はてなキーワード: 喫茶店とは
ネットからの収入が月300万を超えたので、思いを吐露したい。
http://anond.hatelabo.jp/20130602143115
ネットからの収入が月100万を超えたので、思いを吐露したい。
http://anond.hatelabo.jp/20120603083800
相変わらずあんまり幸せではないので、俺が幸せになる方法を考察してみたので投下します。
長いので最初に3行でまとめてみました。興味があれば、もっと読んでいただければ。
・収入が一定以上を超えると、それに比例して期待感が増す上にその期待が裏切られるため不幸感が増すぜ。
⇒俺は不幸だぜ。
・30代の男性。
・税引き前の利益が年間3000〜4000万円なので結構収入がある。
・絶対にやるべき仕事時間は1日10分くらいなので結構時間がある。
・やれば更に収益が伸びる作業に1日6時間くらい費やしている。
・取り立てて不幸というわけでもないけど、全く幸福感を感じない。
・世の中が灰色がかって見えている。
・ぺふぺふ病(清水)にかかっている感ある。
・幸せになりたい。
何度も書いてるけど俺はちょっと不幸だと感じている。
以前の増田では単に「お金があっても幸せじゃないんすよ」と書いていたが、最近それについてもう少しだけ深く考えてみた。
まず、幸せと金の相関に関して、以下の記事が少しだけ役に立つ。
第2部 これを超えると不幸になるらしい「年収900万円=最大幸福」説は本当か?
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41296
「'02年にノーベル経済学賞を受賞した米プリンストン大学の心理学者、ダニエル・カーネマン教授が面白い研究をしています。それによると感情的幸福は年収7万5000ドル(約900万円)までは収入に比例して増えますが、それを超えると比例しなくなるんです」
4年前の記事なのでドル円が現在とは微妙に違うけど、今なら年収750万円を超えると幸福感は増えないと書いてある。
理由としては、それくらいの収入があれば普通の生活を送る分にはほぼ十分だから、ということで俺も納得している。
俺は年収が750万円を超えて増え続けたとして「幸福度はほとんど上がらない」と予想していたが、実際には「逆に不幸になる」わけだ。何で不幸になるんだろう?
冒頭のカーネマン教授の研究によると、年収7万5000ドルが幸福度のピークだった。これは、そのくらいの額を稼ぐ生活が、収入で得られる満足感とかかる費用(仕事のプレッシャーや忙しさ)のバランスがいいということなのだろう。
薄い考察だ。
俺は年収7万5000ドルなんざ4倍以上超えてる上に、仕事のプレッシャーなんてほとんど無いし、全然忙しくもない。
でも不幸だ。
プレッシャーも忙しさもないが、収入が増えれば増えるほど不幸感が上昇していると感じている。
何故か?
答えは「期待感」にあると思う。
収入が増えると、それに比例して上記のような期待感が勝手に膨らんでしまう。
しかし、実際には収入だけが増えても一人で仕事をして他者と交わらなければチヤホヤされないしモテないし尊敬もされない。
その結果、「俺はこんなに頑張ってるのに何故チヤホヤされないのか」「俺はこんなに世の中に貢献してるのに何故モテないのか」「俺はこんなに税金も支払ってるのに何故病院でスゲー待たされるのか」という不満が増大する。それも、年収が増えれば増える程、こういった不満は増大し続ける。
そういうわけで、年収が750万円を超えると、
・期待感は膨張を続け、そしてその期待は裏切られ続ける。
ということになり、不幸感が増大するということになる。
「金なんていくらあったって別にチヤホヤもされないし、モテないし、病院ではスゲー待たされるよ。期待なんてしない。」ってのを理屈として納得したところで、別に幸せにはならないよな。
世の中を斜に構えて見るようになるだけだ。
まぁ、大前提として「金だけでは幸せになれない」ということは理解できた。
長過ぎるので後編に続く。
人生で一度くらいは成人映画を映画館で観てみたいと思い、偶然見た予告編の軽快なアクションものっぽい雰囲気にひかれて『風に濡れた女』を観に行ってきた。
1回きりの鑑賞で見落としや聞き逃したところもあるだろうけど、ひとまず思ったことをネタバレ含みで長々ダラダラとここに書いていく。点数をつけるわけでもないし、正直映画は年に1回観に行けば多いほうで、目が肥えてるわけでも感受性豊かなわけでもないことは先に述べておく。
あと、役名と個々の俳優の名前が合致できなくて申し訳ないけど、サーファーの彼はいい味出してたと思う。
今までと比べてかなりつまらなかった。
けものフレンズ8話がつまらない、ということもまたけものフレンズという物語を紐解く上で重要な意味を持っているからである。
OPを歌っているアイドル声優グループが演じるPPPというフレンズアイドルユニットが主役となっているという事からは明らかな大人の事情が伺える。
物語の中においても、ヒトがいなくなり文明的な要素の多くが失われた世界でアイドルを行っているPPPは異彩を放っている。
そもそもフレンズがアイドルユニットを組んでいるという状態はジャパリパークがまだアミューズメントとして機能していた時代に置いても特別な存在であった事は想像に難くない。
