はてなキーワード: ナボコフとは
結論:場合による
https://togetter.com/li/1113766
https://matome.naver.jp/odai/2149564479015738601
この辺見てると、「そうだよね」というものと「いやいやおかしいでしょ」というものがどちらもある。批判している人の中には文系の慣行に詳しくない人もいるようなので、しがない文系出身者が「文系だとだいたいこんな感じ」というのを提示してみる(「お前の感覚おかしいよ」という指摘があれば教えてください)
「分析に用いている時点でこれは引用ではない」みたいなやつがおかしな意見の代表。いやいや、分析対象として使うのも立派な引用ですから。
たとえば、「私が好きな○○さんの二次創作小説はマジ文学なので文学作品として研究対象にします」だったら、それがマイピク限定とかでなく全体公開されている限り無断で引用して差し支えない(他人の机の中にしまわれている黒歴史ノートを無断で引用するのは当然のことながら違法です)。10年前に20部だけ頒布された同人誌に載っている内容でも引用してよいし、「バナナ」とか「前立腺」とかいう単語も容赦なく引っ張ってきてこの表現の含意はとかここで使われている暗喩法はとか分析していい。
文学研究ってそういうものなんで。たとえばナボコフの研究では、英語版とロシア語版を照らし合わせて登場人物の名前がどんなふうに変更されていてそれにはどういう意味が込められているかとかそういう細かな点を論ずる研究というのも実際あるし、そういう研究対象としての引用というのはまったく問題がない。作者に許可を取る必要もない。
それが本当に研究する価値のある文学作品であり、文学研究としての作法を踏まえているのなら、ラノベだろうが官能小説だろうが二次創作だろうが分析対象にしていい。異世界転生で俺TUEEEEEEであってもそこに文学として研究されるに値する何かがあるならガンガン引用することが許される。文学研究であるなら著者名と出典を明記することは研究倫理上むしろ必要不可欠だし、仮にそれで元の投稿者がマイピク限定にしちゃったりしても、このケースならそこまで研究倫理的に問題はない(と、私は判断する)。
現状、それをやっている人がほぼ絶無なのは、
という理由であって、やっちゃいけないなんてことはない。二次創作書きから直木賞作家とかに登り詰めて死後に全集が作られるような身分になったら生前に書いたピコ手の二次創作小説が掘り起こされて「若き日の習作」として分析対象になってしまうのも甘んじて受けよう。
しかし、問題は、これ文学研究じゃないですよね、という話で、テキストにあらわれる語の頻度を分析してフィルタリング機能に活かそうとかそういう研究だとまた違う話になる。たとえば「夏目漱石の作品中における接続詞の使用頻度」みたいな研究なら著者を明かすことに意味はあるけれど、この場合はそうじゃない。まあ一般的な語の用法の分析じゃないからコーパス使えないことはわかるけど、「有害な表現のフィルタリングのため」という目的で用法を研究するなら研究対象の具体的なURLと作者名は伏せた方がいいだろうし(これがまだせめて「“尊い”という語の用法」みたいに価値判断を加えていなければよかったかもしれないけど)、そもそも個々の作品のURLを列挙できる段階でちゃんとした研究とはいえないんじゃないんですかね。ふつうそういう研究なら、「○○新聞のデータベースで××年分の記事を検索して調べました」とか「pixivのデイリーランキング上位20作品を平成××年△月から△月まで○ヶ月にわたって調査しました」みたいなデータになるはずで、分析対象が10作品だけって段階でサンプル少なすぎるでしょ。いやもちろんサンプルが少ないから悪いというわけではないけど(談話分析とかならたった30分程度のTV番組を分析するだけで論文1本書けるだろうし)、フィルタリングを情報工学的に考えるならまずサンプルたくさん集めないと話にならないというか……
「pixivの規約に引用禁止と書かれている!」という主張はなんとも微妙だ。「は? それpixivの内輪ルールだろ? 著作権法上は自由なんだよ!」というカウンターも見られるが、そう簡単な話でもないと思う。
一般論として、引用は著作権法で保護されているので、それが適正な引用である限り(主従関係とか出典の明示とかそういうことね)自由に引用してよい。なので「無断引用禁止」と書かれている痛いサイトも自由に引用して叩いてよい、ことになっている。そういう意味では、「支部の規約より著作権法の方が偉いに決まってんだろボケ」派の言うことは正しい(実際、著作権的にはこれ問題ないとみなされる可能性が高いのではと思うが、法学クラスタの皆さんその辺どうなんでしょうか)。
しかし、ここで問題になってくるのは
ということだ。
それを読んでいるということは、検索で行き当たった作品を引用しているのではなくpixivのアカウントを取得してログインしそれらを読んでいるということだ。ということは、利用者としてpixiv規約を守る必要があるのではないか。少なくとも、利用しているサービスの規約に反して収集した情報を引用するのは、研究倫理に反するのではないか。
※追記:pixivの規約見たら「本サイト及び関連サイトにアップロードされている投稿作品の情報を、当該著作者(創作者)の同意なくして転載する行為」が禁止なのね。じゃあ、別に引用はしてもいいんじゃん。少なくともこの点で研究倫理がどうこう言うのは不当な非難だと思うので謝罪の上撤回します。
たとえそれが個人的な談話であっても、社会学や文化人類学では引用してよい。「○○村の女性Aさん(45)が私に語って聞かせた結婚生活の愚痴」なんてのも、これらの分野では立派な研究対象だろう。ただしその場合、事前に「私はこの村に社会学や文化人類学の調査で来ているので、皆さんの発言を研究に使います」と断る必要がある(増田にはフィールドワークの経験はないので、実際にどんなふうに許可を取るのかは知らない)。たとえそのような許可を取って滞在している村の住人の発言であっても、「これは絶対に論文に載せないでね」と言われたのに論文で引用したら、そらアウトだろうと思う。
だいいち仮に許可を取ってのことだとしても、社会学や文化人類学の研究なら普通は発言者をボカす。社会運動の指導者とかでもない限り、現代社会に生きる無名人の名前をそのまま載せるなんてありえない。ふつうは、AさんBさんとか、長門さん(仮名)と陸奥さん(仮名)みたいに処理した上で引用するの。
仮にそれが著名人であったとしても、使っちゃいけない、使うべきでない類の資料というのもある。たとえばちょっと前に、毎年ノーベル賞獲れなかったと騒ぎになる某作家さんの高校時代の図書館での貸し出し記録を調べてドヤ顔で記事にしてた新聞があったけど、と、図書館の自由に関する宣言~~~~~ってなりますよね(実際日本図書館協会は激おこだった)。
これが歴史学だとまた話が違ってくるというか、たとえば、百年前の新聞の投書欄を分析して当時の世情を研究するみたいな研究は割とある。その投書欄に書いているのは農民だとか小役人だとか、まあ市井の人々なわけだけど、投書欄に実名を載せているなら実名ごと引用され分析される(ていうかふつう実名をそのまま引用することはないけど、「○○という人物は次のように言っている」と地の文で書かれるとか、注釈で書誌情報の一部として実名が記されるとかはよくあること)。
