はてなキーワード: 池田満寿夫とは
見てないし、見る気もないけれど、ジジイなので、第1回東京国際映画祭をテレビ中継した時の
大惨事を思い出したよ。明石家さんまと片岡鶴太郎が来日していた海外の大スターに向かって
当時流行っていた自分の持ちギャグを相手の反応を無視して執拗にぶっこむ国辱的な中継を。
結局、日本ではバブル時代のウジサンケイグループのノリをいまだに克服できてないということ。
昼間にやってる『ぽかぽか』なんかも、バブル時代のウジテレビのノリでサムすぎて正視できない。
>1985年5月31日午後、渋谷NHKホールに常陸宮ご夫妻をお迎えして開会式が行われ[33][34][35]、
>村田敬次郎通産大臣、三木武夫元首相、鈴木俊一東京都知事ら政財界代表や[35][36]、国内外の映画
>関係者、各国駐日大使[17]、三船敏郎、勝新太郎、高峰秀子、栗原小巻らが出席[35][37]。岡田真澄
>が司会を務めた[36]。瀬島龍三組織委員会会長、鈴木俊一東京都知事などの挨拶後に『乱』がオー
>プニング上映された[33][38]。『乱』は海外招待客100人を含む映画関係者2500人のみで、一般客
>は入れなかった[39](1985年6月1日から一般公開)。ほとんどの映画人が絶賛したが[36]、『影武
>者』でトラブルを起こした勝新太郎が「いたずらに長い。見る人のことを考えてない作品。戦闘シ
>ーンは見飽きた」などとこき下ろした[36]。同日夜に東京プリンスホテルでウエルカム・パーティ
>が開かれ[34][40]、この模様の一部がフジテレビ『おもしろバラエティ』枠で生放送された[17][41]。
>司会はタモリと明石家さんま、沢口靖子[42][40][43]。ハリソン・フォード、ブリジット・フォッセ
>ー、ジェームズ・ステュアート、ヘルムート・バーガー、ソフィー・マルソーなどの海外スターの
>他[34]、中曽根康弘首相[33]、三船敏郎、三橋達也、安西郷子、司葉子、仲代達矢、宍戸錠、吉永小
>百合、石坂浩二、ピーター、島田陽子、松坂慶子、中井貴一、片岡鶴太郎、田原俊彦、近藤真彦、
>中森明菜、池田満寿夫、佐藤陽子、手塚治虫、石森章太郎、小森和子らと[36][40][41][43]、鹿内春雄
>フジテレビ副社長と頼近美津子が結婚後初めて公式の場に出席した[40]。出席を予定していた黒澤明
>は欠席[17]。黒澤は御殿場で静養中で[44]、映画祭期間中も姿を見せず、来日した俳優、監督や『ニ
>ューヨーク・タイムズ』や『ガーディアン』の記者30人から面会申し込みがあったが全て断った[44]。
>ウエルカム・パーティでは、ハリソン・フォードがグラス片手に会場を回るなど[40]、有り得ない
>ような豪華なパーティであったが[40]、生中継は構成が悪く、タモリと明石家さんまが司会をふざ
>けたり[42][45]、会場には海外からのビッグスターが顔を揃えているのに彼らへのインタビューは
>なく、当時日本で人気があったマット・ディロンをアメリカに訪ねたVTRが流れる間の悪さで[45]、
>マッチや中森明菜がステージで映画とは関係ない歌をうたい出したとき、招待客は何が始まったの
>かとビックリし、まわりをハラハラさせた[45][46]。フジテレビが当時、「楽しくなければテレビじ
>ゃない」というキャッチフレーズを打ち出し『おもしろバラエティ』枠で放送したことで、新聞各
>社に悪評の投書が殺到し[45]、好評がゼロという珍しい事態になり[45]、「ユーモアとスマートさに
>欠けたドタバタ司会、日本には機知と弁の冴えでわかす芸人はいないのか」「日本語でくだらない
>言葉を外国人に言わせるな」「少ない時間で映画と関係ない歌を三曲も歌わせるな」「外国から大ス
>ターを集めながら、大切な機会を無にした」「まさに島国映画祭だ」など[45]、「時と場」をわきま
>えぬ企画などとマスメディアに叩かれた[47][48]。この日の開会式とウエルカム・パーティを合わ
>せた費用は1億5000万円[39]。
元増田です。
私の想定するような進路を実際に歩まれた方からのご回答は物凄く心強いです。ありがとうございます!
