はてなキーワード: 浪人生とは
人生にターニングポイントと呼べる瞬間があるとしたら、私にとってそれはセンター試験だ。
10年以上前の1月、朝から雪が降っていた。東京だから滅多にないのに。そういえば去年も雪の日だったな、何かの運命かな、とぼんやり思った記憶がある。
***
勉強を全くしていなかったから当然の結果。でも、それまで順風満帆に走っていた「人生のレール」から脱線したというか、レールそのものが消失したような途方もない虚無感に襲われたのを覚えている。初めての経験だった。
国公立後期の不合格を見届けた後、親に懇願して浪人生となった。それからは、怠惰だった高校3年間を取り戻すかの如く、予備校で朝から晩まで勉強漬けの日々を送った。
心を入れ替えた、というと語弊がある。気を抜くとまた現れる虚無感が怖くて仕方なかった。眠る前に漠然とした不安に襲われる夜も幾度となくあったし、浪人生という以外に肩書きがない不安は常につきまとった。それらを紛らわすには勉強しかない、それだけだった。
見失ったレールの続きは、この大学受験の先できっと見つかる、そう愚直に信じて過ごした1年間だった。
***
迎えた2度目のセンター試験本番。
前日、私は例に漏れず緊張していた。布団に入っても「また散々な結果だったら?」と失敗する未来ばかり想像した。でも気がつくと熟睡していて、朝になって我ながらその図太さに驚くとともに、「もうなるようになれ」と吹っ切れた。
試験会場は大学の大講堂で、私の席は最前列だった。目の前の教壇には複数の試験官がいて、無駄に緊張したのを覚えている。でも、今思えば視界に他の受験生が入らないぶん、試験に集中できて良かったのかもしれない。
そう、後でわかることだけど、試験結果は控え目に言って上出来だった。各科目で凸凹はあったものの、総合では過去のどの模試よりも良い点数だった。
ただ、2日間の日程を終えた直後はそんなこと知る由もなく、とにかく安堵した。やりきったという達成感と微かな手応えもあった。そして何より、今日この日に実力を出し切れた「環境」に感謝していた。
そうだ、これは環境のおかげだと、なぜかそのとき唐突に悟った。あれだけ勉強してきたのに、自分の頑張りだとか、努力の賜物だとは一切考えず、今この場所にいることが全てだと感じた。
思えば1年前、両親が浪人を許してくれたことに始まり、予備校に通えたこと、長い間勉強に専念できたこと。応援してくれる人がいたこと。健康でいれたこと。今日、雪の中交通機関が動いてくれたこと。そして、無事にこの会場で受験できたこと。
どれも当たり前じゃないし、これを「運が良かった」の一言で片づけるのは勿体ない。私一人の力ではどうにもできない、有り難いことばかりではないか。
そんな当たり前のことに気付いて、私はいてもたってもいられなくなった。この感謝の気持ちを今すぐ誰かに伝えたい。そう思って、全科目が終わり皆が一斉に会場を後にする中、私は出口とは真逆の、試験官のいる教壇に向かった。
「2日間、お世話になりました。ありがとうございました」
「ああ、こちらこそ。帰り道、気をつけて」
普通科で美術が多めにできる高校に行き、その後3浪しましたが美大には行きませんでした。
いまでこそ何とか軌道修正して正社員として仕事をしていますが、
元増田さんの発想がちょっと他人事とは思えず遅ればせながら書かせていただきます。
私はもともと勉強が得意だったのに、生きづらさを感じていて、もっと人生を楽しく生きるために
好きなことを仕事にしようと美術(後にデザイン志望になりました)の道を志し特殊な高校に進みました。
そう、時間と努力で才能の差なんてどうにでもなるという発想です。
それはある意味では正しかったですし、また間違ってもいました。
芸大デザイン科ですが、おそらく人口減のため以前に比べ超絶技巧を求められるということはありません。
予備校で何年かしっかり取り組めば、よほど致命的な素養のなさがないかぎり十分合格レベルの
実力はつくと思います。しかしそれはあくまでも都内の予備校に通えた場合の話。
私はスタートが地方だったので浪人して上京した後レベルの違いに大変驚きました。
そして無視できないのが試験の際の緊張。想いが強ければ強いほど緊張も強くなります。
私は現役時代から私大含めて十数回実技の試験を受け、納得できる絵が描けたのはほんの一、二回。
(それこそががお前の実力だ、という指摘はもちろんあるでしょうが)
いずれにせよ実技の試験は水物です。大学の試験なんて人生からみれば小さなものですが、
しかし今のあなたはそこに人生をかけようとしていると思います。
それはデザインや創作において「絵を描く」というのは一側面でしかないということ。
私は、人とモノ(無形物、情報などを含む)の関わり方を整理して、
人の日常を豊かにしたいと思っていました。(抽象的ですみません)
そして色々考えると、私のやりたいことはむしろ工学や数学的なアプローチのほうが
ふさわしかったことがわかりました。人間工学ってきいたことがあると思いますし、
例えばフラクタルとか、三次元画像に応用数学がかかわってくることは知っていますか。
そうなると美術よりまずは理系に進んだほうがいい可能性もある、となります。
若い情熱がまぶしくて、水を差すようなことばかり言ってしまったかもしれません。
そのことをもう少し時間をかけて考えてみてほしいなぁと思った次第です。
私は全く別の大学の理系学科に自費で進もうとしましたが、入学後
美大受験の失敗からくる絶望やバイトのハードさ、なじめなさから心身の健康を損ない中退しました。
療養後一念発起して就職することにし、奇跡的にデザインとも薄く関わる、
(詳しくは書きませんがあれほど好きでなかった勉強が私のことを救ってくれました。
ちょっと専門的な仕事なので、通信で海外の大学で学びたいと思い、
今また準備をしているところです。
そういうわけで、人生は一度ですが、道は一つではありません。
別れたはずの道が意外とつながっていたりもよくあることです。
足元だけみて突き進むのももちろんよいです。
元増田です。
私の想定するような進路を実際に歩まれた方からのご回答は物凄く心強いです。ありがとうございます!