ただし、これは「百年前の」「新聞への投書」だから許される話だ。書いた本人はたいてい死んでるし、遺族がいたとしてもたいして不利益はない。これがたとえば、公開を意図せずに書かれたお役所の文書だったらどうだろう(近代史でメインに使う史料というのはたいていこれだ)。もちろん、単に「○○という市民が食糧配給が少なすぎると文句を言ってきた」程度の内容なら実名を出してもいいだろうと思う。でも、それが故人の名誉を傷つける内容だったら? 徴兵された普通の人々がどのようにして戦争犯罪に加担していくか、という研究で、某中二病患者に人気の国の国防軍関係の史料が引用された時には、登場人物の多くがイニシャルだった。
インターネットにおけるレイシズム、みたいな研究で、twitterの膨大な投稿を分析し発言者を特定しない形で差別発言の例を挙げることは許されているけど、それが実際のアカウントと紐付けられる形で提示されたら、やっぱまずいんじゃないの。研究対象が著名人であるとかなら別だけど(twitterで右寄りの発言ばっかりしてるラノベ作家がいたとしたら、その人の思想を研究する上でそういうツイートを参考資料として引っ張ってくるのはまあアリだとは思う)、研究というのは告発のためのルポルタージュでも責任追及のための裁判でもないのだから(レイシズムに無批判であるべきだ、という意味ではないので念のため)。
それを考えると、やっぱりあそこで個々の作者さんの名前を出す正当性は全然ない。出典の明示にしても、「○○というサイトで××年~××年にかけて上位20位に入った計△△作品を分析しました」でじゅうぶん。その上で個々の発言者が特定されない形で「バナナ」という語の使われ方を存分に研究すればよかった。
=何が言いたいかというと、確かにあの論文は研究倫理に反するけど、それは同人小説を研究対象として引用することがいけないからではないので、批判する側も適切な論拠を選んだ方がいいですよ、というお話でした。
何でこんなもんを載せたんだ、査読してないのか、という意見もあるけど、してないか名前だけのザル査読なんじゃないかなあ。これ、フルペーパーではなくて学会発表のプロシーディングでしょ? 情報系は知らんけど、人文系だと学会発表で査読しないところもまだまだ多いですよ(内容が酷ければ質疑応答でボコボコにするか論文投稿時に査読で落とせばいい話なので口頭発表時点で査読が無いことは別に悪いとは思わない)。まあ、PDFとして載せちゃった以上は責任問われるのも仕方ないと思うけどね。最低限そこは査読なかったとしても編集委員会の判断とかで弾こうぜ。
あとこれ多分M1の学生の研究に助教と准教授が名を連ねてるだけだとは思うのだが、まあ共著者として名前連ねてる以上は責任を負うってことなんだろうし、実際M1の学生が袋叩きになるよりも准教授が叩かれる方がマトモだとは思うので、うん。
社会調査するならこれ読んどけ! 的なものとしてマサキチトセさんの翻訳が拡散されてる。
http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1758
マサキチトセさんの訳は丁寧だし、社会調査しようと思うなら必要だと思うけど、これこの件に関係ないよね? ごっちゃにしてない?
いちおう言っておくと、
ってこれ全部別の話だからね。
正直、腐女子が研究者や研究者コミュニティに不信を持つのは当然だと思うし、それは腐女子を面白いオモチャとしか見てこなかった研究者サイドの自業自得なので、「法的に問題がないことはわかったけど、あいつらのやっていることは信用できない」と思うのは無理ないです。その感情を否定したいわけじゃない。ただその感情の根拠としてぼくのかんがえたちょさくけんほうとかわたしのかんがえたけんきゅうりんりとかを振りかざさないでほしいだけ。正しい認識の上に立ったところで研究者に対する信頼が急に生まれるなんてことあるわけないんだし。
研究で「引用」というと文献リストに載せるやつなので,今回の件では研究用語的には「引用」では無いんじゃないかなあ。法的には分からない。pdfは全発表のを出してるんだから,いちいち弾いてらんないでしょ。
文系では文献リストは必ずしも必須ではないのよね(この辺、理系からすると何それかもしれないけど)。たとえば文献情報を全部脚注で書いちゃうやつだと文献リストはなくてもいい(だって書誌情報、つまり引用元の出典は脚注で示しているんだから論文の最後にリストとして挙げる必要はないでしょう? もちろん脚注にきちんと文献情報載せない場合は文献リストが必要ですよ)。あと、参考文献リストにない文献を引用するときに注で補ってもいい。
これ日本だけのローカルルールじゃなくて英語圏でもあるからね。たとえばNationalism and Ethnic Politicsなんかはこの方式のはず。
いちいち弾いてらんない、ってのは、せやな。こんな発表が許されるなんて学会の研究倫理はおかしい! とか騒いでる人もいて頭が痛いよね。アホか。
こうして燃えてる時点で侵襲性があるということになるのでは。「衆目に晒された→恥ずかしい→公開をやめる」が「過剰反応」だとしてもそのせいで研究対象は消えてしまったわけで。
ここで言ってる「侵襲性」ってのは、研究発表以降の話じゃなくて研究をする段階の話です。つまりデータを採る段階。
お医者さんだったら、患者さんを診察室に呼びつけて、服を脱がせて、相手が医者じゃなければ屈辱的な姿勢(ケツの穴を見せるとかね)をとらせたりして病気を診察して、それで病気や怪我のデータを採るわけですよね。社会学だったら、時間を割いてアンケートに答えてもらったり、面談してもらったりする。文化人類学なら、調査地に住み込んで、同じメシを食って家族の会話に割り込みながら相手の文化を学んでいく。そういう研究手法が、侵襲性のある、侵襲性の高い研究だってことです。
こういう研究をするときには調査される側の同意が必要だし、データをどこまで公開していいか決める権限は調査される側が持っている、というのが、あちこちで訳知り顔で語られている社会調査の鉄則です。
でも、文献調査はそうじゃない。いったん公開してしまった情報であれば、それを調べる段階では調査される側=文章を書いた人にとっては基本的に関係のない話。だってそうでしょう? いったん公開された情報については、研究者は、本屋さんで本を買ったり、図書館で雑誌のバックナンバーをあさったり、パソコンの前でマウスをポチポチするだけなんですよ? これにいちいち事前の同意が要るという主張はどう考えてもおかしいわけで。
医学論文でもカルテ調査するなら患者本人には(直接的には)迷惑かからず、それを氏名つけて公表したあとに患者本人に影響出る可能性が出てくるわけで"根本的に違う"というのがよくわからん。
カルテって、出版されたり、数万人の会員がいるSNSにアップロードされたりしてるんですか? 根本的に違うってのはそういうことです。当たり前ですけど、二次創作小説でも「作者が誰にも見せずにしまっているもの」「数人の親しい友人以外には見せていないもの」を引用するには許可が必要だし、無断で引用したら大問題ですよ。
会員制で見たい人だけが見られるようにしてある物を引っ張り出してきても許される、引用や研究ってそんなに万能なんです…?
少なくとも引用は万能です。数人の仲間だけにパスワード教えて見せてたならともかく、捨てアドがあれば誰でも会員になれて、数万人規模の会員がいるところに、会員なら誰でも見られる状態で置いてあるものは、著作権法上公開されたものと考えていいと思います。なのでそれが適正な引用方式に従っていれば引用はオッケー、お国の法律が認めてくれてます。やったね!
(ていうかその理屈だと、お金払わないと読めない学術雑誌に掲載された論文は無断で引用しちゃいけないことになりますけど、それでいいんですかね……? NatureとかCellもウカツに引用できない世の中、やばくね?)
