はてなキーワード: 夭折とは
昨今の藤井聡太さんの活躍でもって「現実がフィクションを超えてくる!」とはしゃいでるラノベ作家がいるが、
ぶっちゃけ藤井さんの活躍くらいのこと、棋界では別に珍しくもないんだよなあ。
・名人に香車を引いて(香車を落とすハンデありで)勝った升田幸三
・69歳で病死するまで棋界の頂点、A級に在籍し続けた大山康晴
・打倒大山に闘志を燃やし、研究に研究を重ねタイトルを奪取し、しかし36歳という若さで夭折した山田道美
・最年少プロとなり、C2からA級まで順位戦を1期抜けして、最年少名人戦挑戦まで止まらなかった加藤一二三
・自身が編み出した前代未聞の新戦法「藤井システム」を引っ提げ、最高峰の竜王戦でストレート勝ちし3期連覇した藤井猛
・天才羽生善治に先んじて永世名人資格を得た、羽生の小学生からのライバル森内俊之
・幼いころから難病を患い、病体ながらもプロになりA級まで登りつめ、羽生に6勝6敗の成績を残し、30を待たずに他界した怪童・村山聖
・7冠達成他、数多くの記録を打ち立て、現在も更新中の羽生善治
升田・大山時代から羽生世代までで、ちょっと思いつくだけでもこれくらいは書ける。
いずれも「話ができすぎ」または「ありえないと思われていた」ことである。
戦前から令和に至るまで細かく記せば、まあ軽くこれの20倍は書ける。
恋人を作り、結婚して、子供を産み育て、種を次世代に繋いで死す。という事を指す。
増田は生物的生産性がない。いない歴=年齢だし、たぶん生涯こう。
なにも「恋人ができない!モテない!ムキーッ!」のような事が言いたいのではない。
恋愛に興味がない訳ではないのだが、細かい考え方が世間一般と違いすぎる事に気付いてしまった。
もしこの複雑な形のピースがハマる相手が運良く見つかる時が来たら、その時はその時だぐらいでいる。
今日「結婚しない」という選択肢は徐々に選びやすくなってはいる。
というか彼らのお陰で安心して「結婚しない」「子供を作らない」という選択肢を選べるので、感謝しなければならない。
そうであれば僕ら「生物的に生産性がない人間」は、他の形で生産性を持ってこの世界に貢献しなければならないような気がする。
今真っ先に思いつく例は志村けんだが、文豪とかは結構多い。近現代に活躍した女性偉人はかなり高い確率で独身である。
何も、独身なら必ず有名人にならなければならないという話ではないが、それぐらいの気合で何かを遺さなければならない気がしている。
生物的生産性のあるイベントをスキップして、余った時間と金のその分、結婚してたら出来なかった偉大な事を成し遂げなければならない気がする。
遺書といっても本当の遺書ではない。理由なく毎日ただ漠然と死にたいので、いつ死んでも平気なよう、仕事の引き継ぎのメモを「遺書」と呼んで、今年度からつど書きながら仕事している。
仕事の中身をつぶさに記録していくたびに、社会人としての私の存在価値がたった1個、多くとも数メガバイトのdocxファイルに移っていく。
月が終わり、「◯月」の欄が埋まるたびに、スカスカした達成感がある。
私は多分、自殺をしないと思うし、事故や病気で夭折することも、なんとなく叶わない気がしている。
でも、こいつがあれば、私はいつでも存在価値をただのデータに取って代わられるようなゾンビになれる。いつ死んでもいいし、生きていてもいいし、でも、死んでも困らない存在になる。
案外悪くないなと思うのだ。
一体なんの作品ってゾンビランドサガの話なんですが、まずはライブお疲れ様でした。
いろいろ二次創作界隈の扱いをみて嫌いでは無いけど、純粋に見られなくなったお話を愚痴として書こうと思いますが、紺野純子×水野愛のコンビがお好きな方で、二次創作のように二人がイチャイチャする関係性を好む方はブラウザバックを強くお勧めします。
さて、大丈夫でしょうか?
ゾンサガの二次創作のうち全体の6~7割方が純愛コンビ物で、二人が恋人のようにイチャイチャしてるのはまだ良いのですし、純子の身体が他人のパーツを合成してできたみたいな話もまだ許せるのですが許せないのが、かなりの割合で愛の頭の花飾りがポップコーンのように炸裂しながら「純子かわいい」みたいな純子age要員に使われるオチが非常に多いんです。
もちろん逆も有るのですけど、一般的に愛から純子に対しては、ポップコーン炸裂させながら余裕が無い感じで「かわいい」と言うのに、純子→愛は余裕綽々で「かわいい」という感じでヘタレキャラ扱いされているのです。
さらには純子絡まなくても焼肉好きを弄られたり二次創作愛は全体的に弄られキャラ扱いされてるのですけど、そのうち「水野愛は無能なコメディリリーフ」みたいな認識が一般化して公式に逆輸入されるんじゃないかと不安に思います。
本来、フランシュシュって「時代も性別も世代も超えて」伝説を築き上げたもの立ちが集まってお互いに助け合うって話なんだから7人に序列は無いはずなのですけど、暗に純子>愛みたいな序列づけがされてるようで気に入りません。
これは公式への愚痴にもなるのですが、純子は河瀬茉希さんの歌唱力という説得力に裏付けされたけど、愛は特にダンスが自信ありというのに、コーチ役としての役割以外にダンスが凄いって描写が無かったり、「死んだから伝説になれた」と言わんばかりの劇中の追悼サイトもあったり、純子はほぼ独白頼みで想像に任せきりで生前の活動実績は愛と比べて想像の余地も現時点では大きくて、微妙に公式からも愛sageみたいなものがあるような気がするのですが邪推しすぎなのかな?
