はてなキーワード: 書き飛ばしとは
ここで俳句の解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアルで相談した方がいいよ。
…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト(文脈)に依存する芸術だからだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力をもつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会(特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。
それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和の俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。
「ここで昼餉(ここでひるげ)」
初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わずか17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこちの公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。
ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)
「真赤な夏の/花佇つゆゑ」
最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初ののんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。
もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。
一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くその花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ、向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任に適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的に楽天的で天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。
二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかったからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから、人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈・深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩、創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反の用字である。
結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。
そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的な俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的に俳句はもっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語+感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用に物語調で独特だ。一般的な俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか。
まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。
「私のような、顔は整ってない、話も面白くない、職務能力も低い、年収も低いであろう、そんな人間は一刻も早く婚活をし、社会から逃げ出さねばなるまい」
コミュニケーション能力がないのは本当なので田舎の事務員をやっておりますが、これが良くない。
インターネットには1000万プレーヤーがゴロゴロいてお前の自尊心を破壊していくでしょう、お前の年収は400ちょっとというところですからね。
しかし趣味が「小説を書いては公募にぶん投げる」のみ、本当にそれしか趣味として残らなかったので、びっくりするほど生活に金がかかっていません 一人暮らしをしてもです。食事に興味がありませんからね。
暮らせてしまっているのです。
暮らせてしまっているから、お前から特段才能もない小説を書く時間をきっと奪うであろう他者との婚姻生活をなんとなく忌避しましたね。自尊心が破壊されているので人にも優しくなれました。何があろうが自分が一番下なのは変わらないから、他人にいい事があれば結構素直に祝えるもんなのです。
もう30になりました。保険も見直し、まあこの調子なら地元の安い中古マンションを買う頭金を貯めて……と親の老後に備えています。幸い親に大した問題はなく、あるとするならめちゃくちゃ悪口のキレが鋭いくらいです。
結婚するなら子供を産まねばならないだろうからもう無理です。今の計画は、万一障害児を産もうものなら破綻します。
人生が固まってきた気がします。おしまいの鐘の音が聞こえる年になってきました。特に焦りもしていないのが、最もいけないことだなあと思います。
賞くれ 賞もらえるとうれしいから
なくても別に書くんだけど
2023/5/7 追記
ポーイと書き飛ばして寝たらちょっとコメントがついており驚いています。
賞取れるといいね〜と応援してくださった方、ありがとうございます。
それからプライドが高く高望みをしているから結婚できない、これはよく言われます。実際「私はこの世の底辺なんじゃ!!」と「私の作品が負けるわけねえだろうが!!(負ける)」を同時によく考えるのでそうです。仰るとおりと思います。
鼻っ柱折られすぎてベキョベキョなのですが時薬で治っちゃうからプライド自体は高いままです。
婚活アプリ、どうしても一次試験スペックカードバトル!みたいになるので、結婚欲が強くなくて食べれてる、食べていけるプランがある程度できている女性はどうしても「家の仕事を増やすなら入ってくる金も増えなきゃ働き損だろう」という思想になりそうなもんなので、そんなつもりなくても結果的に高望み状態になっちゃうもんじゃないですかね…? 私も似たような年収の知人もそれで撤退してしまったので…。
おい増田、要所要所に嘘を混ぜるのはやめろ。地金が出るぞ。
>とはいえ、強姦の結果としての妊娠出産まで強制するのはプロライフ派の大多数にとっても本意ではない
ローvsウェイドの司法判断が覆された場合、保守的な22州で、速やかに中絶禁止州法が法律化される見込みだ。そして、そのうち半数の11州ではレイプと近親相姦を例外的に許可する緊急避難条項が含まれていない。レイプだろうと近親相姦だろうと、6週目以後の中絶は犯罪になるだろう。「強姦の結果としての妊娠出産まで強制すること」がプロライフ派の大多数にとって「本意でない」なら、そんなことになるわけがない。
そもそも増田の主張からすれば、「レイプによって生まれる子だったら中絶してもよいのだ」という結論は到底導けないはずだ。
①男女双方が妊娠出産に到る可能性についても含め合意のもとでなされた性交による妊娠
②妊娠を望んではいなかったが合意のもとでなされた性交による妊娠
この3つのパターンで、妊娠した胎児の人権にどう差が付くというのか? 親が誰だろうと、妊娠に到る経緯がどうであろうと、子の人権の多寡軽重には何ら関係がない。とにかく生んでもらって社会的にケアすべきだ、ということに当然なるはずだ。だが、この件についてだけは「性的被害の記憶と結果が多大な負担と共に長期化し、心身ともに女性を生存レベルで危険に追い込むことに他ならない」という、母親の心身の危機への配慮みたいな話が持ち出され、しかも母の「心身の生存レベルでの危険」なる抽象的概念の保護が、子の生存権を上回るかのように設定される。場当たり的で卑怯な取り繕いだ。