視力については私は両目共に1.0ありますので、問題はないかと思いますが、3列目に配置されてしまうと圧倒的なディスアドバンテージなのは同じですので、池田満寿夫さんの例を踏まないようにこれは運に祈るしかないですね…。
「一次試験では眼がすべてを決めると言っても過言ではありません。」
沁み入ります。心に留め、受験の際は眼のコンディションに細心の注意を払いたいと思います。
私より遥か年上の浪人生との交流ですが、この点についてもある程度自信を持っています。
中1の時に美術部に入り、その当時中3だった先輩達とすぐに仲良くなり、同期同然といった仲で一緒に遊ばせてもらっていたので、年上の先輩との良好な人間関係構築は楽しく行っていけるかなと。
いずれにせよ予備校昼間部の同じ科という極めて狭い空間で長い時間を一緒に過ごすことになる仲間(でありライバル)なわけで、好ましい関係が築いていけるよう努力したいですね。
失敗した時に損切りする柔軟さ、保険を掛けておくといった心得は、他の多くのトラバやブコメにて指摘を受けましたので既に準備ができています!ですのでその点でも大丈夫……と言いたいところですね。
現役時は藝大専願で受験しますが、1浪時は私大との併願で臨み、この場合も藝大に落ちた場合はその結果に対して柔軟に対応し私大への進学へ切り替えようかと。また就活の際には任天堂専願というわけではなく、多くの有力ゲームメーカーも同時に受けるつもりです。任天堂に落ち、やむなく他ゲームメーカーに入社するとなった場合は、その会社にて何年か研鑽を積み、中途採用枠にて任天堂を受ける予定です。
高一から予備校通いを始められ、藝大受験に挑戦、結果として海外デザイナーとして活躍されているという、回答者様の実際の体験談も伺えとても参考になりました。
私も中学の頃から東京藝大デザイン科志望で、別の理由で高校へ進学しなかった者です。大学受験資格は大検で取りました。
大手の美術研究所に高一の歳から通い続けましたので、あなたが考えているようなことを実行したことになります。
絵が下手だったからという訳ではなく、家族は全員美術系で、私自身も小さい頃から周囲が驚くような絵を描いていて受賞経験もありました。
では何故藝大受験に失敗したかというと、理由は主に2つあります。
藝大受験の一次試験の石膏像は埃ひとつ付いていない真っ白なものが並びます。
陽が当たると白くとんでディティールが全く見えません。
運悪く3列目になってしまった場合、眼が悪いと非常に不利です。
池田満寿夫さんはこのクジ運が悪く、毎回遠くて東京藝大受験に3回失敗したのは有名な話です。
一次試験では眼がすべてを決めると言っても過言ではありません。
2つ目は、3年間描き続けて受験のための美術に飽きがきてしまったことです。
高校に行かなくても学べることはたくさんありますし、時間を有効に使えば後々無駄にならない貴重な経験ができるでしょう。
ただ、15か16歳で周囲は浪人生ばかりになるので友だちを作るのにやや馴染みにくいかもしれません。
社会に出てしまえば歳の差は関係ないですが、その年頃では3歳以上の差は大きいです。
それよりアドバイスしたいのは、もし志望する任天堂に入れなかったり、入ったけれど任天堂が合わなかったり、他にもっと興味を惹かれるものを見つけたときに進路変更できる柔軟性とキャパシティーは持ち続けた方がいいということです。
人生は必ずしも思い描いた通りにならないことが多々ありますし、私自身も進路変更して幸せになりました。
道はひとつではないです。
悔いのないように頑張ってください。
さて、極論的な表現で恐れ入りますが、こちらで質問したいことの結論を書かせていただきますと、
「高校進学することなく、中卒後即座に大手美大予備校の昼間部に所属し、3年間誰よりもデッサンと色彩構成と立体制作に明け暮れ、現役で東京藝術大学デザイン科に合格する」
この進路の舵取りは一般的に考えて極論中の極論だとは思いますが、この事の是非を質問として問いたいです。いかがでしょうか。
長くなりますが、このように考えることになった経緯をお話しますので、お時間ありましら是非一読いただき助言いただけましたら幸いです。
この目標を確実に達成するためにどうすればいいのかを考えますと、やはりデザイナーの最高の教育機関たる東京藝術大学デザイン科に入り、数多くの作品を作り最高のポートフォリオを仕上げた上で卒業し、新卒でデザイナー入社試験を受けるのが最良との思いに至りました。
東京藝大は気が狂ったレベルの難関です。それは充分に理解しています。
ですので、1%でも高い確率で東京藝大デザイン科に入るためには1秒でも長い時間を実技対策に投じて腕を磨くことが重要と考えます。そのことを考慮した場合、一般の美大受験生と同じように高校通学に併せて美大予備校夜間部に通い対策をするというようなことでは、藝大デザイン科合格45名の椅子を巡る戦いに現役で確実に勝てる確率は相当低いと言わざるを得ません。
藝大デザイン科現役合格というのは、はっきり言って狂気の沙汰です。であるから、こちら側も狂気的姿勢で受験に臨む他ありません。一般的な受験生と同じ姿勢で臨んだのでは勝てません。そこで考えた受験戦略が「中卒後即大手美大予備校昼間部通学」というストラテジーになります。
一つは、他の藝大志望高校生に対し実技研鑽で圧倒的な差を付けられるということです。
藝大志望の高校生が予備校で使える実技学習時間は夜間の3時間のみ。週5日通うして一月の学習時間は3(h)×5(d)×4(w)で60時間に過ぎません。対して、昼間部は基本的には一日6時間ですが、朝の教室解放後最速でアトリエに入り制作を開始することで実質7時間は制作できます。これを一月やりますと7(h)×5(d)×4(w)で140時間。高校夜間部生に対し一月で約2.4倍の実技学習時間が実現し、現役生という枠の中であれば圧倒できます。
