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2024-11-10

anond:20241105191033

森で死にたくないので、食えるように植樹して森林拡大しますね。

地球環境にもいいし。

まず、田圃を潰して森林します。

2024-08-19

クルド問題で良くやり玉にあがる解体トラックの積載とヤード問題に就いてパート1

産経新聞が報じているクルド人ヤードで大騒ぎ問題に関して。因みに本稿では記事事件のものには触れない。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20240818-Q7DJ43L7IVGBVIXACY4JX5FRBY/

 

トラック制裁制限

産経記事では冒頭に「過積載の(解体業)トラック」の写真掲載されている。Xでもよく同じような写真が「クルド人解体屋の過積載トラック」として掲示され「何故か警察検挙しない!」と指弾されている。

これらは違法積載なのだろうか?

 

道交法は近年改正され、車両からのはみ出しの制限が緩和された。

後方については車両長の20%以下となった(はみ出しが後方だけの場合)。これはいすゞエルフ2t積みの場合全長が4.7mなのではみ出しの最大は940cmとなる。写真トラックはそんなにでっぱっていない。

 

側方については片方10%づつの両方で20%までが可能になった。

産経写真トラックは上の方が広い積み方がされている。一番上に畳が2枚並んであるのでこれを基準に幅を考えてみる。

畳は地方により寸法が違うが関東で使われる江戸間だと短辺は88cmだ。これが2枚で176㎝。真ん中に間隙があり、柱も一本挟まっている。また少し斜めになっている。それらを修正すると188cmくらいか

エルフの全幅は1.7mなので両側合わせて34㎝まではみ出し可能だ。幅は1.7+0.34=2040㎝まで積載okであるから全然余裕である違反ではない。

 

では高さは?というと、実は規制がないのだ。いくらでも積んでいい。

でも道交法では「道路運行する車両の最大寸法」が決まっていて、3.8mとなっている。だから荷台の高さに拘らずに全車3.8mまで積める。

しかし3.8mというのは観光バス屋根とか電車の2階建てグリーン車屋根の高さで、とんでもない高さだ。だからトラックでそこまで積むという事はあまり無い。で、写真トラックもそこまで積んでいない。見たところ3.2~3.4mくらいだ。

 

重量は?というのは測らないと判らない。でも間隙が多い廃材なので重量はそこまでいかない。2tくらいではないだろうか?因みに木造住宅の重さは30坪2階建程度で30t強といったところ。検索すると1600kg/㎡という数字が出てくるだろうが、これは家の積載荷重と耐雪荷重を合わせた重さで、自重は半分程度になる。また壁材のモルタル石膏ボード漆喰を合わせた重さだから木材だけだと大した事ないのだ。

 

となると、これは過積載でも何でも無い定積載なのだ

 

トラックの積み方

トラックに積む場合、まずはあおりの内側にコンパネなどで壁を造る。その中で安定するようにテトリスみたいにぴっちり積んで、時にTスピンなんかも駆使して動かないようにする。

コンパネ壁の上に来たら安定する大物を外側に積んで真ん中の方に小物を積んで行く。これもテトリスっぽいな。

いい所まで来たらロープを掛けて思い切り絞り完成。コンパネと大物が押さえになって荷崩れを防止する。

 

多分、Xとかで騒いでいる人らは平トラックの積み方知らないのだろう。なので解体屋のトラックを見たら全てで「過積載」と騒ぐ。しかも慎重に情報を流すという動機がない。

しかも後ろからではドライバーが何人かなんて判る由もない。クルド人かどうかなんて聞かないと判らない。更に言うと撮影場所がどこかとかどこナンバーかというのも確認しないしその動機もない。

警察はなぜ検挙しない!」ってそれは平トラックの定積載だからだ。アホやね。

 

ヤードの中が見えない問題

ヤードっていうのは物流基地屋根のない構内をいうのだが、特に自動車解体屋の車両置き場の事も指す。最近ではそこから建築業の資材置き場や金属スクラップ置き場なんかのことも指す。これは自動車解体屋のヤード誤用っぽい転用だ。

で、この自動車解体ヤードは簡易な壁で仕切られて中が見えない、中で盗難解体しているのではないか?と言われ、それもクルド人問題として語られる事がある。

 

だがこれは無体な論難だ。壁を建てるのは法規制に拠る。

昔の自動車解体屋はテキトーで、その辺に廃車を積み上げ、外して売り物にするエンジンやボディーパーツをその辺に積み上げていた。

だがこれだと廃油や廃冷却水がタレ流しになって土壌にしみ込んでしまう。廃冷却水は河川流れると魚毒性が高い。

そこで各条例でこういう規制が出来た。

・1.廃車置き場と作業場コンクリ打ちして排水路を作り、オイルトラップを設置せよ

・2.1が難しい場合作業場だけコンクリ打ち+排水路+オイルトラップとしてそこで全液体を抜いてから廃車置き場に置け

・十分な高さのある塀で囲って部外者が入れないようにせよ

 

最後の塀は子供が入り込んでかくれんぼをしてたら転落したり、車ごとプレス機に突っ込まれキックアスの悪役みたいな死に方するのを防ぐ為の規制だ。

増田学生時代、金がないかマイカーは買えなかったが整備の腕は幾分あるのでバイト先の友人に駆り出されて工具箱持参で解体屋にフォークリフト86の廃車を下ろしてもらいミッション自分たちで外したり、シルビアのノンスリップデフを外したりして金払って帰り、それらを交換したりしていた。日産のL型エンジンは重かったな。

でも今はそういうのは出来なくなっていて、勝手ヤードの中歩いたりさせてくれないしそもそもから見えないか在庫が判らない。つまらん。

こういう仕事は当然がっつり汚れて暖房冷房も無いところで働くから人気が無く、外国人従業員が多くなっている。

それで色の黒いガイジンヤバいとなって、「中が見えない=犯罪?」と連想ゲームになるのだが、法規制ぐらい知っておけという話である

 

事件地の推定

「本稿では記事事件のものには触れない」って書いがあれは嘘だ。やっぱ記事の中身に触れたくなったわ。というのも地理的条件説明したいから。

 

記事中に「(川口)市東北部とあるが、市の東北側には人家がまれ地域があるのだ。一つは旧見沼、もう一つが木曽呂という地区だ。

 

見沼

 

江戸時代まで川口から大宮にかけて見沼という巨大な沼があった。土木工事狂の三代家光になると、見沼の下の方に堤を造って、今の川口市~足立区開拓する事になった。その直接指示官は利根川東遷事業荒川西遷事業を為した治水土木界のチャックノリス、かの伊奈忠治である

そこで八町堤が築造され、見沼は巨大溜池となり、その南は広大な田圃となって幕府石高を上げ、財政情況改善したのである

ところで荒川はそれまで元荒川を流れていたので、上尾より下流入間川けが流れていた。しかしこの入間川下流は今の荒川と相当に違う所を流れていた。

指扇付近からは今の荒川の西を蛇行して流れ、中浦和駅武蔵浦和駅南浦和駅浦和シリーズスランプラリーしてるみたいな流路を取ってから浦和競馬場に踵を返して川口市を横切り今の外環道クロスして、川口オート→毛長川→八潮という風に流れていた。地方競馬からオートレースはしごかよ。

