はてなキーワード: スーパーマリオとは
冬至冬中冬始め!
冬至!
今年の冬は焼きリンゴ作りに暖簾に腕押し腕まくりで精を出すわよ!
なんでも火でこんがり焼いちゃおうって、
調子に乗って焼きキノコも作ろうとしたら焼きすぎて灰になって天に舞ってしまいました。
私の雪国まいたけがー!
そんな私の心の俳句を詠みたくなるほど。
あと野営しているゴブリンのアジトに口笛を吹いて遠くから火のついた弓矢で奇襲するのにももう慣れました。
最初は可愛そうって思ってたけど、
背に腹は川背られないけど、
ごめんなさいね。
あとさ歩き回ってるんだけど、
まあゼルダの話しなんだけどね。
雪国に行ったら寒くて死んじゃうし、
泳ぎ渡りきれると思って泳いでいったら寸前で息が続かなく息絶えて溺れちゃうし、
あとなかなかこの土地ではもうキノコと植物しか食材がなくてコウモリみたいなモンスターの目玉も焼いてみようと思います。
それはさておき、
本当に寒くなってきたから、
なるべく攻略本の類いは読まないようにしているんだけど、
どうしても読みたくなるのよね。
もうどこに行っていいか詰んでるかんじだわ。
そんなに広くない大地なのに
山がそびえ立っていたり、
小さな湖もあったり、
きっとその向こうには何かがあるはずなんだけど、
本当にこれって人間が私含めて35人で戦っているのかしら?と
ようやく私はデスマッチで1位を取ること達成したのよ!
もう感々無量だわ!
ヒーローインタビューしたいぐらい!
スーパーマリオの1-1と1-2を延々にやり続けるとは思わなかったし、
たまにくる1-3の空中アスレチックステージもなんとか足を踏み外さないようにうまくゴールできるようになったわ。
日々人って成長ね。
そう思う自分が成長したと言う実感を噛みしめまくりつつましく!って思える冬休みにしたいと思わない?
だから私はたぶんこの冬ゼルダとマリオをで走り回る旅に出ると思うから、
でもさー
ググったら負けって言うし、
ここはしかとしばらくはオープンワールドのフィールドを走り回りたいと思うし。
そうあと聞いてよ。
弓矢で鳥を仕留められて鶏肉ゲットよ!
あ!これも火で焼いたら、
美味しいローストビーフが出来るんじゃない?
走って逃げていったので追いかけて行ったけど追いつけなくて、
この時期のこの時期のよ!
あの年賀状書き!どいめんがくさいのよ!
不慣れなことを
日頃あまりしないことをすると絶対に間違えるという黄金パターン。
ああ、
絶対私ゼルダ年賀状印刷クエスト両面裏表間違えて印刷しそうよ。
自信あるわ。
なんでゲームの中で年賀状せっせと印刷するクエストがあるのよ!って
なんとも皮肉ね。
お手紙渡して
うふふ。
具は控えめね。
そんな感じ。
1つにしました。
そう!もう読めたかしら?
私とのお約束よ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
特に理由はないのだが、最近の通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインドに旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカの台詞では長母音の場所が間違っている、みたいな話にもなった。
それはさておき、「ラーマーヤナ」である。英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドのスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人の形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代や地域によっては必ずしも自明ではないのだ。
また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。
「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上の宝石の装飾品をつけて輝いている」
この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インドや東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である。
しかし、近現代のインドの叙事詩を描いた絵画では、上半身を普通に覆っている。
シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図
それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫の性的空想だったのだろうか?
そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的な証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に、英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。
In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略)
ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性は上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀や20世紀初頭の南インドの先住民の女性の間では普通のことであった……(以下略)。
そういうわけで、古代インドの女性はおっぱい丸出しだった。手塚治虫は変態だったかもしれないが、古代のインドの服飾史については、嘘をついていなかった。
また、「古代インド おっぱい」と日本語で検索すると、次のようなツイートが見つかった。
https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378
古代インドに詳しい方が日本語で情報発信をしてくださると、大変助かる。
よく、東洋を舞台とした作品でブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。
実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代のクレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本の海女さんもかつては上半身裸が普通であった。
ところで、英語版のウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。
The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.
乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カースト(シュードラ)と不可触選民(ダリット)に属するヒンドゥー教徒の女性が、公共の場で乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人が女性の乳房の大きさによって額を決めていた。
なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性の苦痛、いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由を意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。
これについて日本語の資料が見つからないかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。
古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマの公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。
そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式に謝罪した。国内の有色人種を無視していたし、外国の文化も過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族の過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。
とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位や小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米や日本がオリエントの人間を過度にセクシャルに表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。
それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手の価値観や服飾文化の破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものがデファクトなグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。
シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖の文化や伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的な好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。
今回は古代インドではトップレスが普通であったことを示した。また、乳房の隠蔽はキリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。
今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタも乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人の守護聖人であったが、いまでは乳がんの守護聖人ともなっている。また、戦時中の日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房は母性の記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味で露出することもある。私の身体は私のもので、勝手に意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。
加えて、世界各地ではどのような形の乳房が理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。
実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインドの彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである。
このあたりは西洋の絵画史からたどるのがいいかもしれないが、芸術が個人の自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。
また、逆にトップレスが世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。
前編
京都での大学生活がスタートした。当初の感想としては「ラーメンがうまい」、次に「車での移動は不適」。
大阪には意外とうまいラーメン屋がない。今は知らないが、当時の俺の生活圏ではそうだった。
京都の道路は本当に混んでいて、車で移動しようとすると骨が折れた。かと言って電車は電車でかゆいところに手が届いていないし、そもそも京阪電車以外で京都大学に行くのは大変なので、自然と自転車を活用する暮らしになった。
京都大学はよく、「1人の天才を作る為に、99人の廃人を作るところ」というような揶揄をされる。実際に通ってみると、半分は正解だが、もう半分はそうでもなかった。ただこれは俺が通っていたころの話なんで、今はどうなっているか分からない。
