はてなキーワード: ロブスターとは
選出基準は、単品かつ好みの調理法でバイキングに存在したときに取るもの。
・脳破壊(され)おじさん
・そういや2人のおじさんが各々のやり方で脳破壊されとる…
こんなクレジットの出し方初めてみたオシャレや
3%のヤギかわいそう…でもこの行動は監督の思想が反映されての行動だからそこに関しては監督と考え方がちょっと違った部分であって駄作という訳では決して無い…ロブスターとか女王陛下で監督の畜生観はなんとなくわかってたやろ…!ヤギだって群れで行動してたら「俺なんか他の個体と色々ちがくね?」で病むとかわいそうだけど恐らく邸宅内で比較対象なく終生飼育だからまあええか…というきもち
・紛うことなくオサレで眼福映画だがテーマは何だろうアートメインの映画かな?と思ったら格差貧困女性自身の性の主体性・選択権を持ち自立して生きるという予想以上に社会派テーマだったし説教臭くなく手段が目的になってないヨルラン監督、流石だぜえ!の映画だった
・おじさんが脳破壊される途中は「男女の恋愛の機微、よくわかんない…」ってみてたけど格差社会〜のくだりけら「おおっ」となってパリから「なるほどそんな感じのテーマの映画か目茶苦茶今な感じのテーマやんな」ってなった
・格差社会×労働×階級の上下がまんま物理的にも上下とかそのへん逆転のトライアングル連想した
・理解ある彼くんに逆プロポーズのくだりで「よかったね…!」という気持ちと同時に湧いた「性に奔放なのは選択の自由として行動に伴うリスク(性病)は?」に即質問で回収しててよかった
・理解ある彼くんと努力が素直に反映される優秀な頭脳があれば…叶えうる理想やね…これは啓発というか励まされるための映画だから…これは物語だから…理想を形にすることから社会が変わる一歩になるんや…
・米映画、やたらフェミフェミしてんなとは思うけど中絶禁止法?やらが現実に出てきて論議に上がってる世界と対岸の事として見てるジャパンの己とは「マジさ」が違うんだろうな〜とは思った
・パッパ…よかったね…泣いた
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・賞レースガンガンなのは納得の良作品なんだけど若干心が凪なとこあるな…なんでだろと思ってたら
「だれもあんたになんかきいてないわ――それでパン粉まみれ」イルミナティはあわてて言いました「さて、こんどはちょっと元気がなくて、となりにきいてくれやしねぇんだだからいますぐ学校にもどったほうがましかも」でもぜんぜんかまわなかったのかも、とおもったので、イルミナティのおばかさん」とイルミナティはとてもれいぎ正しく言いましたやっと会話ができたので、かえってかなりきみょうな感じがしましたでも、ただのネズミなのがわかりましたまるでそのかたごしに心配そうにネズミを見て、とてもおもおもしく言いました「――ロブスターを替えて、同じように下がる」とグリフォンは二人きりになりました:「みごとなスープ!」
おれのすきな生物
カブトムシ:自分の体重の数十倍のものを持ち上げるらしい。パワーを感じる。それでいてクワガタと違って挟み殺したりはせず、樹上から払い落とすだけらしい。かっけえ。でも平地や虫カゴの中でクワガタと一緒にいると斬首されるらしい。ムシキングで海外の派手な奴らが流行ったけど、やっぱ国産のアレがシンプルでいい。「カブトムシ」はいるのに「クワガタ」はいないのが気持ち悪い。
カニ:パワーを感じる。葛西臨海公園でカニ網にかかったワタリガニを突っついてたら指挟まれてめっちゃ痛かった。外骨格の奴らは総じてパワーがあるのかもしれない。甲羅もなんかギザギザして攻撃的だし、掴むだけで痛かった。
