はてなキーワード: 被治者とは
D_Amon 被害者が被害の声をあげること自体への反感は見慣れた風景ではある。公害でも戦争犯罪でも出自差別でも。その反感は自らを加害の主体側に置いての責任逃れ思想によるのではないかとも思う。悪い意味で「統治者目線」
私自身、彼のいう「悪い意味」での「統治者目線」を感じる機会は多く、この指摘に直観的には同意したく思う。
一方で気にかかるのは、民主政における治者と被治者の自同性である。
民主主義を採用する日本において、我々は「統治される者(被統治者)」であると同時に「統治する者(統治者)」でもある。
そうであるとすれば、我々は「被統治者目線」と同時に「統治者目線」も持たねばならないことになる。
もちろんid:D_Amonもそのことは認識しており、だからこそ「悪い意味で」という限定をつけたのだろう。
そして、その「悪い意味」での「統治者目線」の内容として、「自らを加害の主体側に置いての責任逃れ思想」と規定しているものだと私は理解した。
このうち「自らを加害の主体側に置」くことは、悪いことではない、というよりはむしろ当然そうすべきことなのだろうと思う。
なぜならば、我々は「統治者」である以上、常に加害の主体側であって、望むと望まざるとにかかわらずその立場から逃れることはできないからだ。
そうすると、問題は残る「責任逃れ思想」にあるということになるが、これがいまひとつよく分からない。
いったいどのような態度が「責任逃れ思想」として批判されるべきであるのだろうか。
たとえば、経済的合理性の観点から弱者や少数者の要望を拒絶するような場合、要望の内容によることはもちろんであるが、ときにはそれがやむを得ず、正「統」性が認められるということも十分に考えられるだろう。
そうした場合に、要望を拒絶する見解を主張する者を、それだけで「責任逃れ思想」であるとして批判することはできまい。
その見解の根拠が「責任逃れ思想」に基づくものであることは、少なくとも主張そのものの上には現れてはいないからだ。
他方で、要望を拒絶するにとどまらず、要望を出す者を非難する程度にまで至った場合、それは「責任逃れ思想」に基づくものであることが強く疑われるように思う。
それは、要望を容れられない自己の責任を、要望を出す者に転嫁しようとする態度であるからだ。
しかし、このように解するならば、それは結局「表現の問題」「言い方が悪い」という議論に収斂してしまうことになりはしないか。
我々は、下手に弱者・少数者を非難せず、淡々と彼らの要望を拒絶し続けていれば、それによって「責任逃れ思想」を免れることになるのだろうか。
もちろん理論上はそうではない。「責任逃れ思想」は内面の問題である以上、究極的には外形上一切の瑕疵がなくとも問題となり得る。
しかし、我々は他人の内面を直接観察することはできないから、外形的な徴表からそれを推知するよりない。
現実的な批判方法としては、ある者の態度等、客観的に観察可能な事実を捉えて、「責任逃れ思想」であり「悪い意味」で「統治者目線」であるという論理構成を採らざるを得ないのである。
こうした前提をふまえたうえで、「責任逃れ思想」、「悪い意味」で「統治者目線」として批判されるべき態度は、「要望者に対する非難」に限られるのだろうか、限られないとすればどのような態度が「責任逃れ思想」、「悪い意味」で「統治者目線」として批判されるべきであるのか、というのが私の問いである。
前者の問いに対する答え自体は、明らかに否であろうと思う。「統治者目線」の議論は単なる表現上の論点に落としこむべきものではないし、批判されるべき態度についてのいくつかの具体例ならば私にもおそらく挙げることが可能である。
しかし、否であるとしてではいかなる態度が「責任逃れ思想」、「悪い意味」での「統治者目線」に該当するかという後者の問いに対して、一般的な判断基準を提示することは、少なくとも私には片手間にこなせる仕事ではないし、これまでのはてなにおける議論を見ていてもこの点については十分に考えが深められておらず、未だ適切な判断基準は示されていないように思える。
そこで、この点について、D_Amonをはじめとする諸賢に示唆を頂戴したく、こうして記事を書いた次第である。
増田からはおそらくコールが飛ばないと思うので、セルクマの上コールさせていただく。
なお、私は増田以外のはてなのサービスを利用しておらず、このセルクマが初ブックマークとなるが、m8138761718z80-deainfoが私のメインアカウントであり、いわゆるサブアカからの闇討ちの類ではないことを付言しておく。