研究はこれから議論されていくところなんじゃないかな。少なくとも昔は、書かれたものというのは「書店や図書館に流通し誰でも読める状態に置かれる」か「私家版としてごく少数の人のあいだで流通するか机の引き出しで死蔵される」の二択だったわけですよ。「数万人の会員がいるサイトで公開されてるけど一般公開はしてません」なんて状況、想像もしてなかったでしょ。この辺は今後頭を悩ますしかない。そういうめんどくさいのが嫌な人は歴史学とか古典文学とか考古学とか関係者が軒並み死んでる学問をやりましょう。
二次創作が研究対象になるなんて前例がなく誰もそんな想定をして書いてない。これは前例がないことだということを頭に入れていきなり研究の場に引き釣り出されて心の準備が追い付かない人の気持ちも憂慮してほしい。
前例はあります。
今手元にないんで間違ってたら申し訳ないんですが、2004年に男性向け作品での美少女表象を研究した本が二見書房から出ていて、バッチリ同人誌も引用されてたような。手元に確実にあるやつで確認すると、2009年に創刊されたコンテンツ研究系の学術誌に載ってる尾道の聖地巡礼史を論じた研究では、聖地巡礼同人誌が引用されてます。探せば同人誌を引用した研究はもっと出てくるんじゃないかな。コンテンツ研究だと痛絵馬の分析とかもやってるし、そこまでおかしな事態じゃないです。この辺の学術動向知ってれば「前例がない」なんて発想こそ出てこないですよ。何を今更。
まあ、素人さんがそういう学術動向知っとけ、って無茶ですよね。でも、これでわかったと思うけど、学術って開かれているけれど閉じられた世界なんです。興味のないことには誰も目を向けない。同人誌も同じです。女性向けの島中に置かれてるマイナーCPの薄い本なんて、理屈の上ではコミケ来場者全員に買う機会があるけど実際に買うのはごくごく一握りでしょ? はっきり言って今回の論文だって似たような位置づけなわけですよ。知らない場に引きずり出されて不愉快に思うのはよくわかるし、同情もしますけど。
あとこれ言うと揚げ足取りになっちゃうんであまり言いたくないんですけど、『アララギ』とか『白樺』だって同人誌だし(ていうかあっちが元祖)、そういう意味での同人誌ってたくさん研究で参照されてるし、CiNiiで「同人誌」で検索かけたら戦時中の誰も読んでないようなマイナー文芸同人誌を詳しく紹介するみたいな論文がヒットするわけですよ。同人作品だから引用しちゃいけないとか研究の場に引きずり出してはいけないって言われても、それどこの星のルール? っていう感じがします。明治文学研究とかルール違反の百貨店や~。
これ発表してから2ヶ月近く経って、いろいろ考えましたが、やっぱり私は研究倫理には反してないと思いますね。人に不愉快な思いをさせることがすべての局面において研究倫理に反するわけではないし、やっぱり引用の権利は厳然としてあるので、そこを突っぱねるのは筋悪かな、と。
http://anond.hatelabo.jp/20141207214956
「はてなーの血肉となった3冊を教えて欲しい」
http://anond.hatelabo.jp/20141207214956
のブックマークで挙げられていた本の中から、Amazonのレビューで5つ星のものだけをピックアップしてジャンル別に並べ替えたもの。
正月暇になりそうだから読む本を探している人の参考になれば幸いでございます。
はてブ | 検索キーワード | Amazon検索結果へのリンク | レビュー数 |
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kerodon | 歌よみに与ふる書 | 歌よみに与ふる書 | 8 |
hayakuzaka | 茨木のり子 詩のこころを読む | 茨木のり子 詩のこころを読む | 31 |
inmymemory | ボードレール 悪の華 | ボードレール 悪の華 | 10 |
inmymemory | アルチュール・ランボオ イリュミナシオン | アルチュール・ランボオ イリュミナシオン | 4 |
というかキングとか東野圭吾とかあとなんだ、セルバンテスとか? ああいう大御所スルーする意味がわかんね
10コ揃えたかったからって無理矢理引っ張ってこなくてもいいんだよ
だいたいフォークナーだのナボコフだのはともかく、カントやヴェーバーやアドルノは「文学」の範疇に入るか怪しいし何でそこで話に出てくるねんって感じ
そして残念なことに、ラノベには概して「見るべきもの」なんて無い。
基本的にラノベって自意識過剰な中二病患者向けポルノでしょ。お色気と俺TUEEEとざっくりした「世界は如何にして回ってるか」の開示の混交物。
慰安のための本。
なんか前書いたやつがブクマ300超えちゃったみたい。コメント読んでないんだけど、調子に乗って、ぼくがこれはラノベよりひどいなと思った有名な人気小説を紹介したいと思う。
どれも超人気作品なのでぼくの感覚がおかしいだけなのは十分わかってはいるのだけど、こう思うひともいるってことで。本気でラノベのほうがマシだと思っている。こういう小説を好んで読んでるくせにラノベ批判してるやつらって頭おかしいんじゃないのって思う。
というか、そもそもフォークナーやナボコフを原書で読むような日本に1万人いるかもわからないガチの文学オタクのひとたちがわざわざラノベだけを指定して批判するなんてことがありうるのかってことなんだけど。世界レベルの傑作を読んでしまうと、ラノベも一般層向けの大衆文学も大差ないよねって話になるわけで、ラノベはだめで一般層向けの大衆文学はすばらしいなんて話には絶対にならないと思うんだが。
ラノベはたしかにくだらないが、一般層向けの大衆文学だって同じようにくだらない。一般向けの大衆文学を擁護するくせに同じ大衆文学カテゴリーのラノベを批判するのは意味がわからない。どっちも同じだよ?