そもそも、純子の生前の芸能界の立ち位置って視聴者のうちの少なからぬ人がまだ権威のあった時代のレコード大賞をもう取ってて松田聖子と中森明菜と山口百恵を足して三で割らない凄い人みたいなイメージをされてて、愛が前田敦子(インタビューでもモデルと公言された)って感じで、松田聖子+中森明菜+山口百恵とマエアツならどっちが芸能人としての格が上かと聞かれたらそりゃ殆どの人が前者と答えるよねって感じで、対等感が無い感じがするんです。
初の九州ツアーに行く途中に夭折したんのだから、公式の想定した立ち位置ってもしかして本当に火を付けただけで、(昭和)アイドル好きからは神格化されたけど一般的な知名度があまりない知る人ぞ知るみたいな立ち位置なのかもしれないけど、そのあたりの描写が無かったんですよね。 まあ、多分知名度は全局ゴールデン制覇をして、東日本大震災の年にそのまま死んでさほど時間も経ってないリリィが一番上だと思うのですけど。
どうも、二人はライバルなのかな?とも思ったのですが、よくよく考えたら6話の喧嘩を除けば、意地の張り合いもする事もお互いに競い合う訳でも無い。巽から「お前は昭和のアイドルのままでいい」(要約)と言われた時点で、同じ目標を共有することはあれど、「競う」関係ではなくなったと個人的には思います。
そもそもステージ以外で絡んだのって10話でイノシシ捕らえたときにハイタッチした程度で、7話以後純子が愛をどう会話しているのかまだ解ってないくらい会話してないですよね。
最初の頃は同じ芸能界のアイドル同士って事で一緒に抜け出そうとしたり、ゲリラライブには参加しなかったりしてましたけど、純子はさくら、愛はサキの方が気が合う感じがするんですよ。現代の風俗を愛に聞くってそれこそ二次創作でよく見るシチュエーションですけど、実際には芸能界の事を除けばむしろ最終回後ならさくらに話しかけるんじゃないかなと思うのです。
ライバルじゃ無く以心伝心で伝え合える戦友だから良いと言われるかも知れませんが、それだったら7人全員がそう有るべきでしょう。
結局、純愛ばかり二次創作書かれるのってさくらやサキが方言キャラで、リリィが男の上にロリキャラだからてっとり早く描けるキャラなんでしょう。でも、それってキャラのガワだけはりつけたハリボテですよ。
ちゃんと見てたらそこまでイチャイチャするような関係じゃないと思うのですが、まあ、どっかのガルパンのケイダジとかまほチョビとかのように劇中一度でも会話も交わしたかも怪しいカップリングがあるくらいですから、それに比べたら遙かに接点はあるでしょうが、イナゴのどこか二次創作なんですか(純子風)
どこぞのけものなフレンズのように裏事情ヲチや推測の方が面白いコンテンツに成り下がったってなら幾らでも他界もしますが、最初は燃料不足と最終回ロスでむさぼるように二次創作を読んでたのですが次第に、描き手は違えとやってることが殆ど同じチュチュイチャイチャばかりなのに違和感を覚えて、今では不満のほぼ8割は二次創作の風潮が嫌いなだけなので嫌いになれない苦しみこれが一番辛いです。
代表作とキャラクターは、ハヤテのごとく!の鷺ノ宮、さよなら絶望先生の藤吉晴美など多数。
ただし、決定的なこれ!という代表キャラクターははっきりしない。
2015年10月27日、慢性活動性EBウイルス感染症という難病により38歳の若さで夭折。
声優・アニメ業界・ネット界隈を中心に連日、悲しみの声が鳴り止まずにいる。
私も、アニメや漫画を嗜む人間の一人として、松来未祐については存じていた。
いわゆるアイドル声優としては長く活動していると思うし、声についてもそれなりに思うことはある。
死去発覚後は、連日のように死去のニュースや同業声優や有名人によるお悔やみコメントがホットエントリーに入り続ける。
そのたびに、同じようなお悔やみブコメが並ぶ。
まるで、明石家さんまクラスの有名人が死んだレベルの大騒ぎだ。
それ以上かもしれない。
もちろん、世間とネット上の声が大きく離れていることは、特にオタク界隈の話題については言うまでもないことだ。
それがネットだ。それはわかっている。
あるいは、そんなに魅力的な人物か?
