はてなキーワード: 忠義とは
Q.犯人が犯行に及んだ理由は明らかだよね?(対象知能指数:IQ 70以上)
日本じゃドクターショッピングは悪いことであるかのように言われがちだったこと、これが全ての諸悪の根源。
ある種の益荒男精神(くそったれ昭和根性論)のようなもので、「一度始めたら続けなくてはいけない」「先生と呼ばれる職業には忠義を尽くさなくてはいけない」「一度忠誠を誓ったものを裏切ってはいけない」などの病理が日本には蔓延してる。
今回の犯人もソレに当てられた結果として、理想の医者を引き当てるまで何回でもガチャを回せばいいことに気づかなかった。
これを引き起こした二次的要因は、「メディアにおけるドクターショッピング批判」「医者全知全能説」「キチガイは黙って健常者の言うことを聞け」「病人は黙って医者の言うことを聞け」などの風潮。
分かるね。
なんもかんもメディアが悪い。
メディアにおいての医療や道徳に関する議論や情報提供は最初のうちは善意を持って行われるが、視聴率重視のために少しずつ歪み最後はテセウスの船のようにまるっと全てが別物へと生まれ変わる。
メディアはね、最終的には悪なの。
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
やけに生活観のあふれるユダヤの十戒と比べて、キリスト教の七つの大罪は、完璧に戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代のかほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
なんか可哀想な人を旗印にその可哀想な人に酷いことした奴に可哀想な人が好きだった人達が復讐を仕掛ける、そういうカチカチ山だかさるかに合戦じみた物語って求められてはいるんだと思う。
忠臣蔵とか、武士とかのことを滅茶苦茶身分の高い人だと思うから、ウチら庶民とは関係ないじゃんねってなるけど
庶民が庶民の矜持で頑張ったけど惨たらしく殺されてしまった、その時点で庶民達には近しく恐ろしい出来事なのだ。
だから、光本テキーラ事件は令和の忠臣蔵、赤穂事件といっても相違ないのではないか。
忠ではなく推しみたいな感情だったのだろうし、臣ではなく賎業だし、蔵ではなくインターネットの網を使った捜索網だけど
そして光本事件がスッキリしないオチなのも、赤穂事件もスッキリしないオチなところと似ている。
やはり、令和の忠臣蔵はあそこにあった。
そして流行らない方がいい。
テキーラ事件なんか裏家業側が比較的冷静に対応してたから理詰めで謝罪まで持って行けたけど、赤穂事件なんか切りかかった理由もわかんねえのに訳のわからん忠義の集団にぶっ殺されちゃうし
1話で(あんまり設定の固まらなかったっぽい)ジンに薬を飲まされ体を小さくされた工藤新一だが、取引の現場に行かない、あるいは目暮警部でも連れて行けば体を小さくされることもなかっただろう。
でもその場合タイトルが「名探偵新一」になるんだよな。かぶるよなぁ、いろいろと。マガジンの高校生名探偵と。成績といい知識といい体力といい実家が金持ちなところといい家柄(リアル有名人の孫)と顔立ち以外はあらゆる面で金田一少年に勝る新一君だけど、それでも二匹目のドジョウ感は否めない。
そもそもコナン自体、「マガジンで推理ものが流行っているからサンデーでも推理ものをやろう」というところから始まっており、普通だったら金田一少年に寄せて漫画を作るであろうところを(ジャンプはそれで最低でも2回失敗しており、デスノやネウロで持ち味を活かす方向にシフトして成功した)、主人公の体を小さくして不思議メカとラブコメ要素をくっつけたのは流石青山剛昌大先生といったところである。
もともとヒソカからその才能を高く評価されており、舐めプしてたとはいえヒソカの腕を千切れるくらいのパワーを持っていたわけで、間違った方法で念能力を習得したらどうなってしまうのかをゴンと読者に呈示するかませ犬の役になってしまったのだが、強化系は極めれば各種ステータスが尋常じゃなくなるので、ちゃんとした念の師匠に巡り合えていればゴンさんほどとはいかないまでもウヴォーと同等かそれ以上の使い手にはなれただろう。たぶんバンジーガムもトランプも通用しない。
イケメン大好きビスケと、ヒソカから才能を認められたイケメン、正直ベストマッチだと思う。たぶんクソガキたちよりも手取り足取り優しく教えてくれると思う。イケメンの弟子と可愛い(見た目)の師匠、乙女ゲーでありそうなシチュエーションだから話が全く違う方向になるけど。
