2018-01-12

リベラルが陥りがちな「被害者性の文化」の害について

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/02/07/121747

被害者性の道徳文化は「道徳的依存」を助長してしまい、個人間の些細な問題自分自身対処する能力を減退させてしまう。個人が弱められるのと同時に、人々は被害者ステータス被害者擁護者というステータスを得ることを競い合うので、激しい道徳的紛争が絶え間なく続く社会が登場してしまう。

被害者は、自分自身の強さや価値を強調するのではなく、自分の受けた抑圧や自分社会的に疎外されていることを強調するのだ。…このような状況のもとで、第三者への訴えが寛容・堪忍(toleration)や交渉に取って代わった。人々は他人からの助けを求めるようになり続けて、自分尊重と助力に値することの証拠として自分が受けた抑圧を喧伝する。このような道徳文化は「被害者性の文化」と呼ぶことができるだろう。犠牲者道徳的地位は、名誉文化では底辺位置していたが、いまや頂点へと登りつめたのだ。

抑圧者というラベルを貼られた人も、しばしば「自分も同様に被害者である、と主張する」。たとえば、「ラディカル・フェミニズムに異議を唱えたために性差別主義者として批判された男性たちは、自分たちは裏返しの性差別主義被害者であると主張することで自分たち擁護する。被害者に対して共感的ではないとして批判された人たちは、自分たちが受けてきた被害を示そうとする」。[このように、被害者性の文化では、被害者性が競われて縮小均衡が起こることになる。左派若者右派若者は、不平の渦巻きに巻き込まれるのだ。被害者性の文化が広まるにつれて、今後数十年間において政治的分極化が着実に進行していくことが予想される。]

被害者」を過剰に賛美することで、本来自分の力で解決できる問題解決しようとせず、最初から人に頼ることが最も善となり

全ての人がこのポリシーに従うことによって本来起きなくてもよい闘争が起きたり、社会が停滞したりする。

たいていの人はどこかで付き合えなくなるし、そのような人がほとんどになれば消滅するのだろうが

それまでは社会へ発展しないバイアスを与え続ける。

  • 「全ての人が従う」というありえない極論を使用した、典型的な詭弁の1パターン

  • 同情に重きを置くような社会になるほど、同情されないものは寛容になったはずの社会の中で 余計に無視されることになる、だからこそ被害者同士競い合わなければならない リベラル主...

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