動物が観客に見せるために芸を磨くという行為は現実の動物園では一般的な行為となっているが、それは動物の本来の姿ではない。
動物園が営業していく為に動物に行わせている本来の生態から外れた行為である。
PPPはいわばヒトが持つ商業主義、拝金主義的な側面の化身としてジャパリパークに存在している。
けものフレンズはここまでそれぞれのフレンズの自然な姿を描いてきた。
フレンズ達がそれぞれの日常を自然にのびのびと暮らす世界をカバンちゃんが旅する話である。
確かにアルパカが喫茶店を開いたり、ライオンがDOG DAYSみたいな事をしている事はあった。
しかしそれらの中にも、徒歩によって移動するフレンズでありながら高い崖の上に難なく移動してしまうアルパカや、狩りごっこごっこに興じるライオンといった形でフレンズのベースとなった動物の生態が現れていた。
ロイヤルペンギンのプリンセスがPPPを再結成しようとしたのは、ペンギンの生態がそうであったからではなくPPPがその昔ジャパリパークに存在したからである。
いわば間接的ではあるがヒトの手による強い介入を受けた行動である。
(まあぶっちゃけアルパカもジャパリカフェの名残という形でヒトの介入や大人の都合をゲフンゲフン…例外として今は忘れてくれ。)
カバンちゃんと無関係の所でここまで強くヒトの影響が描かれることは今までなかった。
そしてそれによって描かれた光景は、我々がけものフレンズに期待していたものとは全く違ったものとなった。
自分たちの存在、自分の存在が観客に受け入れられるのかと恐れるプリンセスの姿は、自分の本来のあり方のまま生きている他のフレンズにはないものである。
なぜなら他のフレンズはただどこまでも自然体で生きているからである。
PPPに参加せず普通のペンギンとして生きる道も開かれている事を知っているプリンセスと違いそもそも生きる道を選ぶという発想自体がない。
目先目先の日常から抜け出て生き方を選択するという発想は文明が発達したことで生まれたものである。
自分が何者であるかを迷うという行為は、道があることによって生まれる感情である。
ヒトの商業主義によって生まれたPPP、今までとは違う生き方の選択肢の登場によって生まれたプリンセスの悩み、これらはヒトが残した文明の残り香がなければ存在し得ない物である。
文明のない世界では生き物はただ生きるために生き、空いた時間はただ本能のままのびのびと過ごす。
ある種の貪欲さ、ストイックさをもってより良く生きようとそれまでとは違った生き方を選ぶ道である。
これは7話において博士達がジャパリまん以外の食べ物を求めカレーを食べた際に半分描かれている。
火という恐ろしい存在がカレーという益をなす光景は、文明の危険性をを暗示してはいるがそれが実際にフレンズを傷つけることはなかった。
だが今回は違う、文明は選択することの不安という形でフレンズに牙を剥いた。
自然の中でのびのびと生きるフレンズの姿を描いてきた作品の中で、文明がフレンズを傷つける姿が描かれたのが8話である。
ヒトのもたらした文明がフレンズを傷つける、それが8話である。
唐突にこんな物を投げつけられて無意識が嫌悪感を抱かないでいられるはずがない。
我々がけものフレンズの8話をつまらない、何かが違うと感じたのは当然なのだ。
だがそれは同時に我々がけものフレンズに求めていた物を再確認させてくれる。
8話の直前に7話が描かれたのも、これが文明を否定する物語でない事を強調するためなのではいだろうか。
それはなにもカレーだけではない。
ライブだけではない。
ジャパリまんだ。
ジャパリまんはジャパリパークの平穏な生活を支える重要な資源である。
それらはラッキービーストによって管理されフレンズの元へと配られている。
8話で初めて登場した二人目のラッキービーストは多くの情報を我々にもたらした。
フレンズが多い場所にラッキービーストは現れる、それは彼らが能動的にジャパリまんを配り歩いていることを意味している。
フレンズは自由な生活を送りながらジャパリまんの供給が受けられるようになっている。
またこれまでラッキービーストにあわずともカバンちゃん達が不自由なく生きてこれた事からも、ジャパリまんの供給量や栄養価がフレンズ達の暮らしにおいてかなりの余裕がある物であることがわかる。
ジャパリパークの平穏な生活は文明の力によって支えられている。
それはヒトのもたらした物であろう。
だが文明の持つ暗部も描く。
自然体で生きることの素晴らしさを描きながらも、そうやって自然体で生きるのに文明の力が役立っている事を描く物語がけものフレンズである。
だがそこで文明を投げ捨てたとしてそこに求めていたものがあるかといえば違う。
文明と共に生き、しかして文明の持つ闇に飲まれないようにすることが、我々の求める生き方に辿り着く鍵なのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20170227094535
歴代の仮面ライダーは男。サブライダーも男。変身するのは男である。
かたや女といえば喫茶店でダラダラしたりただの血縁関係でさえない妹だったりと、あくまで補助する立場に終始している。
この仮面ライダーは男のもの、という構図は男の子向け番組だからと言って許されるものではないだろう。明快な男女格差である。
何?かつてはタックルから、平成はマリカまで、歴代にも女ライダーがいた、男女平等だ、だって?ハハッワロス。そんなもの全体のどれだけだというのだ?
