はてなキーワード: 幽霊とは
鞄から携帯を出そうとしたら、隣に座っていた人のNexus7にぶつかって
あ、すみませんと顔を向けたら、知っている顔だった。
ひとしきり近況を交換したところで、知人が見せたいものがあるという。
内製アプリのプロトかなにかと思ったら、タップしたのは標準アプリの「ギャラリー」だった。
彼はちゃっかりリア充ぶりを見せつけるように時間をかけた後、伊豆で撮ったという一枚の寂しい写真に最終的に辿り着いた。
下のサングラスのようなアイコンをタップすると端末を持って周りを見回してくれと言う。
言われるままに端末を滑らすと、真冬の弱々しい太陽とくすんだように黄色く低い灌木が山裾まで広がった景色が左に流れ、
代わりにここまで撮影者を連れてきたのであろう山道が山の嶺の向こうまで続いて風景に変わっていた。
はっと後ろを向けば、ステンシルで型どられたような影法師が山緑を上下に分けていた。
行ったこともなく名前も聞いたこともないその場所に、あの時私は確かに立っていた。
「これを知ったら、一眼レフはもう持てないよ。」
ゴルフのドライバーの代わりに三脚を車のトランクに突っ込んでいたことを思い返せば、
その発言は驚きで、でも理由を説明されなくても分かる気がした。
ハードウェアじゃなくて完全にソフトウェアで実現していること、
内蔵された傾加速度センサがそれを可能にしていること、
撮影するのに時間がかかるけど、たくさんのカメラがあれば一瞬で出来ること、
ドイツのベンチャーが、放り投げるだけで360度の視界を撮影できてしまうカメラボールを開発していて
日本でも入手できることなど、たくさんの覚えきれない話に時間はゆっくり流れていく。
今のところ、これの唯一の欠点は足下が幽霊になってしまうことぐらいだねーと、
さっきは気づかなかった、臑の先が風景に溶け込んでいく自然さに笑った後、
「ところで、そのNexus4にも同じ機能入ってるはずだよ」
ぽろっと落雷が舞い込んだ。そうだ、この携帯、KitKat入ってた。
IoTって言葉がなんかバズって久しいし、iBeaconやAndroidWearが後二年ぐらいしたらフツーになってるからと
上司に力説されて、AndroidWearのデモアプリを動かすためによくよく調べず購入したけど
今のところマインクラフトPEのMODスキンをその場で確認できる自己満足くらいにしかなってないNexus4が
使い方はいたって単純。ランチャーアプリすら入れていない自分の環境では
ホーム画面を開いて、左下のカメラボタンをタップして、同じような位置にあるアイコンをタップして、
一覧の一番上の地球儀がサングラスを掛けたようなアイコンをタップして端末をまっすぐ前に掲げて「Align to start」という文言を見ながら待つだけ。
これすごいよ、と電車内を盗撮しまくっていたところを友人につっこまれ、
「じゃあ、開けた場所に行こう」と自分の予定も友人の予定も置き去りにしたまま、
全方位写真は撮影者が一番臨場感を感じると思います。楽しいです。
Nexus5と間違えてNexus4を購入した時は世界が終わったような感じがしてましたが、
最近、あんまり元気じゃないのに元気にしてないといけないみたいな状態で、
ちょっとつらいなと思っていたんだけど、
そんなとき、いいともが最終回だっていうので、普段ほとんど見ないんだけど、一応見ていた。
泣いてる人がたくさんの人の前に晒されて、それが見世物になってる
構図に見えちゃって、布団にくるまって早く終わってくれーって言いながらじっとしてたんだけど、
そうしたら、ピース又吉が出てきて、
「あのー、僕、子供の頃から、いろんなニックネーム付けられてきたんですけど、
一生大事にしたいと思います。お世話になりました、ありがとうございます。」
ということを言ってて、自分は似たようなアダ名付けられた時に、自分のイメージと違って嫌なんだけど、
周りが面白くなってるし、自分もそれに乗っかって楽しくしたほうがいい雰囲気だな、って思いながら
笑って受け入れてたけど、なんか心にぽっかり穴が開くような感じだったなって、そんな出来事となんだかリンクして辛いことを色々思い出してしまった。
それでスフィンクスってあだ名を会場は笑ってたけど、タモリのつけたスフィンクスって優しいアダ名だな、って思ったら目から涙がどーっと湧いてきてしまった。
心が弱ってたんだろうけど、なんで泣いたのかよくわかんないな。
【過程】
絵師は長い年月をかけて絵を練習し、CGを学んで絵師になった。
【ハリボテ】
A「テレビドラマに出てくる札束って、一番上と一番下だけが本物で、残りはただの紙切れらしいぜ」
B「ラノベみたいだね」
【本当の意味】
別人が書いているという意味ではない。
【ネーミング】
A「小説書きのような、真に優れた作り手の呼び方を考えよう」
B「うーん……、じゃあReal Outstanding Maker略してROMでどうだ?」
【Correct!!】
B「ええと……、ブロガー?」
「マイピクは作品を公開している方に限らせていただきます」と
プロフィールに注意書きしたのに、小説書きがマイピク申請してきた。
小説書きなのに字が読めないのだろうか……?
【共感】
音屋「ただ作品の欠点をあげつらうだけだし批評家は楽でいいよな」
小説書き「まったくだ。俺たち作り手側の苦労も知らずに好き勝手言うなよ!」
絵師&音屋「お、おう」
【FAQ】
【将来の夢】
【小説書きの正体】
今の40代が胎児や卵子だったころ、世界はもっと放射能と公害だらけだったよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%AE%9F%E9%A8%93
倒れる若者が増えてる(ようにみえる)のは、仕事が有能な個人に集積されすぎてるんだ。
誤字を訂正させにくるとき飴チャンを一緒にわたしてくれる優しい庶務のおばちゃんがいなくなって「何日までに自分でアプリで申請してください」ってメールがくるだけ。
死亡率も平均寿命も放射能だけでなく幽霊とかストレスとかゆとり教育による無知化といった、
他の目に見えない要素でも変動するものだから切り分けられない。
放射脳てのは目に見えないものをこわがりすぎる態度のことだよ。
不安てのは、客観的にみて、不安解消ビジネスにカネを落とす行為以外なにも生まないよ。かえって健康に悪い。
昼ごはんは班ごとに、6人グループで席を固めて、”いただきます”の号令で食べ始める。
5人が見守る中、俺はじっと俯いていた。
すると、となりの女子――クラスで人気のある女の子―が、「わたしの半分あげるね」と言って、分けてくれた。
当時の俺はとてもシンプルだったので、その一件以来、彼女のことが好きになってしまった。
そして、しばらく経って、告白した。
彼女は友だちと帰ることが多かったので、帰りのホームルームが始まる前に、廊下に呼び出して思いを告げた。
「君の事が好きなんだ!」梅干しみたいに顔真っ赤になってたと思う。
すると、彼女は、
「えーー、あれ?XXX君、ひょっとしてあの時お弁当上げたから、勘違いしちゃった〜〜〜!??
