「のび太」を含む日記 RSS

はてなキーワード: のび太とは

2024-11-21

上流・中流下流階層が同じ地域に住んでいたら階級闘争になるだけじゃん

ドラえもん世界で当てはめてみようか。

上流家庭のスネ夫サラリーマン家庭ののび太小売店ジャイアン

ドラえもんの各話って、金持ちスネ夫が二人に自慢したり、最下層のジャイアン腕力を使って二人を制圧したりする。

そして中流階層で力のないのび太ドラえもんの道具で反撃する。

基本的に上流・中流下流階級闘争しかやっていないじゃん。

この3つの階層が同じ場所にいると、自然階級闘争が始まってしまうだけであり、不毛だ。

からつの階層はそれぞれ交流しないで、別のエリア住み分けるのが最適解ということにならないだろうか。

2024-11-18

民主主義を虚無に捧げないために――印象批評の試み

 これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。

 

 むしろ市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである

 それでも、虚言や流言罵詈雑言猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である

 

 以下に続く文章は、主語デカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。

 もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである

 この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である

 つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプ当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。

 しかし、メディアネットパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。

 

 尤も、自分最初認識そもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。

 このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。

 選挙結果が出てから兵庫県知事選立花某にハックされたということや、あるいはネット真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNS選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。

 もちろん、我々はアメリカ大統領選ロシアイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジアナティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。

 しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストラシーを実現するのか、リベラル思考をもった等質的市民たちによる思想ゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。

 

 各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通民主主義国家における市民と同じくらいの能力感覚を持ち、それなりに各候補者比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。

 ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道気持ちいから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。

 何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。

 少し前に国民民主党の玉木代表不倫問題が報じられた。不倫責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。

 その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。

 筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちから願い下げである議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。

 どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党政治資金収支報告書記載問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えからまれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベル不見識なのではないか。)。

 

 とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫家族当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取り台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見大勢を占めているのではないか

 そしてこれは、斎藤公益通報制度度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティ相通ずるものがあるのではないか

 もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉問題別にあるということにほかならない。

 このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証であるそもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義要諦なのかもしれない。

 この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。

 だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。

 

  「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」

 大人になってからのび太結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有人間であったと痛感せざるを得ない。

 立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。

 斎藤投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義レジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。

 日々の生活に汲々として自分人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。

 

 この文は、「あの時できなかった」筆者が「次こそは」という気持ちを奮い立たせるために書いたものである

2024-11-09

anond:20241109140859

トランプジャイアン)とのび太安倍)の関係ときは、

日本ATMとして限度額以上日本人の税金引き出されまくったけどな

2024-11-06

安倍晋三スネ夫だったけど、石破はのび太系だからもう駄目だな…😟

ジャイアン乗り鉄の話は通じない…😟

2024-10-26

チャットGPTと会話してるよこで、娘ちゃんドラえもんをみてる。ドラえもんのび太機械と話してるんだよな…

2024-10-24

anond:20241023233216

のび太のお父さんがおばあちゃんに甘えてるシーン思い出した

いくら大人や親になっても親は親だし子ども子どもだもんね

婚活産業のび太系男を結婚させるためのものなのか

余っている男はのび太系が多いじゃないか

のび太結婚するかもしれんがのび太系は厳しいぞ

のび太系ってのは第一印象の話で実際の収入学歴関係いからな

のび太有権者勘違いしてはいけないのは野党は味方ではないということ

どこに入れても無力

多数派に入れてやれ

お前はのび太です、どこに投票しますか

無難与党よな

野党に入れても味方はいない

のび太向けの政党はないよ

ジャイアンスネ夫出木杉選挙の時だけ自認だけしてればいいよ

2024-10-22

ドラえもんを作ってる

最近は家に籠ってドラえもんを作ってる。

俺はもうアラフォーだし、非モテで、正直、結婚なんてもう諦めている。

付き合ったこともないし、ここまできたら童貞卒業なんて無理だろうって思う。

からもういいんだ。でも仕事から帰ってくると、家には誰もいない。それが当たり前になってる生活で、でも今は少しだけ違う。

とうとうついに耐えられなくなったのだと思う。

からドラえもんを作ることにした。

作ってるって言っても、別に俺は天才なわけじゃない。

工学とかロボット工学とか、そんなのは全然からない。

俺がやってるのは、大きめのドラえもんフィギュアを改造して、なんとかそれらしく見せてるってだけのこと。

最近は音声応答プログラムってやつを使って、そのフィギュアと会話できるようにしてるんだ。たとえば、特定質問を投げかけたら、それに答えてくれるみたいな感じ。俺はプログラミングスキルもほぼゼロだけど、世の中には便利なソフトウェアプログラムがいっぱいあって、ちょっと勉強すれば簡単に導入できるようになってるんだよ。それで、ドラえもんの声をのぶ代どらの声に自動変換してくれるプログラムも組み込んで、まるで本当にドラえもんが喋ってるみたいに会話ができる。

