はてなキーワード: 担保とは
グレーゾーンなのをいいことになんやかんやちっさいことにいちゃもんつけて罰金を支払わせてるのが迫害ではないと?
被告は迫害だと感じて憲法違反だと思ったから、略式なんちゃらをブッチして白黒つけようと裁判に出た。顧客とトラブルがあったわけではないんだよ。
衛生管理等の整備が必要なのは当事者は十分わかっていて、できている。
天下り要求なのか権威の押し売りなのか内情はよく分からないけど、免許なんかなくてもある程度の安全性は確保されてるということ。ある程度というのは、食品衛生管理者がいたからって食中毒は起こるよね。って意味で。
直接体に触れる職業に免許という首輪があるからと言って、彫り師にそれが絶対必要なのかというと、疑問だ。だってそれって、今までやってたことの追認でしかないでしょ。意義は薄い。
だいたい免許制になっても、今回のように文化的迫害が起こらないとも言い切れない。
なぜなら、今回の迫害は被害者のない「犯罪」で、刺青への差別心からくる邪推が発端になってるから。
無自覚な差別主義者が今回の判決を擁護することを、権力側は讃えるだろう。権力者の権威を担保するからね。やっていることは圧政、迫害、脅迫なのに、権威があれば正義と崇められるんだもん。
カワンゴに近い会社で働く知人によれば、製作委員会に買収を掛ける線で進んでいるらしい。
たつき監督が降板した状態で進めたところでリターンを期待できない。
新たつき体制を作ってアニメ2期を作った方が作品の出来も期待できるし、ファンも喜ぶだろうと言うところ。
問題は買収となると角川が乗っ取るようなイメージが付いてしまいかねないところだが、
そこはたつき監督をメインに新会社を作りイメージを担保。出資率も最低限に抑える。
と言うところで、クラウドファンディングで資金調達を行う流れになっているらしい。
どこのクラウドファンディングを使うかはまだらしいがKICKSTARTER辺りが有利なのではと思った。
統計の見方にもよるが、一家庭内において男子が産まれる確率というのは、
「子をX人授かる可能性」その中から、さらに「男子である確率」となり、
一般的な出生率(⇓)など用いて算出すると、どうしても減少傾向(右下下がりの傾き)とならざるをえない。
(参考: http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei15/index.html )
これらを鑑みると、純粋に「男系男子」だけで家を維持しようとした場合は、
確率的に「3〜5世代」のどこかで、維持が困難という事になってしまう。
なので、旧くからある商家などは、早い内に丁稚やら、婿養子候補などを招き入れ、家が存続できるような仕組みを担保するようにしていた。
(今となっては考えられないが、それ故、「妾」といった存在が、時と場合に応じては許容されていた時代もあった・・・)
もう一寸、分かりやすくまとめると、
・再婚OK → 分子を微増(西欧では重婚が不可なので、この形式をとった王室がある)
・側室制度の復活 → 分子の数を増やす(増やしたければ、いくらでも調整可能)
分母が増える策は、確かに、一時的な維持確率を引き上げる事が可能だが、減少傾向(傾き)を留められるような策ではない。
(増加傾向に転じさせる事は不可能)
いま、皇統継承者4名中、50代未満の男子は `悠仁親王殿下` お一方だけと・・・、なんで、これもっと問題にならないんだろうか。
右翼や左翼というカテゴリは、なぜか人に完全な説明を与えたような錯覚させる言葉だ。
一般的な左翼的言説は、左翼は進歩的であったり、人間中心的であったり、自他的であったり、自利的あったりする。
一般的な右翼的言説は、右翼は保守的であったり、自然中心的であったり、集団的であったり、個人的であったり、規律的であったりする。
これだけ雑多な概念ではあるが、左翼と右翼は対立していたり、対立していないこともある。
わたしは2つの概念に、どちらがより悪いかということを言うつもりはない。
これから書くのは、左翼と右翼にある対するよくある誤解をできるだけ解いていこうという試みである。
といっても私の力不足により、今は3つしかなく内容も不明瞭に見える。
それと誤解と断定して書いたが、恐らくは誤解であるという所だ。
なぜなら、左翼と右翼に完璧な定義付けを、私はしないつもりだからだ。
それでは、なぜ左翼と右翼に対する誤解と言うものを書けるのか。
それは左翼と右翼に対してよく言われる一部の定義を仮として当てはめた時、明らかに左翼と右翼の思想が成り立たなくなり
そうなったときに、彼は左翼だ、右翼だと言うことがほとんど不可能になると思われるからだ。
私は"思想的ジレンマ"というような言説、態度を認めていない。
どちらかのジレンマによる、右翼と左翼のキメラ的態度を認めないということだ。
(哲学的に言えば、ヘーゲルの止揚という概念を認めていない。)
それを踏まえた上で、左翼と右翼に対する誤解について書いていこうと思う。
左翼的言説とは、現状を改革することや、何かを変えようとの意向を持つ言説であろう。
右翼的な言説は、現状を守るときや、何かを大事にしようとするときのものだ。
これらから、左翼は常に革命を求めており、暴力的であるとか、右翼は頭が固く時代遅れだなどと言われる。
まず、最初に左翼的な言説に、まるで保守性がないというのは成り立たないことだ。
左翼が変革を起こす時、現状をすべて破棄するか、一部を破棄するかというどちらかを選択するだろう。
そして現在には存在しない概念を(規則など)を落ち込むことになる。
もし、その概念に批判があれば、左翼はこれを守らなければならない。
その守るための言説に保守的な言葉が無いとしたら、明らかにその概念はたちまち崩壊するだろう。
君の進歩的概念が適用された世界を認めたとして、その世界をどのように(同じような進歩的概念から)守るのだ?