ねえねえ、皆きいて〜〜〜 」
唖然として立ち尽くす俺。
独身、(たぶん)30代の女の先生が、「はーい、皆、帰りのホームルームを始めます。でもその前に、今日はXXX君がしちゃったことを話そうと思います」
「YYYちゃん、さっき何があったのかな?」
前に出てくる彼女。
「さっき、XXX君がいきなり、私に『好きだ』って言ってきました。私は別に好きじゃないのにーw」
クラスは笑いに包まれた。
「YYYちゃん、それでどんな気持ちになったのかな?」ゲス顔で彼女に聞く先生。
「すごくびっくりしました。好きじゃないのに、勝手に想われてる、って気がついて、嫌な気持ちになりました。」
「はい、YYYちゃん、よく言えたね。XXX君、女の子を嫌がらせるのは、良くないことだよね。皆の前で謝ろうねーー」
俺のしたことはいけないことだったのか。自責の思いが頭をぐるぐる回っていた。
皆はニヤニヤしながら、俺が動くのを待っている。情けないことに俺は、理不尽さに歯を食いしばりながらも、彼女に頭を下げた。
「YYYちゃん、許してあげる?」「うん。いーです別に。今度からは気をつけてねーw」
かなりの時間が経っている。実際はここまでグロテスクじゃなかったんだと思うが、大筋のところはこの通りだったと思う。
特に、俺の顔を覗き込んだ先生の『皆の前で謝ろうねー』は決して忘れることができない。記憶に焼き付いている。きっと死ぬとき最期に思い出すのはそのシーンなんだと思う。
中学に上がった頃、体格ががっしりしてきたためか、、俺がいじめられることはなくなった。
でも俺は学校では幽霊のようにしていた。目立たないように、目立たないように、”フツウ”を装って生きていた。
だが次第に、こんなことではダメだ。と思うようになった。
そして俺は恋愛を勉強した。元増田(http://anond.hatelabo.jp/20140310070222)の言っているようなことは、今では全部知っている。
当時の彼女は、一人寂しくしている俺に「共感」して、「世話を焼こうとして」、俺に手を差し伸べてくれた。もちろん「特別な好意があったわけじゃない」。
でもその行為は俺にとっての「シール」になって、俺の中で彼女を好きな気持ちは(爆発するまで)発散されることはなく、大きくなってしまった。
廊下で告白したのも良くなかった。他の子のいる前で告白されるのは女子にとってはかなりの苦痛だったはずだ。
そもそも、クラスでいじめられていたポジションの俺に好かれることは彼女にとって決して「自慢できることじゃなかった」だろう。そして先生にも子どもの恋愛に対する嫉妬があったんだと思う。
だからあんなことになった。
コミュ症自体は、かなり良くなった(と思う)。でも気持ちを告げる、その時になって、固くなってしまう。声が震えてしまう。
フラれて関係が友だちに戻ってからしばらくして、「あのときのXXXさん、かなり怖かったですよw」って言われた。
ごめん。怖がらせて。忘れてくれるとうれしい。
もとから病弱だったが、このところ声にハリがなくなってきている。
病床でみるTVに、幼稚園の光景が映って、子どもたちがはしゃいでいるのをみると、おふくろは屈託なく笑う。
おふくろのために、俺は何ができるだろうか。
恋愛において、テクニックは大事だ。知らなきゃ手のうちようのないシーンは確かにあった。
実際の経験では多くを学べる。試行錯誤の後に成長を感じる。書きためたノートは3冊になった。
俺は俺自身のことを好きじゃない。どうしようもない。あの経験と自分自身は、一体になっている。だから、自分を好きになる努力なんて、できるはずもない。
それでも前に進まなきゃならない。
蛹の中身はドロドロの液体だから、そうしてもすぐには死なない。
やがてチョウは羽化する。
羽根を広げ、羽ばたこうとする。
けれど、絞られて細くなった下半身は、その重さに耐えられなくて、ぼとり、と落ちてしまう。
チョウも地面に落ちる。それでも羽ばたこうとする、でもやがて力尽きる。
俺も飛ぼうとしている。
だけど、相手と真剣に向きあおうとするほど、”裏切られるのではないか”という恐怖が強くなって、俺の顔を醜く歪ませる。
辛い。
でもこんな事で挫けている場合じゃない。
何度でも立ち上がる、そんな強さがほしい。
この時期になるとBGMがミクミクしてくるのが生理的にダメなのです。パンや弁当などでボカロのキャラクターとタイアップするのは全然OKなんですけれども。
そんな折に 「いまボカロ曲は過去最高水準にある」2014年2月39選 - ボカロとヒトのあいだ を読みました。普段ボカロ曲を敬遠している自分だけども、そんなに良いのかーと思っていくつか聴いてみました。
が、これで「過去最高水準」なのか……とやっぱり残念。全部が全部ダメじゃなくて、「惜しい」のもいくつかあったけれども。何が気になるかというと、ズバリ歌い方(発音)が普通の人間の歌い方に比べてすごく不自然なところなんですね。例えて言うと、pixivで、顔のパーツのバランスが狂っていたり人体のパースが微妙に崩れているような、違和感や気持ち悪さを感じる人物画を延々見せられる感覚、と言えば分かるかしら。
一応フォローすると「残念」なのは主にボーカルだけで、PVや伴奏などは、確かにニコニコ動画の初期の頃と比べたらプロ並なクオリティのものがすごく増えてきたと思います。でも肝心のボーカルの質が数年前とほとんど変わってないのはどうなのよ。これならVOCALOIDじゃなくて普通に人間に歌ってもらってほしいわ。ボーカル以外の要素は本当に良いのだから。例えば「米津玄師」名義で「ゴーゴー幽霊船」をリリースしているハチ氏みたいに、ボカロ曲としてではなく普通のボーカル曲として作ってほしい。
ちなみに、世の中のボカロ曲すべてが嫌なのではなく、これなら違和感なく聞ける、というのもあります。最近のものからいくつかピックアップしてみるけど(以下、オリジナル/カバー曲混じってます。あと厳密には「VOCALOID」じゃないのもあります)
世の中のボカロ曲のボーカルの平均レベルがこのくらいになってくれれば、もっとVOCALOIDが好きになれるし、BGMでじゃんじゃん流してくれても問題ないんだけどなあー
人間以外の何らかの知的生命体について考えてしまうのは、思考上のトリックに過ぎない。
「慣れ」と言ってもいいのだが、過剰な敷衍が発生してしまっている。
それは死後の世界について考えてしまうのと同様で、存在しないものについて思考しようとしている。
…という前提で言うと、そういった慣用的な思考を真似することによるフィクションというのは確かにちょっと面白いところはあって、
ただし、あくまでも物事の本質ではなく影のような存在であるので、囚われすぎると元々の目的を見失う危険性は常にある。
(どう転んでも「人間以外の知的生命体」はただの手段でしかない)
元々の目的?