で当時綾瀬駅を流れていた利根川に合流して自由に氾濫し辺りをぐちゃぐちゃにしていた。オケラオヤジの大暴れみたいな奴である

この川も荒川西遷で廃川になったので広大な土地を開墾でき、その辺は川が無くなったから見沼の溜池で潤すって感じだ。

この川の痕跡戦後すぐの航空写真にはくっきりと写っている。

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.841125&lng=139.699960&zoom=14&dataset=tokyo50&age=10&screen=2&scr1tile=k_ort_USA10&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

河川跡は出水やすいので田んぼとし、その横に形成された微高地自然堤防曽根)に集落を築いていたので川跡がくっきり残ったのだな。

 

享保の改革吉宗時代になると、見沼に泥が溜まって貯水力低下。そこで、見沼を全部干拓しちゃえという事になった。でもそのままじゃ水が足りないね。そこで見沼代用水という用水路を作るのだが、どこから取水してるというと羽生なのだ。見沼から60㎞以上あるのだ。

途中には当然沢山の川がある。そこでどうしたかというと、全部立体交差で通したのだ。江戸時代なのにちょっとイカれた工事だ。舎人ライナーに見沼代用親水公園って駅があるが、この代用水とは見沼の代わりの用水って意味なのだな。

それ以来、旧見沼は田んぼ地帯となっていて、地盤も悪いし土地が低いか都市化した後もそこに家を建てたり開発行為をしてはならないという規制が敷かれている。

武蔵野線東浦和東川口間、東武野田線大宮公園~大和田七里岩槻で突然住宅街が途切れて田園地帯や荒れ地が広がるのを見た事ないだろうか?あれが見沼なんである

 

で、八丁堤の下にあたる川口市の方は開発一切禁止というんじゃなくて調整地域という形になっている。これは一般都市計画建築物規制するやり方で、住宅工場などは建ててはならない。でも例外が設けられていて、学校病院特養ホームなんかはokなので、家は無くそういう建物ばかりが閑散に建つという風景になっている。

建物規制なので駐車場など建物がない用途では規制されない。すると、中古車屋(事務所は移動可能プレハブ)、解体ヤード建築資材置き場などは規制されないのでそれらが集まってしまい、景色としてはあまり良くない地域になっている。

 

パート2→https://anond.hatelabo.jp/20240819185125  

2024-06-13

ベッドタウンなのに遠くから雄鶏の声が

山裾で農地もまだまだ残ってるからかな

ふだん鶏糞を燃やす臭気はしてこないか養鶏場は無いはず

シーズンになったら田圃の野焼きの香りはしてるけど

てか10時代に就寝したらさっき3時過ぎに「バーで酔い潰れたあげくに起きた」という夢で目が醒めた

実際はバーに行ったこともないし夢で連れてってくれたのは2年まえに喧嘩してから疎遠にしてる大学時代からの友人だった

5時起きで6時から夕方まで働く家人に起きてるのみられるの気まずいから頑張って二度寝しよ

暑いから開けて寝た窓のせいで寒くて明るくて寝られねえ…










【8:15追記】えっ!?ティプトリーって養鶏場やってたんだ…

https://web.archive.org/web/20240304023158/https://thatta-online.com/thatta01/that233/thatta0709.htm

2023-12-20

anond:20231220145834

白鳥飛来地、本埜村現在印西市で、白鳥用に田圃に水を張っているところが有るね。

https://www.pref.chiba.lg.jp/kouhou/kids/chi-bakun/sorakara/midokoro/inba.html

この辺では有名で、ラジオ局TV局が取材に来ることも有る。

2023-10-30

anond:20231030100526

わざわざ低地の水辺に住むのは台風田圃を視に行くじいちゃんより愚かじゃね?

2023-09-07

anond:20230907033751

婚姻制度の始まりは「田圃」を守っていく為に作られた。なんてよく聞きますが、その必要性が無くった現代にも関わらず、形式的に残り、歪にアップデートされ続け、うんたらかんたら

2023-07-30

anond:20230730105537

古刹とか田圃道みたいな場所は「文化」じゃないと切り捨てる増田から、四年もいた京都サロンに混ぜてもらえなくて、新しくて面白いものを教えてもらえなかっただけじゃん。

切磋琢磨して作品を作り出す同時代人間と新しく知り合うなら、自分自身にもそれ相応の教養のが必要だしな。

そこにあるモノが古くても新しい発見のある物なのか目新しいだけのクソなのかわからない増田でも、東京のど真ん中で育てば、色々教えてもらえる人間と付き合えるんだろ。

東京サロン文化に恵まれてよかったじゃないか。上澄みの5%が降ってくるのをそのまま口開けて待ってろよ。

2023-06-06

anond:20230605111157

態々ありがと。

でも坂出日の出製麺を調べた時、食べログが出てきて、そこにがもううどんも表示されてて、

田圃の中って言うとこっちの店だなって分かったよ。

いつか機会を作って行ってみたい。

2023-05-30

anond:20230530151251

坂出日の出製麺

食べログ見てみたんだけど、ここでは釜揚げとか、釜玉とかは食べられないってこと?

地元では釜玉食べる人はほとんどいないって聞いたことあるけど、やっぱそうなのかな。

かけの温か冷で後はトッピングのみって感じかな。

増田お勧めの食べ方教えてくれないかな。


一番の問題は「店内の席が客の数に見合わないか田圃の畦道で立って食べてる」って、なんだかなあ。

雨の日どうすんの?車で行って車内で食べる?これしかいか

2022-11-01

anond:20221101165047

有機物田圃にすき込むと、低酸素条件下で有機物が分解されることになります

まりメタンガスが発生します。

2022-10-23

鬼滅の刃嗅覚人間の本性その他の話(1)

 世間流行の移り変わりとは無関係に、私は度々『鬼滅の刃』の原作単行本を読み返しているのだが、またも同作を読んでいる。

 ここ最近の読み返す切っ掛けの一つとなったのは、例によって金関丈夫の『木馬と石牛』である。何度目だ。

 ひとまず最初に紹介しておく金関丈夫論文は「わきくさ物語」と題する一篇である

 これは、腋臭(わきが、えきしゅう)や体臭肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、その相違について、人類学的な統計データに基づいて西欧人と東アジア人の腋臭体質の多寡(出現頻度)を比較するとともに、東西文学作品や文献に於ける腋臭体臭に関する記述比較したという内容である。今さら気づいたが、論文題名は『若草物語』のパロディである

 金関丈夫の論旨を大雑把にまとめて紹介すれば、次のようなものである。「人類学的に見て、西欧人の集団では腋臭体質の人の出現頻度が高く、日本中国などの東アジア人の集団では出現頻度が低い。それに呼応するかのように西欧では、身体臭い肯定的に捉えて讃美する詩や文学作品が見出される。それとは対照的日本中国では、身体臭いを讃美する文学作品記述は見られない。ひどい体臭の人が周囲から疎んじられるといった、否定的記述内容は見出される。日本文学においては、田山花袋の『蒲団』など西洋文学の影響を受けた近代の少数例を除けば、体臭文学存在しなかったのではないか」云々。これも今さら気づいたが『大衆文学』の駄洒落である

 それはともかく、かのナポレオン愛人に宛てて「近々戦場から戻るから風呂に入らずに待っているように」と手紙を書いたという有名な挿話を知っていると、金関丈夫の主張にも頷けるところがある。

