はてなキーワード: 楽器とは
この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮と西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍がキリスト教徒虐殺事件(丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国もジェネラル・シャーマン号事件(1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮と通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。
当時朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。清朝から西欧列強の情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。
また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国が朝鮮を守ったため、今回も中国が朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。
他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。
1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
詳細は「江華島事件」を参照
9月20日、首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。
またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。
さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の砲艦外交的姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。
ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシアや清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。
以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。
砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。
また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴル、チベット、新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。
この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである。
本日、気になるニュースを目にした。「You Tubeにカラオケ動画を投稿した男性が著作隣接権を侵害している」として訴えられたらしいのだ。
こちらがそのニュースソースである。【https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170511-00050088-yom-soci】
正直私みたいに法律に疎い人間は、そもそもカラオケ動画を投稿するのが法律違反であることを知らなかった。
興味があってコメント欄まで見てみると、「これで動画が検索しやすくなる」「早く"歌ってみた"系の動画はなくなってほしい」という意見が非常に多かった。
これを見て私は驚いた。コメント欄で"歌ってみた"系の動画投稿者を叩いている人は、「You Tubeで違法アップロード動画を視聴している人たち」なのだ。
普段違法アップロード動画を視聴をしている人たちが、歌ってみた系の動画を「著作権を侵害しているから」と叩いている様は実に滑稽であった。
まぁ、現在の法律では違法アップロードは禁止でもそれを視聴すること自体は違法でないみたいだし、仕方のないことかもしれないけど。
ちなみに、今回はカラオケ屋の機器を使って動画を投稿したから訴えられただけで、別に自分で楽器を弾いて"歌ってみた"を投稿することは問題ないはずである。
30を超えたあたりからあれれ? と思うことがちょいちょいあった。性癖が変わったのかと思い様々な世界に体験入学してみたがどれも違った。そして35を超えて急にはっきりした。
性欲が衰えている。
思えば長い付き合いであった性欲とも、疎遠になるようなかたちでお別れしていくのかと感じた。執着がある人は薬やらなにやらで頑張るのだろうけれど、そこまでする気になれない。俺は俺の性欲を静かに送り出したい。そしてはたと困った。