戦隊モノならゴレンジャーから女性がいる。最新作にも女性がいる。男女比の偏りは是正されるべき今後の課題だが、戦隊モノは昭和の古いときからいち早く同じチームという同等の価値に置く。
ジェットマンは女性が指揮官で、タイムレンジャーに至っては女性が実質のリーダーである。
できないのではなく、しないのだ。このような状況を温存してきたのがテレ朝であり、ジュノンボーイであり、バンダイであり、特撮オタクであり、全国の保護者であり、果ては宇宙なのだ。
仮面ライダーという番組は、男ばかりが主役になり、女の変身と言えば怪人ばかりが充てがわれ、男が女を滅ぼす、ついでに悪い男も滅ぼす聳え立つイチモツでヒイヒイ言わせる超弩級父権主義番組なのである。
では、なぜ仮面ライダーがフェミニストに糾弾されずに生き残っているのか?
答えは簡単。
うわさの3話見た
バスを動かすための電池を充電する設備が山の上にあるからそこ目指そうっていう話
ロープウェイがあったけど当然ぼろぼろで使えない
どうしよっかーってところでトキがひどい歌とともに登場
サーバルは頭かかえてたけどかばんは「歌どうだった」ときかれて「すごいきれいな羽だね」と答える黒さを見せ付けた
サーバルは山を直接登り、かばんはトキに飛んでつれてってもらうことに
喫茶店みたいなことやってるけど久しぶりの客でうれしいという
でもかばんが客じゃないというとつばをはく
そのあとは充電して、お客がこないって問題にかばんが対策考える
この山を飛んで超える鳥にむけて地上絵を書いた
そのあとは足こぎロープウェイみたいなのをボスが整備して、サーバルがこいでかばんとふたりのりして山をおりた
笑ってる場合じゃねえよ
おもしろいってのは何気に重要なセリフとかがちりばめられてるからってのとか、
ケモナーの博士が動物を改造した世界?って感じ(考察とかは一切読んでないから知らん)
相変わらずカワウソイイケツ
とはいえ重いものではなく、30代後半の男性と女性が喫茶店でおちあって
ここで困ったことが起きた。
わたしが一番好きなものは、自分のかさぶたを剥がして食べることです。
たまに、「指先」とか「かかと」の皮膚を剥がして食べるんですよ。
とまぁ、バカ正直に答えたらいいのか、
悩んだあげく、隠してもしょうがないと思い、
えーと、実はわたし、自分のかさぶたが一番好きでして、それゆえに自分の体を
人を食った話ですねぇ、といたくうなずいていました。
こーひーにこだわりを持っている個人店でめちゃ美味しいこともあれば、
今回は俺の行きつけの喫茶店の話をしよう。
いわゆるブックカフェというやつで、色々な本が置かれていて棚が非常に多く、ちょっとした図書館レベルである。
俺はコーヒーの味はコーヒーだとしか感じないので、ここのコーヒーが特別美味いかどうかは分からないが、本が大好きだというマスターの拘りは窺える。
このため読書を目的にして利用する客も多く、店内の飲食とは別に時間制限による料金支払いが発生するシステムを採用している。
そして、常連客向けに最近はじめたのがボトルキープならぬ、栞を挟むことによるブックキープ。
といっても同じ本をそんなにたくさん用意できるわけもなく、一つの本にやたらと栞が張り付いているなんていう異様なこともここでは珍しくない。
そんなことをやっていると、客の中には栞のデザインをこだわったり、栞に本の感想を書いたりして個性を出し、ちょっとした自己顕示欲を満たそうとする者が出始めたのである。
すると、小規模な交流が栞を通じて始まった。
本に挟まれた栞には各々の感想が書き込まれ、しかも別の人の栞にシールを貼ることで追従したりなどといった独特な文化が店内で出来上がったのだ。
一見すると店も盛況でよいことばかりかと思いきや、予想外の問題が発生し始めた。
「なんだか、栞のある本に随分と偏りが出てきている気がする」
どうやらセンセーショナルなテーマだったり、感想を書きやすい内容の本ばかりに栞が挟まれているようだ。
ずっと挟まれたままで読まれた形跡がない本なんてものもあった。
だが、これに対する多くの客の反応は冷ややかであった。
「なんだよ。こちとら栞に感想書くために来てるのに、書けないんだったら意味ないじゃん」
「おいおい、栞のために本があるわけじゃないだろ。本の価値を重んじているなら、冗談でもそんなことは言えないはずだ」