次に右翼的な言説に、現状を進歩させるものではないとするものだ。
これは左翼的な言説に保守的な言説が混ざり込む以上、彼らは、その保守的な言説と戦わなければいけない。
その戦う言説が保守的なものだけであれば、ともに共存することになる。
そうではなく、現状維持のためであれば、不純物は取り除かなくてはいけない。
不純物を取り除いた後に、根本の原因である現状の変革を実施する。
劣化し始めるもの、進歩し始めるのも、現状に問題があるためであり、その現状を彼らは変革するのである。
左翼が保守的に見えたり、右翼が進歩的に見えたりするのは、そもそもの左翼が進歩的であり、右翼が保守的であるということを誤解していることによるのである。
もし私がりんごを食べるとして、ある場所では犯罪だが、ある場所では犯罪ではないとすれば
食べる場所によって犯罪の可否がきまるため、私がりんごを食べる自由は相対的であると言える。)
絶対論とは、~べき論や、どこであろうと適用されることを望んだ言説である。
これらにより、左翼は優柔不断、すぐ裏切るなどや、右翼は頭が固い、傲慢だなどと言われる。
では、これも同じように左翼に絶対的な言説が入り込む余地が本当に無いのだろうか?
その前に、左翼が進歩的言説を行うものであることは、すんなり頭に入った人たちでも、
左翼が相対的言説をしているから左翼だと認識することはあまりないであろうと思われる。
相対的言説とは、まさに例を取ってあげれば左翼的言説に近いもので有ることは理解してもらえると思う。
自由を仮に絶対的に定義しようとすればまさしく絶対的自由から抜け出すことこそが自由であると言うことが分かる。
絶対的言説とは、言説による力を発揮する場所を定義するということである。
例えば、国、集団など。その限定された場所によって、定義された言葉が、それに見合った意味となる。
さて、左翼が相対的であるとのは、相対的言説を用いているからであると説明した。
左翼は確かに相対的言説を用いているが、よく見ればそれは、条件付きの相対的言説なのである。
自由という概念は、他に絶対性がなければ、自由そのものが絶対的なものとなってしまう。
そこから抜け出すために、一定の絶対性を用意し、その絶対性からの自由を得ているのだ。
そのため左翼は完全に絶対的なものを使用するため、完全に相対的であることはできないし望んでいない。
では、右翼はどうだろうか、右翼は絶対的であろうとし、あらゆる不名誉を得てきた。
右翼は絶対的たりうるための場所を定義するが、その場所を定義するプロセスは相対的である。
それは場所とは、物理的に言えば、自然によって決まっており、自然がもたらした、ものによって人が決めるのである。
ある場所は良くないが、ある場所が良いといのは自然により決定している。
こうして、右翼も完全に絶対的であることができず、また望んでいない。
左翼が相対的に見える場合は、条件付けを見れば誤解であることに気づき、右翼が絶対的に見える場合は、場所の定義を確認すれば誤解であることが分かるのだ。
つまり、左翼は相対的であることも、右翼が絶対的であることも誤解である。
左翼が実利的に見えてしまうのは、ほとんど悪名高き功利主義によるものだ。
右翼は功利主義をもたない。なぜなら功利主義は幸福に関する思想であり、幸福という概念は相対的言説だからである。
このせいで、左翼は感情のない人間という扱いになり、右翼は計算の出来ない人間と言われる。
これは功利主義が短期的な実利主義であるという誤解から生まれている。
功利主義とはその場の短期的な視点での価値判断で使用される思想ではないということだ。
もっと長期的な10年、100年というスパンで幸福について考える思想なのだ。
これらの左翼と右翼の誤解はそもそもの問題としては何なのだろう?