フィクションの目的はエンターテインメントであってそれ以上ではない。(が、君は他人を楽しませようとは思っていまい)
メッセージ性は社会全体についての問題意識が土台として必要で、君にはそういう問題意識はないように見える(のでこの方向性はお勧めできない)
あるいは芸術家という位置づけならば、単に自分の衝動に従っていいと思うものを作ればよい。
だが、この道は険しい道で死屍累々。製作を続けることのできる財力と時間がなければ早晩潰えるし、個人資本ではクオリティの向上が見込めない。
死ぬまでがんばってもしょぼいものしか作れない。(新海誠みたいに自分で絵が描けるとちょっと違ってくるんだけど)
個人でできる創作活動とすると小説家がもっともコストパフォーマンスがよいのではないか。
狂った幻想をどんどん撒き散らせる職業としては漫画家なんかもいいんだけど、これも画力を要求されてしまう。
だいたい読んでいて頭痛がしはじめる作家で言うならば、新井素子や筒井康孝が君の考えていることに近い。
山田正紀なんかもかなりイカれている。
♯今日は4回目の命日。虚無感は未だになくなりません。
平成23年5月22日、午前8時30分(推定死亡時刻)、あの子は逝った。
2人と猫2匹で同棲していた分譲物件でタオルをドアノブにかけた非定型の首吊りによる縊死だった。
前日に喧嘩をした。予感はあった。
しかし、その前にサイズを測っておらず、違ったベッドマットを持ってきてしまい、
どうしよ~と彼女に報告した事。
要領が悪いと指摘され、いじける僕にあの子はキレた。
最後まで最低な人だったね。飼ってる猫2匹連れて1晩でいいからこの家出て行って。さよなら」
僕の中で、ベッドマットを交換してあげる事が好意で、
その好意は結果が伴っていないため、また押し付けがましいものを提案してきたのに、結果が失敗していた。
と、いうやり取りが面倒で面倒で仕方がないみたい。
僕は誠意のない謝罪を繰り返すばかりで、あの子の心を動かす事はできなかった。
僕は一泊分の簡単な荷物をまとめ、翌日に戻ってくるつもりで家を出た。
だけど、出掛けの「さよなら」がとても気がかって、
車をなかなか発車させることができなかった。
その後、実家に戻り、1晩を明け、朝一で彼女と住んでいる家に向かった。
家や携帯はかけてもやはりでない。
家の覗き穴から見るも、部屋の様子は伺えない。
よかった生きている。
僕は安心してその日予定されていた自治会の行事、マンション前の草むしりに参加した。
▼あの子が逝ってしまい、中身が入っていない器を見つけた時の話。
11時頃に草むしりを終え、帰宅し、彼女に精一杯謝って誠意を伝えよう。
意気揚々と家のドアを開けた。
距離は遠いが、明らかにあの子が不自然な体制でドアに寄りかかっているのが見えた。
見た瞬間にすべてを悟った。
2年経った今でもずっと脳裏どころか、記憶のとっても浅い所に焼き付いている。
ショックだった。これほど衝撃的な場面に僕は出くわしたことはない。
首吊りの縊死といっても、キャベツ太郎の景品で送られてきた景品ハンドタオルをロープのように使って首に巻きつけ、ドアノブでしばっているだけ。
ちょっと暴れたらすぐ取れるじゃん。こんなの。
でも、足掻いた形跡はない。彼女の中身が入っていない器は、口は半開きで眼の部分は半開きで、眼球はすでに乾いていた。
飼っている猫2匹があの子に寄り添って寝ている。
それまでは日常的な光景だったのに、この瞬間だけはあまりにも非日常的な光景すぎた。
そばには流れっぱなしのiPod。今も曲が流れている。
また、そばの椅子の上にはdocomoからの請求書に殴り書きしたような番号が書かれていた。
それはあの子が持っていたメインバンクの口座番号と暗証番号だった。
ここからは気が動転していたので、思い出せることを書くが、
「呼吸はありますか」
「脈ははかれますか」
「心臓マッサージを隊員が駆けつけるまで続けてください。」
あの子があの子であったなら、何も考えずに言われたことをやっていただろう。
でも、もうあの子は逝ってしまい、ここにいるのはあの子の器なだけなんだ。
足には縊死でなくなった方の特徴の斑ができていて、手もギュッとこぶしを握っていて開かない。
死後硬直まで起きている。
生きている人間ならば、押すと跳ね返りがあり、多少の息の返りがわかるはず。
彼女は穴のあいた風船のように押せばしぼむ、押せばしぼむの繰り返しだった。
まったく入っていく気配はない。
と、いうか口の中が乾きすぎている。
もう、誰がどう見てもあの子は器だけ残して中身がどこかへ飛んでいってしまったんだ。
救急隊員が到着し、人工呼吸を代わってもらい、その光景を見つめながら僕は天を仰いだ。
まだその辺にいるのか?いるのなら最後に話したい。
そんな馬鹿げた事を考えていた。
救急隊員があの子をストレッチャーに乗せ、マンションを出る時も心臓マッサージをした。
野次馬(失礼な言い方かもしれません)が集まっていました。
あの子に白い布が体にかぶせられていたのですが、顔はそのまま出ていた状態でした。
僕はあの子はもう、死んでしまっていて、そんな死に顔を野次馬に見せたくない、との一心で
白い布を顔までずらしました。
しかし、救急隊員は「まだあきらめちゃだめです!」とか感情論で
白い布を体にずらし、再び彼女の顔はあらわになった。
中には小さい子供や、親しくしていただいた近所の住人がいたので、
彼らはあの子を助けるつもりでいてくれた事には感謝しています。
しかし、どう見てもあの子はもう、あの子が入っていた器だったんです。
もう2年以上経って、もうすぐ3年目を迎えるのか。
そんな気は全然しないな。
命日が怖い。3周忌の予定も立てれる自信がない。
あの日以来、いっぱい泣いたけれど、四十九日を境に泣くのをやめた。
でも、本気で笑う日は少ない。
すべてあの子がいたら、の仮定でしか話を考えられなくなってしまっている。
だけど、こんな悲嘆すること言いながら、
都合いいよね。
嫁さんには大方の話はしたけれど、こんな詳細までは話していません。
でも、気落ちした私を心底支えてくれました。
大切な人が命を断つ。
あまりにも彼女の入った器を見つけたときのショックが大きすぎて、
いろいろな自死遺族の会に参加させてもらったけれども、
皆さんこもごもにケースが違う。
似たようなケースの人なんているようでいないと思っている。
また、社会に出ると毎日のように人身事故、自殺のニュースが目に入ってきます。
その遺族の方達に自分と同じような感情を持っている人はいるのだろうか。
自分の価値観が大きく崩れて、自分も首吊りで死ぬことが一番最良の方法なんではないかと
感じてきてしまっている。
後を追いたいわけじゃない。疲れたんだ。
あの子に会いたいけど、もう二度とあの子に会えないのはわかっている。
でも、少しでも、あの子が逝くその時にどんな感情だったかを知りたい。
少しでも死にたくないという気持ち、があったのか。
きっとなかったんだろうなとは思う。
hideさんが亡くなった方法もあの子と似たようなものでしたが、