「いいさ、マスダ。もともと栞サービスを始めたのは私だ」
声は穏かであったが、その表情は曇っているように見えた。
「でも、なんというか、俺のボキャブラリでは上手く言えないけど……不健全だ。本ありきの栞なのに、みんな栞に何を書こうかばかりに頭がいっていて、肝心の本はどうでもいいと思っているみたいで」
「本そのものに価値があるように、栞そのものにも価値があるってことだ。もちろん両立してくれるなら嬉しいのだが、一介の店主ごときがとやかく客に是非を問えないのさ。店は客を選ばない」
こうして店には、以前のような落ち着いた雰囲気が戻った。
俺としては心穏かにすごせて内心喜ばしかったが、店主はどこか儚げであった。
儲からないから、というのもあるとは思うが、それよりももっと大事な何かを失ったような、そんな儚さを感じた。
本のために栞はあるものだが、今や栞のために本があっても不思議ではないのかもしれない。
【属性】夢が好き。
【議題】『こんなブスをキャラくんは好きにならない』
夢的な話題で最近ひっついてくる、『キャラはこんなブスなんか好きにならねーよ』というやつについて。
これが夢sageなのかキャラsageなのかあるいはどっちもsageなのかはよくわからないけど、現実の自分の顔面偏差値ってそんなに重要か???っていうのが個人的な感想です。
だって架空世界でしょ。架空と言うか、パラレルと言うか、つまり今自分がいる世界とはまた別の世界の話なわけで。
別世界で、自己投影するにしたって、現実の自分のまま取り込まなきゃいけないってルールどこにもないぞ!
だったら多少可愛かろうが多少人を殺せようが多少強かろうが、それはそれとして別世界のIFの自分で良いじゃん。
いや、夢=夢主は自分、と確固として主張してるわけじゃないけれど、とにかく夢主=自分だと思ってる人へのエールね、エール。
(すごい余談だけど、自分の顔面偏差値を鑑みて夢ないわー、って言ってる人、作品へのトリップ力が凄いから私よりも夢技能高いのでは?とたまに思う。私は現実の自分そのままで入ることは想像もしたことなかった)
私は自己投影もするし神投影も出来る最高に訓練された夢者だよ。10年選手だからね。
いま打ち間違えて100年選手って打ったけどそれだとほんとに神だわ。私が神だ!!!!
そう!『私が神だ!』も出来るんですよ、夢小説ってのは。
もちろん、人形ごっことして全部が好き勝手出来るわけじゃないけれど(少なくとも私はキャラクターが勝手に動いて泣いたことは何回もあるというか好きに動かせた経験の方が少ない)、BLの書き手さんでよくある『こいつとこいつの恋愛模様を眺めたい』って感覚、夢の人も持ってる方は割といます。うん。
ここで重要なのが、別に『夢主=自分』の方を馬鹿にしているわけでもないってことです。
たまにこれ勘違いされるんですよね。なんでだろ。被害妄想強すぎる人が多い。
いやそうなる歴史もあるから一概に駄目だとは言えないんですけど、とにかく私は馬鹿にしてません。
誰かの好きなものを馬鹿にはしたくないし、そもそも私は自己投影して書いた夢小説はある。それを黒歴史だとも思わないというかめちゃくちゃ面白いと思ってるよ。
話を戻すと、『あのキャラがこんな恋愛をしていたら』『あの人がこんな人に出会ったら』というのを夢でもえがけます。
というか、答えが無いんですよ。【原作人物A】だとしても【オリキャラB】を当てた際の反応に正解はないので、原作で見ることが出来なかった表情だってBと一緒なら見せてくれるかもしれない。可能性が無いわけじゃない。そういうのを探っていきたくて書いてる人も中にはいるんです。
なもんで、たぶんそう言う人達は『【夢=自分】だけではないよ』って言いたくなるんだと思います。
だって夢と一口に言ってもたくさんあるし、それが除外されて(=蔑にされて)たら悲しくなるよ。自分が好きな傾向なら猶更。
だから声を出すし、声を出すと『自己投影じゃない人に自己投影が馬鹿にされた!』って声が上がるし、あーもーにっちもさっちもいかないぜ!
まぁそんなこんなで、夢の中では正解がない。
つまり神になれる!
神さまと言うことは美少女にだって美男子にだってナイスミドルにだって思いのまま!
普段騒がしいあの子が静かな喫茶店のマスターに見せる表情はキミだけの物!