でははじめます。
ひどすぎて絶句する。プロの小説とは思えない。こんなものが大量に売れる日本は終わってるなと思わせてくれる。ぺらっぺらで何もない。ラノベ1冊読むのに40分かかるぼくが20-30分で読み終わる程度のうすーくかるーいゆるふわ小説。
>http://www.amazon.co.jp/dp/457551344X/>
「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」我が子を校内で亡くした中学校の女性教師によるホームルームでの告白から、この物語は始まる。語り手が「級友」「犯人」「犯人の家族」と次々と変わり、次第に事件の全体像が浮き彫りにされていく。
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重松清って有名だからどんなもんじゃいと思って読んでみたが、ほんとにしょうもない。こういうくだらないの読んでなにかいいもの読んだ気になっちゃうのはどうなんだろうな。まあ小中学生までかな。ラノベのほうがまし。
>http://www.amazon.co.jp/dp/406274998X/>
死んじゃってもいいかなあ、もう…。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして―自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか―?「本の雑誌」年間ベスト1に輝いた傑作。
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アホか! と叫んでしまう。「みずみずしい感性」ってこんなものかよ。エンタメのだめさが如実に表れている。こういうのを読んでいい話だと思っちゃうひとはあぶないのでは。『半分の月がのぼる空』でも読んだほうがまし。
>http://www.amazon.co.jp/dp/4087484920/>
そのひとの横顔はあまりにも清洌で、凛としたたたずまいに満ちていた。19歳の予備校生の“僕”は、8歳年上の精神科医にひと目惚れ。高校時代のガールフレンド夏姫に後ろめたい気持はあったが、“僕”の心はもう誰にも止められない―。第6回「小説すばる」新人賞受賞作品。みずみずしい感性で描かれた純愛小説として選考委員も絶賛した大型新人のデビュー作。
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評価が高かったから読んでみたが、ほんとにしょうもない。少年漫画か! と言いたくなる、糞みたいな人間関係とストーリー展開。主人公はさっさと死ねと思った。例外中の例外『神様のメモ帳』のほうがまし。
>http://www.amazon.co.jp/dp/4062761386/>
生後五ヵ月の娘の目の前で妻は殺された。だが、犯行に及んだ三人は、十三歳の少年だったため、罪に問われることはなかった。四年後、犯人の一人が殺され、檜山貴志は疑惑の人となる。「殺してやりたかった。でも俺は殺していない」。裁かれなかった真実と必死に向き合う男を描いた、第51回江戸川乱歩賞受賞作。
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日本語訳がひどすぎるという話は知ってる。それにしてもひどすぎる。ファンタジー大好きなぼくでも全然内容が頭に入ってこなかった。かといって原書読もうとも思えない内容だった。要するに俺TUEEE小説。これだったら「さすおに」こと『魔法科高校の劣等生』読んだほうがよい。
>http://www.amazon.co.jp/dp/4915512371/>
ハリー・ポッターは孤児。意地悪な従兄にいじめられながら11歳の誕生日を迎えようとしたとき、ホグワーツ魔法学校からの入学許可証が届き、自分が魔法使いだと知る。キングズ・クロス駅、9と3/4番線から紅色の汽車に乗り、ハリーは未知の世界へ。親友のロン、ハーマイオニーに助けられ、ハリーの両親を殺した邪悪な魔法使いヴォルデモートとの運命の対決までの、息を飲む展開。9歳から108歳までのファンタジー。
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ハヤカワepi文庫は積極的に集めているのだけど、そのなかでもしょうもなかった作品がこれ。まずタイトルがアホ。原題はこんなんじゃないのだが、日本人向けにあほなタイトルにしたらしい。もうね、日本人はなめられてるよ。内容はほんとにくだらない。アホかって千回叫んでしまう。
>http://www.amazon.co.jp/dp/4151200436/>
「君のためなら千回でも!」召使いの息子ハッサンはわたしにこう叫び、落ちてゆく凧を追った。同じ乳母の乳を飲み、一緒に育ったハッサン。知恵と勇気にあふれ、頼りになる最良の友。しかし十二歳の冬の凧合戦の日、臆病者のわたしはハッサンを裏切り、友の人生を破壊した。取り返しのつかない仕打ちだった。だが二十六年を経て、一本の電話がわたしを償いの旅へと導く―全世界八〇〇万人が涙した、衝撃のデビュー長篇。
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やたらとネットで絶賛されてるので読んでみたが、ほんとにしょうもなかった。構成は下手だし、描写もなんだかなあ。もっとヘビーでまともな文学はいくらでもあるよ。ケッチャムは有名になりすぎちゃったね。一部のカルト的人気でおさまっていればよかったのに。萌えラノベのほうがましなのは言うまでもない。
>http://www.amazon.co.jp/dp/459402534X/>
1958年の夏。当時、12歳のわたし(デイヴィッド)は、隣の家に引っ越して来た美しい少女メグと出会い、一瞬にして、心を奪われる。メグと妹のスーザンは両親を交通事故で亡くし、隣のルース・チャンドラーに引き取られて来たのだった。隣家の少女に心躍らせるわたしはある日、ルースが姉妹を折檻している場面に出会いショックを受けるが、ただ傍観しているだけだった。ルースの虐待は日に日にひどくなり、やがてメグは地下室に監禁されさらに残酷な暴行を―。キングが絶賛する伝説の名作。
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言わずと知れたノーベル賞作家なのだが、まあつまらないものはつまらない。でも海外のサイトのおすすめ文学みたいなリストにはよく入ってる。ちょっとよくわからない。これだったらフォークナー読んでたほうがずっといい。モリスンは調子に乗りすぎ。ラノベのほうが読みやすいしおもしろい。
>http://www.amazon.co.jp/dp/4151200576/>
元奴隷のセサとその娘は幽霊屋敷に暮らしていた。長年怒れる霊に蹂躙されてきたが、セサはそれが彼女の死んだ赤ん坊の復讐と信じ耐え続けた。やがて、旧知の仲間が幽霊を追い払い、屋敷に平穏が訪れるかに思えた。しかし、謎の若い女「ビラヴド」の到来が、再び母娘を狂気の日々に追い込む。死んだ赤ん坊の墓碑銘と同じ名のこの女は、一体何者なのか?ノーベル賞受賞の契機となった著者の代表作。ピュリッツァー賞受賞。
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しょうもなさすぎる。イシグロはブッカー賞作家なのだが、ブッカー賞作家でいえばクッツェーの足元にも及ばないと思う。ぼくは世界的な作家ではモリスンとイシグロが大嫌い。ラノベ読んでたほうがまし。
>http://www.amazon.co.jp/dp/4151200517/>
優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度…。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく―全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の新たなる代表作。
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純文学だが、とにかくつまらない。これ以上つまらない小説は存在しないのではないかというくらいにつまらない。文体がうつくしいというが、個人的にはそこまでいうほどかなと思う。なんか置きにいってキレイに整えているだけで、文章におもしろさを感じないんだよな。純文学にもラノベ以下のがあったんですねえ。
>http://www.amazon.co.jp/dp/4101030073/>
祖父と母との過失の結果、この世に生を享けた謙作は、母の死後、突然目の前にあらわれた祖父に引きとられて成長する。鬱々とした心をもてあまして日を過す謙作は、京都の娘直子を恋し、やがて結婚するが、直子は謙作の留守中にいとこと過ちを犯す。苛酷な運命に直面し、時には自暴自棄に押し流されそうになりながらも、強い意志力で幸福をとらえようとする謙作の姿を描く。