これから何をすればいいのだろう。
生きるためだけに仕事をしているし、業務内容にもとうとう興味がわいてこなかった。給料分以上の情熱を注ぐ気には全くなれない。
結婚を考えていた女性たちにはことごとく裏切られてきたので結婚をするつもりはもうない。親には申し訳ないが、俺が結婚を考えるような女性は必ず裏切るような人格を所持しているし、こちらの誠実さはクソの役にも立たないのだ。だから割り切った体だけの付き合いしか出来なくなったのだが、肝心かなめの性欲が衰えてしまったのでセフレとも長いこと連絡を取っていない。
好きだったいろいろなものに興味がなくなっていたことにも気が付いた。あれほど好きだったゲームももうやっていないし、油彩の道具もほったらかしだ。本もほとんど売った。アウトドア用品も楽器も捨ててしまっていた。腹は減るが何かを食べる気になれず、無理に食べても味がしない。
書いていて気が付いた。世の中のいろいろなことに執着も興味も無くしていった過程で、人生の道しるべとしてすがりついてたのが俺にとっては性欲だったのだ。そしてそれも今失いつつある。
読み返してみるとなんだか遺書っぽいな。まあそういうことならやるべきことがはっきりするし、助かる。増田という駄文収集場があってよかったよ。
最近いろんな音ゲーを始めてみて思ったのは,上達のプロセスには一定のパターンがあるっていうこと。
他の分野だと勉強・楽器あたりもこの感覚に近かった(気がする)。
こういうのを自分の中でパターン化できるといろんなものが得意になるんじゃないかなーって思う。
特に重要なのは「自分よりも一つ上のレベルを定期的にチャレンジしてみること」。
(少なくとも僕の場合は)ついつい少しづつ難易度を上げて段階を踏みたくなるんだけど、自分が追いつかないくらい難しいものをコンスタントに挑戦したほうがより俯瞰的な視野が手に入ってたような気がする。
音ゲーならノーツの分解能やパターン認識が広がるし,勉強なら概念の結びつきを意識しやすくなるみたいな。
昨今、音楽業界に活気がないため、1990年代よりも、生楽器の収録が少なくなってきています。
そのため、最近の楽曲は、巷で言われるDTM音源を活用したまま、世に出て行くことが少なくありません。
もちろんジャンルにもよりますし、売れ線やバンドものなどは収録が基本ですが、カップリングや、声優CD、アニメのキャラソンなど、商業的にとりあえず出しとけ的なCDたちは、ギターとベースだけ宅録して、DTM音源をミキシングして終了、というものも少なくありません。
ニコ動などのネット音楽は、個人で制作していることもあり、その傾向が強いです。
まぁ、音源のクオリティは、近年飛躍的に進歩しているので、特に違和感なく聞けるかと思いますが、根本的に以前よりも生楽器で収録された音楽を聴くことが少なくなっていると思います。
そこで、劇判を聞こう、というのを推奨したいです。
劇判とは、映像作品やゲームに対して制作した楽曲であり、ボーカルがないのが一般的な音楽です。
きちんと勉強した作曲家が、ある程度の予算を用いて生楽器の収録を行い、プロのエンジニアに依頼して、録音して調整して…というのが基本の流れです。
ざっくり言うと、下手なポップスよりも、お金がかかっていることが多いんですね。
ポップスでは出てこないような楽器が収録されていることも多々。
というわけで、自分の完全な趣味で、おすすめの劇判のサントラいくつかあげます。
自分の趣味のため、アニメ系が多いのがお察しなところなのですが…
興味のある方は聞いてください!
そしておすすめがあれば教えてください!
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https://www.amazon.co.jp/dp/B01N7TGP1L
いきなり最近売れてるCD持ってきて、こいつもぐりかよって言われたら何も言い返せないのですが、このサントラは良い。マジで良いです。
ストリングス多めで、かつ民族的な要素がちょこちょこある感じですが、
ゲームサントラなのにボーカル多め、歌詞も英詩、という感じで、厳かな世界観がとても染み渡ります。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00O4QCRSY
可愛い女の子がきゃっきゃうふふアニメはたくさんあるので、傾向は近しいものになってきますが、その中でもこの劇判はとにかくカラフルです。
聞いていると楽しくなってくる音楽が多めです。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00CAL4LEI
売れっ子澤野弘之はいろいろやってますが、これが一番好きですね。
澤野は、聞いたらわかると思いますが全編と通して「あー澤野だな」ってなるので、どうせ聞くならゴリゴリ澤野してる曲の方がいいですね。
連続テレビ小説まれのサントラとかも、あー澤野だなってなります。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00KD210U4