私が思うに左翼と右翼という概念が、その人自身の属性となってしまうことによるものだろう。
有る考えが進歩的であったとしても、その人自身はまるで関係ないはずである。
しかし、左翼、右翼とするとその場合は、人間と結合し、その人間自身が左翼、右翼的な存在となってしまう。
本当に気をつけなければいけないことは、左翼的、右翼的であることが、その本人の属性として、その本人の全人格を表すようにみていないかということだろう。
書き途中の増田が出てきたから投稿するわ。多分10の嫌いなこと、に便乗しようとした投稿で、7つしかないけど。
具体的にはテレビ番組で言うと「鶴瓶の家族に乾杯」、ラジオ番組の「昼のいこい」とかのノリが許せない。
「鶴瓶」では、特にゲストがそうなんだけれど、「今、家族に乾杯で来てます~」と連呼して一般の人が驚いて色々リアクション取るのが番組の主軸になっている。これがクソ。
NHKを有難がる人がいるのはいいんだけれど、NHK自らがそれを主軸に据えて番組作るなよ。自画自賛だし、人々がNHKの威光みたいなのにひれ伏してるように感じる。
昼のいこいもそうで、一般の人々の季節の変化の投稿を厳かに読み上げるだけ。一般の人々の投稿に、我々が厳かさを付与してますよ、みたいな構成が大嫌い。
同時に、大河ドラマが終わった後とかに、アナウンサーとかが出てきて「このあとどんな展開になるんですかねー、楽しみですね」とか振り返るのもかなり不快。自らの番組をブランド化をするような番組は公共放送には不要だし、コンテンツそのもので勝負してほしい。
まとめると、人々が想像する「NHKの権威(みたいなもの)」に腰掛けるような番組、NHKが自らをブランド化するような(価値を再生産するような)番組が嫌い。
一般になつかしい、と言われる高度経済成長前後のドラマが気に食わない。
連続テレビ小説「ひよっこ」とか見ててもそうなんだけれど、昭和の人はあんなふるまいしないじゃん。それに、昭和はあんなんじゃなかったじゃん。
もっとタバコ吸ってたしタンは吐いてたし、道端で立ち小便してたし。暴力も身近で、野犬がいたし、雑草も生えてたし。夏は汗だくだったし、もっと衣服は粗野だった。
一番気になるのは、今よりも男主導の社会だったのを上手くドラマの中で消化できていない作品が多いことだ。そんな時代で女性が活躍するにしても、その活躍の仕方があまりに現代的なのだ。
社会の問題を少しずつ改善して今に至るのに、その昭和の時代を今風の人間関係で描くのが気に食わないというか、時代の表現の限界を感じる。
もちろん、当時のままに社会を描いたドラマを放送しても人気でないだろうし文句言われるし、多分面白くならないはわかってる。
だが、そこにこそ昭和の舞台で現代ドラマを作る際の限界があるように思う。
少しは考えてほしい。足フェチと臭いフェチは異なるってことを。
現今の足フェチと臭いフェチとビデオは、それがあまりに未分化で悄然となる。
私はどっちかというと足フェチに守備範囲があるんだけれど、「蒸れたブーツを……」的な文脈のAVが多すぎる。
論文とか書いててもそーだが、論旨が二つあるんだったら論文を二つに分けるだろ。あるいは章を二つに分けるだろ。それとおんなじだろ! 絶対におかしい。許せん。
臭いフェチは、別に足だけでなくてもいい。腋とか髪とか、良いにおいしそうなところはたくさんあるんだから、それで作ればいい。
でも足は足しかねーだろ。足は手じゃないし腋じゃない。
それとSMっぽくなるのも同じ理由でおかしいと思う。俺は足フェチだっつーの! なにも女性に攻められたいわけじゃない。
例えば、狭い業界にいると、誰誰さんがどうなる、とか噂話が多く飛び交う。馬鹿くせーわ。
人事なんて、正式に決まってから周囲にアナウンスすればいいだろ。組織でも個人でも。
それがよー試験の前後から、誰誰が書類を送付したとか、誰が試験を受けに来ていたとか、誰が受かりそうだとか……馬鹿くせーわ。
そんな人がどうしたのか気になるの? まーわかる。良いポストだったり新しいところだったりしたら、気にはなる。嫉妬とか、羨ましいとか、あるいはあそこの先生のお弟子さんだ、とか、色々あるのはわかる。
だがなぁ、そういうのは心に留めておくのが大人なんじゃないかね。君はサルかね? と思う。
そういう噂が、現場の当事者たちの足を引っ張ったりパフォーマンスを悪くすることが連綿と繰り返されている。
仕事に就くということは、成果を出すために就くわけだ。周りの噂が、その成果をすり減らしている。そんな事例が多すぎる。
文章書いてて、「?」の後に一文字あけるとか、「……」のように三点リーダーを用いるとか、まー細かい謎の誰か決めたルールみたいなのがある。
私はこの細かいルール自体はそれなりに遵守するべきと思う。なぜなら、気にする人がそれなりにいるからだ。
問題は、こんな風な細かいルールばかりがルールだと思っているやつだ。
もっと文章を書く際には決まりごとがあるし、論文でも小説でも訴えたいことを訴えるための手段・テクニック・構成があるだろう。
そして何本も文章を書いて、ルールが馴染むか研鑽を積んでいかないと、文字を書くこと・文章を書くことが自分のモノにならない。
そういう訓練を全く積まずに、誰でもわかる細かなルールだけに固執するというか、そこしか理解できない人が、文章のルールとか語るなよ。
よく、体育や音楽や国語の初等教育を軽んずる人がいる。大人になれば、そりゃあ集団生活や集団での規律みたいなのは充分に備わっていて、小学校での集団運動みたいなのを軽視したくなるのはわかる。
だけれど、子供ってのは身近にいる人なら解るが何もしなければ何に対しても馴致しないのだ。基礎的な身体の動かし方や基礎的な音や基礎的な論理・読み書き。
体罰や強制や人間ピラミッドなんかの時代遅れのやりくちはもちろんあってはならないが、ある程度は集団に馴致させるシステムのメリットを見てもいいのではないか。
