はてなキーワード: 山登りとは
おいオタク!オタクって書いてんのに趣味山登りとかキャンプって書いてるやつ!!
なんで!?インドアじゃなくない!?インドアです笑じゃん!ふざけんな!!!
キャンプ土だらけになるし煤とぶし飯まずいしほんと嫌いなのにオタクのキャンプBBQ好きは何?
汚れるだけでマジで嫌 海にしよう!頼むよ!ダイビングなら頑張ります!(?)
せっかく旅行に行くのに自分でなんかしなきゃいけないのほとほと嫌なんだよ
最悪サイ○リヤでもキャンプよりはマシやねん、そもそもサイ○はそこそこにうまい
変な飯自前で作られるよりサイ○でいい
ほんとオタクのキャンプ好き率まじで何?どこかにキャンプの嫌いなオタクいないんか?
キャンプとドライブの嫌いなオタク(車酔いする)、結婚しませんか?
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎ごうださぶろうは、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、一向この世が面白くないのでした。
学校を出てから――その学校とても一年に何日と勘定の出来る程しか出席しなかったのですが――彼に出来相そうな職業は、片端かたっぱしからやって見たのです、けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思う様なものには、まだ一つも出でっくわさないのです。恐らく、彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかも知れません。長くて一年、短いのは一月位で、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもない其日そのひ其日を送っているのでした。
遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棊しょうぎ、さては各種の賭博とばくに至るまで、迚とてもここには書き切れない程の、遊戯という遊戯は一つ残らず、娯楽百科全書という様な本まで買込んで、探し廻っては試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、彼はいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。諸君はきっとそう仰有おっしゃるでしょうね。ところが、我が郷田三郎は、不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、無論むろんその慾望がない訳ではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかと云いって、これあるが為ために生いき甲斐がいを感じるという程には、どうしても思えないのです。
「こんな面白くない世の中に生き長ながらえているよりは、いっそ死んで了しまった方がましだ」
ともすれば、彼はそんなことを考えました。併しかし、そんな彼にも、生命いのちを惜おしむ本能丈だけは具そなわっていたと見えて、二十五歳の今日が日まで「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死切れずに生き長えているのでした。
親許おやもとから月々いくらかの仕送りを受けることの出来る彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、彼をこんな気まま者にして了ったのかも知れません。そこで彼は、その仕送り金によって、せめていくらかでも面白く暮すことに腐心しました。例えば、職業や遊戯と同じ様に、頻繁ひんぱんに宿所を換えて歩くことなどもその一つでした。彼は、少し大げさに云えば、東京中の下宿屋を、一軒残らず知っていました。一月か半月もいると、すぐに次の別の下宿屋へと住みかえるのです。無論その間には、放浪者の様に旅をして歩いたこともあります。或あるいは又、仙人の様に山奥へ引込んで見たこともあります。でも、都会にすみなれた彼には、迚も淋しい田舎に長くいることは出来ません。一寸ちょっと旅に出たかと思うと、いつのまにか、都会の燈火に、雑沓ざっとうに、引寄せられる様に、彼は東京へ帰ってくるのでした。そして、その度毎たびごとに下宿を換えたことは云うまでもありません。