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と、いろいろ中身のない愚痴を言ってみたけど、これらはどれも超人気小説なのであり、世間で評価されてるわけで、グダグダ言ってるぼくがおかしいのは間違いない。つまり、逆に言えば、自分が平均的な人間だと思うなら、ここで挙げた小説を読んでみたら楽しめるかもしれないってことだ(『ビラヴド』『暗夜行路』以外は)。ただ、ぼくみたいな人間も一部にはいるというのはたしかなことで、そういう人間にとっては、これらの人気小説よりもラノベのほうが価値がある。ちなみにぼくはべつにラノベばっかり読んでる人間というわけではない。
ラノベを擁護したいのは、一般層向けのくだらない大衆文学しか読まないような人間がラノベを馬鹿にしていたからだ(前も書いたのだけど、かれらはカントやヴェーバーやアドルノなど文学部で絶対に読むような本すら読んでない。そんな無教養な人間が多い)。きみの読んでる小説もラノベと大差ないのだがねといいたいのだけど、いちいち突っ込みいれてたらなんかけんかになるしいえない。というわけでここで書いたわけ。
いや、ほんとにラノベとその辺の大衆文学に差はないよ。基本的にどっちもくだらないのが多い。そしてラノベにも見るべきものはあるってこと。そんなシンプルな話なんだが、なんで議論になるのか。ひとによってはぼくみたいに、ラノベ>ノーベル賞作家の作品ですらあるわけ。ラノベだからくだらないってのはおかしな話だわな。
ラノベを見下したいやつらってなんなんだろうね。上でも書いたけど、文学オタクがラノベを見下すってほとんどありえないことだよ。だってまず最初から相手にしてないんだから。ラノベを見下しているのは大衆文学のファンなんだよね。ラノベも大衆文学の一部なのに。読み捨てのエンタメ同士仲良くしろよって思う。
言っておくけど、べつに釣りではないよ。いつも思ってることを書いてみただけ。
教養って何だろう
http://anond.hatelabo.jp/20140704205502
インターネット暇人どものおかげで教養の様々な側面を覗けた。大変参考になった一方で、当然いくつか疑問が湧いてくる。以下はその疑問について。(なお、私は小説も思想書も哲学書もまったく読まない)
【教養があると自由になれる】
gingger4 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること (参考)家庭環境と読書の習慣のこと/図書館となら、できること http://bit.ly/KWHFw2
showgotch 皆俺流教養論を語るんだけれど微妙にずれててワロタ。歴史的に教養は自由になるための学問なんだけど同時に貴族の学問でもあったためオペラや歌舞伎を楽しむ素地として連帯の道具でもあったわけだ。ハイパーメリト
seachikin 狭い世界に生きてると視野が狭くなるからせめていろんな情報を集めて他にもいろんな世界があるということを知るってことが教養だと思ってる。んで私は本は読むけど教養はあんまりない。
tyshu 全然読書をしなかった自分が、思い立って1年に100冊読書するってのをやってみたことがあったけど、知識と知識がリンクする様な、世界の広がりを感じたのが印象深かったなと。読書はその時だけで今は…
sardine11 ナボコフ流に言うなら良き読者とは芸術的気質と科学的気質が結合した人。つまり客観的な世界に対する主観的認識を多様化させ心を打ち震わせる経験をする、それが読書そして教養の意味。娯楽と知識の境目に教養がある
a22222111544 この世界で起きていることの大部分を「ひとまずは」愛と理性で把握するために必要な古典的知識の体系と、あとはそこにアクセスするための言語能力だと思います。本来的な意味での教養を持っている人はごく少数。
bell_chime_ring238 教養は世の中で起きることを解釈する下地かな。本当にすごい人は、何気ない話題でも全然違う次元で考えてるし、こちらも自分の知らない世界に行けてしまう。体感できれば、教養が人格を作るって理解できるよ
p_shirokuma 己の世界観・娑婆観の構成素子のなかで、事後的に確認できるものの総体が、しばしば教養と言われているような気がする。
exterminator 必ずしも読書量ではない。世界を体系化して見るため/自分を少しでも自由にするためのもの。環境とか文化資産()どうこうより上より下を見て人の足引っ張るような人が多いとこにいると身に付けるのが難しくなる。
なるほど、教養があると自由を獲得できるのか。通時的にも(リベラルアーツ云々)共時的にももっともらしい主張だ。私もそのような側面があるとは思う。ただし、これにも疑問が残る。
疑問を述べる前に、自由とは何だろう。ここでは、他のものから拘束・支配を受けずに自分自身の意志に従って行為できる状態、としておく。そして、自由には経済的自由と精神的自由の2つがある、ということにしておく。
経済的自由については、いくつかの専門分野について十分に学習すれば達成できそうではある。逆に、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながらいくら深く広くたくさん行ったところで達成できそうになさそうである(それだけ文学/思想/哲学/芸術に精通していれば少なくとも批評家などにはなれそうではあるが、彼らの年収の最頻値を知らないので、それが経済的自由を獲得できる程度のものなのかについては保留する)。
精神的自由については、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながら深く広くたくさん行っていれば獲得できるのであろうか。いくつかの専門分野について学習をしていくだけでは達成できないものなのだろうか。学習する専門分野を十分に増やしていっても、あるいは専門分野ごとの理解を十分に深めていっても達成できないものなのだろうか?
また、経済的自由なくして精神的自由はありうるのだろうか?フレデリック・ダグラスは生涯奴隷のままで精神的自由を獲得できたであろうか?
フレデリック・ダグラスについて
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-377.html
【締め】
まぁ、お前らの思うところを書いてけや。
なお、他の疑問については分割する。インターネット暇人どもは長いエントリーを読むのに苦痛を覚えるからな。開発をやる人間の口を借りれば、きっと、このエントリーに限らずそもそも増田なんかにはユーザーが何分も滞在する価値なんてねー、と宣うに違いない。まったくである。
SFをもっと楽しむための科学ノンフィクションはこれだ! http://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/20140417/1397744529 を受けて10冊選んでみました。
「『現実とはなにか』という認識が変わっていく」ような本はありません。
ヨーロッパにおける完全言語を求める歴史を扱った『完全言語の探求』と多くのプログラミング言語設計者へのインタビューをまとめた『言語設計者たちが考えること』は、あまり読者が重なっていない気がしますが、円城塔をきっかけにして両方読んでみるのもいいのではないでしょうか。
「つぎの著者につづく」(『オブ・ザ・ベースボール』収録)の冒頭で語られるエピソードが『完全言語の探求』から引いたものであることは単行本収録時に追加された注で明示されていますし、「道化師の蝶」に出てくる無活用ラテン語についても『探求』で触れられています。
一方『言語設計者たちが考えること』については、読書メーターで「小説を書く人も読むと良い」(2010年12月10日)とコメントしていて、『本の雑誌』の連載でも取り上げています(2011年11月「言葉を作る人たち」)。また『本の雑誌』の連載では『言語設計者たち』以外にも時々プログラミング言語や言語処理についての本が取り上げられています。
最近連載のはじまった「プロローグ」(『文學界』掲載)も今のところ、より望ましい文字の扱いや処理についての話をしているので、いささか強引な解釈ですが『完全言語の探求』『言語設計者たちが考えること』と繋がっている小説です。
ロシア語作家として出発しアメリカ亡命後に英語作家に転身したナボコフは、自分自身の書いた文章を別の言語に翻訳する「自己翻訳」を相当数おこなっていますが、それを主題とした評論書です。
円城塔本人も語っていますが、「道化師の蝶」ではナボコフがモチーフとして使われています。友幸友幸が「希代の多言語作家」であることもナボコフへの参照のひとつでしょう(若島正は『乱視読者の新冒険』のなかでナボコフを「稀代の多言語作家」と形容しています)。その希代の多言語作家の「わたし」とそれを翻訳する「わたし」が重なるようで重ならない「道化師の蝶」の筋立てにも、同じ作品について作者と翻訳者の両方の役割を演じたナボコフの影が見出せます。また「道化師の蝶」の姉妹編といえる「松ノ枝の記」での、相互翻訳・相互創作する2人の作家という設定も「自己翻訳」の変奏と見ることができるでしょう。こうした創作と翻訳の交錯する2編を再読する上でも、この評論書が良い補助線になるのでは。