家庭教師にそれぞれが初等教育を一任させるシステムがいいとか言い出す人がたまにいるけど、そうじゃないでしょ。
新聞、明らかにメリットあるだろ。あえて煽り気味に書くけど、それが解らないのなら、あるいは、そのメリットがメリット足り得ないと言うなら、それまでだということ。
元の主張からはずれるかもしれないけど、 子供の育成にかかる費用を社会全体で負担すべきという考えには賛成している。
そもそもの始まりは親子の関係が、 人類の起源(よりもずっと前)から存在する社会的に特別な人間関係だから それに引きずられた社会システム上(経済上)の問題がいつまでたっても解決できないのではないか。
だからこそ、 親子の関係を特別視することをやめるほうに進むべきではないかという主張だ。
民族の風習や個々人の生まれによってはそうではないこともあるが、 現在の主要国のほとんどが親が子を育て、 子は親に育てられることが当然のこととして社会が成り立っている。
生みの親と育ての親が違うということはあるし、 いわゆる孤児というかたちで育った人もいるが、 社会的には弱者(少数派)としてとらえられることが多い。 (実際どうかではなく、多数派の人々が彼らにその社会観を押し付けるのだ)
そういう価値観のもと社会が形成されているので、 親は子供を産めば育てなければならない義務を負うことになり、 子供も親に育ててもらっている以上、 家族として拘束されるという力関係が生まれる。
子供が一人、成人するまでにかかる費用は莫大だ。 実際のところ、日本でもこの経済的な問題は認知されていて、 教育費の無償化や子供手当、だとかまあ色々な経済対策は取られている。 (独身税というのが導入されるとしたら、この一環になるだろう)
ではなぜ親が子供を育てるのかという議題もあるが、 それは人の価値観それぞれなので省略する。 ここでは、教育費無償化や子供手当(さらにいうと独身税とやら)を負担する社会側にとって、 出生率が下がり人口バランスが崩れることが、 社会全体にとってリスクや損失になることを考慮しておく。
では、親が一切子供を育てる費用を出さなくてよいと仮定してみよう。 これなら子供を出産できる環境にある人が、 経済的な理由で出生を拒むことはないだろう。
残念ながら、子供が一人で生活していくことも困難だ。 そもそも働くだけの十分な能力を持っていることは稀で、 能力が十分だったとしても、児童労働は法律で制限されている。 他、子供は多くの社会的活動に「親の許可」が必要だ。
親は子供を育てることで、かなりの経済的負担を強いられているが、 子供はそれ以上に親によって自分の人生を左右されているのだ。 (奪われていると言っていい)
親の子育てに対する経済的負担の軽減は、当然主張されるべきことだが、 これは、親が子供の人生にどれだけ影響を与えるか考慮しなければならない。
親ではなく社会が子育ての経済的負担を支払うようになるなら、 親が子供から搾取しないことが担保されなければならない。 仮に子供を産んでから成人するまでの費用(育児時間含)を100%社会が負担するなら、 親が子供の職業選択や進学選択に口出ししたり、 老後の介護を期待することはナンセンスになる。
ここまでの主張はこういう形でまとめたい。
という認識のもと、生みの親・育ての親に対して十分な報酬を与え、 さらに親が子供を自分の所有物だと誤解しないように、 子供の経済活動を社会側が支援し、親に搾取されないようにする必要がある。
今では私たちは自由な経済活動を謳歌できるようにっている。 職業選択は自由になり、手続きを踏めば住居の移動や国籍を変えることだって不可能ではない。 同性婚は認められつつあり、かつての社会的性差による不自由は取り払われてきている。
親子の関係から経済的な拘束を取り払おう。 そして、出産と育児に携わった人に対して社会から十分な報酬が支払われるようにしよう。
さて、最後にここまでの話を前提のもと、具体的な施策をまとめる。(時系列順)
おしまい。
ネタバレはありません
色々学びがあった
◯やはり1話20分に詰め込む情報量というのは、ある程度多くないと飽きやすい
あれは緊迫したシーンで引き伸ばしていたのでギリギリどうにかなっていたのだと思う
常に緊迫させていなきゃならないので、できるかは作品に依る
もちろん原作物の場合、12話でどこまでやるかで構成が決まってしまうので難しいところではある
今期でいうと、魔法陣グルグルが超詰め込み型だ
あちらはあちらで「カットされた」とか「余韻がない」と言われているので
情報量が多すぎるのも問題がありそうだ(でも個人的にはあっちのテンポのほうが好き)
ただ一個一個の技が大きいプロレス寄りの戦闘ならそこまで問題はない(ジャンプアニメはそっち系)
でもスピード感重視だったり、生死が掛かっているような戦闘だと簡単にダレる
◯世界観・舞台をチェンジして魅力を出すなら、2話で1舞台が若干飽きる構成、1話1舞台がかなり贅沢な構成だと思う
けものフレンズでは1話1舞台2フレンズ以上という、異常に贅沢な構成になっていた
これに関して監督は「1話1フレンズはしょっぱいだろう」と思ってかなり無茶したと語っている
もし1舞台で2話以上の構成なら、別の魅力を用意しないと飽きる
◯一般的に原作厨がキレる要因の一つに「キャラが違う」というのがある
私も特にラノベのアニメなんかでは細部の改変にキレるタイプだが、意外と(?)人気には影響しない
一部の原作厨を除いて、大多数の人はそこまで細かく見ていないんだろう
でも細かなキャラの心情を無視するなら、それを補うだけの派手さが無いとまずいと思う
アニメで前者を担保するのは厳しい、しかし元から派手さがないならそこを追求するしか無いのでは?