ジョジョのなんともいえないあやしくもあり、けれど格好良さもある、絶妙な世界観が楽曲から感じ取れると思います。
菅野さんは亜人のサントラなんかもやっており、デジタルな系統にも強く、素直なところにいったかと思えば、急にすごいところに振ったりすることもあり、かなりアーティスティックな部分を感じます。
https://www.amazon.co.jp/dp/B001OGST7U
この辺で映画のサントラ出しておかないと、この人アニメしか見てないなと思われそうだったので。
テーマソングが有名かと思いますが、他も世界観に寄り添っており、統一感もあり、とてもお金のかかっている音がします。
岩代太郎は、アルスラーン戦記の音楽も担当していますが、こちらも素晴らしいです。
https://www.amazon.co.jp/dp/B01KZ4MAJ4
これも最近のやつですが、この劇判を聞いて僕はコトリンゴの幅の広さを感じ取りました。
正直、ここまで艶やかにあの世界を彩る楽曲を作り上げるとは思ってもいませんでした。
劇判などの映像作品ありきな楽曲は、内容が良いからサントラも評価されて当然、というところもありますが、それを差し引いても音楽も素晴らしいです。
比べる必要はないと思いますが、昨年流行した「君の名は」「シンゴジラ」と並べると、自分はこれが一番好みです。
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まぁ他にもいろいろとあるのですが、最近よく聞いてるサントラをさっくり選んだらこんな感じに。
どうしても、ドラマ系のサントラは、アニメ系の静止画系に比べると世界観がガッチリした上でというのが少なく、
かつ楽曲を構成する上で音数もアニメ系よりは少なく、テーマソングのみがフューチャーされる傾向にありますので、今回はあげませんでしたが。
自分の考えの整理も兼ねて。
できればアドバイスください。
投稿者は国立理系大の大学院生で、学部時代はレポートと期末試験に明け暮れていました。農繊名電レベルで、入学当初落ちこぼれ成績だったのが最終的に平均以上くらいになったので人並みに勉強はしてきたと思います。また家庭が裕福でないため、奨学金を借り入れています。そのため、無内定卒業は借金1000万無職とイコール。そういう意識から絶対に就活を成功させなければならないという考えがありました。
推薦枠もあるし、教授のコネもある。そうでなくても、選ばなければ引く手あまただろう。でも早めに終わらせて安心したい。そのあと研究に専念しよう。という思いから就活を早めにスタートしました。
と、いうのが当初の考え。
これが間違いでした。
現実はそう甘くなかったです。
はじめは学歴のプライドだかで知名度が高く選考が早い大手、中小を10社ほど受け始めました。自分の研究と一致しており、活かせる技術もあるので卒なくこなせば通るだろう、と考えていたのです。
でもまあ、人事の方の目も節穴ではない。そういった甘い考えを見透かされていたんだと思います。
学歴だけで受かると思ってるのか。意味不明に自信持ちやがって。
結局、どこも全滅しました。正直、内定に漕ぎ着けなくとも一つくらいは一次面接くらい通るだろうと思っていたのです。…まあそれが間違いなんですけど。はい。思い出すと懺悔の念しかないです。貴重な時間を割いていただいてる面接官の方にも申し訳ない。
次は、知名度とかを抜きに自分がやりたいことをやろうと考えて業界を変えました。自分は中学生よりギターをやっていた関係で、たくさん曲も聞きましたし弾きましたので、これをもう生涯の生業にしてやろうと思い楽器メーカーとか音響メーカーを受けました。ESは本当にもうスルスルと書けたし、面接でも熱意をアピールできたと思ってました。
「なんでそんな学歴でウチに?」と思われたんでしょうか。
面接の受け答えが悪かったのか。
もっと優秀な人がいたのか。
自信がないように取られたのか。
結局全滅しました。
自分が社会に必要とされていない人間であると暗に示されているように感じてきます。
もともと知らない人と会話するのが楽しいというキャラクターでなかったのも相まって、精神的にしんどくなってきました。
卑屈な傾向があるという自覚はあったんですが、得意分野である研究と音楽に関しては自信があったんですね。でも、そこをへし折られた。となると、卑屈だけが残ります。
ポジティブに変えようと努力しても、なかなか変わらないです。むしろそれが新たな卑屈の種を産んでしまう。
結局、自分が全部悪い。
社会に適合できていないのが悪い。
変わらないことが悪い。
変わろうとしても実現できてないのが悪い。
これが現状に対してだけならまだいいんですが、過去まで波及していきます。
裕福でないのに大学進学などしたのが悪い。
ってか生まれてきたことが悪い。
こうなるともう手がつけられません。鬱のスパイラルです。
