はてなキーワード: 助長とは
三浦瑠麗氏の炎上についてなのだが以下の記事に対する氏の反論にツッコミどころがあったので書く。
http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/12/ruri-miura_a_23359021/
『一般的に、テロリストは都市部にこそ潜伏しやすいものです。また、アメリカの9.11テロのように第2の都市を攻撃対象として狙う可能性があります。いきなり首都への攻撃だと全面戦争を招きかねないからです。つまり、そうした条件を考え合わせると、日本では大阪が危険ということになるわけです。
しかも大阪は1980年代に、北朝鮮の工作員による拉致事件が起きたことがあります。こうしたことから、東京だけが狙われていると安心しきってはいけない、むしろ大阪のような大都市こそが危ないということを伝えようとした発言でした。番組のMCの皆さんも大阪に縁のある人ですしね。仮にこのレベルの発言が難しいのであれば、この国で安全保障について議論をするのは正直、不可能です。
また、在日コリアンに対する差別や偏見を助長するというTwitterの反応についても、私は番組中、在日コリアンがテロリストだなんて言っていません。逆にそういう見方を思いついてしまう人こそ差別主義者だと思います。
いずれにしろ、発言の趣旨は、アメリカがNPR(核態勢の見直し)を公表し、小型化した核兵器の先制使用を辞さない方向にかじを切ったけども、スリーパーセルの危険性があるので北朝鮮に先制使用してはならない、ということです。それなのに、こうした反応になるのは、番組をよく見ていなかったか、よほど、うがった見方をしたのか。理解できません。』
以上引用終わり。
明らかに三浦氏は在日朝鮮韓国人が多いから大阪は気をつけろという意図で発言していたのだろう、首都ではなく第二の都市が危ないから注意を喚起したなどと言っているがユナイテッド航空93便テロ事件は首都ワシントンを狙ったものだった。
チャップリンは、自分の映画の出演女優ミルドレッド・ハリス(16歳)に手を出し妊娠させたというスキャンダルが発覚し、急遽できちゃった結婚をしたが、この妊娠話自体が狂言であった。
次の結婚も、自分の映画の出演女優リタ・グレイ(16歳)に手を出し、本当に妊娠させての出来婚である。
好きになったら年齢は関係ない!
#ロリコン
#禁断の愛
#許されざる恋
#純愛
日本人の体格は江戸時代の後期が最も身長が小さく成人男性平均が150cmだったが、戦後の栄養状態改善で体格は大型化した。これに伴い思春期も早期に発現するようになり、女子は初経年齢つまり性成熟の時期も早期化した。
つまり13歳くらいで結婚していた昔の方が、未熟な子供に欲情していた。
「心を開こう、誰にでも」
必ず両想いになれるなんてことはない。というかむしろ、両想いになれる確率の方が少ない。でもいいじゃない。好きだって。https://twitter.com/ren_i_bot/status/817637053294788608
誰だって、好きな人のことを幸せにしたいって思ってるんじゃないかな。
https://twitter.com/ren_i_bot/status/817788049253765120
君は君らしく生きていく自由があるんだ
#大人たちに支配されるな
誰かと違うことになにを躊躇うのだろう行動をしなければNOと伝わらない
NOと言いなよ
「nudist」をGoogle先生に聞いてみると、けっこう若い女性とか老若男女の裸体を見つけてきてくれるぞ!
nudistは楽しく爽やかなことなので、児童虐待等に当てはまる訳が無いと、児童ポルノには厳しいGoogle先生も公認だぞ!
ヌーディストって基本的にエロではありません。小さな子供連れでヌーディストビーチに来て開放感を楽しむ方も多いです。
子供も映ってるヌーディストのビデオってヌーディスト団体自らが販売していて、欧米では文化として合法になっています。
「メイジーの瞳」という映画らしいです。
素敵ですね。
pic.twitter.com/RDfIgRETsk
Youにゴチュウサの絵を踏ませ、踏んだら児童虐待者として逮捕し、踏まなかったら児童ポルノ愛好者として逮捕だっ!!
#ロリコン
pic.twitter.com/GDHwwGzawz
子供時代にレイプ被害にあったある女性は「子供に対する性暴行事件を起こすのはポルノではない。ポルノの有無にかかわらず、そのような嗜好を持つ人が犯罪を行う。当局はインターネット監視をやめて、外に出て本物の犯罪者を捕まえるべきだ」と述べた。出世目的の警官が効率よく偽犯罪者を捕まえる
韓国のアチョン法でマンガアニメが児童ポルノ扱いされるようになって
2012年に韓国警察が児童性犯罪に関連して捜査に着手した事件は2224件
漫画規制が盛り込まれる前に比べて22倍に増えた。捜査対象者の相当数が学生や女性である。
明治16年福岡県統計書の現住結婚者年齢ノ對照(国立国会図書館デジタルコレクション p.51)
妻年齢15歳未満と夫年齢18歳以上は564組
妻年齢15-17歳と夫年齢18歳以上は1428組
妻年齢18歳以上と夫年齢18歳未満は101組
夫婦共に18歳未満は697組
全7072組
2011年に日本性教育協会が全国の7682人の学生にアンケート調査したところ
が性交経験済みという結果になった。
性的同意年齢は13歳ですが、性行為は青少年保護育成条例で禁止されています。
これって逆に言えば青少年は管理されないと自己判断は全て信用できない。と言われてるわけで、
まあ騙したり脅したりする大人は100%悪いのですが。
セーラームーンは、日本でも海外でも女の子から大人気のアニメですが、
主人公のセーラームーンの正体は中学2年生で、恋仲のタキシード仮面の正体は大学生です。
#ロリコン
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http://masterbiero.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
l o l i-con光源氏の完成だ!