まず大前提だが、俺は他の大学を知らない。その上での結論だが、京都大学には「学生を育てよう」とかそういう気概はサラサラない。他の大学では学生を育成しようとしているかどうかの判断は俺にはつかないが、少なくとも京都大学工学部の教授連中はそういったことを放棄している。もうこれは誰が何と言おうと、厳然たる事実であると言い切ってしまいたい。小学校~高校までと大学とでは教育の質が違うというのは理解しているつもりだが、それを加味しても「放置されている感」は拭えなかった。講義の内容がスカスカとか、そんな事はまったくない。・・・まったくないのだが、BotWというよりはMinecraft、いやテラリアに近い感覚だった。チュートリアルと言うか、導きがほぼない。
だから前述の例え話は、「京大生が100人いれば、その中で輝ける天才となり得るのはせいぜい1人か2人」といった意味合いのほうが強いように思える。そもそもだが、「100人中1人だけが~」等とはいうものの、100人全員が京都大学に入れる程度の学力はある訳で、学力とか向上心とかそういったものはほとんど皆が持っている。
それを踏まえた上で、「そんな人間が100人いても(言い方は悪いが)全員が天才として輝ける訳ではない」のである。故に、そんな過酷な環境でも生き残れるような人だけが「天才」と称されることになるし、実際にそういう人だけが余人には到底及ばない領域に到達する事ができる。そんな環境が生んだ例え話なのだろう。
俺はなんとなく「99人のエネルギーを吸い取って1人に集めるのじゃ!」等とのたまうマッドサイエンティスト的なものを想像していたが、全然そんな事は無くて、天才と称されなかった99人も、一般の人から見れば大半がじゅうぶんに天才に見える。・・・多分俺も、世間一般から見れば「天才」とか「秀才」とか呼ばれているのだろう。俺自身そうは思っていないし、99人中95人ぐらいまでは同じ感想だろう。
ただ、多少余談ではあるが、99人とはいかなくとも、京大生が100人いると、7人~10人程度の「廃人」が何故か確実に発生する。
麻雀廃人、起業廃人、引きこもりなど、廃人の種類に差はあれど「一般人の枠をダメな方向に大きく踏み外してしまっている人」は、いつの時代でも何故か一定確率で発生してしまうようだ。このあたりは今後の研究を待ちたいところではある。
閑話休題。
そんな大学、俺が中学の頃から焦がれるように望んだ大学での授業は、控えめに言って最高だった。多分、俺の今までの人生の中で、一番光り輝いていた時間だったと、今でもそう思う。
俺は「自分は天才になりたいから、京都大学に行きたいのだ」と、そう思って京都大学を目指していたのだと、そう思って生きてきた。京大に入れば、自分は天才になれる。天才である証明ができると、そうあれかしと願って入試を受けたのだと。
だが実際はそうではなかった。件の99人の廃人の例え話でいうと、俺は天才には到底なりえない側の人間であると、京都大学に入る遥か昔から理解していたはずなのだ。それなのに京都大学を目指した。もちろん天才のための供物になるつもりは毛頭ない。明らかに矛盾している。そんな単純な事にはじめて気付いたとき、俺は「血、かな・・・」と独りごちた後、ちょっと笑ってしまったのを、今でも覚えている。
大学に入って、年月を重ねて、半人前なりに様々な人生経験を得て、やっと結論に辿りついた。
俺は、天才が、見たい。
動機は分からない。自分がなりたかったもの、なれなかったものを見たいだけなのかも知れない。でも俺は、ありとあらゆる分野で、光り輝く天才たちの紡ぐ、まばゆいばかりの光を放つ功績を見たいし、もし叶うのであれば、己の眼前で、その天才の目撃者となりたい。
スポーツや将棋では、眼前の目撃者となれない。かけっこがいつもビリだった俺に、未だにハム将棋に勝てない俺に、そういった分野で生き残っていけるはずもない。自分がかろうじてでも食い下がれる分野で、その分野の天才の所業を、リアルタイムで見たいのだ。そう思った俺は、就活もGAFA的なところに絞った。この分野なら、まだ勝負できる。自分のフィールドがある。そう信じて、片っ端からESを送って面接しまくった。
就活はかなり苦戦したが、なんとかかんとかとある企業から内定をもらうことができた。今はそこで働いている。
勤続年数などは伏せるが、今現在の日々の業務は結構ハードだ。このご時世でも皆バリバリ働いでいるし、会社からは継続的に結果を出すことが求められている。それだけではなく、現状で満足することなく、より大きなプロジェクトを立ち上げたり回したりする事を求められる。
俺自身はハードな業務の中、ついていくのが精一杯といった感じではあるが、才能ある人間の成果物、仕事のやり方、会議で放たれる言葉。そういったものに直に触れながら毎日働いているのがとても面白い。
と言ったそうだが、得心することしきりである。
俺は良く海外とのテレカンで「I have no idea(何も思いつかないよ)」と言ってしまうのだが、天才の出すアイディアと言うのは、まさに「just idea(思い付き)」のなせる業なんだなと感心しながら聞いている。そんな言葉をリアルタイムで聞けるのが、本当に嬉しい。
※ちなみに、京都の企業でもあるので、新卒当時は当然任天堂さんにもエントリーしましたが、見事玉砕しました。
任天堂の方、もしこれ見てたらお声がけ下さい。宜しくお願い致します。
なんかカッコいい、結論めいた事を書いて締めたかったけど、ふと思いついてダラダラ書き出した文章だからやっぱり締まらないな。天才じゃない人間のjast ideaなんて、そこはご勘弁願いたい。
言いたい事というか、伝えたいこととして何となく思い浮かんだのが「暗殺教室」って俺の好きな漫画。
この漫画内のセリフに「そもそも人に何かを教えたいと欲する時、大きく分ければ理由は2つしかない。つまり、自分の成功を伝えたい時か、自分の失敗を伝えたい時です。」ってのが出てくる。