それを真似したわけではなさそうです。
とりわけYOSHIKIさんが好きだったから、あの子に一度会わせてあげたかったな。
実行の際にはオムツも履いていましたし。
それほどまでに死に執着していたのか。
話代わって、死後の世界なんて、本当にないと思っている。
昔は怖い話系のシリーズを読むと、怖くて一人でトイレも行けない僕だったけれど、
あの子が逝ってから、その類への恐怖というか、関心が一切消えた。
人の死というのは、電気のスイッチと同じで、OFFになると消える。
今にも起きてきそうなほど、綺麗だったけれど、
何より、火葬場での変わり果てた姿を見たとき、あの子はもう、あの子の器すらも失ったんだと確信した。
あの子に会えるならどんな形であれ、出てきてほしいけれど、
僕の夢にも一度も出てこない。
そんなあの子が例えば幽霊とかで出てくる要素がなくなってしまった。
事情を知らない火葬場の人から「とてもお強い綺麗なお骨です。どこかを病んでいたようには思えません」と、
あの子の器だったものの骨壷を持ったときの違和感が今でも手に残っている。
しかし、そんな僕だからこそ、葬儀に至るまでの間、本当に僕の周りに迷惑をかけた。
僕の両親・友達・近所の親しい方々が心配し、泊り込みで支えてくれた。
葬儀屋の方々も感謝してもしつくせないくらい、落ち込んでいる僕を支えてくれた。
あの時の恩を返そうと、今では笑顔を作って「僕は大丈夫。幸せに過ごしている」を見せている。
葬儀の際はその遠い親戚から相続はどうするんだと搔き立てられました。
これまで大変お世話になりました。
と、言われました。
正直、あまりに辛い出来事から逃れたいが為に、すべてその遠い親戚に渡したかったのですが、
遺言書の通りにするのが一番だ、という周りの方の勧めであの子のすべてを僕が相続しました。
そのすべて、には今僕が住んでいる分譲マンション並びに預金口座も含まれています。
また、その中にはあの子が僕と出会う前にあった出来事のすべてを遺しています。
これまで育った経緯の写真。
その中でも一番心に響くのが、幼少の頃のあの子の親に大切そうに抱きかかえられている写真、
何も捨てられません。
また、この遺産を見るにあたり、ますます自分があの子を殺してしまったんだ、という気持ちが強くなりました。
今の妻に、もしこの遺産を見つかったならどう説明すればいいかもわかりません。
再度似たようなことを書きますが、世の中、毎日のように自殺のニュースを目にします。
見る分にはいいんです。社会は広いし、いろいろな人がいますから。
身の回りの日常会話の中でも「○○さんが自殺したの知ってる?」なんて話題を振られたりする。
でも、今はこんな会話を自分に振られると、一気にあの子の事がフラッシュバックして、
いてもたってもいられなくなる。
でも、社会とはそういうものなのかもしれないけれど、死こういった会話をする事がとても辛い。
けれど、その社会から逃れた生活をすることなんか出来ないし、仕方ない事なのかな。
ドアを開けて一目でわかったあの子の変わり果てた姿。
その直前までは生活音を聞いていて、生きていたであろうあの子の物音。
皆、こういう感じなのかな。
だとしたら、少しホッとする。
(追記 1/18)
多くの方に読んでいただいたようで、ありがとうございます。
あの子の事を書くにあたり、自己陶酔は確かにしているかもしれません。
僕がきっかけではなく、あの子はいずれ死を決めていただろう、とも心のどこかで思ってはいます。
でも、思うところは僕が殺してしまったに変わりありません。
しかし、時は最良の薬なのですね。
この文はあの子が逝った翌月あたりにEvernoteに書き殴っていたものに
そんな事ばかりしか書いていませんでした。
それは自分の希望であって、多くのコメントでいただいているように、
結婚し、子供を授かり、育てている以上、妻と子に人生を捧げるつもりで生きます。
上記では死んでしまいたい旨、書いてしまいましたが訂正します。
僕が一番わかっていたはずの事を忘れていました。
あの子の納骨が終わった日の夜、
15年前に付き合っていた人から10年ぶりくらいで連絡があり、それが今の妻になります。
地震発生後しばらく電話をかけていたのですが、繋がらず、心配していました。
妻曰く、当時はバタバタとしていて自分の着信に気づいたのですが、後でかけよう、と
思ったタイミングが約4ヵ月後、あの子の納骨の日だったらしいのです。
また、あの子とは話し合いの下、結婚も考えていて子作りもしておりました。
期間にすると約3年くらい。
あの子とは付き合いが長かった為、次のステップへの良いきっかけになると思っていました。
しかし、あまりにできなかった事から、あの子は産婦人科で不妊の検査、
自分の精子が極端に少なく、子供は望めないかもしれない。と、いう話をされていた。
とりあえず、僕は僕を捨て、あの子になったつもりで精一杯、死ぬまでこの世を生きてみせます。
ありがとうございました。
昔の友だちが死んだ。実は友だちと言うほどでもない。実際には知り合いですらない。同じ時期に、インターネットの同じようなコミュニティ(というか界隈)で活動していて、複数人のチャットで2,3回話したことがあるぐらいの間柄だ。でも、その界隈で、すごい近い距離でサイトの更新をしたり、同じような元ネタから二次創作をお互いにしたりしていて、きっと、自分が向こうの事を意識しているように相手も自分の事を意識してるんだと勝手に思ってた。いつか、一緒に何か企画かなんかやりたいと思ってた。それから、時間が流れて、お互い、インターネットで、自分をさらけ出すような身を切るような文章や漫画も書かなくなって、そして、活動してる界隈も遠くなってしまって、たまに観に行くくらいになってしまって。そして、死んでしまった。それがなんだか胸の奥に刺さったしこりみたいになってうまく動けない。すごく怖い時に感じるような、胸の奥から来る寒気がどうしようもなくなってる。多分、いつか、また、合えるとどこかで思っていて、昔みたいにネットの片隅で気持ち悪いものを作って、直接の交流はしないでも、どっかで触れ合ってるような、そういうことが出来る時がいつか来ると思ってた。寂しいという感情に近いけれどもそれとも違う。過ぎ去ってしまった時間は戻らないし、戻せないし、あの、なんか楽しかった時間というのは、もう戻って来ないのだというのを、知ってしまったんだと思う。たとえ彼が死んでいなくても時間は戻せなくて、そして、これからも会う事はなかったのだと。小学校や、中学校や、高校時代の友だちがたとえ死んでもこういう感情は持たなかったと思う。かつて、場があって、そしてその場というのは自分や彼が作っていて、そしてその場が失われて、失われてしまったら、もう戻らなくて。今、彼は、物理的に死んでしまって、そして、もうその場が作られることはないのだけれども、でも、同じように自分も死んでいるのだ、と、この文章を書きながら、分かった。