さて、彼が今度移ったうちは、東栄館とうえいかんという、新築したばかりの、まだ壁に湿り気のある様な、まっさらの下宿屋でしたが、ここで、彼は一つのすばらしい楽たのしみを発見しました。そして、この一篇の物語は、その彼の新発見に関聯かんれんしたある殺人事件を主題とするのです。が、お話をその方に進める前に、主人公の郷田三郎が、素人探偵の明智小五郎あけちこごろう――この名前は多分御承知の事と思います。――と知り合いになり、今まで一向気附かないでいた「犯罪」という事柄に、新しい興味を覚える様になったいきさつについて、少しばかりお話して置かねばなりません。
二人が知り合いになったきっかけは、あるカフェで彼等が偶然一緒になり、その時同伴していた三郎の友達が、明智を知っていて紹介したことからでしたが、三郎はその時、明智の聰明そうめいらしい容貌や、話しっぷりや、身のこなしなどに、すっかり引きつけられて了って、それから屡々しばしば彼を訪ねる様になり、又時には彼の方からも三郎の下宿へ遊びにやって来る様な仲になったのです。明智の方では、ひょっとしたら、三郎の病的な性格に――一種の研究材料として――興味を見出していたのかも知れませんが、三郎は明智から様々の魅力に富んだ犯罪談を聞くことを、他意なく喜んでいるのでした。
同僚を殺害して、その死体を実験室の竈かまどで灰にして了おうとした、ウェブスター博士の話、数ヶ国の言葉に通暁つうぎょうし、言語学上の大発見までしたユージン・エアラムの殺人罪、所謂いわゆる保険魔で、同時に優れた文芸批評家であったウエーンライトの話、小児しょうにの臀肉でんにくを煎せんじて義父の癩病を治そうとした野口男三郎の話、さては、数多あまたの女を女房にしては殺して行った所謂ブルーベヤドのランドルーだとか、アームストロングなどの残虐な犯罪談、それらが退屈し切っていた郷田三郎をどんなに喜ばせたことでしょう。明智の雄弁な話しぶりを聞いていますと、それらの犯罪物語は、まるで、けばけばしい極彩色ごくさいしきの絵巻物の様に、底知れぬ魅力を以もって、三郎の眼前にまざまざと浮んで来るのでした。
明智を知ってから二三ヶ月というものは、三郎は殆どこの世の味気なさを忘れたかと見えました。彼は様々の犯罪に関する書物を買込んで、毎日毎日それに読み耽ふけるのでした。それらの書物の中には、ポオだとかホフマンだとか、或はガボリオだとかボアゴベだとか、その外ほか色々な探偵小説なども混っていました。「アア世の中には、まだこんな面白いことがあったのか」彼は書物の最終の頁ページをとじる度毎に、ホッとため息をつきながら、そう思うのでした。そして、出来ることなら、自分も、それらの犯罪物語の主人公の様な、目ざましい、けばけばしい遊戯(?)をやって見たいものだと、大それたことまで考える様になりました。
併し、いかな三郎も、流石さすがに法律上の罪人になること丈けは、どう考えてもいやでした。彼はまだ、両親や、兄弟や、親戚知己ちきなどの悲歎や侮辱ぶじょくを無視してまで、楽しみに耽る勇気はないのです。それらの書物によりますと、どの様な巧妙な犯罪でも、必ずどっかに破綻はたんがあって、それが犯罪発覚のいと口になり、一生涯警察の眼を逃れているということは、極ごく僅わずかの例外を除いては、全く不可能の様に見えます。彼にはただそれが恐しいのでした。彼の不幸は、世の中の凡すべての事柄に興味を感じないで、事もあろうに「犯罪」に丈け、いい知れぬ魅力を覚えることでした。そして、一層の不幸は、発覚を恐れる為にその「犯罪」を行い得ないということでした。
そこで彼は、一通り手に入る丈けの書物を読んで了うと、今度は、「犯罪」の真似事を始めました。真似事ですから無論処罰を恐れる必要はないのです。それは例えばこんなことを。
彼はもうとっくに飽き果てていた、あの浅草あさくさに再び興味を覚える様になりました。おもちゃ箱をぶちまけて、その上から色々のあくどい絵具をたらしかけた様な浅草の遊園地は、犯罪嗜好者しこうしゃに取っては、こよなき舞台でした。彼はそこへ出かけては、活動小屋と活動小屋の間の、人一人漸ようやく通れる位の細い暗い路地や、共同便所の背後うしろなどにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われる様な、妙にガランとした空地を好んでさ迷いました。そして、犯罪者が同類と通信する為ででもあるかの様に、白墨はくぼくでその辺の壁に矢の印を書いて廻まわったり、金持らしい通行人を見かけると、自分が掏摸すりにでもなった気で、どこまでもどこまでもそのあとを尾行して見たり、妙な暗号文を書いた紙切れを――それにはいつも恐ろしい殺人に関する事柄などを認したためてあるのです――公園のベンチの板の間へ挟んで置いて、樹蔭こかげに隠れて、誰かがそれを発見するのを待構えていたり、其外そのほかこれに類した様々の遊戯を行っては、独り楽むのでした。