#年号
光源氏18歳の時に、9歳ぐらいの美少女を見つけて連れ帰り、理想の女性に育て上げつつ添い寝をして暮らしていたが、5年後に性行為におよんだ。
ピュリツァー賞の写真を「児童ポルノ」として削除 Facebookが検閲撤回へ
#ロリコン
http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/10/kiddie-porn_n_11946664.html
#ロリコン
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小 ( ゚д゚) 吾り
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( ゚д゚) 小五ロり
(\/\/
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現代でも一部のポリネシア社会では12歳を過ぎると性行為の同意能力があるとみなされ、多くの女性が12歳から15歳の間に初出産を経験するという伝統が受け継がれている
常に妊娠出産を繰り返し、初潮を経験しない者も少なくない
割合は少ないけど、おじさん好きの女子中高生もいるんですよ。
ロリコンを犯罪者予備軍として差別することは、彼女たちも犯罪者予備軍として差別することにもなります。
昔は15歳ともなれば世界中で大人として扱われ、結婚することができた。
15歳の人とのセックスはダメ!犯罪!ということに世界中でなったのは、ここ20~30年の間の変化である。
#ロリコン
20~30年前の日本では、オカマはキモいやつ、ロリコンは若い子好きのスケベ、小児性愛者は変態という扱いだった。
今やオカマは社会的に配慮されるべき健常者に格上げされ、ロリコンや小児性愛者は犯罪者予備軍に格下げである。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
しかし、全ての自分の嫌いなものを法律で縛るという考え方は間違っています
嫌いだからと法規制するのは、それを好きだと思う少数派の権利の侵害です
ゲイの友人がいたとしても、その人のいないところでホモネタで笑ってたら「寛容」とは言えない。
小児性愛者の友人がいたとしたら、「寛容」に接するのだろうか
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
安倍死ね→許される
フランスでは、1994年に実在する未成年者のポルノ写真の製造配布が禁止された(それ以前は児童ポルノは合法だった)
マルク・デュトルー事件をうけ1996年に仏マスコミはペドフィリアに対するモラルパニックに襲われ
児童ポルノの描画は1998年に、単純所持は2002年に禁止された
文化人類学者による無文字社会の民族研究では、女性の平均初婚年齢は15歳くらいである社会が多いことが明らかになっています。文明社会でいわゆるロリコンがタブー視されるようになってきたのは、高学歴化によって女性の社会的自立可能年齢が上昇したからです。
児童の合意を得たと言えるのはどのような条件か
等を議論すべき
この手の話題はキモイって言う人多いけど、現実で面と向かって言われたら「お前も○○な部分キモイじゃん」って100%反論できそう
キモイ部分は誰にでもある
ネットは、誰しも自分のキモイ部分には目を瞑り、他者をキモイと呼ぶことで対照的に自分はキモクないと言い聞かせられる
自戒を込めて
少子化の今、児童誘拐なんかの事件が多発している現代では子供の身が危惧されている。
かと言って世間では子供がちゃんと大切にされてるかと言えばそうでも無い。
親に大事にされない故に家出をして生きていく為に身を売っている子供さえいる。
近年、マスコミの取り扱いが変わった。同性愛の差別は許されないが、小児性愛を肯定することは決してない。マスコミが変われば社会的風潮として小児性愛は叩かれる。少し前まではマイナージャンルとして存在していたけども、例の連続殺人のせいで、悪い意味で認知されて、その後はロリコン=犯罪者
虎舞竜の楽屋に来た14歳の三船美佳に、38歳だった高橋ジョージが一目惚れ。結婚を前提にした交際に発展したという。
交際を2年間続け、三船美佳の16歳の誕生日に結婚、結婚生活は18年続いた。
この当時の三船美佳には責任能力が無く、性的に蹂躙されたのだろうか?
大人と17歳の恋愛は犯罪者扱い、18歳以上ならエロい事し放題というのは確実に変
法的線引きは必要だろうが、18歳まで責任無能力なのは確実におかしい
刑法では14歳から、民法では小学校卒業から責任能力があるとされ、子供でも商売をし、親の許可無く運営資金の借金等は法律上認められる
小児性愛は、妊娠・出産に死の危険があるからダメっていう人は、
#ロリコン
宮沢は撮影前にはヌードの話を聞いていなかった、嫌だった思い出はひとつもない。と語った。
goo.gl/UyN3f9
小児性愛差別者は「差別や感情的な拒絶はダメだが私が嫌いな対象にはそれをやっても良い」という人が多い
1950年代、手塚治虫のロボット等の描写は、荒唐無稽なデタラメを描く子供の敵と非難され
明治中期、近年の子供は夏目漱石等の小説ばかりを読んで漢文を読まない、子供の危機だと言われた
未成熟な身体の女児に性的感情を抱くのがキモいと非難するのなら、
50代の妊娠不能な熟女に性的感情を抱くのもキモいと非難しなければならない。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
「人口増加に寄与しない」「生物として不自然」という人が責められるのだとしたら
「宗教に身を捧げて、生涯伴侶を持たない」っていう人も責められなければならない。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
それで慰められて犯罪が抑制されているという可能性は考えないのだろうか
それが有ることで犯罪が助長されるというなら、痴漢・強姦もののAVやヤクザ映画の方が問題では?