屈指の弱キャラとしてネタにされつつも愛されてる男火引弾だが、師匠にもその才能を認められ、修行してちょっとで片手波動拳が使える(これができるのは師匠だけ)くらいだから、破門されなかったらリュウや豪鬼以上の使い手になったと思われる。でもサガットへの復讐心はそのままだから、かなり高確率で殺意の波動にめざめてるだろうなぁとも思う。その場合でも豪鬼より強いだろうけど。
赤犬の安い挑発に乗ってしまったせいで命を落とす結果となったエースだけれど、これがもしウソップみたいな性格だったら捨てゼリフを吐きながら赤犬から無事逃げおおけていたことだろう。
その場合、白ひげが死んでいたかどうかもちょっと怪しいわけだが、仮に白ひげが死んでしまっても白ひげ海賊団も落とし前戦争ももう少し違った形になっただろう。まあ白ひげ抜きで黒ひげ海賊団に勝てるとは思えないけど。
漫画版と映画版しか知らない。ゲームをやるかどうかをコイントスで決めて、ゲームに乗る方を選んでしまったがために事実上のラスボスと化した男。
成績優秀容姿端麗、不良のカリスマで、拳法の達人に拳法で勝っちゃうし、頭撃たれてもなんか訳の分からない動きで主人公サイドを翻弄しちゃうし、車も普通に運転できちゃうし、ほんとにチートみたいな存在だった桐山。
彼が政府と戦う選択肢を選んだら、造作もなく政府に勝っちゃうのは想像に難くない。まず自力で首輪を外せそうだし、首輪から盗聴器が仕掛けられてることとか首輪を外したら死亡扱いになることも解析出来そうだし、三村よろしくハッキングもたやすく出来てしまいそうではある。加えて体術も尋常じゃないから、一人で政府や軍隊のいる最初の学校に乗り込んでも余裕で勝てるだろう。一人で乗り込んでもいいし、持ち前のカリスマを活かしてみんなで乗り込んでもいい。勝ち方すら選り取り見取りなのがチートのチートたる所以なのだ。
忠義心1割、辞めたところでどこにも拾ってもらえないだろう感2割、主に垣原への恐怖心9割で終盤まで垣原組にいたけど同時に敵と仲間がゴミみたいに殺されてるのに耐えかねて逃亡したヤクザ。とはいえ当初からジジイのリストに入っていたから、最後のイチと垣原とのドンパチの幕間で殺されてるか、その前にジジイに殺されてるだろう。そこらのモブヤクザよろしく瞬殺されるオチしか見えず、あのままヤクザマンションにとどまったところで、生き残れる要素がどこにも無い。合掌。
もともとアマゾン製作者の一人である天才科学者なので、野座間に残ってアマゾンをどうにかする薬を作ろうと思えば作れたであろうが、持ち前の正義感で自分がアマゾンになることを選んじゃった伝説のヒモ。シーズン2ではヒモから住所不定無職にランクアップしてしまった。
彼が余計なことをしなければ千翼が生まれず七羽さんもオリジナルにならず新型アマゾンも生まれず、結果星埜一家も死なないしフクさんも圧裂弾を要求しないで済んだ訳なので、あらゆる意味でシーズン2の元凶になってしまった男。もしかしたら悠とイユでフラグが立ってたかもしれない。イユと千翼のおねショタか、悪くないな。
余談だが黒幕とラスボスが違うのはタイムレンジャー以来な気がした。
千翼はアマゾンではないから、仮にシーズン1のタイミングで千翼が生まれたとしても普通の5歳児で、鷹山一家はアマゾンに食われる可能性はあったかもしれないけど大手製薬会社のチーフとしてそれなりに恵まれて幸せな家族生活を送れていたのだろう。アナザークレヨンしんちゃん、それは多くの視聴者が望んでいるifルートなのだ。
同情するから死んでくれなどと言われる千翼が救済されるルートはシーズン2の中にはなかった。
お気に入りキャラを絶対幸せにさせないという靖子の強い意志(悪意)を感じて、とても良い。
CSM戦極ドライバーの演者インタビューがちょうどそんな感じのifを表しているんだよなあ、と思いインタビュー見ててなんか悲しくなっちゃった。紘汰と戒斗は仲の良い友達、呉島兄弟は歳が離れてるせいでちょっとぎこちない関係の兄弟、シャルモンのおっさんと城乃内は師弟、という感じの。
ヘルヘイムの森がなかったらユグドラシルも沢芽市を強引に再開発してこなかったわけで、そうなると戒斗の実家の工場も潰されずに済むから裕福ではないにしろ両親も生きてて強者があんなに強さに拘らなくてもよくなるわけで、戒斗の性格も結果ゆーちゃむみたいに明るい性格に育つかもしれない。紘汰は基本的に、自分に明確に敵対的な人間以外には誰とでも仲良くできるお人好しな性格で、こばゆたと似た性格のシャプールにもまあまあ好意的だったから、明るい性格の強者厨じゃない戒斗とは普通に仲良くなれるんじゃないだろうか。