◯話題になるようなシーンやキャラクターが後半に登場するのはやはり厳しい
どのアニメでも原作通りを支持する私だが、最悪変えてしまわないと持たないのかもしれない
と言っても、アビス原作でも2巻時点で売れていなくて打ち切りの話があったそうだ
アニメは今9話時点で3巻序盤(ちなみにグルグルは8話で4巻半ば、番外編無視してるから実質3.5巻くらいかな)
◯引きは重要
クリフハンガーをしろというわけではないが、1週間ずっと印象に持ち続けるシーンになる
(次話でどうなるか。これもけもフレが異常に上手かった)
BGMに違和感が出ると、皆の集中がそっちに取られるとわかった
他の作品でもよくみるが、原作準拠と原作者準拠はちょっと意味合いが違うと思う
これも難しい
・法定耐用年数と、実際の建物の耐久性能は必ずしも比例しない。ローンが付くかどうかは金額と支払い能力と担保価値なので、属人的に、物件的に充分ローン付く可能性はある。
・リスクは当然高くはなるが、「当たり」のマンションだったら割と儲けものではある。
・ただし畜40年だと耐震的に既存不適格なので、出口に難あり&地震保険火災保険は高くなる。耐震改修工事や大規模改修が済んでればまた別。
・償却残が少ない分、税金的な価値は極小化されるので、固定資産税は少なく済む
不動産は現物なので、こればっかりは見てみないとなんとも。広尾ガーデンヒルズは築30年以上だが未だにびっくりする値段で売り出されたりする。
前の先生がすごく良い先生だっただけに、今の先生が合わないかもしれなくてつらい。
役職だけなら今の先生のほうが上なのだけど(だからこそ期待が高すぎたのもある)、こと臨床能力や相性に関しては役職だけで決まるものではないわけで。
もし今後、相性が合わなさすぎて何らかのトラブルがあった場合、名前を匿名にした上でネットに詳細を書き散らしてやろう。
実際にやるかやらないかは別として、こうやって対抗手段を担保しておけば、少なくとも通院が嫌すぎて定期的に通うことすら危くなることは避けられるだろうから。
しかし、精神科の主治医の先生がこちらに共感的・支持的でない場合って、たぶん先生が思ってるよりはるかに患者にとってはキツいよ。
人の恨みをかうと怖いよ、先生。
結局この問題のポイントは筑駒の運命がどうなるのかに尽きる。というか、もうちょっとはっきり言うと、この有識者委員会メンバー
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/077/meibo/1376860.htm
を見ても、たぶん生涯筑駒、開成、灘とかとは無縁だったのではないかなぁという人たちばかりで、この有識者委員会の本来の議論の対象は地方の大学付属校ではないかと思われ、自らの議論可能な能力を大きく逸脱する範囲に議論を広めてしまっているように思われる(まあ、むかしから筑駒に関わる大人はそういうのが多くて、教官はよく守ってくれていたと思う)。都心の超進学校であり、大人でも解けない国際数学オリンピックとかにいけちゃうような学生を何人も擁するような筑駒とか、そこまでではないにしても学附や筑附とはなにかを知っている人間はいないように見える。
ところで歴史的経緯を見れば、筑駒というか教駒がそのレベルを上げたのは、学区制度が導入され都立日比谷が急激に凋落した時期と一致していた。筑駒の教官は十分それを認識していて、目をつけられる時が来れば文部省(当時)はすぐにでも筑駒を潰そうとするだろうと語っていた。だからできるだけ目立たず隠れようとしていると。生徒のレベルは筑駒>開成であるのは明らかなのだが一般紙にはなかなかその事実は載らない。それはマスコミの取材をできるだけ避けるなど一応努力しているから、みたいだった。
財務と外務の中央省庁に多くの出身者がいて(文科にはあまりいないけど)、政治家もいるし企業トップ、大学トップ(これが一番多い)もたくさんいるような筑駒なら、国にその出身校を潰させるような施策を決定させることはないかというと、都立日比谷が潰された経緯を見ればそんなことはない。教育関係者が潰そうと思えば潰されるだろう。
まあ、そういうことだから、都立日比谷が潰された後に教駒のレベルが確定したのと同じように、筑駒が潰されれば何か他ができるんでしょうけどね。都立日比谷や筑駒のような学校が嫌いな人には、この運動をしてもどうせほかにまた同じものができる、と単に伝えたい。それがもし、昔に戻って都立になるというのなら、筑駒とは違って横浜とか千葉とかさいたまの人は通いづらい高校になってしまうだろうな。そしたら県立がのびるからいいのかな。
あと、都立日比谷や西のレベルが学区制度導入でコテンパンに潰された後(都立日比谷から東大入学者がゼロになった年に、都教育委員会がガッツポーズしたという噂もあり・・・)、それら高校の教員のそれなりの数が予備校に流れ、そのため予備校のレベルが大きく向上したとの話がある。つまり、塾や予備校に行かなければよい講師がいない、という意味での教育の経済格差を生み出したのはむしろ(そういうものをなくそうとしたはずの)学区制度導入であったのではないかという見解。
