はてなキーワード: マルキ・ド・サドとは
本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。
「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。
何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。
つまり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だから、ジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。
パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正と明治で同じようなことがあった、とか。
時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶も曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白いものって今にはないかな、と。
そうやって見ていくと、最近の若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものとそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから、時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。
今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではないです。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱になっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。
そもそも、ご自身の文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います。
あの、本書の前半では、2022年9月13日のフランスの映画監督ゴダールの死について書かれています。高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別な存在なんでしょうか?
これは世代的なもので、僕の世代で芸術、音楽、映画、文学が好きな人でゴダールに影響を受けていない人はいないと思います。
当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画のニュースもなかった。テレビのニュースもやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。
僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画もクレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。
しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGSの映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダールの作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイルが特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的に編集で映画を作るというスタイル。
引用が多い。ゴダールの作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用で作品を作る。だから、過去の世代を否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います。
最後の作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真がバンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。
どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダールの作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画はテーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ、映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。
ゴダールは、自分の映画が自殺の映画だと言っていて、主人公が死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後に主人公が自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後に自分の意思を表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。
「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品と現実の境界を取り払うことを考えていたんです。作品と現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。
映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダール。アメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールはもっと前からそれをやっていた。それがかっこよかったんです。
また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学者牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?
いや、面白いですよ。単純に普通に面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。
でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。
でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。
普通、おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいから普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のものを尊重するってことなんですよね。つまり、おかしくても存在意義がある。
これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。
僕も色々調べました。障害がある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます。時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます。特に父親は最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。
魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです。牧野富太郎も変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎は植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。
でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存が保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存が保証された。
でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。
結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。
これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。
セコさんの漫画「マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますから、よろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?
自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています。
一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります。
例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。
転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。
そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。
例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族と契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。
プラン75もそうですが、年寄りが不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。
でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代が連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。
僕は政治テーマとして、全世代が連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。
これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。
社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。
ジャニーズ問題と玉音放送について、高橋さんがテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題を無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末にジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか?
あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBCが放送した直後に番組審査員を辞めて、最後の番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。
でも、やっぱりテレビ局は商業放送だから、視聴率が下がることが怖いんですよね。だから、視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通の常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。
今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディアが動画サイトやSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。
だから、僕も言ったんですが、面白い動画サイトの番組はテレビより面白いですよ。テレビのバラエティなんてやめたらいいと思います。個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビはお金も人もあるんだから、もっとできることがあるはずなんですよね。
Netflixのドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います。
江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サドの作品を絶賛されていた話もあります。今の時代の言論の空気感についてどう感じていますか?
メディア、テレビ、ラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。
一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史の捏造じゃないですか。
今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史の捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。
ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います。定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものだから。
ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会だから、空気で決めるというのはやばい。ポリティカル・コレクトネスが空気で決められるようになっているのが、日本の事情なんですよ。
上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事を判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題を言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。
その辺が、日本という国は忖度する社会だから、空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。
大杉栄についても言及が複数見られます。思想、生き方、性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?