彼は又、屡々変装をして、町から町をさ迷い歩きました。労働者になって見たり、乞食になって見たり、学生になって見たり、色々の変装をした中でも、女装をすることが、最も彼の病癖を喜ばせました。その為には、彼は着物や時計などを売り飛ばして金を作り、高価な鬘かつらだとか、女の古着だとかを買い集め、長い時間かかって好みの女姿になりますと、頭の上からすっぽりと外套がいとうを被って、夜更よふけに下宿屋の入口を出るのです。そして、適当な場所で外套を脱ぐと、或時あるときは淋しい公園をぶらついて見たり、或時はもうはねる時分の活動小屋へ這入はいって、態わざと男子席の方へまぎれ込んで見たり、はては、きわどい悪戯いたずらまでやって見るのです。そして、服装による一種の錯覚から、さも自分が妲妃のお百だとか蟒蛇お由よしだとかいう毒婦にでもなった気持で、色々な男達を自由自在に飜弄ほんろうする有様を想像しては、喜んでいるのです。
併し、これらの「犯罪」の真似事は、ある程度まで彼の慾望を満足させては呉れましたけれど、そして、時には一寸面白い事件を惹起ひきおこしなぞして、その当座は十分慰めにもなったのですけれど、真似事はどこまでも真似事で、危険がないだけに――「犯罪」の魅力は見方によってはその危険にこそあるのですから――興味も乏しく、そういつまでも彼を有頂天にさせる力はありませんでした。ものの三ヶ月もたちますと、いつとなく彼はこの楽みから遠ざかる様になりました。そして、あんなにもひきつけられていた明智との交際も、段々とうとうとしくなって行きました。
新作ゲーム初めて1週間もするとゲームうま左衛門が次々隠しステージをクリアしただの裏ボスを倒しただのと語りだす。
スコアや装備を見ると恐ろしい数のAやらSSやらが並んでいる。
その頃の自分はまだCだとかDだとかをウロウロしていて、そもそも本編のクリアもおぼつかない状態だ。
だがネット回線を引っこ抜かない限りゲームうま男の情報は入ってくる。
そしてゲームうまノイドは次々に最前線の攻略情報を語り合い、本編のクリアなんて出来て当然で、むしろ本来の目標のためなら捨てていい要素として扱われだしていく。
んでもって少ししたら「じゃあもうやれることもないしクリアでいいか」と彼らは去っていく。
自分はゲームうまスキーがしゃぶり尽くしたゲームをまだやっている落ちこぼれとしてゲームの中に取り残され、それでもなおゲームからは「さすが勇者様」と持ち上げられるのだ。
孤独だ。
必死にクリアしてようやくたどり着いた場所に、無数の足跡が残り、その足跡の先にゲームへた奴では絶対にたどり着けない天空への道を渡った跡さえ残していく。
山登りの最中に物凄い勢いで走るトレイルランナーに出会ったような、ようやく登った山の頂上でちょろいちょろいと汗一つかいてないマッチョに出会ったような、他人が軽々と飛び越える姿によってハードルの価値が目減りする瞬間がある。
一見、多くの若い男が経験する「女遊び」の延長のように見えて、独自の生態系が面白かったので記録。
一言にナンパと言っても、目的や方法によって、いくつかのタイプがある。
複数に属していいたり、タイプが違っても気が合えば合流したりするので、うっすらと別れている感じ。
彼らの多くはTwitterアカウントを持っていて、地域や属性ごとにクラスターという集団を作っている。
(コロナが流行る前にTwitterでライトにこの言葉を使っていたのは、ナンパ界隈とSHARPくらいだと思っている。)
なぜ集団を作るかというと、ひとりでやるのが辛いからである。ナンパというとチャラチャラしている遊び人みたいなイメージがあるが、実は大手企業のサラリーマンや公務員など、真面目な人が多い。彼らは暑い日も寒い日もひとりで街に出て、自分の目的のために淡々と声をかける。楽しいことなんてない。道で知らない人に声をかけるということ自体、かなり精神負荷が高いし、シカトされたり舌打ちされたりして、気持ちが滅入ってしまう。だから合流する。同士と話して、お互いに励まし合う。