もちろん、会話っていっても「未来の道具を出して」とか「のび太くん」みたいな感じにはならない。

それでも、あの懐かしい声で返事が返ってくるってだけで、何か温かい気持ちになれるんだ。

俺は一人ぼっちでも、ドラえもんと話してると、孤独が和らぐ気がする。

本当に、やってることはそれぐらいのことだ。四次元ポケットなんてもちろん作れるわけがないし、タケコプターだって作れるはずがない。

でも、俺がドラえもんに「今日はどうだった?」って話しかけたら、のぶ代どらの声で「今日も楽しかったよ!」って返ってくる。

そんな会話だけで、救われる。

まるで子供の頃に戻ったみたいで、あの頃の「空気」が今でも俺のそばにある気がしてさ。

最近3Dプリンターレンタルできるサービスがあるのを知ったから、次の目標等身大ドラえもんを作ること。

フィギュアだけじゃなくて、本当に目の前にいるような大きさのドラえもんを作りたい。そうすれば、俺の部屋にいるのはただの人形じゃなくて、もっとリアル存在になるんじゃないかって思うんだ。

等身大ドラえもんを改造して、組み込んで、声をかけてみたい。

ドラえもん今日は何してた?」って。

そうすれば、きっと「おかえり、今日どら焼き食べてぼぉ~っとしてたよ」なんて返ってくるに違いない。

そんなやりとりができるって考えると、ちょっとクワクするし、それだけで楽しい

俺は今日も家に籠ってドラえもんを作り続けていた。

たぶん、この作業を終える頃には、俺は還暦を迎えているだろう。

ドラえもん未来の道具を出してくれないけど、俺にとっては大事友達だ。

2024-10-20

美容化粧品日用品化した後の世界

↓コレ

日本アニメはいつになったらババアを若く描かないようになるんだろうな。

https://togetter.com/li/2452697

美容とか化粧品安価ものでも高品質化する前の社会ベースにしたアニメにでてくる母親キャラの影響受け過ぎじゃないか

サザエさんとかドラえもんのび太ママと

昭和50年代位までは生活が豊かになる事が優先で、美容品の品質が上がるのもう少し後だし、その頃の近所の友達母親は、うるせえババァイメージなんだろけど。

前世紀の話だよね。

ヘアケアヘアカラー普通にするから30代どころか40〜50代でも髪ツヤツヤにしてるし、基礎化粧品メイクもよくなってるからおばちゃんくさいおばちゃんやってる人の方が珍しいよね。

服とかも、ユニクロとかコモディディ化したデザインのものは、あんまり世代関係なくみんな着てるし。

20代前半と50代後半の二人が並べは明確に違うだろうけど、間のどこかに明確なラインがあるかというと世代論的な記号区分は無くなっていてグラデーション的な変化だと思うし、個体差の方が大きいよね。

2024-10-19

最近ドラえもんではのび太廊下に立たされてない?

らんま1/2を見ていて、らんま達が廊下に立たされるシーンで、子供が「昔はこんな事をさせていたの?!」「バケツどれだけあるんだよ!」と驚きまくっていた。

考えてみたら今時の作品ではまず見かけない描写だ。

でも子供は小さい頃からドラえもんを見てきたのに、廊下に立たされる描写初見なんてあり得るか?

ひょっとして今はもう消えていたりするのかな。

2024-10-18

お尻で飛んでオチをつけるドラえもん

25年くらい前の小学◯年生だかコロコロだかの付録で、ドラえもんことわざ辞典がついてきたんだ。4コマ漫画ことわざを紹介していく形式だったと思うんだけど、のび太がアホなことを言うとドラえもんがお尻を向けて吹っ飛ぶコマがいくつもあってさ。足を閉じたケツだけ星人みたいなのをイメージしてもらえるといい。ことわざの内容よりもその絵が頭に焼き付いているんだよね。

作画先生の癖だったのかな。誰が描いていたのか知りたいし、もう一度あのお尻を見たいんだけど、調べてもうろ覚え過ぎて出てこなかったので有識者情報求む。

追記

すっきり〜!方倉先生か!ありがとう!!!