ここに書いたのは単なる噂話のみだ。真実性はあると私は思っているけど、それを担保するものはなにもない。しかし、もう少しきちんと専門家がこの辺りを調査して、科学的に結論を与えてから、筑駒を潰すかどうかは考えてほしいものである。
千葉の気持ちがわからんでもないひとりのクソオタとして、千葉についての雑感を以下に記す。
政治的な観点からの物言いは極力さける予定だが、そう見えるだろうなというところもあるので注意。
また特にオチはなく、そしてネタバレは一切回避していない。未読者は即ブラバされたし。
実は、ともったいぶる必要もないのだが、実際のところ千葉はハルにマジ惚れしており、それが千葉というキャラクタに深みを与えている点はけっこう興味深い。
千葉は従前にも説明した通り、異世界転生(転移)チートハーレム無双モノの主人公をメタったキャラだ。
そういう観点に立てば、キヨリも【千年に一人レベルの美少女で、主人公(千葉)に強く惹かれており、従順な性格でもちろん処女(初登場時はフェラすら知らない)】という異世界転生(転移)チートハーレム無双モノのヒロインをメタったキャラだというのが見えてくる。
雑に(本当にひどく雑に)ノクタでやる異世界転生(転移)チートハーレム無双ネタとしてこれらの要素を考えるなら、前世で陰キャラとして鬱屈した人生を送った千葉は、転生した異世界で成長促進+その他のチートを得ることによって勇者となり、最高の美少女であるキヨリをゲットして男に成り上がる。
ハルも含めた三角関係として見るのであれば、前世を象徴するヒロインとしてハルがおり、異世界を象徴するヒロインとしてキヨリがいる。そのふたりをハーレムの一員としてゲットすることによって千葉は前世の鬱屈を解消しつつ、異世界でウハウハする――みたいな話になるわけだ。
「俺、アイツのことなんて何とも思ってねーから。誤解すんなって」
「誤解って何よ? あたしも知らねーし。断るにしても付き合うにしてもあんたの勝手なんだから、あたしをダシにすんなってムカついてんだよ」
(中略)
「え、いや、なんで怒ってるの? だから俺、ハーレム攻略も順序が大事だと思ってるし、最初の女は元同級生で奴隷メイドのハルで決まりと思ってるし……」
(チーレム主人公である)千葉からは、美少女キヨリの登場に(ツンデレキャラである)ハルが嫉妬したように見えている(もちろんハルはそんな千葉がただただウザく、そんなこっちの気持ちを解さないことにムカついているだけだが)。
(普段はこういうチーレムモノを愛好する)俺は、ある種のお約束を逆手にとる作者一流の諧謔をここに見る。
さて、ここで注目しておきたいのは千葉がキヨリにさほど興味を示さない点だ。彼は明らかにキヨリ<ハルの論理で動いており、なんならキヨリがモーションをかけてきたことをネタにハルを釣ろうという、キヨリのことをただのエサとしか思ってないフシさえある。そしてそれがまたハルをムカつかせる(ちばはじつにばかだな!(ドラえもんっぽく))。
この傾斜はチーレム主人公のメタキャラから明らかに逸脱しており、ある種のご都合主義だと言える(本当にキヨリとくっついてハルの前からいなくなってしまうと話に絡められなくなるという作者の都合)。
ただこれは作内でちゃんとケアされており、それが千葉はハルのことが本当は好き、という点なのだ。
もともと千葉とハルがこの異世界にやってきたのは、暴走トラックに揃って轢かれたせいだが、ハルの視点から見ると
そのときすぐ教えてくれれば避けれたかもしれないのに、わざわざ私のとこまで走ってきて抱きついてきたせいで、2人とも死んでしまって異世界まで吹っ飛ばされた
となる。
となる。
千葉のこの叫びは流れをちゃんと追っていくと中々に壮絶で、初めて読んだ時は、
いやー……。ほんとさー……、千葉さー……、お前さー……、馬鹿だよ。なんでさ、ハルのことを理解しようとして自分のことを理解してもらうようにコミュニケーションとれなかったんだよ、そうしないとわかってもらうなんてできるわけないだろ。でもさー……、俺はお前のその気持ちわかるよ。陰キャだもんなあ、教室の中心で輝いてるようなイケてるJKに自分の本心なんてなかなか打ち明けられるもんじゃないよなあ、相手は自分たちのことキモオタって言ってたんだもんなあ、無理だよなあ、言えないよなあ、ほんとその気持ち、わかるよ。
てなことを思いましたまる。
というところで終わらせてもなんなのでもう少し続けると、これは千葉が【俺が生命をかけて守ろうとしたんだからハルは感謝すべきだ、そして異世界で成り上がる俺の側にいるべきだ】という子どもじみた欲が破綻した瞬間だ。これによって千葉とハルは決別する。
千葉サイドの論理でこの瞬間を斬るなら、(千葉より圧倒的にコミュニケーション能力に長け、千葉を批評するほど状況が見えていた)ハルだって俺(=千葉)の気持ちに気づいてフォローしてくれなかっただろう、となる。