俺もよく合流したが、何人かで集まり、「最近はどうですか?」「お互いがんばりましょう!」と近況報告をしたり、励まし合ったりして、その後また散り散りになって街に消えていく。会話だけ聞いていると、まるで休日に趣味の山登りに来たおじさんが、すれ違いざまにする会話みたいだった。
ソロナンパを楽しむには、高確率で成果が出せなければならない。多くの人にとって、辛い、厳しいことが多い。だから、合流で書いたみたいに、スキルアップ・自己啓発として山登りのようにやってる人が多い。1on1で相手の心に深く入り込む技術が求められる。慣れれば一番成果が出やすい。(複数人の場合、女の子は自分の気持ちより、友達の目を気にするため)。
グループナンパは歓楽街やクラブの近くでグループに対して声をかける(コンビが多い)。とにかくノリと勢いと容姿が大切で、楽しそうな雰囲気を作り出し、そのままホテルに持ち帰ったり、自宅に呼び込んだりする。結果、4Pやクルクル(相手を交換して2回セックスする)をして、非日常的な体験ができる。パス即(即したあと別の人にパスして即)なんかもよく聞く。もちろん女の子も同意のもと。自己啓発的な要素よりも遊び要素が多く、楽しい。
→パス即の5連続とかも聞いたことがあるから、その女の子は同じ日に5人の男に抱かれていることに…、そういう女の子はノリノリで来るらしい。
そこそこ田舎の静岡県東部、東海道線のまわりは本当に住みやすいと思う。
日帰りで海も山も行けるし、もちろん泊まりでも、時間が有効に使える。伊豆も箱根も富士山周辺も、ゆっくり朝出れば昼にはつく。帰りも大和トンネルの渋滞関係ないし。
一戸建てもそこそこ余裕ある建て方できるから、春秋はバーベキュー、夏はプールをどこのうちでもやってる。別にやらなくてもいいけど。
冬は・・・あまり外にはでないけど、雪が降らないのがいい。本当に降らない。「冬型の天気です」とか、「日本海側では大雪です」なんて日はだいたい快晴。そんな日は富士山がよく見える。昼間は暖かいのと、車社会だから、ダウンコートいらない。なんならニットで買い物くらいなら行ける。
あと、都会が恋しくなったら、東京、横浜もそんなに遠くない。新幹線で通勤する人もいるから。終電まで飲むってなると早めだけどね。
子育てに関しては、都会での保育園争奪戦はなんだったかと思う。名古屋でしばらく住んでいたときは保育園は入れなかった。でも、この辺なら、一番近くにスムーズに入れた。三人目が産まれるときには保育園の先生から「いつからいれるの?」って産まれる前から聞いてもらえた。近所の公園もすいてるから、こどもとキャッチボールをしたり、サッカーしたりはいつでもできる。日曜日でもの昼前だと誰もいない。朝は老人がいる。大きな子のボールが、幼児に当たって・・・みたいなことは起きないくらいの密度。
田舎のしがらみっていうけど、町内のゴミの掃除とかその程度。自分たちみたいに新しく引っ越してきた人もいるし、昔からの農家の人もいる場所だけど。
子供と山登り、キャンプ、海水浴、釣り、なんでもすぐできる。大人だけなら、ゴルフやテニス、バイクのツーリングもいいし、マリンスポーツも近い。
家の物置きやガレージに趣味のものをたくさんおいてる人は結構いる。インドアの趣味も、ホームシアターや楽器も音をそんなに気にしなくてもいいし、趣味の部屋も作りやすい。本もたくさん置ける。
山登り1:1528kcal
山登り2:2628kcal
冬用の靴で行ったら足は重いし鎖場は登れないしで散々だった
アイゼンとか使わないのなら夏用の靴のほうがいいな
PCはwindows updateがうまく行かなかったので上書きインストール? 修復インストール? まあとにかくもう一度上からwindows 10を上書きする形でインストールした
今のところうまく行ってるような気がする
少なくともwindows updateはうまく行った
なわとび:601回
徒歩:107.8kcal/3523歩
ウィービング完全に理解した
あれはしゃがんだ後にちゃんと立ち上がることで判定が入る
しゃがみが中途半端でも、ちゃんと立ち上がりの動作を入れれば判定される
徒歩の時間を短縮してなわとびの回数増やしたほうが効率がいいのでは&心肺機能向上に役立つのではと考えて、少し運動の配分を変えてみる