こう言ったら、声オタを中心に多くの反発が来るだろう。
しかし、私の知っている範囲では、人気声優の中で松来未祐が特別に評価されていた印象もないし、キャラ付けだって「結婚できないキャラ」を持っている程度で、これも多くのオタクに知られているレベルとは言えない。
平野綾や竹達彩奈、豊崎愛生、茅原実里など知名度、人気ともに(オタクにとっては)高い声優と比べても、名前は知っていて、声は聞いたことがある、それ以上のものではないだろう。
それはお前がニワカなだけだ、と言われそうだが、声優関係の話題を少しは知っているレベルの私でこれなのだから、ごく一部の人間(いわゆる声オタ)を除いて、「結婚できないキャラ」以上の印象を持っている人はいないだろう。
騒いでいるやつらも、オタク同士の一体感を味わいたいがために、「死後」になって色々なエピソードを拾って、さも前からよく知っていたかのように振る舞ってもらい泣きしているやつが大半だ。
ネット断ちでもしない限り、はてブにはホットエントリーで入ってくる、Twitterにも流れてくるこれをどう避けろというのだ。
例えば竹達彩奈のように魅力がある人物が物故したなら、これだけの騒ぎもわかるのだが、言っては悪いが松来未祐程度の死でこれだけの騒ぎが起きるのは異常としかいいようがない。
この声優の偉大さを、ただの面白エピソードやいい人エピソード、仕事熱心エピソードみたいな本質的でない話を抜きに語れる人がいるなら見てみたいが、いないだろうな。
死者を悪く言うなというテンプレや、ただの人格攻撃や揚げ足取り以外の意見があればどうぞ。
追記:ブコメに返信。
勿論、ファンや彼女のパーソナリティを知っている人が悲しむのは理解できるよ。当たり前の話だ。
こちらが疑問を呈しているのは、松来未祐の死を悲しがる人がいることじゃなくて、なんで大して知名度の高くない声優が死んだ割にみんなが大騒ぎしているのか、だ。
まあ、トラバにもあった通り、
こんなに騒がれているんだろうけど。
劇場版『ハーモニー』の公開から一週間が経過し、『ハーモニー』LINEスタンプとか『ハーモニー』Tシャツといった危険信号を無視して戦場に足を踏みいれたオタクも大半が死んだ。不満はいろいろとみかけるが、もっとも多いのは「謎のピンクの日本」と「ラストの『愛してる』」のふたつのようだ。ところがどっこい、このふたつは同じものである。
賢明なる読者におかれてはマイケル・ラザフォードの『1984』を思いだしていただきたい。本作においてはビッグ・ブラザーの支配する全体主義国家がモノトーンに近い暗い色調で、対照的にウィンストンが恋人と逢引きするシークエンスが鮮やかな色調で撮影されている。原作ではこいつらが明るくて前向きの元気ハツラツの若者だったら全人類のハーモニクスはおきなかったといわんばかりの〈次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ〉の老人たちが、劇場版では思わぬ躍進をとげ、全人類の情報をにぎり管理する巨魁となっていた驚きはまだ記憶にあたらしいと思う。そう、劇場版『ハーモニー』の主題は全体主義との対決なのである。「『ハーモニー』のテーマは全体主義との対決じゃないだろ」といわれても、それは脚本を書いた山本幸治にいってほしい。となると日本がピンクの単色で描かれていた理由もわかろうというものだ。対照的に学生時代の回想は背景の自然を強調して鮮やかな色彩で描かれている。劇場版ではトァンとミァハはAからはじまりセックスまでしているのが、いかにも国家と個人の対立らしい。『1984』でウィンストンと恋人は逢引きするたびにセックスして、むしろセックスするために会っているのではないか、さすが1948年、現代の草食系の若者とはちがうと思うがそれはどうでもいい。
劇場版をみてなんで意識を消滅させるかわからなかった観客も多いようだが、それもそのはず、意識を消滅させる根本の動機である生命主義社会への違和感とか、生きづらさにたいするトァンの独白はばっさりカットされている。劇場版で意識を消滅させるのは、単純明快に「ヤツらに管理されない」という〈次世代~〉の老人たちへの反逆である。シュタウフェンベルクはその手先なのでもちろん同情の余地はないし『働きマン』の上司よろしく最後の最後で態度を変えてトァンをねぎらったりもしない。というわけで、根本的に意識を失いたくはないわけである。しかし〈次世代~〉の老人たちの管理支配体制を脱するために意識は消滅させなければならなくて、トァンが「でもミァハは、私が好きだったミァハのままでいて。愛してる、ミァハ」といってミァハを射殺するわけである。なので、『Ghost of smile』の歌詞も惜別を唄うものとなっている。死んで悲しむくらいなら殺すまえに意識を失っても生きていたいかどうか確認くらいしたらとツッコむのは無粋である。
では劇場版『ハーモニー』は原作とはちがうはなしなのかといわれたらそのとおりである。とはいえマーケティングを考えれば当然で、J・G・バラードにならった個人の精神世界がそのまま世界に直結する内宇宙(インナー・スペース)の物語でも、ノイタミナをみている女子大生に「生きづらいから全人類の意識を消滅させる」といったら、「ナイーヴすぎる」とか「周りがみえてない」とか「『ガキ使』をみれば意識が必要だってわかるよ」とかいわれて終わりである。もし「テクノロジーと情報過剰の帰結として自動車事故でセックスを疑似体験する」などといおうものなら、「なにそれ。キモ」といわれるのがオチである。