漫画なんて単なる線と点の描画だし、ドールもただの人形に過ぎない。
http://thailog.net/2016/04/08/340189/
「こんなものはあってはいけない。この人形で少女を愛する練習をして、実際の少女が欲しくなったらどうするんだ」という批判の声も上がる
格闘ゲームで練習して、実際に殴りたくなったらどうすんだ!
小児性愛者も、LGBTと同じように、カップルでデモ行進できるようになれば良いけど、同性愛よりは大人と子供はカップリングが難しい。
だから、小児性愛者はLGBTより性的マイノリティであり、性的欲求の解消が難しい者として配慮されるべきなんだ。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
小児性愛者は、相手が大人になると興味が無くなる期限付きの愛で無責任だという意見があるが、
多くの人は結婚をする気がない相手との恋愛を楽しむし、真実の愛があれば何でも乗り越えられる。
「ホモ=欲求のおもむくままに男を襲う犯罪者またはその予備軍」
と言ったら差別主義者だと言われる。
「ロリコン=欲求のおもむくままに少女を襲う犯罪者またはその予備軍」
という扱いは当たり前のように行われる。
これは差別だ。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
ロリコンは、ロリコンであることを公言し、それは社会的に認められるべきだ。
もちろん、合意の無い性行為は、老若男女問わず犯罪であり許されないということは言うまでもない。
#ロリコン
小室哲哉に対する記事から同情するべき部分があった.その同情から派生して「不倫=悪」と宣伝するのは不味いと言う記事があった.何か感覚が違うなと思っていたので,とりあえず不倫に対する認識を述べていく.
・子どもがいるのか.また義務教育期間を脱しているのか.18歳以上か.
子どもは権利的にも責任においても不完全な状態である.そのなかで,彼ら彼女らが不倫によって心身にダメージを追ったり経済的な貧困に見舞われるのは避けたい行為である.またそれを助長するようなメディアの在り方も自粛すべきだと考えている.メディアが発するイメージは私たちの価値観の形成にも役立っている.
子どもが18歳以上であり自立しているなら,親同士の権利と責任による反中でとくに被害を被っていると考える必要もなくなる.
・子どもがいない場合.相手に離婚の申請をすでに行っているのか?
すでに離婚の申請を行っているが相手が同意してくれない場合.この場合はすでに愛が冷めており契約の本来の意味合いがなくなっていると思える.したがって,これには特に罪だと規定する意味合いがない.子どももいないので特に誰かに迷惑をかけていることもない.
離婚の申請を行わず隠れて不倫を行うのは結婚契約の意図に沿わないので原則として辞めるべきである.自信がないなら事実婚を選ぶべきだ.責任と権利が発生する契約で責任逃れは不味い.
さいごにメディアが行う.芸能人の「不倫報道の在り方」について書いていく.
許されないだろう.また市民はメディアの情報を疑って読むべきだ.だれが書いたかやどの会社が出版したのかを考えて読む必要がある.情報は伝えられる際に必ず歪む.報道は「正しく事実を伝えること」にある.部分的に取り上げて印象を変えてしまうのはメディアの本来の意味をなしていない.
芸能人はメディアに露出して価値観やイメージを変化させる主体である.そのため,結婚と言う「契約」を守れる信用できる人間なのかを判別するために必要である.そのため,彼ら彼女らが契約違反を起こしたことも交通事故を起こしたことも同じように,彼ら彼女らの意見を背景を持つと考えるために知る必要がある.影響力は権力であることを忘れてはならない.
不倫を減らすような告知はしていくべきだと思う.「子どもの貧困」や「離婚」をせずに結婚の契約違反を行うのは信用を失う.全体で見ても社会的な損失である.
また,不倫がどのようにして起こったのかを分解して,再発が起きないように周囲の変化に目を向けるのも良い.熟年離婚や家庭内の貧困にも目を向けるべきだし,不倫と言うより「愛情が無くなってしまった」場合の逃げ道が整備されていないのも問題である.このような家族や人間関係の在り方を提案し,メディアの力で告知を行ってほしい.
子どもが成人したときに親の熟年離婚は合理的であるし,何も咎められるものもなく互いにwinwinであると思っていた.
わたしは「学校にいる人とは全員仲良くしなくてはならない」という考え方や「家族とは仲良くしなくてはならない」という考え方を,選択できる自由がない人間に言うべきではないと思っていた.また選択できない中で,「仲良くする=winwin」と考えている先生にも疑問を感じていた.彼ら彼女らが自由へと目を向けるように離婚に寛容な社会は存在してもいいと考えている.
メディアの告知によって,相撲やボクシングなどの暴力的なメディアが放送されると同じような事件が起きやすくなる.自殺のニュースを挙げると増えてしまうという側面もある.そのため,不倫については「さわらぬ神にたたりなし」で見なかったことにしよう.という意見もあっていい.遠ざけて,わたしたちとは関係のない話だと蓋をするのも状況によってはありかと思う.