読書メーターのコメントは「素晴らしい」(2011年4月28日)。
最初期に書かれた『Self-Reference ENGINE』や「オブ・ザ・ベースボール」「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」(『虚構機関』収録)などに顕著ですが、円城塔の小説には、掌編の積み重ね(積み重ならず?)によって全体の物語が作られるという構造がよく現れます。これは辞典を順番に読んでいく感覚とちょっと似ているかもしれません。『数学入門辞典』を読んでいると、たとえあまり数学に詳しくなくても、円城塔の小説に対してしばしば言われる「よく分からないけど面白い」という感覚を味わえると思います。ただし、円城塔の小説に出てくる数学用語がこの辞書に出てくるなどと期待してはいけません。
「一家に一冊」だそうです。 https://twitter.com/rikoushonotana/status/402707462370758656/photo/1
円城塔の小説には数学者やそれに準ずる人が多く登場しますが、『史談』は数学者を語った本として真っ先に名前のあがる定番の名著です。著者は類体論を確立したことあるいは解析概論の著者として知られる高木貞治。かの谷山豊はこの本を読んで数学者を志したそうです。
数学部分については河田敬義『ガウスの楕円関数論 高木貞治先生著"近世数学史談"より』という講義録があるくらいには難しいので適当に飛ばしましょう。
『考える人』2009年夏号 特集「日本の科学者100人100冊」で円城塔が選んでいたのが高木貞治とこの本でした。
ムーンシャイン現象は、『超弦領域』収録の「ムーンシャイン」の題材で、他に「ガーベジコレクション」(『後藤さんのこと』収録)にも単語だけですがモンスター群とコンウェイが出てきます(コンウェイは「烏有此譚」の注にも言及あり)。作品内に数学的ホラ話といった雰囲気がしばしばあらわれる円城塔にとって「怪物的戯言(モンスタラス・ムーンシャイン)」はいかにもな題材かもしれません。
ムーンシャインを扱った一般向けの本というとたぶん最初に『シンメトリーとモンスター』が挙がるのですが翻訳が読みにくいし『シンメトリーの地図帳』にはあまり説明がなかった気がするので、この『群論』を挙げます。
数学の専門書ですが、第4章「有限単純群の分類/Monsterとmoonshine」は読み物風の書き方になっています。ただし詳しい説明なしでどんどん話が進んでいくところも多く、きちんと理解するのは無理です(無理でした)。
第4章を書いている原田耕一郎はモンスター群の誕生にも関わりが深い人で、多くの文章でモンスターとムーンシャインについて触れているので、雑誌などを探せば難度的にもっと易しい文章が見つかるかもしれません。
円城塔の小説には「オブ・ザ・ベースボール」のように確率についての言及もよく見られます。『数学セミナー』『数学のたのしみ』『科学』等で高橋陽一郎が書いた確率論についての諸入門解説記事、は探すのが面倒だと思われるので、もっと入手しやすいこの本を。
確率微分方程式で有名な伊藤清のエッセイ集です。「確率」より「数学者」の項に置くのがふさわしい本ですが確率の本として挙げます。
読書メーターのコメントは「素晴らしい」(2010年10月24日)。
やはり専門が力学系ということもあり、力学系関連もしばしば登場します。
本のタイトルを見て「力学系と力学は違う」と指摘されそうですが、副題は「カオスと安定性をめぐる人物史」。力学系の歴史に関する本です。実のところどんな内容だったか覚えていないのですが、「いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について」(単行本未収録)で引用文献に挙がっているから大丈夫でしょう。
『Nova 1』収録の「Beaver Weaver」をはじめ、ロジック(数学基礎論)関連も円城塔の小説に頻出する素材です。
とりわけ計算可能性、ランダム性、busy beaver、コルモゴロフ複雑性……とあげてみると、まずはチャイティンの諸作が思い浮かびますが、あれはむやみに勧めていいタイプの本なのかちょっと疑問なので避けます。読書メーターでは、最近出た『ダーウィンを数学で証明する』に対して「 チャイティンのチャイティンによるチャイティンのためのいつものチャイティン」(2014年3月20日)とコメントしています。
これという本が思い浮かばなかったので、いくらかためらいながらもこの本を挙げました。『メタマジック・ゲーム』か、あるいはヒネリも何もなく『ゲーデル・エッシャー・バッハ』でよかったのかもしれません。ただ『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だけを読んでもほぼまちがいなく不完全性定理は理解できないということはもっと周知されるべきじゃないかと思います。
円城塔はこの本について「すごかった。(但し、かなりハード。)」(2011年3月27日)とコメントし、『本の雑誌』でも取り上げています(2012年10月「ゲーデルさんごめんなさい」)。
初心者向きの本ではありませんが、不完全性定理について一席ぶつ前に読んでおくといいでしょう。
『天体力学のパイオニアたち』が上下巻なので、以上で10冊になります。
別にノンフィクションを読まなくてもフィクションを楽しむことはできますが、ノンフィクションを読むことによって得られるフィクションの楽しみというのもまた楽しいんじゃないでしょうか。
追記: 小谷元子編『数学者が読んでいる本ってどんな本』に寄稿している13人のうちのひとりが円城塔なので、そちらも参照してみるとよいと思います。リストに挙げられている約50冊の本のうち半分くらいがノンフィクションです。上に挙げた本とかぶっていたのは『数学入門辞典』『天体力学のパイオニアたち』『ゲーデルの定理 利用と誤用の不完全ガイド』でした。また、はてブのコメントで言及のあったイエイツ『記憶術』もリストに入ってました。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223(最初のトラバ先)
http://anond.hatelabo.jp/20130831142238(自分の記事)
元増田の人が2nd Seasonを書いてくれたので、こういった若い人たちに役立ちそうな知識をさらに追記してみたい。
(実は若くなかったら申し訳ない)
念のために書いておくけれど、僕は最近のラノベ専門学校の実態は知らないし、体験入学に行ってみて入らないというのは、優れた判断だと思う。
実際に教師の質をどう担保しているのか不透明だし、やはり意識の低い学生も多い。(自分の時は、おおよそ2割=10人は中退した)
教師は別に仕事を持つ社会人が多く、どちらかというと偏った業界の偏った人格の人達で、しかも扱う分野が本来主観的なものであって、生徒への評価も心情的になりやすい。
それに、最近のラノベブームで、雨後のタケノコのように学校が開かれているのかもしれない。
そういったところはやはりノウハウも無いだろうし、授業の質も低いだろう。
(余談だが、僕が通学していた当時は、まさかこれほどラノベが流行するとは正直誰も思っていなかった。ただ、先生は「これからミステリー小説のように定番ジャンル化するだろう」と予言していた。涼宮ハルヒも出ていない頃だ)
だから、専門学校に通わないというのは、比較的低リスク・低コストで賢明な判断だと言える。
しかしながら、元増田が挙げてくれた問題について、それを断定のまま終わらせてしまうのはもったいない。
特に3番目の問題、
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
元増田が残念なのは、この深い疑問を、専門学校の体験入学ごときで解決してしまった気分になっていることだ。
僕自身、先生に教わったり罵倒を受けたりしながらも、この疑問に突き当たった。
そして、学校の内側と外側の両方で、この問題について世の中の頭の良い人達がどのように携わってきたか、それなりに気にしてきた。
おそらく、以下の参考資料を全部精読し、実習を行い、誰か信頼できる人からの客観的な添削を受け、頭だけではなく全身に技術をしみ込ませることができれば、決して取り戻せない数百万円と数年を賭して専門学校に行く必要など、皆無だろう。
また、下記ばかりでなく、もっと体系的でしっかりした知識が学べる大学なり海外大学なりケンブリッジやオックスフォードもあるかもしれない。
そういったものがあると分かったら、単純にそこへ行くべきだ。
文芸的な文章を除く基本的なライティングについては、古典的な書籍がたくさんある。
下記2冊は、ここで紹介するのが恥ずかしいくらい基本的な書籍だ。
さて、上記のような確立した情報伝達技術ではなく、独自の表現をしてみたり、人を感動させる文章を書きたい場合、そういった技術は教える・教わることができるのか?