米国のキリスト教右派(福音派右派、南部バプテスト派など)はそんな姑息な誤魔化しは使わず、堂々と「強姦でも中絶禁止だ」と主張している。だから22州のうち半数が、強姦に関する緊急避難条項を盛り込んでいない。
ちなみに米国のプロライフ推進派の内輪で、中絶禁止の倫理的指針をめぐって議論になることが多いのは、レイプよりもむしろ近親相姦のほうだ。(彼らの聖書理解においては)レイプは聖書に反しないが、近親相姦は(中絶と同じく)聖書に反するからだ。つまり堕胎と近親相姦は聖書の教義同士の衝突だから議論が紛糾するのだ。このことひとつ取っても、プロライフが「人権原理」を重視する人々ではなく宗教右派によって駆動されている運動だということがわかる。
>私は、強姦案件での中絶は合法、それ以外は違法、とするのが妥当だと思うが、その妥当な落としどころが「女性の身体権の絶対性」主張派とは築くことが出来なかったがために、より人権原理的な立法措置が、アメリカやヨーロッパでも徐々に取られつつあるのが現状である、と言う認識である。
ここまで一回も出てきていない「ヨーロッパ」という言葉が(あたかも中絶禁止が先進国の潮流であることを印象づけるかのように)唐突に顔を出すが、EU27ヵ国のうち中絶を法的に禁止しているのはマルタとポーランドだけだ。
https://ifura.net/abortion-in-europe/
マルタでは国民の98%近くがカトリックと言われ、2011年まで離婚する事は違法でした。ヨーロッパで人口妊娠中絶に最も厳格であるマルタでは、例え母親の生命や健康状態に危険が及ぶ可能性があったり、胎児異常の可能性が高い場合、近親相姦、望まない妊娠(強姦など)他であっても一切の例外は無く、中絶をした本人や補助をした人(医師など)は、最長3年の懲役が科される(マルタ共和国刑法第241条他)があります。
ポーランドでは2020年10月22日に憲法裁判所が下した、「胎児異常でも、中絶する事は違憲」との判決により、実質的にほぼ全ての人工妊娠中絶が禁止されています。ポーランドでは強姦、近親相姦、母親の生命及び健康にリスクがある場合のみ、人口妊娠中絶が認められます。
つまり宗教保守が圧倒的に強い国での旧弊な法制と、近年になって右傾化と保守回帰が進んだ国での反動的な法制化だ。米国もまた〈点〉としてのリベラルな都会を、広大な〈面〉としてのコンサバティブな田舎が取り巻く二重国家だ。そして、後者の田舎で保守回帰と反リベラルが進んだ結果としての、プロライフの再炎上なのだ。
こういう事実をわかっていて(増田はわかっているはずだ)、どうして「より人権原理的な立法措置が、アメリカやヨーロッパでも徐々に取られつつあるのが現状である、と言う認識」に到るのか。本気で書いてるなら増田は相当頭がおかしいが、本心ではないのだろう。とりあえず読み手を騙せればいいと思って、適当に書き飛ばしている。
アメリカでも欧州一部国家でも、プロライフを推進しているのは主に宗教保守派(福音派・南部バプテスト派・保守的カトリックなど)と、必ずしも宗教的背景を持たないが宗教保守と連携する保守的政治勢力(トランピスト・銃規制反対派・反連邦主義者・白人優越主義者・ネオナチなど)だ。彼らの大多数は「リベラルによる社会破壊の陰謀」を食い止めるための象徴的問題として中絶マターを扱っている。
※米国のプロライフ派の中にはConsistent life ethic派という比較的中道的な宗教運動もあり、ここはとにかく人命尊重という倫理を徹底し、死刑反対・暴力反対・安楽死反対・薬物濫用反対・戦争反対・難民救済・人種差別反対・マスク着用推奨など、「人が死なない」ことを基本原理とした運動を展開する中で中絶反対という立場を取っているが、上記に列挙した方針を見ての通り、「人命尊重」を追求した結果リベラル的な色合いも強くなってくるため、プロライフの主軸である宗教右派とは折り合いが悪く、プロライフ運動の中ではほとんど力を持っていない。
もし本当に「人権原理」を重視する層がプロライフを推進しているなら、彼らは同時にLGBTの人権なども容認・擁護していてもおかしくないはずだが、実際にはプロライフ推進派の大多数は、苛烈にLGBTを批判し、セラピーで「回心」(reparative therapy)させ、時には法的に禁止しようとすらしている。BLM運動についても、当然批判側に立っている。だからこういう皮肉めいたコラム(「あれれ〜? プロライフの人達が黒人の人権について無関心だったりBLMを陰謀論扱いするのって何かおかしいよね?」)↓が成り立つ。
https://loyolamaroon.com/10029377/oped/pro-life-means-supporting-the-black-lives-matter-movement/
ちなみに米国には、中絶を実施する医療機関や医師に対して暴力やテロ行為を行うArmy of God(神の軍隊)というクリスチャンの団体があり、中絶を実施するクリニックを爆破したり、炭疽菌だと言って粉末を送り付けたり、医師を誘拐・殺害したりしている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Army_of_God_(United_States)
こんなことは、望まない妊娠の中絶に対して賛否どの立場を取るかに関わらず、プロライフ/プロチョイスの議論の初歩であって、米国での中絶禁止について解説しようとする増田が知らないはずがないのだ。知ってることをあえて書かず、嘘も交えて、事実とは違う印象を与えようとするのは本当に良くない。中絶禁止を擁護するのはいいが、真正面からやれ。
このブクマについたブコメが色々香ばしかったのでまとめておく。
スカタンなブクマを眺めていく前に振り返っておきたい点がふたつある。
まずひとつめは、元記事で回答者氏が述べているのは「日本は他国や過去と比較して相対的に治安がいい」という事実だけであり、そこに絶対的な尺度はないということ。「いや犯罪は起きてるじゃん」という反論は意味がないのである。日本で起きてることが他国ではもっとたくさん起きてるんですよ、ということを言っているので「うん起きてるね」で終わりである。
ふたつめは、治安レベルの指標として殺人件数を採用している意味について。回答者氏は「治安のレベルを測るのには、一般的に人口10万人あたりの殺人件数(過失やテロによる死者を含む)を利用することが多いので、以下でもその慣行に従」うと述べており、これは言い換えると殺人件数は学術研究レベルで慣行とされうる程度には治安レベルを測る指標としての妥当性を持っているということになる。
id:takamocchi 「口に粘着テープを貼りアイマスクをして飛び降り」う~ん自殺!「土管を腰に結び両手足をロープで縛って海に投身」これは自殺!「証拠品の銃を奪い自分に発射、飛び散った血をふき取って死亡」うん自殺!
↑殺人事件であるはずのものが自殺として扱われて数字に入っていない(ので日本の治安がいいとは言えない)と言いたいのだろう。そうしたケースを殺人に算入した結果統計にどんな影響が出るのか見てみたいものである。年に何件あるのだろう。元記事の論拠が覆るほどの件数だとしたらたいへんなことである。
id:speedworld1231 殺人事件に関してはそうかも知れないがもうこの国はだめだよ
↑微妙な判定でセーフだが、殺人事件を治安レベルの指標としていることに不服がありそうなので加えた。「もうこの国はだめだ」に関しては同感である。
id:tableturning 日本いうほど治安良くないよ。怒鳴ってくる男の人多いし痴漢も多いし身を乗り出してツイッター覗いてくるし、都内の方なんて夜道は怖くて歩けない。酒に薬入れて女子大生が十数人昏睡状態とかニュースになってるし
↑前置きの1点目がわかっていないケース。誰もお前の体感治安の話などしていない。
id:kyo_ju 殺人の件数だけで治安の良し悪しを論じられましても/凶悪犯罪や少年犯罪が減少を続けているのは確かで、ならば警察規模縮小を論ずべきところ、体感治安ガーとか各種理屈を総動員して警察組織は拡大の一途なのがね。
↑これは前置きの2点目がわかっていないケース。殺人が多いくらいならばほかの軽犯罪や性犯罪も相関して多そうだとは思わないのか。人殺しするやつは万引やレイプだって平気でするだろ。
↑同上
id:ponkotukko 自死する人が多いことも考えに入れてほしい
↑自殺率と治安に何の関係があるのかさっぱりわからない。なぜ突然自殺の話をする?