視力については私は両目共に1.0ありますので、問題はないかと思いますが、3列目に配置されてしまうと圧倒的なディスアドバンテージなのは同じですので、池田満寿夫さんの例を踏まないようにこれは運に祈るしかないですね…。
「一次試験では眼がすべてを決めると言っても過言ではありません。」
沁み入ります。心に留め、受験の際は眼のコンディションに細心の注意を払いたいと思います。
私より遥か年上の浪人生との交流ですが、この点についてもある程度自信を持っています。
中1の時に美術部に入り、その当時中3だった先輩達とすぐに仲良くなり、同期同然といった仲で一緒に遊ばせてもらっていたので、年上の先輩との良好な人間関係構築は楽しく行っていけるかなと。
いずれにせよ予備校昼間部の同じ科という極めて狭い空間で長い時間を一緒に過ごすことになる仲間(でありライバル)なわけで、好ましい関係が築いていけるよう努力したいですね。
失敗した時に損切りする柔軟さ、保険を掛けておくといった心得は、他の多くのトラバやブコメにて指摘を受けましたので既に準備ができています!ですのでその点でも大丈夫……と言いたいところですね。
現役時は藝大専願で受験しますが、1浪時は私大との併願で臨み、この場合も藝大に落ちた場合はその結果に対して柔軟に対応し私大への進学へ切り替えようかと。また就活の際には任天堂専願というわけではなく、多くの有力ゲームメーカーも同時に受けるつもりです。任天堂に落ち、やむなく他ゲームメーカーに入社するとなった場合は、その会社にて何年か研鑽を積み、中途採用枠にて任天堂を受ける予定です。
高一から予備校通いを始められ、藝大受験に挑戦、結果として海外デザイナーとして活躍されているという、回答者様の実際の体験談も伺えとても参考になりました。
私も中学の頃から東京藝大デザイン科志望で、別の理由で高校へ進学しなかった者です。大学受験資格は大検で取りました。
大手の美術研究所に高一の歳から通い続けましたので、あなたが考えているようなことを実行したことになります。
絵が下手だったからという訳ではなく、家族は全員美術系で、私自身も小さい頃から周囲が驚くような絵を描いていて受賞経験もありました。
では何故藝大受験に失敗したかというと、理由は主に2つあります。
藝大受験の一次試験の石膏像は埃ひとつ付いていない真っ白なものが並びます。
陽が当たると白くとんでディティールが全く見えません。
運悪く3列目になってしまった場合、眼が悪いと非常に不利です。
池田満寿夫さんはこのクジ運が悪く、毎回遠くて東京藝大受験に3回失敗したのは有名な話です。
一次試験では眼がすべてを決めると言っても過言ではありません。
2つ目は、3年間描き続けて受験のための美術に飽きがきてしまったことです。
高校に行かなくても学べることはたくさんありますし、時間を有効に使えば後々無駄にならない貴重な経験ができるでしょう。
ただ、15か16歳で周囲は浪人生ばかりになるので友だちを作るのにやや馴染みにくいかもしれません。
社会に出てしまえば歳の差は関係ないですが、その年頃では3歳以上の差は大きいです。
それよりアドバイスしたいのは、もし志望する任天堂に入れなかったり、入ったけれど任天堂が合わなかったり、他にもっと興味を惹かれるものを見つけたときに進路変更できる柔軟性とキャパシティーは持ち続けた方がいいということです。
人生は必ずしも思い描いた通りにならないことが多々ありますし、私自身も進路変更して幸せになりました。
道はひとつではないです。
悔いのないように頑張ってください。