山登り二日間してみて、なわとびによる心肺機能の向上がものすごく実感できたので
(あと、なわとびは100回とんでも1分とかからんしな)
それにしても、600回とんでも全然疲れなくなったので、ちゃんと鍛えられているんだなあとつくづく思う
https://twitter.com/kuko222/status/1284065308752277504
同じ作者の『ロリータ飯』↓を買って読んだ
https://comic.pixiv.net/works/6682
https://twitter.com/kuko222/status/1288413995490086912
このひとは小話っぽいのだと明るいギャグ調でまとめるけど、長い話にするとアイデンティティに悩むややウェットな話を描く作者さんっぽい
で、たぶんだけど、この作者さんはまだそんなに手持ちのお話の引き出しが多くなさそうなので、もしかするとこの後の作品も湿っぽいアイデンティティの話がワンパターン気味に続くんじゃないかという気がする
仮に同じ展開が何度も何度も続くようなら食傷するだろうけど、それはそれとして『ロリータ飯』自体はわりと面白かった
ロリータファッション好きで大食らいのカロリータ(仮名)が、ロリータ道と食欲と恋の間で揺れ動くラブコメ漫画
前述の通り、ロリータファッションが好きで、何があってもそれを着続けて、そういった服装にふさわしい振る舞いをしようと心がける主人公のアイデンティティといわゆる「世間」との間の葛藤がわりと湿っぽく描かれる
「たくさん食べる君が好き」な彼氏くんがいい子
6歳の我が子の事だが、成長が早すぎる気がして心配してる。
6歳なのだが、何かと私のまねをしたがるものだから、私の書架を漁って司馬遼太郎を読んでるし、私が勉強するときに一緒に勉強したがって既に連立方程式を解くことが出来る。
余りに理解が早いものだから、悪いことでもないと面白がって教えてしまうのが良くないのだろうが、知的好奇心を飢えたまましておくのも・・・と思い暫くは知りたいことを知りたいまま教えていた。
勉強をあまり進めてもまずいと思いなおし、将棋を教えたところメキメキと力をつけて、私も既に二枚落ちでは手こずる様になってきた。
子供らしく動物博士とかにでもなってほしいと思って、犬を飼い始めたが効果は乏しく、私のジョギングパートナーが出来ただけに終わっている。
そもそも「河井継之助が学んでいたという陽明学の和訳を読んでみたいから、図書館へ連れて行って欲しい」などと休日にねだるし、
バラエティーよりはドキュメンタリーを好んで見るような子供が公立の小学校で同級生と会話なんぞ成立する訳がないし、
大人ですら手に余るほど将棋が出来る子が同級生と将棋をやっていても楽しい筈もない。
なので、必然、孤立しがちになるし、本人も同級生よりも大人相手に問答してる方が楽しいと感じていて、それを気にもしてない。
正直なところ、この子の未来に不安を感じてしまう。早熟はいいとばかりは言えない。
小学校に上がる頃には自分は人と違うと自覚していた私よりも余程に成長がはやいのは問題がある。
親としては、子供らしくサッカーや野球でもやって、泥まみれになって帰ってきてほしいんだが、
バットやサッカーシューズよりも、中学数学の参考書が欲しいという子なので困るのだ。
将来の事を思って子供の間は外に連れて行かねばと思って、サッカーに誘ったり、山登り、キャンプなどに連れ出したりしてるんだが
私自身がインドア派で家で勉強でもしてる方が楽しい人間だから、親が好きでもないものは、なかなか子供には浸透しないものだ。
近頃はTVゲームなんかをかなり用意して、友達を家に連れてこいと言って同年代の友達でも出来ないものかと期待してる。
私も9歳くらいになると友達とサッカーをすることが他の何よりも楽しくなっていたので、我が子にもそうなってほしいのだ。
スポーツをすれば自分には出来ない事、上手くいかない事、自分だけが凄くても勝てない事の連続で、多くの事を学んでくれる。
大学受験の時期が来れば、この子も、どの大学だろうが志望校に入る位は苦も無く出来るとは思うし、今は勉強は全く大事ではない。
あと7,8年くらいは勉強なんかしないで、TVゲームで遊んでばかりで、悪戯でもしては大人に怒られまくる位でいいし、
中学生になれば彼女でも作って、どうすれば彼女とキスできるか知恵を絞る位でいいのだが、