一般的に見れば、今のところ、俺の人生はまあそこそこ成功しているように見えると思う。でもやっぱり俺自身は数多くの失敗を経験したと思っていて、失敗を経験したからこそ今までやってこれたのかな、と思ってる。だからもし、俺のこの文章の中に「伝えたいこと」があるとすれば、それは俺が京都大学に入ったとか、有名企業に入ったとかじゃなくて、「もっと早くから環境を作るべきだった」って事かな。
俺の人生の中の「うまくいかなかったこと」に対して、仕方がなかった、どうしようもない、そんな感じの慰めは今まで掃いて捨てるほど貰った。でも俺自身は、自分自身の努力によって、色々なんとかなったんじゃないかと思ってる。誰かが言っていたと思うけど、「後悔」っていうのは、ホントに脳に埋め込まれた時限爆弾だよ。そんなもん抱えて生きるぐらいなら、地雷原に突っ込んで爆発させたほうがマシだと思う。
秋葉原通り魔事件。宮崎勤の事件。ああいう事件で「抑圧されて育った人間の歪み」を見聞きするたびに、他人事ではないなと感じる。
母親は教育関係の仕事をしており、子どもを立派な大学に入れたスーパーマザーである。
しかし、その子どもは、無事に無い内定引きこもり無職(一応学生)となっている。社会性が育つ場面で極端に制限をかけられた子どもがどうなるか。20年をかけた壮大な人体実験の記録を一つ読んで欲しい。
1.恐怖で抑圧させて勉強させられてきた幼少期
私は物心つく3歳の頃から、毎日「ノルマ」を課せられ、やりたくもない勉強と向き合い続けてきた。母親が帰ってくる前までに母親の決めた「ノルマ」を仕上げないといけない。このノルマが終わっていないと、「指導」が始まるのである。例えば、「なぜ今日は出来なかったのか」について一時間、二時間、と向き合う。答えられず無言でいると「そうやって私を無視するのか」と詰められ、「バカだったからです」と答えれば「勉強が出来ないバカは家から追い出す」、「離婚したダメ父親の元に送る」、などが提案される。この「話し合い」は深夜にまで及び、「なぜできなかったのか」答えさせられる「自己批判」の時間では「どのように答えればこの人は納得して寝かせてくれるのだろうか」をパニック状態の頭で考えることとなるが、どれを答えても地雷。最後には不甲斐ない自分に関する悔し涙を流す。すると「反省しているポーズをとるな」と詰められる。涙を拭けとティッシュを渡され、鼻水を拭いたティッシュを丸めて置いておく。
「今日のノルマをやってから寝るよ」。勉強をしていて情けなさに涙をこぼすと、「泣くな!」と怒られ、鼻水を拭いたティッシュを口に入れられることもあった。彼女自身、子どもを支配するのに必死だったように思う。子どもの一日というのは大変長く、誘惑に満ちているので、ついつい遊んでしまうのだが、昨晩課された、あるいはノルマ棚に置かれたプリントを見て勉強をするほど私は賢くはなく、この「指導」の時間が辛く無駄な時間だったと感じる。
そんな物理的な圧で勉強に向かわせてくる母親であったから、うちはゲームが禁止だった。周りの友達が全員「たまごっち」を持っている中、買ってもらえずに輪に入れないということもあった。何度かお願いをしてみたのだが、ダメだったし、この人には何を言ってもダメだと分かっていたから、諦めた。現在、「スーパーマリオ」や「ポケモン」は基礎教養だと思うが、私はそれらで遊んだことが無く、アクセスできなかったため、それらに関する話題が出た時に全くついていけないのがかなり困っている。一生困ると思う。「ポケモンの金銀並みだな~」とかいう比喩表現を聞いたとき、「そうですね」とへらへらと笑って合わせていくスキルを20過ぎに身に着けたが、付け焼刃感というか、相手の言っていることが何も分からないので悲しい。
友達の家でやればいいというお声もあるだろうが、「母の目の敵にしているゲームを触ること」は私にとっては「大麻にトライすること」くらいハードルが高かったのである。今でもゲームをしている人を見ると謎の居心地の悪さを覚えてしまう。
漫画は、年の離れた兄弟が大量に所持しており、そこからこっそりと借りることが出来た。捨てられたジャンプから、好きな漫画をカッターで切り抜いて、単行本を作っていた。ただし見つかると「私刑」である。生命活動を勉強時間に全振りすることで東大に合格できると思い込んでいた母親は、勉強以外の活動をしていると烈火のごとく怒った。弟の気に入って隠し読んでいた「純情パイン」は八つ裂きにされて捨てられてしまった。
幸いにして私は小説を読む方にはまっており、私のメインの趣味である読書は「推奨」される行為だった。(ただしノルマをやった後、寝る時間を惜しんで読書を優先すると叩かれる)図書館のお気に入りの本は読みつくしたし、母親の検閲(中身には興味がなく、文字かそうじゃないかが重要だった)をクリアする「涼宮ハルヒの憂鬱」等ライトノベルには大変お世話になった。グロ系や耽美、18禁のものも、「本」なので良かった。ここに関しては寛大な処置を頂いたと思っている。
そんな読書少女に育った私は、頭でっかちの、言語性だけが身に付いた、悲しいモンスターだった。小学生の頃、女子特有のクラスのトラブルに悩んだ時、最高指導者である母に相談してみた。すると「増田ちゃんはそんなレベルの低い子と無理して仲良くしたいの?」と一刀両断。そうか。周りの子はレベルが低いから、関わらなくていいのか。誤解した増田ちゃんは「基本的に物腰は柔らかいが、トラブルにすら巻き込まれないように一歩身をひく付き合い」を心がけるようになる。また、友達と遊ぶことは制限されており、家に友だちを呼んではいけなかった。新しい友達も「どこの、誰で、何をしている親の、どういう子」かを説明するという責任があり、母親に認められない子と遊ぶことは良い顔をされなかった。そんな中でも文通をしたり、こっそり会うといった方法で仲良くしてくれた友人には頭が上がらないのだが、やはり「友人と遊ぶ」ことがダメなので、せっかく仲良くなったクラスメイトとお祭りや、ショッピングなど楽しいイベントに出かけることは出来なかった。(そもそも自由なお金がなかったし、バスにも乗れなった)
