぶる行為をバッチリやっていました。
(2)2020/08/16
私にとってのウルトラマンはほぼほぼホラーのジャンルに近いものでした。
一番のトラウマは、ウルトラマン太郎でキノコの怪獣がテレビから出てくるというシーンでした。貞子の映画でも同じようなシーンがありますが、その100倍は怖かった記憶です。
仮面ライダーについても私はギリギリ空白世代ではなかったようで、仮面ライダースーパー1の記憶がウルトラマン80よりは多少はっきり残っています。テレビの主題歌をよく歌っていた記憶があります。
(3)2020/08/17
再放送やレンタルビデオDVD、オンデマンド放送などがあるから世代としてひとくくりにする意味はあんまりないという指摘がたくさんありました。まさにそのとおりで、(再放送の)地域差と個人差はかなりありますね。私のウルトラ経験も大部分が再放送によるものです。
正直言って、このような話題でこんなにたくさんの反応やブックマークが得られるとは全く思っていませんでした。これほどまでにウルトラマンが多くの人に愛されているということなんですね。ある意味、恐れ入りました。
すでにブコメや言及で書いてあるけど、人に貸す場合を想定している。
で、次第にリビングに電話の居場所が移っていくわけだが、法律の制定や条約の締結とかと違って、各家庭の事情が絡んで「いつ」は言いにくい。
ただ言えることは各家庭に電話が普及するのと表裏一体の動きだということだ。
ところが、電話の普及ってのも技術革新と絡んで複雑な経過をたどる。
電話の普及は、ただ電話線が家に引かれることを想定するだけではダメという話。
「交換士あり」から「即時電話」(これには二つの意味合いがあって複雑なんだが)への変化を見なくてはならない。
私は北海道の事例しか調べたことがないのでそれを例にすると、市街地では昭和20年代後半から30年代丸々をかけて、まず「市内即時化」がなされていく。
これはある一定範囲の市内通話だったら交換士なしで自動で繋がるシステム。それまではトトロみたいに電話をつなぐ中の人がいた。
これを「即時化」とか「自動化」という。「即時化」「自動化」は地域ごとにボトムアップで進んでいく。中央から一気に御達しが出て一斉スタートになるわけではない。
その際に電話番語が改まる。それまでは電話の開通順で「1番」とか「8番」とか「53番」とか「104番」とか番号が割り振られていたが「即時化」で全ての番号が再編成され、私の調査値だと4XXXみたいな4桁の番号が新たに割り振られる。詳しくは忘れたけど、官公庁や公共施設はは2XXX、病院は3XXX、みたいにある程度分野ごとに割り振りがあったと記憶している。
今でも市内だったら全部の電話番号押さなくても下何桁かで連絡できるでしょう。それはこの時期に出来上がった技術。
今まで手動でしなければならなかったところが自動化されたことで、通信線が強化されつつ、電話が急速に都市に普及していく。
市内での即時化が完了したが、都市ごとの連絡には未だ交換士に繋いでもらうことが多かった。
これも次第に、時に市内自動化と並行して解消されていく。
例えば北海道なら札幌を起点に、札幌ー函館、札幌ー釧路、札幌ー東京、札幌ー大阪、函館ー釧路、釧路ー小樽……みたいに自動化がなされていく。なおこの順番は適当だぞ(道内では多分誰も順番調べた人いないんじゃないだろうか)。ともあれ網の目状に進んでいったという点に留意されたい。
都市間の自動化は、都市に固有の番号を割り振りそれを頭につけることで実行される。
戦後、農村部ではラジオの普及と電気・電話の開通が急務だった。
また北海道では、NHKが地理的にも経済事情的にも農業の勉強がかなわなかった農家に対して、朝早く(野良に出る前に)「ラジオ農学校」を開設しており、地域ごとに識者を読んで種まきや農作物の維持管理の啓蒙に努めた。不作や冷害の場合への対策も、時にラジオを通じて伝えられた。
農業の成果に直に関わるため、各地域の農家のリーダー役の人々は、請願運動をし、時に自分たちで出資して電気・ラジオ・電話を普及させていった。
農協から何キロも線を引っ張って、自分たちで電信柱を立てて、地元に情報をもたらそうとした。
こうした事情もあり、農村各地域に電話は限られ都市で自動化が進む時期においても電話を借りる、というシチュエーションは多く残されていた。
ラジオ・電気に遅れるも、おおよそ昭和40年代丸々をかけて、農村部でも電話は普及していく。
私が見たことのある昭和37年の北海道の事例だと、小学校の連絡先にその児童の隣のうちの名前と電話番号が書いてあったり、農協の事務所の番号が書いてあったり、電話ないけど学校から近いから直接連絡伝えてください、と書かれているものがある。
とってもわかりにくいんだけど、「即時化」と呼ばれる現象はもう一つある。
交換士が特に都市間の電話をつなぐ時、回線が限られており、相手先に繋がるまで相当待たされた。これを「待時」という。
場合によっては数時間かかる。いったん電話を切って、交換士さんからの電話を待つ。
数時間後、交換士さんから電話がかかってきて「〇〇さんとつながりました」と言われる。
それでようやく遠方の人と会話ができる。この現象がよく起こった時期は調べたことがない。
それで、この「待時」の解消も、時に「即時化」と呼ばれる。
この辺りの事情は連続テレビ小説「なつぞら」の考察をした人が最近詳しく書いている。
https://www.excite.co.jp/news/article/E1562427232846/
今生きる私たちも、ガラケーからスマホへの劇的変化の時代を生きている。
契約方法もどんどん変わる。誰もそれを詳しく記録していないし、きっと、全部は記録しきれないだろう。
個人的には、カメラ付き携帯がではじめた頃の数秒に一度しか画面が更新されないカメラから現在の自撮りの時代に至るまで、たったの十数年なのに隔世の感がある。
バブル世代は、バブル景気(内閣府景気基準日付第11循環拡張期、1986年(昭和61年)11月から1991年(平成3年)2月)による売り手市場時(概ね1988年(昭和63年)度から1992年(平成4年)度頃)に新入社した世代で、とりわけその時期が大学(4年制)卒業時と重なる1965年4月2日から1970年4月1日生まれを指す[1]。短大(2〜3年制)・高専(5年制)・専門学校(1〜3年制)卒であれば1966年4月2日から1973年4月1日生まれ、高校(3〜4年制)卒であれば1968年4月2日から1974年4月1日生まれまでが該当する。
作ったやつが元号でいいやと判断したら元号で取り扱う。そして、システムの修正というのは大きな手間がかかる。
例えば、昭和40年に最初にシステムを作ったとする。昭和が終わるのは遠いと感じるだろうし、当時は本当にITの様々な作りやすい方式なんてのもなかった。データ量の制約も厳しく、西暦の4桁ですらロスに感じた。
そうして昭和64年に元号が変わったが、昭和1-39年は使ってなかったから、昭和1-39年を平成に充てた。
で、令和になったが、さて、その年度は何年で取り扱うのかな?