 しかし、体臭文学に関して言えば、確かに金関丈夫の言うとおり国文学の中では劣勢なのかもしれないが、嗅覚のものは、時代の変遷や題材の違いによる差異はあれども、国文学においても大なり小なり着目したり描かれたりしてきたのではないかと思う。源氏香(※)のような遊びが生まれたぐらいなのだから香り匂いを味わうことの悦びを昔の日本人も持ち合わせていなかったわけではないだろう。それにまた、腋臭のような刺激的な匂いに対する肯定的記述が見られないからといって、体臭のものに対する愛好癖が日本人の間に存在しなかったとまでは断言できまい。好ましくない体臭に対する認識があったのならば、好ましい体臭に対する認識があってもおかしくはない。したがって、いま少し詳細な再検討必要ではなかろうかと思われる。[※注:源氏香は、室町末期以降の遊びであるが、源氏物語各巻の見出し源氏香の記号が付記されるようになったのは明治以後のことらしい。また、その記号は、組合数学テキストで例として挙げられることもある。]

 とまあ、こういった具合に「わきくさ物語」を読み直したことが切っ掛けで、嗅覚について色々と思いを巡らせていたところ、竈門炭治郎のことも連想して『鬼滅の刃』を再読し始めたという次第である

 ところで、上に述べたとおり、私は金関丈夫の主張に対しては批判的な考えを抱いているわけだが、そのような批判的思考は私の独創ではない。以前に読んだ本の記憶から「はて、国文学でも、それなりに嗅覚重要視されていたはずではなかったか?」と思ったので、金関説にも疑問を抱いただけなのである

 さらに、その時に本で読んだ内容には『鬼滅の刃』を妙に連想させる記述も含まれていたと記憶していた。そこで本棚を漁ってみたところ、それらしきものを再発見した。次に、それを紹介しようと思う。

 『鬼滅の刃』の主人公たちである竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人が持つ優れた感覚は、それぞれ、炭治郎=嗅覚、善逸=聴覚、伊之助=肌感覚(触覚)である。炭治郎や善逸は、相手人間か鬼か、人間であれば善人か否かを、これらの感覚によって看破できることは、漫画を読んだりアニメを観たりした人ならばよくご存知のことと思う。

 この三感覚と同じ取り合わせを、私が目にしたのは、小松和彦の著書『神々の精神史』(講談社学術文庫)に収録されている「屍愛譚(しあいたん)をめぐって 伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の冥界譚を中心に」と題する論文の中であった。

 まず、私が『鬼滅の刃』を連想させるもの記憶していた箇所を、少し長くなるが同論文から引用しておこう。

 「男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかからかに創り出されるイメージの、想像力による夢幻世界における営みであった。そして、日本女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。」

 奇しくも、小松論文の中で三つの感覚が挙げられる順序は『鬼滅の刃』の物語主人公たちが登場する順序と一致している。果たして吾峠呼世晴は、小松和彦論文著作を読んでいたのかどうか。真実は分からないが、そういった想像をしてみるのは楽しいことである

 さて、小松和彦論文は、国文学などにおいて見られる、妻・夫・愛人などに先立たれた人が、パートナーの亡骸を屍姦したり冥界を訪れるという物語記述について論じたものである。その中でも題名のとおり特に、亡くなった妻のイザナミ恋しさに黄泉の国を訪れたイザナギ物語、そこで語られる覗き見の禁忌、その侵犯について考察している。

 死して黄泉の国の住人となってしまったイザナミは、自分を現世に連れ戻すために訪れた夫イザナギに対して「それでは、現世に戻れるのかどうか、殿内に入って黄泉の神と協議します。私を待つ間、決して中を覗かないようにして下さい」と言い残して黄泉殿内に籠もる。しかし、妻と黄泉国神との協議が終わるのを待てなかったイザナギ禁忌を犯し、黄泉の国におけるイザナミの変わり果てた姿(肉体が腐敗して蛇に集られている有り様)を覗き見てしまったがために、彼女は現世に戻ることが不可能となり、二人は別れざるを得なくなる。

 この禁忌を犯す場面において、イザナギは彼の御髻(みみずら)に挿していた湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を抜いて、それに火を灯してから黄泉の国の殿内を覗き見るという筋書きになっている。この灯火を焚く必要があったということは、つまり黄泉の国でイザナギイザナミが語り合ったのは、闇の中であったことを示している(そうでなければ、黄泉の国で最初に再会した時点で、イザナミの肉体的変貌にイザナギは気づいていたはずである)。ここには、現世でも黄泉の国でも何ら変わることのない「男女の愛の営みや語らい(ピロウトーク)は暗闇の中でこそ行われる」という形式がある。

 小松和彦論文でも指摘されていることであるが、日本イザナギイザナミの冥界譚やその他の屍姦譚・屍愛譚には、中国大陸の物語から影響を受けた節が窺える。小松論文でも紹介されているが中国東晋時代書物『搜神記』における屍姦譚の一例として、次のような話がある。

 美しい女性結婚した男が、妻から「私は普通人間ではないので、結婚してから三年経過するまでは、夜、明かりで私の姿を照らさないで下さい」と言い渡され、それを守りながら夫婦生活を送り、二人は子まで設けた。しかし、どうしても夫は我慢が出来ず、ある夜、明かりで照らして妻の姿を見てしまった。彼が目にした妻の姿は、腰から上が普通人間女性で、腰から下は干からびた白骨というものであった。妻は「私は死者であるが、あなたが、あと一年だけ我慢して私の今の姿を見ないでいてくれたならば、完全に蘇生することが出来たのに。しかし、あなたが禁を破ったがために、最早それは叶わなくなった」と言い残し、形見として袍(うわぎ)の端布と二人の間に生まれた子を残して、男の元を去ってしまった。その端布を持って嘆き暮す男のことは、スイ陽王(スイは目偏にオオトリ旁)の知るところになり、袍の端布が王の若くして亡くなった娘姫のものと同じであったこから、娘姫の葬られた墓を暴いたとの嫌疑で男は取り調べられることになった。男が語った事の経緯を信じられない王と家来が、娘姫の墓を検分したところ、墓暴きに遭った形跡も認められず、念のために墓内に入って棺も確かめると、袍の裾が棺の蓋の隙間からはみ出ていた。それを見て「さては、本当に墓を抜け出して夫婦生活を送っていたのか」と、王も家来も信じるようになったとの由。この生者の夫と幽霊の妻も、彼らの愛の営みを、妻の申し渡した禁忌を犯さないように、明かりの無い暗闇で行なっていたことは確実である

 イザナギイザナミ冥界譚と『搜神記』における人間・死者婚姻譚との間に共通するのは、妻の本当の姿を見ることの禁忌、それを夫が犯したために妻の蘇生が叶わないという点である

 特に前者の覗き見の禁忌について、小松和彦考察し、その本質は「女性が『ありのままの姿』を公に晒すのは好ましくないという、昔日の社会における男女観・価値観倫理観の反映」であり「女性の本性を覗き見ることについての禁忌」だったのではないか推理している。それを裏付けるかのように、生者であるパートナーに対して自分の本当の姿を見ないように要求する死者の話は、圧倒的に女性要求する側であることが多いのである。また、禁忌を犯した夫イザナギに対するイザナミの怒りの言葉は「吾に辱(はぢ)見せつ」(私に恥を晒させた!)というものであるさらに、類似物語として、豊玉姫(トヨタマヒメ)が出産の時、産屋に籠もり、それを彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が覗き見ると、豊玉姫の正体はワニ(サメ)の姿であったという話もまた、女性の本性を見る禁忌の事例として挙げられる。