もちろんハルにそんなことをする義理はなく、批判されるいわれはない。けれども千葉がここで暴発してしまう論理は物語の中にちゃんと担保されており、千葉は意味なく怒っているわけではない。千葉の理屈や感情を理解することで共感してやれる余地は残っていて、千葉はただクソミソに叩かれるサンドバッグとしてここに存在するわけではない。
そしてこれは、物語が進むごとに超人になっていくハル(まあもとからそうなんだけど)も聖女でも聖人でもなかった、ただの東京のJKにすぎないんだよ、という提示でもある。
『JKハル』は、ハルをとにかく称揚し、千葉をとにかく叩くような物語ではないのだ。
レベルキャップによってチートに陰りが見え、ハルやキヨリとの関係も破綻した千葉はその後、ルペちゃんに教育されるようになる。
「確かに童貞くささはまだ抜けきらないけど、言われたことぐらいはちゃんと出来るようにはなったよ。ハルちゃんもキヨリちゃんも、千葉くんのこと育ててやるつもりなかったからか、自分で工夫するってこと知らなかったんだよね。だから私は、まずは立場から教えてあげたよ。優しくしたり、叱ったり、甘やかしたり。ほんと時々はぶったりもして、それから泣くまで褒めてあげたり。あとセックスの後はだいたい不機嫌になったふりして、自分の何が悪かったのか考えさせたかな。根は真面目だし、一つのことにハマれば熱心になる子なのはわかってたから。今じゃあの子も私のこと『ママ』って呼んで甘えてる。素直にはなったから、最近はちょっと放置と無視の期間を設けて、自分でもっと工夫して私の気を引けるように様子見してるとこ。お金は持ってるし暇な時間もあるようだから、いろいろ貢いでくれるよ。だけど、私って物よりは愛情が欲しい人だから。お店の前で土下座くらい出来るようになったら、褒めてあげようかなって思ってるんだ。えへ」
土下座のくだりはさすがにどうかと思うが、基本的には泣いてわめく程度のコミュニケーション能力しかない赤ちゃんの千葉を、ルペちゃんママが教育してあげている話だと言って良い(「千葉くんのこと育ててやるつもりなかったから」とハルとキヨリが直球で批判されているのも面白い)。
俺はここに救いを見る。
『JKハル』は男尊女卑の世界で超前向きな東京JKがサバイブする話だが、その主要な価値観として、相手とコミュニケーションを取ろうとせず自分をおしつけてばかりやつはクソ(男女関係なく)というのがある。コミュニケーションをとって相手のことを思いやりわかり合おうとするのを是とする世界において千葉は圧倒的に弱者であり、それがルペちゃんによって改善されていく。彼は今後、少しずつコミュニケーションが取れるようになって、本当の意味での友人、そして恋人ができるときがくるかもしれない。少なくともその可能性はしっかりと開かれた(番外編ではそんな千葉の活躍が描かれた)。
元増田ではないが、追記がわかりにくく、実際に理解できてる人が少ないと思ったので自分なりに解説する。
次に、「アイデンティティ」とは、「自分を他社とは違うものであると認識する」ことだから、「区別」であり、従って「差別」である。
敷衍して、自分自身のみならず、世の中のあらゆる「存在」は、何らかの「区別」を与えられることによって認識されるものだから、「差別」をしなければ自分自身や他人を認識できず、「発狂」するしかない。
「差別」と「区別」を区別できればこの問題は生じないかもしれないが、「差別被害者」がいる限りあらゆる「区別」は「差別」と呼ばれうる。そして、人には認知の限界があるから、ある「区別」による「差別被害者」が存在しないことはどうしても担保できない。従って、「差別」をせずかつ「発狂」しない方法は、認知できない「差別被害者」は無視、すなわち容認することしかない。
VALUというのに興味が出たのだけど、例えばある人のVALUを私が買い占めたら、その人の人生を私が決めていいことにはなるだろうか?
金に困ってる若者のVALUを買い上げて、誰も就きたがらない仕事に売り飛ばす、まさに人身売買、個人の証券化。
それが出来たらなんと便利なことか。
しかし、それは出来ない。
例え、youtuberのVALUを買い占めたところで、売り上げのいくばくかを貰えるわけでも、youtubeで自分の宣伝をしてもらえるわけでもない。
堀江貴文氏はその辺の感覚流石で、ホリエモンカードというものを出していた。
プロ野球チップスの発行数は、公式のアナウンスを信じる以外にないが、ホリエモンカードはブロックチェーンで売買履歴が押さえられているので、水増し発行がないことが担保されている。
強みはそんなところしかない。
それは公式も言ってる。
身近なところでも、例えばそのうち、オンラインゲームのアイテムの売買に使えるんじゃないかと思う。
発行枚数や売買履歴の改竄が出来ないならば、運営も個人間取引に寛容になれる。
ブロックチェーンで発行数されたアイテムの決済もまた、ブロックチェーンの暗号通貨。
ブロックチェーンはそういうところから広まっていくしかないんじゃないかと思う。
例えば、本当にさっきの例が起きたらどうなるだろう?
youtuberのVALUが買い占めたらとして、買い占められたyoutuberが「あれはネタ、なんの強制力もないし、俺は何1つ従わない」と発言したら?