高校では、最初は素敵な友人グループに属させてもらった。友人たちと仲良くしてもらって感謝しているが、その中でも「この間のショッピングモールで~」のような会話にはついていけないことが増えていく。ついに深い交流をすることは出来なかった。今でも交友関係を続けている同級生同士がとても羨ましい。
そういった抑圧の下で生きてきた結果、やはり20代半ばで実感しているのが、「勉強だけ出来てもダメ」ということだ。
最近の教育分野では「非認知能力(社交性とかもろもろ)」が重視されているが、詰め込みノルマ型の勉強の成果をどうにか形にしたり、就職して社会に還元したりする上ではこの能力が必須である。元々ASD傾向がある上に、社交の一切合切を無駄と切り捨てられて育ったことは大変大きな損失だった。そもそも母親も社交スキルが低く、同級生のママを見下しながら、自分が適応できないことの憂さ晴らしをしていた。母親も、社交スキルをどう教えて良いか分からなかったのだと思う。その結果、「コミュ強を見下す」という戦略に走ってしまった。結果はどうか。増田で長文を投稿し、コロナもあって友人関係が更に狭まり、就活で全滅の、「無敵の人」予備軍の出来上がりである。
母親は上記のようなことをほぼ忘れ、「でも〇大に受かったから、よくママ頑張ったでしょ」と承認を求めてくる。〇大に受かっていなかったら、今よりも肩身が狭い、バカのコミュ障が出来上がっていたかもしれない。
ただ、〇大に受かった後、うつになり、頭の良さがかなり下がったので、結局「何もできないコミュ障」が完成してしまった。
20年をかけ、社会的なコミュニケーション能力を切り捨てて詰め込み教育をするとどうなるか??うつになり、頭も悪くなる。
「アルジャーノンに花束を」のチャーリィよろしく、どんどん阿呆になっていく様を記録して後世に残すことが私の役目なのかもしれない。
元増田です。
あれからブコメやトラバを参考に色々考えたけど、まあ買い切り型のレトロゲーが一番マシ、それも手持ちのiPhoneで遊べるのが手軽かなと思うようになった。
それを踏まえ、まずは文句なしの名作の中から、とっつきやすそうなのということで、Bluetoothのスタンド付きコントローラーだけ買って、FFⅦをネタバレ禁止で完全初見プレイしてみようと思っていたところ。
筆者にとってはかなり久々なRPGなので、多分クリアするのに一ヶ月以上かかりそうだけど。
あとRPGだったらクロノ・トリガーが次点候補。こっちも完全初見で。
あとiPhoneで遊べるか知らないけど、みんなのリズム天国もそのうちやるかも。
プロの音楽家が「音楽的に気持ちいいタイミングを押さえている」と賞賛していたので、それなら趣味が楽器の自分でも楽しめるだろうと。
他に名作だと、スーパーマリオもよく挙がるけど、「Bダッシュジャンプってどうやんの」レベルかつ、クロノア遊んだ時点で「アクション向いてないかも」と思った人間が最初に手を出す代物ではないだろうから保留。
ブコメやトラバにあったマイクラは、やるならサバイバルモード一択だけど、ソロプレイ派で、この数年でゲームのwikiは「困ったら見る」派に転向した自分が遊んだら、ゲーム開始から数ヶ月くらいは、かなりの頻度でアイテム全ロスをやらかしそう=しんどいプレイになりそうなのが目に見えているので、これも今すぐ遊ぶ気にはなれなかったり。
「今日も上司に滅茶苦茶怒鳴られまくってサンドバッグ状態だよ」などという使われ方をよく見る
一方的に罵られ叱られこちら側は全く抵抗出来ない状態を指すらしい
ただ考えてみよう サンドバッグは痛みを感じるか? 全く感じない むしろ殴っている側の方が手は痛いし疲れてくるはずだ
真の「サンドバッグ状態」に到達出来れば相手の攻撃をほぼ無効化し、相手だけを疲れさせることが出来るので是非マスターして欲しい
■立ち方
「グラップラー刃牙」に出てくる三戦(サンチン)の構えが理想 ただ本当にやっては怒られるので気をつけの体勢で
足を少しだけ八の時の形に、膝をすこーしだけかがめ、両肩を少し前に出す これだけで各段に防御力があがる
■表情
無表情で定期的にうなづくのが良い 口を動かすと反論しているように思われさらに攻撃が増すので口は真一文字に閉じておく
■頭の中
上司の罵倒が頭の中に入って来ないようずっと別のことを考え続けるのが良い
ただ複雑なことや難しいことを考えていると上司が「おい聞いてるのか」と言われたときに反応出来ない
私の場合は昔やったファミコンのゲームをBGMと共に思い浮かべるようにしている
スーパーマリオの無限増殖をやっている場面などはマリオの動きに合わせて体を動かすことでうなづいて相槌を打っているように見えるので良い
草競馬をBGMにファミリージョッキーを思い浮かべるのもお勧めなので試して頂きたい
■最後
上司の罵倒を浴び続けることでサンドバッグとしての経験値は溜まっていく
任天堂は前から批判されてるぞ。はてなーはいい加減洗脳から覚めろ
なぜ米国で『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が反人種差別主義のシンボル的存在になったのか? 「マリオは金と女のために戦うがソニックは違う」 | ロケットニュース24 https://rocketnews24.com/2017/08/19/941141/
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なぜ、彼がソニックを選んだのかというと、ソニックは反体制のヒーローで、いつも全体主義体制に反抗してきたからなのだとか。全体主義とは、個人の利益よりも全体の利益を優先させる政治体制のことで、ナチズムやファシズムもこれに相当する。