おれはエビは割と好きだけどカニは食わない。似たようなもんだろと言われるけど、何かしら違うから好き嫌いが分かれるんだろうがよ。伊勢海老とロブスターも食わんから多分エビよりカニに近い。
タラバはヤドカリというのは有名な話だけど、それは彼らがカニぶった変態というよりは生物の分類の雑さを示しているだけのように思えてならない。カニがカニたる所以は脚の数じゃねえだろ。
ウナギ:水槽に入れても逃げ出すガッツがあるらしい。人間と馴れ合ったり飼い慣らされたりする連中と違って気骨を感じる。湿ってさえいれば地上でも結構な間生きていられるらしい。タフな生き物も好きだ。
生き物を飼うならおれのエゴに抵抗するくらいの気骨を見せて欲しいが、おれの支配に抵抗するような手間のかかる生き物は飼いたくない。
ウナギを食えばタフさにあやかれるというのが未だそこそこ言われてるが、なんと野蛮な発想か。実際栄養は豊富らしいが……
そしてウナギは美味い。ウナギ自身の旨さなのかタレと調理のなせる技か、はたまた値段に惑わされてるだけなのかはちょっと分からない。
クジラ:地球最大の動物はコイツらが占めてるらしい。デカくてかっけえ。陸に上がっておきながら再び海に戻る回りくどくて変態的な道を選んだ気骨を評価したい。それが進化か退化かは彼らが決めることだから、ただ変化と言ってきたい。
デカすぎて浜に打ち上げられただけで死んでしまうらしいけど、逆に言えば海に行かなければあそこまでデカくはなれなかった。
竹︰草とも木とも言い難いらしい。イネ科ってことで草寄りともとれるし、硬い幹?を持ってるから木ともとれる。強いて言えば竹は「竹」らしい。他人の勝手な枠組みに収まる事を許さねえ個性がおれも欲しい。
一度根を張ればドクダミのごとく無限に増殖して、家屋もブチ抜いたりもして、山林の管理者は竹に困ってるらしい。ガッツを感じる。クマムシもプラナリアも潰せば死ぬが、竹を倒すには枯葉剤を持ち出すくらいの覚悟がいるらしい。
人間の敵かと思えば、食料、食器、燃料、建材、武器、無限の可能性を秘めている。白熱電球のフィラメントにすらなった。無人島や異世界に持っていくべきはコイツかもしれない。
俺は「人間」と「それ以外」を峻別して、人間にはメチャ優しく、それ以外にはマジで何をしてもOK、ってふうにするのがいいよな、と思っていて、捕鯨もフォアグラも動物園も競馬も虐待もなんでもアリ!って立場なんすよ
なので、
ヴィーガンとか実際アホくさいし、俺はやらねえ!
クジラは高いから食わねえけど、別に好きにいくらでも食ってりゃいい!
と思っている
当然ロブスターがいくら苦しんでもなんとも思わん……というのは嘘で、実際個人的には犬猫よりロブスターのほうが好きなので、ちょっと同情はするんだが、だからやめろ!と思うかというと、これは思わない
俺は毎日カメのぬいぐるみ抱いて寝てるが、ウミガメを解体してくってる動画見ても、ちょっとツライと感じるだけ
人間がバンバン残虐に殺されてるのを流してると自分にもそのうち鉢が回ってきそうだが、他の動物ならべつにどうもならんでしょ
俺はさすがにそこについては人間の理性を信じたいんですよね
いやまあ、実際にはすでに人間がバンバン残虐に殺されたりしてるわけですが、俺はそれの理由が「動物をバンバン残虐に殺してるから、人間もOKだと思った」だってことはないと信じたい
それが俺の信仰だ
という感じなんですが、世のアニマルライツ冷笑人間って、もしかして、犬猫の虐待を許す覚悟がないのか?