余裕をつくって考えてみるといい.
私はハゲている。
毛は勝手に生えてくるし勝手に抜ける。生えてほしいところには生えてくれないのに、要らないところの毛はやたらと伸びる。
自分の体に生えている一番長い毛は乳首の横に一本だけ生えているチーくん。もはや友達だ。大切に伸ばしている。
女性が脱毛にお金をかけるのは自分のコントロールの効かない部分を制御するためなのだ、という文章をどこかで読んだ。たしかに自分も自分のコントロールの効かないハゲに頭を抱え、更にハゲを助長させている気がする。
ハゲはつらい。部下の女性と目が合わず、彼女の目線が上の方に行くのが分かる時が何よりつらい。風が多少なりとも吹いている日は前を向いて歩けない。濡れるとさらに悲惨だ。海やプールへの誘いを一体何年断り続けているのだろう。ちなみに私はまだ20代なので、同僚たちのフサフサで艶のある髪を見て自尊心が傷付けられる。
ちなみに皮膚科に通っている。肌が弱いのがハゲの原因の一つにあるみたいだ。でも治療の成果が出ている気はしない。AGAについても調べたが、薬の副作用が怖いなと思って以来気が進まない。スキンヘッドにする勇気はまだない。頭の形が悪いし、頭皮に湿疹があるからできるだけ隠したい。
その人類は毛が一本も生えない。その代わり、オシャレカツラ産業がとても盛んだ。人々は自分をオリジナリティ溢れるカツラデザインで表現する。カツラの色や形にも流行や世代があって、カツラを見ればその人がだいたいどんな人間なのかが分かる。
まつげやまゆげが無いのは目に悪い気がするから、目を保護するためのつけまつげ、つけまゆげが普及している。あとつけ鼻毛も。つけ陰毛で愛を表現する人たちなんかも現れる。
人類は毛をコントロールし、デザインし、肉体のすべての制御を手中に収める。人類がまだ制御できないものは死とうんこくらいだ。
そんな世界になったら、チーくんと離別することにはなるものの、ハゲによって磨り減った私の心は輝きを取り戻し、海に行ったり風雨の中を堂々と歩いたりできるようになるのだ。自分が制御できないもので判断されることは減り、我々は我々のことを自分の思うままにデザインすることができる。
でも、私は飽くなき人類の一員なので、毛の制御だけに飽き足らず、健康な肌や、凛々しい目や、高い身長に憧れて、それら全てを制御できる世界を夢見ることだろう。そんな世界での外見は、インターネット世界のアバターみたいなものなのだろうか。
だいたい皆同じような美しい体や顔を持っていて、派手な装飾品やありえない色合いで差異を付ける。しかしそんなアバターばかりが増えてくると、自分のありのままを受け入れる「自然派」が一番だみたいな主張をする人たちが現れる。
世界は「アバター派」と「自然派」と「中間派」に別れ、それぞれに所属する人間たちにはなんとなく特有の傾向が生じてくる。そして終わりのない論争が起きる。昼下がりのワイドショーでそれぞれの派閥に所属する人間たちが唾を飛ばし合う。
「人間は与えられたものを受け入れるべきだ」「いいや、与えられたものだけで生きて行くのに苦痛を感じる人だって居る」「自分が苦しいと思うものだけ改善すればいいじゃないか」そんな怒号が飛び交うワイドショーから『今日のわんこ』にチャンネルを変えるところまでを想像し終わると、私はいつも考えることをやめて、頭皮に軟膏を塗り、チーくんが今日も元気かどうかを確認する。
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/02/07/121747
被害者性の道徳文化は「道徳的依存」を助長してしまい、個人間の些細な問題に自分自身で対処する能力を減退させてしまう。個人が弱められるのと同時に、人々は被害者のステータスや被害者の擁護者というステータスを得ることを競い合うので、激しい道徳的紛争が絶え間なく続く社会が登場してしまう。
…
被害者は、自分自身の強さや価値を強調するのではなく、自分の受けた抑圧や自分が社会的に疎外されていることを強調するのだ。…このような状況のもとで、第三者への訴えが寛容・堪忍(toleration)や交渉に取って代わった。人々は他人からの助けを求めるようになり続けて、自分が尊重と助力に値することの証拠として自分が受けた抑圧を喧伝する。このような道徳文化は「被害者性の文化」と呼ぶことができるだろう。犠牲者の道徳的地位は、名誉の文化では底辺に位置していたが、いまや頂点へと登りつめたのだ。
…
抑圧者というラベルを貼られた人も、しばしば「自分も同様に被害者である、と主張する」。たとえば、「ラディカル・フェミニズムに異議を唱えたために性差別主義者として批判された男性たちは、自分たちは裏返しの性差別主義の被害者であると主張することで自分たちを擁護する。被害者に対して共感的ではないとして批判された人たちは、自分たちが受けてきた被害を示そうとする」。[このように、被害者性の文化では、被害者性が競われて縮小均衡が起こることになる。左派の若者と右派の若者は、不平の渦巻きに巻き込まれるのだ。被害者性の文化が広まるにつれて、今後数十年間において政治的分極化が着実に進行していくことが予想される。]