BLにだって『もしかしたら』という意味で正解なんてないかもしれないだろうけど、だいぶそれが強いと理解してもらえたら私は嬉しい。
だから現実の自分をブスだと卑下しなくていいし、ブスだからって見向きもされないなんて呪詛を自分に掛ける必要はないし、正直夢は楽しいぞ!
動物夢主もあるし、金魚鉢だってあるしな!可能性は無限大だよ。
だから自分のことをそんなにブスだって言わなくたっていいんだよ!
現実との落差?そんなん気にすんな!
自分のアバターに人格投影して且つアバターは別人なんて、オタクには手慣れた基本技能みたいなもんでしょ。
(ネトゲとかSNSに使用する絵アイコンとかも考えればアバターなわけだし)
それと一緒だよ。
まぁそれでも無理だって言うならせめて『夢なんて』とか『夢小説なんて』とか『夢みたいなものと一緒にするな』という感じの意識は薄めてくれると嬉しいかな。
『夢と一緒にするな』じゃなくて『夢と一緒にすると探し辛くなるからやめてくれ』とかの言い方なら角も立たないと思う。
さすがに自分の好きなものをsageられてる、あるいはsageられた意識を感じ取って、凸はしないけど悲しくならない人はいないと思うよ。
二次創作に貴賤はないと思うんだ。
貴方だって、よくは知らない上澄みでジャンルのことを語られて尚且つdisられたら心の包丁持つでしょ?こっちだって包丁を持ち始めたくなることはあるんだよ。
終わりに物騒なことを言ってすまんね。
それじゃあ、ここまでありがとう。
メモです
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040301
この『裸の自衛隊』は「兵隊になりたい!」というオイラのガキの頃からの夢を実現させるために無理やり通してもらった企画だった。
とにかく軍服着たり、鉄砲撃ったりするのが大好きだったが、在日韓国人だから自衛隊には入れない。というか政治的には日本も当時の韓国の軍事政権も北朝鮮も大嫌いなのだ。
要するに政治的には反戦的なんだけど、オタク的には戦争が好きで好きでしょうがない。
兵隊として戦争に行きたくてしょうがないんだけど、何のために戦うか、とりあえず理由がない。それになまじ戦争の本ばかり読んでるので戦争の愚かさもわかっている。でも頭ではなくて「男の子」の部分でやりたくてしょうがない。
こういう人は他にもいっぱいいると思うのだが、で、自分は「何が何でも自衛隊に体験入隊したい!」と思って、その欲望を仕事に無理やり結びつけた結果が『裸の自衛隊』なわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050518
「電波系」なんて言葉は、もともとは中目黒の駅にあった「電波喫茶」が元なんだよね。
店の表側が「世間には電波で私を攻撃する人がいます」みたいなメッセージが耳なし芳一(よしかずではない)の体みたいにびっしり書かれた喫茶店で、化粧の濃いおばさんが経営してるの。
『宝島30』の連載コラムで記事にしようと思って、根本さんと担当編集者のオイラはただの客を装ってそこに行ったんだ。
オイラはポケットにマイクロカセットを隠して、おばさんの電波陰謀論をずっと隠し録りしてたんだ。
おばさんは一時間以上しゃべり続けていた。
「電波を防ぐために地下鉄の工事現場の蓋に使う厚さ1センチの鉄板を買った」
「そいつらは私を盗聴している」
「これ、隠し録りを勝手に記事にして大丈夫?」って根本さんに言ったら、
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040221
その動機は「とにかくテレビを見ていると猪瀬は偉そうで偉そうで、ムカムカしてどうしようもなかった」というものだった。
そのオッサンに政治的、思想的背景は特になかったと報道されたと思う。
猪瀬の思想や意見ではなく、猪瀬の立ち振る舞いが普通の市民を犯罪に走らせたのだ。
言論人でもない一介の市民がテレビでエラソー光線を発射して攻撃してくる猪瀬から心を守るには脅迫しかなかったのだ。
なぜなら猪瀬は全身から「オレは利口でお前らはみんなバカだ光線」を発してるから、見るだけで非常に傷つけられてしまうのだ。
猪瀬の態度は不特定多数への侮辱罪として有罪にできないんですか?
もしヤクザと少しでも関わりのある仕事をしていたなら、確実に刺されてるね。横井英樹みたいに。安藤昇は話をまとめるために横井に会ったのに、その態度があまりにも偉そうだったので前後を省みずヒットしてしまったのだ。
この平和な社会では猪瀬がどれだけ不遜にしても、それに対抗できるだけのヒマや機会を持てないオイラのような庶民はしかたがなく沈黙しているだけだと思う。ていうか、オイラもこいつをどこかで見かけたとき、殴らずにいられる自信がないよ。
日本のテレビを見てないから知らないが、猪瀬は、政治的や思想的なものではなく、純粋に生理的な理由で自分がそこまで人を不快にさせたという事態に少しは人として反省があったのだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060527
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20070728
物書きが食っていくのはたしかに大変だけど、そこまでして本を出したいかねえ。
それは別に悪くはない。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20070907
日本の声優文化は、オリジナルのキャラや演技の口調ばかりか内面までもを表現し、さらにそれを日本的に違和感なく聞かせるという努力の上に培われてきた伝統芸であり職人芸なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20071128
難病映画、ケータイ小説映画、三丁目映画、アキモトコー映画、TVドラマ映画、みんな公開する必要なし! 作る必要なし! 見る必要なし!