id:kuroan 治安の良さを「殺人」で測るか「軽犯罪」で測るか。犯罪を「実際に起きた数」で測るか「警察に握りつぶされたものを除いた数」で測るか。
↑とりわけスカタンなこのコメントが星を集めてるのが心底嘆かわしい。殺人がぼこぼこ起きるような国じゃ軽犯罪なんかもはや取り締ってらんないくらい無数に起きてんだろ。なぜ軽犯罪で比べたら違う結果が出ると思うのか。そして治安が悪いってことは警察が無能か腐敗してるかその両方かだろ。なんで日本の警察のほうが無能って前提なんだよ。ほかの国より警察が優秀だから殺人が少ないんだよ。お前もその恩恵受けてんの。認知件数じゃなくて発生件数(神様にしかわからない)で比べたらむしろ差が開くわ。アホか。
id:amunku 普通に暮らしてればアメリカもイギリスも安全だし私NY市内の電車で寝てたよ。殺されなくても日本でレイプは現時点で無罪だよ。セクハラパワハラ過労死は横行してて自殺率は他国より高い。殺人にカウントされないけど
↑どこの世界線から来たのか知らないがこっちの世界線の日本ではレイプはれっきとした犯罪(強制性交等罪)で認知件数は年間3ケタある。そのすべてが有罪になるとは言えないだろうが(示談成立や容疑者不明のまま不起訴があるだろうから)少なくとも起訴されれば有罪になるはずである。また、セクハラパワハラ過労死自殺率については何言ってるかわからない。
↑誰も女性の体感治安の話などしていないので届く必要ももちろんないと思う。
↑お前がそう思うんならそうなんだろう。お前の中ではな。前置きのひとつめをよく見ろ。
id:nowa_s 安全な国とは思うし殺人や強盗の被害は身近にないけど、性犯罪なら多すぎる。/"日本で30年犯罪に遭ったことない"人すげーな。自分一人に限っても匿名電話で強姦の脅迫、体操服や自転車の盗難、複数回の痴漢とかある
id:nanakoso 殺人は死体が残って「実際に起きた数」を操作しづらいから国際比較の基準にされる。いじめや軽犯罪は警察、担当官らの胸先三寸で数字が変わる。追記:反論したい人は数字出して記事かいてよ。
↑これも前置きの2つめに乗っかれなかった人。日本で数字が操作されるなら諸外国ではもっとひどい操作をされているかもしれないという想像力すら働かず、自分の導きたい結論に都合よく世界ができていると思っちゃえる人。しかもその立証責任は他人に求めちゃう人。意見を述べる資格なし。
id:princo_matsuri 道路の治安はその限りではない
↑諸外国の交通秩序のほうが日本よりまともだと言いたげである。それは本当か?
id:yanosworkout 浅い。マクロ視点で治安がいいのは分かっているが、度々エントリで上がる性被害や弱者への暴力は一体何なんだろうって思う。
↑いやその話をしたいのはお前個人だろ。
id:iGCN 殺人の件数が少ないことを根拠にしているけど、エクストリーム自殺として処理されている暗数がそれなりにある気がする。
↑既出。略。
id:hotelsekininsya でも、都会で痴漢にあった女性ってすっごい多いんだよね?確か半数軽く超えてたはず
↑「でも」があるのでセーフ判定。「ところで」だったらなお良かった。
↑なんでこんなに自殺を殺人にカウントしたい人が多いんだこの国……
↑もう……
飽きた。まだこれでもブコメ全体の半分まで見きれてない。スカタンなブコメ書いたけど拾われなかった人たち、ごめん。
反響が大きくて驚いた。良くて「ヒマ人乙」くらいのブコメがふたつみっつついてすぐ埋もれる予定だったのに反応の質も量も意外だった。
しかしこれだけ注目されると、「論拠があやふやだけどいいや、書いちまえ!」って雑に書き飛ばした筆のすさびがきちんとツッコまれるので、さすがだなと思った。おっしゃる通りです、お恥ずかしい、という指摘がいくつもあった。どれとは言わないけどあなたが正しい。
テレビやネットで見て知っている人も多いと思うが、本日、都内にて吉本興業の岡本社長らによる記者会見が行われた。メディア関係者の一人として会見に出席したが、テレビやネット中継で伝わる以上に茶番だったので感じたことを書きたいと思う。
記者会見については昨日夜にメディアに開催がアナウンスされた。会見が行われたスペースが入るビルは10時半にオープンするが、早くも直後からメディアの人達が集まった。
テレビ、スポーツ紙など大手メディアの芸能記者は、顔見知り同士であることが多いが、今日も会見前にはあちこちで話題など世間話に花が咲いていた。全体的に集まったメディア関係者の雰囲気は和やかで、「社長辞めるのかな〜」「一昨日の会見も大変だったんだよー」などと軽口を叩きあい、笑顔を見せる人が多かった。記者の中には、吉本側のスタッフと既知の仲である人もいるようで、開場前に挨拶や言葉を交わしている姿も見られた。
12時半に会場がオープンし、レポーター、カメラマン・記者という順番で案内された。会見場は前方がスチールカメラマンが居並び、その後ろにイス席が4列、それからペン記者用のテーブル席というレイアウトで、会場関係者によると300人の収容能力があるという。カメラマン・記者は到着順に列になって並び、順々に会場へ。早い順で席を選べるわけだが、1列目か2列目で場内に入った某スポーツ紙ニッポンのバイトらしき人物が前方の席10つほどのに名刺を置いて回っていた。テレビなどのムービーカメラは別で所定の位置に誘導。キー局、準キー局、地方局、抽選といった順番だったそうだ。
13時50分になると、吉本の広報室長が登壇し、会見の流れを説明。会見は時間無制限で「質問がなくなるまで」行われる旨が伝えられた。その後、下手の袖に下がると「よーっし!!」というような、舞台裏から盛り上がるかのような掛け声が。総合格闘技などの試合でブラジルの選手とかが、入場直前にやるようなやつだ。会場内の記者からは「おおっ」という声と、ちょっとした笑いが漏れた。
会見ではまず、同社の法務本部長で弁護士でもある人物から、闇営業問題の経緯が時系列で説明された。その後、岡本社長がテーブルに着席し、言葉を述べ始めた。内容については既に知っている人が多いと思うのでここでは触れない。ネットでは「しどろもどろ」という声があったが、確かにその通りだった。ただ、周りの記者はテープ起こしがしやすそうだった。
岡本社長からひと通り説明がされた後は、記者からの質疑応答に移った。芸能レポーターや新聞社の記者などの質問によって始まったが。岡本社長の話の中に「契約解除を取り消す」「2人には申し訳ない」といったコメントがあり、また同日朝の「スッキリ」で加藤浩次さんが思いの丈をぶちまけたこともあってか、闇営業問題そのものより芸人の思いを踏みにじった、ということに対することに関心が大きいように感じた。
その後、社長のテンポに歩調を合わせるように記者側の質問も緩慢になっていき、会見は長期化。特に害悪だと思ったのは、次のようなタイプの質問者だ。
・正論言いたい型
・ツメ跡残したい型
こうした有象無象のメディアのおかげで、質問が長い長い。途中、一度の休憩を挟むことになった。休憩中、様々な人から「これは長くなるな」「よしもととメディアの我慢比べだ」といった声が聞かれた一方、テレビ系のスタッフは「もういいでしょ」「責任果たしたよ」という声も。