「被害者」を過剰に賛美することで、本来は自分の力で解決できる問題を解決しようとせず、最初から人に頼ることが最も善となり
全ての人がこのポリシーに従うことによって本来起きなくてもよい闘争が起きたり、社会が停滞したりする。
色覚異常者です。
もう手遅れかもしれませんが、本当に本当に辛い思いをしている人間を、さらにその希望まで踏みにじるようなことは止めてください。
残念ながらこの製品はフェイクであり、この体験記もフェイクです。
それがフェイクであることは、このサイトの中で簡単に証明できます。
http://www.neo-dalton.com/side/check/
色覚異常者であるわたしは、一般とされている画像が52と読めます。
(健常者に確認を取ったわけではありませんが、ここにはおそらく89と書かれているのではないでしょうか。)
そして画像の番号が進むと同時に89という文字が視認できるようになります。
わたしはA7で視認できました。
お気づきでしょうか。
89は確かに読めました。でも、これが色覚異常者が見たいと願う色の世界でしょうか。
52と読めてしまう背景には、健常者であれば区別できる色の違いが色覚異常者には区別できないことに原因があります。
健常者であれば区別できる数色が、色覚異常者には緑のような茶色のような灰色のようなどれとでも取れるような色に見えているのです。
それを色覚異常者でも色の区別ができるようにするには、こうして世界全体の色を替える以外に手段はありません。
つまり、この画像が色覚矯正メガネをかけて見える世界ということです。
世界から緑をなくせば紫に転ぶし、赤をなくせばシアンに転びます。DTPをやったことある人間ならすぐにピンとくる話だと思います。
確かに青ははじめよりも青く感じるので一概に元の増田が嘘とはいえませんね。
色覚異常とは、ある特定の色に対してそれ以上の彩度を感じられない症状のことをいいます。
つまり、どれだけ色のバランスを整えたとしても、今まで感じたことのなかった彩度以上の色彩を感じることはありえません。
ところが元の増田も、また、その増田のブコメでいくつか言及されていた色覚異常者が色彩に出会って感動する動画も、それらのリアクションは全て未知の色彩と出会う驚きによって演出されています。
おかしいですよね。今以上の彩度を感じられる器官を持たないのに、メガネをかけると見えるだなんて。
つまりそれらは矛盾であり、感動ポルノを作り出すための演出であることがわかります。
これらを組み合わせて、この製品が嘘だという最大の根拠を一つ示します。
特定の色の彩度を下げることで鮮やかな世界を作れるとするのであれば、どうして症例にあわせた作例が一つもないのでしょうか。
レタッチソフトを使えばRGBのバランスを変えることは造作も無いことです。
それぞれの色覚異常の症例にあわせて、その人がメガネを掛けることで見える世界を簡単に再現できるはずです。
それが出来ないのだから、残念ながらこの製品がフェイクであると言わざるを得ません。本当に残念です。
もしこれが配色を変えることで色の境界をわかりやすくする程度の製品であれば疑いません。
しかし、今以上に鮮やかに見えると謳うのであれば、それは詐欺でしかいいようがありません。
色覚異常に同情し、それが解決できた気持ちを喜んでくれることは本当にありがたいことです。
だから、元の増田にブコメが沢山ついたことも、あの動画に沢山の感動が寄せられたこともとても好意的に思っています。
しかし、残念ながらその行動が、詐欺を助長してしまう結果になっていることは本当に遺憾です。
始めの頃は肌色が再現できずに相当悩みましたが、いまではあえて特定色の彩度を下げることで自分にしか見えていない世界を写真として表現するようになりました。
その独特の色彩感覚が人には面白いらしく、むしろ被写体の色が湧き上がってくるような写真だと周囲からもとても好評です。
(誤解のないように付け加えますが、この写真は意識しないと気づかない程度に被写体以外の彩度を失わせるという演出です。こちらでいうようなすべての色が色彩を増すわけではありません。)
自分が色覚異常者として生活を続けることでたどり着いた結論は、「失うことは得ることと同意」ということでした。
普段人ができないような何かを失う経験そのものが、かえがたき貴重な経験として得られるものだからです。
それならばないことを嘆くより、得られたものを喜べたほうがよいですよね。
そういう様に考えるようになってからは、自分が人よりも劣った存在だとは感じないようになりました。
これは同じ問題に悩む人間全員に一番に伝えたい事でもあります。
そうはいっても例えば紅葉が綺麗だと言われる度に、他の人が見えている世界を見たいと願う自分がいます。
だからこういう製品や記事が流れる度に、どこかに期待してしまう自分が否めません。
もしこれが詐欺だったときに涙をながすかもしれない人を想像してもらえるなら、ほんの少しだけその感動を安直にシェアするべきか踏みとどまって頂けたら幸いです。
昔から一人でいることが多かった。