就活していなかった頃は、趣味や友人との遊びに興じることで楽しいことを考えられたのですが、今は楽しかったことが楽しくなくなる段階まできてしまいました。
成功させているビジョンが全くイメージできなくなってしまいました。
友人が大手メーカー1社のみ受けて、就活を始めてから5日で内定ゲットしたという報告を聞いたのが3日前のことです。このときいろいろと崩壊しました。
何が悪いのかを自分で探して見つけなさい。という言はよくありますが、限界まで来ています。自分が全部悪いんだと結論づけてしまい、このままだと折れそうです。
自分が自信を持っているところを全部否定され、自分の悪いところを増幅してしまう。
視野狭窄だと自覚はしていますが、視野を広げる余裕がないのも事実です。
ではどうすれば自分は余裕を持てるのか。内定を得られれば余裕が持てます。きっと鬱も改善します。
これも視野狭窄だという自覚はあります。ありますが、他にどうできるのかわからないです。
折れたらきっと、奨学金の負担を親にかけたくない!という思いを実行することになるでしょう。ネットを探せば、就活できなくてもフリーターからやればいい。という意見が多くありますが…そういった方は、卒業時に1000万円の借金を背負っていなかったんじゃないかと思います。
助けてください。
時代遅れというかガラパゴスなんじゃないの。そもそも付いて行こうとしてないって言うか。日本でバンドやってる奴で、常に世界の最新のシーン追ってる奴なんて見た事ないわ。単に中高生の自分が聞いてたものを真似てるだけ。自分が気持ち良ければ良い。バンドは意識低い奴がやるもの。
ていうか俺に言わせると、バンドという形態自体が時代遅れだわ。エレキギターはおっさんの楽器だし、ロックはおっさんの音楽。ヤングギターの毎月の表紙見てみろよ。80年代に名を上げたじいさんばかり。21世紀にもなってバンドとかやってる奴は、ものすごくダサいから人生覚悟しとけ。
気付いたメリットを挙げていく。
当たり前なんだけどこれに尽きる。というかこれだけしか利点ない。オンリーワン。
早寝早起きを合わせると、更に自由時間は伸びる。誇張抜きで1.5倍くらい。
最近の平日はこんな感じだ。
まず17時台のうちにスーパー直行、意外と主婦っぽい人は少なめ。
20代後半〜30代前半くらいの綺麗なOLさんが多く、目の保養になる。あいつら帰るの早いな。
食材を買って帰宅で18時台前半、晩飯を食い終わってもやっとこさ19時前後である。
そっからこころゆくまでyoutubeで音楽聞いたり、趣味の楽器いじっても、せいぜい20時台後半。
そんなこんなで21時半には眠くなってくる。で、22時過ぎにはソファーで寝落ち。
5時には目覚め。ゴミ出しやら洗い物やらは体力のみなぎるこの時間帯で済ます。
6時台にはゆっくり入浴。「夜入らねえのかよ、汚いな」うるせえよ、こちとら朝風呂派だ。
風呂から出たらしっかりとベッドで二度寝。30分から1時間寝て出社。今日も一日頑張るぞ。
家で映画鑑賞するときは、ストレートに帰宅。パパッと飯を適当に済ます。
あー映画楽しかった。時計に目をやる。まだ20時台だ。もう一本見ようかな。
ジムに行く日もある。18時前後のジムはガラガラ。有酸素+筋トレ、みっちりやっても20時過ぎには終了。
何をやっても時間がひたすら余る。時間の買取サービスでもあれば毎日3時間分くらい売り飛ばしたいよ。
彼女持ちならディナーとか一緒に行けるな。映画見たりするのも一興だ。
子持ちなら幼稚園やらのお迎えついでに子供と遊んであげられるだろうね。
春・夏とかなら全然明るいし、帰りがてら公園とかで遊んであげる事も可能かもな。
スーパー寄って帰宅後に夕食、風呂に入れてあげても20時台じゃないかな。
子供が大きくなったら親父が塾や習い事の送り迎えしてやる、なんてのも粋じゃないの。
相変わらず薄給な事実は変わらないんだけど、とにかくQOL向上してる感が半端じゃない。
小学生の時の「今日帰ったら何しようかな♪」ってワクワク感が蘇ってきた。
「世の中、金だ」と言うだろう?絶対に違うね、世の中時間だよ、時間。時は金なり、ビバ定時退社。
結論:みんな早く帰ろう。
なんだか気持ちが落ち着かない。
吐き出したいから、少し書きたい。
俺は今年で31歳になる。男だ。
今まで一度も誰とも交際したことは無いし、
容姿が悪いという事は、普通の人が当たり前に出来る事が出来ない、
とにかく生き辛い事が盛りだくさんという事。
結局予定が合わないと前日に連絡が来て流れたり、
会うには会ってもらえても、かるく雑談しただけで解散になったり。
(前日にキャンセルされた時は、翌日その方がヒマだとツイッターで言っているところを見かけたりしたが。)
仕事もとにかく不利になる。
厄介な案件を押し付けられて、普通の人たちはさっさと帰ったりするのは当たり前。
前日になって色々深夜までやらされるという事は当たり前。
パワハラといわれればパワハラなんだろうけど、何かしようものなら、たちまちもっと当たりが強くなるだけ。
毎日毎日、泣きそうになりながら仕事をしているところをニヤニヤと覗き込まれ、