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20071206
http://anond.hatelabo.jp/20170210112714
言わんとしてることはわかる。確かに昔パリ行ったときは、吸い殻だらけでビビった。それから見れば、日本が「分煙推進国」に見えなくもない。
開放された屋外と、締め切った屋内で、どっちが受動喫煙のリスクが高いと思う?当然、屋内だ。
中国からのPM2.5に文句言ってるけど、喫煙可の喫茶店や居酒屋のPM2.5濃度が、北京以上にヤバいってことを知ってるか?
日本は、健康リスクの高い屋内の受動喫煙を野放しにしたまま、そこまでリスクの高くない路上喫煙を、「マナー」とか「火傷防止」とか「景観上の問題」とかにすり替えて締め上げてきた。というか、JTのマーケティングにまんまと騙されてきた。健康リスクの観点から見たら、対策が真逆だったことが最大の問題なんだ。外で吸えないのに中でも吸えないなんて!と言うが、逆に中で他人に煙を吸わせることの方が規制されて当たり前なんだよ。
ちなみに「分煙」では受動喫煙が防止できないことは世界の常識な。喫煙室の扉が開いたときに禁煙の空間に煙が流れるし、喫煙した直後の肺には煙が充満してるから、喫煙室からすぐ禁煙の空間に行けるような造りだと、結局禁煙空間に煙を吐き出してしまう。だから厚労省も、屋外の喫煙場所からオフィスに戻るのに遠回りをさせてる。あと最大の問題は、そこで働く労働者や清掃業者の受動喫煙な。分煙だとこの問題は絶対に解決しないことは明らかなのに、そんなこと承知でJTは分煙を推し進めてる。奴らは、「ひとのとき」は想ってるけど、「ひとのからだ」については何とも思っちゃいない。ちなみに、罰則付きの法制化に反対してる糞議員どもも、JTから政治献金を受けてる。JTの罪はホントに取り返しのつかないレベルで凶悪。
そもそも、たばこの規制については国際条約があって、日本も2004年ごろに批准している。条約締結国は、健康リスクの高い屋内での受動喫煙を防止する義務がある。だから諸外国は、まずリスクの高いところから、という形で、屋内全面禁煙を進めてきたんだよ。日本はリスクの高い屋内の対策を全くしていない。加えて、たばこのパッケージに画像警告を載せなかったり、マスメディアが、喫煙の有害性をしっかり報道しなかったり(JTがスポンサーだからね)、といった問題がある。だから、たばこ白書が発表されたときのニュースで言われていたように、「世界最低レベル」の受動喫煙対策だと指摘されているわけだ。
つまり日本は、JTの詭弁に国民が騙され、財力でメディアと議員が操られてきた結果、先進国で最悪の「たばこ天国」になってるんだよ。
まぁはっきり言って、財務省がJTの株を保有してる時点で一生何にも変わらないと思うけど、国民はそういう事実は知っておかなければいけない。
「これは自分がハマりそうだな」と思ったアニメが、最初こそ低評価で「世間がどう受け止めても自分が好きならどうでもいいか」と思っているうちにあれよあれよと大人気になってしまったのを受けて。
不快感の原因を考えるに、自分が好きだと思ったものが雑に触れられて雑に消費されている、という印象を持ったからだろうと思っている。
商業のアニメである以上、売れることは喜ばしいし(アニメ制作環境の問題点はここでは主題ではない)、そのためには人の口の端に乗らねばならないこともわかるが、愛のない消費のされ方はあまり好きになれない。
もちろん、愛があるとか、ないとかいうのも自分が計れる物差しでしか計れていないし、自分の愛だけが正しい愛であると言い張れるほどに純粋でもない。
今まで強烈にハマったアニメでは、ファンは小さいコミュニティばかりで(どうも似た属性の人が多かったらしく)イベントなどに行けば名前は分からずとも他のイベントでも見たことがある人ばかりであった。似たような消費の仕方をしていた親近感があったのだろう。つまりは今までとは違い明らかに属性の違う人間が同じアニメについて語っている環境に寂しさみたいなものを感じているのかもしれない。それも私が勝手に抱いている感傷に過ぎないけれど、この寂しさに近い感情は、このアニメが想起させる感情に通底しているような気はしている。アニメにおいてはそれは肯定的に描かれているが。
そして一方でこのアニメはいいものであるからもっともっと流行ってほしい気持ちもある。感情は簡単に割り切れるものではない。
もしかしたら喫茶店みたいなもので、客がいなくて潰れてしまうと困るけど、自分が行くときにはくつろげる程度に空いていてほしいのかもしれない。