休憩後、再び長い質問タイム。同じメディア側からしても、何を聞きたいのかわからない質問、それを聞いてどうするんだ、という質問が目立った。あとはアリバイ的な質問。媒体の名前を言って、社長あなた責任はないんですか!と言ってりゃ仕事したことになるんだから良いもんだ。腹が立ったのは、大手メディアの多くが空気が読めないこと。会見の流れや場の雰囲気なんて無視する。100歩譲ってテレビだったらわかるけど、もう同じ質問はいいから前の人の回答使えよ。
で、気づいたのだが、そうした個々の記者の立場や質問意図はありつつ、結局多くの人がやっていたのは「自分たちは正しい」「吉本側は反省するべきだ」「そしてそれを態度で示せ」ということを繰り返すこと。時間をかけて反省の態度を示させて、半公的に罰を与えているのだ。そしてそれができるのは自分たちだと言わんばかりの特権意識が、あのわけのわからない質問をさせてるんだろう。
参加者にも疲労が見え始め、前列にいるカメラマンの多くはスマホをいじり出したところで、進行する広報室長から質問は残り3人とする旨が伝えられた。本音では多くの人が「やっと終わる…」って思っていたに違いない。それはそうだ、長いばっかりで意味のない質問ばかりが繰り返される時間だったのだから。
そして、最後の1人が質問を終えたまさにその時、後方から「約束と違うじゃないか!」という声が上がる。まだ質問が回ってこない朝日新聞の記者だ。それを見た広報室長は、明らかに苛立ちを隠せない表情で「じゃあ、どうぞ」と反応。ここから地獄の第2章が始まる。付け加えておくと、この朝日の記者の質問は至極まっとうな正論で、細かな違いも見逃さないプロの姿勢が感じられたが、端的に言って最も無意味だった。
そんな感じで、会見は結局19時半頃に終了。吉本側についてはいろんな意見もあるけど、自分たちメディアも同じかそれ以上に問題がある人間の集まりだった。
帰り際、クタクタになっている人が、「吉本は激務に慣れているから、最初から長期戦も怖くないんだよ」と言っていた。なるほど。ただ、会見の時間中、吉本の人たちは、背筋を伸ばしたまま、水を飲むこともなく、どんなことを言われても一応対応し、そうした態度は確かにすごいと思った。逆にそれが怖いのけど。
「裸がさらされた屈辱を丁寧に描写していない」ってそのままBLによく出てくる「登場人物はナチュラルにホモで同性愛者であることに葛藤しない」という設定に通じる問題では?
しない作品に「何故葛藤しないんだ!」「同性愛者は苦しんでいるのに!」って言われたらイミフだと思わないの?
「はあ、あなたは苦しいかもしれませんがこの作品のキャラはそうではないんです」で終わりじゃないの?
これって「男の羞恥心は男が自分の中で片付けるべきもので外に出してはならないし、外に出す人物は軟弱で魅力が落ちる」というジェンダー規範があるから
「BLの登場人物が同性愛に苦しむことは書き飛ばしても問題はないが、女の羞恥心は丁寧に描写すべきだ」という考えが生まれるんだとしか思えない。
もしこれが「いくら美術系の学校だからって自分の裸を許可もなしに掲載されてメンタルが傷つかない女というのは説得力に欠ける」という指摘ならまだわかる。
さくらももこの死に対しては、その思いはひとしおだった。
「憎まれっ子世にはばかる」の通り、さくらももこは長寿を得て、90歳、いや100歳まで生きるものだと考えていた。
大往生を遂げるまでは、殺しても死なないものとさえ思っていた。
生きて、生き続けて、いつかはその醜悪な性格がようやく世間にも明らかになり、老害として皆から嫌われて、それでも生き続けて、死ぬときには「ようやく逝ってくれた」と全員が胸をなで下ろし、喜ばれる、そんな死に方をしてほしいと願っていた。
その願いは打ち砕かれた。
食や健康に関するデタラメを書き飛ばし続け、どれだけそのデマが否定されても頑として認めず、さらにデタラメを書き飛ばし続けている船瀬俊介のせいではないか、と疑っている。
「ヒカルランド」の出版物は以下の通り。著者をざっと眺めれば、どういう出版傾向かは分かるだろう。
「船瀬俊介とガン(治療)」に関しては、googleで検索してもらうのが一番早い。
リンクをここに貼りたくないので、ここでは貼らない。
さくらももこは船瀬俊介と小林健の共著のカバーイラストを描いている。
さくらももこ 公式ブログ - 白鳥さん62歳。 - Powered by LINE
こうしたつながりの中で、さくらももこは船瀬俊介に吹き込まれたのではないだろうか。
ガン治療について、デタラメを吹き込まれたのではないだろうか。
さくらももこは船瀬俊介から吹き込まれたデタラメなガン治療もどきによって死んだのではないだろうか。
さくらももこは死んだ。
船瀬俊介は生きている。
船瀬俊介には「憎まれっ子世にはばかる」の通り、長寿を得て、90歳、いや100歳まで生きてもらいたい。
大往生を遂げるまで生きてもらいたい。
殺しても死なないでもらいたい。
生きて、生き続けて、今でさえその醜悪で下劣で誤った思想は世間に明らかになっているけれど、なお老害として皆から嫌われて、それでも生き続けて、死ぬときには「ようやく逝ってくれた」と全員が胸をなで下ろし、喜ばれる、そんな死に方を、さくらももこの代わりにしてほしいと願っている。
意図的かどうかは知らないけど、相手の文章の趣旨をすり替えて晒す、というやり方は、筋が悪いのでやめた方がいいと思う。
(→https://anond.hatelabo.jp/20171221192338「ポリコレ派増えてよかったなー」)
渡辺由佳里さんも言ってたように、「社会的な」影響を考えるなら、それらは批判されて「社会」から消え去ってしかるべきとなるのだ。(※)
「社会から消え去ってしかるべき」なんて言い方を、彼女は一度たりとも使っていない。
実際の表現で、彼女は一貫して「気づこう」「気づけば(私たちは)変わる/変わろう」「私はそういう表現はよくないと思う」以上のことは言っていない。(https://cakes.mu/posts/18894より。文中強調は引用者)
自分が軽蔑する対象と、同じような危険な認識が、自分自身の中にもすこしはあるということを。それを知るだけで、大きな一歩となるはずだ。
誰かがそういう自虐ネタで笑いを取らなければならない状況を作ったり、それに加担してしまうことに、私たちは少し敏感になったほうがいいと思うのだ。
それらの人々すべてにプライバシーを守る権利があり、他人から「判定」「評価」されない権利がある。それを侵害したり笑いの対象にしたりするのは、誰が誰に対してもセクハラの範疇だ。
批判されている人にも言い聞かせるように配慮されたこれらの文言には、どこにも「社会から消え去ってしかるべき」などという極端に他者排除的な表現が入る余地はない。
このままだと、あなたの書き込みはまるで、掃除サボっててクラスの委員長に「みんなが迷惑してるって分かったら、サボれないでしょ?」「私はサボるの見るといい感じがしないよ」と優しく注意されたら、それだけで大声で「掃除サボってる奴は生きてる価値がないって言われましたアアアアアア」って叫びだしたアホな小学生みたいに見える。「ソウイウオ前ガ差別主義者」論法で相手に一泡吹かせようとして失敗した文章なのか?とさえ見える。