ヘタだけど、自分で色々試して、上手く演奏できたときはとても嬉しい。
いつものように、キモいって言われて、演奏することさえ嫌いになってしまいそうだから。
味方が欲しい。人並みの幸せはとっくに諦めた。
ただ、味方が欲しいだけなんだ。自分の存在を認めてくれる人が。
認めてくれなくても良い。許してくれる人が。
愚痴りたくて書きました。
【ガルパン】
ガルパンの戦闘シーンを見てほしい。大洗女子学園は窮地に陥った際に精神論的な玉砕戦法に走ることなく、
きちんと作戦を立て、それを実行して勝利する。その頭脳戦のカタルシスこそが作品の本質になっている。
ガルパンの最も際立った特徴は戦車を用いた頭脳戦であり、たとえ大勢の美少女が出ていようが、ガルパンは戦車アニメなのである。
【けいおん】
けいおんは実在する楽器を出したり、実在するミュージシャンをもじった名前のキャラを出したりしているが、
その楽器の特性を掘り下げたりしないし、モデルになったミュージシャンの特徴がキャラに反映されているわけでもない。
具体的な音楽論を語るキャラもいなくて、女の子らの雑談が一番の見どころになっている。
けいおんの最も際立った特徴は女の子たちがかわいいことであり、けいおんは音楽アニメではなく美少女アニメである。
美少女アニメとは、要するにポルノのことである。それは性欲という安易な欲求を叶えるための次元の低い創作である。
京アニはポルノにまみれている印象がある。FREEにせよユーフォにせよ、水泳や吹奏楽が男の子のかっこよさや女の子の可愛さを
アニメとか安い自己発信型コンテンツ(キュレーション含む)とか精神障害コンテンツ(今のタームは発達障害)とか20年前に比べて娯楽マジ金がなくなった。漫画雑誌も無理に買わなくて良くなったし(違法という意味ではない)。興味のない人が犯罪心理や哲学を援用した談義でナハナハ言ってた頃はまだ金あった。その前のドリフやプロレス全盛の時代はもっともっと金があった。金の分だけ情熱があったのかもしれない。アニメや自己発信コンテンツは根本的な変革がなければジリ貧でより貧乏ったらしいものに変容していくんだろうけど、発達障害の人々は自分自身をコンテンツに変え、理解を得られようとし、実際理解を得ていくんだろうが、大多数の人々は燃え尽きてしまうと思う。「ゲームオーバー後の人生」とよく言われるように、終わったという感覚を引きずって別のタームを見つけていくのだと思う。でも終わらないので辛いですね。
音楽は楽器が(ハードもソフトウェアも)べらぼうに価格が下がったので参加障壁がものすごく下がった。痛い思いしなくてもパッドさえ叩いていれば音楽っぽいものが出来るから、テクニック的にも敷居が低い。その代わり、異常なほど狭いスモールサークルな場がいくつも出来上がり、その中で各世代や同系統のスモールサークル同士が上手く連帯したり、いがみ合ったりしていて、まだちょっと健全だと思う。ただ、金にならないだけ。成功願望も金というところに着地しない人が増えてきたし、慰みの文化としてはちょうどいいのかも。承認欲求丸出しな殺し合いも見られるからネットプロレスとしてもちょうどいい。
添削なし。書捨て。
田舎の家に生まれ、高校生の頃に祖母が出て行って両親が離婚した。
自立心が強く後にフェミ活動家とか市民活動とかにのめり込む祖母は常に自身の人生の充実を探求しており、子育てにはまるで興味がなかった。
祖父母ともに気性が激しかったため怒鳴りあい殴り合いのケンカも頻繁にあって、
母の妹である叔母はグレにグレていたらしいので、話を聞く限り色々と機能不全な家族だったようだ。
高校卒業後、東京の美大を目指して東京で絵の予備校に通っていたらしいが、田舎娘ゆえに警戒心が薄かったのか、電車で毎日のように痴漢に遭いまくって、
乗る電車を変えたりしても別の痴漢に狙われるなどして解決せず、最後には恐怖で部屋から一歩も出られなくなり、予備校に通えなくなって半年もたずに帰郷。
卒業後、ファッションビルの雑貨店に勤務。ポップとか描いていたそうだ。
恐らくこの頃にライブハウスか飲み屋で父と知り合い、結婚し、バブルがはじけるころに俺を生む。
父の家は観光地で食堂をしていたので、嫁なら当然ということで毎日無償労働。
父が家に入れる分以外の収入は一切なく、雑貨店勤務時代の貯蓄を切り崩しながら生活。
父方の祖父母は年金なんか馬鹿の払うものだという考えの持ち主だったため、10年近く無年金。
父方祖父がアル中で手が動かなくなってきていつ引退するかわからない状況になり始めるが、父が一向に調理師免許を取得しようとしないため、
営業許可に関わるので念のため父と相談して母が先に取得したところ、代々続く店に女の名を掲げて恥をかかせる気かと祖母になじられるなどする。
父は数年後に1回落ちたが調理師免許を取得し、ギリギリ祖父の引退には間に合った。
その後、父が金がない景気が悪いと言って家にあまり金を入れずに、150万円規模の趣味の楽器を無断で購入していたことが発覚し遂に離婚。