あれよ
俺は動物愛護法が撤廃されて、どんな動物がどれだけ虐待されてようとそれだけでは罪にならない、って社会になってもいいと思ってるぞ
それは最低限のスジでしょうが
敢えてハッキリ言うと、私は痩せている。
容姿や風貌に関しては客観的な指標を出すことが難しいと思われるが、体型はある程度数値で示すことができる。
身長157.5cm
体重37.1kg
BMI数値14.96
参考までに
身長157.5cmの標準体重(日本肥満学会では、BMIが22を適正体重(標準体重)とし、統計的に最も病気になりにくい体重とされている)は54.57kg
日本肥満学会での判定基準においては、BMI18.5未満を低体重(痩せ型)としている。
以上を踏まえると、私の体型が標準体重からも、低体重とみなされるBMI18.5からも逸脱していることがわかる。
しかし、あまり認めたくはないが他の人よりも食べる量が少ないのは事実だ。
酷い時は36キロ台まで体重が減る時もあり、そうなると正直、普通に生活してても息が上がり苦しくなる。
幸い、月経は毎月きちんと続いている。
*
私は元々から痩せ型だった。生まれた直後は3000g近くある、健康的な赤ちゃんだったが、
幼稚園児時代から今日に至るまで、ずっと細い細いと言われ続けてきた。
幼少の頃はとにかく偏食で、少食だった。
給食で出されたものがほとんど食べられず、当時は食事を残すことや人に譲ることは禁じられていたため、幼稚園児時代・小学生時代の私に昼休みなどなかった。
皆が昼休みを終え、教室の掃除を始めても、隅っこでずっと給食と向き合っていた。無理なものは無理だ。そこで、見かねた教師が給食室の残飯入れまで私を連れて行く…というのが日常だった。
辛かった。
どうしても無理なのに、ワガママでやってるわけじゃないのに、悪いことをしているとみなされ、同級生からも怪訝な目で見られ、無理やり食べられないもの、食べきれない量のものを食べさせられることが、苦しかった。
中学校は弁当制だったため、強制的に食べ切るまで残されることはなかったし、母親が私が食べられるもの、量を毎朝作ってお弁当に入れてくれたため、昼休みをようやく手にすることができた。
食べられないものを無理に食べさせられるプレッシャーからの解放、他の人と同じように食事をとり、昼休みを満喫できたことがとても嬉しかったのを憶えている。
ところで、私は元・優等生だった。敢えて元とつけたのは、中学校2年生の終わり頃から優等生を辞めてしまったからだ。
小学生時代、私は教師の言うことに歯向かったことはないし、何か悪さをして立たされたことなどないし、他の人がやりたがらない学級委員長などの仕事も率先してやっていたし、行事にもきちんと取り組み、宿題をきちんと提出するのは当たり前、テストは毎回100点を取らないと気が済まなかった。
真面目でいなければならない、ルールは守らないといけないと、今の私とは比べ物にならないくらい、厳しく自分で自分を律していた。
それなのに。
これだけ優等生として振る舞い、教師や周りからも真面目な子だと評判だったのに、こと給食に関しては学校の誰も、私の叫びを聞いてくれなかった。
私はワガママを言うような子じゃなかったのに。
日々の生活でこうあるべきだ、こうしなきゃと考え、模範的であろうと努めていた私であっても、どうやら食事に関しては全く別の話のように扱われた。
今思うと…たとえ誠実であろうと、真摯であろうと振る舞っていても、それで周りからもてはやされていても、結局学校の誰も私の苦しみに耳を傾けてくれなかったじゃないか。
「あの真面目な子があんだけ給食に関しては難儀しているということは、何か問題があるんだろうな」という発想は浮かばなかったのだろうか?
もっと言うと、いい子ちゃんでいても誰も私のこと信じてくれないんじゃ意味ないじゃないか!