それでは劇場版『ハーモニー』が原作への理解にもとづいて制作される可能性はなかったのか。たとえばタルコフスキー監督である。リリシズムと内宇宙(インナー・スペース)への理解があり、ついでに日本通のタルコフスキーなら『ハーモニー』を完璧に映画化してくれるにちがいない。タルコフスキーなら映画を『007』さながらのニジェールのドンパチではじめたりはしないだろう。学生時代のトァンが自宅でふつうに起居するところからはじめて日常生活をしばらく撮影するにちがいない。そしてトァンと出会うシーンになるが、だいたいこんなカットのはずだ。
①ベンチに座るミァハ(遠い)
②トァンの後ろ姿
① ② ③
そこでミァハとの会話がはじまる。途中からキアンもくわわるが、ともあれえんえん一時間くらいずっと会話がつづく。そこでようやく十三年後になりキアンが自殺する。トァンも政府高官だとわかるだけで詳しい説明はないだろう。物語が淡々と進んでコーカサスに登攀し、なんか濛々たる霧に覆われて半分くらいみえなくなっているバンカーにはいる。もちろん内部は水浸しだ。ミァハとトァンの対話がはじまるが、水中に没している十字架を写すカットが意味深に挿入され、「ちょっと待ってくれ」といいたくなるが映画はとまらない。ミァハとトァンの対話がまた長い。そして最後で唐突にトァンがミァハを射殺し、瀕死のミァハをずるずると屋外まで引きずっていって、だんだん白霧が濃くなってゆきホワイトアウトする。ショットが替わり、チェチェンの広大な大地を少女が遠景に去ってゆくところを長々と写し、クレジットが表示される。BGMに思いっきりヘンデルの「メサイヤ」が流れ、オタクたちが「やっぱり宗教モチーフで全人類のハーモニクスが『最後の審判』に読み替えられてたじゃねえか!」といきりたつが当のタルコフスキーは原作者と同じく夭折していてこの世にいない。いたらいたでコーカサス山脈に撮影に都合のいい海や湖がないからブチ切れそうだ。というかミァハたちの会話がえんえんと一時間もつづく劇場版『ハーモニー』なんてどう考えてもつまらないし、正直なところ①②③とか書きはじめたあたりからどうでもよくなっていた。劇場版『ハーモニー』はあれはあれでいいと思う。
・ネタバレかつ悪口の垂れ流し、悪文
・初めの10分はCMだったんだけど、プリキュアとかガルパンとかガラスの花と壊す世界とか、フリーの過去エピとかデュラララの番外編を劇場でやります~みたいなやつばっかりで死ぬほど萎えた。屍者帝なんだから、ワトソンでウォルシンガム機関で全世界を股にかけた冒険もので夭折したSF作家の遺作なんだから、007のスペクターの予告とか流そうぜって思ってたんだけど、でも、見終わった今となっては妥当だったのかも。あの予告群で
・「まず必要なのは屍体だ」っていうのは原作の冒頭の文だった気がするし、世界観をバーンと出してる感じで良かった。ただフェードインした絵でロンドン医大の大講義室でなくワトソン君の自室なのはな? 伊藤計劃絶筆の序章くらいそのまま映像化してもよくない? ダメ?
・ロンドンの風景はきれいだった。Fate/staynightUBWのエンドを思い出した。映像美
・それでフライデー、原作では貸し出された屍体だったと思うんだけど友人なの? マジ? 友人なのになんでこんなショタいわけ?
・首に霊素注入器みたいなやつをさすところは痛そうだった
・M~~~?!?!? これヴァン・ヘルシング教授では? 原作に出て来てた気がする。屍者帝映画内でMって呼ばれてたかどうかちょっと覚えてないけど、MI6じゃなくてウォルシンガム機関なのは元々だっけ、From the Nothing, with Love.とちょっと混ざってるわごめん。そうじゃなきゃ007と混ざってるんだと思う
・いきなり博士の異常な愛情ネタぶっこんでくるのやめろ。ワトソン君の傾向はまだ対象が(故人とはいえ)人間だぞ
・ボンベイに飛ぶの速すぎワロタ。原作でもそうだったっけ。覚えてない
・ハダリーはアートワーク見た瞬間から思ってたけどファッションぶち抜きすぎじゃない? アリなの?
・バーナビーは出てきた瞬間ブルックスJrかよと思った。理不尽すまん
・アリョーシャがあんな死にかたしてたか覚えてないのでアレ。保留
・クラソートキンとフライデーの容姿の類似、意図的ならもっと対比してほしかったし、無いとは思うけど意図的じゃないなら悪手
・バーナビーの下着じゃないから恥ずかしくないもん発言は伊藤計劃のオタク趣味を内包した台詞ってことで良いんですかね
・日本パート、北斎の娘の映画観たかったけど見損ねたこと思い出した。名前忘れたけど会社でのバトルよかったし、手記が祀られてる部屋で即身仏みたいな屍者が並んでるのもよかった。ただワトソンの行動はクズすぎるし、フライデーに執着しすぎてて無理
・原作ハダリーって音波キャラだったっけ。ハダリーにせよザ・ワンにせよ、かかとでカッてやるたびに、アナ雪かよと思ってしまいつらさが募る。最近ずっと誰かが「ありのまま」っていうたびつらいんだけど、そんなの台詞で一切出てこなかったのに、屍者帝めっちゃアナ雪じゃなかった??? 最後の結晶化も同じく
・ワトソンはめっちゃエレンに見えてきてつらかった。WITStudio~~~頼む~~~
・フライデー叫び過ぎだし、ワトソンは友人の亡霊を追い求めてないで現実のフライデーくんに対処してくれ、と思っていたらどんどん取り返しのつかない状況に陥っていくドン!