呉島一族は、ヘルヘイムの森がなかったらユグドラシルもあれだけ発展することはないのでユグドラシルの中で出世することはないかもしれないけれど、一族揃ってユグドラシル内で出世しているのだから他の世界線でも出世してるだろう。藤果もメイドとして引き続き呉島家に仕えていてアナザー園咲家になっているかもしれない。優秀で厳格だけどちょっと天然な性格な歳の離れた兄は、弟からすればたまにネタにはできるけど基本的には尊敬と畏怖の対象でちょっと距離感ある兄弟なんだろうなあと思う。
沢芽市はもともと蟲寄市みたいなシケた街で、ユグドラシルの強引な再開発で街が栄えたのを見て、ドルーパーズの坂東さんは沢芽市に戻って店を開いたらしい。シャルモンのおっさんがどういう経緯で沢芽市でケーキ屋をやることになったのか分からないけど、有名パティシエの直弟子とかパティシエ志望なら喉から手が出るほど欲しいポジションに就けるあたり、城乃内くんはとても運が良い人間なのかもしれない。もしユグドラシルが再開発しなかったらシャルモンのおっさんも沢芽市で店を開かなかったかもしれないけど。
山口瞳のエッセイが出典ではね。新渡戸稲造は『武士道』でこう書いている。
I have noticed a rather superficial notion prevailing among half-informed foreigners, that because the common Japanese expression for one's wife is "my rustic wife" and the like, she is despised and held in little esteem. When it is told that such phrases as "my foolish father," "my swinish son," "my awkward self," etc., are in current use, is not the answer clear enough?
To me it seems that our idea of marital union goes in some ways further than the so-called Christian. "Man and woman shall be one flesh." The individualism of the Anglo-Saxon cannot let go of the idea that husband and wife are two persons;—hence when they disagree, their separate rights are recognized, and when they agree, they exhaust their vocabulary in all sorts of silly pet-names and—nonsensical blandishments. It sounds highly irrational to our ears, when a husband or wife speaks to a third party of his other half—better or worse—as being lovely, bright, kind, and what not. Is it good taste to speak of one's self as "my bright self," "my lovely disposition," and so forth? We think praising one's own wife or one's own husband is praising a part of one's own self, and self-praise is regarded, to say the least, as bad taste among us,—and I hope, among Christian nations too! I have diverged at some length because the polite debasement of one's consort was a usage most in vogue among the samurai.