子供というものは、なかなか親が思うようには育ってくれないものだ。
妻は、アホの子なんてとんでもない、今のままでいいなんて呑気な事をいっているが、私は非常に心配だ。
私の父も同じような心配をしていたのだろうか・・・と考えると、なんとも楽しい気分にはなるんだが、笑ってばかりもいられない。
ブクマが大量についてて驚きました。
ギフテッド教育やお受験は当然のこと選択肢にはあったけど、夫婦で話し合い特別なことをあえてしない事にしました。
そこには当然、良し悪しはあれども親である私の経験からくるものもあります。
私自身、大学に行くと決めるまでは1分も学校の勉強にいそしんだ事はないけれど
「色はなぜ見える?」「鳥や飛行機はなぜ飛べる?」
といった好奇心を満たすための書籍漁りや、それを読むために必要な勉強は幼少期から嫌わなかったというのもあります。
一方で水泳教室やら書道に通わされて、自分が上手く出来ない事が悔しいという思いをしたことも今となれば有難かった。
大学受験程度であれば、苦労なんてする必要もないし、また彼は苦労はしないでしょう。
それよりは普通の学校で色んなタイプの友達に出会い、海外旅行へ行って見聞を広めたり、友達とキャンプへ行ったり、サッカーやったり
恋愛したりで人としての裾野を広げて欲しいのが我が家の教育方針です。
なわとび:401回
徒歩:188.9kcal/6221歩
随分と間が空いてしまった
早見沙織にも久しぶりと言われる
この前の休みに山登り行くので、その準備とか後片付けとかでドタバタしてたら、すっかり生活パターンが狂ってしまって運動ができなかった
でも、フィットボクシングやってたおかげで久々の山登りでもあんまり息切れを起こさずに最後まで登れたので良かった
ありがとうフィットボクシング(なわとびの効果も結構大きかったと思うけど)
windows10なんだけど、相変わらず起動が超不安定で色々試行錯誤しているところ
サインインしてちょっとすると画面が映らなくなって(モニタが消えてしまう)どうしようもなくなる謎現象とかもあってもうまじ無理新しいの買い直そうかなってくらいには悩んでる
windows7のとき、radeonのドライバが悪さしてフリーズすることがあったんで、もしかしたら今回もビデオカードのドライバかなと思って、昨日geforceのドライバをゲーム用からスタジオ用に切り替えてみた
スタジオ用のドライバのほうが安定しているという触れ込みだったので
今日は不具合もなく起動したので、できればこのままうまく行ってほしいのだけれど
OSとしてのwindows10は、なんだかんだ言って8の正統後継者という感じがあって結構好きになれそう
スタート画面を全画面にしてタイルだけを表示するって設定もあったし、8でちょっと混乱してたスマホ風アプリとデスクトップPCのかみ合わせの悪さも解消してるっぽい
Edgeもchromeの拡張とかを取り込んでちゃんと設定してやれば、そこそこ使えるし、デフォルトのメーラーもまあ悪くない気がしている
8での経験を経て、スマホのUIの利点を取り込むことにやや成功してきた感じ
触っていて楽しい
連休最終日の夜になってやっと客の入りが正常化した。それまでは連日昼夜問わず激混み状態だった。だからといって商品をいつもより多く発注するという訳にはいかなかったらしく、ここ数日は夕方になると弁当が早々に売り切れてしまい、せっかく来店したお客様が何も買わずに帰るということがよくあった。
昼間は他県ナンバーの車で来るお客様が多かったというが、夜は近隣在住か通勤途中に寄るような常連のお客様が多かった。
金曜・土曜の深夜は子連れ客が多かったらしい。元々、金曜夜は子連れのお客様が多い。大抵2歳未満の幼児を含む家族連れで、何でそんなに小さい子を連れて来るのかといえば、子供が寝ないからだろう。それくらいの年頃の子供は寝つきがよくないし、保育園でガッツリ寝て来るので夜10時くらいはまだ元気一杯なものだ。
この連休の間に来た夜遅くの子連れのお客様はそういうタイプではないだろうとAさんは言った。どうやらどこか観光地か親の実家か、遠方に行く途中の人達で、夫婦交代で夜中に運転し続け、子供達は朝まで車内で熟睡。そういうパターンだろう、と。まあそういうのもアリかもしれない。ただそのパターンって海のシーズンが主ではないかと思うが、キャンプとか山登りとかでもあったりするのかなあ?