大手眼鏡チェーンでパート店員として勤務、ようやく年金に加入。
母子二人の生活が貧しいながらも軌道に乗り始めたところで、田舎の祖父があちこちガンになって手術連打。
車で片道一時間かかる病院に通うのが大変という話が出はじめ、叔母は親に反発したまま大人になっていたので、やむを得ず俺を連れて帰郷。
祖父は帰郷後一年ほどで死没、死にかけてるくせに皿が飛び交うような言い争いを何度も見た。
飢えるとその辺の草を躊躇なく食いまくる俺の発達障害が発覚したりする中、母は調理師免許を使って公営のデイサービスセンターの昼食係に契約(嘱託?)職員として就職。
何年か問題なく勤務して契約年数も残っていたのだが、町が方針転換して施設の食事を業者に委託することになったため突然クビを切られる。
見かねた施設長に介護員として拾われて同じ施設の介護職へ転職、介護福祉士やケアマネージャーの資格を取りながら何年か働くが、
町の規定で契約が何年までと決まっていたらしく、契約満了となり民間の小規模施設へ転職。
同時期に体調が悪化、後にメニエール病であることが発覚して投薬治療が開始されるまで車での送迎業務ができない状態になる。
離れて暮らす祖母とはずっと交流を持っていたが、祖母からお金をただ貯金していることを散々馬鹿にされ、
祖母が利益を上げまくっていた和牛投資にコツコツ貯めた100万円を投資する決断を下したところ、一年も経たずに投資先が破綻して回収不能となる。
散々勧めた張本人で、回収不能額よりこれまでに上げた利益の方が多かった祖母からは、自己責任、見る目がないと罵られ当然ノーフォロー。
家族経営だった小規模施設でサービス残業や持ち帰り仕事が増え、
さらに利用者のクレーマー家族が発生してスケープゴートにされ続けたため、引責と体調を理由に再度転職することに。
ちょうど俺が独り立ちしたタイミングだったことから、稼ぎよりも労働環境を重視して大きな母体のある中規模デイサービスにパートの介護員として就職。
真面目に数年間働いていたところ、組織全体で正社員登用制度を作る話が出るが、同じ介護員パートが数名いる中、母のみ対象外となる。
理由は制度開始の三日前に誕生日を迎えて、制度の年齢制限に引っ掛かってしまうため。
母体が大きすぎたことが裏目に出て、逆に融通がきかなかった。これには流石の母も一晩でワインを三本空けるヤケ酒。
この話はその時にちょうど帰省していたので聞いたことをまとめたもの。
持ち家一人暮らしとはいえ、手取り11万円程度での生活がいつまで続けられるかはかなり怪しく、年金は空白期間が長いので僅かしか貰えそうにない。
ラブライブ!サンシャイン!!のライブに参加したお話です。
昨日今日と横浜アリーナで開催されたこのライブ、本当に素晴らしい内容でした。
私は2日目は残念なことに昨晩から体調を崩してしまったため、初日のみの参加でしたが、本当に満足のいく、多幸感の溢れるライブでした。
ステージ上部にピアノが設置され、桜内梨子さん役の逢田梨香子さんが懸命に目の前の88鍵と向き合う姿に心を揺さぶられました。
鍵盤を押す指が震えており、間違えないように慎重に…という心情が顔に表れており、それが大きなスクリーンを通して客席や全国の映画館へ流されているのかと思った時には、本当にこんなことしていいのかとも思いました。
ピアノの経験もなかったことでしょう。まさか、そんな自分が横浜アリーナで1万人を越えるファンの前でピアノを弾かされるなんて思ってもいなかったことでしょう。
彼女が当初、この構成を発表された時にどんなキモチになったのか、そもそもいつどこでどんなふうに発表されたのか、1人のファンである私には想像の余地もありません。
もし自分が同じ立場だったら、泣きながら拒否する以外に道はないと思います。怖いもん。
それでも、逢田さんは初日の公演で見事に弾ききりました。本当に心に訴えかけてくるようなパフォーマンスでした、ありがとうございました。
さて、本日の公演。
私は参加していない身分なので自分の瞳で確かめていないことなのですが、どうやら演奏途中で間違え、曲も止まってしまったんだとか。
肩を震わせる彼女のもとに、すぐに他のメンバーが駆け寄り、その後もう一度はじめからやり直したんだとか。
もしこれが本当なら、本当に頭が下がると同時にめちゃくちゃ「こわい」と思いました。
まずは逢田さん、本当にお疲れ様でした。頭が下がるばかりです。是非ともその場で応援させてもらいたかった。
そして、これってスゴくこわい問題だなって思いました。
奇しくも今日の公演でピアノを間違えて曲を止めてしまったこと、偶然です。
しかし、このハプニングがありライブは俗に言うエモい状態に入り、多くの観客の感動を呼び起こしたことでしょう。
よく「ハプニングを楽しもう」「ライブにハプニングは付き物」と言われますが、毎回毎回こんなハプニングがあったんじゃ観てるこっちも仕方がないです。
うまく表現できないため言葉の綾があるのですが、それでエモさを感じるのってすごいこわい問題じゃないですか?