・ワトフラワトがエモい。とにかくエモい。マジでこれ伊藤計劃作品なのか?
・ノーチラス号が原作に出てきたかまじで覚えていないけど出て来てたんだっけ
・Mとザ・ワンのおっさん対決にMGSみを感じて伊藤計劃みを感じた
・Mが言ってるのは御冷ミァハの言葉ではないか? と思ったし、意識の統合あるいは無意識を共有とか、なんかエヴァかなっていう。原作もそうだったかマジで覚えていない
・もう大概意地悪な気持ちになった所で突入したエンドロールの曲、ノイタミナ御用達のアーティストEGOISTさまだけど、ジャズチックなせいか椎名林檎かなにかに聞こえるしこれもうサイコパスでしょ……
・原作ではワトソンとホームズの関係はぼやかしてなかったっけ。Mに探偵の弟がいるよ程度の触れかただったよね? エンドロール後の展開、めっちゃ冒険したな??? 探偵ブームきてる? ヒュウ!!!
・フライデー→モリアーティって理解で良いの。犯罪王フライデー(犯罪をフライデーするべきでは?)死にそ~~~(死んでる)
・ハダリーがアドラーっていうのはよくわからん。原作がどうだったか覚えてない。エンドロール後で目にハイライトあったのハダリーだけだった気がするのは怖い
・上映中ずっといたたまれなかったのはキャラデザ五割、台詞三割、脚本二割ぐらい
・こういうの腐女子の皆さん好きでしょっていう振られ方も、こういうの中高生の皆さん好きでしょって振られ方も、ひしひしと感じるものがあってほんとうにいたたまれなかったし正直引いた
・進撃もだけど、あのぐるぐる目のデフォルメが苦手というか嫌いというか好きになれないので、あの絵柄でグッズが出るとわりとげんなりする。
・これは伊藤計劃の物語ではなく、書き継いだ円城塔の物語でもなく、二人の作品の大枠を取りノイタミナが好きな雰囲気にアレンジし、中高生の好きな感じのキャラデザと一部の腐女子の好きな感じのキャラ関係を仕立てたあれ
・サイコパスとかギルティクラウンとか、ノイタミナはアニメ会社とかレーベルとしての趣味をガンガン出してくるのは別にいいんだけど、原作があるものにまでそうするのはまじで勘弁してほしかったな……な……
遠くない業界(非SFのエンタメジャンル商業出版)から、小声でそーっとコメントする。
SF業界っていうのは、もうすでに業界っていう言葉を使うのも躊躇われるくらい小さくて脆弱なのだが、他に適当な言葉もないんで業界っていう言い方をするのを許して欲しい。
とにかくこの日本のSF業界ってのはあんまりにも小さくて脆弱であり、そこに住む住民は岐阜県の山間にある過疎の村にように全員顔見知りであり、それは作家編集者どころのレベルではなく、ハイアマチュアであるとか、ちょいと発言力のあるBlogレビュアーレベルで、顔見知りではないにせよ「ああ、あの人」程度の認知がある世界なのだ。そしてそこの住民全員は自分たちの住んでいるその過疎の村が、村どころか、浸水しかけたボートであるという共通認識を持っており、降って湧いたような夭折の天才(真実かどうかはともかくそういう設定の)のもたらす「業界の利益」には逆らえないのだ。映画化さえされるのだ。それは過疎の村にとっては逆らいがたい「巨大な天意」である。
こんなちっぽけで権益もクソもないような、初版数千部のジャンル――Exelで読者の総数が管理できるような規模はもはや不特定多数ではなく特定多数であり、実売数に占める献本の割合が誤差じゃないような、そんな小さな小さな世界。
にもかかわらず、SFを読む方ならご存じだろうが、日本SF作家クラブの一件はああなった。
業界という言葉を使わざるを得ないのは、まあ、要するにそう言うことなのだ。
ライトノベルという様式(個人的にはジャンルじゃなくて出版様式だと思っている)というものがあり、それは出版業界や読者に低俗と見られることも少なくはないのだけれども、しかし「SFで育ったオレなのだが、オレは俺の好きなSFを書きたいのである」という作家を、ハヤカワではなく救ったという事例はある。
読者のみなさまは、面白いものを読んだときに、「くあーこれ面白れええええ、やっべええ、脳汁ぷしゃったわー!!」と読んでいただけるのが一番良いと思う。「あれ、これなんだかちょっっと……」と思ったら口をナプキンで拭いてスルーしてもらえればなお良い。SFだから、とか、SFジャンルでの出版だから、とか、SF老舗の、SF業界での評判だから、というような文脈で読まずにも楽しめる読書体験であれば、とてもとても嬉しく思うし、それが最終的には「業界」を健全化すると考える。
中国の名将について検索をかけたときによく挙げられている人物を紹介する。
春秋 | |
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孫武 | 世界史上に名高い兵法書「孫子」の著者。伍子胥と共に呉王が覇者となるのに貢献した。 |
戦国 | |