あの時の自分は死んでいて、あの頃、テキストサイトとか、テキッ娘とか、敵ッ娘、とか、不適ッ娘とか、ダークマターとかテキストサイト選手権とかそういう内輪向けの祭りを、ずっと続けてたかったけど、でも、そういうのはいつか終わって、それが出来なくなってしまった時点で、みんな、その場を作っていた死んでしまって僕も死んでしまって、でも生きてるから別のサイトや別の界隈や、リアルで生活をするけれども、失われて、ああ、駄目だ。悲しい。それが何が悲しいのか分からないけど悲しくて仕方がない。自分は冥福を祈るというのが苦手で、というか、もう、分からなくて。それは、死んだら人は無になると思っていて、幽霊も神様もいないと思ってて、でも、冠婚葬祭というのは必要だというのも分かる。それは、生きている人間の為のものだからだ、生きている人間が、死んで失われてしまったものにケリをつけて、過去のものにして、今の生活から遠ざけてしまって、思い出の中にしまいこむのに必要な儀式だからだ。だから冥福を祈る。死んだ人間の為じゃなくて、生きている自分の為に。でも、自分はそもそも人とのかかわりが苦手で、出来るだけ友だちを作らないようにしていたし、誰もいなくても生きていけるようになりたいと思っていて、だから冥福を祈るというのが、わからない。だって元々遠くに会って、これから会う予定のない人が、永遠に会えない人に変わってしまっただけのことだから。でもそれが今とても辛い。過去のものにするには、彼の作ったものがインターネットの海の中に溢れていて、そして、これからも残り続けるだろうし、あちこちのサービスやコピペブログに転載された文章や絵は、そのサービスが終了したり消えていく度にさざ波のように少しずつ亡くなっていくだろうけれども、でも、多分なくなりきることはない。リアルな、リアルというものもよく分からないのだけれども、区切りという、死があるわけではなく、ただゆっくりと今までに作ったものが見えなくなっていって、そしてそれが新しく更新されることがないというだけのことで、それがどういう意味になるのか、やっぱりよく分からない。楽しい事がしたい。インターネットの死は、失われるという事ではなく、時間が止まったままになる、という事なんだと思う。なにか、止まってしまって、自分も動けなくなってしまって、だから冠婚葬祭をしなければならないけれども、どうやって冥福を祈って良いのか分からない。辛い。
アメリカの反対を押し切ってまで強行した理由がどう考えてもよくわからない。
少なくない海外メディアは「中韓への挑発行為」と捉えているようなのだが、それも考えづらい。
多分、おそらく、合理的な理由は見つけようがないのだ。
思い出して欲しい、安倍首相が首相官邸に入らないのは幽霊が出るからだという噂を。
実際、首相は幽霊に取り憑かれてしまっているのではないだろうか?
この幽霊を祓うための手段が、靖国神社参拝だったのではないだろうか?
幽霊が存在するかしないかは問題ではなく、「幽霊を見た」という事実に添うべきなのである、と。
日本国民たる我々のなすべき事も、幽霊の実在について議論することではあるまい。
この手紙をどうはじめたらいいだろうと蝉の鳴き声もかまびすしい夏からずっと考えていましたが(伝えるって本当に難しいです)、結局気の利いたすばらしい挨拶が見つかりません。ですから、はじめまして、小鳥さん、とだけわたしはいいたいと思います。あなたに伝えたいことがあって今回このお手紙を書くことにしました。突然のことで申しわけありません。
*
あなたはまず思ったことでしょう。お気に入りの自転車のかごに放り投げられた、飲み口にまだ内容物のこびりついている中途半端につぶされた空き缶みたいな不躾で無礼なこの恋文を送りつけてくるわたしが誰なのか。
わたしは現在36歳、独身、職歴なし(アルバイト歴はあります)、童貞、アニオタ、精神のほうをわずらっており、精神障害2級、まったくありがたいことに障害基礎年金も受給させていただいており(2級。786,500円/年)、日々社会復帰に向けて努力している(作業所で時給200円で働いております。内職系の作業です)日本に確実に数%は存在するありがちな中年男性です。若いころのあだ名は塩昆布です。キモオタAAを想像していただければおわかりになると思いますが、この世の悪意を集中的に浴びてきたせいか皮膚が月面のクレーターのようになってしまっており、細身という点ではまだ社会的に許容されうる生物なのかと思ってはおりますが、実際かなりの醜男です。野良猫に般若の面をかぶせて火をつけてみれば、野良猫はおそらく面を残してなに食わぬ顔で逃げていきますが、ちりちり灼かれていくその面に残った放火魔の殺意と怨念と哄笑こそがわたしの顔からにじみ出ているといってもよく、わたしはそのような人間とは正反対の人見知りでおとなしい男であるにもかかわらず、買い物先のイトーヨーカドーで出会った幼児には顔を見るたびになにか恐ろしいものでも見たかのようにびくっと反応され、かならず泣かれてしまうのです。
小学生のころから容姿をからかわれいじめられてきたわたしは他人に自分の姿を見られるのが恐ろしく、友人も恋人も作らず、いや、作れずといったほうが正確でしょうか、人生に絶望し、引きこもり、勇気を出して面接に行っては人事担当にお祈りされ、ついに自殺未遂をしたあとでは、家族にもうなにもするなといわれ、こうやって小鳥さんのことを考えて毎日すごしています。小鳥さんの腋を見ると、わたしのあのひからびてしまった棒状の物体(その先は言う必要ないですよね)も突如として復活し、さらさらとしたそれでいて粘性のある透明な液体が山奥の新鮮なわき水のようにちょろちょろとあふれてきて止まりません。そんなしょうもない中年のわたしですが、小鳥さんは「わたしでしていいよ(・ω<)」といって顔をほんのり赤らめほほえんでくれます。ああ、なんて天使なんだ!
「小鳥のやつはさ」と鉄男さんは眠たげに足を組むと、たばこに火をつけていいます。「遊馬のことが好きなんだ。だけど遊馬のやつはED(勃起障害)でさ。超越論的跳躍(かっとビング)しすぎた副作用らしいけど。小鳥も酬われないよな」
「わたしは遊馬のことが許せませんよ。小鳥さんを情熱的に愛撫すべき立場にいながら、なめらかな肌といやらしい声と絶妙なチラリズムの天使を無視して、蜜蜂のように扱ってはしっしっと追い払ってしまう」
「そこなんだよ。たしかに処女膜から声は出ていないが、間違いなくあいつは処女だぜ。でも遊馬はEDなんだよ。詰みだよ、詰み。チェックメイト。E、N、D」
「EDになってから幽霊(アストラル)が見えるようになったとか」
「霊感商法ってやつだよ」
「まったくひどい!」
「その通り」鉄男さんはそういうと、たばこを排水溝にはじき飛ばして立ち上がり、ふうとため息をつきました。その背中がとても男らしかったです。
鉄男さんは遊馬と親友という噂でしたが、実はそれほどでもなく、微妙な距離感を保っているらしいですね。ちなみに鉄男さんには璃緒さんという統合失調症の未来の恋人がいるらしいので、小鳥さんには興味がないということでした。よかった!