μ'sの3rdライブを体験した方なら同意いただけると思うのですが、個人的に彼女たちの全てのライブを通して、最も印象に残っているMCと言われ、3rdライブのアンコールでのあのシーンを挙げる方々が多いと私は思っています。
端的に言えば「演者の泣く姿を垣間見たい」そして「頑張れ」って言いたいっていうエゴの権化みたいなアレ。
昨日の伊波さんのMCで印象的だったのが、多くの観客が執拗に拍手をしていたのに対し、「泣かせようと思ってるでしょ!」とバッサリ切ったあの場面。
あの一言で、図星を突かれた方々もいたのではないかと思います。
楽しかったから泣く、悲しかったから泣く…涙には様々な種類がありますが、感情の経過と変化の結晶が涙だと私は考えています。
決して、私たちが左右できるようなものではない。しかし、それを意図的に求めようとしている、つまり多少のハプニングに姿を表してほしいと思っていること。(今回のピアノの一件では、流石に観客側も一瞬凍りついたと聞いていますが…)
それって不健全じゃないですか?
というかそもそも、ピアノ初心者がピアノを弾かされるってこと自体がスゴい異常なことだと思っています。
これはAqoursや多くのアーティストのパフォーマンス全てに言えることだと思います。
私もいくつか楽器を嗜んでいるため、パフォーマンスをする側の精神をある程度は理解しているつもりです。私の場合、多い時には何百人以上の観客を前に演奏を披露することがあるのですが、やはりライブをするというのは楽しいです。
一方で、練習はやはりストレスが重なります。あくまでも私の想像ですが、Aqoursのダンスレッスンなどでも様々なストレスやプレッシャーがあったかと。そして特に。今回のピアノ披露は何よりもまず、彼女のプレッシャーが画面越しに伝わってきました。人ってあんなにも必死な顔をするものかと。
たしかに感動は産んだかも知れませんが、私のフォロワーさんの言葉を借りれば、彼女を追い込んでいたのは言うまでもないと。
ライブで自他共に楽しむため、もっとライブを盛り上げるため…というのを重々承知の上で、それでもやはりあのピアノの一件は本当に大変だったんだろうなと感じました。そもそも、そんなこと本当にやらせていいのか。マジでわかんねぇ。書き掛けの文章な上に、自分でも言葉の綾が多く見受けられる文章なのですが、これ以上の表現が思いつかなかったため、ここで筆を置かせていただきます。
ダンスの話になるのですが、あれだけの時間を掛けて、あれだけ完成度の高いステージ見せるのってラブライブ!くらいですよね。
以前、μ'sの飯田里穂さんが仰っていたことですが、ラブライブ!のリハは本当に長期スケジュールだったとのこと。おそらく、今回のAqoursもそうだったのでしょう。
そのせいか、他のライブでは感じられないような感動を覚えることが多々あります。
このような完成度の他に、ラブライブ!ではなく、ラブライブ!サンシャイン!!だけで私が感じたイメージが2つあります。
ひとつは、年齢が近いこと。
私は現在21歳で、Aqoursのメンバーとも歳が違いのですが、本当に同年代なのかと頭をひねるくらい、彼女たちは本当に輝いている。
特に、渡辺曜役の斉藤朱夏さん。彼女のダイナミックながらも指先まで繊細にコントロールされたダンスには本当に開いた口がふさがりませんでした。きっと、あのステージに上がるまで何年も何十年もの積み重ねがあったことと思われます。
年齢が近いせいか、μ'sの頃は少しお姉さんくらいに見えていたメンバーも、Aqoursでは明らかに他人事ではない、自分のすぐそばの出来事のように様々な事象を感じるようになりました。
そしてふたつめに、ラブライブ!サンシャイン!!という作品が、ラブライブ!の頃よりもより観客をコンテンツに取り込もうとしている姿勢。
この「輝き」の正体、物語を通して一度もそれが何なのか名言化されることはありませんでした。