大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。
例えば、子育てをしていたんです。普通、政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊の選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。
彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供だから自分が Permalink | 記事への反応(1) | 08:25
ググったら予想以上に設定が細かくて草
ソレナンテ・エ・ロゲ(Sorenant et Roage)は1599年4月1日生まれのフランスの評論家である。
主に人間の性欲に対する研究を行い、また、学会では批評を行った。
●誕生
父親は後にフランス東インド会社となるパリ国営貿易会社本部の創始者であり、また、母はルイ11世の服装を製作するデザイナーという大富豪の家に生まれる。
幼少期には何にも興味を示さず、養育係やメイド達を困らせたが、13歳の時に友人であるピエール・ダレソレの奨めで同級生であるエマ・ギラクサと付き合う。
それをきっかけに恋愛にのめりこみ、数年のうちに数十人の少女と付き合ったという。
しかし、両親は一人息子が初めて物事に興味を持ったからと屋敷に離れ屋を作り、そこに彼女達を住まわせたと言われている。
なお、後にこれが現代のラブホテルの発端になったという説もある。
20代前半にして、既に100を超える女性とつき合っていたソレナンテは女を見る目が肥えて、フランスの週刊誌「プワソン・ダヴリル」に女性との付き合い方についての1コーナーを担う事になる。
そのコーナーは女性と付き合う為のバイブルとして貴族から平民まで幅広く読まれる事になった。
また、沢山の女性と付き合いながらも、三角関係を円満に解決したり、アメリカから連れてこられて売春婦にならざるをえなかった女性の人権についての批判もしていた。
そんな中、女性の人権を守る会(ドロワ・プル・プロテクション・ドゥ・ラ・ファム)の会長マルキ・ド・サドに注目される。
彼は活動当初は男尊女卑の社会であった為全く注目されなかったが、徐々に思想が広まり、認知されて来ていた。
そんな彼が、ソレナンテに注目したのはある意味必然とも運命の悪戯であるとも言えるだろう。
また、サキュバス・インキュバスの研究をし、それが強姦による妊娠への言い訳であるという批判をしていたザッヘル・マゾッホも彼に注目。
やがて同志となった。
しかし当然の事ながら、男尊女卑の体制を敷いていた貴族から危険分子として注目されてしまう。
貴族達の陰謀により彼らは何度も逮捕され、また釈放されては活動を行い逮捕されを繰り返した。
「またお前か」
と半ば飽きれられる程の知り合いになり、囚人が寝静まった頃こっそりと酒を飲む仲になっていたという。
そんなソレナンテだったが、貴族の陰謀によりついにルイ14世によって処刑が決定され1664年2月30日に処刑された。
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
「地球を丸ごとぶっ壊す物語って知りませんか?」関連の
トラックバックとブックマークコメントで言及されたもの、自分で言及したものをまとめました
情報を提供してくださった皆さんと、場所を提供してくださった株式会社はてなさんに感謝します
ありがとうございました
あああああああああああああああああああああ面倒くさかったああああああああああああああああああ
誰かに面倒くさいこと軽い気持ちで押し付けて平気な顔してるやつが大嫌いなんじゃあああああああああああああああ
感謝なんかしてねえくせに軽い言葉で済ませようとする奴が大嫌いなんじゃあああああああああああああああああああああああ
そこのお前じゃお前えええええええええええええええええええええええええええええええ
二度とこんなことやりたくないです
『超権威主義的世界文学百選』http://togetter.com/li/138734というランキングを見て、面白いと思いながらも疑問に思ったことがあって、「20世紀の小説ばっかりじゃん!!」ということで19世紀の小説を重視したランキングを作成してみました。具体的には近代文学の始まり「ドン・キホーテ」(1605,1615)からモダニズムの始まりである「ユリシーズ」(1922)までです。つまり近代文学のモダニズム以前、ということになります。小説を選ぶうえで参考になればと。あと、あくまで個人的な基準に過ぎないことを留意してもらえればと。
1.「ドン・キホーテ」(1605,1615) ミゲル・デ・セルバンテス
2.「ガリヴァー旅行記」(1726) ジョナサン・スウィフト
3.「トム・ジョーンズ」(1749) ヘンリー・フィールディング
4.「紅楼夢」(18世紀中頃) 曹雪芹
5.「トリストラム・シャンディ」(1759~1767) ローレンス・スターン
7.「高慢と偏見」(1813) ジェーン・オースティン
8.「黄金の壺」(1814) E.T.A.ホフマン
10.「いいなづけ」(1825) アレッサンドロ・マンゾーニ
11.「赤と黒」(1830) スタンダール
13.「アッシャー家の崩壊」(1839) エドガー・アラン・ポー
15.「虚栄の市」(1848) ウィリアム・メイクピース・サッカレー
16.「緋文字」(1850) ナサニエル・ホーソーン