二つ目の利点は、「昼間部に三年通うことは実質的に三浪するのと同程度の力になる」という点です。藝大受験においては、当たり前ですが現役生以外に浪人生も相手取って戦わなければなりません。私も予備校見学に行った際に目にしましたが、浪人生というのは化け物みたいな画力を持っています。そんな彼等とも刃を交えて戦う必要があるのであれば、彼等と同じ土俵に入って学ぶのが一番です。そのための昼間部通学でもあるわけです。いくら浪人生といえども、三年も浪人している人間はなかなかいません。ですので、ここで私が高卒年齢に達するまでの昼間部三年通いという戦略を実行することで、浪人生以上の経験と実力を18歳時点で積み込めると考えたわけです。
以上がこの戦略の利点となります。ここまでやれば高い確率で藝大デザイン科に現役合格できるのはないかというのが私の考えです。
何故私がここまで現役合格にこだわるかといえば、それは就活の際に一歳でも若いというアドバンテージを得たいがためです。
私が目指す企業は任天堂です。任天堂ともなればゲームCGデザイナーの椅子を巡って日本最高の戦いが繰り広げられるわけです。そこに上がってくるライバルは様々な意味でデザイナー志望として最強の人間達であり、そんな中で勝ち抜いていくためには何か一点でも彼等に対し有利を取れるポイントを稼ぐ必要があります。それが年齢というわけです。藝大生は浪人生の割合が比較的高く、現役年齢であるだけで就活の際は彼等に対し有利を取れます。突出した才能を持っていないにもかかわらず、何が何でも任天堂に入りたい私としては、わずかでも有利になれるポイントをかき集めて戦いに挑むしかないということです。
「中卒後即美大予備校昼間部通学」という戦略を実行するにあたり、学科はどうするのかという声がありますが、学科に関しては独学で充分やっていける学力的自信を持っていますので問題ありません。中卒ということは大学進学時に高卒認定を受ける必要がありますが、試験問題を見たところそれも余裕で突破できるでしょう。
藝大に対する熱意のあまりつい長文になってしまって申し訳ないですが、ご助言いただけましたら幸いです。
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◆追記◆
もう夜も遅かったですし、この記事を投稿してからすぐに寝たんですが、喉が渇いて水を飲みに今起きて何気なく増田を開き直したらこんなにも助言の声をいただけてて本当に嬉しいです…!!
明日も早いため、またすぐに寝るのですが、明日また時間ができたらまとまった時間に皆さまのご助言を読ませていただき、可能であれば返信もさせていただきたいです。
本当にありがとうございます…!!
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◆再追記◆
ブコメにも沢山ご意見をいただきありがとうございます!
再び起きてしまいましたので、改めて寝る前にできるだけお返事を。
トラバとは違って、直接お返事をすることのできないブコメにこちらで返信をしたいと思います。
id:sangping 他人事だから適当に言うけど「任天堂に入りたい」が真の目標なら、もっと直截「任天堂に」狂気をぶつけた方がいいんじゃない?まずは任天堂の人事や経営陣にアポを取って話を訊いてみるとか。犯罪にならない範囲で。
「任天堂に直接狂気をぶつける」心に刺さりました。名言ですね。任天堂社員の方はSNSに情報を漏らさない(Facebook上であっても自分が任天堂社員であることを名乗らない)というのは聞きますが、もし任天堂社員の方と連絡が取れる機会がありましたらダメ元でダイレクトアタックしてみたいと思います。まだ何者にもなっていない有象無象の坊主のために任天堂の方のお手を煩わせるのは恐縮ですが、聞けるだけのことは聞きたいなと。
id:i5s4y デザイナーです。デザインの技術はテクノロジーでひっくり返されるので、そうならない基礎教養を高校できちんと学んだ方が良いと思います。あなたが構想しているのは “現在の” 任天堂の入り方です。
デザイナーの方に意見を頂けて嬉しいです!数年前にGoogleがAIにこの世の終末みたいな絵画を描かせたり、はたまたpixivでは綺麗な自動彩色サイトが流行ったりと、デザイン・クリエイティブの分野でもひしひしとテクノロジーによる作画技術の代替が起こっている波を確かに感じますね。高校で学べる範囲のことでテクノロジーに抗する、あるいは利用する教養を得られるとしたら数学・英語でしょうか。それらは情報デザインの分野とも結び付きますし、一考させて頂きたいですね。また恥ずかしながら、私は浅学ゆえに "未来の" 任天堂の入り方は分かりません。ただ愚直に、"現在の" 任天堂の入り方に固執し我武者羅に頑張るしかないところは恥じ入るところです。ですが、今後成長していく中で "未来につながる" 構想が獲得できましたら、より合理的に方針を転換して戦っていきたいです。
id:tsubo1 このブコメを書こうとして、書いては消し、書いては消しして10分経った。私はあなたの若さが持つデタラメな焦りが羨ましいよ。あなたの書いていることは隅から隅まで全くの見当違いだが、その情熱はいいと思う。
ありがとうございます。不覚にも、ウルッときました。私のこの殴り書きのような粗削りの計画書に何かを感じ取っていただき、ブコメを書くのに多少なりともの時間を掛けていただいたということに対して、私の方も沁み入るものがあります。ブコメやトラバを確認しますと、やはりこの計画が如何に無謀で見当違いかを思い知らされますが、情熱を評価していただけた点に深く感謝致します。
id:migurin 職種は違うがデザイナー歴約15年です。応援します。ただ、技術はいつかアドバンテージではなくなります。自分自身を磨くことを忘れないこと。入社を目的にせず、人を豊かにすることを目的にすることを勧めます。
デザイナー歴15年という、ベテランの方にもご意見を頂けて嬉しいです!応援頂き誠にありがとうございます。技術的アドバンテージに限りがあり、それに抗するため自分磨きを続けるという事、ご指摘いただきありがとうございます。深層意識に刻み込みます。私も、任天堂に入れたら、そこで世界の人々の感情を豊かにするゲーム作りに携わりたいと願っております。
id:MiG 技術を伸ばす「だけ」ならいいかも。でも遊びを作るのに遊び(も含めたいろいろ)の経験がないのは就職活動〜その後の職業人生で逆に不利になることが多いように思う。当方ゲーム会社勤務10年超デザイナーヨリ。
ゲーム会社勤務歴10年のデザイナーの方からもご意見を頂けて大変嬉しいです!美術版受験ガリ勉になるのではなく、様々な遊びが必要であるということ、良く分かります。今の計画を白紙に戻し高校へ行くというのはまだ抵抗がありますが、少なくとも確定している未来として藝大(あるいは万が一失敗したら武蔵美・多摩美)に入ってからはうんと遊びたいですね。芸術に関することだけでなく、都内で、そして海外で、様々な遊びを経験し糧としたいと思います。
id:manganzenseki 任天堂のデザイナーになった知人が何名かいるけど、みんな私大でしかもファインアート出身。あと受験漬けの美術版ガリ勉よりも教養あったりスポーツなどに秀でた人の方がするっと受かるよ。広く感性も磨くべし。
任天堂デザイナーになったという貴重な知人の方の例を紹介いただきありがとうございます!私大(武蔵美・多摩美)からも任天堂への内定を出していることは存じ上げていましたが、しかしその採用率となると藝大有利だろうという思い込みがありました。しかし知人の方の全員が私大出身であるということで、必ずしも藝大に固執する必要が無いということを気付かされたのは大きいですね。いずれにせよ藝大の魔に魅入られた私は藝大を目指しますが、万が一受験に失敗した場合は私大受験に切り替える柔軟さも持ちたいと思います。教養に関しては、藝大同期にゼルダ青沼さんがいらしたトラバの方の投稿を読んで重要性を改めて認識しましたね。ありがとうございました!
id:kash06 桁外れに難しい目標であるから、極限まで自分を伸ばす方法を……その覚悟は凄まじい。今の増田には考えづらい事だが、そのルートに乗れなかった時の為の保険を考えられる人が、うまく助言できる事も加えて願う
藝大の倍率はかつては東大の10倍以上にも及び、過酷すぎる競争になるのは火を見るより明らかでしたので、その対策の最善を考えていった結果の産物でしたね……。目指すルートに乗れなかった時の保険(藝大失敗→武蔵美・多摩美 任天堂失敗→他の有力ゲームメーカー)は既に決めてあるので、あとは私に最終的に損切りする覚悟があるか……ということでしょうね。ありがとうございます!
いただいたトラバ、ブコメは全て拝読してます。本当に参考になりました。
この記事を投稿した時はチラホラとした反応がある程度を想像してたので、全てのトラバなりブコメにお返事できると思っていたのですが、予想外に反応いただけたため全てのトラバ・ブコメに返信することは難しく、せっかく貴重な意見をいただいたのに申し訳ありません…!
改めて申し上げますが、いただいたコメントは全て拝読してますので、皆様のご回答全てが私にとって等しく参考になっています。
昨日、上田慎一郎監督最新作の『スペシャルアクターズ』を観てきた。上田監督といえば去年の夏『カメラを止めるな!』で一世を風靡した時代の寵児であることは多くの方がご存知だろう。『スペシャルアクターズ』は『カメ止め』フィーバー後、初となる(単独)監督作品としてそれなりに話題になっていた。
昨日観たのは、たまたま時間つぶしで私自身は「極力外れてなさそうなもの」を選んだだけで大きな期待はしていなかった。だが観終わってみるとまあまあベタな展開(最後のどんでん返し含め)ではあるもののかなり楽しめ個人的には満足感の高い時間を過ごすことができた。前作の『カメ止め』も今回の『スペシャルアクターズ』もそうだが上田監督作品の大きな特徴のい一つは出演者の殆どが「誰も知らない、だけど演技がうまい」ところだと思う。そして何より、演者全員がお芝居を楽しんでいる。それが見ている我々にも伝わってきてさらなる感動を生む。そんな役者たちを観ていて思い出したのがタイトルにもある僕の初めての彼女の話だ。
僕の初めてできた彼女はよく笑い底抜けに明るく、そして何より演劇が大好きだった。知り合ったのはTwitter。二人は同じ大学を目指す高校3年生だった。半年ぐらいリプライのやり取りが続いたあと、志望校の学園祭に一緒に行く約束をして初めて会った。雨が降る少し肌寒い11月の道を駅からキャンパスまで一緒に歩いたのを覚えている。その一ヶ月後の12月から僕たちは付き合い始めた。まあ、ここからの展開はこの手の話のよくある習いで彼女は志望していた国立大学に合格し僕は晴れて浪人生になった。もちろんここからもよくある話で大学の演劇サークルに入った彼女に秋口、あっさりと振られた。
昨日の夜、どうしても我慢できなくなって彼女のフルネームを検索窓に入れた。写真の中の彼女は明るい太陽のような笑顔だった。好きなことを全力でやっている人の笑顔だった。どうやら今も劇団に所属しているらしい。大きな賞ももらっていた。
その後の僕は第一志望には受からず第三志望の地方大学に進学した。理系だったのもあり大学院に進学し今は社会人一年目、付き合っていたときは想像もつかない土地に住み特にやりたくもなかった業種の特に楽しくもない仕事をしながら暮らしている。そんな僕に彼女の心の底からの笑顔は古傷に塩を擦り付けられるようだった。
僕はどう頑張っても彼女のようには生きられないのだ。
『スペシャルアクターズ』の主題歌『誰でもアクター』の歌詞に次の一節がある。
何も分かってない。
フェミニストが根拠もなく、破綻した論理で人権を侵害するから立ち上がったのがアンチフェミ。それに対してフェミが貼ったレッテルがミソジニストであるというだけ。
端的に言って、これまでの女医の貢献不足が原因。
こんなのはアホかガキのいうこと。
男にしてもスーツ・革靴等、それなりの身だしなみを求められるもの。(ドレスコードは男の方が遥かに厳格)
つまり、「女性だけ」ではない。にもかかわらず「女性だけ」と噴き上がり男叩きに走った時点でkutooは死んだ。ヒールが履きたくない、化粧したくないならドレスコードいらない会社を自分で建てたら?
この件に限らず、フェミは求める・喚く事だけに労力を使いすぎ
女性側が「通報する」という最低限のアクションすら碌に取らないのに、他人にばかり何を求めてるんだ?
男の慈悲で頂いてる女性専用車両をもっとぎちぎちになるまで使えば?
総じて、女性側の言ってる事とやってることが違いすぎる。口で言ってる危機感が行動に全く反映されておらず、説得力皆無。
・フェミニストが行っている、実力行使を伴う表現弾圧についてどう思うのか。それによって生活や生業を破壊される人間のことを考えたことはあるのか。
・フェミニストが数字や論理を持ち出すことができない体たらくについてどう思うのか。結果からの妄想や感情論だけしか出来ない状態でいいと思ってるのか。
・あからさまな男性差別である女性専用車両についてどう思うのか。男性差別を放置或いは推進しておいて、「男女平等」という言葉に説得力があると思っているのか。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051001317&g=soc
消費税10%引き上げ分の見返りとして政府が来年度から実施する大学無償化法案.すでに5月10日の参院本会議で与党などの賛成多数で可決した.
その実態は優秀な東大生や国立大生をむしろ有償化することで得た金を,馬鹿な私立大生や短期大学,専門学校生にバラまくことによって「実務家」「産業界出身者」を天下りさせるための餌に他ならない.
根拠.
東大は以前から授業料免除を行っており,その基準は年収400万円以下全員としている.東大以外の全ての国公立大も授業料免除を行っている.
現在の基準は398万以下が多数,上は634万以下までであるが,来年度から始まる大学無償化法案(年収270万以下対象)で統一されることでかえって無償化対象が狭まるという奇妙なことになる.
これまで授業料免除されていた学生が来年からは""有償化""されてしまうのだ.
また大学無償化により利子ナシの奨学金(第一種奨学金)を借りることはできなくなる.これまでは国立大で授業料免除を受けつつ第一種奨学金を借りることができたが,来年からは利子アリの奨学金(第二種奨学金)を借りるしかない.
http://www.c.u-tokyo.ac.jp/campuslife/tuitionwaiver/
http://miyamototooru.info/miyamoto/wp-content/uploads/2019/03/56184e038faf4572ce8a984085829966.pdf
私立大学,短期大学,専門学校も来年度からの大学無償化の対象であり,東大や国立大と同じ基準の年収270万以下の世帯が対象となる.
これは定員割れに直面しているFランク校や地方の学校にとっては渡りに船だ.
現状,定員を埋めるために1400人の留学生を受け入れ失踪させているような有り様の学校を救済するために消費税引き上げ分の税金が流れ込む.
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/16219382/
その条件として政府が提示しているのが「実務経験のある教員」による講義を増やすこと,理事に「産業界等の外部人材」を複数任命していることや,学生のGPA,出席率の高さである.
実務家という名の天下り素人や産業界理事が教育をめちゃくちゃにするのは論外として,この制度を設計した文部科学省の官僚は東大法学部出身が多いと思われるが,自分たちは学生の頃授業に出席していたのだろうか.
東大、とくに法学部はシケタイ等で難しい試験の対策をし,授業ではなく各々で学習している学生が多く実情にそぐわない無意味な規定である.
またGPAが下位4分の1の場合には無償化が打ち切られるがこれも実情にそぐわない.
Fランク大学のような簡単な試験で好成績を修めることでき他の学生もまともに勉強しない環境下と,東大のようなただでさえ進振り競争で受験勉強以上の学習を周囲が行っている環境下では,
GPA下位4分の1という条件の難易度が圧倒的に異なってくる.
大学無償化対象に,高校が推薦するための在学中の成績条件もまた極めてずさんである.まず評定が平均3.5以上,それを下回る場合はレポート又は面談により「進学後の学修継続の意志」を確認する.即ち教師が話してみてこいつ大学入っても勉強しそうだなーと感じればそれでOKである,
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/hutankeigen/__icsFiles/afieldfile/2019/05/22/1417213_01_1.pdf
最初に挙げたように,今回の大学無償化によって彼らが目指しているのは,これまで「やりすぎだった」国立大の授業料免除を縮小し有償化することである.
今回と同様の問題は以前にも指摘されている.
これまで給付型奨学金の対象だった高卒認定試験合格者や浪人生が今回の大学無償化法案の対象に入っていないことが問題となり,文科大臣は「対象に含めるかは未だ検討中」と答弁した.
https://togetter.com/li/1306471
消費税10パーセント引き上げを国民に納得させるための口実として利用しつつ,これまで無償化の対象だったものを対象外にし,有償化することが「大学無償化法案」の目的である.
実務経験教員を入れろとかで天下り陰謀論はどうなん。だから競争避けてポストを守りたいだけのポジショントークって言われるんだよ。実務経験有無で知の社会実装力に差があるのは間違いないぞ
実務経験を豊富に積んできたパソナ竹中平蔵教授から学べる東洋大学生は幸せですね.退学勧告で学生に社会の厳しさを叩き込むとはやはり実務家教員の知の社会実装力はスゴイ.
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12151-175766/
その数字は現在大阪大学が行っている授業料免除の基準額であり,来年の大学無償化からは年収270万以下に縮小となる.ここで問題なのはまさにその縮小によって有償化されてしまう学生の存在なので,指摘の意図がよくわからない.誤読しているのでは.
日本語もまともに書けない数千人の外国人留学生をタコ部屋のような教室に押し込み,バイト漬けにするのは学生の学力に合わせた素敵な大学教育です.
https://bunshun.jp/articles/-/11475
大学を金儲けの道具とする経営者がいるが,専門学校はどうなるのか.アニメ,ゲームの専門学校や声優養成学校は無償化の対象外にするようだが.
https://mainichi.jp/articles/20180418/k00/00m/020/093000c
なんでみんなF欄を目の敵にするのかね。私はFラン公立医学部を出て別のFラン公立医学部で働いてるけど、学生さんみんな真面目でよく勉強してるし、卒業生は地域医療で活躍してるよ
ボーダーフリーで定員割れにあえぐ公立医学部が存在するとは.まさかネットのMarchはFラン日大はFランの基準でモノを言っていませんよね.それどころか本文を読めばわかるように原義通りまさしくBFのFランク大学が大学無償化の対象になることを問題にしています.そしてFランク大学,さらには短大や専門学校は経営が厳しく教育環境として崩壊してる所が多いこの惨状を知った上で勤務先の公立医学部を「Fラン」と呼んでいるんですか
将来の夢とかどうやって食って行きたいとかが全く見えない
孤独な浪人生時代、「大学生になること」だけを目標に死ぬほど勉強した。
何とか志望校に入れて、とりあえず興味の赴くままに学内外問わず色々なことをつまみ食いしてみた。その過程で休学や留年を繰り返した。
どれもしっくりと来ず、つまみ食いそのものにも飽きてしまった。いつしか自分の人生に対してどこか他人事のように感じるようになった。
とりあえず何とか卒業はできそうだが、義務的に行なっている卒業の為の営み以外に、何のやる気も持てない。
自分は空っぽになってしまったのだろうか。本当に自分はこの先どうやって生きていくのだろう。
確か、大学最後の年くらいに就職活動をしとくもんなんだよな。就活してる皆は本当に頑張って欲しいし報われて欲しい。
俺は日々ただただぼんやりとしている。
高校生のころネトウヨだった。そしてその当時も、今も、僕はペドフィリアでオタクだ。
ネトウヨになったのは韓国について悪し様に書かれた文書を読んだことがきっかけだった。今にして思えば何故あんなものを鵜呑みにしてしまったのか不思議なのだが、はじめてネットに触れるようになった時期で、身も蓋もない言い方をすればネットリテラシーに欠けたからだろう。
韓国は卑怯卑劣で寄生虫だと信じ込んでいた。韓国だけでなく、同様に糾弾されていた野党や朝日新聞も当時の僕にとっては悪だった。―こう書いていて思うのが、その当時と今とで10年以上たっているのに、その間は決して平穏ではなく、寧ろ激動の時代であったと言っても良いのに、ネット上のこのような言説は変わらないということだ。変わらないからこそ、今ではもはや怨念のように凝り固まっているのだろうか
さて、高校生の時分に政治や世界情勢のことなど分かるはずもなく、当時の関心は専ら自分の権利が守られるかどうかだった。権利ーこの場合は自分の好きな漫画、アニメ、ゲーム等だ。
今でこそ折り合うことができているが、当時は本気でオタクであることを恥じ、ペドフィリアであることに罪悪感を抱いていた。そのように自分の属性に悩んでいた一方で、いや、悩んでいたからこそ、オタクでありペドフィリアであることこそが、自分の唯一のアイデンティティーであるように思われた。失笑されるかもしれないが、僕のような反社会的人格は少数派なのだ。そのことで権利を主張しようとは思わないが、自分は特殊なのだと意固地にならざるをえない。
とにかくペドフィリアでオタクである僕にとって、その手の作品は生きる上での友であり、それを侵害するものは敵だった。
そしてその当時敵だと思っていたのが、いわゆる「左翼」だった。
「左翼」は声高に人権を守れと言う。その人権を非実在の存在にまで適用し、僕の権利を侵害しようとしているー思い返すだけで頭が痛くなってくるので、当時の愚かな思考を正しく説明することは難しいが、確かそのようなことを考えていた。
愚かなことだ。人権があるからこそ創作作品を楽しむこともできるのに。しかも保坂氏や枝野氏など、「左翼」こそが表現の自由を守ってくれていたのに。
いや、薄々とは気づいていたようにも思う。だからこそ、当時でさえ保坂氏枝野氏などには悪感情は持たなかった。「左翼」だが味方でもある、そう思っていたか。
実際自分は子供のころから千葉ロッテマリーンズのファンなのだ。ダブルスタンダード極まれり。
結局自分にとっては国よりも自分の好きなものこそ重要だったのだろう。そしてそれ故にネトウヨを卒業することができた。
ネトウヨを辞めるきっかけとなったのは、浪人生のころ、2chの掲示板で、「ロリコンは在日」とか、そういった類の書き込みを見たことだった。拍子抜けと感じるだろうが、僕はその程度のことでネトウヨに冷めてしまった。
自分が少数派である自覚はあった。それでも、同胞である日本人なら受け入れてくれると思っていた。なのに、結局ここでも切り捨てられるのだーそう思った。
いったん冷めてしまうと、ネトウヨの嫌なところばかり目に付くようになった。少しの瑕疵があれば昨日の仲間を今日は敵認定する。高尚な正義感を気取りながらやっていることは荒らしやデマ。ロッテスレにコピペ爆撃する。とことん醜悪だと思えた。
右派は冷たくて、けしていざという時に守ってはくれないー余命騒動で明らかだろう。畢竟人間は孤独で、国籍が同じだからといって無条件に受け入れられるわけではない。
僕は自分がペドフィリアだからこそ、そう気づいた。だが同時にこの人格に意固地になったあまり、他者への眼差しを欠いたことが、ネトウヨになる端緒ではなかったか?
振り返ってみれば、ネトウヨになったのはネットの影響。ネトウヨを辞めたのもネットがきっかけ。なんというか、独り相撲でしかない。それまでの人生で、韓国人と会ったこともなかったのに。
近所の焼き肉屋の韓国人の従業員はとても気前が良くて、色々とおまけをしてくれる。留学生の李くんも良い奴だった。
朝鮮学校無償化に賛成し、某ネトウヨサイトに「反日大学教授」と名指しされたある教授は、僕が出会った中で最高の人格者だった。先生は、僕なんかの悩みも真剣に聞いてくれ、生きているだけで偉いのだと、度々仰った。そんな先生だから、子供のことを、生徒のことを第一に考えているからこそ、賛成したのだ。本当の教育者だから、賛成したのだ。
だが、愚かな私は、個別の経験を積むことすらせず、何もかも知ったつもりになっていた。
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
思い返せば学校生活から、人とうまくやるのが苦手だった。育った環境は特に劣悪でもなく、23区のあまり裕福ではないほうで、いじめを受けながらも、それなりに義務教育を終えた。ただし、いじめを受けると、それなりに人付き合いが苦手になるが、現在そのことが影響を深く与えているとは考えにくい。
その後勉強のできる都立高校に進んだ。校則が一つもない学校で、当然服装やら髪型の規則もない。しいて言えば、ちゃんと学校にある程度来ることと、補導されないこと、それと校内では下履きに履き替えることくらい。友達とさぼって映画を見に行ったり、年齢制限をゆるく見てくれるお好み焼き屋に行ったり、近所の公園で浪人生に逆ナンパされたりと、人生初のリフレッシュができた。図書館で山ほど本を読んで、週3回剣道をして、ようやく人生が軌道に乗り始めた。
それほど頭は悪くなかったようで、そこそこの大学の英文科に入ることができた。映画サークルに入り、何本か映画を撮ったり出演したり、地味だったがそれなりに楽しく生活できていた。
兄弟が4人もいたので、アルバイトも高校生のころからちょくちょくしていた。多少を家計の足しに、それと自分の物欲のために。高校生のころコンビニで2年弱、大学生からはファミレスで1年、塾講師で3年。
多分、今に至るきっかけはファミレスのころにうまくいかなかったことに起因している。そして大学生活にも一因がある。
ファミレスでは、厨房でドリンクやデザートを出す仕事をしていた。厨房内では仲良く働いていたが、何となくウエイター/ウエイトレスの人とうまく話ができないまま1年が経ち、そこから人と話すのが苦手になっていた。同じくらいの女性とどんな話題を共有すればよいのか、向こうも話しかけてはくれないし、こちらも話すきっかけがない。
厨房の人がとても優しかったのは今でもいい思い出だ。一緒にワカサギ釣りに旅行に行ったのが懐かしい。釣ったワカサギを持って、お店で揚げて食べたのもいい思い出。
大学1年生の性欲やらが多感な時期に、自分の口下手と話題のなさが鬱屈を与えたのだろうか。
カート・ヴォネガットの短編小説やチャールズ・ブコウスキー、初めて英語で読めた小説の「クール・ミリオン」、高校生から好きで読み漁っていたアメリカ文学、自分やサークルで作った映画、鉄男や小沢健二やNumber Girlやマイケルジャクソン、クラブでかかっていたNirvanaやStrokes、軽自動車で行ったフジロック、そんなものは誰の興味にもならないと決め込んでしまった自分がよくなかったのだろう。
1年経って結局そのファミレスが潰れてしまったが、「あの人の日とか失敗、つまんないし」といったようなことをぼそっと聞こえるように言われたのが今でもフラッシュバックする。
その後、3年弱塾講師のアルバイトをした。個人指導塾で、入って3日目に、「この研修に行くと5000円がもらえる」と言われて行った研修。一言も発言できなかったことを思い出す。
自分が抱える生徒の多くは、本指名から外れてきた子が多かった。成績もみんなそれほど良くなく、自分にも人を教えるスキルが足りなかった。結局浪人させてしまった生徒のことを時々思い出す。本当に悪いことをした。一人で赤本を解いて、わからないことを聞きに来るというスタンスを取らせればよかったのに、自分が無駄に介入してしまったことが悔やまれる。
そのバイト先で覚えたのが、お酒に頼ることだった。安い居酒屋で終電まで飲んで、げらげら時間を共有できる。それが社会人になってもコミュニケーションの核となってしまう。
文学部ながらも、BBSや簡単なアプリを作ることができたので、ソフトハウスに就職できた。2年半いたが、デスマーチで体調を崩してうつになり、結局辞める。
新人研修のころやその後の付き合いもお酒が基本だった。キックオフ、とりあえずリリース、最終FIX、とかのタイミングでようやっと胸襟を開いた話ができる。それまでは、ほうれんそう以外の会話もなく、とにかくメールに頼るようになっていた。
時々生意気な意見を言ったり、人のプログラムを勝手にリファクタリングしたこともあった。
記憶がないなか、帰巣本能で家に帰るのもよくあった。タクシー代を貯めていれば相当の金額になっていたのではないかと思う。
少し休んで、プログラマとして別会社に復帰した。総務と経理以外はほぼ男性の会社で、よく飲んだ。
その会社でようやっとまともな生活を取り戻すことができ、結婚もできた。
3年ほどプログラマをしていたが、目の前に座っているおじさんプログラマの1/10しか生産性がないことがわかり、社内異動で説明書のライターに転職する。
車好きやキャンプ好き、バイク好き、元ミュージシャンが異様に多い会社で、よく泊まりで出かけていた。自分よりも年上が多いから、みんな自分の事を話してくれる。お酒どうこうもなくその人を知ることができる、いい機会だった。ある人が定期購読していた、日経ソフトウェア数年分を借りてJava以外のスクリプト言語(自分はPython)を学ぶBoot Strapとして使わせてもらったり、ほんとうに幸せな日々を送ることができた。
その会社は、株式公開に伴う人員削減で、半数以上人がいなくなった。自分も窮屈なライターを続けるのが辛くなって辞めて、割増の退職金をもらった。以降半年近く、妻以外の人と話すことなく、引きこもりながら割増退職金に付随する給料をもらっていた。働かずに給料をもらえるのがこんなに苦痛だったのか。
いい加減引きこもりにも飽きて大会社に転職するチャンスをもらった。その間に障碍者手帳をもらい、障碍者枠での就職活動をすることにした。
大会社は大会社だった。エリートはエリートで、二級以下の低級労働者の自分は、その程度の扱いしか受けない。大学のランキングを引きずる社内で、
自分はまず
・学歴劣る
・それまでの成果は劣る
・白髪ばっかり目立つ
・とにかくあいつは劣る
という状態になった。
新卒の指導をしても、まるで彼が改善しない。自分を責め続け、ぎっくり腰になった。みんなが、「彼はそうだから」と言ったが、彼をある程度に育てることができず、結局リリースした。リリースしたらとたんにぎっくり腰がよくなった自分の無責任さにびっくりした。
あと、それほど多く飲み会がない。飲んでも自分のような飲み方は誰もしない。場をわきまえ、何となく優しくやっている。
なんで、しらふで天気の話ができないんだろうとか、自分の好きなことを少しでも話せないんだろうとか、毎日悲しくなる。
行動をしないと、周囲も変わらない。一か月以上、挨拶と仕事の最低限のやりとり以外はしていない。たかだか席替えでこんなに弱ってしまうとは。派遣の期限がきてしまう子がいなくなってしまうことにこんなに心が揺さぶられてしまうとは。
ごめん。こんな人間は、やまゆり園の加害者の気持ちでは必要のない人間だったんだろうね。でも、家族と過ごす時々の時間を過ごしてもいいのかな。
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
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箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
毎日サンダルとボロボロのジーパンで、ヒゲ伸び放題で教室の一番前の席に座ってたから、予備校で有名人になってたみたいで。
陰で「武蔵」って呼ばれてたらしい。大学の新歓で「キミ武蔵ってあだ名つけられてたよ」って言われた。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、
やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。
意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、陰であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、当時の予備校はそんな空気だったと言うことでイーブンにしてください。なんだイーブンって?
これは編集者 箕輪厚介さんが2004年に河合塾横浜校で浪人生活を送っていたら真(まこと)となる話です。
私が記憶の断片を繋ぎ合わせてしまった話である可能性もあるので、箕輪さんのアンサーがあると嬉しいです。
予備校時代のあだ名は“武蔵”だった。箕輪厚介が卒業文集を見て振り返る「熱狂」の源泉
https://r25.jp/article/668021893052168737
箕輪さんの存在を知った数年前から、遠い昔に会ったことがあるような気がしていた。
私は箕輪さんと同じ1985年生まれの2005年入学の早稲田大学出身。
そのため、大学の授業やサークルなど何かのコミニュニティで一緒だったのではないかと思い、
幾度も記憶を掘り起こしてみた。語学の授業で一緒だったのではないか?学生会館にいたのではないか?
Facebookにも共通の友人が2人いたが、どこかで繋がりがあるようにも思えなかった。
そんな折に、あのインタビュー記事を読んで記憶の点と点がビビッと線になった。
2004年の河合塾横浜校 早慶クラス。月曜日の英語は早川先生、火曜日の英語は里中先生、水曜日の英語は伊集院先生。
確かそんなだった気がする。私の知る武蔵はどの授業でも黒板から向かって右側の前から1番か2番目にいた。
武蔵は授業が終わると、ざわつく周りにわき目もくれず、やや前傾姿勢でリュックサックを背負い、早歩きで教室を出て行く様子が印象的だった。
そして、なぜか少しいつもにやけていた気もする。
予備校は学校的な馴れ合いは無いものの、夏過ぎくらいには、多くの人が周りの人と二言三言の会話を交わすような関係になっていた。
けれど、武蔵はいつまで経っても、1人で教室を駆け抜けていった。
そんな物静かな彼が気になる存在になるあまり、仲間の2〜3人の間であの人武蔵っぽくない?とあだ名を付けてしまった。
K-1ファイターの武蔵に似てると言うのもあった気がするが、はだけたシャツや色落ちしたジーンズが、何というか全体感が無頼派で武蔵だった。
何度か接触を試みようとも思ったが、“ケガ”をしそうなので辞めた。意地っ張りでどこかで声をかけてもらいたがっている一人ではなく、ナチュラルに一人でいることを好む雰囲気があったからだ。
あの武蔵は果たして箕輪さんだったのだろうか。仲間内のあだ名が広まっていたのかな。
もし、私の知る武蔵が箕輪さんでも、そうじゃなくても、影であだ名を付けてしまったことは申し訳ございません。
ただ、事後弁護させてもらえるなら私も箕輪さんと同様に予備校で悪意たっぷりなあだ名を付けられていたと言う話を後で聞いたので、