 死者にしろ生者にしろ、隠れている女性の姿を覗き見る男の性向というのは、時代を下っても変わらない。例えば『伊勢物語』の「むかしおとこうゐかうふりして」という出だしで有名な最初の一篇でも、田舎には不釣り合いな雅やかな女性が里に暮らしていることを知った主人公(在原業平)は、垣根の破れた所から彼女たちの姿を覗き見る。ずっと時代を下った現代においても、男性向けアダルトコンテンツは、視覚表現重要性を持つことは周知の事実である。このように、イザナギ在原業平の昔から変わることなく、男性は「視覚的な欲求」を満たすことを強く好むと言って間違いない。

 ところで、この「屍愛譚―」論文を再読し、期せずして気づいたのであるが、論文の著者である小松和彦の行なう考察もまた(覗き見の禁忌を論じて考察する必要から、当然のことではあるとはいえ)、やはり「視覚範疇」に留まっている。これもまた、視覚を重視する男の性向の顕れと言えるかもしれない。しかも、上に引用した箇所で「夜の闇の中での男女の愛の営みや語らいにおいては、嗅覚聴覚・触覚が重要である」といったことを述べているのにも関わらず、同論文は、それらの三感覚重要な働きを示している国文学上の具体例を、特に挙げてはいないのである。あるいは、国文学に詳しい人たちからすれば周知の事実なので、態々挙げる必要がないとして言わなかっただけのことなのだろうか?

 とりあえず、男女の機微の話は後回しにして、ひとまず、妖怪識別する手段としてのこれら三つの感覚について、話を進めることにする。

 聴覚妖怪識別に用いる事例は、比較的容易に見出される。例えば、誰そ彼(たそかれ)時・彼は誰(かはたれ)時・夜のように、人間なのか物の怪なのかを視覚的に区別をつけ難い時、相手妖怪が発する声によって正体を見抜くという事例は幾つも見つけられる。カワウソなどの物の怪は、人間から「誰じゃ?」と問いかけられると「俺じゃ」と言えず「おねじゃ」とか「かわい」などとしか言えないので、正体を見破られてしまうという。これは、言霊の力とも解釈できるが、音声(聴覚)による正体識別の事例と考えても許されるであろう。また、仮に人間の方が話し掛けたり問い掛けたりしなくても、妖怪の方から自発的に何らかの独特な声や音を発してくる(アズキアライ・テングダオシのような怪音、ヤロカ水の怪しい呼び掛け声など)ので、それを聞けば正体が分かるという例もある。これらも聴覚による妖怪識別に含めてよさそうである

 触覚の方はどうだろうか? 例えば、厠(便所)で河童などの物の怪に人間が尻を触られるという怪異の話は数多い。そして、それらの怪異譚は「毛むくじゃらの手である」といったような、通常の人間とは何かしら異なる手触り・肌触りの特徴を持つことを窺わせる描写が伴うことが多いように思える。厠が家屋の中では暗い場所に分類されることを併せて考えれば、これも視覚には頼り難い状況下で、触覚により妖怪識別する事例と考えることが可能ではないだろうか。他には、猟のために山に分け入った猟師が、夜になり「これでは鼻を摘まれても分からないな」と独り言を呟いたところ、突然「これでもか?」と何者かの手に鼻を捻られたという怪異譚もある(参考:千葉幹夫『全国妖怪事典静岡県の部)が、これは残念ながら手触りについて伝えていない。しかし、このように暗い場所時間帯において、物の怪に身体の一部を触られるという怪異譚は、枚挙に暇がない。これらも触覚によって人か物の怪かを判断するという事例に含められないか否か、再検討してみるべきかもしれない。

 問題は、嗅覚により妖怪識別する話や本性を看破する話なのだが、残念ながら今のところ、これといった事例を見つけられずにいる。逆に、妖怪嗅覚の方を利用し、何らかの臭いを発するもの人間が用意することで魔除けにするという事例ならば、比較的容易に幾つも見出だせるのであるが。例えば、焼いた鰯の頭を魔除けとする例は有名である。また、今でこそカカシといえば田圃に立つ人形のことであるが、日本神話でオオクニヌシスクナビコナと出逢うくだりに記されているように、本来の古い和名はソホド乃至ソフドである。それがカカシと呼ばれるようになったのは、稲を荒らす鳥を追い払うのに、鳥の死骸を焼いたもの竹竿の先に紐で括り下げて掲げるという風習があり「臭いを鳥に嗅がせる」という意味でカガシと呼んでいたものが、鳥避け人形混同されるようになったかである。上に挙げた鰯の頭も、ヤイカガシ・ヤッカガシ(焼き嗅がし)と呼ぶ地方があり、明らかに鳥避けのカガシと同じである。他にも、山中でタヌキやムジナの類いに化かされたことに気づいたならば、煙管(煙草)を一服すれば妖怪は逃げていくとか、小便をすると臭いを嫌がる妖怪を避けられるとか、人間嗅覚ではなく妖怪嗅覚を逆手にとって利用して払う例は多い。

 小松論文では具体例が挙げられていないものの「視覚的に本性を見ることが禁忌とされた状態特に暗闇の中で、何者かと一対一で対峙する状況において、重要役割を果たすのは、嗅覚聴覚・触覚である」という見解は、説得力を感じさせられるものであることは確かである特に、愛の営みに関しては、そうである人間がお互い裸一貫となって同衾する時、見た目の虚飾は、ほぼ通用しなくなるのだから。したがって、これら三感覚重要性が高まることは、必然であるように思われる。

 とはいえ「思われる」ということと、国文学などにおいて実際にどのように捉えられていたのかは、もちろん別問題であるから、これは検証必要があるだろう。あるいは(素人である私に言われるまでもなく)既に専門家の間では検証済みなのかもしれない。国文学中の、特に男女の愛の営みや語らいにおける三感覚が占める役割について、どのように描かれ、語られてきたのか、可能ならば識者の見解を知りたいものである

―――――――――――――――――――――――――――――

 さて、私は上で、男女の機微の話を後回しにして、妖怪の正体を識別する感覚的な手段の話をすると書いた。そこでいよいよ、男女の機微、すなわち異性のパートナーのことを暗闇の中で知る手段としての嗅覚聴覚・触覚の三感覚について論ずる順番がやって来た。といっても、上の文章を読んでもらえば分かるとおり、専門的な知見を私は持たない。そこで、識者の見解とは無関係に、今の私個人が思うところを書くことにする。したがって、これより以下は全くの駄文である

文字数制限のため分割したので、続きは⇒anond:20221023224411

2022-10-19

魔力を有する性器、その他の話

女性が陰部を見せることで魔を祓う」という伝承に関する、本しゃぶり(honeshabri)さんのエントリ拝読したので、それに便乗して、思い出した雑多なことを書き残す。先に断っておくが、かなりくだらない話が多い。

中田雅喜(なかた・あき)という女性漫画家がいるのだが、彼女代表作の一つで、80年代に成年向け雑誌漫画ブリッコ』に発表した連載作品を一冊にまとめた『空は女の子でいっぱい』というタイトル単行本がある。作品のものの別名は『真・ダ○ボ』シリーズとも言う。伏せ字にしても意味が無いような気もするが、とりあえず○ィズニーが怖いので、形式的に伏せ字にしておく。

○ンボと言えば、耳が普通の象よりも大きくて、それで羽ばたいて飛行することが出来る、子象が主人公物語である

この『空は―』の主人公である少女も、身体の一部が通常の人間女性よりも大きく、それによって羽ばたいて空を飛ぶことが出来る。ただし『空は―』の主人公の巨大な身体パーツは、耳ではなく陰唇である

念のために再度言っておくが、作者の中田雅喜女性である

ある日突然、X-MENミュータントのように陰唇が○ンボ状態になってしまった主人公女性に悪さを働く暴漢を巨大な陰唇で退治したり、人類から差別迫害に立ち向かったり、同じダ○ボ族たちと巡り会ったり、ダ○ボ族と人類戦争が起きて巻き込まれたり和睦したりと、奮戦する主人公の姿と、普通少年との淡い恋の行方。これら全てを描き切った一大ファンタジックSFエロチックコメディ絵巻である。念のために言うが、嘘は言っていない。ろくでなし子以前に、ここまでポップに女性器を強調したキャラクター創造したクリエイター存在したことは、日本アート史上に記録しておいてよいであろう。

この最高に馬鹿げた漫画執筆した切っ掛けが果たしてどのようなものであったのか。それは、同じ作者によるエッセイ漫画『純情ももいろ日記』に経緯が描かれている。

この『ももいろ―』についても説明すると、現在でこそ、女性漫画家性愛などについて赤裸々に語るエッセイ漫画自伝漫画のような作品は、決して珍しくもないが、中田による『ももいろ―』は、そのようなジャンルの先駆的作品である日本漫画史上、もっと高い評価を受けて然るべき作品であると、個人的には考えている。

ももいろ―』の内容も少し紹介する。例えば、成年向け作品執筆に関して、誌面では最終的にボカシで消されるとはいえ、生原稿では性器を描かざるを得ない。他にモデルもいないし仕方が無いので、作者である中田雅喜は、自身彼氏性器の実物を見ながらスケッチしたという。そういったユーモラスなエピソードの数々が『ももいろ―』では、ポップで可愛らしい絵柄で描かれている。ちなみに、性器スケッチモデルにもなった彼氏は、後に中田雅喜結婚して夫婦になるのだが、漫画で描かれている外見的な特徴を見れば、彼氏の人の自画像そのままなので、誰なのかは一目瞭然である。よく本人がオーケーしたな……。器が大きすぎる……。ダ○ボだけに。

それで『ももいろ―』によれば、若き日の中田雅喜は、隙間風が吹く風呂無しアパート暮らしており、冬の寒さに難儀していたため、ガス湯沸かし器を購入する資金が欲しかった。ちょうどそんな時に、知り合いの編集者が成年向け雑誌仕事を持ってきた。その依頼を受けたことが切っ掛けで、中田は成年向け作品執筆するようになった。そうして傑作『真・ダ○ボ』シリーズが生まれた。なお、中田雅喜は、無事にガス湯沸かし器を手に入れたそうである

成年向け雑誌仕事中田雅喜のところに持ってきた、その編集者とは、何を隠そう「オーツカ某」である。この呼称を覚えている人がいたら、その人は若くない。これは、現在大塚英志である大塚英志といえば、千葉徳爾宮田登の教え子であり、その学問的な素養を活かして『北神伝綺』『木島日記』『黒鷺死体宅配便』など数々の傑作を生み出した人物でもある。当時オーツカ某だった大塚英志が、漫画『真・○ンボ』の内容にどれほど寄与していたのかは定かではないのだが、もしかしたら民俗学神話伝承などについて学んだ経験を活かして、アイデア中田雅喜提供したりしたのかもしれない。何か情報を知っている人は、教えて下さい。

かなり前置きが長くなったが、ようやく神話伝承話題に繋がった。中田雅喜の『真・ダ○ボ』では、物語の終盤において「牙が生えている性器を持つ、女性の姿をした怪物伝承」「自らの手で牙の生えた性器を広げる女性の姿を描いた石像」について言及される。そして「この恐ろしい怪物に関する人類伝承は、遠い未来に遭遇する運命にあるダ○ボという異種族に対する、未来記憶による恐怖の産物だった!」という話になる。分かる人には分かると思うが、これは勿論、アーサー C. クラークSF小説『幼年期の終わり』が元ネタパロディである

さて、牙の生えた性器を持つ女性神話伝承については、金関丈夫が「Vagina Dentata」と題した論文(岩波文庫木馬と石牛』に収録)で、台湾東南アジアなどに分布するもの特に詳しく紹介している。この神話は、日本列島にも存在する。

この神話群は、おおむね次のような内容である。「昔、とても魅力的な女性がいて、大勢の男たちから求婚された。しか結婚しても、初夜に夫が死んだり逃げ出したりして、夫婦生活は長続きしなかった。その原因を調べてみたところ、彼女性器に牙が生えていて、夫の性器を食い千切って死に至らしめることが判明した。その牙を抜いたり砕いたりすることで、彼女普通女性となり、新たに夫を迎えて幸せに暮らすことが出来るようになった(バリエーションとしては、単なる怪物として退治されて死んだといったもの存在するようである)」

この物語典型の一つが、江戸時代奉行根岸鎮衛(ねぎやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収録されている「金精神(こんせいじん)の事」と題する一篇である。これは、津軽で「カナマラ大明神」と称して祀られていた、黒銅(黒鉄)で作られた男性器型の御神体について、その由来を聞き書きしたものである

この由来物語でも、やはり、牙が生えた女性器を持ち、それが夜の夫婦の営みの際に夫の性器を食い千切って死に至らしめるために、結婚しても夫婦生活が続かないという女性が登場する。その悩みを聞きつけた或る男が、この女性結婚を申し込んだ。そして迎えた初夜、新しい夫は、自らのものを初めて挿入する代わりに、まず黒銅で作った男性器を妻の性器に挿入した。すると牙の生えた女性器は、黒銅の男性器に噛み付いたために、牙が砕けて全て抜け落ちた。それ以後、女性普通女性となり、つつがなく夫婦生活を送った。その時に夫が用いた黒鉄作りの男性器が、後に神として祀られ、今のように崇敬されるようになったとの由。

古今東西神話呪術において、男女のいずれの性器も、生命力呪術的な力の源泉として神聖視される事例が数多い。その中で特に女性器は、妊娠出産による人間誕生という重要役割を担うことから生命象徴のものであった。しかし、それとは対照的に、Vagina Dentata神話で描かれている女性器は、牙を生やしていて、生命を生む存在ではなく、むしろ奪う存在である。これは、陰唇と口唇の形態的な類似と、性行為時に男性器を受け入れるという機能から男性器を喰らう女性器という発想に至ったと考えるのが自然なことであろう。けれども、それだけではないように思われる。

Vagina Dentata神話根底には「生命を生み出す魔力を持つ女性には、それと表裏一体のものとして、生命を奪う魔力もまた備わっているのが当然である」とする、呪術的な発想もあったのではないだろうか。ニギミタマ、アラミタマという言葉が示すように、聖なる力は、好ましい側面だけでなく、同時に好ましくない側面や荒ぶる側面を併せ持つとされることも多い。聖なる力が人間の役に立つ時には「カミの力」とされるし、人間に害を及ぼす時には「妖怪の力」とされる。こういった「カミと妖怪の間を振り子のように行き来し、変貌する超自然的な存在」という妖怪の有様は、京極夏彦作品に多大な影響を与えたことでも知られる妖怪学者小松和彦著作で、詳しく論じられている。女性器の神聖性に対して人類が抱いた、善悪判断を超越した畏怖の感情。それがVagina Dentata神話には残されているのであろう。

もう一つ。生命力の源泉という呪術役割を巡る主導権争い、すなわち、女性原理男性原理との間に生じた闘争対立記憶を、Vagina Dentata神話は今に残して伝えているのではないだろうか。『耳嚢』の金精神(こんせいじん)についての伝承は、生命を生むための呪術的な過程において、vaginaを重要視する女性原理から、phallusを重要視する男性原理が、地位や主導権を奪ったこと、男性原理の側から見た勝利記憶を留めているのではないか。牙を失い、呪われた存在ではなくなった女性器は、その代償として呪術的・超越的な力を失って馴致されたとも読める。

しかしまた、こうも考えられる。生命力の源泉としての呪術的な力は、女性原理場合女性器の妊娠出産の力として発揮されるが、男性原理場合男性器の種付けの力として発揮される。その一例として、田植え神事において、男性器を模した御神体田圃の泥土に突き刺し、稲の豊穣を祈願するという儀礼存在するという事例が挙げられる。金精神(こんせいじん)の由来物語も、新たな生命創造する過程である男女の営みの中において、生命の根源に係る呪術的な部分で、男性原理の種付けの役割にも"平等に"重きが置かれるようになったことを示しているとも考えられる。そう考えるならば、つまり精神(こんせいじん)の由来物語とは、男女双方の原理二人三脚でなければ、人間生命を生み出す呪術的な力を得ることは出来ない、女性原理だけ或いは男性原理だけでは決して呪術は成り立たないのだという「男女の共存和合を説く物語」だと解釈することも可能である対立征服物語として捉えるよりは、そのように考えた方が、建設的で平和的なのではないだろうか。

ところで、魔を祓うのとは少し違うが、男性器もまた、困難時に着衣を脱いで曝け出すことで窮地を脱するための呪術的な行為とするという事例がある。例えば、猟師が山で迷った時に、勃起した陰茎を山に向けて見せれば、山の神(女神)が喜び、その男性を助けて無事に下山させてくれるという伝承がある。

また一方で、女性器にも似たような発想の伝承がある。田植えをする時に女性和装下着を着けていないと、丸見えの女性器を田の神(男神)が見て喜び、田植え作業が早く進んで終わるように手伝ってくれるという伝承がある(そういったエロ話をしながら、田植え作業に勤しむ農村女性たちの活き活きとした姿を、宮本常一が記録に残している)。

このように性器を曝け出して超自然的な存在に祈願する人間の姿は、文明化した我々現代人の目から見れば、大らかではあるが、馬鹿馬鹿しく滑稽に映る。しかし、自らの肉体の恥ずかしくて重要な部分を曝け出すことができるというのは、相手が神(カミ)であろうと人間であろうと、それを捧げる対象に全幅の信頼や愛を抱いていなければ出来ないことであり、ある種の真摯さや敬虔さの証となる行為でもある。そう考えると、男女間の異性愛だけに限らず、全ての性愛行為根本において、信頼や愛が何よりも大切であるとされることの原点が、これらの呪術行為図像には秘められているとも言えるであろう。

そう考えれば、魔力を持つ性器を曝け出すという古来の伝承図像、それらの子孫として現れるポップカルチャー的な表現は、単にこれらを面白がるだけでも全く構わないとは思うが、改めて見つめ直してみれば、案外と我々現代人が真面目に学べる何かをも多く含むのかもしれない。

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過去駄文こちら。

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2022-10-08

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ところでこれ、「...高梁市有漢町有漢の田んぼで、玉野市高校生、...」って書かれてるけど、

調べてみたら、高梁市玉野市っていうのは随分離れてるんだな。

高梁市が山の中で、玉野市は海側で。

玉野市に自宅が有るとしたら所有している田圃は随分遠いところ。

農業って自宅の近くでやってるものかっと思ったらそうでもないんだ。


つんと一軒家、ではたまに見るけど、親が住んでた過疎地帯に田んぼや畑が有って、

自分達は街の中に住んでる、みたいな状況なのか?

俺は経験したことが無いから分からないけど、増田の中には共感できる人いるのかな?

2022-09-18

ちょっとコロッケ買ってくる

ちょっと田圃みてくる

海の様子をSNSにアップしてくる

2021-06-02

サクナヒメクリアしたけどなんか納得行かない

ガチ農業ってバズってたのを発売直後に聞いたっきりで、PS5買えたから一緒に買ってクリアした

実際にはアトリエ牧物イメージハクスラで、稲作そのものはおまけに近いとは思わなかった


クリアまで三ダメ農法ほぼ全部やってたけど何ら問題なかった

肥料過剰を無視してとにかく肥料有益素材を突っ込みまくって栄養過剰状態・虫だらけでも余裕でクリアレベルまで育つし

塩害農法とかやっても土地は死なないし、台風で倒れたりもしない

蝗が大繁殖して田圃面食い尽くすとかもない

肥料0にならなければ何とかなるっぽい(肥料0で育つのか?)

やっぱりそこらは所詮ゲーム的都合のステータスしかなくて、現実の米で起きることをちゃん再現してるかというと…農水省資料参考とかの言葉に期待しすぎたのかな?


逆にどれだけうまく作ってもステータスの伸びは毎年数百くらいだし、米の入手上限も999でカンスト

量産体制が整い、当たり前のように収量999+能力そこそこの米が作れるようになると、あとはエンドコンテンツのために稲作回数こなしてレベル上げするだけの作業となってしま

エンドコンテンツ特定階層で詰まったらレベル上げのための力入れた米作り、そのとき以外は田を放置しておいたほうが良いというのはどうなんだろうか


ストーリー進行度にあわせて素材が順番に出てくる序盤は、稲作ゲームバランスとしては農家になり切ってやりくりするのは楽しいけど、仕組みが分かると同じ作業を回数こなすだけになり、「楽しい」より「面倒」になってくる

エンドコンテンツクリアまでどんだけかかるのやら


稲作とは関係ないけど、ラスボス戦の特殊操作、綺麗に同時押しできなくて羽衣が出て死にまくる

ボタンなら何てことなかったのに


全体的に、マーケティング(口コミダイマステマ)に対するバズ具合が想定を大きく上回って、あることないこと尾鰭がついた話ばかりが検索上位にいる印象

食事から塩害とか本当にあるんですか?とか

日の出日の入りが違うことでなんか意味あるんですか?とか

ねこはいますか?とか


良くも悪くも同人志向ゲームで、そんなに大したゲームじゃない…ハズだったんだろうな、と感じた

ついでに実家農業を軽い気持ちで継ぐのは辞めようと思った

2020-04-26

anond:20200426222334

うるせえ

どうせペット散歩中に田圃や畑に糞尿しても「肥やしだからイイでしょ!」くらいにしか思ってない無知なヤツは黙っとれ!農家バカにすんな!