また、彼はTwitterで「スーパーマリオは金と女のために戦うが、ソニックは正義のために立ち上がるんだ」ともコメント。ソニックは反人種差別主義を訴えるキャラクターとして、まさに適役だったのだ。
「マリオもキモイ」から始まる【お気持ち】論争 - Togetter https://togetter.com/li/1314208
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Sophia @studentFem_N
マリオもキモい。マリオみたいなおっさんとピーチみたいな若くて綺麗な女がくっつく展開、小学生の頃からキモい無理と思ってた。男キャラはブサイクなおっさんばっかに加えていくらでもバリエーションあるのに、女キャラはほぼピーチとデイジーくらいで、特徴は「若くて綺麗」なだけ。
マリオにみられるメディアとしてのゲームの再考 https://keiolaw.org/wp/wp-content/uploads/2019/06/173-197_%E8%8A%A6%E7%94%B0%E6%B2%99%E4%B9%9F%E5%8A%A0%E6%B0%8F%E3%83%BB%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E9%9B%85%E5%BF%97%E6%B0%8F%E3%83%BB%E9%87%91%E6%9D%B1%E7%86%99%E6%B0%8F%E3%83%BB%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%9D%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E%E6%B0%8F%E3%83%BB%E8%97%A4%E6%9E%9D%E6%9C%89%E5%92%B2%E6%B0%8F.pdf
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1 はじめに
マリオの世界において、主人公がマリオで、姫がピーチという図式は変容していない。それと同時に、敵は人間でないという図式も同じく変容していない。マリオは道中で、キノコを具現化しているクリボーや、亀を象徴するノコノコを殺してゴールへと目指す。そしてボス戦では巨大な亀の怪獣を思わせるクッパを退治する。他にも「敵キャラ」と示すことのできるものは、花や魚などのように必ずしも人間のキャラクターでないことを共通項として述べることができる。同じキャラクターにはそれぞれに差異がない「アイコン化された」動物を殺すことで物語が進むのである。ゲームにおいて、マリオはキャラクターを一匹踏み殺すごとにコインという形で報酬をうけ、それが百コイン貯まるとライフが 1 つ増えるという仕組みを採用している。抽象化していえば、人間が動物を殺すことは正当化されているというより、むしろ推奨されているのである。ここには動物に対して、なにか絶対的な根拠を持たずに敵視し迫害するといった人間の種差別的な側面が明確に現れていると述べることが可能であろう。動物は人間により搾取される存在であり、人間は、当たり前のこととしてそれを教授する。現代において、動物差別をはじめとする種差別は、非難の対象になり得る。例えば、各国は、日本の伝統的な捕鯨猟に対して難色を示し、駅前では動物愛護をうたって募金活動をする集団も珍しくはない。つまり、現代の社会のなかで、動物の権利という論争は、珍しいものでなく、社会に広く浸透した論点なのである。しかし、マリオの世界観において、動物愛護派の目線から作品が提示されたことはない。構図は変化しないのである。それはどのような理由によるものなのか、社会とゲームはどのような関係性を持っているのかということについて本論では考察する。
当時学生で、ピアノを専攻していた私は、本業のピアノそっちのけで、徹夜で「マリオ」にハマリまくり(しかし、一度たりともクリアできたことはありません……涙)。
当時やりすぎで、肩凝りはヒドイわ、腱鞘炎になるわ、腕は疲れて上がらなくなるわ……。→ピアノが弾けない、→先生に怒られまくり、と、エライ学生生活になってしまいました。
だから、今回「マリオRPG」を担当という話になったときは、本当に嬉しかったです。
最初から頭にあったのは、従来のマリオシリーズのイメージをこわすことなく、且つ、とらわれることなく、自分自身のマリオワールドをいかに作るかということでした。
そこで、まずマリオシリーズの音楽を聴いてみることから始めました。コレがやっぱり、何度聴いても、すごくええんですわ。
シンプルで無理がなくって、押さえるツボはちゃんと押さえてあって、何よりも素晴らしいのは、聴いてる人を楽しませてくれることです。
ドキドキとワクワクがいっぱいつまってる。いやぁー、素晴らしい。
なーんて感心してる場合じゃないぞ。こりゃ大変だー、エライの引き受けちゃったな―、何か蒼くなってきてしまったりして。
そーだな、音楽の路線を似せてみるとか、単純にアレンジを多用するとか、似たよーな音色使ってみるとか……。
うーん、そんなんじゃないな。なんか、もっと、自然にやりたい。そーそー、理屈じゃないのよね、音楽って。
マリオRPGワールドを楽しんでもらいたい、曲を聴くとなんかちょっぴりシアワセになれるような。
楽しくってドキドキワクワク。あー、そっか、そーなんだー。うんうん。要は私が楽しめればいいんだ。
ハイ、「直情型」の出番です。私が楽しんで作って、私が自分で聴いて、ちょっぴり愉快な気分になれたら、それでいいに違いないっ!(ホンマか?)