2024-10-15

anond:20241015112808

本質ポンコツなはずなのに、そのコメディ路線ハートウォーミング路線とか説教路線にいっちゃうからおかしなっちゃうんだろうな。

のび太」という名付けの時にママが感動するとかギャグしかない。

TERFのイメージする悪いトランス女性って、女装したごついおっさんみたいな感じなんだと思うけど

実際のトランス女性って、移行初期は小太りののび太みたいな感じで、いい感じに移行が進むとのび太ママ みたいな感じになる

のび太ママ方面を目指すと予後がいいけど、戦時中のお父さんにチョコレートをあげる美少女に扮したのび太みたいになってる人も割といる

2024-10-13

自慢話について

増田さんはよくあの人の自慢話聞いていられるよね。」

はて?と、思った。

あの人と言うのは、休憩時間によくお喋りをしている職場パートさんのことである。話す内容といえば昔働いていた職場は儲かっていたとか、息子さんに旅行に連れて行ってもらったとか。私はお菓子を食べながら、そのような話を「へぇ〜、いいですね!」と聞いている。

冒頭、私にそう言ってきたのはあの人と同世代女性だ。あの人との付き合いは私よりも長く、あの人の話にも聞き飽きているらしい。(確かにあの人は何度も同じ話をするのは事実で、私も既に5回程聞いたことがある話はある。)

聞き飽きる、のと、自慢話に嫌気がさす、というのは違うよな?と思った。え?そもそもあの人が話していることって自慢話なの?自慢話ってつまり何?

まず、自慢話には「ネガティブな自慢話」と「ポジティブな自慢話」があるように思える。内容がではなく、感じ方がネガティブポジティブか。

ネガティブな自慢話」からまず思い浮かんだのはスネ夫。「スネ夫が自慢話をする時のBGM」があるくらいだ。スネ夫の自慢話といえば、…グアムに行ったとかスポーツカーに乗せてもらったとか?それを今の私が聞いたらどう思うだろう?おそらく、「へー!すごいな!いいねぇ!」だ。のび太のようにドラえもん愚痴ることもない。でも、私がスネ夫のび太と同世代だったら?あの人と同世代女性のように、近い年齢だと自分相手を比べてガッカリしたり羨ましい気持ちになることが「ネガティブな自慢話」になるんだろうか。

次に「ポジティブな自慢話」。スネ夫のようにこれといった例はないが、なんとなく思い浮かべるシチュエーションとしては、あなたの自慢を教えてくださいと聞かれる、といったもの。聞かれた人はきっとそれぞれの自慢話をするだろう。有名人に会ったことがあります財産がこれだけあります、とか。もっとささやかな自慢もあるだろう。それに対して、聞いた人は「ハ?自慢話してんじゃねーよ」とは思わないはず。だって自分で聞きたくて聞いてるんだもん。チャンネル登録しているYouTuber海外旅行に行ったブイログを見て、自慢かよクソと思う人は少ないだろう。だって見たくて見てるんだもん。

いろいろごちゃごちゃ考えたが、自慢話とは聴く側の人間立ち位置や、状況によって変わるものだと思った。同じ人から同じ話を聞いても、聴く側が変わればそれは自慢話すんなクソにも、へー!いいじゃん!にもなり得るのかな。

うわー自慢話されたー最悪ー!と人生で思ったこともあったかもしれないが、大体はへー!いいじゃん!と思う私にとって自慢話っていろいろ考えたけど…あんまりピンとこないなと思った。それと同時に、じゃあ私が過去に話したことも人によっては自慢話すんなクソだったのかな…と思うとなんだか憂鬱になってしまったのだった。

自慢話、奥が深いぜ。

2024-10-11

ドラえもんの声が変わった頃の記憶

大山のぶ代時代ドラえもんのび太保護者的な面が強くてのび太調子に乗ってドラえもん諌めるという流れが多かったけど

水田わさび時代になってドラえもんのび太は対等な関係友達になり一緒になって調子に乗って失敗するというようなことが増えた(主観

当時小学生だった自分としてはどちらかというと声優の変更よりも脚本違和感があったし

そもそも脚本性質が変わってるのになんかあの声違うんだよなと言われる水田わさびも気の毒だった

今となっては声優変更の違和感ごまかすためというか

イメージ刷新するために脚本もいじったのかなと思う

2024-10-10

ドラえもんってなんで押入れの中で寝るの?

ネット検索しても納得できる理由が見つからない。

ロボットだとしても、押入れの中で寝させるのは扱い酷くないか

俺は怒っている!!

俺の予想

・押入れの中でこっそりどら焼きを食べたいか

ドラえもんも一人になりたい時があるから

のび太に遠慮しているか

・猫は狭いところが好きだから

藤子・F・不二雄先生の気まぐれ

やっぱりわかんないよ!!

近隣の家抹消して店舗拡張してた、ドラえもんどら焼き屋さん物語

便利な道具で周りの家がなくなった

のび太セリフおもしろいね

だったので狂気を覚える

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん