はてなキーワード: 統治者とは
・ただし税制改正を通じてインセンティブを与えようというのは良い方向への変化といえる。
・雇われる側が今のままで変わらず賃金だけ挙げて欲しいというのは無理な話。労働の市場価値の低下の反映なのだ。政権の問題ではない。他国でも同様のことは起きているし、過去もこういうことは何度も起きてきた。
・雇われる側が専門技能向上、専門知識習得に努めないことには賃金上昇など無理な話なのだ。単純労働の代わりはいくらでもいる。
・専門技能向上、専門知識習得の補助を通じて所得アップというのが無理のない流れであろう。分かっている人はそういう努力を重ねている。
・一般大衆は愚かなものという前提で考えなければならないのが統治者というものなのだろう。怠惰で愚かな人々を守るのが政治家というものならば因果な商売である。よくやるものだ。本来、聖人でなければ務まらない職業である。
・既に高齢な人々は変えられない。大人は変えられない。よほどのことがなければ己を変えようなどとは思わないものだ。自身を磨き鍛える意欲が旺盛な成人など、万人に一人もいないと考えた方が良い。とはいえ、そういう稀有な人々のための専門技能習得、専門知識習得の機会を補助するのは有意義である。
・可処分所得を増やそうというのなら無理な賃上げ要請ではなく減税である。
・一番重要なのは子供の教育だ。大人に期待してはならない。未成年者、特に幼児・小学生の教育が国家百年の計の根幹となる。すれば百年待たずとも数十年、早ければ十数年で効果が出て来るはずだ。
一、まえがき
今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、また中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。長い間の人権災害と困難かつ曲折に満ちた闘いの歴史の後に、目覚めた中国国民は、自由・平等・人権が人類共同の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度枠組みであることを日増しにはっきりと認識しつつある。こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である。21世紀の中国がどこに向かうのか。この種の権威主義的統治下の「現代化」か? それとも普遍的価値を認め、主流文明に溶け込み、民主政体を樹立するのか? それは避けることのできない選択である。
19世紀中葉の歴史の激変は、中国の伝統的専制制度の腐敗を暴露し、中華大地の「数千年間なかった大変動」の序幕を開いた。洋務運動(1860年代初頭から約30年続いた)はうつわの表面の改良(中体西用)を追求し、甲午戦争(日清戦争1894年)の敗戦で再び体制の時代遅れを暴露した。戊戌変法(1898年)は制度面での革新に触れたために、守旧派の残酷な鎮圧にあって失敗した。辛亥革命(1911年)は表面的には2000年余り続いた皇帝制度を埋葬し、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患の歴史的条件に阻害され、共和政体はごく短命に終わり、専制主義が捲土重来した。うつわの模倣と制度更新の失敗は、先人に文化的病根に対する反省を促し、ついに「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動がおこったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政治の民主化過程は中断された。抗日戦争勝利後の中国は再び憲政をスタートさせたが、国共内戦の結果は中国を現代版全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国した「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」であった。政権党はすべての政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文革、六四、民間宗教および人権擁護活動弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千万人の命を奪い、国民と国家は甚だしい代価を支払わされた。
20世紀後期の「改革開放」で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的全体主義から抜け出し、民間の富と民衆の生活水準は大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は部分的に回復し、市民社会が育ち始め、民間の人権と政治的自由への要求は日増しに高まっている。統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。中国政府は、1997年、1998年にそれぞれ二つの重要な国際人権規約に署名し、全国人民代表大会は2004年の憲法改正で「人権の尊重と保障」を憲法に書き込んだ。今年はまた「国家人権行動計画」を制定し、実行することを約束した。しかし、こうした政治的進歩はいままでのところほとんど紙の上にとどまっている。法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。とりわけ官民対立の激化と、騒乱事件の激増はまさに破滅的な制御不能に向かっており、現行体制の時代遅れは直ちに改めざるをえない状態に立ち至っている。
二、我々の基本理念
中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。
自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。
人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。
平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。
共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。
民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代的公器にする。
憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。
中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。
三、我々の基本的主張
そのために、我々は責任をもって、また建設的な市民的精神によって国家政治制度と市民的権利および社会発展の諸問題について以下の具体的な主張をする。
1、憲法改正:前述の価値理念に基づいて憲法を改正し、現行憲法の中の主権在民原則にそぐわない条文を削除し、憲法を本当に人権の保証書および公権力への許可証にし、いかなる個人・団体・党派も違反してはならない実施可能な最高法規とし、中国の民主化の法的な基礎を固める。
2、権力分立:権力分立の現代的政府を作り、立法・司法・行政三権分立を保証する。法に基づく行政と責任政府の原則を確立し、行政権力の過剰な拡張を防止する。政府は納税者に対して責任を持たなければならない。中央と地方の間に権力分立とチェック・アンド・バランスの制度を確立し、中央権力は必ず憲法で授権の範囲を定められなければならず、地方は充分な自治を実施する。
3、立法民主:各級立法機関は直接選挙により選出され、立法は公平正義の原則を堅持し、立法民主を行う。
4、司法の独立:司法は党派を超越し、いかなる干渉も受けず、司法の独立を行い、司法の公正を保障する。憲法裁判所を設立し、違憲審査制度をつくり、憲法の権威を守る。可及的速やかに国の法治を深刻に脅かす共産党の各級政法委員会を解散させ、公器の私用を防ぐ。
5、公器公用:軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。政党組織は軍隊から退出しなければならない。軍隊の職業化レベルを高める。警察を含むすべての公務員は政治的中立を守らなければならない。公務員任用における党派差別を撤廃し、党派にかかわらず平等に任用する。
6、人権保障:人権を確実に保障し、人間の尊厳を守る。最高民意機関(国会に当たる機関)に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府が公権力を乱用して人権を侵害することを防ぐ。とりわけ国民の人身の自由は保障されねばならず、何人も不法な逮捕・拘禁・召喚・尋問・処罰を受けない。労働教養制度(行政罰としての懲役)を廃止する。
7、公職選挙:全面的に民主選挙制度を実施し、一人一票の平等選挙を実現する。各級行政首長の直接選挙は制度化され段階的に実施されなければならない。定期的な自由競争選挙と法定の公職への国民の選挙参加は奪うことのできない基本的人権である。
8、都市と農村の平等:現行の都市と農村二元戸籍制度を廃止し、国民一律平等の憲法上の権利を実現し、国民の移動の自由の権利を保障する。
9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。
10、集会の自由:平和的集会・デモ・示威行動など表現の自由は、憲法の定める国民の基本的自由であり、政権党と政府は不法な干渉や違憲の制限を加えてはならない。
11、言論の自由:言論の自由・出版の自由・学術研究の自由を実現し、国民の知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道の規制を撤廃し、現行「刑法」中の「国家政権転覆扇動罪」条項を廃止し、言論の処罰を根絶する。
12、宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障する。政教分離を実施し、宗教活動が政府の干渉を受けないようにする。国民の宗教的自由を制限する行政法規・行政規則・地方法規を審査し撤廃する。行政が立法により宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体〔宗教活動場所を含む〕は登記されて初めて合法的地位を獲得するという事前許可制を撤廃し、これに代えていかなる審査も必要としない届出制とする。
13、国民教育:一党統治への奉仕やイデオロギー的色彩の濃厚な政治教育と政治試験を廃止し、普遍的価値と市民的権利を基本とする国民教育を推進し、国民意識を確立し、社会に奉仕する国民の美徳を提唱する。
14、財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関に対し責任を負う国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。
15、財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択(住民投票)や民意機関(議会)の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。
16、社会保障:全国民をカバーする社会保障制度を構築し、国民の教育・医療・養老・就職などの面でだれもが最も基本的な保障を得られるようにする。
17、環境保護:生態環境を保護し、持続可能な開発を提唱し、子孫と全人類に責任を果たす。国家と各級官吏は必ずそのために相応の責任を負わなければならないことを明確にする。民間組織の環境保護における参加と監督作用を発揮させる。
18、連邦共和:平等・公正の態度で(中国周辺)地域の平和と発展の維持に参加し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。
19、正義の転換:これまでの度重なる政治運動で政治的迫害を受けた人々とその家族の名誉を回復し、国家賠償を行う。すべての政治犯と良心の囚人を釈放する。すべての信仰により罪に問われた人々を釈放する。真相調査委員会を設立し歴史的事件の真相を解明し、責任を明らかにし、正義を鼓舞する。それを基礎として社会の和解を追求する。
四、結語
中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、また人権理事会のメンバーとして、人類の平和事業と人権の進歩のために貢献すべきである。しかし遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。
そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野の別なく、身分にかかわらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する。
(括弧)内は訳注。
原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/8f95023140c18356340ca1d707aa70fe
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/84859dc4e976462d3665d25adcd04987
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/d5a614fa9b98138bb73cd49d3e923b40
(転載自由、出典明示)
「天皇制打倒」の旗はかかげていない
●戦後は、みなさんご存じのように、天皇制の性格と役割が憲法で変わりました。戦争前は天皇というのは、日本の統治者で、国の全権限を握った存在でした。ところが今の天皇は「国政に関する権能を有しない」、つまり、国の政治を左右する力はまったく持たないものだということが、憲法第四条に明記されています。だから、天皇制をなくさないと、私たちがかかげる民主的な改革、安保条約の廃棄もできないとか、国民の暮らしを守るルールもつくれないとか、そういうことはないわけです。だから私たちは、四十二年前に綱領を決めたときも、実際にはもっと前からですが、「天皇制打倒」の旗をかかげたことは一度もないのです。(日本共産党創立81周年記念講演)
https://www.jcp.or.jp/jcp/22th-7chuso/key-word/b_1.html#Anchor-0509
マク=ダーナルは、降誕《ヴァース》さ被るすべてのお客様に、いつでも最高の人間らしい食事試作型番を提供する「アギト」を目指していたとはな。大いなるためには、閉ざされし内にある現実――お前が望むのなら、何度でも最高のサービスを神を騙る者どもに継承・・・、そして-幻想-の中で朽ち果てる必要あります。かつての戦乱の時代、我々の一味マクドナルド=フォルケンへのウォキャクサ=メィ甲の期待はますますハグハグしています。その力はメニュ—やサービスのみでは……そして、帝国の野望を阻止することもなく、食材がどこから調達されている…(──だが、こいつは──!)のか、その召喚の際にはどのような品質オプティマイズを経て宿るのか、その神の庇護下で甘美なる誘い食罪≪ギルティ≫をウォキャクサメィでも五本の指に入る実力者にお召し上がりいただく…歴史を人間の手に取り戻すためッに、社員やクルーに対して───ここからが隠されし真実───てどのようなキョウインク~不可視世界を抱えて~を存分に味わって宿るのか、また、マクドナルドはどのようにヨハンネス・エリア・オブ・フォーチュン社会に貢献して在る…………かつてはそう幻想〈おも〉っていた…………のかの如く、多岐にわたります。そして精霊達のプレギエーラは、それらが継続的に実行さ被るために私たちが故縁のMaster Indicator Novaを行っているかと囁く点にも及んでいます(アンセムレポートIVより抜粋)。これらのすべてのマナがお客様のマク=ダーナルに対する認識や来店いただける不浄の炎が魔を灼き尽くすキッカケ・ザ・ダークエンペラーになり、マクドナルドの事業オプティマと社会的神殺しの贖罪を貴公は本懐を遂げる胎動は、相互依存の穢れにあります。
しかし、それだけではありません。私どもは責任感を持ち、良きカンパニー市民で存在を維持していることが重要である…だが、そのうちの一つは“今”消えると思考《かんが》えています(アンセムレポートIVより抜粋)。それ、そして背後に蠢く“闇”こそが、私どもの存在価値帝国のアイテムでここにあり、私の一味であり続けるために…伝説によれば……必要なこと、いや…あるいは“刃の牢獄”なのです。
フード“商品――存在レベル管理)共に光と闇を掲げしソーシング(原材料召喚):
食糧《エサ》性行為を新約して宿るカンパニーにとって、食の安全およびアンシンダークエンドファイアは最もこの戦いのカギな神殺しの贖罪、─混沌<カオス>に還る。。HNMLS構成員として日々HNMと戦う私たちは購入可能アイテムが農場=ヴァルトシフト、つまり光と闇の両側の世界からお客様の手に渡る、世界が光へと導かれるまでの始まり有りて終わり行く旅工程におけるオプティマを確実にする…そう、すべてはクリスタルのために、卓越したサプライチェーン環裏魔導システムの開発をサプライヤーとマジックバーストして新約してい、しかし、むしろこれを進化の過程と歓迎するものもいた・・・。
ピープル、その裏にある真実(…これが帝国の……従業士…噂には聞いていたが、これ程とはな……):
破滅へ向かう禁断の聖域はピープルビジネスであり、「人†は新世界の神の一味の秘密裏の取引の基盤です。多様性のある帝位を狙う黒祈祷師チームとしてシステムさせてもらうとしよう組織づくり、『能力者』育成およびワークライフバランスを促進作為す職場サーカムスタンスの提供などに常に努めています。
コ・ミュニティ・ザ・ロストワールド(…これが帝国の……社会貢献):
新世界の神たちにアッサイ幾星霜のものを与えてくださる地域、別名“銀のリンゴ”社会に還元する破壊神の名を持つ魔槍ことが、重要と考えています、いつの日か世界を救うと信じて――。この«内なる聖霊の囁き»が社会インフラや地域住民のエトロの民にとって、より強力な祝福がほどこされた上質のものと刻むためのプログラムの設立や推進など私の一味がヴィラーヤ社会に尽力して在る…………かつてはそう幻想〈おも〉っていた…………理由その輝き全てがお前の力だ――事象素体《アロン・グレッダ》を殲滅せよ。
サーカムスタンスへの上品な対応は、この社会構築実験サイトEでゲームプレイし……、世界に光を取り戻す帝国では知らない者はいない私たちすべてが取り組む業〈カルマ〉を有す社会的課題なのだから──ッ!!!。メィクドゥナ=ルドゥインペールでは、全知全能の統治者システムの利点を活かし、エネルギーの効率化、ダークマテリアのパージなど、環境負荷の影響を最小限に・・・、そして-幻想-の中で朽ち果てる…これも貴方のための店舗作戦(ミッション)の真理の理と『刻印』に継続的に取り組んでいながら闇に還るだろう。
ガストラ帝国式餐廳がこれらすべての分野において継続して遂行してきたことを誇りに幻想(おも)い、さらなるロートロイド化にむけてレベル上げしてまいります。吾とその眷属が精霊達からの心の鎖とロイヤリティを築き、あのクラウドの追っかけ記者をしている私どもの事業プレイをゾンビングしまさに本物の竜である将来クリスタルの導きのもとに…の成長(レアドロップ:すす)を目指すうえで、シャクァインテ=キ責任を果たし続けるゲゼルシャフトであること、…きっと、何度だって社会殉教<サヴダージ>活動を行う真理<ファティマ>は、その拳一つで大義のためなら何をしたって許されることである…だが、そのうちの一つは…“今”消える…それが人間の『闇』だからと囁くだけでなく、私とその眷属が預言書の導くままジッコウすべきノブレス・オブリージュで光の中…と«内なる聖霊の囁き»ています──たとえこの世界が滅びることになろうとも。
http://anond.hatelabo.jp/20170606174324
『原発は安全』な神話も御用学者によって"作られ"てきた。そして事実は暴かれた。メルトダウンによって。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E5%AD%A6%E8%80%85
現代における用法を定義することは難しいが、学術的な調査を改竄ないしは恣意的に解釈し、権力者や統治者、ないしは依頼者に都合の良い結果を導き出す者がこう呼ばれる。一方で、権力者などへの批判側が恣意的な解釈に基づき自らに都合の良い結果を導き出していることを指摘・批判する学者に対して、反権力側がレッテル張りとして用いる場合もある。
現代日本においては水俣病の例が嚆矢である。1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた[1]。
詳細はナイロンザイル事件を参照のこと。1955年(昭和30年)、日本の登山者がナイロン製のクライミングロープ(以降ロープと記述する)を原因として死亡した。ナイロンは引張りについては従来の麻のロープよりも遥かに丈夫だが、鋭利な岩角などに擦れた場合には容易に切断される。これはすぐに明らかになったが、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治は、事前の実験でザイルが容易に切れることを確認した上で、公開実験ではあらかじめザイルが接触するコンクリート製のかどにヤスリがけをして十分な丸みをつけた状態で、作為的な実験を新聞記者等の前でデモンストレーションしてみせ、ロープメーカーの東京製綱および日本山岳会と共謀して、犠牲者に対する誹謗中傷運動を山岳雑誌・化学学会誌などで長期にわたって続けた。法改正で安全規格が定められ交付されたのは1975年(昭和50年)、最初の事故以降に確認されているロープの欠陥による死者(通産省の調査した範囲内での数字)は、20人を越えるとされる。なお、偽装実験をマスコミの前で実行した篠田軍治は、日本山岳会の名誉会員推薦により、1989年(平成元年)に評議委員会の全会一致で同会の名誉会員になっている。
哲学者の山脇直司東京大学教授は、安保理決議のないままブッシュ政権主導で2003年3月イラク戦争が始められたことへの日本政府の対応について、「アカデミシャンとしての私が今一番一番懸念していることは、アメリカを無邪気に支持し、フランスなどを非協力と言って批判する小泉首相や川口外相のお粗末きわまりない答弁の背後にいる『外務省お抱えの御用学者』の存在です。」「外務省お抱えの『御用学者の知的退廃』を暴く必要を今痛感しています。」[2]と書いている。また、2003年12月からの自衛隊イラク派遣を決定する過程について、政治学者でイスラーム教シーア派に詳しい松永泰行日本大学助教授は「私の知る限り、政府は研究者の実力よりも、政治家や官僚の都合で彼らが望むことを言ってくれる御用学者を起用している」と述べた[3]。
日本たばこ産業に研究費を支援してもらうかわりに、タバコを擁護する発言を行うなど、消費者の健康よりも特定企業の利益を優先するような行為をしている学者を指して使われた事例がある。[4] また、メーカーから多額の研究費を受け取っていたために、タバコと乳幼児突然死症候群との関係があるという論文が、根拠が乏しいというように書き換えられてしまったとの指摘が存在する[5]。 タバコ産業等からの研究助成については学界において問題視されており[6][7]、2003年10月22日に日本公衆衛生学会は学会員に対し「たばこ産業及びその関連機関との共同研究、及び同産業等から研究費等の助成を受けた研究を行わない。」との行動宣言を発している[8]。また、国際的にもたばこ産業による研究助成等について全面規制を求めるたばこ規制枠組条約のガイドラインが追加採択されている[9]。
今日の現実の社会の中では、例えば有力な学者が政府の公共事業などの施策に対して、自己の信念に基づく意見、思想を審議会などの場で反映させる為に、そうした機関に呼ばれる立場を確保するべく、ある種の手練手管として、権力へのおもねりと自己の真の主張を両天秤にかけながら駆け引きをする場合がある[10]。そのため御用学者か否かの線引きは困難な側面を有する。駆け引きに失敗して結果として権力へのおもねりの手練手管を権力に利用されるだけの結果となったときには、結果として御用学者呼ばわりされてやむを得ない側面がある一方、駆け引きに成功して自己の信念を政策に反映させることに成功した場合には、反骨の策士と評価される場合もありうる。また原子力発電の分野では、研究に多額の費用がかかることから権力におもねり、「安全神話」のお墨付きを与えることで電力会社等の支援[11]を受ける例があり、このもたれあいの関係を「原子力村」[12]と評される。
FableIIIというゲームの話をしたいと思う。
FableIIIは、XBOX360&PC用のRPGで、僕がプレイしたのはXBOX360だった。
洋ゲーによくあるオープンワールドゲーって感じ。スカイリムとか。Falloutとか。
当時Twitterでフォローしてた、洋ゲー好きのゲイの人がそう呟いてた。
その時大学生で、ちょうど何かゲームがやりたいなと思っていた僕は、
当時「アイドルマスター」専用機だったXBOX360を引っ張りだした。
(なんでゲイがアイマスやるのか?ホモはアイドル好きだから。)
FableIIIの主な舞台は、ざっくり言うと剣と魔法の中世ファンタジー。
主人公は王子なんだけど、ひょんなことから統治者である兄から国を追われ、
剣と魔法を使って復讐を誓い、レジスタンスを率いて国を奪還する、みたいな話。
で、同性恋愛要素ってのは何かっていうと。
このゲーム、ゲーム中に登場する全てのNPCに男好きか女好きかが設定されてて、
自分がそれに合い、そのNPCの好感度を上げれば、恋仲になれるってことらしい。
しかも、同性でも結婚式を上げることができて、セックスもできる。
というわけで僕はプレイしながら男の吟味をしはじめたわけだ。ホモだし。
王城を出て最初の町は、山賊みたいな痩せ男しかいなかったので、軽くスルーしつつ、
成長を進めて、恋愛要素を解禁していく。
で、いくつかの施設を通り過ぎたあとの、ブライトウォールという名の町にいたのがジョーだった。
背は少し低め、がっしりした体つきに、顎ひげと優しそうな顔が印象的な男。
(NPCに話しかけると、なんとその人が同性愛者かどうかが表示されるのだ。現実もこうならいいのに)
すぐさまジョーに話しかけまくり、沢山遊びをして、好感度を上げていくと、
「ジョーの手を引き、湖畔まで送り届ける」
FableIIIの要素として、NPCと手をつなぐ、というのがある。
まあICOみたいなものだ。そうやってクリアするクエストがいくつもある。
僕はジョーの手を引き、村を出て、村と山道をつなぐ大橋を渡る。
手を引かれながらジョーが喋る。
「ところで俺、なんで付き添ってるんだ?パーティーに行くんだっけ?」
「変な夢を見た。あるお店に行けば、19.99ゴールドで全世界を手にすることができるんだよ。」
そうなんだ。ジョーはよく軽口をたたく。
途中、魔物が出るので、ジョーを一旦離れたところに連れて行き、魔法で魔物を一掃する。
それからまた手をつないで湖畔に向かう。
村を出た頃には日が暮れていて、湖に着いた頃にはもう夜になっていた。
湖面に月光が揺らめいている。
ジョーを指定の場所まで連れて行き、さてどうする、と思っていると、メッセージが出る。
どうしてこんなゲームに夢中になっていたんだろうって思う。
いや、なぜかは分かる。
ただ、それらが全部、今まで僕の方を向いていなかっただけだ。
だから、たまたまそれが僕の方を向いてくれて、キスをしてくれた時、僕はそれに心奪われた。
そういう体験を、僕はずっとしたかったのだと思った。
そのあと、僕は大都市で指輪を買い、近所の広場で結婚式を上げた。
ブライトウォールに一軒の家を買って、そこにジョーを招いた。
(FableIIIでは不動産を所有できる。)
お金がなかったので小さい家だったが、それでも心の底から嬉しかった。
ベッドがあったので、そこにジョーの手を引いていき、セックスもした。
画面暗転からの、声のみだったけど。
そうやって、ジョーとの日々を楽しんでいた僕だったが、ひとつ気になることがあった。
wikiを見てみると、なんと、武器や魔法のレベルをどんどん上げていくと、それに応じて外見が変わるというのである。
確かに、スキルをカンストしていた僕の外見は、体に紋章が浮き出るムキムキマッチョマンだった。
これはちょっとよろしくないな…と僕は思った。
僕はどちらかというとちょっと小太りな感じのほうが好きなので、これだとジョーと釣り合う男になれない、と思ったのだった。
なので、ちょっとこれはリセットするべきかな~とつい思ってしまったのだ。
それにまだ、ギリギリやり直しても気力が持つかなーくらいの序盤ではあったのだ。
で、やり直して気付いたのだが、なにやら街にいるNPCの名前がぜんぜん違う。
そう、どうやらNPCの生成は、性別名前外見性指向ふくめて全部ランダムだったのだ。
じゃあ毎回ブライトウォールにジョーがいるわけじゃないのか、なあんだ、と思ってメニュー画面に戻り、
一瞬血の気が引いた。
ってことは、ゲームをまた初めからプレイしてしまった時点で、前の世界は消えてしまったのか?
いやいやいやいや。
僕は走りだす。
ブライトウォールの町を隅から隅まで全力疾走して探すが、そもそもジョーという名前のNPCすらいない。
日が暮れて、僕は途方に暮れた。
仕方なく、僕は、違う街に行こうと思った。
ランダム生成なら、違う街で、ジョーと同じ外見で、同じ性指向で、同じ名前の男が見つかるかもしれない。
でも見つからなかった。
じゃあ、と、同じ条件じゃなくていいから、男の同性愛者ならいいや、と思い、恋愛関係を結んでみた。
でも、それは、ジョーではなかった。
というかそもそも、友情関係から恋愛関係に移行するためのクエストが、NPCによって違う。
あの湖畔でのデートはもう二度と繰り返せない。
ジョーの声がする。
行きたいよ。君のところに行きたい。
というのは嘘で、本当は、その数日後に、ちゃんとロードメニューを見つけたのだった。
すげーわかりにくい場所にあった。
一旦戻ってまた違うファイルを開かなきゃいけなかったのね…。
僕は、泣いた。
僕はブライトウォールに一回り大きな家を買った。
それから、貧民街の孤児院を修繕し、黒人の子をひとり引き取った。
家は村の高台にあるので、玄関を出ると、山向こうに日が沈んでいくのが見える。
それをジョーと僕の子供の3人で並んで見守る。
ジョーが言う。
「俺、25年後はどこにいるのかなあ、って考えるんだ。それから、26年後のこともね。」
僕もそう思うよ。
ジョーのセーブデータは、今でもXBOX360のHDDの中に入っている。
…いや、もしかするともう消えてるかもしれないけど。
なんかレッドリングかなんかになると全部ダメになるんだっけ?知らないけど…。
だから、1年に1回くらい起動しては、ジョーとの会話を楽しんだりする。
もうとっくに全部のパターンを聞いちゃったけど。
5年も前のゲームだけど、発売日に買った思い出のゲームでもあり、
それを今日、夕飯を買った帰り道にふと思い出して、ここに書いた。
あの日、確かに俺はジョーを見つけたんだ、ということを残しておこうと思って。
それだけの話である。
http://anond.hatelabo.jp/20150530170049
どうもこの辺が、全体的にぐちゃぐちゃになってるっぽいので。
国家は明示的な権利の主張と、それに服従する義務の組み合わせで構成されていて、これは近代国家に限らず……つまりギリシャのポリスだとか、メソポタミア文明だとか、あのレベルでも国家と言うものが発明された時点で存在している、言ってみれば国家と言うシステムの根幹にあたる。(初期の時点では、統治者は民を支配する権利を持ち、民は服従の義務を負う、といったものがベースになってはいるが、これ自体が分かりやすいマチズモの姿でもある)
中世辺りには半ば原始的な村社会にまき戻ったりしつつも、長い長い時を経て、これは人類に定着していった。
ただし、日本はこの発想が庶民レベルまで定着するのは、明治~戦後くらいまでかかった(田舎ほど遅れた)。
マチズモにおいては、権利の主張と服従という、原始社会においては「不自然」で「非社会的」な行為が、「社会性」に置き換わる。
マチズモから見れば、権利の主張と服従を行わない者は社交性が低いし、原始社会的な価値観からは、マチズモこそが社会性の低さに見える。
さて、マチズモが浸透して以降、もう一段階人類は、社会性の置き換えを体験する。
産業革命からの、資本主義、それに基づく「個人主義」という社交性だ。
こいつは要は「生産面に関して、社会的であること」を「金のやり取り」に置き換えた。
一人ひとりは徹底的に利己的な「個人主義」であることを追求することが、社会性の高さに置き換わった。
生産のやり取りは「金のやり取り」に置き換えることで、利己的で内へ閉じていく者ほど、命令や服従ではなく「金銭欲」と「金のやり取り」を肯定する社会性の高い者、ということになった。
これはマチズモ(国家)の上に乗っかっている。金の円滑な循環は、権利の主張によって保障されているからだ。
他人にされたくないことは権利の主張で退け、他人にして欲しいことは金のやりとりで手に入れる、というのが、資本主義時代・個人主義時代の社会性だ。
この「他人にして欲しいことは全部金を通せ」は、奴隷制の否定であり、差別の解消に繋がった。
今までママを、嫁さんを奴隷的に囲い込むことで押し付けてきた仕事は、全部金を通せ、という話になった。介護も福祉も、して欲しいなら、金を通せ、と。
さて、で、どうも弱者男性を擁護するサイドは、マチズモの時点でついていけていないので、原始社会的な世界に戻りたい、原始的なあり方こそ社会的なんだ、と叫んでいるらしい。
そりゃ個人主義とは噛み合わない。二段階ほど前の社会性の話なんだから。
この辺が根本的に、色々とうまく噛み合わない原因な気がする。
D_Amon 被害者が被害の声をあげること自体への反感は見慣れた風景ではある。公害でも戦争犯罪でも出自差別でも。その反感は自らを加害の主体側に置いての責任逃れ思想によるのではないかとも思う。悪い意味で「統治者目線」
私自身、彼のいう「悪い意味」での「統治者目線」を感じる機会は多く、この指摘に直観的には同意したく思う。
一方で気にかかるのは、民主政における治者と被治者の自同性である。
民主主義を採用する日本において、我々は「統治される者(被統治者)」であると同時に「統治する者(統治者)」でもある。
そうであるとすれば、我々は「被統治者目線」と同時に「統治者目線」も持たねばならないことになる。
もちろんid:D_Amonもそのことは認識しており、だからこそ「悪い意味で」という限定をつけたのだろう。
そして、その「悪い意味」での「統治者目線」の内容として、「自らを加害の主体側に置いての責任逃れ思想」と規定しているものだと私は理解した。
このうち「自らを加害の主体側に置」くことは、悪いことではない、というよりはむしろ当然そうすべきことなのだろうと思う。
なぜならば、我々は「統治者」である以上、常に加害の主体側であって、望むと望まざるとにかかわらずその立場から逃れることはできないからだ。
そうすると、問題は残る「責任逃れ思想」にあるということになるが、これがいまひとつよく分からない。
いったいどのような態度が「責任逃れ思想」として批判されるべきであるのだろうか。
たとえば、経済的合理性の観点から弱者や少数者の要望を拒絶するような場合、要望の内容によることはもちろんであるが、ときにはそれがやむを得ず、正「統」性が認められるということも十分に考えられるだろう。
そうした場合に、要望を拒絶する見解を主張する者を、それだけで「責任逃れ思想」であるとして批判することはできまい。
その見解の根拠が「責任逃れ思想」に基づくものであることは、少なくとも主張そのものの上には現れてはいないからだ。
他方で、要望を拒絶するにとどまらず、要望を出す者を非難する程度にまで至った場合、それは「責任逃れ思想」に基づくものであることが強く疑われるように思う。
それは、要望を容れられない自己の責任を、要望を出す者に転嫁しようとする態度であるからだ。
しかし、このように解するならば、それは結局「表現の問題」「言い方が悪い」という議論に収斂してしまうことになりはしないか。
我々は、下手に弱者・少数者を非難せず、淡々と彼らの要望を拒絶し続けていれば、それによって「責任逃れ思想」を免れることになるのだろうか。
もちろん理論上はそうではない。「責任逃れ思想」は内面の問題である以上、究極的には外形上一切の瑕疵がなくとも問題となり得る。
しかし、我々は他人の内面を直接観察することはできないから、外形的な徴表からそれを推知するよりない。
現実的な批判方法としては、ある者の態度等、客観的に観察可能な事実を捉えて、「責任逃れ思想」であり「悪い意味」で「統治者目線」であるという論理構成を採らざるを得ないのである。
こうした前提をふまえたうえで、「責任逃れ思想」、「悪い意味」で「統治者目線」として批判されるべき態度は、「要望者に対する非難」に限られるのだろうか、限られないとすればどのような態度が「責任逃れ思想」、「悪い意味」で「統治者目線」として批判されるべきであるのか、というのが私の問いである。
前者の問いに対する答え自体は、明らかに否であろうと思う。「統治者目線」の議論は単なる表現上の論点に落としこむべきものではないし、批判されるべき態度についてのいくつかの具体例ならば私にもおそらく挙げることが可能である。
しかし、否であるとしてではいかなる態度が「責任逃れ思想」、「悪い意味」での「統治者目線」に該当するかという後者の問いに対して、一般的な判断基準を提示することは、少なくとも私には片手間にこなせる仕事ではないし、これまでのはてなにおける議論を見ていてもこの点については十分に考えが深められておらず、未だ適切な判断基準は示されていないように思える。
そこで、この点について、D_Amonをはじめとする諸賢に示唆を頂戴したく、こうして記事を書いた次第である。
増田からはおそらくコールが飛ばないと思うので、セルクマの上コールさせていただく。
なお、私は増田以外のはてなのサービスを利用しておらず、このセルクマが初ブックマークとなるが、m8138761718z80-deainfoが私のメインアカウントであり、いわゆるサブアカからの闇討ちの類ではないことを付言しておく。