2019-04-23

会社の人と話せなくなってしまった

思い返せば学校生活から、人とうまくやるのが苦手だった。育った環境特に劣悪でもなく、23区のあまり裕福ではないほうで、いじめを受けながらも、それなりに義務教育を終えた。ただし、いじめを受けると、それなりに人付き合いが苦手になるが、現在そのことが影響を深く与えているとは考えにくい。

その後勉強のできる都立高校に進んだ。校則が一つもない学校で、当然服装やら髪型規則もない。しいて言えば、ちゃん学校にある程度来ることと、補導されないこと、それと校内では下履きに履き替えることくらい。友達とさぼって映画を見に行ったり、年齢制限をゆるく見てくれるお好み焼き屋に行ったり、近所の公園浪人生に逆ナンパされたりと、人生初のリフレッシュができた。図書館で山ほど本を読んで、週3回剣道をして、ようやく人生軌道に乗り始めた。

それほど頭は悪くなかったようで、そこそこの大学英文科に入ることができた。映画サークルに入り、何本か映画を撮ったり出演したり、地味だったがそれなりに楽しく生活できていた。

兄弟が4人もいたので、アルバイト高校生のころからちょくちょくしていた。多少を家計の足しに、それと自分物欲のために。高校生のころコンビニで2年弱、大学からファミレスで1年、塾講師で3年。

多分、今に至るきっかけはファミレスのころにうまくいかなかったことに起因している。そして大学生活にも一因がある。

ファミレスでは、厨房ドリンクデザートを出す仕事をしていた。厨房内では仲良く働いていたが、何となくエイターウエイトレスの人とうまく話ができないまま1年が経ち、そこから人と話すのが苦手になっていた。同じくらいの女性とどんな話題を共有すればよいのか、向こうも話しかけてはくれないし、こちらも話すきっかけがない。

厨房の人がとても優しかったのは今でもいい思い出だ。一緒にワカサギ釣り旅行に行ったのが懐かしい。釣ったワカサギを持って、お店で揚げて食べたのもいい思い出。

大学1年生の性欲やらが多感な時期に、自分の口下手と話題のなさが鬱屈を与えたのだろうか。

カート・ヴォネガット短編小説チャールズ・ブコウスキー、初めて英語で読めた小説の「クールミリオン」、高校生から好きで読み漁っていたアメリカ文学自分サークルで作った映画、鉄男や小沢健二Number GirlマイケルジャクソンクラブでかかっていたNirvanaStrokes軽自動車で行ったフジロック、そんなものは誰の興味にもならないと決め込んでしまった自分がよくなかったのだろう。

1年経って結局そのファミレスが潰れてしまったが、「あの人の日とか失敗、つまんないし」といったようなことをぼそっと聞こえるように言われたのが今でもフラッシュバックする。

その後、3年弱塾講師アルバイトをした。個人指導塾で、入って3日目に、「この研修に行くと5000円がもらえる」と言われて行った研修一言発言できなかったことを思い出す。

自分が抱える生徒の多くは、本指名から外れてきた子が多かった。成績もみんなそれほど良くなく、自分にも人を教えるスキルが足りなかった。結局浪人させてしまった生徒のことを時々思い出す。本当に悪いことをした。一人で赤本を解いて、わからないことを聞きに来るというスタンスを取らせればよかったのに、自分無駄に介入してしまたことが悔やまれる。

そのバイト先で覚えたのが、お酒に頼ることだった。安い居酒屋終電まで飲んで、げらげら時間を共有できる。それが社会人になってもコミュニケーションの核となってしまう。

文学部ながらも、BBS簡単アプリを作ることができたので、ソフトハウス就職できた。2年半いたが、デスマーチで体調を崩してうつになり、結局辞める。

新人研修のころやその後の付き合いもお酒が基本だった。キックオフ、とりあえずリリース、最終FIX、とかのタイミングでようやっと胸襟を開いた話ができる。それまでは、ほうれんそう以外の会話もなく、とにかくメールに頼るようになっていた。

時々生意気意見を言ったり、人のプログラム勝手リファクタリングしたこともあった。

記憶がないなか、帰巣本能で家に帰るのもよくあった。タクシー代を貯めていれば相当の金額になっていたのではないかと思う。

少し休んで、プログラマとして別会社に復帰した。総務と経理以外はほぼ男性会社で、よく飲んだ。

その会社でようやっとまともな生活を取り戻すことができ、結婚もできた。

3年ほどプログラマをしていたが、目の前に座っているおじさんプログラマの1/10しか生産性がないことがわかり、社内異動で説明書ライター転職する。

車好きやキャンプ好き、バイク好き、元ミュージシャンが異様に多い会社で、よく泊まりで出かけていた。自分よりも年上が多いから、みんな自分の事を話してくれる。お酒どうこうもなくその人を知ることができる、いい機会だった。ある人が定期購読していた、日経ソフトウェア数年分を借りてJava以外のスクリプト言語自分Python)を学ぶBoot Strapとして使わせてもらったり、ほんとうに幸せな日々を送ることができた。

その会社は、株式公開に伴う人員削減で、半数以上人がいなくなった。自分も窮屈なライターを続けるのが辛くなって辞めて、割増の退職金をもらった。以降半年近く、妻以外の人と話すことなく、引きこもりながら割増退職金に付随する給料をもらっていた。働かずに給料をもらえるのがこんなに苦痛だったのか。

いい加減引きこもりにも飽きて大会社転職するチャンスをもらった。その間に障碍者手帳をもらい、障碍者枠での就職活動をすることにした。

大会社大会社だった。エリートエリートで、二級以下の低級労働者自分は、その程度の扱いしか受けない。大学ランキングを引きずる社内で、

自分はまず

学歴劣る

・それまでの成果は劣る

健康状態劣る

白髪ばっかり目立つ

・とにかくあいつは劣る

という状態になった。

新卒指導をしても、まるで彼が改善しない。自分を責め続け、ぎっくり腰になった。みんなが、「彼はそうだから」と言ったが、彼をある程度に育てることができず、結局リリースした。リリースしたらとたんにぎっくり腰がよくなった自分無責任さにびっくりした。

あと、それほど多く飲み会がない。飲んでも自分のような飲み方は誰もしない。場をわきまえ、何となく優しくやっている。

一杯、二杯多めに人より頼んでしまたことを後悔する。

なんで、しらふで天気の話ができないんだろうとか、自分の好きなことを少しでも話せないんだろうとか、毎日悲しくなる。

行動をしないと、周囲も変わらない。一か月以上、挨拶仕事の最低限のやりとり以外はしていない。たかだか席替えでこんなに弱ってしまうとは。派遣の期限がきてしまう子がいなくなってしまうことにこんなに心が揺さぶられてしまうとは。

ごめん。こんな人間は、やまゆり園の加害者気持ちでは必要のない人間だったんだろうね。でも、家族と過ごす時々の時間を過ごしてもいいのかな。

義理の父はあまり長くないだろうし、せめて少しだけ社会荷物福祉必要人間は生きていていいのだろうか。

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