普段、横向きしか見たことのないマリオは、いったいどんなリアクションをするんだろう。
当然、いろいろ町の人や仲間や、ともすればモンスター達ともお話するんだから、性格なんかもわかっちゃうかも。
うん、うー、なんか楽しそ―だぞ。あー、なんか、ワクワクしてきたなー。よし、いっぱい曲作っちゃお。
んで、やっぱし、昔のマリオの曲とか出てくると、「おおぉーっ!」とか思っちゃうんだろうな。うんうん。やっぱり懐かしーだろーなー。
そんな経緯で、今回何曲か、従来のマリオシリーズの音楽をアレンジして使わせていただきました。
なんでここでこの曲が……?とか思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、好きな曲で、雰囲気に合うなー、と思うものを、何曲か選んだだけです。
ごめんなさい。なんの計算もないかも……。アレンジは、原曲の持つ雰囲気をこわさないように、心を込めて行ったつもりです。いかがですか?
なんだか、今回、久しぶりに、自分の音楽の原点に戻ってきたような気がします。
最初、作曲を始めたときは、曲を作るのが楽しくって楽しくって、誰にも聴いてもらえなくてもいろいろ作ってました。
そして、画面に合わせて曲を作り、曲に合わせて画面が動き、自分の音楽をたくさんの人々に聴いてもらえるステージがあることが嬉しくって嬉しくって、有頂天になってました。
全然書けない曲のジャンルにチャレンジして、挫折したり、成功したり……。無謀なまでに、突っ走って、失敗も多かったな(今もかなり無謀かも……)。
そりゃあ、何年も曲作っていると、逃げ出したくなるくらいツライ事とかもあるんです。
あー、もー、ヤメちゃいたいっ、勘弁してーっ、って感じ。
でも、ホント、今まで続けてきて良かったな。これからも、続けていくんだろうな。
いろんな曲を書いて、得意な分野も磨いて、どんな種類の曲を書いても、どこかしら、私の曲だってわかる。そんな音楽屋になりたいな。
そうやって、自分自身を磨いていきたい。これからもずっと、私が曲を書いていたいと思う限り、直情型でいいじゃない、ねっ?
Thanks Mom & Dad, my brother, friends, and loved ones
All "SUPER MARIO RPG Original Sound Version" Staff,
I appreciate all those who provided me a big stage by name of the video-game.
I'm extremely greateful to all of my exciting experiences,
ocean, mountains, the earth, music, MARIO and also you who listen to my sound.
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MAKING OF "SUPER MARIO RPG" PLEASURE MUSIC
(COMPOSER YOKO SHIMOMURA)
●対 クッパ戦
この曲は、割と早い時期に作ったのですが、お気に入りの一つです。
原曲は、"SUPER MARIO BROS. 3"のクッパの曲。
今回は何曲か原曲をアレンジしてますけど、アレンジを織りまぜても上手くいきそうな自信が持てた曲です。
実はマリオ3の曲は結構使ってます。例えば、「Super Pipe House」(マリオの家)、
メロディはお馴染みの曲だけど、バッキングのフレーズはマリオ3から頂いちゃったんだな。
●森のキノコにご用心
この曲は、とても周りの人たちに好評でした。その理由を、サウンドエンジニアの菅原氏が分析してくれました。
「この曲だけ妙に叙情的だから。」 ……そーですか、[妙に]ですか。
だってだって、ここは一番最初は「精霊の森」って名前で、その次は「迷いの森」で、最後には「ハナちゃんの森」だもんなー。
最初は結構、このワールドの中では、異質な神秘さを持っている感じだったんですよー。ま、いっか、気に入ってるし。
●Docaty Mountain Railroad
ある時、会社近くのお好み焼き屋さんで、夕食をかっ食らっていた私は、そこでBGMとして流れていたカントリーに激しく心を奪われてしまった!
もー絶対、これは、トロッコをカントリーにしろ、という神様の思し召しなのだわっっっ!