呉起 | 孫子と並び称される兵法家。いわゆる「呉子」。魯・魏・楚などに仕えたが、強引な改革で周囲の恨みを買って殺された。 |
孫臏 | 「孫臏兵法」の著者。友人に裏切られて罪人となり脚を切断されたが、逃げ出した先の斉で将軍となり、「馬陵の戦い」で復讐を成し遂げた。 |
白起 | 秦の名将。包囲殲滅戦の名手にして虐殺者。「長平の戦い」では四十万人もの捕虜を生き埋めにした。そのあまりの強さから王に恐れられて賜死された。 |
李牧 | 趙の名将。匈奴に大勝を収め、秦の大軍を退けたが、離間の計によって王に疑われて殺された。趙が滅亡したのは李牧の死からわずか三ヶ月後のことだった。 |
王翦 | 秦の名将。趙や楚を滅ぼし、始皇帝の中華統一に多大なる貢献を行った。猜疑心の強い始皇帝に誅殺されることもなく天寿をまっとうした。 |
楚漢 | |
項羽 | 反秦軍の中心となり西楚の覇王と号す。戦では無敗を誇ったが、それまでさんざんに勝ってきた劉邦に最後になって敗れ、自害した。 |
韓信 | 漢建国の功臣。漢の三傑。「背水の陣」で有名。魏・趙・斉を降して劉邦の天下統一を大いに助けたが、皇帝即位後は冷遇され、謀反を企んで処刑された。 |
西漢 | |
李広 | 対匈奴戦の名将。弓の名手として知られる。若い衛青が台頭したのち、その下で不甲斐ない戦いをし、それを恥じて自刎した。 |
衛青 | 対匈奴戦の名将。苦労人で人格者。低い身分から取り立てられ、匈奴と戦って連戦連勝し、その功績により大将軍にまで出世した。 |
霍去病 | 対匈奴戦の名将。衛青の甥。天才肌で直情径行。若くして匈奴との戦いで活躍し、衛青を凌ぐ名声を得るが、24歳で夭折した。 |
東漢 | |
劉秀 | 東漢の初代皇帝。「昆陽の戦い」では100万と号する軍勢をわずか1万の兵で撃破した。皇帝としては一代にして創業と守成を成し遂げ、功臣を粛清することもほとんどなかった。 |
班超 | 中央アジアを平定し、東漢の最大版図を現出した。西域に三十年間も留まったのち、洛陽に帰還して一ヶ月後に亡くなった。 |
三国 | |
曹操 | 東漢末における群雄のひとりから三国鼎立中の最大勢力にまでなり、後の魏・晋の礎を築いた。兵法家、詩人としても名を残す。 |
周瑜 | 呉の名将。美男子で有名。「赤壁の戦い」において魏の大軍を破った。 |
南北朝 | |
韋叡 | 梁の名将。身体が弱かったため、戦場では鎧を付けず輿に乗り、竹杖で指揮していた。南北朝最大の決戦「鍾離の戦い」にて百万の大軍を破る勝利の立役者となった。 |
陳慶之 | 梁の名将。わずか7000人の「白袍隊」を率いて北伐を敢行、連戦連勝で洛陽まで陥とした。「千軍万馬も白袍を避ける」と賞された。 |
唐 | |
李靖 | 唐建国の功臣。内戦においては中華統一に貢献し、外征しては騎馬民族を騎馬戦術によって滅ぼした。中国史上屈指の名将とされ、李靖に仮託して兵法書「李衛公問対」が書かれた。 |
李世民 | 唐の二代皇帝。李淵の次子として、隋末唐初の戦乱において多大なる軍功を挙げ、そのまま兄を追い落として皇帝となった。政戦両面における名君として知られる。 |
郭子儀 | 安史の乱を平定し、吐蕃やウイグルの侵攻を撃退するなど、幾度にも渡って国を救った。子孫、財産、長寿に恵まれ、万民から敬愛された。 |
宋 | |
岳飛 | 対金戦の名将。忠臣として名高い。私兵を率いてたびたび金軍を破るも、和平派によって冤罪を着せられ殺された。 |
明 | |
常遇春 | 明建国の功臣。常に先陣を切って戦った猛将で、日頃から「10万の兵士を率いて天下を横行したい」と語っていたため「常十万」と呼ばれた。 |
徐達 | 明建国の功臣。謹厳実直にして冷静沈着。総司令官として北伐を行い、元をモンゴル高原へと追いやった。朱元璋からは功績第一と称賛された。 |
朱棣 | 明の三代皇帝。甥の二代皇帝に反発して挙兵、圧倒的不利を覆して正規軍に勝利し、帝位を簒奪する。皇帝となった後も、自ら軍を率いて積極的な外征を行い、明の最大版図を築いた。 |
戚継光 | 私兵を率いて倭寇討伐に功を挙げ、また北方に赴いてモンゴルの侵入を防いだ。倭寇に対抗するため、中国全土の武術をまとめあげ、日本の剣術を研究したことでも知られる。 |
清 | |
左宗棠 | 自らを今孔明と称した。太平天国の乱の鎮圧に貢献し、洋務運動を推進した。さらには回民蜂起の鎮圧、捻軍の鎮圧、新疆の奪回など、清軍の大黒柱として活躍した。 |
はてなにいた頃はツッコミどころ満載の記事でブックマークを荒稼ぎした。
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」が250万部超の大ヒットとなり、はてな村民を土下座に追い込む。
当時からライター、小説家として活躍。「ロスト・ケア」「絶叫」はこのミスなどでも高く評価される。