私の知人が夜10時頃に一人で幼い娘さんを連れて来店。知人は、
「ああ、育児が辛いよぉ!でも子供一人だけしかいないのにこんなに辛い辛い言ってちゃダメだよねぇ。増田さんちなんか二人もいるのに頑張ってて偉いよねぇ。私はもうダメだぁ~~」
って嘆くので、私は、
「いやいや、一番目が一番辛いし大変なんですってば」
って言ったら、
「そう!?そういうもん!?そうかなあ!?私ダメじゃない!?」
って少し安心した感じで帰って行ったのでよかった。
丁寧な説明をありがとうございます。カメラとしての操作系とかファインダーの見やすさなどを考えるなら、今まで使っていたCANONのEOS 80Dの方が良かったような気がします。ただ、山登りとか長期の海外旅行などで首にぶら下げて歩くときの負担感が半端でなかったので、軽いカメラを求めてα6600を買った次第です。
カメラ屋で相談したときは、私の手持ちのレンズと今まで使っていた機種からしてEOS 90Dを推されたのですが、「それじゃ今までと何も変わらない」と思ってソニーにしました。カメラ屋は有無を言わさずマウントコンバーターを付けてきました。その時は高倍率のキットレンズが付いてきただけでそれ以外のEマウントレンズが手元になかったので良い買い物でした。
私は某写真サークルに属していますが、その中でも熱意や腕前やセンスの違いがあり、一所懸命早起きして有名撮影スポットに出かけ、極力人のいない時間帯に撮影に行って写真を撮ってくる人はマイクロフォーサーズ機でも素晴らしい作品を生み出すことができます。
私はそこそこの機材を持っているつもりですが、「アマチュアなのに睡眠時間を犠牲にして撮影に行くのは無駄」程度の熱意しかないので、仮にお金をかけてフルサイズ機を揃えたとしても、そんなに良い写真を撮れる気がしないのです。
むしろ高性能のカメラを追求するより、気楽に持ち歩けるカメラを持つことで、シャッターチャンスを逃さないとか、身近なところで良い被写体を探す努力をした方が良いのではないかと思っています。その写真サークル内にソニーのフルサイズ機ユーザーが何人かおり、その動体撮影性能に感動したのでソニーにしたところはありますが、フルサイズ機を持つことにこだわるあまり機材が重く、持ち歩くのが負担になってしまったら意味がないと思います。
フルサイズ機と大型レンズの組み合わせの方が高画質の写真は撮れると思いますが、小型軽量というのも重要なスペックだと思います。いただいたアドバイスに対するお答えにはなっていないかも知れませんが、とにかく今ある機材を使い倒すことから始めるのが良いと思っています。「やっぱりフルサイズが良い」と思ったらそれから買えば良いのです。水族館のように光の少ないところで撮ると「APS-C機はノイズが多くてイヤだ」と思いますが、光が十分にある屋外で撮るならば、軽くて持ち歩きが苦にならないというのは大きなメリットです。
ソニーからCANONに戻すとか、ソニーのフルサイズ機を買い足すとか選択肢はいろいろありますが、外出自粛期間からのリハビリとしては、とにかく軽いカメラで写真を撮る習慣を取り戻すのが大事だと思っています。自分でも何を言いたいのかだんだん分からなくなってきましたが、画質オタクになるよりも撮りたいものを撮ることを優先したいというのが今の気持ちです。
趣味は登山(結婚したら冬山や夏の定着はやめる。)、海外サッカー観戦、料理(週末にこった料理作っても食べてくれる人がいないのが悩み。家族に作りたい。)
俺が求めるのは
・35歳まで
・年収600万円以上
20代なら、30前半でこのくらいの年収見込みの人になる。これくらい稼げないと、今の東京で子供を育てながら普通の生活はできない
・マーチ以上(できれば)
付き合うならバカでも可愛いかもしれないけど、結婚するなら子供の教育のこともあってマーチは最低限。早慶が理想。
・元気な両親が東京に住んでいる(できれば)
子供を育てながら、共働きする場合は、妻の両親の助けが必要になる。自分の両親は東京に住んでいておそらく協力してくれるが、妻の両親も東京に住んでいる方がベスト。