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わたしは小鳥さんの魅力を語りたいのです。
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まずは腋です。小鳥さんはことあるごとに片手を突き上げてその美しい腋を全世界に全宇宙に見せつけています。小鳥さんの腋のくぼみ方はミケランジェロも参考にしたといわれるほどの芸術的な曲線美で、腋汗が溜まりやすく、舐めると南国の風の爽やかさとやや辛めの塩味が感じられてとても美味です。安い発泡酒を飲みながらちびちび舐めるのがとくに好きで(まずい酒のほうが腋汗のうまさが引き立つ)、まるで食べて応援することによって日本社会が皮肉っぽくも明るくなるように、わたしの鬱々とした気持ちも小鳥さんの腋汗によって応援されるようなのです。鬱病患者に「頑張って」は禁句だと世間はいいますが、それは世間のしょうもないオッサン、オバハンからの善意という名の嫌がらせについていうものであり、火星の砂粒やミトコンドリアすら愛するような天使からの励ましはわたしを勇気づけてくれます。「増田くん、頑張って!」「いいですとも(`・ω・´)」
鉄男さんは小鳥さんの腋について以前こうおっしゃっていました。
「小鳥の腋はすげえよ。おれが小鳥に決闘(デュエル)で勝てないのはあれのせいなんだ……」
「というと?」
「見たらわかるだろう? あの肉感的な陰翳、くぼみに渦巻く官能的な黒い風。あの腋が生み出す磁場はファルスを屹立させる特殊効果を持っているんだ。おれは決闘に集中できなくて、それでどこに意識を集中してるかっていったら……」鉄男さんはちっと舌打ちすると、それにつづくことばをためらっているようでした。
「なるほど。でも鉄男さんは璃緒さん押しなんですよね」
「もちろんそうさ。璃緒さまは小鳥とは違うよ。璃緒さまは性的なものを超越していらっしゃるからな。でも小鳥はやばい」
「ですね」
「小学生のころ、夢のなかに小鳥が出てきてさ、『鉄男くーん』とかいって頭の上で手を振ってるんだよ。まだ毛も生えてこない腋がちらちら見えてな。そしてあの磁場がおれのファルスにとりついて、シェイクスピアの生み出したあの世紀のアホ、リア王とでも比べればいいのか、情けないことにおれは下着を濡らしてしまった! とんだ娼婦だよ、あの女は!」
「でも、その……、よかったんでしょう?」
「まあな」鉄男さんはそういって照れくさそうにくすくす笑うと去っていきました。こちらを振り返らずにあばよと手を振ってよこしたのが夕陽の逆光のなかで見えました。
おそらく小鳥さんの腋からはなんらかのフィールド魔法が自己言及的に発動していると思われます。腋が下半身に絡み付いてくる、ちょうど異星人の触手が美少女戦士をしめあげて離さないように。そこでわたしは腋地獄という概念を提唱しました。小鳥さんの腋はバウムクーヘンのように七層構造になっていて、そのそれぞれが自律的に動いています。そして腋全体も螺旋状に回転していて、ちょうどウロボロスの蛇のように、リビドーが第七層の腋まで達すると今度は第一層の腋に連結され、循環され反復されることによって小鳥さんの腋地獄はさらに磁力を増すのです。もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼、負ければ負けるほどやめられないギャンブル、呑めば呑むほど呑みこまれるアルコール。そうです、小鳥さんの腋とはあらゆる依存症のメタファーなのです。小鳥さんの腋はやめられない。前立腺の指圧師! 快楽の大銀河!
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つぎに太ももについてです。これについても新概念を導入しましょう。それは不可視のパンティです。あるとき鉄男さんはつぶやくようにいいました。
「なあ、増田ちゃん」
「なんです、鉄男さん」
「お前、見えてるパンツをどう思う?」
「どうってどういうことです?」
「いやな、おれくらいになると見えてるパンチラに興奮しないんだよ。わかるかな。見えてるパンツはただの布だよ、増田ちゃん」
「メモっておきます」わたしはあわててオタク風の黒いリュックサックから黒い手帳と黒ボールペンを取り出しました。「でも、パンチラとは見えるからチラなのでは?」
「そこなんだよ、増田ちゃん」鉄男さんは少々呆れたように笑います。「パンチラとはいうが、チラってしまえばパンチラではないんだ。パンチラとは一種のパラドクスのことなんだよ。パンチラとは非パンチラのことだ。おれたちはその見える“かもしれない”という可能性に人生をかけているのであって、布に人生をかけているわけではないのだ。見えそうで見えない、でもよく見ると見えているかも、いや、見えていない。それがパンチラというものだ。わかるかい、増田ちゃん」
「うーむ。なるほど。あ、すみません、鉄男さん。このボールペン、インクが出ないのでメモれません」
「書けないボールペンとな!」そういって鉄男さんはぼくの手からボールペンを引ったくると大事そうにズボンのポケットにしまいました。「見えないパンティこそ美しい。書けないボールペンを使えば時空の果てでも恋文が書ける。そして璃緒さんはうるわしい!」
わたしは小鳥さんのパンティを見たことがありません。あ、どうか勘違いしないでください。わたしは見たいと言っているのではありません(それでは変態さんですね)。見えそうな状況でも見えないということが小鳥さんの魅力だといいたいのです(しかし絶対に見えていないともいいきれません)。小鳥さんはパンティを見せないことによって、自分の存在が布へと矮小化されてしまうことを一種のヒロイン的生存本能によって防いでいるのです。布ならば手に取りじっくり見て分析し解釈し考察することもできますが、小鳥さんはそのような研究対象から逸脱した、科学的な尺度によっては測ることのできない超越者だということなのです。小鳥さんの太ももには慈悲があり永遠の平和がある。そこにわたしは神を見たのです。
*
小鳥さんはとても明るく元気でまるで熱帯雨林のように表情豊かな方です。明るい陽射しのなか丘の上に立ってこっちに手を振って鈴蘭のように笑っている顔も、土砂降りのなか服をびしょびしょに濡らして蒼白になって泣いている顔も、誰かさんのテストの点数のように真っ赤になって恥ずかしがっている顔も、遊馬を心配している顔も、感じている顔もすべて素敵です。そしてその表情のすべてが一回きりのもので、ふたたび同じ表情が現れることはありません。小鳥さんの表情は数によって大小を示せるようなものではなく無限そのものなのです。これは誇張でもメタファーでもありません。小鳥さんの顔は見ていて飽きません。
「増田、おい増田」誰かと思って振り向くと雑居ビルの影から鉄男さんが呼んでいました。
「鉄男さん、どうしたんですか。てか、そんなところでなにやってるんですか」鉄男さんの首にはひもがかかり、その先端にカメラがぶらさがっています。
「いいからこっちこいって」あの穏やかで紳士な鉄男さんがいつになく興奮しています。
雑居ビルの影に隠れると、わたしは十数枚の写真を渡されました。そこには璃緒さんが写っていました。
「美しいだろう?」
「きれいなひとですね。で、なにやってるんですか」
「これから璃緒さまが病院に行くんだ。ここはその通り道になってるってことだ」渡された写真をよく見てみると、どの写真も雑居ビルの薄汚れた壁と特徴的なお掃除ロボットが写っていて、まさにこの場所だとわたしにもわかりました。璃緒さんは写真ごとに異なった服装です。
「璃緒さま、今日はどんなお洋服なんだろうな」
「鉄男さん、これってストーカーってやつでは?」
「おれには愛がある!」
璃緒さんの無尽蔵の洋服が鉄男さんのコレクター魂を刺激し惑わせ堕落させたように、わたしも小鳥さんの表情に吸い寄せられ離れられなくなってしまいました。でもこれは愛なのです。
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小鳥さんの声はわたしの敏感な部分に海底トンネルのようによく響きます。よくあるきんきんした味気ないテンプレート的萌え声ではなく、ロリであるにもかかわらずエロいという特徴があって、少女として見ると大人っぽく、大人として見ると幼女っぽいという絶妙なバランスとなっております。尿検査では中間尿を採取しますが、それと同じようにわたしたちが最も注目すべきなのは、少女でもなく大人でもない、その境界線を肉付きのいい脚でまたぎ、ふくらみかけの乳房を突き出しながら居心地悪そうに立っている半熟の女の子なのです。小鳥さんの声はまさにその時期を繊細に表現しているいってもよく、この世でもっとも貴重な声のひとつであるとわたしは断言いたします。