話にまとまりはないが、心にささくれのようなものを抱いたままにアニメを見続けてはアニメを純粋に楽しめなくなりそうで、とりあえず書き捨てておきたかった。
どうせ雑な言及をしている者はまた別のミームに踊らされるし、そうでなくて本当に、今後自分の心に刺さる最後に至ったとすれば、他の声など気にならなくなるはずだから、再び各種の考察や雑な言及に心動かされずにただ「世間がどう受け止めても自分が好きならどうでもいいか」とアニメ視聴を続ける予定である。
「今日、最初の待ち合わせ場所だった広場さ、例の宗教のやつがやってたよな」
「不可思議な宗教だな。お前の弟や、その友人も訝しげに見ていたぞ」
その場に弟たちがいたという話に悪寒を感じたが、俺はコーヒーをすすりながら聞かなかったことにした。
「まあ、ボクとカジマも一応は信者だけど、傍から見てもそんなもんだろうね」
さらりと言われた衝撃の事実に、俺は思わずコーヒーを吐き出しそうになった。
ウサクも驚き、向かいに座っているタイナイとカジマに、前のめり気味に尋ねた。
「まあ、そうだね」
屈託なく言われたことに、俺もウサクも次の言葉が中々出てこなかった。
何を信仰しようが自由とはいえ、彼らを少なからず知っている身としては、意外と言うほかなかったからだ。
「い、言ってはなんだが、アレはお前たちにとって大したものとは、とても思えないぞ」
ウサクは咀嚼しようと必死で、彼らが「生活教」を信仰する理由を、理解しようとしていた。
そこまでして信仰する何かが、もしかしたらあるのかもしれないと思ったのだろう。
次に出てきたカジマの言葉に、俺はまたもコーヒーが変なところに入りそうになった。
「お、面白いって何だ。教えとかか?」
「そうそう、崇高な理念があるのかもしれないけれども、いずれにしろ言っている内容は大したことじゃないからね」
そのあまりにも身も蓋もない言葉に、ではなぜ信者なのか尋ねる。
「だって、面白いじゃん。そーいう大したこと言ってないのに、大したこと言っているみたいにするのって」
「そーいう人を、大したこと言っている人間みたいに神輿にかついだりするのも面白いよね。分不相応であるほど、言ってることの陳腐さが際立って滑稽なのに、本人がそれに気づかないってのも二重の意味で面白い」
「えー……つまり、二人とも教祖の言っていることに心酔しているわけじゃなくて、遠まわしに茶化しているだけ?」
「うん、だって大したこと言っていないのに、本気で持て囃したらバカみたいじゃん。恐らく、信者たちの大半は僕たちと同じスタンスで信仰していると思うよ」
「『帰ったら手洗いうがいをしよう』だとか、『体にいいものを食べよう』だとか、それがよいことなのは分かりきっていて、その上でどうするかってのは個人の裁量でしょ。わざわざ連呼することではない」
「まあ、そもそも、このご時世に新興宗教って時点で信仰に値しないよね。というか、宗教自体が時代遅れだけど」
タイナイとカジマは、ケラケラと笑いながらコーヒーをすすった。
ウサクは腕組みをしながら何か知見を得ようと唸っていた。
俺はほお杖をついて息を漏らすしかなかった。
まあ、俺たちも少なからずそう思っていたわけだが、だからといってタイナイたちの姿勢も中々にご無体なものである。
「なんというか……宗教そのものの意義を否定する気はないが、人に何かを教える体系としては時代錯誤になりつつある、ってことなのかもしれないな」
この後『生活教』がどうなるのか、本当に無意味なのか、それは今はまだ分からない。
でも、俺たちが考えているよりも何かを信じたり、何かを正しいと思ったり、そのために行動することは簡単なことではないらしい。
先日、センター試験があった。
もう3年前のことになるけれど、毎年この季節になると受験勉強のことを思い出す。
彼は私と同い年の大学生だ。大学の部活の話などでよく盛り上がったりした。
そしたら、
「え?あぁ俺、推薦なんだよね。だからセンター試験受けてない」
と彼は答えた。
「あ、そうなんだ!評定平均高かったんだね、すごいな」
そう良いながら、彼への気持ちがどんどん冷めていくのを感じていた。
中卒でも、高卒でも、専門卒でも。高専卒でも、大卒でも、院卒でも
そういえば、うちにも推薦入試制度があるが、仲の良い友達は皆私と同じ一般入試組だ。
知らず知らずのうちに、推薦組とは親しくならないようにしていたのかもしれない。
大学には行きたい、けれど一般入試は受けたくない、楽な方法で受かりたい
