はてなキーワード: 筒井康隆とは
先日の土日にて読了。
いや、メタ的というより、メタそのものが作品の主題といったほうが正確だろうか。
読者を小説の中に引き込み、文字通り「参加させる」という構造を持つ『朝のガスパール』は、筒井康隆が80年代に書き上げた、いわば小説そのものの定義に挑んだ挑発的な一冊であった。
あらすじ、といってもこの作品に「あらすじ」を語るのは難しい。
物語というよりも、筒井康隆が直接話しかけてくるような感覚だ。
そして、そこには作者と読者の境界が曖昧になる仕掛けが満載されている。
章ごとに視点が切り替わり、どこからどこまでが現実でどこからどこまでが虚構なのかが次第に崩れていく。
その結果、「これは読者が読む小説ではなく、読者が小説を構成する存在である」という、今で言うメタフィクションの極北にたどり着く。
感想としてまず思うのは、当時としては斬新だっただろうな、ということだ。
こういった作品は現代で言えば、さほど珍しいものでもないだろう。
そう言った意味でいえば『朝のガスパール』はインタラクティブな物語の先駆けとも言えるが、逆に言えば現代のネット文化における安価スレのようなものと大差ないとも言える。
それでも、この作品をただ「古い」と切り捨てられないのは、やはりその「メタ性」の鋭さにある。
筒井康隆の文章は、単に「読者参加型」を装うだけではなく、小説そのものの存在意義を問う仕掛けになっている。
そして、これが面白いのは、その仕掛けが「自分が今何を読んでいるのか」にまで疑問を投げかけてくる点だ。
たとえば、読んでいる途中で「あれ、これ本当に小説なのか?」と思わされる瞬間がある。
それは小説の登場人物が読者に話しかけたり、読者が物語の一部であるかのように描かれたりする場面だ。
その瞬間、読者である私は「あ、この作品は私の読み方自体をも含めてデザインされているんだ」と気づく。さらに、この文章を書いている私もまた、『朝のガスパール』の読者としてこの文章を書いているのであり、ひいてはこれを読んでいるあなたも、私が書いた文章の読者としてこのメタの構造の一部を担っているわけだ。ややこしいけど、わかる?
つまり、筒井康隆が描いたメタ構造は単に『朝のガスパール』の中に閉じていない。
それはこのエッセイにも、そしてこれを読んでいるあなたにも拡張されているのだ。
このことを表現するのに、わざわざ「メタの中のメタに言及するメタ」などと直接書くのは野暮というものだろう。
ここではあくまでそのメタ的な構造を借りつつ、読者がその構造を意識する形で展開していきたい。
最後に、ひとつだけ言わせてほしい。『朝のガスパール』を読み終えたとき、私は奇妙な満足感を覚えた。
それは「小説を読んだ」という感覚ではなく、「小説という空間で作者と会話をした」という感覚だった。
今こうして私が書いた増田を読んでいるあなたもまた、この瞬間、私と会話をしている。いや、あなたがこれを読んでいる時点で、もう私はここにはいないのかもしれないけれど、少なくともこの文章を通して私たちはどこかでつながっている。
そう書いた瞬間、私はふと、この「つながっている」という感覚について考え始めた。いや、正確に言えば、私がここで「つながっている」と書いたとき、その言葉を読むあなたの頭の中で何かが動き始めているのだと考えるべきかもしれない。例えば、今この瞬間、あなたの脳内には「この文章を書いた人は何を言いたいんだろう?」という疑問が浮かび、あるいは「まあ、そういう小難しいことを言いたいだけだよね」と呆れた気持ちが湧いたかもしれない。
でも、それもまた一つの接触点だ。私が書いた言葉が、あなたの意識に波紋を投げかける。それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、私たちは今この瞬間、物理的には別々の場所にいるにもかかわらず、思考の交差点に立っている。これを不思議と思わずして何を不思議と思うだろうか?