※…「渡辺由佳里さんも言ってたように」が「『社会的な』影響を考えるなら」にしかかかってない、と主張したいかもしれないが、「言ってたように」の後に読点がある以上無理筋だ。そこに読点を置けば、直後を飛ばして「しかるべきとなる」の引用の助詞「と」の直前に掛かる(つまり、「それらは批判されて『社会』から消え去ってしかるべき」というのが渡辺さんの主張だ、という主張)としか読めない。つまり、たとえば次のような文章であれば、私はここまであなたを批判することはなかっただろうし、あなたの文章の趣旨も誤りなく伝わったのではないだろうか。ていねいに言葉を使う相手を批判するときは、やはりていねいな言葉への配慮が必要であると思う。
(例)渡辺由佳里さんが言うように表現の「社会的な」影響まで考えるなら、詰まるところ、そのような表現は全て批判されて「社会」から消え去ってしかるべきだ、ということにもなりはしないだろうか。
※(追記)それにしても、書き飛ばした表現に対して、ここまで時間をかけて丁寧に説明しないと対抗できないという仕組みを考えれば、ネットにおいてあまり質の高くない言論が蔓延るのは当たり前だと思う。ブックマーク数以外に信頼できる言論評価システム(たとえばはてなスターはそれを目指したものだと思う)が定着しないものか? 現状はてなスターは、ブクマコメントに対する評価システムとしてしか機能していない感があり残念である。
以前、『NHKアナウンサーと同じドラッグを使ってた立場から、思ったことを書いてみる。』という
エントリを書いたのだが、続報があったので、また思うことを書いていく。
いや、しかしラッシュを持ってるだけでなく、製造もしていたとはね。
現在でも、○○とかメジャーな海外のリゾートでも合法的に手に入るらしいから、そこらで購入して持ち込んだか、
あるいは、そういうルートで持ち込まれたものを譲ってもらったのかと思っていたが。
実際、一時期、航空会社とか旅行会社の関係者が持ち込んだのばばれて逮捕って記事もあったしな。
製造してたとは、これまた一段、業が深い。
ラッシュが国内で手に入りにくくなり出したころ、実は、個人でも合成できるという話は、ネットにも結構出回っていた。
基本的には、三種類の物質が必要で、必ずしもそこいらで簡単に手に入るものでもないのだが、
○○○○液を使ったりすれば、あとはそれほど特殊な道具などはなくとも、それなりに製造できたものらしい。
当時は、製造や所持までは違法ではなかったから、案外あちらこちらに情報が出回っていた記憶がある。
今そういう情報を書き込むと、厚労省麻薬取締部にマークされるのだろうか?
しかし、密造してまで使用していたとなると、こりゃかなり強い依存性があるわけで、
お前はラッシュに依存性がないタバコのほうが危険だみたいなことを書き飛ばしていたが全然そんなことはないじゃないか、
ドラッグ中毒の弁護なんかしやがってこのクソホモ野郎さっさとてめえのチンポ齧って死ね!
それは、ちょっと違うんじゃないかと思っている。
ラッシュに「依存症」があるとすれば、つまり「精神依存」であって、
アルコール依存とか、ニコチン依存のような禁断症状(医学的には離脱症状っていうのか?)が出てくるような
「肉体的な依存性」はないらしい、ということだ。
その辺詳しくはないが、「精神的な依存症」というのは「パチンコ依存症」とか「ネトゲ廃人」とかそういうのと同じだと思う。
パチンコやネットゲームに、禁断症状を引き起こすような毒性はないだろう。
もちろん、精神依存も問題なので、公共放送の職員、それもアナウンサーが、
「しかるべき」ってのがどの程度なのかはまた、別に考えるとして。
ただ、まあ「パチンコ依存症のNHKアナウンサー」というのはいかがなものかという気はするが、
それが重篤な犯罪なのかといわれると違う気もする。
パチンコの金欲しさに着服したとかなれば、それは犯罪だろうが、
個人的には、ラッシュがまた合法化されて欲しいか? と聞かれれば、まあ、されてほしい気持ちは、ないことはない。
でも、諸般の事情を考え合わせれば規制されるのも「お役所」の判断としては、けして不合理とは思わないし
わざわざ危険を冒してまで使おうとも思わない。
なんだろう、「レバ刺し、うまかったなあ。また食べられたらいいけど、まあしょうがねえかなあ」ってのと
自分自身、レバ刺しは結構好きだったし、一度も危険な目にあったことはなかったので、
ある程度自己責任で食べられるようにしてくれてもいいんじゃないかなあ、と思わなくもないが、
まあ、こうなってしまっては仕方ないかな、という感じだ。
一方で、「厚生省麻薬取締部」が乗り出してきて大騒ぎする案件なのかなあ?という感じは相変わらず拭えないし、
この件をいくら深堀しても「本当の危険なドラッグの撲滅」には、あまり関係ないだろうという印象もかわらないけれど。
そういえば、前回のブクマに
「危険ドラッグやマリファナなどの法的規制を批判している人の理屈は、
スピード違反や駐車違反の取り締まりを食らって文句を言っている人の理屈とほぼ一緒なんだよね。
恥ずかしくないのだろうか。」
というのがあったが、別に恥ずかしくはないだろう。
「ほぼ一緒」ではないものを勝手にほぼ一緒と判断して人を恥知らず呼ばわりする粗雑な頭な持ち主であることを
こんなに高らかに宣言して恥ずかしくはないだろうか? とは思うが。
本来、「駐車禁止」にする必要のないところを駐車禁止にして取り締まりをしてたり、
非合理な速度規制で取り締まりをしていたら、文句を言うのは当然だし、
駐車禁止も、ついついスピードが出てしまいそうな道でのスピード違反も、悪質な飲酒運転も一緒くたにして
「あいつは違反者だ!」って叩きまくったり、同じ刑罰を科していたら、そりゃバカの集団だろうと思うし。
マリファナが「必要のない駐車禁止」だと言い切るつもりはないが。
あと、ブクマでいえば、いわゆる「ゲートウェイ・ドラッグ理論」(弱いドラッグは「入り口」であって、
だんだんと強いドラッグへと進んでいくから、入り口を規制すべきです理論)にかなりの支持が集まっていて
一方で、「あれはウソ」と批判する意見もあったのが興味深かった。
ゲートウェイ理論が本当なのかウソなのか、断定的に言えるほどの知識はないが、
酒だってタバコだって、入り口でとどまっている人もいれば、重度な依存症になる人もいるし、
入り口を規制したって、いきなり「奥地」にアクセスしちゃう人はアクセスするだろうし、
入り口に注ぐリソースがあったら、まず、奥地を何とかしろってのもあるし。
そういえば思い出したのだが、ラッシュが規制され始めたころ、一部でまことしやかにささやかれていたのに
どういうことかというと、ある時期まではゲイとか、大人のおもちゃに造詣の深い人が
だんだん、脱法ドラッグやらシャブやらを使っている人たちが、あれもこれも一緒くたに使い始めてしまったため。
まあ、適当な推測だろうが。
まだ続いてるのかよっw
ほんとNaokiTakahashiくんって負けず嫌いで墓穴掘る性格だよなw
NaokiTakahashiくんのいう「俺の発言はデータなわけじゃん」
これは、NaokiTakahashiくんのツイート(http://anond.hatelabo.jp/20130504192147)をデータとして使って
陵辱マンガやエロゲを消費するオタクの心理について論じることができるお!
