右翼や左翼というカテゴリは、なぜか人に完全な説明を与えたような錯覚させる言葉だ。
一般的な左翼的言説は、左翼は進歩的であったり、人間中心的であったり、自他的であったり、自利的あったりする。
一般的な右翼的言説は、右翼は保守的であったり、自然中心的であったり、集団的であったり、個人的であったり、規律的であったりする。
これだけ雑多な概念ではあるが、左翼と右翼は対立していたり、対立していないこともある。
わたしは2つの概念に、どちらがより悪いかということを言うつもりはない。
これから書くのは、左翼と右翼にある対するよくある誤解をできるだけ解いていこうという試みである。
といっても私の力不足により、今は3つしかなく内容も不明瞭に見える。
それと誤解と断定して書いたが、恐らくは誤解であるという所だ。
なぜなら、左翼と右翼に完璧な定義付けを、私はしないつもりだからだ。
それでは、なぜ左翼と右翼に対する誤解と言うものを書けるのか。
それは左翼と右翼に対してよく言われる一部の定義を仮として当てはめた時、明らかに左翼と右翼の思想が成り立たなくなり
そうなったときに、彼は左翼だ、右翼だと言うことがほとんど不可能になると思われるからだ。
私は"思想的ジレンマ"というような言説、態度を認めていない。
どちらかのジレンマによる、右翼と左翼のキメラ的態度を認めないということだ。
(哲学的に言えば、ヘーゲルの止揚という概念を認めていない。)
それを踏まえた上で、左翼と右翼に対する誤解について書いていこうと思う。
左翼的言説とは、現状を改革することや、何かを変えようとの意向を持つ言説であろう。
右翼的な言説は、現状を守るときや、何かを大事にしようとするときのものだ。
これらから、左翼は常に革命を求めており、暴力的であるとか、右翼は頭が固く時代遅れだなどと言われる。
まず、最初に左翼的な言説に、まるで保守性がないというのは成り立たないことだ。
左翼が変革を起こす時、現状をすべて破棄するか、一部を破棄するかというどちらかを選択するだろう。
そして現在には存在しない概念を(規則など)を落ち込むことになる。
もし、その概念に批判があれば、左翼はこれを守らなければならない。
その守るための言説に保守的な言葉が無いとしたら、明らかにその概念はたちまち崩壊するだろう。
君の進歩的概念が適用された世界を認めたとして、その世界をどのように(同じような進歩的概念から)守るのだ?
次に右翼的な言説に、現状を進歩させるものではないとするものだ。
これは左翼的な言説に保守的な言説が混ざり込む以上、彼らは、その保守的な言説と戦わなければいけない。
その戦う言説が保守的なものだけであれば、ともに共存することになる。
そうではなく、現状維持のためであれば、不純物は取り除かなくてはいけない。
不純物を取り除いた後に、根本の原因である現状の変革を実施する。
劣化し始めるもの、進歩し始めるのも、現状に問題があるためであり、その現状を彼らは変革するのである。
左翼が保守的に見えたり、右翼が進歩的に見えたりするのは、そもそもの左翼が進歩的であり、右翼が保守的であるということを誤解していることによるのである。
もし私がりんごを食べるとして、ある場所では犯罪だが、ある場所では犯罪ではないとすれば
食べる場所によって犯罪の可否がきまるため、私がりんごを食べる自由は相対的であると言える。)
絶対論とは、~べき論や、どこであろうと適用されることを望んだ言説である。
これらにより、左翼は優柔不断、すぐ裏切るなどや、右翼は頭が固い、傲慢だなどと言われる。
では、これも同じように左翼に絶対的な言説が入り込む余地が本当に無いのだろうか?
その前に、左翼が進歩的言説を行うものであることは、すんなり頭に入った人たちでも、
左翼が相対的言説をしているから左翼だと認識することはあまりないであろうと思われる。
相対的言説とは、まさに例を取ってあげれば左翼的言説に近いもので有ることは理解してもらえると思う。
自由を仮に絶対的に定義しようとすればまさしく絶対的自由から抜け出すことこそが自由であると言うことが分かる。
絶対的言説とは、言説による力を発揮する場所を定義するということである。
例えば、国、集団など。その限定された場所によって、定義された言葉が、それに見合った意味となる。
さて、左翼が相対的であるとのは、相対的言説を用いているからであると説明した。
左翼は確かに相対的言説を用いているが、よく見ればそれは、条件付きの相対的言説なのである。
自由という概念は、他に絶対性がなければ、自由そのものが絶対的なものとなってしまう。
そこから抜け出すために、一定の絶対性を用意し、その絶対性からの自由を得ているのだ。
そのため左翼は完全に絶対的なものを使用するため、完全に相対的であることはできないし望んでいない。
では、右翼はどうだろうか、右翼は絶対的であろうとし、あらゆる不名誉を得てきた。
右翼は絶対的たりうるための場所を定義するが、その場所を定義するプロセスは相対的である。
それは場所とは、物理的に言えば、自然によって決まっており、自然がもたらした、ものによって人が決めるのである。
ある場所は良くないが、ある場所が良いといのは自然により決定している。
こうして、右翼も完全に絶対的であることができず、また望んでいない。
左翼が相対的に見える場合は、条件付けを見れば誤解であることに気づき、右翼が絶対的に見える場合は、場所の定義を確認すれば誤解であることが分かるのだ。
つまり、左翼は相対的であることも、右翼が絶対的であることも誤解である。
左翼が実利的に見えてしまうのは、ほとんど悪名高き功利主義によるものだ。
右翼は功利主義をもたない。なぜなら功利主義は幸福に関する思想であり、幸福という概念は相対的言説だからである。
このせいで、左翼は感情のない人間という扱いになり、右翼は計算の出来ない人間と言われる。
これは功利主義が短期的な実利主義であるという誤解から生まれている。
功利主義とはその場の短期的な視点での価値判断で使用される思想ではないということだ。
もっと長期的な10年、100年というスパンで幸福について考える思想なのだ。
これらの左翼と右翼の誤解はそもそもの問題としては何なのだろう?
私が思うに左翼と右翼という概念が、その人自身の属性となってしまうことによるものだろう。
有る考えが進歩的であったとしても、その人自身はまるで関係ないはずである。
しかし、左翼、右翼とするとその場合は、人間と結合し、その人間自身が左翼、右翼的な存在となってしまう。
本当に気をつけなければいけないことは、左翼的、右翼的であることが、その本人の属性として、その本人の全人格を表すようにみていないかということだろう。