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最近の女子は料理が作れなくなってきたといわれています。そんな現代社会ですが、小鳥さんは決闘飯(デュエルめし)を作ることができるとても家庭的な素敵女子なのです。小鳥さんの体液、通称小鳥汁がしみ込んだ決闘飯とはいったいどんな味がするのでしょう。鉄男さんによれば、小鳥さんの決闘飯は「バイアグラの味」だそうです。
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ああ、どうしましょう、くだらないことを書いてしまいました。申し訳ありません。わたしはどうしたらいいのでしょう。生きているとつらいことばかりです。すべてがむなしいです。幼女を見てもかわいそうだと思うようになってしまいました。こんな不完全な世界の重圧をその春風のような無垢なほほえみで受け止めなければならないなんて。世界はグロテスクで悪臭を放っていますが、迷信のごとき科学技術や洗練された(!)法治主義社会がたくみに見せかけの清潔さで覆い隠してしまいます。それは合成着色料のようで、すべてはフォトショップ的ともいえる一種の嘘で塗り固められていて、どこにも真実はなく、しかし虚偽すらなく、ただひたすら軽薄で浅薄で希薄で、原初の一点から湧き出たあの宇宙的エネルギーはどこにいってしまったんだと、この時代の無意味さ、無価値についてわたしは考えるわけですが、わたしのそんな行為ともいえない似非行為すらまったく意味のないことで、わたしが死ねばすべてはどうでもよくなるのだと思ったりもするのです。
しかし自殺しようかなと思ったときに毎日小鳥さんがわたしにほほえみかけてくれます。「増田くん、超越論的跳躍(かっとビング)よ!」なるほど、たしかにわたしの眠っていた愚息は雪融けのように感動的な反応を見せ、天上の世界(アストラル界)を目指してぐんぐん伸びていきます、蛇玉さながらに。そしてわたしは今日も生きようと思うのです。EDになるまでは。小鳥さん、あなたが存在していてくれてありがとうございます!
小学生の頃、父親の車にレンズマンシリーズが何冊か置いてあり、遠出の際に何度か読もうとしてみた。トリスのような表紙絵と、車酔いがさらに酷くなった思い出しかない。「我はロボット」も図書館で読んでみたが、古いなと思っただけだ。
中学のときに新井素子にあった。衝撃的な文体だった。今となっては遠の昔に当たり前になった口語文体だが、それでも「二分割幽霊奇譚」だけは、読み進んでいくうちに読んでいる自分の感性が変わっていくのが分かる衝撃作だった。「ひとめあなたに…」も人気があった。
高校の級友にオタクの奴がいて、なぜだかソノラマ文庫を定期的に貸してくれるようになった。
最終的に全部で100~200冊くらい貸してくれたんじゃないだろうか。ちゃんとお礼を言えていないのが心残りだ。本当にありがとう。
その中でとても面白かったのは、
次点で
だった。クトゥルフ神話に初めて触れたのは、トレジャー・ハンターシリーズだったと思う。
それらの中でも特別に抜きん出て面白く、その後十年程は折に触れ思い出すことになったのは、
だった。エヴァよりも先に「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の曲を教えてくれたのは、この作品だった。よく知らない車やバイクの描写によく分からないながら痺れ、ほどよく格好良く、ほどよく格好悪い大人に憧れ、スーパー高校生の活躍に酔い、とても寂しい結末に締め付けられた。誰か映画化してほしいと切に望んだ。今でも、シミュレーション研究部(シム研)が完成途上の地球儀型・気候・経済・紛争シミュレータを説明するシーンは、思い出すといいものだと憧れる。
ソノラマ文庫は今で言うライトノベルなんでしょうが、当時の自分には随分上な感じで、今思えばほどよく良かったのだろうと思う。
星新一も読んでみたがあっさりとした大人の感じで、子供の自分には物足りなかった。多分40代になった今の年齢なら、酒とつまみを片手にゆっくりと楽しめそうだなと思う。
この辺りからハヤカワSFを読むようになった。最初は確かに難しかった。読み終わると疲労していたと思う。
「宇宙の戦士」は当時はつまらなくて、途中から飛ばして読んだ。30代後半になって手に入れたので再度読んだら面白い。世界の紛争地域のニュースを興味深く見れるようになったら、面白く読めるのではないだろうか。そういう意味では面白く読んではいけない本なのかもしれない。
その他諸々読んだが、せいぜい100冊程度だろう。その中でも唯一、もっと早く、もっと子供のころに読んでいたかったと思ったのは
「エンダーのゲーム」
だけだ。(大人になってからでもかなり面白いが、子供のころに読めていれば、自分はある種の人たちとどう闘えばいいのか随分と救われたかもしれない。ただ子供が手に取るには、昔の表紙はうむむだった。しかし今では昔の表紙版が欲しいぃ)
後は充分大人になってからでもいいと、私は子供の自分に言うだろう。近年映画化のトレーラーが出回っているが、あれだけではまだまだ足りない。そうだろ?サラーム。
「厳格な検査がありますから平気だと思いますが。というより産地が◯◯県ですから、遠く離れてますよね」
「でもねえ……放射能入ってたら怖いでしょ。もう怖くてこわくて」
初老くらいのおばちゃん。
どうしたもんかなーと思ったけど、とりあえず
「こういう事故があった時期だからこそ、かえって厳格な検査になってるんだと思いますよ。むしろそういう事故が表面化しなかった時期の野菜とかのほうが、よほど怖かった、ということもあるかもしれません」
とかてきとーなこと言っといた。
んでまあ、このときは産地が福島から離れてたから特に問題なく買ってった。
実際に福島県産の野菜とか入ってくると、いまだに売れない。反射神経的には「えーかげんにせーよ」と思うし、むしろ風評被害とかあって売れなくなってるからこそ、かえって現地の人は一生懸命なんで、ちったー信用してやれよと人情の面では思う。
しかしそれで終わらせてはどうしようもない。なんでだろうと考えるわけだ。まあ「放射能」の誤用はどうでもいい。なにがそこまで怖いんだと。そもそもあんたは放射能汚染についていったいなにを調べたんだと問いたい。
まあたぶん調べてない。なんか怖そうだから怖いんだろう。入ってる「かもしれない」から怖いわけだ。実際には汚染の影響なんぞ絶対に及ばないような遠くの産地のものでも入ってる「かもしれない」わけだ。いやいやそんな場所で人体に影響のあるレベルの汚染あったら首都圏壊滅でしょとか思うわけだけど、このおばちゃんにとってはそうじゃなかった。
これなんかに似てるなーと思った。
なんだっけ、こういう「あるかもしれない」ものが怖いのって……。
ちょっと考えた末に「怖い」というおばちゃんの表情を思い出して、気がついた。ありゃオカルトだ。正体不明のおそろしいものがあるかもしれない。「かもしれない」と思うから余計怖い。テレビとかで解説してくれてるけど、これはオカルト嫌いの人がいくら科学的な説明のもとに「幽霊なんかいない」といっても、効果のない人にはないのとよく似てる。まあ幽霊に会ったことないから知らないけど。
そう考えると、いわゆる「放射脳」の人たちがああも必死になってすべてが放射能汚染されてると力説したがるのも、まあ理屈としてはわかる気がする。幽霊っつーか、もっと広くとらえるとオカルトみたいなもんだけど、まず怖いんだと思う。すごく怖いので、どこにいるかわからない。その結果、いる証拠ばかり探してしまう。いないなんて言っている人は信じられない。科学的思考なんて言ってるけど、発見されていない影響がないとはいえない。だいたい科学なんてものが世界の法則を決めているなんて思えない。反証は自分の経験。こういうものが陰謀論と相性がいいのもよくわかる。なるほど、ちょっとすっきりした。
まあそんなような。
余談になるけど、うちの親類に霊感が強いという触れ込みの人がいる。いま住んでる物件を探しに来たときに一緒に来ていて「ここは出るよ」と言ってたんだけども、そのときの反応が夫婦揃って「どこ? どこ? 見える? 会話できる!?」というもので、その人は「あんたたちの前には絶対に出ない」と言ってた。で、それから数年間住んでるけど、ゆうれいなんか見えない!