小説家として「虐殺器官」「ハーモニー」などを送り出し、日本SF界に多大な影響を与えるも夭折。
ブログは「My Life Between Silicon Valley and Japan」。
はてなの取締役として積極的にブログを更新し、また一般にもWeb2.0の伝道師として名を上げる。
映画評論家。雑誌「映画秘宝」を創刊。実写映画「進撃の巨人」の脚本を執筆。
ブログは「【A面】犬にかぶらせろ!」。
私は二十八歳の同性愛者です。というか、同性愛ではあるのですが、大人になる前の少年が好きなのです。けれど、実際には少年との性行為を行ったことはありません。それがいけないことだというのはわかっていますから、自分で必死にその欲望を抑えています。しかし、もうそれも限界に達しているのです。なんとかできないものかと、成人したゲイの男性と関係を持とうとしたこともあるのですが、そうした相手ではまったく興奮することができず、結局、行為は成り立ちませんでした。最近では、ふと気がつくと、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいのでしょうか。なんとかならないものでしょうか。本当にもう子供に手を出してしまう寸前なのです……。
『欲望問題』の著者である伏見憲明氏は、上記のような相談のメールを受け取ったそうだ。
伏見憲明氏は、ゲイの解放運動に携わってきたゲイであり、差別やジェンダーの問題に造詣が深い。
今のぼくは三十歳前後くらいが性的な好みになりますが(中略)少年愛は自分と地続きです。たかが発情する対象の年齢幅が十五~二十歳くらいズレているにすぎません。そのことは、ゲイだけにかぎらず、ストレートの人も同じだと思います。
異性愛の人々なら、少数派は何か問題があって「正常」ではない性の傾向にねじ曲がってしまったのだ、だからそれを「治療」で本来あるべきの状態、つまり「正常」な性に戻せるはずだ、と考えるかもしれません。しかし、ぼくは、自分と性的対象の年齢が少し異なっているだけの少年愛者が、セラピー程度のことで、セクシュアリティを変更できるとは考えにくい。
異性愛の欲望だって同性愛にならなかったという意味で、ぼくに言わせれば偶然の結果です。フケ専だって、デブ専だって、ロリコンだって、萌え系だって、巨乳好きだって……みんなそういうものなのではないでしょうか。それぞれ本人の実感の中では、選択的なものではなく、自然にそうなっていた、としかいいようがない。(中略)それがちょっとやそっとのことで恣意的に変更できないことは、同性愛の例を考えても明らかでしょう。そんなものが簡単に変わるのなら、誰もマイノリティとして社会的な不利益を被ったりしません。
これには強く同意せずには居られなかった。欲望に理由付けをしている人々も居るが、後付けにしか思えない。
「思春期に同級生女子に拒絶されたので、成人後も思春期の年代の女子に執着し続けている」
「思春期に同級生女子に拒絶されたので、母性を感じる年上女性に惹かれるようになった」
どちらも理由として通じる。理由付けなど、本人が欲望を正当化したり納得したりするための自己満足的行為でしかなく、
実際はただ「思春期女子が好き」「年上女性が好き」という好みがあるだけなのだ。
どのような好み・欲望を持って生まれ育つかは、ほとんど偶然の産物である。
それが万人に理解されやすい欲望ならば仲間と馴れ合うネタになるし、無理解・嫌悪されやすい欲望ならば迫害される。
欲望が自分にとってプラスに働くかマイナスに働くかは、運でしかない。
相手に暴力を加えたり、死に至らしめたり、年少者の心に傷を残すような行為は認めない、というのはこの社会の原則でしょう。そうしなければ社会を担う次世代を育めないし、子供たちの可能性をつぶしてしまうことになる。(中略)それゆえその禁止は徹底せざるをえないでしょう。
二人の同性愛者が愛し合っている関係はWin-Winであり、社会を脅かす存在でもない。
海外ではゲイカップルが養子を育てている例が見られるが、養育リソースとして活用できるなら社会にとってプラスの存在であるとも言える。
「聖書が同性愛を否定している」「なんだか気持ち悪い」などの拒否反応を示す人もいるかもしれないが、
性同一性障害、女装癖、二次元オタク、BL好きなどの様々な少数派も、気持ち悪がる人は居るが、その欲望による社会への実害は発生しない。
しかし「暴力を加えたいという欲望」「死に至らしめたいという欲望」「年少者の心に傷を残すような行為をしたいという欲望」は、
実害を発生させる欲望であり、社会を脅かす欲望であり、社会に受け入れられることが期待できない欲望である。
「なんだか気持ち悪い」は、解放運動によって薄まっていく希望があるが、「実害を回避したいという強い恐怖感」はどうにもならない。
あなたは他人の性欲を充たすために死に至らしめられたいか?あなたの子供が幼児性愛者に性的暴行されることを受け入れられるか?