http://www.gutenberg.org/files/12096/12096-h/12096-h.htm
これは有名な一節である。「武士や多くの日本人は、自慢や傲慢を嫌い忠義を信条としたことに触れ、家族や身内のことでさえも愚妻や愚弟と呼ぶが、これらは自分自身と同一の存在として相手に対する謙譲の心の現れであって、この機微は外国人には理解できないものであろう」といった意味。
なお『武士道』の初版は1899年。「戦後あたりから間違った意味で使われるようになった」というおまえの説と矛盾する。新渡戸稲造によるとWe think praising one's own wife or one's own husband is praising a part of one's own self(おのれの妻や夫を褒めるのはおのれ自身の一部を褒めることだと、我々は考える)というのだ。だからmy rustic wife(愚妻)のような表現を使うのだ、と新渡戸は言っている。したがって─
高島俊男さんの「お言葉ですが…2」では、「愚」はわたしの意味だと説明した上で、実はこのような一人称二人称という発想は西洋人の発想だとことわり、日本人の発想は、「こちら側」と「あちら側」に分けるのだという。
http://takusen2.seesaa.net/category/1656458-1.html
これも「こちら側」にいる私と妻をまとめて「愚」と呼んでいる、と読むのが正確だろう。
もっとも、高島説でも新渡戸説でも「どうして自分の師匠を『愚師』とは呼ばないのか」という問題は説明がつかない。門弟から見れば師匠は「こちら側」だ。
日の出の勢いの尼子家は、敵に奪われていた月山富田城まで取り返した。
さて、尼子の一族には尼子九郎左衛門という邪智奸佞の輩がいた。
その性格のため、もともと義久から疎まれており、対して鹿之助が重用されているのが面白くない。
そのような心情につけこんだ毛利元就は、尼子を裏切り鹿之助を暗殺するよう、九郎左衛門に吹き込んだ。
九郎左衛門は、毛利家の来島徳十郎という者を呼び込み、琵琶法師と偽って上月城に潜り込ませた。
酒宴のときに、徳十郎は毒を盛ったので、鹿之助たちはみな倒れ伏してしまった。
ただ一人、義久の近習の寺元半四郎という者だけが下戸だったので、徳十郎を取り押さえることができたが、
既に鹿之助と兵庫之助は息絶え、鮎之助は見苦しい死体を晒したくないと海に身を投げてしまった。
半四郎は涙を流しながらも、急ぎ富田城に戻ったが、
すでに城は九郎左衛門によって乗っ取られ、尼子義久は捕らえられていた。
そこで半四郎は「私はいまから生死之助と名を変え、生まれ変わったつもりで貴公に仕えよう」と九郎左衛門に申し出た。
そのとき、皐月早苗之助という豪傑が、尼子義久の嫡男・勝丸をさっと抱えて逃げ出した。
この男は、五十人あまりが引いても動かない大岩を、少年でありながら一人でどけてしまったという怪力の持ち主だった。
それを認めた義久が家臣として取り立て、村の名前から皐月早苗之助という名を与えたのだった。
早苗之助を追いかけてきた生死之助は、「私は奥方や若君を救うために偽って寝返ったのだ」と事情を話した。
そこに京の兆殿司和尚が現れたので、若君・勝丸を和尚に預けて、
生死之助は富田城へと戻り、早苗之助は上月城に行くことになった。
上月城に到着した早苗之助は、九重姫に事情を説明し、京へ逃れるように言った。
早苗之助は鹿之助の死骸を検分したが、どうも生きている感じがする。
兵庫之助の死体についても同様だったので、「養生すれば助かるかもしれない」と九重姫と浮舟に死体を持たせて逃した。
早苗之助はこれで大丈夫だと、自らは勝丸を追って京へと向かった。