しかし、そこでかかっていた音楽はすごく古いもので、廃盤だそう。
気持ちが冷めてしまわぬうちにと、勢いで書いてしまった曲は、作曲に要した時間は30分でした。ま、そんなモンかも……。
これも当初のイメージと全然違ったんで、アワ食ったうちのひとつです。
「ブッキーの塔は、遊び好きのブッキーが、塔に来る人と遊ぶため(!?)仕掛けをいっぱいつくった、おもちゃ箱みたいなカンジ」と
聞いていたので、かわいくて賑々しいのを想像してたのですが、開けてビックリ「男のロマン」と言われてしまいました。どひゃー。
企画の人と、グラフィックの人の強い要望で、こういうノリになりましたが、濃ゆくてピッタシ。
これ、自分で言うのもナンなんですけど、ヘンな曲ですよね。後ろで鳴っているのは、もちろん、マルガリータの笑い声です。
サンプリングヴォイスは、サウンドエフェクツ部隊の「ちーちゃん」。普段、全然高飛車ではない彼女に、高飛車になってもらいました。
しかし、ヘンな曲だぁ~。笑い声がなければ、途端に普通になるんだけれど……。
●対 変身好きのカジオー戦
最近のご時世、必ず、ラスボスさんは変身してくださいます。(変身しないでくれたほうが曲数が減って助かるのに……)
今回は変身しない予定だったんですが、やっぱり、最後の最後に変身なさってしまいました。ガックシ。
もーどんな曲にしよーかとブチ切れてしまったので、こ~んな曲になってしまいました。
ちょっとだけ途中に出てくるレゲエノリのところが気に入っています。
○ご飯
朝食:サンドイッチ。昼食:コロッケパン、ソーセージパン。夕食:豆腐と白菜の鍋。納豆。アンパン。
(三食パンは偏ってるなあ。最近なんかパンが好きみたい。明日の分のパンも買ってから気づいたので、明日もパンです)
○調子
むきゅーはややー。
日課のようにボスバトルをちまちまこなして…… ストーリーで大大大大活躍したディアちゃんを入手しました! やったぜ!
それにしても、完全にガチャの引きどきを見失っている。200連ぐらい回せられるのだけど、フェスがあるわけでもないから、いつ回せばいいかさっぱりわからない。本格スマホRPGのせいで「天井以外信じない」という固定観念がみっちり植えつけられてしまっている弊害だなあ…… 根本的に無償石での天井ないゲームだからさっさと引いた方がいいんだろうけども。というか、多分ストーリーを読む以上のことはする意欲がないから、まあ適当でいいや。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「フライハイワークス」:「1:Shizuku」(3DSDLソフト)
1972-3-3に苦戦中。1ステージ1ステージかなり時間がかかるようになってきた。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「ポケモン」:「4:ポケモンレンジャー」(DS)
落石のミッションを攻略中。今回も、同僚のマリアちゃんと少しだけいちゃつけてよかった。ツンツンお嬢様なので早くデレがみたい。いや、デレがあるかしらないけども。あと、前のミッションから登場し始めた悪の組織のネームドキャラ、ゴーゴー四兄弟がいわゆる下手に憎めない敵キャラポジションで面白い。ポケマスってこういうのを拾って行く路線はないのかしら?
いや…… それでいうなら…… コマスターの悪堕ちしたライバルのあの人(もう名前が出てこないよ)を、せめてどこかでいつか救ってあげてほしいなあ…… なんだよ、仲の良いライバルが悪堕ちしてそのままストーリーが更新されずにサービス終了て。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「スマブラ参戦作品の元ネタを色々遊ぼう」:「1:スーパーマリオブラザース2」(スイッチのファミコンオンライン)
6-3までクリア。無限ループ面はさくっとぐぐってクリアしようと思う。
○遊ぶゲームランダムにきめーる「最高のコンテンツを作る会社のゲーム群」:「3:本格スマホカードバトル」
ヴァンパイアのユリアスのシナリオを6章までクリア。初めて使うクラスの人は滑り出しに時間がかかるなあ。
ただ、前回のプレイに続いてまた好きなカードができた。今日とても気に入ったのは、ヴァンパイアクラスのヴァンパイアスレイヤー・ルシウス。1コスで入れやすいから入れてたのだけど、とてもとても使いやすくていいカードだと思う。ルシウス自体、本格スマホRPGの方で見知ったキャラなのもあるしね。
どうも僕は、1コスで唱えれるけど序盤にも後半にも使い所があるカードが好きみたいで、もし本格的に対人戦や課金をするならこのクラスかなあと思えてきた。
超大作アニメRPGでのコラボキャラがイリヤだし、本格スマホRPGでのコラボキャラがヴィーラだしで、圧倒的クオリティのビジュアルファンタジーRPGの方は未プレイだけど本格スマホRPGではよく使ってるヴァンピィちゃんもいるし、最高のコンテンツを作る会社ユニバースの好きなキャラが揃ってるクラスなのも大きい。ヴィーラのスキンは買おうかなあ。