17.「デイビッド・コパフィールド」(1850) チャールズ・ディケンズ
18.「白鯨」(1851) ハーマン・メルヴィル
19.「死せる魂」(1855) ニコライ・ゴーゴリ
20.「オーレリア」(1855) ジェラール・ド・ネルヴァル
21.「ボヴァリー夫人」(1857) ギュスターブ・フロベール
22.「晩夏」(1857) アーダルベルト・シュティフター
25.「ミドルマーチ」(1872) ジョージ・エリオット
29.「ブラス・クーバスの死後の回想」(1881) マシャード・デ・アシス
30.「さかしま」(1884) ジョリス=カルル・ユイスマンス
31.「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885) マーク・トウェイン
32.「飢え」(1890) クヌート・ハムスン
33.「クォ・ヴァディス」(1895) ヘンリク・シェンキェヴィッチ
36.「シスター・キャリー」(1900) セオドラ・ドライサー
37.「ロード・ジム」(1900) ジョゼフ・コンラッド
38.「ブッデンブロークス家の人々」(1901) トーマス・マン
39.「超男性」(1901) アルフレッド・ジャリ
40.「チャンドス卿の手紙」(1902) フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
41.「鳩の翼」(1903) ヘンリー・ジェイムズ
42.「一万一千本の鞭」(1907) ギヨーム・アポリネーム
44.「ハワーズ・エンド」(1910) E.M.フォースター
45.「ペテルブルク」(1913) アンドレイ・ベールイ
46.「変身」(1915) フランツ・カフカ
47.「明暗」(1916) 夏目漱石
48.「ワインズバーグ・オハイオ」(1919) シャーウッド・アンダーソン
49.「われら」(1921) エヴゲーニイ・ザミャーチン
http://anond.hatelabo.jp/20090503233005
これは二次裏でもimg鯖でまとめられたオススメ本一覧2008年度バージョンだったらしい。
元は「中高生のため」と限定したわけじゃなく単純に他の人に薦めたいというものだとか。
1年毎にまとめられているようで、これの2007年度バージョンを見つけたので貼ってみる。
4 シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン
9 風が吹くとき レイモンド・ブリッグズ
10 黄金の法 大川隆法
15 パンセ パスカル
20 シブミ トレヴァニアン
22 もの食う人びと 辺見庸
26 愛に時間を ロバート・A・ハインライン
30 マルドゥック・スクランブル 冲方丁
32 薬菜飯店 筒井康隆
34 変身 カフカ
35 チリの地震―クライスト短篇集 ハインリヒ・フォン・クライスト
40 恋のかけひき他11篇 マルキ・ド・サド
44 ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
47 最悪 奥田英朗
50 泥流地帯 三浦綾子
57 魂の駆動体 神林長平
60 エルマーとりゅう-Elmer and the Dragon ルース・スタイルス・ガネット
65 一万一千本の鞭 ギヨーム・アポリネール
66 暗闇のスキャナー フィリップ・K・ディック
67 夏草冬涛 井上靖
68 家守奇譚 梨木香歩
72 アリス―Alice in the right hemisphere 中井拓志
74 かめくん 北野勇作
76 てのひらの闇 藤原伊織
77 極大射程 スティーヴン・ハンター
78 初秋 ロバート・B・パーカー
84 インスマス年代記 スティーヴァン・ジョーンズ
85 鬼麿斬人剣 隆慶一郎
90 サムライ・レンズマン 古橋秀之
92 死者の代弁者 オースン・スコット・カード
95 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ
98 されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ
有史以来、環境を改変して自分達に適したものに作り替えてきたわけで、それが精神の領域に於いても達成できたとしたら、それは大いに慶ぶべき、文明のゴールというべきことではないのだろうか。
現在の文明は持続可能と言うには程遠いほど問題が山積み。仮想世界での充足を知ることで進歩が止まることが文明の崩壊に繋がるおそれがある。美酒を味わうにはまだまだ若すぎるとは思う。中国人は賢い。
人間の欲望はそう簡単には尽きない。単純な肉体的欲求が満たされれば、より精神的なエクスタシーを求めるだろう。エロやファッション、お笑いのようなものは仮想世界内でも大いに発展すると思う。マルキ・ド・サドが幼稚に思われるような緻密で強烈なエロが生まれるかもしれない。精神文明の発展は続くだろう。
仮想世界だけで満足できるのか。仮想世界が無限の差異を作り出せたとしても、現実世界は欲望の対象であり続けるのではないか。
自然科学の研究や外宇宙の探索のような、真に外部的なものへの探究心を満たせるのは現実世界だけだ、と思う者も居るだろう。
あらゆる欲望が即座に満たされるような環境は人間精神にどのような影響を与えるだろうか。幼児退行、利己主義、心の平静、同胞への愛など、思ってもみない影響が現れるかもしれない。あるいは真の孤独と絶望を知るのかも。