・デブじゃない
身長にもよるが、体重60kg超えているような女は無理。自己管理ができていない。スポーツやっていて体格いいひとは別。
丁寧な暮らしはどうやっても破綻するから。料理は手作りじゃないとダメとか、シッターを雇うのはダメとかいうそうゆう価値観を持っていない人。
・肉食べる人
俺は肉好きだから、ベジタリアンやビーガンみたいな人だと、食生活がストレスになるから。
・家事を半分してくれる人
そうしないと俺が死んでしまう。
マッチングアプリで婚活しても、全く出会えない。あなたの給料で生活しましょうとかいう、寄生虫ばかり集まってしまう。
実家が太いとかじゃない限り、結婚相手が専業主婦になるのは大きな損失。母親が専業主婦だったのを見ていると、妻には仕事してもらいたいと思っている。どうしても嫌になったら別だけど。
趣味で知り合えばと思うかもしれないが、山登りしていてテン場などで知らん人と話ししても出会いには繋がらない。たまに一緒に登る人の中で女性は、自分の母親ぐらいの年の人しかいない。
高望みなのでしょうか。
こういうツィートを見かけた。 お爺ちゃんの怒りわかるわー 次の戦争の時は気をつけるわー ってなったんだけど、これに噴飯物のクソリプが付いてたんだよね。
円卓のサー・アーノルド卿(公式)さんはTwitterを使っています
「いまだに、忘れられない戦争体験の講演がある インパール作戦に参加した元帝国陸軍歩兵のお爺ちゃん 「皆さん、他のなにが苦手でもいいから、
国語の勉強だけはしっかりしなさい。偉い人が国語ができないと、『歩兵砲というから歩兵が担いで山を登れる大砲に違いない』なんて馬鹿な間違いを
するから」」 / Twitter https://bit.ly/3az1knh
「ありゃ、馬に!曳かせる!ものなの!! 歩兵の為に使うから歩兵砲って言うだけなの!! バラして歩兵が担ぎ上げて山登りとか馬鹿なの!! って、
何十年も経ってたろうにお怒りが止まなかった」 / Twitter https://bit.ly/3h7BWaW
「お爺ちゃん「若い皆さんが、ちゃんと勉強をして、将来偉くなったら、次の時はあんな馬鹿な負け方は決してしないでしょうから」とか言い出して
先生が慌てて止めに入るものの、お爺ちゃん耳が遠いので聞こえず話が止まらないという 大変ライブ感がある戦争体験講話だったのよ」
で、これに付いたリプライ(の一つ)がこれ。 この手の人間によくある、自信たっぷりな説教口でw
「@wellkin1945 @iwashidukushi 山砲=歩兵砲は人力でも搬送が可能な点が大きな特徴です! (・ω・)ノ
四一式山砲」 / Twitter https://bit.ly/322NdD6
お爺ちゃんも元のツィート主も、歩兵砲が分解されて駄載、あるいは臂力搬送されることぐらいわかってて、でも「文書にできるからと書いてあったって、最高峰が3000m級のアラカン山脈を超えさせるとか頭おかしいだろ! 陣地変更で臂力担送するのとはわけが違うんだぞ!!!」って話をしているのよね。 でも馬鹿だから全然それがわかってなくて、色んな人が指摘するんだがお答えはこの通り。
「@banzai0213 @OJB_koara @wellkin1945
旧帝国陸軍歩兵操典 https://t.co/bXEcF7Zkhr
大東亜戦争資料 九二式歩兵砲 https://t.co/oa1FW8a8YW
当時の日本の経済力、工業力では日本陸軍の全ての歩兵砲小隊に行き渡る十分な数の車両を整備する事が出来なかったのですよ だから駄馬か
人力運搬が大前提になるのです 当時の実情分かってる?」 / Twitter https://bit.ly/3iRCTog
恐らくこれで「論破」したつもりになっているのだと思う。 お爺ちゃんが怒ってたのが、まさにこういう「wikipediaに分解駄載できる、臂力担送できると書いてあったから、ビルマでのアラカン超え(またはニューギニアでのスタンレー超え)はおかしくない」って考えてしまう様な馬鹿なんで、これじゃお爺ちゃん死んでも死にきれないだろ。