って話だと思うのね。(と書こうとしたら本人もツイッターで説明していたね。)
そして、これは「NaokiTakahashiくん個人のメンタリティについて語るとすれば」正しい
だけどね。彼の個人的経験をもってして
Naoki Takahashi
この結論は絶対に導き出せないんだよね
「俺はオタクイジメやオタク蔑視が原因で陵辱マンガを愉悦とするようになりました」
と
「陵辱マンガは、オタクイジメやオタク蔑視という、社会における問題が反映されて成立した作品です」
とは、まったくちがうはなしだからねw
前者はただの自分語り。そして後者を主張するなら社会学的なデータが必要だ
今のところどう考えても
「実証データに基づいている/反証可能な主張を構成している科学的発言」とは言えないやね
俺は、反証可能性がどうのこうのくだらねえ
って思ってる人間だけど、NaokiTakahashiくんはそうはおもわないらしいので
自らの厳正なルールに従って、何事にも実証データを用意し、反証可能な科学的発言のみを行うべきだと思うね
シロクマにだけ厳しいルール押しつけてドヤ顔とか誰も納得しないでしょw
Naoki Takahashi
俺の意見も論拠いい加減なの結構あると思うよそりゃ。それ以前に適当な書き飛ばしが多いけどもさ。
うむ。じゃ、さっそく恥じ入ってくれ
あるいは「陵辱マンガはオタクいじめオタク蔑視オタク抑圧を割と素直に露骨に反映してきた」論拠を
実証データとしてビシッと提出するか、どっちかだろ。さあやれw
それとな。「つっこまれないかぎり俺は正しい」というのは論理的におかしいからな
それは、たまたま運よく反証可能性やデータの有無について突っ込むやつがいなかっただけで
「何事にも客観的に認められうる実証データを抱えて発言してる」わけじゃないんだから
俺ならそこを恥じ入るわ。科学の徒でなくとも
ひとことで言うと
反証可能性よりダブルスタンダードの可能性を考えてから発言しろよ何事にもwww
ってことだよネ!
素直に喜びたいのだが、とってもモヤモヤするのだ。
不幸になれ、とまでは思わないけど、幸せになってほしくない、そんな漠然とした気持ち。
我ながら、人として最低だと思う。が、モヤモヤしてしまっているのは紛れもない事実。
いたたまれないので、この場を借りてそっと告白させていただきたい。
友人、とするからいけないのかもしれない。
中学時代から大学卒業まで、濃密に付き合っていた相手、というべきか。
同性なのだが、あまりに好きすぎて、多感でデタラメな中学時代などはそれを恋愛感情とまで自分で誤解してしまったくらいだ。
大学卒業間際、あることをきっかけに喧嘩になり、それっきり、会わなくなってしまった。
そもそも、友達、だったのかどうか。
絵がうまいし小説もうまい、と当時の私は思っていた。事実、中学生としては上手だったと思う。
「見せてほしい」とお願いすると、同じものを同じ枚数かいてもってこい、と言う。
だから私は小説なんか書き始めたのだし、当時は下手なイラストも必死で描いた。ほんとうに下手だった。
友人複数と交換でリレー小説をやったりもした。いつも私がキャラを殺すと怒られた。
楽しかったのは間違いない。けれど私は、メンバーの中では、いじられキャラを微妙に超越したいじめられキャラだった。
ボケと突っ込み、の体裁をとりながら、私が何か言えばいきなり手が飛んでくる。
はじめのうちはちょっと突く程度だったものがエスカレート。
こちらが笑っているうちはいじめにならないから、と、私も痛いのを我慢していたけど、
ついに、脳味噌ずれるのが分かるほどの平手打ちをもらったときは、意志に関係なく涙が出てしまった。
さすがにどうかと、ヤツに手紙を書いて渡した。
なんて返ってきたと思う?
「自分には、対等な付き合い方というのが分からない。見下すか、敬うかしかできない」だと。
要は、ペルソナが強すぎるのだ。
「自分のキャラ」みたいなものから一切逸脱できず、ただそれを演じることに徹している。
そこを理解してくれと言うのだ。
事実、二人でいるときは手をあげることはない。
それでもやっぱり、好きだったのかねぇ。
強くたたきすぎるのはナシ、みたいな密約のもと、謝られるわけでもなく同じ関係は続き。
オタク仲間、というのが少なかったからかもしれない。
別の高校に行っても、長電話したり遊びに行ったり来たり。
でも、この頃になると、学校が違うから明確な学力の差が見えにくくなってくる。
視野も広がるし、友人も増える。
私も小説を書くのが好きになって、素人ながら作品と呼べそうなものも作れるようになってきた。
そうなってくると、力関係は変化し始める。
コテコテのドオタクでいるより、好きなものを適度に取り入れたい私と、
なりふり構わぬ服装や態度を、こちらがやんわり諭すような場面も出てきた。
そして受験。
お互い一浪し、ヤツは有名大学の文学部二部、私は芸術系学部の文章創作コース。
こっちは大学の課題で小説を課され、プロの小説家に添削を受けているんだから上達は早い。
ヤツの書いた、あいかわらず中学クオリティの作品の粗もよく分かるようになった。
でも、こき下ろすようなことはしなかった。
こっちはプロを目指そうとしているのであって、趣味で書き続けている人の楽しみを奪ってはいけない、と。
この頃になると、家族に次いで親しい大親友と言っていいくらいには気心を許していたと思う。
・・・少なくとも、こちらからは。
あくまで「自分のキャラ」のなかでしか行動しないヤツに、私はだんだんいらだってきていた。
とにかく、成長がない。他者から学ぼうとしない。影響されない。
だから、迫ったのだ。本音で付き合え、と。
ヤツのペルソナをすべて論破して、丸裸にしてやった。
そうやって逃げるのは怖いからだろう? ほらまた自己弁護に走った、
それは本心じゃないだろう、なぜそう言いきれる?