2019-10-14

anond:20191014090813

スーパー堤防も、八ツ場ダムも、田圃を壊し、山を切り崩しして立ち並ぶ太陽光パネルも、民主党政権時代の忘れられない思い出だよな

当時はマスコミブリジストンイオンが結託してゆるふわな感じで政権交代したけど、やっぱ後ろ暗いことがあるから党名をコロコロ変えてまた国民を謀ろうとしているんだね

2018-10-22

それはメディアが悪いんだよ

野党議員漢字クイズカップラーメンクイズみたいなことやり始めたのだってメディアのせい。

あいテレビネタになることやった時だけ手柄として全国放送で流してもらえるから

テレビで流してもらうと有権者から反響全然違う。

「ああここにニーズがあるんだな」って学習をすることになる。

youtuberが突然大ヒットした時のネタ意識せざるを得なくなるのと一緒。


最近よく「野党はアベ叩き自民叩きばかりでなく代案を出したら?」って呆れられてるけど

そういう野党にしたのはメディア有権者

代案なんてよっぽど奇抜でないと何のアピールにもならない(と少なくとも野党議員は感じている)。

与党と大きな差のある独創的な政策なんてない(民主特にそう)。


議員としての本来仕事

議会地元でコツコツ建設的な仕事や修繕的な仕事を積み重ねて頑張っても

そんなの誰も可視化してくれないし確かめてもくれない。

次の選挙議席を取れるかどうかは自分が日頃の仕事を誠実にクオリティ高くこなしたかどうかより

メディアが導く世論の「流れ」に左右されるところが多い。


そしてその「流れ」をてっとり早く作り出せるのは

なんらかの敵失やそれへの騒ぎ立て・攻撃ということになる。

こういう学習を長年強制されたら誰でも批判第一攻撃第一の振る舞いになってしまう。

ポジティブ仕事をこつこつやって、それをちゃん評価査定してもらえるようなまともなサイクルが回ってない。


これは特に古代中世農民に似ている。

そんな農民気持ちになって考えてほしいけど

まりにも天候によって収穫が左右されちゃうなら

天候にアプローチすることを重視しようと思うでしょ。

コツコツ田圃の手入れをするより神への祈りや生贄の儀式が増えちゃう


人を批判ばっかりしてる人と言うのは

そういうことをしてるときだけ相手されてそれを学習した人。

こつこつ頑張ってることを見ててもらえて評価してもらえるならそっちを頑張る。

こつこつ進歩前進してる人は「他人をなんとか引き摺り下ろしてそれで一気に大儲けしよう」って発想にはならない。

政治シーンが批判攻撃ばっかになってるとすればそれはやっぱり有権者が悪くて、

現代では有権者の行動をそういう風に誘導するメディア諸悪の根源


元増田がどんなに志を持って「有能な政治家を評価する流れにしたい」と思っても

メディアが叩き主導の流れを作ってる限りそれに抗するのは無理。


野党にとってさらにひどい話なのは

国民結構「叩き」の流れにうんざりしてるということ。

元増田のような人は着実に増えている。

から野党がどれだけ精力的に与党を叩いて、それをメディアが連日取り上げてくれてても、

長期間そうやって頑張ったのにびっくりするほど支持者が増えない。


メディアに認められてるのに支持はついてこない。

野党学習したやり方にすら裏切られつつある。

そして狭くなった支持者やメディアはそんなことお構いなしで

従来通りの「叩き」の活動もっともっと要求してくる。

これはあまりにも変だぞ、と気付いてももうどうにもならない。



ついこのあいだ立民の枝野さんが地元の駅に来るって言うんで見に行ったんだけど

まず地元国会議員市議会議員がそれぞれの日頃の活動や志を述べたり

互いにこんなこと協力して頑張ってますとか語ってたら

前の方にいた高齢男性が苛立った怒声で

「何の話をしてるんだ!」「緊張感がないんだ緊張感が!」「戦う話をしなくてどうする!」と喚きだして

怒鳴られた女性議員は一瞬動揺したもののすぐスピーチ話題与党叩きのテンプレ話に移行してすべらかな早口首相自民攻撃しだした。

おそらくああいうのも日常茶飯事なんだと思う。

観衆のいいポジション殆ど高齢者に占められていて彼らは怒鳴り声に好意的な笑い声を出していた。


議員特に野党議員日常はそんな感じ。

尖った支持者や高齢者と視聴率第一メディアに囲まれて叩きの手法しか許されず

日頃の仕事をコツコツやって報告すると有権者に怒鳴りつけられる。

これじゃどんなに頭のいい人が高い志をもって議員になっても

長くやるうちに叩き屋・攻撃屋になるしかなくなる。

そしてそのやり方が世間のマスからはむしろうっすらと嫌われていて

志を売ってニーズに媚びたことのご褒美すらもらえなくなってきてる。




繰り返しになるけどこの環境有権者一人一人が変えるのは無理。

地元議員さんのいいところを見て褒めよう」なんて草の根的にやってもメディアの叩き情報に押し流されてしまう。

ポジティブ情報ベース議員を品評する世の中にしようとしたら有権者にかなりの知識リテラシー必要になるけど

メディア有権者をそんな風に育て上げる気はないしメディア自身もそんな品評する能力があるかどうか。

要するにこういうのは変わらない。


anond:20181022001417

2018-06-11

南国住み。

日本いたころの近所は、端の家から長男離婚出戻り自殺、長女は引きこもり、次が家族喧嘩最中放火して全焼、次の家が長男が長期失踪中、次の家が若い長女が不倫して離婚、次の家がヤクザ借金して家と庭と田圃を全て売却、次の家は父さんが鬱病になり公務員退職離婚。次の家がじいさんが窃盗収監、次の家が夫婦そろって六十代で痴呆症。いずれも地域では豪農といっても差し支えない家だったが二十年もすれば家も田圃も無くなるようだな。日本に居たころのことを思い出していたらバカンスにならないのであまり考えないようにしていますが。

日曜日小学校の校庭で小中学生女の子ドッジボールをしたり追いかけっこをしたりして遊んでました。みんなかわいいのでロリコンの拙者はシアワセ。 アラフォーオッサンがこんなことしてたら日本では普通に事案。本当にフリーダム

仕事が苦しいとか、毎日がつまらないとか、将来の年金不安、とか毒吐いてるくらいなら、日本を出れば良いよ? 三十代のまじめな道程なら一千万くらい貯金あるでしょ? 現地の生活水準でいくなら5倍以上の使い勝手があるぞ。5千万だ。住民票を抜けば年金健康保険も支払わなくてよくなるからそれもごっそり振り替えればいい。大病をしたら、と覚悟を決めれば、一生働かなくてもいいぞ、働かずに喰う飯がうまいかどうかは別だがな。

選挙で票を投じて何が変わるかは知らないが、出国すれば身の回りのことや価値観が全て変わるぞ。まじでオヌヌメ

2017-05-05

小湊鐵道に乗ってきた

「いちはらアート×ミックス 2017」ってイベントがやっていると聞いて千葉県市原市に行ってきた。

内房線五井駅小湊鐵道に乗換えも、たまたま乗合せた便は上総牛久駅までで終点。折りよくトロッコ列車時間が繋がったので、蒸気機関車に初乗車してきた。

汽笛が鳴り、ゴトゴトと走り出す。でも速度は大人の駆け足ほど。青空から注ぐ陽光や風を感じながらぼんやり里山を眺める。

田圃の畦道でキジが声上げて縄張りアピールするそばから鴨が空気読まずにザブーンダイブをかましたり、それをダイサギポーカーフェイスで見ていたり。

さなドラマがいちいち面白い

作業中の婆ちゃんや部屋着のおっちゃん、散歩中の母子連れが沿線めっちゃニコニコしながら手を振ってくる。俺ってこんなに人気あったっけ、ああ、汽車からか、子供も乗ってるしな、って思いながら、悪い気はしない。そこへ、オルゴール音色とともに停車場アナウンスオルゴールってなんだか異世界音色だよね、このシチュエーションだと、まるであの世に連れてかれていくみたいに感じるね。彼女がいたら絶対そんな寒いことを呟いていたと思う。