それは至極当然の発言だとしても、騒ぎになる。
課金しまくったオンラインゲームが停止するくらいの意味でしかないのだが
、VALUに群がった当人たちは投資のつもりだったりすると非常にまずいことになりそうに思うのだ。
そこの理解が甘いってのも日本のフェミの良くないところなんだけど、「弱者同士が連帯する」必要があるのは、前述したとおり、「そうしないと弱者の主張の論理的正当性が担保できない」からなのね。
決して、数を揃えて強者に対抗するためじゃないわけ。っていうか、ぶっちゃけ弱者の数を揃えて権利勝ち取ろうというのは、むしろ勝ち負け理論の世界に自分から飛び込むようなものなわけ。数を揃えて強者を打倒するほぼ唯一のルートは武力革命なわけだけど……てーか武力とか言葉ごまかさないで言うと暴力なわけだけど、そんな段階になった時点で弱者でもなんでもないでしょ? 単純に暴力という武器を備えた新しい強者が(集団として)誕生しただけなわけね。
「弱者の連帯によって数で上回って強者を脅迫して権利をもぎ取る物語」なんてのは、弱者が夢見る「俺が支配者になった世界」妄想であって、倫理も論理も関係ない、ただの欲望なわけっすよ。もし仮にそれで何らかの権利がもぎ取れたにせよ、それは「弱者が強者になったから、現在の強者から権利(や財産や自由や生命)を奪うことが可能になった、奪った」という話であって、それは革命ではあるかもしれないけれど、思想運動ではないわけですよ。
これは別に革命が悪で思想運動が善という話じゃないのね。思想運動の成果的なものを革命が成し遂げることはままある(南北戦争の結果奴隷解放がなされたように)。ただ、その種の暴力革命で権利を確立した場合、「さらなる暴力革命でその権利をさらに覆す自由」を他者にも認めないと自己矛盾するだろうという話なわけです。
本来「弱者同士が連帯する」必要があるのは「たとえ自分が弱者の立場であろうが、弱者を見捨てるということはしない、そういう社会こそが全員の希望なのだ」と高らかに宣言し、それを守り続けることで「この宣言は信頼できるものなのだ」ということを示すためなのね。その信頼を持って、現在強者である人々から、権利を正当に移譲してもらうってのが思想運動の要諦なわけ。すごくざっくり言っちゃえば「弱者が強者に信用してもらうために、財貨や権力ではなく、倫理の次元で気高さを見せる」ためにこそ連帯は必要なの。
そういう意味では「どんなに強者に見える人であっても弱者だという自己申告があれば弱者同様の手助けをする(そもそも本当に強者であればその手助けはささやかすぎて意味が無いわけだし)」「むしろ、社会構成員はその全員が何らかのジャンルで弱者なのだ、敵はひとりもいない。すべての人々は未来の仲間なのだというスタンスで活動する」のが弱者救済の思想であって、「弱者かどうかの判定踏み絵」とかやってる時点で、ニセモノなのよ。
少し考えれば分かると思うけど...
例えば自動車免許取るのに点数は達してないけど、採点者の好みの顔だから合格してたらヤバいってのは分かる?
ユーザーに害があるからヤバいってことじゃなくて、運営元への不信感が際限なく上がるからヤバいって意味
studygiftの件から分かるように個人的な主観で肩入れの可能性残したまま炎上したらどうなると思う?
明示的な公平性があるから市場が成り立つけど、それが不公平の上に成り立ってたら市場参加者どころか市場非参加者からまで非難される
しかもコンセプトとして高邁な理念って感じにしてたら尚更ヤバい。炎上したら目も当てられない
査定側の運営の中の人の頭がまともか、良識があるかどうやって担保取る?
査定をミスった時に市場全体をリカバリできる仕組みはあるのか?
valuっていうサービスそのものを怪しいサービスと思われない可能性はないのか
炎上した時にstudygiftみたいな最初の志は良かっただけのサービスとして有名になっておしまいになる
これを数字とか仕組みで判断してるってなれば炎上前の小さな問題が起きたタイミングでその仕組みをアップデートすりゃ済むけど、個人の主観はアップデートできない
それに人力だとスケールもできないし良いとこ無し
え?今だけ良くて、先々競争に負けても構わないという人?
規制緩和したい側の理論としては、「間口を広くしてその分競争で質をよくする」みたいな話
この理屈って、全ての資格について人材が無限に湧いて出るし、競争で負けた人材は消滅するか別の全く新しい人材としてやり直すのが前提になってない?
今後、少子化で人口は減っていって、新しく大学生になったり資格試験受けたりする人も減るんでしょ
仮に獣医師の規制がなくなったら、一時的なブームとして獣医師は増えるかもしれないけど
若者の数は有限なのだから、獣医師志望者が増えたらそのぶん、他の資格職になろうとする人は減るはず
獣医だけを規制緩和するならともかく、全ての資格職をその方向でやっても、結局全体の人数が足りなくて健全に競争できるようになるとは思えない
さらに言えば、獣医みたいに育成に時間がかかる資格は、若者が人生の大事な時期をそのために費やしている
競争させて脱落した人は、すでに若くなくなっていてやり直すのも大変だ
そんな人を量産することで質を担保するのって、やり直しがしやすくて、かなり豊かな社会にしかできないことなんじゃないだろうか
現実としては、一時的にブームで獣医が増えてもその後は結局資格取得者が元通りくらいの水準になって
規制が無くなった分全体の質は下がるが、人手不足なので低レベルなのも使わざるを得ない、ってなるんじゃないの
(規制緩和が必ず悪って言いたいわけではないよ)
扶養控除があるというのに、扶養控除を廃止して独身・小梨税を導入してほしいとな?
子供がいない人は、子供を失った人や努力しても子供ができない人も入るけど、それらからも独身・小梨税を取れっていう鬼畜な法律でいい感じ?公平じゃなくなっちゃうけど。
子供がいない人に、子供がいない理由を申告させるという方法もないこともないけど、簡素じゃなくなっちゃうんだよね。
それと、税の三大原則、公平・中立・簡素に加えて、租税システムにはもう一つおさえておくポイントがあって、懲罰的な徴税を行うと税収が下がる傾向にあるんだよね。
何故かは色んな説があるけど、やはり多様性を担保しないコミュニティからは、集団としての生命力が減退していくからだろうと増田は思っています。
だから一般的には、懲罰として税金を利用するということはあっても(交通違反罰金等)、懲罰的な意味合いを持つ税目は作らないというお約束になってる。