話を戻して。
んでこの「なんか怖いかもしれない」って「なんかいいことあるかもしれない」とよく似てるなーとも思った。いや、このやりとりのあと、バイトとちょっとしたやりとりがあって。
そいつはけっこう体弱くて、特に内臓関連が弱い。にもかかわらず、しょっちゅうレッドブル飲んでる。カフェインけっこう入ってる飲み物を摂取していいはずない。で、そのことを言ってみたんだけど「そうなんですか!」という反応。
「薬なんかでもそうだけど、なんかの効果があるときには、たいてい裏側に副作用があるわけじゃん。その副作用の部分が作用より小さい、特に無視できるほど小さいときに、まあコンビニでも売っていいかな、っていうレベルものになるわけで。そんでおまえは内臓が弱い。ふつうの人が無視できるほどのものでも、おまえにとってはそうじゃないかもしんないじゃん」
「あー」
そんでまあ、このバイトが「うまい話」みたいなものに実によく引っかかる。世のなかのたいていのものは、それが商品である限り、売れるためにはいいことしか言わない。その「いいこと」を完全に額面どおりに受け取るので、見てて危なっかしくてしかたない。
なんでそんなことになるのかなーと思ったんだけど、以前にこのバイトが言ってたことを思い出した。
なるほどなー。書いてないことは存在しないのか。
で、このバイトと話をしていて気がついたんだけど、どうもこのバイトは、この世には「うまい話」というのがあると信じているようだ。「うまい話」を信じる心理ってのがよくわからんのだが、どうもここには「この世界は相当なところまで、ルールでがんじがらめにされている」ということを知らない、というのがあるらしい。
「うまい話」とやらが成立しない理由は簡単だろう。そんなもんがあったら、みんながそこに殺到してうまくなくなる。情報はすぐに広まる。あったとしてもそれを享受できるのは最初に気づいたごく一握りの人間だけで、そこから先は儲けられない。おまえははたしてその一握りの人間になりうるのか、という話。
放射脳とうまい話。これたぶん疑似科学みたいなもんもそうだと思うんだけど、こういうものを信じこんでしまう背景には「この世のたいていのことは説明されうる」ということ、そして「説明されえないこと」は、いまもそれを解明すべく死力を尽くしている人たちがたくさんいるということ、だからそこから外れるものは死力を尽くした果てにしかないんだということ、まあそんなようなことに対するわきまえから来るんだと思う。現状は、各所における最善の追求の集積としてこのようであるのであって、それを一足飛びに越えるものなどない、ということだ。
過去にどんな最善が、あるいは最悪がおこなわれたかを知ること、ひいては世界がこのようなかたちであるのはなぜなのかを、たとえ大雑把にでもいいから知ること。そういうものを教養というのだと思う。
さて、そのことをどうやってバイトに説明したらよいものか、といま考えている。
http://b.hatena.ne.jp/entry/lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/26/020932
どれも一応結末まで考えてはいるけれど、面倒なので前半だけ。
遠い未来、人類とロボットは長らく戦争していたが、人類が勝利した。
勝因は、全てのロボットに組み込まれた緊急停止コードの解析に成功した事。
しかも停止コードは無線方式だったため、電波を受信した瞬間にロボットはシャットダウンされてしまう。
そのため人類は、停止電波を発する電波塔を少しずつ増やしていく事でロボット達を追い詰めていき、ロボット達の抵抗も、今や僅かな残党が散発的に抵抗する程度となっていた。
そんな残党狩り部隊の一員である主人公は、おそらく最後の一カ所であろうロボットの一大拠点に潜入し、中心地にあるアンテナに停止電波発信装置を取り付け、ロボット達を一網打尽とする作戦を命じられた。
ロボットになりすました主人公は何とか拠点へと潜入するのだが、そこには予想外な光景が…
近未来。その国の国民は出生と同時にIDが発行され、行政サービスのみならず商用サービスにも利用されるようになっていた。
売れないフリージャーナリストの主人公は、ひょんな事から過去の故人のデータがいくつか閲覧出来なくなっている事に気付く。
その後の調査で、故人のデータは消滅したのではなく、存在しない住所の存在しない集合住宅の一室に転居した事になっている事、誰一人としてその仕組みを知る者がいない事が判明する。
誰が何のためにシステムをそのように書き換えてしまったのか?主人公がたどり着いた真相は意外なものだった。
近未来、ある天才プログラマーによって、これまでにない高品質と低容量を実現した画像、動画、音声フォーマットを扱うソフトウェアが無償公開され、それは世界的に普及した。
肝心のソースコードは完璧に隠匿されてはいたが、そのソフトウェア自体が非常に使いやすかったので、殆どの人達は気にしなかった。
もちろん、さまざまな思惑から無数の企業が天才プログラマーにソースコードの公開を求めたが、それに応じる事なくプログラマーは急死してしまい、プログラマーが使っていた端末も持ち主の死と連動して自動消去するよう設定されていたため、ソースコードは完全に失われてしまった。
生まれつき幽霊が見える主人公は、前述のフォーマットで撮影された写真や映像にも心霊写真や心霊映像が存在する事を知り、幽霊達に頼んでアルゴリズムの解析を目論むのだが、そこに何故か急死したプログラマーの霊が現れて…