廃校やら湖畔やらの会場を散策し、肝心のアートもたくさん巡ってきた。なんというか、アーティストさんもスタッフさんたちもまったりとしてて距離が近かった。何よりも、子供たちがやたら伸び伸びと楽しんでた。

なんだか、地域まるごとピクニックって感じだったし、これがあの世ならまあいいんじゃないかと思った。

間もなく連休は終わっちゃうけど、東京近郊在住、近場で家族サービスしたい向きにはぜひお勧め。期間中は最寄り駅から各会場へ、市営バス無料運行も行っている。

2017-04-18

1日の終わり

少し開けた窓の外、遠くから蛙の鳴き声がしんしんと聞こえる。晩春になってやっと田圃に張られた水に、雨蛙がたいそう喜んでいる。

今日も1日、いろいろあったが、なんとか無事にやっている。明日も元気を出していこう。

2016-10-12

[] 脱粰

(だっぷ)

籾摺り。

田圃からコンバインなどにより収穫した籾を乾燥し、籾摺り作業でで外皮(=籾殻)を取り除くこと。

粰は「米」扁に「孚」の語彙で、「フ/うすかわ」を意味する。

英語では"husking"とされ、脱粰粒は"husked grain"、ちなみに脱穀は"threshing"。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7677304.html

2015-06-04

http://anond.hatelabo.jp/20150604173917

うふふ。わかるぅ

朝5時に起きて飯を炊けって何時代だって話よねぇ。炊飯予約があるっつーのwwwねぇ?

ゴールデンウィーク的な(田植え休み期間ね)は田植えしろってのもちょっと切ないよねぇ。でも子供から本来乗りものじゃない田植えマシーンwに乗って移動できて楽しかったなぁw今考えると超危ないけどw段々畑の一段が数メートルあるところのキワキワをターンしたりして命がけ感あるわねwだけど田植えは割と楽しかたか児童労働感はないわぁ。

風邪でどんなに死にそうで世界が回ってても吐いてても起き上がれなくても、ご飯の用意しなきゃいけないとかいうのが辛かったよねぇ。

でもその後、そんなことを強く強要した家族が私よりひどい症状になってたかちょっと黒いけど楽しかったわ。子供でそれだけひどい症状になるんだから年寄なんて死の淵までいくわよねぇ。

ああ、そうそ夏休みはどこにも行かずに、毎日ひたすらのび続ける雑草を鎌で狩るのが大変だったわね。

炎天下だし。大人はエンジンの付いた草刈機を使うけど子供は鎌しか使っちゃダメなんだって毎日毎日まめがつぶれてもつぶれても終わらないのよね。まぁマメをつぶしたのは軍手するのを面倒がったせいなんだけどね。おかげ様で手がハンパない分厚くなったわぁ。女子の手とは思えない立派な手よw努力は人を裏切らないってこういう事ね。ナウシカも私の手を見て立派な手とか言うに違いないわ。

ついでに扇風脚の練習もしたわね。足で草刈もできるようになったわ。細かい調節ができないから苗木も刈ったわ。でも今ぐぐったら扇風脚って空飛ぶの??地面すれすれを刈ってたんだけど・・・私の修行無駄だったか・・・・ショックwww

草の片づけをするのも大変だったわね。干し草をばらけさせずにフォークでさして投げるって大変なのよね。

でも格闘技修行だと思うと楽しいのよwwwあれは嫌じゃなかったわ。しっかり腰を落とすのがポイントよ。上半身がブレると途中にバラバラと枯草が落ちるのよ。雪かきといっしょね。遠くに投げるのには練習がいるわ。

親戚の小学生は「男だから」とかい理由で2トントラックとか運転してたわね。いくら自宅の畑の中で背が大人と同じくらいあるとはいえあれはいけないとおもうわ。教習所意味がなくなっちゃもの

あと畑と田圃管理の為ならスクーターは男は乗っていいことになっていたわ。児童労働よねぇ。でも本人は楽しそうだったわよ。スクーターに乗れるなら水の管理もするといった具合ね。

おとこってばかねぇw

  

稲刈りもたいへんだったわね。

干すところを作るために竹をいっぱい運んだわ。刈った稲を運んで干すのよ。わらをフカフカ椅子にして食べるおにぎりは美味しかったわねぇ。

干した米を脱穀機に投入して、最後には落ち穂を拾ってたき火でポップコーンならぬポップ米よ。

「落穂ひろい」っていう外国の有名な絵があるけれどあの景色国境を越えてるわね。「外国の人も一年の収穫が今日終わって夕方、落穂ひろいをするのね。そして切ないようなほっとしたような気持ちになるのね」って子供心に思ってたものだわ。

そういえば茶碗を洗う話だったかしら?

あれも研究研究を重ねたわ。仕事をしながら子育てもする今となってはそんな暇はないけれど、子どもからたっぷり時間をかけて研究したわ。

自然の素材の石鹸水。これで茶碗を洗うのは滑るのよぉぉ。だけど親は合成洗剤は買ってくれないのよね。自分で洗わないから知らないのよ。プリプリ

そうね、どうせだから、私が小学生の頃研究した結果を発表するわ。

2~3リットルの水に適当に洗剤を入れてから、指をちゃせんみたいにして、泡を立てるの。泡がブクブクたてばちょうどいい濃さの石鹸水よ。泡がちょうどよくブクブク立つような石鹸水作るのには修行必要よ。

それから、その石鹸水の中に、あらかじめ汚れをだいたい落とした皿を入れて、持ち上げずに水の中で洗うの。石鹸水はすべるから持ち上げたらだめよ。落として割るわ。このとき中身が泡で見えないけどカンで洗うのが正しいやりかたよ。

何年も研究してようやくこの境地にたどり着いたの。そんなこと真面目に何年も追及するなんて時間のある小学生しかできないことよ。まぁぶっちゃけこの児童労働には私感謝してるわ。

さぁ、ナチュラル派の皆さん私の知見を役立てなさい。指で泡立てるのがポイントよ。石鹸水はそのままとっておいて、後でまた使いまわしができるわ。指で泡立つなら再利用可能。泡立たないならもうダメ。優しい!地球にやさしい

だけどね、だけどね、ナテラバンザイ!私ナテラを始めて使ったときちょっと泣いたわ。茶碗を持ち上げたとき滑らない。泡立てた水を使った洗いかたじゃなくても汚れが落ちる。すごい。合成洗剤すごい。だから今でも私合成洗剤が大好きよ。というか合成洗剤しかかわないわ。うふふ。ナチュラルなんてくそくらえよ。


父親から言われたのよぉ。「ルーチンワークを何も考えずにやるやつはバカだ。常に考えろ」ってね。

私、その命題があったから、子どもなりに一生懸命考えてたのよ。毎日の同じような仕事の何をどう考えるかってことから考え始めたわ。

から私にとっては児童労働無駄じゃなかったと思うわ。

子供の頃にやったから落穂ひろいにノスタルジーを感じるし、私が考えた最強の洗い方も発見できたし。修行しながら草刈もできたし。

からアンタはかわいそうね。考えろって言ってくれる人がいたら違ってたのかもね。

アンタだって一生懸命やってればなんかアンタも知らないうちに結果が出てるわ。多分ね。

一生懸命やってなかったら、、、、やっぱアンタかわいそうね。

泣いていいのよ。

つらかったわね

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