ここで気づいてほしいのは、この文章そのものが橋のようなものだということだ。私が言葉を選び、それを並べ、送り出す。それを受け取るのは、何千キロ離れたどこかの机の上に座る、見知らぬ誰か。あなた。私がどんな顔でこの言葉を綴っているかをあなたは知らない。あなたがどんな顔でこの言葉を読んでいるかを私も知らない。でも、それなのにこの文章はあなたの目に届き、私はこうしてあなたに話しかけることができる。
そしてここで、私はある種の実験を試みたいと思う。この文章が、ただの文章のままで終わらずに、私という存在とあなたという存在が、少しだけ近づくきっかけになったらどうだろう。例えば、あなたがこの文章を読んでいるときに、なんとなく「書いているこの人、なんだかしつこいな」とか「もう少し簡潔に言えないのか」と思ったならば、それはすでに私があなたの中に存在しているという証拠だ。言葉を通じて、私の思考があなたの中に入り込んでいるのだから。
もちろん、私はあなたの顔を知らないし、声を聞いたこともない。あなたがコーヒーを飲みながらこれを読んでいるのか、満員電車でスマートフォンを覗き込んでいるのか、それとも仕事の合間にひっそりと目を通しているのかもわからない。でも、どんな状況であれ、あなたがこの文章を読んでいる今、私たちは出会っている。あなたの目がこの文章を追い、あなたの脳がその意味を解釈する。それは、私の言葉があなたに届くことで初めて成立する行為だ。
ただ、それを言葉で「つながっている」と表現すると、どうしても味気ない感じがしてしまう。だからこそ、この文章を書いている私が、あなたの中に何かしらのイメージを植えつけたい。例えば、私が今、画面越しに手を伸ばし、あなたの目の前に現れているとしたらどうだろう。いやいや、そんなのはただの妄想だと思うかもしれない。でも、その妄想の中で、私とあなたが初めて握手を交わしたとしたら、それはただの文章を超えた「出会い」だと言えるのではないだろうか。
読者として、いや、このメタの一部として。
ありがとう。そして、また。
どうか健やかに。
未接種と接種で死亡率にさほどの差は無い、誤差程度も無い
BCGとて日本はつい最近まで結核の中度蔓延国だったのでヒステリックに打っていたが
打つとツベルクリン反応が出るからアメリカ留学して米軍入隊とか面倒だよ
ほとんどが社会防衛で、回りみんなが打ってくれりゃそれでいいんだよ
嫁はブチギレるだろうが、戦え、そこは戦え
有無を言わせない自己、威厳
自分の方針や生き方を絶対に曲げないと示し相手を諦めて妥協させる威圧力
おしめ洗うのも面倒なら洗わなきゃいい
嫁が発狂して布に履き替えさせるだろうから、ご苦労なこったと粛々とほっとけば良い
真逆で互いに折れる事はないのだから、適度に干渉を無視しながら子育てしようず
ここで合意取ればよかろうに
ここまで書いてて、筒井康隆の「日本列島七曲り」短編集の中の「融合家族」という作品を思い出した。
まったく参考にはならんが機会があったら読んでみてくれ
俺は文化も宗教も育ちも全く違う外国人と結婚して、子育ての衝突、大喧嘩、家出(俺)フルコースやって、幾度と繰り返し、最後は諦めたwほぼほぼ向こうの言いなり
ま、向こうも同じセリフを吐くだろうが
ともかく、それでも元気ないい子に育ったよ
夫婦仲もそれほど悪くない
週の半分は外で飯を食うが
がんばれw
ついでに俺の好きそうな作品を教えてくれると助かる。
・漫画
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「キミとは致命的なズレがある」赤月カケヤ
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ちいかわ
SCP
アライさんマンション
胎界主
忌録: document X
禍話リライト
三島由紀夫や谷崎潤一郎が1960年代頃まで存命だったというのは地味ながら興味深いなと思った。
彼らが生きていたその当時にアラサーだった人は、現在の80-90歳ということになる。丁度私の祖父がその辺の年齢だから、きっと祖父にとっては、三島由紀夫や谷崎潤一郎は現在でいう筒井康隆(89歳)や村上春樹(75歳)みたいな作家に見えていたのかもしれない。
たとえば私が生まれた時、ジョン・レノンはすでにこの世を去っていて、ゆえにビートルズは過去のものだ、という印象がずっとあるけれど、でも私よりも上の世代はそうじゃないのだろう。
要するにその人物が生きているか亡くなっているかのステータスによって馳せる思いや感覚が違ってくる、というごく当たり前のことなのだが、なぜか妙に思い巡らせてしまった。
thirty206 ゆるっと使えて便利やからね、仕方ないね。/女性器が緩い、という用法では少なくとも1953年までは遡れる。https://x.gd/5Y24u
mobile_neko 淫夢ネタにはほとんど触れずにインターネットしてきたのでよくわからんが、元々「ガバガバ」という言葉の用法にあったからビデオ内で使われて視聴者も理解できたのでは?
mutinomuti 40年前にお下がり着てる子どもにガバガバだね、詰めようかっていってたよ@関西
WinterMute "淫夢由来の言葉" 違います。お前の認識ガバガバだな
ignio 青空文庫はこういうときに便利。大倉燁子の「恐怖の幻兵団員」(昭和25年)に「孔のまわりの羽目板はがばがばにゆるんでいる」という文がある。
red_kawa5373 id:ignio 国立国会図書館サイトも良い。昭和28(1953)年の最高裁判例に「ガバガバのゴム長靴を履いて」な記述があるので、ガバガバの「しまりがない」の意味は淫夢由来ってのは違うと思う。 https://dl.ndl.go.jp/pid/1349044/1/52
officesitter 昭和の筒井康隆の短篇で、女性に対する罵倒語として使われていたのを見て覚えた。自分の口から発したことはない言葉。なんとなく関西弁っぽい気がする。
ni_ls ウン十年前の高校(男子校)生時代、ガバガバアナルの略で「ガバナル」って呼ばれてた先輩がいたよ
redundancy 老が使ってる時点で元ネタそこじゃないって気づくだろうから書き手の判断力がガバガバっていうネタでは
otihateten3510 普通に使う言葉を淫夢用語だと思う方が何倍も恥ずかしいけどなあ
star_123 最初しか呼んでないけど前世紀からそういう意味で使われてたような…
marilyn-yasu 淫夢以前から穴の精度が悪くてガバガバ、計画が穴だらけでガバガバなんて使ってたから何言ってんだコイツとしか思えない。
ht_s 老人が(も)淫夢由来でガバガバって言葉を使っているあるいは淫夢以前は使っていなかったと思えるの、ちょっとかわいいな。バカほどかわいいってこれか。