思えば私も若かったし、性急だったと思う。
自分はこんなにお前のことを知っているぞ、とひけらかしたかっただけなのかもしれない。
10年付き合っていてはじめて、ヤツは涙をみせた。
初めて本音に触れた、と思った。漠然と、勝ったと思った。
そんな風に思う時点で、私も薄っぺらだったわけだ。
それっきり、会っていない。
ただ、私はそのとき予言した。
「そんな風に自分の殻に閉じこもった付き合い方をしていると、幸せになんかなれないぜ」と。
それから、約10年。ヤツをネット上で見つけたのは、ほんの数年前だ。
精神安定剤をオーバードーズしていることが自慢げに書かれていた。
複雑な気持ちになった。不幸自慢は気持ちのいいものではない。
でもどこかで、ほら言ったとおりだ、という思いもあった。
一方私は、小説家とはいかないまでもライターとして仕事で文章を書くようになっていた。
信頼も得ていたし、役職をもらって後輩を育てるまでになっていた。
大した成功ではないが、ヤツと比べてしまえば雲泥の差。
HPに設置された掲示板に声をかけるか迷ったが、やめておくことにした。
何を書いても、自慢になってしまう気がした。
それからさらに数年。
一定の自己実現欲も満たせたし、第二の人生といった感覚の引退。悔いはひとつもない。
ふと、ヤツを思い出した。
正直、自殺しているかも、とさえ思った。なぜか、それだけはやめてほしいと思った。
安否確認のつもりで昔見つけたHPを開くと、ブログが変わっていて、
ヤツが何を思い、どう変化していったかは知る由もない。
真に心を開ける相手を見つけたのか、
心を開かないことを許してくれる相手を見つけたのか、それすらわからない。
ただ、相変わらず昔の小説の続きを掲載し続けているヤツと、
今の私が社会的に同じところにいるということが、妙にモヤっとするのだ。
もしかすると、私こそがヤツに対して、一定の強い思いを抱えたままなのかもしれない。
デーモン小暮閣下の「相撲解説。(一部、謝罪も含む)」がホッテントリ入りしてたので、何がすごいかちょっと分析してみた。
http://demon-kakka.laff.jp/blog/2009/01/jan26dc11-55e1.html
さて、本日未明、吾輩がこの場に「ゆゆしき問題である!」という表題にて、麻生総理大臣および日本相撲協会関係者を批判する書き込みをおこなったが、それは吾輩の見当違いの発言であったことが判明したので、ここにその文章を削除するとともに、この場を借りて、麻生総理大臣と日本相撲協会に謝罪いたす。
・いつ(本日未明)
・誰が(吾輩が)
・どこで(この場に「ゆゆしき問題である!」という表題にて)
・何を行ったのか、(批判する書き込み)
それが誤りだと判明した時に
・どういう対応をするのか(その文章を削除する、謝罪いたす)
が明記されている。
その書き込みは「麻生首相が靴を脱がずに表彰式の土俵に上がった」と決めつけて書いてしまったが、実は光沢のあるスリッパであったと関係者からの指摘を受け、吾輩も追ってそれを確認した。
麻生総理大臣には何の否もなく件の文章はとんだ言いがかりであったとともに、また「注意をしなかった」と日本相撲協会にも見識を誤った物言いをつける結果となってしまった。
ここで簡潔に自分の誤りを明示し、ちゃんと確認した上で、それが間違いだったと明言している。
さらっと書いてあるけど、「吾輩も追ってそれを確認した。」という点が素晴らしい。
誤りを誤りと認めないことが最大の誤りだ。
そして全面的に間違ってると分かったら、100%自分のミスを認める。
これは頭で分かっていても難しいことだ。
・・・とはいえ、調べてみたら、実は最初は「 追伸:TVモニター、買い換えよう… 」とあったようだが(>>391参照)、
後に削除されたようだ。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1211865.html
だいぶ迷ったのだろうが、消して正解だ。
言い訳したら、やはり格好がつかない。
今後は、この場もマスメディアであるという自覚のもと、ちゃんと事象の確認をおこなって発言をしてゆく所存である。
失礼した。
で、一番スゴイのは、実は
これなんじゃないだろうか。
それまでも「吾輩が」「謝罪いたす」「失礼した」と、普通の謝罪文ではあり得ないような、
いつもの閣下節でありつづけて、いつものように「ではまたWeb Rock!」で終わる。
この一文が浮かないキャラ作り、デーモン小暮閣下「凄み」がここにある。
正直、謝罪文としては基本でしかない。
同じブログでも、これが中途半端な芸人などだったら、更に炎上していだだろう。
四半世紀(聖飢魔IIは82年12月末に結成)もこのキャラを続けているだけでもスゴイ。
悪魔からすれば一瞬みたいな時間だろうが、人からすればオギャーと生まれた赤ちゃんが、
大学出てフリーターやって派遣社員になったけど派遣切りにあってネカフェ難民になってるくらいの長さだ。
メジャーどころで今でも髪を立ててるのはBUCK-TICKのヤガミトールくらいだが、彼だってこんなメイクはしてないw
(インディーズ系はわからない)
好対照なのが、今回の騒動で、スポニチが閣下の二次情報を元に記事を書き飛ばしているが、
謝罪もせずにさっさと削除している(しかも「土俵」→「土表」の誤字のオマケつき)。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash20090126038.html
・・・えーと、マジで絶句してしまったんだけど、謝罪記事って出ないの?
webなら消してしまえばどうでもいいと?
