2015-05-30

マチズモ個人主義社会性の定義について

http://anond.hatelabo.jp/20150530170049

どうもこの辺が、全体的にぐちゃぐちゃになってるっぽいので。

まずマチズモっていうのは、ベース国家という発明がある。

国家は明示的な権利の主張と、それに服従する義務の組み合わせで構成されていて、これは近代国家に限らず……つまりギリシャポリスだとか、メソポタミア文明だとか、あのレベルでも国家と言うもの発明された時点で存在している、言ってみれば国家と言うシステムの根幹にあたる。(初期の時点では、統治者は民を支配する権利を持ち、民は服従の義務を負う、といったものベースになってはいるが、これ自体が分かりやすマチズモの姿でもある)

中世辺りには半ば原始的村社会にまき戻ったりしつつも、長い長い時を経て、これは人類に定着していった。

ただし、日本はこの発想が庶民レベルまで定着するのは、明治戦後くらいまでかかった(田舎ほど遅れた)。

マチズモにおいては、権利の主張と服従という、原始社会においては「不自然」で「非社会的」な行為が、「社会性」に置き換わる。

マチズモから見れば、権利の主張と服従を行わない者は社交性が低いし、原始社会的価値観からは、マチズモこそが社会性の低さに見える。

さて、マチズモが浸透して以降、もう一段階人類は、社会性の置き換えを体験する。

産業革命からの、資本主義、それに基づく「個人主義」という社交性だ。

こいつは要は「生産面に関して、社会的であること」を「金のやり取り」に置き換えた。

一人ひとりは徹底的に利己的な「個人主義であることを追求することが、社会性の高さに置き換わった。

生産のやり取りは「金のやり取り」に置き換えることで、利己的で内へ閉じていく者ほど、命令や服従ではなく「金銭欲」と「金のやり取り」を肯定する社会性の高い者、ということになった。

これはマチズモ国家)の上に乗っかっている。金の円滑な循環は、権利の主張によって保障されているからだ。

他人にされたくないことは権利の主張で退け、他人にして欲しいことは金のやりとりで手に入れる、というのが、資本主義時代個人主義時代社会性だ。

この「他人にして欲しいことは全部金を通せ」は、奴隷制否定であり、差別の解消に繋がった。

当然フェミニズム個人主義だ。

今までママを、嫁さんを奴隷的に囲い込むことで押し付けてきた仕事は、全部金を通せ、という話になった。介護福祉も、して欲しいなら、金を通せ、と。

それが個人主義における社会なのだから

さて、で、どうも弱者男性擁護するサイドは、マチズモの時点でついていけていないので、原始社会的世界に戻りたい、原始的なあり方こそ社会的なんだ、と叫んでいるらしい。

そりゃ個人主義とは噛み合わない。二段階ほど前の社会性の話なんだから

この辺が根本的に、色々とうまく噛み合わない原因な気がする。

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