そういう魂胆が透けて見えるような気がしてしまう(考えすぎだろうか)。
一般で受けて受からないような大学に推薦で入っている人もいる(大学での成績は大抵悪い)
調べてみると、世の中には一度も
ペーパーテストを伴う入学試験を受けたことのない人間はたくさんいるらしい。
彼らに対する気持ちは、ずるい、というのとは違う。単なる軽蔑だ。
推薦をもらえるように良い成績を維持したのだから、その対価として推薦を勝ち取ったのだ
と言う人もいるかもしれない。
推薦入試の人に大しては、どうしても「逃げて楽な道を選んだ」という印象がつきまとう。
あんなに好きだったのにな。
前回の続きで、そちらをあらかじめ読んでいること推奨。
もっと主観バリバリ、かつ雑に展開させた方が読んでいる人たちもツッコミやすいし、筆者も書くの飽きてきたので今回はもっとテキトーに書いていくことにするよ。
食に関することは基本的に作るか、食べるかだけれども、細分化していけば目の付け所はいくらでもある。
要はコンセプトによる差別化だ。
『胃弱メシ』は胃が弱い人の、『女くどき飯』はデートでキメるとき。
『将棋めし』は将棋で勝つためのゲン担ぎといったように、「食とどう関わっていくか」ということも差別化の一つともいえる。
『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』や、『食の軍師』などといったように食に関する独特な拘りを主体にしたものもある。
他には、食べ物自体は絡むものの、その他の要素に比重を置かれているパターンも。
定番なのが人間ドラマで、『ゆきうさぎのお品書き』や、前回挙げた『甘々と稲妻』などはその傾向が強い。
料理やそれを食べる要素は必ずあるものの、それによって紡がれるドラマが主体なのだ。
これはどちらかというと帰結ともいえ、食べ物そのもののエンターテイメント性の弱さを補完しようとすれば、過剰な演出を除けばストーリーやコンセプトに目を向けることになるのだ。
その点では『ゴールデンカムイ』もその要素を持つといえるが、これをグルメ漫画と認識している人は少ない。
バトルやドラマ、コメディなど、主体となる要素、テーマが他に多くあるからだと思う。
では、食の要素を持ちつつ、食漫画と認識されにくいものには他にどのような例があるだろうか。
完全な持論だが、それは茶化したり、弄ぶことによる“破壊系”だと思う。
代表格は一部の「料理バトル」モノで、過剰な演出とエキセントリックなプロットを突き詰めていく過程で真面目に食べ物や調理を扱わなくなった。
数年前だと『マジカルシェフ少女しずる』という漫画が印象的である。
最近だと『人魚姫のごめんねごはん』という漫画がホッテントリになっていて記憶に新しい。
ディズニーアニメの『リトル・マーメイド』でコックが魚を料理する歌があるのだが、架空の設定で見方を変えさせることで、印象を鮮烈にするというのは手法としてある。
まあ正直ここまでくると、食が関係していてもグルメ漫画というよりはコメディ漫画寄りだから、今回の話で扱うのは趣旨がズレているかもしれないが……。
主張したいのは個人的にこの“破壊”を許容されることで発生する、ジャンルの多様化もあるのではないかということだ。
つまり「破天荒さ」と「グルメ」を両立しているにも関わらず食漫画としての体裁を保った、そんな奇妙な読み味の漫画たちである。
グルメ漫画のほとんどは現実世界をモチーフにしていることが多く、料理もまたそれに準拠している。
だが、それに拘る必要がないのではと思い始める作品も出てくる。
例えば『異世界駅舎の喫茶店』、『信長のシェフ』などといったように、舞台を別の世界にしたもの。
しかし、食べ物まで空想の産物にした代表格は『ダンジョン飯』だろう。
RPGに登場しがちな空想の生き物を材料に、大真面目に調理工程が描かれるのである。
以降も異世界の架空の食物を扱った『幻想グルメ』や、妖怪を材料にした『美味しい妖』などの作品が続いていく。
もはや食漫画は、舞台、調理工程、登場人物、食べ物あらゆるものが多様化したのである。
だが悪くいえば、ほぼ手垢まみれの状態となりつつある、ともいえる。
私みたいに食傷気味になっている人間ならまだしも、様々なジャンルの漫画をそこそこ読んでいる人なら、一つのジャンルの隆盛などあまり意識しないだろうし、漫画自体をほどほどにしか読まない人なら尚更である。
「こんなに食漫画があるんですよ」と挙げても、それらを全部読んでいる人なんてまずいないからだ。
そもそも現代は漫画が供給過多の状態なので、全体を見渡せば食漫画自体はそこまで多くはない。