・・・そりゃあ、マスゴミだの何だの言われるわ。
悪魔のほうがよっぽどまともだ。
もう単純に言えば、
一言「ごめんなさい」って言ったときの発言の重みが、
ありきたりで説教くさい話になるけど、日ごろの言動が積み重なって「信頼」となるわけだ。
10万年の信頼は重みが違う。
まだ考え途中で、きちんとまとめてないけど、
既に放送環境や設定を持ってるDJがBelugaに乗り換えるメリットって…
ぐらいしか思いつけない
わざわざ乗り換えるのも…たるいし。興味はあるんだけど
新しい放送者の取り込みを考えるなら
んで、ホントにボタン一つで気軽に放送できちゃうソフト だったら使ってみたい
全然違うけど、
…つーか、新しい人が入りやすくなって番組数、DJ数が増えたとしても、
聞きたい放送が増えるとは限らないよなー
個人的には、学生層もいいけど30以上の人がしゃべってるラジオが
もっとあれば聞いてみたい(学生おおい)
聞く立場だと大体、個人のポッドキャストの方が内容的に整っておもしろいのが多いし
livedoorねとらじは、他の放送同士つながりやすい気がする…
ヘッドライン取得ツールとか、周辺ものが色々ある
(一般小説の表紙が漫画絵になると、その書棚に近寄りづらくなる感じ)
賛否両論…個人的には賛成ですがw
簡単さと手軽を求めるなら、らじろぐで充分じゃないか?
追記
知人からこの日記を改変してくれーと言われたので書く。ということで間借りしますー。
常々ここをヲチされている、顔も知らない愛すべき増田民たちの想定の範囲内だったかどうかは別として、自分はふだんはてなダイアリーで日記を書く人である。いや。1ヶ月ではてなブックマーク100個ブックマークしてそのうち半数をコメントするかどうかも結構あやしい超ライトはてなダイアラーの自分が、ここを覗いている数多の重度のはてなダイアラーたちを前にしてこう堂々とはてなダイアラー宣言するのもおこがましい話ではあるのだが、世間一般的な基準に従うと、いちおうはてなダイアラーの部類に振り分けられるらしい。もともとがまんが足りなく、「finalventの日記」のいいかげんな書き飛ばし記事がはてブ注目エントリー入りしているのを見た瞬間に心がムズムズして記事を書いてトラックバックを送らずにはいられない、傍目にはおよそ典型的なはてな依存症の自分がなぜそうまでして毎日はてなダイアリーを書いているのかと言えば、これでも物書きの端くれだと思っているからである。モノを書く人間ならはてなのダイアリーやブックマーク、嗜んだことがなければ文字通り「お話にならない」し、はてなダイアリーを使わない人間が書いた文章なんて、大抵ロクなもんじゃない。
読む価値が無い、とまで言ってしまうとそれは過言として。非はてなユーザーが書いたものでも読むべき文章は無数にある。はてなユーザーが書いたものでもはてブ1発分の価値すらない文章もザラにある。あらゆるものの90%はクズである。はてなダイアリーを使わない物書きがなぜダメなのかと言えば、それははてなダイアリーを使っていないからだ。彼らは「はてなダイアリーがない世界」のことしか知らない。はてなダイアリーを使う人間は、はてなダイアリーを使わなかったこともある人間である。彼らは「はてなダイアリーを使う世界」と「使わない世界」、両方について自らの経験に基づいて一応の見識を持つことができる。モノを書く人間や、ブロガーにとって一番の武器は、彼が持ちうるそのパラダイムの多さだろう。
普段はてなダイアリーを使っていない人間は、ためしに想像してみてほしい。どうやって「記事を書く」のかを。まずジャンルは? いったいどれを選べば良い? 非モテダイアラーのrepublic1963とfurukatsuとkiya2014とumetenは、それぞれどうキャラが違う? スキンはどれを選択する? hatenaシリーズはともかく、指定なしって結構ディスプレイサイズがでかいユーザーにとってはクセ者よ? キーワードになっている単語はどうやってつける? なにも考えずに記事を書いてるだけじゃ、誰も読まずに流されるだけですよ? どこで記事を書くのを止める? 先っちょだけ書いてほのめかす?真ん中まで書いて読者に思考の道筋を与える?それともギリギリのところまで書いて「続きは後日」? [続きを読む]って、どこまで溜まったらつけてほしいものなんだろう……? 等等。いかに「はてなダイアリーの世界」について無知なのか気づくはずだ。自分の周りには、あんなにもはてなダイアラーが多いと、ずっと思っていたはずなのに。いままで非ダイアラーは一体ネットの何を見ていたというのだろう?
はてなダイアリーひとつとっても、「こちら側」と「あちら側」でこれだけものの見方が違うのだ。思考の越境はかくも困難なり。しかしおそらくモノを書くことを生業にする人間こそ、常々何かについて考え、不断の「思考の越境」に努めなければならない人種である。それが日常の些細な事象についてなら尚更だ。ここで勘違いしてほしくはないのだが、自分がはてなダイアリーを積極的に奨励し、その欠点を必死に覆い隠してはてなダイアリーの普及に尽力している、と思われるのは心外である。そんなつもりは毛頭ない。どう言い訳してみたところで自分の文章をロハで叩き売るのは毒だ。百害あって一利なしである。それでも、絶望の際に立っておずおずと久遠の深淵を覗き込んで尚、闇の底から見るはてなダイアリーのシンプルな美しさについて必死に思いを巡らせる。それがモノを書く人間の、最低限持つべき心意気だと思う。
『はてなダイアリーを使わない人間にものを書く資格がない』と言うわけではない。が、やはりモノを書く人間には何かしらの「はてな(hatena)」がなくてはならないように思われる。別にそれがはてなダイアリーであれ、とは言わない。ブックマークでも、アンテナでも、人力検索はてなでも。物書きならば何かのhatenaじゃなければならない。そうでなくては、思考がねばついたものにならない。さらさらした思考からは、何も生まれない。さらさらした文章が生まれるだけだ。思考の「越境」と「拘泥」はものを書くために必要不可欠な要素である。その為には、多くのブログを読むのもいろんなアルファブロガーから話を聞くのもよいが、やはりはてなの「キーワード検索」こそが最も頼りとする素養となるだろう。
と、ここまで書いてしまえば、これ以上ない決定的な批判に晒されずにはおられないことは馬鹿ではないから自分でも分かっている。
「オマエのダイアリー、まだはてなアンテナ登録数10人いないじゃないか」と。
いや。まぁ。それはそれで。そっちのほうがマイノリティな界隈にバカ受けな文章が書ける、ということにしておいて。
おまけ
手塚治虫『人間関係が希薄な人は漫画は描けない。漫画とは読者との会話だからだ』
宮崎駿『ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ』
庵野秀明『アニメ・漫画に依存するのは止めて外に出て欲しい。あれはただの絵だ』
富野由悠季『オタクは日常会話が出来ない。アニメ作るならアニメ見るな』
藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。 漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。