一人でいるのが好きだったし、他人といることはとても疲れた。一人でいても全然暇じゃなかった。むしろやることがありすぎて忙しかった。テレビを見たり、漫画を読んだり、親が使わなくなったパソコンでディグダグやマインスイーパーをした。スーファミのドンキーコング2も64の時オカも何周しても飽きなかった。勉強もかなりやったし、成績が上がるのは楽しかった。
もちろん、友達とも遊んだ。それも楽しかったけど、遊ばなくてもよかった。半日以上他人といると疲れたし、それは年齢が上がるほど顕著になった。高校の時には親が相手でも長時間一緒にいると疲れるようになった。ただ、高校生までは嫌でも毎日誰かに会わなくちゃいけなかった。学校にいかなくちゃいけないし、家には家族がいた。だから、一人でいられる時間は貴重だったし、とても大切にしていた。
それが大きく変わったのは大学に入って一人暮らしを始めたからだった。
本当に衝撃を受けた。
家にいれば誰にも会わないし、学校に行っても知り合いと会わないことは容易だった。そして大学の入学祝いに買ったもらったノートパソコンは無限に時間を消費できる代物だった。はじめて開いた2ちゃんねるは常にスレッドが更新されたし、親の足音を気にして見ていたエロ動画は何時間でも気兼ねなく見られた。インターネットは俺の一人好きを助長した。それは嬉しいことだったし、望んでいた環境だった。大学1年の夏休み、気が付いたら家を出ずに1週間たっていたこともあった。ご飯は宅配で頼んだ。大学で知り合った同級生から遊びに誘われても忙しいからと断ってテレビを見ていた。
今思い出しても、あの頃は本当に充実していた。
そんなことをしていると、時たま誰かに会いたくなる。一人でいる時間を9としたら、誰かに1は会いたくなる。夏休み明けは少しずつ同級生と遊ぶようになった。だんだん仲良くなっていった。そんなことを繰り返していくと、友達ができるようになった。友達と遊ぶのも悪くないなと思った。
大学4年になる頃には、一人でいる時間より友達といる時間の方が長くなった。楽しかった。本当に。
一人でいるときの楽しさと別のものだった。ふと、最近一人でいる時間が少ないな…と思った途端に怖くなった。もし、また一人になったらどうなるんだろう。あの頃のように一人でも楽しめるんだろうか。誰かがそばにいないことを不安に思わずにいられるんだろうか。そんなことを考えたけど、まぁ大丈夫だろうと見ないふりをした。いつだって、そばにいてくれるだろうと思ってた。
そのうち社会人になって、環境が変わった。でも、大学の時と違って一人の時間は少なかった。会社って、本当にずっと仕事してるんだな。一人でいる時間なんてほとんどなかった。真面目だったし、さぼらず一生懸命働いた。そんなことをやってれば、会社の人とは仲良くなっていく。同僚の枠を超えて、友達と呼べるような人たちも増えた。飲みに行ったり旅行したり、いろいろ遊んだ。俺にとって、自分が自分であるのはその人たちと遊んでいる瞬間になった。
その人たちと遊ぶために生きるようになった。
残業も面倒くさい仕事も、友達と遊べるならと頑張った。空いている時間は誰かしらと遊んだ。寝ずに遊ぶことがかっこいいと思っていた。飲みすぎて吐くことがイケてると思っていた。一人でいる時間が少ないことが生きている証だった。
そんなことを何年も続けて、もう30手前。
俺が他人だけを拠り所にして生きてきた中、その人たちは色々蓄えてきたらしい。
全然気づいてなかった。俺には友達しかいないと思った。でも、友達もいなかったらしいことが分かった。俺が自分の人生をかけて仲良くなってきたと思っていた人たちは、他の人と仲が良くなっていた。俺は1番どころか、みんなのランキングにも入っていなかったらしい。
そうか、あれはうわべの付き合いだったんだな。
誰かと遊ぶために思考して、行動していた俺よりも、切磋琢磨している中で同じ時間を過ごしている人の方が仲良くなれるらしい。気が付いたら、俺だけ時間だけ過ぎていて何も得ていなかった。
思い出せば、昔一人でいるときは多くのことを磨いていた。勉強をしたし、絵も描いたし、ピアノもやったし、習字もかいた。運動も一人でできることは何でもやった。そんな俺でも、誰かと会ったときは緊張しながらも話が盛り上がっていたと思う。
どうやらそういうことらしい。
他人を拠り所にした俺には、何も残らない。自分を大切にした人には、きっと色々集まってくる。
無駄な時間を過ごしたと思う。他人を拠り所になってしなければよかった。
よく昔の文学作品を手に取ると序文とかで「差別的単語がありますが時代と文化を考慮してそのまま」という甘えた文章がある。
だがその甘えがどこかで「差別していい」という助長になっているのではないか?
差別的単語を修正したからと大きく作品の質が下がるものではない。
ハーフやクォーター等による肌の色のグラデーションは勿論、上流階級で差別された経験の無い人からミンストレル・ショーとったコンテキストを知らない黒人もいるわけで。
で、そういったグラデーションを無視して一方的に黒人に配慮しろ!ってのは、様々なグラデーションを持つ黒人に対して「黒人はめんどくさい」というステレオタイプを助長すんじゃないの?