ってか、そもそも、昭和1-39年のイレギュラーケースとして平成1-39年だとしていたことに気付けるかな?
うん、かなーりお馬鹿なケースだと思うし、銀行系でここまでザルなことはしてないとは信じたいが、関連しているシステムのどれか一つがこう言うバカな処理をしてたら、、、、?
山路という海苔屋のおっさんの仕掛けらしい。詳しくはここにある。
https://core.ac.uk/download/pdf/56643945.pdf
それでは実際の資料からはどうか。恵方巻は、その由来を鋭明するチラシや新聞記事では「江戸時代の末期から明治にかけて」の時期に誕生したと記述される場合が多い。これは、岩崎がまとめた由来からも分かるが、実際のところ、江戸~明治期にこの行事が存在したとする資料は今のところ見つかっていない。
これらの事実から推論を試みるならば、少なくとも大正期、戦前にはすでに存在し、大阪のごく限られた地域で行われていた風習であること、寿司屋がそれを利用して、古くからの伝統であるという触れ込みで販売促進活動を当時から行っていた、ということはいえるだろう。
その後、太平洋戦争の激化に伴い行われなくなったこの行事は、1949年、大阪府鮨商協同組合によって、「土用丑の日のウナギのかば焼」に対抗する販売促進手段として復活している。そして、戦後復興が進む1950年代に入ると、戦中の配給統制によって解散を余儀なくされていた海苔問屋の組合が統制の解除をもって再結成され、その販売促進の手段として、節分の巻きずし行事の宣伝に参加するようになる。宮下牽の『海苔の歴史』には、大阪海苔問屋協同組合が1951年の結成と同時に「巻きずしの丸かぶり」の宣伝を行い、大きな成果をおさめたという記述がある。この「大きな成果」がどれほどのものだったのかは分からないが、海苔業界復興の旗印として、巻きずしは喧伝されていたようだ。
その後海苔問屋協同親告は、すし組合とも連携してこの行事の普及に努める。昭和40年代前半には、協同で飛行機をチャーターしてビラを撒いたりもしたようだ。しかし、この試みは経費がかかりすぎたために1度で終わっている。
海苔組合の取り組みがより積極的になるのは、岩崎の聞き書きによれば1977年(昭和52)になってからだという。そもそも、1974年頃までは海苔の国内生産は需要に追いついておらず、韓国産で不足分を補う状況だった。それが、国内生産が増大によって韓国産への依存が減り、1977年にはついに国内産で需要が賄えるようになったのである。これから先、さらに生産が増加すれば今度は余剰分が発生する。そこで、これ以降海苔組合は毎年大量のビラを印刷して各地に配布し、さらなる普及へと乗り出すようになった。
そしてこの海苔組合の動きと前後して1976年(昭和51)に、「節分チャリティーセール」なるイベントが開始されている。このイベントのメインは、大阪ミナミの道頓堀で巻きずしの早食いを競うという「巻きずしの丸かぶり早食い競争」。一見馬鹿らしいこの競争が、この行事を関西における節分の定番行事へと押し上げるきっかけとなった。
仕掛けたのは「昭和会」という、大阪で商売をしている昭和生まれの海苔販売業者たちで組織された団体だ。その中心人物の一人であった宝海苔(本社・大阪市中央区)創業者の三男、山路昌彦氏によれば、海苔がたくさん取れるようになって何とか消費を増やそうと思って考え付いたアイデアなのだと言う。「食いだおれの街で早食い競争なんて、いかにも大阪らしくて絵になるし、黙々と巻きずしにかぶりつく姿がオモロイやんか」という彼らの発想は見事に当たり、マスコミを引き込んでの一大イベントヘと成長する。海苔組合によるビラでの周知と、マスコミに取り上げられた早食い競争。この相乗効果により、節分の巻きずしは関西の伝統文化として認知されるに到ったのである。
また、山路氏は取材に釆たマスコミに丸かぶりの由来をたずねられると、「ずっと昔からやっていたものだ」と答え続けたのだという。「それこそ風習なんてこうやってできていくもんやないの」と語る彼の見解からは、大阪商人が持ち得た巧みな伝統利用の視点を伺うことが出来る。
ということで、商売人の「オモロイやんか」が伝統ということではたしかに大阪の伝統なのだけれど、そこまで古風なものかというとそうでもなさそうだ。花街に由来することとかその後の伝統としての受け入れられ方とか、原論文はかなり面白いので、増田、ブクマカ諸氏にはぜひ読んでほしいと思う。