対人関係の欲望の問題は、多数派か少数派かということが焦点ではない。
Win-Winになりうるのか、Win-Loseでしか成り立たないのか、そこが一番の問題なのだ。
伏見憲明氏は少年愛者の相談に対し、同人誌などフィクションで欲望をみたすことを提案しているが、それでも完全ではないともしている。
追記:
ChieOsanai 実害がない近親結婚の解禁を唱えても怒るひとが必ず出てくる。四六時中、近親相姦に怯えるようになるって言ってるひとがいたけど、現状日本では(強姦ではない)近親相姦は法的には禁じられてないからね。
婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こった[2]。カール5世以降、下顎前突症(口を閉じているときの顎の形のことではなく、歯を見せたときに上の歯より下の歯が前にある)の人物が一族に多くなっており、カール5世は不正咬合により食事は丸呑み状態であったことが伝えられている。特にスペイン・ハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6
nomitori これの究極が殺人衝動もってる人なんやろなぁ…自殺志願者を絞殺して死刑になった人いたけど、あれはあの人なりに社会と折り合おうとしたんやろうな…もちろん社会はそれを受け入れられないわけだが…
このブコメが最も投稿の意図を汲み取ってくれたと感じた。ありがとう。
saigami こういう話題が出る度に「自分は同性愛者だけど小児性愛者も差別されるべきではないし権利保護されるべきだと思ってるよ」とアピールした方がいいのだろうか
小児性愛者の権利保護とは何なのだろうか。アメリカではゲイを寄ってたかって暴行する事件が起きているが、小児性愛者もそういった暴力に晒されているということだろうか?
部落差別のように就職時の差別などを受けているのだろうか?いったい、どんな実害を被っているのだろう?
成人を対象とした異性愛者は、結婚という制度による保護を受け、社会のお墨付きを得ながら性欲も満たしていてずるいということだろうか。
小児性愛者の権利保護は「成人男女が、実在の児童を性欲解消のために使う権利」を保護することだろうか。
しかし成人を対象とした異性愛者であっても、貧乏ブサイクバカが金持ち美形優秀な異性を求めても、ディール不成立となる。
結婚しないのではなく、できない「成人を対象とした異性愛者」などいくらでもいる。
貧乏ブサイクバカ男と金持ち美形優秀女でも、貧乏ブサイクバカ女と金持ち美形優秀男でも、同じである。
性的指向も、本人の性別も、関係ない。Win-Loseならば性的関係のディールは不成立となる。
成人同士なら「自分が一方的に不利な関係を強いられていないか?」という判断を「お互いに」することが可能だが、成人と子供の場合はそうではない。
親と子の関係も、子の判断力や選択肢が限られている以上、不平等なものである。だから保護者による子供への虐待はひときわ憎まれる。
要は知力や体力で圧倒的に勝る存在が、劣る存在に対して一方的に欲求を押しつけるのは暴力なのである。
「オレのSはサービスのSだから」などとのたまうなんちゃってサディストではなく、見ず知らずの人に対する理不尽な暴行や殺害を熱望する純度の高いサディストや小児性愛者は、
欲求の根本に暴力、Win-Loseを含んでいる。これが問題なのだ。
「サディストや小児性愛者の権利保護がなされている状態」について教えてほしいものだ。
補足しようと思っていたことがブコメで補足された。ありがたい。
例えば視力ってのはかなり遺伝に影響される要素ではあるんだけれど、「近眼」程度の遺伝はそんなもん産むか産まないかの判断に含まれない程度の些細な要素となっているよね。
何故なら、世の中にはメガネというとても美しい装飾具があるおかげだね。
それと同じことで、産まれたタイミングではどうかわからないが、時間が経てば「障害? 笑わせんな」程度になってしまうようなハンディキャップってのはあるんじゃないかねえ。
http://anond.hatelabo.jp/20150129121148
生身の脚を上回る機能の義足が登場したりと、ツールの進歩がハンディキャップをハンディキャップじゃなくしていくことには希望を持っている。
たとえばVR技術が発達して、サディストや小児性愛者の欲求をかなえるVRが誰でも享受できるようになれば、彼らの欲求不満は解消されるのかもしれない。
とにかく、一方的な欲求を受け止めるのが、知識や判断力がまだ備わっていない現実の子供であっては、絶対にいけないのである。
TakamoriTarou フィクションは、確かに完全では無いにしても、擬似的に体験して衝動をコントロールする機能を担っているわけだが、最近はそれすらも許さぬと言う雰囲気が出てきており非常に厄介だと思う。
疑似体験を禁止するのは愚行であると思う。フィクションがガス抜きしてくれるから現実の治安が保たれるのだ。
あらゆるWin-Loseを疑似体験が引き受けてくれれば、欲求をぶつけられて傷つく人も、欲求がかなえられずに怒る人も、鎮まっていくだろう。
(そしてフィクションの人間と現実の人間を比べて、現実の人間を誹謗中傷するのは、最も醜く愚かな行為である)
bloominfeeling 欲望問題はいい本だったなぁ。著者のセクシャルマイノリティに関する本は数冊読んだ。
本当にいい本だった。私はどうにも人を煽るような、喧嘩を売るような書き方をしてしまいがちだが、『欲望問題』は理解を深めて広げるような書き方に仔細に配慮しており、
ここには書ききれなかったコミュニティに関する話もとても内容が濃かった。私の投稿にイラついた人にも『欲望問題』はぜひ読んでほしいと思う。