ベッキーのタイキックと、そもそも笑ってはいけないの罰ゲームがどうこうというのは趣旨がずれるので、今回はエディ・マーフィーの件のみについて。
生放送で見てた時は正直笑った。アメリカンポリスという設定でエディ・マーフィーというボケは、ビバリーヒルズコップを知っている世代にとっては見事なツボだった。
そしてその後の報道を見て改めて考えた。果たして浜ちゃんが顔を黒くせず、かつらやひげ、服装だけで登場してたら同じくらい面白かっただろうか。そこに面白さの違いがあるとしたら「顔を黒く塗っている」ことが面白さなのであって、各種報道を踏まえて考えるなら黒塗りで黒人を演出するということはよくないことだったのだろう。
もう少し考えを巡らせた時に、今回の報道で「これは差別だ」と発言して取り上げられている人が1人なのがちょっと気になった。数が少ないから気にするなと言うわけではないし、話題になったということはそれだけの人がこの意見を支持したんだとは思うが、とはいえ一部の声が世の中のすべての声、みたいに拡大解釈されてないだろうか。
以前に海外モデルが着物を着たときに文化の盗用だ、と海外では炎上したけど、当の日本人は全然気にしてないどころかむしろ好印象、みたいな雰囲気だったと記憶している。ミンストレルショーは問題だとして、黒塗りした時点で差別だ、と切り捨てていいのだろうか。むしろこういう事件が起きたからこそ、お互いの文化の違いをすり合わせていくいい機会にならないものだろうか。
そして最後に、こうやって差別の名の下に言葉や表現を抑制していくことこそが差別につながってやしないだろうかいう危惧もある。五体不満足の乙武さんが「自分の手足がないことを笑ってくれる世の中がいい」みたいな趣旨のことを言っていたけど(うろ覚えなのでソースがあったら教えてくれ)、相手の肌の色も背の高さも体型も何もかも口に出せて、それはただ単に人それぞれ違うだけでまったく気にしないで言い合えることこそが理想論かもしれないけれど本当に差別がない世の中なんじゃないだろうか。言葉や表現をどんどん刈っていくこの流れこそが差別を助長している側面はないかなとちょっと気になっている。
多くのブコメをみたけどいろいろな論点があるなと感じたので、整理してみたい。
まだいくらでも互いに反論できると思う。なお私自身は結論を持っていない。
個人的には、ヨーロッパに住んでたときに何度も釣り目のジェスチャーでからかわれたり「チンチャンチョン!!!」とか言われたりしてちょっと嫌な思いをした経験があるので、今回のやつを見て怒る黒人にとても共感する。
でも世の中にはいろんな立場の人がいて、それぞれ利害も異なる。
「いいから基準を教えろ」「~~したらとにかくダメなの?」という人が多いけど、残念ながらそう簡単な話ではなく、面倒でも大勢で時間をかけて合意を形成するしかないのだと思う。
「めんどくせえ」という人も多いな。どうでもいいと思う人が多数派じゃなかったらそもそも「問題」にならないので、まあ当然の反応ではある。
(追記)
他にも整理してる人がいらした anond:20180104015530
横から悪いんだけどさ
ダウンタウンって笑点の舞台には馴染まないようなあまりお行儀のよくない芸が中心ですよね?
イジメを助長させてよろしくないみたいな趣旨の増田氏もいたし、私もそう思います
ダウンタウンはブラックジョークが持ちネタだという事を念頭に置いてさ
彼らの番組で扱われたネタが社会的に許容しうるブラックジョークか否かで考えるべきだと思うんだけどどうかな?
大前提として彼らは「笑いのためなら多少人を傷つけても許される」というポリシーでやっているのだからリベラル的、ポリコレ的正義の価値観とは相入れる事はないと思う
黒人を滑稽に描いて差別を助長したとされるかつての黒塗りショーを非難するのはいいが
うちの母はよく働く人だ。お正月といえば家の大掃除をして、おせちの準備をして、私はただ実家に帰って母の作った料理を食べるだけだ。片付けとかの手伝いもしない。今70歳なんだけど、もう少し歳をとって思うように動けなくなったらどうなってしまうんだろう?
私は昔料理の基本的なことは教えてもらったし、一人暮らしを始めたときは多少自炊もしていたけど、最近はめんどくさくなって出来合いのおかずを買って帰って食べるばかりになってしまった。実家に住んでいるときは洗濯も掃除もしなかった。今の家も洗濯は着るものがなくなると困るのでするけど、掃除は気が向いたときに水回りをちょっとするぐらいだ。
私も父も祖母(父方)も片付けられない人なので、実家にはいろんなものが山積みになっている。年末年始も私が泊まるスペースがないぐらいだったけど、今回母が奮闘してスペースを作り、ベッドに布団を敷いてくれた。どうも私が実家に住んでいたころの布団を引っ張り出したようで、ホコリっぽい匂いがした。
母が一人で頑張っているのを見ると「大変だな」とは思うんだけど、どうしても手伝う気になれない。母には自分のやり方があって、その通りにやってくれないとイラっとくるみたいだし、要領の悪いのがぐずぐずやっているのを見ていられないようで、結局「私がやった方が早い」になってしまう。
よく「夫や子供が家事を手伝ってくれない」みたいなぼやきを聞くけど、母みたいなタイプの人が家事をしない夫や子供を作ってしまうんじゃないかと思う。多少下手だろうが要領が悪かろうがじっと我慢して手を出さないようにしないと、「どうせやっても文句言われるだけだし」っていうことで余計やらなくなる。