それを体系的に扱うことは確かに難しい。そもそも人の感情であったり、表現から受け取る印象が非体系的だからだ。
だからといって、先人がそれを教育の世界で取り扱おうと努力してこなかったわけではない。
どうしても総論ではなく各論になってしまうが、それでも個人的に見て良書は多い。
「文章作法を学校教育のように教えられない」結論に至るのは自由だが、下記書籍を全部読んでから至っても決して遅くない。
「作文」の価値を捉え直した、文章表現の入門書。作品でも製品でもなく、純粋な「作文」そのものの価値を再発見している。
大学の講義をまとめた本。固いタイトルに反して、極めて柔らかい語り口で柔らかい内容を講義してくれている。
だけど、書くことの意味について、「美」について、とても鋭い視点であふれている。
前の文章でちょっとだけ出した。レトリック、つまり、文章で人の心を動かすための体系的知識(!)を取り扱っている名著。
レトリックは長らく馬鹿にされていたらしい(結局、ただの言葉のあやではないか?)が、それを感覚論・認識論・記号論の観点から再評価した名著。
なぜ直喩が隠喩より優れた修辞技法になり得るのか? といったことが詳しく書いてある。
大江健三郎による文学論。そもそも小説や文芸作品とは何を目指すものなのか? といったことを明確に書いてくれている。
それは同時に、読者としての私たちが誠実な文芸作品の中に何を求めるべきなのか? ということでもある。
文章読本は色々あるが、その中でももっとも実践的と言われる丸谷才一の本だ。
歴史的仮名遣いで読みにくく感じるかもしれないが、内容そのものは平明だったと思う。
(しかし、いまなぜか手許に無いので詳しいことは書けない。「ちょっと気取って書け」くらいしか思い出せない)
E.M.フォースターによる文学理論。Amazonで8000円くらい。僕はカチグミなので古書店で1000円で入手できた。
「ストーリーはあまり美しい要素ではありません」という衝撃的な宣言が印象に残っている。
小説というものを本来どう味わうべきか? どう書かれるべきか? という熱のこもった講義録だ。
新装版が出るんだ……。
芥川賞を最年少(23歳)で受賞しながら、文壇に属せず、独りストイックに小説を書き続けている作家の文学指南書。
テクニックの本ではないが、ここで明らかにされている執筆姿勢には衝撃を受ける。
ホームレスをしていた25歳のコリン・ウィルソンが大英博物館で一気呵成に書き上げた文芸評論書。
「アウトサイダー」というキーワードのもと、文学・美術・舞踏・哲学などなどを横断的に眺め渡した名著。
本気で読むと人生が狂う。
先の記事で書いた。全日本人が読むべき。
なんだかこういう本のことを書けるのが嬉しくて、ついかっとなってリストアップしてしまった。今は反省している。
偉そうに書いたけれど、結局は僕も文学界新人賞で名前が小さく載ったくらいの実績しかない人間で、そんなには当てにはならないだろう。
しかし、僕自身が当てにならなくても、何が当てになりそうかの感性は結構あるつもりだ。
教育における教師とはそういうもので、自分ができなくても人の作品を見て添削できたりはする。
失敗している人からだって、むしろ失敗している人だからこそ学べることもある。
そういった人達の行く末をよく見て、やはりラノベなんかやめて、楽しくOS・エディタ・コンパイラでも作ろうと思って欲しいのだ。
私は今中学生に通っていて、職場体験の一環で本屋さんではたらいていました。
ほんの5日間だけの体験でしたが、そこで出会った男性に恋をしました。
その人は、私くらいの年齢のキャラクターの登場する、えっちな漫画を買っていく人でした。
31歳、32歳ぐらいで、優しそうな人でした。純粋な感じです。あんまり服には関心がなさそうで、
毎日同じ服を着ていました。
同級生の男の子のように、大人の女の人には興味なくて、子供派なのかな。あるいは別腹扱いなのかな。
店員が客に関心を持つのはまぁいいことじゃないんですが、やっぱり印象に残りました。
えっちな漫画って、やっぱり男の店員さんのレジで買うことが断然多かったのですが、その人はいつも私のレジで買っていきました。
わたしもちょっとはずかしくて困りましたが、授業なので頑張りました。
でも、やっぱ来るとどきどきしました。どうやら好きになったみたいで。もう当たって砕けろってことで、
先日クラスの男の子に「おっぱいが小さい」と言われてフラれてしまったこともあって。
メモ紙にメルアドと電話番号を書いて、デートしたいです、と一言添えてコミックス入れた袋の中に投げ込んでおきました。
渡した後は、すごくどきどきしました。これ、店長さんとかに叱られるのかな、先生に怒られちゃうのかな。っていうか、
周りからどんなこと言われちゃうのかな。そんな葛藤をしつつ連絡を待ったのだけれど、携帯は鳴りませんでした。
1日が過ぎて。
2日が過ぎて。
泣きそうになっていた3日目に、見慣れないアドレスからメールが来ました。「いいよ。〇時に〇〇のマックで」と、簡易な文。
すごくうれしかったです。でも、絵文字もなかったのでちょっぴり不安になりました。
そして、待ち合わせのマックに約束の5分ぐらい前に行ったら、すでに来て本を読んでました。いつもと同じ格好。
本の形状から、えっちな漫画かなと思ったのだが、まさかエロマンガじゃないよね…と、複雑な気持ちで、話しかけて何読んでるのか
確認したら、ナボコフという人の書いた文学作品でした。うん、さすがにえっちな漫画だったら、わたしもリアクションに困ったと思います。
そのあと、普通にその辺のゲーム屋さんとかブラブラして昼飯をごちそうしていただいて食べて解散(2時間ぐらい)。
どうやら、がっこうの制服が好きらしく、えっちな本+同じ服+文学作品+制服がわたしの中でインプットされました。
そんなわけで、(向こうが用事があるとのことでしたので帰るっていうことで)早々にデートが終わり、わたしは楽しかったんだけれど相手は楽しくなかったのかな…と
軽く凹んでいたら、「またデートしようよ」って電話がありました。メールじゃなくて電話だったから、ちょっと驚いたけど、すごく嬉しかったです。
大雑把というか、淡泊というか、そういう人なのかなとようやく気付く。
もしかしたら照れていただけなのかも?