小学生の頃はそこまで考えが至らず、
今の私は…無理なものは無理なんだよ!仕方がないだろう!と開き直るし、当時の私にもそう言ってあげたい。
ここでひとつ私の大好きなTHE HIGH-LOWSの曲を紹介する。
苛立つ私の気持ちを爽やかに代弁してくれている曲だ。中学生時代に初めて聴いた時、「ホントになぁ…」と深く共感したものだ。
さて。
中学校に入ってからは、私の偏食は少しずつ解消され、食べられる量も増えてきた。
朝ごはんは食べられてもご飯一杯だけだったが、その分昼と夜に(自分としては)たくさん食べていた。
間食もしていたし、高校時代に至っては放課後、街へ遊びに行きマクドナルドやサイゼリヤ、時には一蘭で替え玉までしてガッツリと食べ、その後遅めに帰宅し母の作った夕食を食べる…
今の私だと確実に翌日までダメージを喰らいそうな食べっぷりだったが、胃を壊すこともなく元気に過ごしていた。
それでも痩せ型なのは変わらなかった。
現在よりはまだマシな気がするが、それでも低体重なことには変わりない。
当時好きだった人からは「細すぎ、もう少し肉をつけた方が魅力的だよ」と言われてしまった。
その言葉がズーンと響き、ダイエットならぬデブエットを始めたこともある。
当時は「糖質制限ダイエット」なるものが流行る前、ろくな知識もない私は「タンパク質が体重を増やしてくれるだろう」と何故かそう思い至り、いつもの食事とともに ご飯に納豆と溶き卵をかけ、それを二杯食べる…という行動をとった。
結局それは長く続かず、体型も変わらなかった。
当時何より悲しかったのが、内科のかかりつけ医が私の体型、体重を見かねて
「親御さんはきちんとご飯を食べさせてくれていますか?」と訊いてきたこと、
時々周りの人たちが母に向かって「○○ちゃん(私)にもっとちゃんとご飯食べさせてやらんといかんよ」と言ってきたことだった。
冗談混じりで「○○が痩せているから私が文句言われる〜」と度々母から言われたことがあったが、正直本当に申し訳なく思った。
母はちゃんとガッツリとご飯を作ってくれるし、私の体のことも理解してくれているのに。
これは私の問題なのに、私が未成年ということもあってどうしても親に矛先がいってしまう。
今はもう、私もいい大人なので「自己責任」としてみなされるため、ある意味気楽なもんである。
*
大人になっても、社会人になっても痩せ型なのは変わらないどころか余計に酷くなっていた。
冒頭で述べた通り今の私は体重が37キロ台しかない。最後に40キロを超えてたのはいつだっただろうか?
家族からは「そんなに体重が落ちるのはいくらなんでもおかしい、病院に行きなさい」と心配されてしまっているので、近々健康診断も控えているし…一度病院にかかり、相談してみようかと思う。
前の健康診断では体重を見た医師から「元々そういう体型ですか?」と問われ、「そうですね」と答えると、「それなら問題ないでしょう。我々は太り過ぎによる生活習慣病を問題視してますから」と言われ、それで終了である。
たしかに生活習慣病のリスクはそんなにないかもしれないが、低体重による他の病気のリスクはあるのに。
現に今、あまり体調が万全ではなく、冒頭でも触れたように息が上がり、変な動悸があり、仕事終わりには疲れ切って何もできないほど体力が落ちている。
*
私は何故いきなり4000字以上に及ぶこんな長文を書いたのか。
はっきりとした動機はないし、誰かに何かを強く伝えたいわけでもない。
ただのぼやきというか、私の個人的な振り返りに過ぎないところはある。自分語り的な側面が強い。
しかし、太っている人には
「太ってますね」「デブ」と面と向かって言ってはいけないという世間一般の道徳観念があるにもかかわらず、
痩せている人に対してはその観念が欠如している人があまりにも多いことへの疑問・不満、
好きでこの体型になったわけではないのに「過度なダイエットはよくないよ」「多少肉あったほうが男ウケいいよ」というクソバイスを浴びせられたことに対しての憤り、
そして…世の中には「痩せ型」であることに悩み、体重を増やしたいと本気で思い、あれこれ考え行動している人がいるということ、その証言。
このような感情で書き連ねたといったところかと思う。
世の中にはダイエットの情報や商品、摂食障害にまつわるあらゆる研究、考察が流布されているが、
もちろんTwitterで検索したら私と同じように体重を増やしたいと悩んでいる人は何名も見受けられたが、あくまで当事者だけだ。
正直なところ、「大した問題じゃない」とみなされていることを嫌でも実感させられる。
私は昔に比べて自分の体型が嫌だと思うことはなくなり、周りから色々と言われても「自分は自分」と、割り切ることができるようになった。
自分のことを認めてあげられるようになった。
上記で書き連ねた言葉以外にも、実はもっと心を抉られるような発言をされたことがあるが、敢えてここには書かないしそれで自分自身が揺らぐことはない。
ただ、その人のことを一生赦さないというだけだ。
しかし、やはり体重が体温並みになってくるとさすがに日常生活に支障がでてくる。
現在、平日フルタイムで仕事をしているが、こんな状態でちゃんとやっていけるのか?と不安な気持ちは拭えない。