あと、私はある程度お金がある場合、外注できる家事は外注した方がいいと思ってる。料理はまだ主婦のプライドがかかっていて、かつ出来合いのものを買うと材料に何使ってるか分からないとか味が濃すぎるとか添加物が多いとかいうのがありそうだけど、レンジフードの掃除に何時間もかけるのとか馬鹿げてると思う。そういうのをプロに任せればその分時間が浮いて、自分が手間をかけたいことに時間をかけることができるのだ。
母の母である祖母もそうだった。リウマチでだんだん手足の自由が効かなくなってきたのに、数年前までは正月に行くと頑張って手料理を振舞ってくれた。今は歩けなくなって施設に入ったけど、それでも共有の台所で、ちょっとした自炊はやるつもりらしい。まぁそんなにやることがあるわけではないので、負担にならないレベルの料理ならいいけど、家事の習慣がしみついている人とそうでない人の違いは凄まじい。ちなみに父方の祖母は特養に入っていて、認知症が進んでいるので、日々ぼんやりと料理も掃除もお風呂も施設の人にお任せで生きているようだ。実家に住んでいたときも家事はすべて母まかせで、トイレに行くのも一大事だったから特養に入ってくれて本当に助かったけど。
ということで家事でも何でも頑張る人とそうでない人の格差がすごいというのと、頑張りすぎる人が頑張らない人を助長させているというのが結論。話がうまくまとまってなくてすまんです。
これは風俗店で「女性キャストへのマナー」「お客様へのお願い」の注意書き用紙を渡さないのは何故なのか、というダイアリーである。
風俗嬢に風俗をしていて何が辛いかを聞いてみれば、手マンが痛い、乳首が痛い、膣が切れた、痛い話がたくさん出てくる・・・
という話は昔に比べて認知度が高くなったように感じる。男性客の涙ぐましいリサーチや、風俗嬢が声をあげ多くの人に知れる機会を増やしている事、お互いの努力によるものではないかと思っている。
しかし未だそういう話が絶えることはなく、徹底されていないのが現状だ。
世の中には女性用風俗店というものがある。レポ漫画か流行った時期もあったので知っている方も以前に比べると増えたそうだ。
某女性用風俗を利用したときに驚いたのは、利用前に注意書きを渡されることだ。
注意書きには
・女性キャストはお仕事に来ています。恋愛や出会いを探しているわけではありません。個人的な連絡やスタッフが困るような要求はおやめください。
・シャワーを浴び、爪を切り、歯を磨き、清潔な状態でのご利用をお願いします。
・女性の膣はデリケートな粘膜です。激しい指入れ等強い刺激を与えるのはおやめください。
などと書かれている。
動物のふれあい施設などでも「大きな声を上げないでください」「ウサギの耳を掴んで持ち上げることはやめてください」「尻尾は触らないでください」などと正しい接し方をスタッフから指導されるのに、風俗店では男性客に指導がないところが殆どである。
猫カフェで猫を執拗に追いかけ回し耳や尻尾を引っ張る客がいても注意のひとつも受けないような、無法地帯であるのが現状の性風俗店ではないかと思う。
触り方の指導を受けない男性は女性の実情を知らず妄想だけで補うことになるので間違ったやり方で性的興奮を喚起されることになる。
女性スタッフもお金を貰っている事、悪質な客相手だと掲示板等でひどい誹謗中傷や嘘の悪評など営業妨害を受ける事、そして何よりも痛みを訴えると必要以上に落ち込んだり、興奮が冷めてしまったり、勃起を維持できなくなって出せなくなる男性客が多すぎるという事で、自ら申し出るよりもその場では耐える方を選んでしまうのだという。
女性の膣は粘膜であり内蔵でありそもそも単純に刺激しても快感を得られない器官である。
それどころか摩擦、長時間の刺激、指やおもちゃによる強すぎる刺激に耐えられるようにはできていない。舌ですら尖らせると痛みを感じるほどにデリケートである。
よく潤った潤滑剤のある環境で、優しく表面を撫でるようにゆっくりと触ることで感度を得ることもある、というだけだ。
膣の入り口が切れてしまうので入り口に負荷をかけていいのは一部のよく鍛えられた膣だけである。間違っても伸ばした指で穴を突くように入れてはならず、指を入れたいなら優しく触れて中に入り込むのを待つように入れなければならない。中に入れた指は強く負荷をかけることなく、潤しながらゆっくりくるくると腹でマッサージする程度で十分。
洗っていない不潔な性器はドブのように不衛生だし、洗っていてもザザッとシャワーをかけてワシワシと擦るだけで洗い終わる人も多い。シワや包皮の中まで丁寧に洗い流し、下着も洗い、玉袋や陰毛も洗わなければひどい悪臭とカスはとれない。
風俗店の中には即即と呼ばれる、シャワーなしでいきなりの性行為を行う店舗もあるのだという。
女性スタッフの中には指名を取るためにコンドームをつけずに接客する方もいるようで、遊びすぎた客の中にはコンドームインポになる人もいる。
風俗店でのセックスが、私生活での一般的なセックスの弊害になる一面があるのだ。
これらのことは、一部の男性にとっては常識だが、別の男性は知らなかったりする。そもそも男性側に自助努力での知識やテクニックを期待するべきではない。誰でもお金を出し使っていいのが風俗店ではないのか。これらを知らないだけで女性スタッフが膣を損傷し、十分なサービスを受けられないこともあるという。
性風俗店で遊ぶ際の最低限のマナーとして風俗店が自ら男性客に予め注意し周知させる方が良いのではないか。
風俗店が女性にとって人気商売であるために痛くとも良くなくとも我慢し喘いでしまう女性スタッフを作ってしまい、下手くそだと言われる日本人男性を助長してきてしまったのではないか。