そういえば、あんまり笑顔も見せてくれないです。学校の制服の話をしていたときは、こっちがキュンってなるぐらい素敵な笑顔でしたけど。
そんな感じで、デートを重ねてそのまま付き合うことになりました。
付き合う前から分かったのだけれど、向こうは年上でした。30歳。お仕事は、コンサルタント?でした。
わたしが大きくなったらどうなるのかな、という不安をぶつけましたが「プリンセスメーカーもいいよね」と優しい笑顔を浮かべて抱きしめてくれました。
優しくて、素敵な人です。
そんな感じで、付き合って半年が経ちました。
なんだっけ。『ロリータ、ロリータ、ロリータ』だっけ? 『ロリータ』の読み方解説した本があって、その本の中に『アンナ・カレーニナ』のナボコフによる講義のことが出てくるんだけど。
四時に、リョーヴィンは胸をどきどきさせながら、動物園の前で辻馬車をおり、小道づたいに、手橇すべりの山とスケート場のあるほうへ向かって歩いて行った。彼は車寄せにシチェルバツキー家の馬車を見かけたので、今すぐてっきり彼女に会えるものと思っていた。
それはからりと晴れあがった、凍てのきびしい日だった。車寄せに馬車や、 橇や、辻馬車や、憲兵たちが列をなして並んでいた。 こざっぱりした身なりの人びとが、明るい日の光に帽子をきらきらさせながら、入口のところや、棟木に木彫りの飾りをつけたロシア式の小屋のあいだの、きれいに掃き清められた小道に群がっていた。雪の重みで、巻毛のような枝をすべてたらしている、庭園の白樺の老樹は、まるで新しい荘重な袈裟で飾りたてられたみたいであった。
(中略)
「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。 だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」 黒い手袋をはめた、 かわいい手で、マフにおちた霜の針を払いおとしながら、 キチイはいった。
という場面に対して、
この場面についてナボコフは、「トルストイの文体は実用的な比喩がふんだんに出てくる一方で、主に読者の芸術的感覚に訴える直喩や隠喩が奇妙なほどに見当たらないが、この白樺は例外である。 この老樹はやがてキチイのマフの毛皮の上に祝福するような霜の針を落とすことになるだろう」と言っています。ただし、引用で中略とした部分は実際には文庫版で三、四ページほどの、かなり長い間隔があいています。ここを読む読者は、「黒い手袋をはめた、かわいい手で、マフにおちた霜の針を払いおとしながら、キチイはいった」 という箇所にやってきても、そういえば白樺に雪が積もっていたな、なんてことはたぶん忘れているのではないでしょうか。少なくともわたしは忘れていました。ところがナボコフは、じつにいとおしそうな手つきで、その霜の針を拾い上げているのです。
っていう解説がついている。
クソワロタ。
アポリネールが、ジッドが、ナボコフが、ロブ・グリエが、バタイユが
「健全」で「ためになる」んだ。あんなの有害図書以外のなにものでもないと思うんだけど。今も尚説得力あるんだ。
なるほどなるほど、スタンダールの恋愛論を真顔で読んじゃうんだ。
歴史的選別を経てないものは芸術じゃないんだ、つまり現代「芸術」は存在しない、と。
ピンチョンやデリーロもダメか。っていうか、その理屈だと「太宰」は「健全でためになる芸術家」か。
教養なさすぎじゃない?「健全でためになる芸術」ってほとんどないと思うけど。
武者小路実篤の熱烈なファンとかそういう珍しい人なの?芸術なんてほとんどがクソの役にもたたない
不健全不健康不道徳なものですよ。ドストエフスキーが「健全でためになる」んだ。
「サブカル」と聞くと若者向けのちょっと尖った商品、作品と思う人が多いと思う。
たしかに、その認識に間違いはないだろう。ただし、十年以上前の話しならば、だ。
サブカルと聞いて、あなたは誰を思い浮かべるだろうか。
みうらじゅん、吉田豪、または伊集院光……だいたいこの辺の人間は必ず挙がってくる。
しかし、ちょっと考えてみてほしい。同様の質問を五年前、十年前にしてみた場合、やはり同じ名前が出てくるのではないだろうか。
もちろん、彼らの実力は本物で、ゆえに需要が高く、キャリアも長くなっている。
だが、本当にそれだけが起因と言っていいのだろうか。
はっきりと言おう。サブカルは世代交代がなされていない。雑誌を開くと何年も同じメンバーが似たような切り口でコラムを書き、書店のサブカルコーナーに行けばいつも通りのスターディングメンバーの新刊が出迎えてくれる。
その原因はめぼしい新人が現れないだとかいったことが理由ではない。もっと内部に醜く捻れた構造が眠っているのだと、私は思う。
そもそもサブカルは主流文化に馴染めないエッヂな(悪く言えばひねくれた)人間が集まって形成されたものである。既存文化ではカテゴライズできない魅力を求めた人々が消費していたのだ。
しかし、いつしか本来既存からはみ出していたはずのそれらを、「サブカル」とパッケージングし、売り始めることになる。
そして、そのパッケージングされた商品を、個性尊重教育で「他人と変わっていなければいけない」という強迫観念にかられた人々が、「個性」を買うために手にし始めるのだ。
カルチャー誌もそれを後押しする。ロリータの作者、ナボコフは「広告はその商品を買えば、あたかも購入者が高貴な存在になれるかのように錯覚させる」と言い放ったが、彼らも「サブカル」のカタログに載っている商品のどれかを買えば、自らも個性的になれると錯覚していると思われる。
彼らの目的は自分の趣味を追求することでも、なにか新しいものを創造したりすることでも、見つけ出したりすることでもない。「自分は個性的」と安心したいだけなのである。孤立を覚悟してでも自らの感性を信じきっていた先人とは大違いだ。
さらに最悪なことにこのような人間は「クリエイター病」を併発している可能性が高い。「クリエイター病」とは、なにかモノづくりの現場に関わり、有名人と交流することこそが人生最良の道であり、クリエイター系の仕事についてない人間はすべて挫折し夢敗れた落ち武者で、毎日布団のホゾを噛みながら恨み言を呟くような悲惨で陰湿な生活を送っているに違いないと思い込むことである。
個性を金で買うようなクリエイター病羅患者が制作側に回るとどうなるか。それがいま現状起こっているような世代交代がまったく進まない世界、というわけである。
彼らのやりたいことは新しいものを見つけ出すことではないため、既存の「個性的」と烙印の押された人物に、自らのプライドを満たすために仕事を依頼することになる。その結果がどこを見ても「みうらじゅん」状態を作る。そして、サブカルは予定調和で満たされる。
みうらじゅんを使えばOK。ボンクラっぽいことを書けばOK。童貞って言えばOK。すべて約束事で構成されているくせに、あたかもエッジであるかのように気取る。
もちろん、そんなことをやっていると感性の鋭い人間は当然そっぽを向く。雑誌を買わなくなり、ネットなどを使って自分の足で本物を追い求めるようになる。それがスタジオボイス廃刊のカラクリである。
同じ人間を使って同じようなことを繰り返した結果、サブカルは特定の世代にしか相手にされていない中年文化へと成り下がった。まずはそれを認めるところから始めよう。このままじゃゲートボールや盆栽と同じになってしまう。
「私、サブカル好きなんです」と宣言し、オーケンと絡んだりしているアイドルのなんとどん臭いことか。サブカル好きと見られたいがためにサブカルとパッケージングされているオーケンの商品を買ったでしょう?
ソラニンの実写映画の主題歌を、アジアンカンフージェネレーションが担当すると聞いて「えっ!?」って思った人がいたかい? みんな「ああ、やっぱり」って思ったはずだ。本当のサブカルは、そんな予定調和から遠く離れたところにあるはずなんだよ。
「カットされる」のと「製作禁止&単純所持禁止」では全然違うよね。
「カットされる」ことを軽視してはいけないよ。作品の内容が全く変わってしまうこともあるんだから。
筒井康隆はそれにマジギレして断筆までしたんだからね。
だいたい、カットされるとわかってるものを製作するやつはいないから、カットするというのは製作禁止にかなり近いんだよ。それに、カットされるようなものを単純所持するのはやばいってことになりはしないか。俺だったらびびって捨てることを考えるし、古本屋で見つけても買わないだろうね。
いつの時代の話?
今はチャタレーより遥かに性描写の激しい小説が成人指定にもならずに堂々と売られてるけど。
今と当時で法律が変わったわけではないよ。つまり、文学も法律で規制できるということだ。
だったら、児童ポルノの疑いのあるものは過剰に取り締まってよしなんてことになったら、源氏物語はともかくナボコフの「ロリータ」がやばくなることは現実的に考えられるだろう。
韓国は社会通念が日本より十年かそこら厳しいだけで、法律的には完全な民主主義の国だよ。
日本に来たことがあるのかどうかは知らん。ただ、フランスでも公開するとき一悶着あったらしい。
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/d/20050417
そうは全然思わないが、「裸を描写することは性的虐待」と主張してる奴がいるんだろ。
だいたい、しずかちゃんの入浴シーンってのはのび太が覗くという状況で出てくることが多い。覗きというのは性的虐待だと言われても反論は難しいだろ。