一方、ラブライブ!サンシャイン!!では「輝くこと=楽しむこと」と第13話で名言化されました。この後に披露されるMIRAI TICKETの1シーンで、千歌さんが「一緒に輝こう!」と観客席(=いわゆる私たちの側)へと訴えかけるというものがあります。
また、この傾向はAqoursの物語の根幹にも通じているのではないでしょうか。
Aqoursは自分たちの歩みを「0を1にする物語」と題しました。ここまで物語のテーマを明らかにしたこと、当時の私には本当に驚きでした。
μ'sが「1を100にする物語」であれば、Aqoursは「0を1にする物語」であるということ。μ'sの頃には明言化されていなかったことが、Aqoursの物語ではわかりやすく、伝わりやすく(そしてあえて伝えようと)私たちに提示されたのでした。
この2点の結果、私はAqoursのコンテンツに足を踏み入れることに、圧倒的当事者意識を感じざるを得なくなりました。
μ'sの頃はどこか他人事のように見ていたというわけではないですが、Aqoursのライブを見て「自分も何かを始めたい」「何かやり遂げたい」と昨日のライブを見て強く思うようになりました。
これって、制作側のピンポイントな狙いに見事に食らいついた事例だと思っており、この2日間のライブでまさにAqoursがライブを通して私たちに伝えたかったことだと感じています。
以前よりも強く、当事者としての意識を持たざるを得なくなったAqoursのライブ。このコンテンツを追い続ける限り、進めば進むほどその魅力に打ち負かされることが容易に予想できるのが素直に「こわい」と感じました。
最後になりますが、初日のみの参加ながらも、Aqoursのライブ本当に楽しかったです。
一年前は「いや、μ'sがファイナルライブやるんだからAqoursの2ndシングルとかしらねぇよ!」とAqours関連の情報をぶった切っていた私ですが、幸か不幸か意志薄弱な私は、昨年夏にコロっと斉藤朱夏さんにヤられてしまいました。
先ほど、これほどダンスに鍛錬を重ねているのは極めて稀だと書きましたが、それもあってか本当にライブを観ることが楽しくて仕方ありませんでした。
今年の夏には神戸、大阪、西武ドームを巡るツアーもあるんだとか、また彼女たちの奏でる音楽に身体を預けられる時間が来るという事実だけで、今から心が踊ります。
これはまだ先の話だと思いますが、彼女たちもスクールアイドル。きっと終わりがあると思います。しかし、今この瞬間は本当に楽しい。その多幸感、際限のない底知れぬ多幸感こそが、私がラブライブ!サンシャイン!!のことを「こわい」と感じる一番の理由です。
なんだかんだ言いましたが、やっぱりラブライブ!ってスゴいです。ライブという空間が非日常的なものであるということを理解しつつも、やはりラブライブ!には何か他のコンテンツには無いものがあるのだと思います。あの4時間が本当に楽しすぎてこわかった、今後もコンテンツのオタクとして心の扉を更に下へと開き続けさせられるのが本当にこわい。
ラブライブ!サンシャイン!!って、本当にこわい作品。
そして、とても重いものです。
あまりの多幸感は、ライブが非現実だと理解っていてもいつか何かで身を滅ぼす気がする。
その日が来るまで、せいいっぱい楽しみたいものです。
楽器をやっているひとで、上達したくないと思いながら弾いている人は少ないだろうと思う。
しかしながら、上達するような練習をしている人はこれまた少ないように思う。
ひとつには自分にとって、不足している技術が見極められていない。次にそれを解決するための練習方法をを知らない。そして、自分に技術的不足が有ることを認識していない。
いくら良い先生に着いたとしても、改善意欲がなければ意味がない。
しかし皮肉なことに、技術レベルが低いと自分の技術レベルが低いことを知覚できないのである。
それで満足しているんなら別にいいのか?とも思ったが、自分の技術レベルが低いことを知覚できないなら問題意識なんてないんだよね。