一方で生死之助は、富田城に戻って上手く誤魔化し、九郎左衛門に上月城攻めを注進した。
既に上月城にはほとんど人が残っていなかったが、ここに高橋渡之助と秋宅庵之助という二人の豪傑がおり、
生死之助を先鋒に九郎左衛門の軍が攻めてくるというので、城を枕に討ち死にしようと立てこもっていた。
忠誠ってどちらかというと「相手を見て決めるもの」ではなく「自分がこうだと決めたことに従うもの」だと思うよ。
多くの武士は生まれながらにして主君が決まっていたわけで、そこにどう折り合いをつけるかという問題なんだよ。
もちろん主君が忠義に相応しい人物であればなお良いけど、仮に尊敬できなくても「俺は彼に従うと決めたんだ」という自分自身の価値観に殉じる感じがある。
まあ生まれながらに組み込まれていた武家社会の規範を内面化しているだけとも言えるが。
翻って現代社会で言えば「どんなに発注元がクソな要求してきても応じて従うのが下請けの美学」みたいな感情とかのことじゃないかな。
富士山を登りながら、動画を配信していて、山頂付近で足を滑らせ、行方不明になった男性がニュースになっている。
そのなりゆきがニコニコ動画にアップロードされていたので視聴した。
笑った。最高だった。私もこういう風に死にたい。
自殺にもいい自殺と悪い自殺、セクシーな自殺とそうでない自殺がある。
首吊り自殺なんて最悪だ。発見した人の気分を害する、最低の死に方だ。
いじめから逃げるための自殺はもっと最悪だ。カッコ悪すぎる。私なら、いじめられて死ぬくらいなら、いじめてるやつを刺し殺す。
一つは心中だ。江戸時代の遊女のように、大正時代の女学生のように、愛のために死ぬ。美しい。エモすぎる。
もう一つは殉死だ。君主の死を受け、忠義のために死ぬ。今の私にはよく理解できないが、それがとても尊い死に方なことは分かる。
心中と殉死。この伝統から分かるように、我々日本人はある種の自己表現のために自死を選んできた。自殺は日本の文化だ。あの三島由紀夫だって割腹自殺したんだぞ。
昨今、自殺は良くないだの悩んでるなら相談しようだのやかましい言説が流行している。それも一つの考えであることは否定しないが、日本全体がそういう風潮になるのは文化的な退廃であるように思う。
もし大勢のムスリムが日本にやって来て、豚肉を食べるなんて汚らわしい、と言ったらあなたはどう思うだろう。ヒンズー教徒が牛を食べるなと主張したらどう思うだろう。ほっとけって思うよな。今の私の気持ちがそれだよ。分かってくれ。
人は、生まれる場所を選べない。だけど、生き方は、死に方くらいは選べる。
余談だが、今のアイドルオタクに物申したい。お前らなんで生きてんの?死ねよ。
2001年、音楽グループ「野猿」の解散を受け、女子高生2人が自殺した。遺族には申し訳ないが、私はこの死に方を選んだ2人の意思を尊重しようと思う。
アイドルオタクよ、女子高生だって自殺したんだぞ。お前らも推しがアイドル辞めたら死ねよ。絶対届かない場所にいる彼女もお前が死んだらお前の名前を絶対に忘れないぞ。世間のやつらだって、彼女がアイドルを辞めた事件を絶対に忘れない。私だって野猿の解散を覚えてるくらいだからな。
え、死ねない?家族が悲しむ?そうか、そうなんだな、君は推しより家族の方が大切なんだな。いいよ分かるよ。けど、君の推しに対する愛はそんなものだったんだな。
ところで、こんなことを言っている私を皆さんはどう思うだろうか。きっと、陰湿でウジウジしたやつだと思われているに違いない。
しかし私は私を陰湿な人間だとは思わない。私は、人を楽しませることが大好きなエンターテイナーだ。
自殺について本気を出して考えた私の今のところの結論は、自殺はよくない、ということだった。
残念ながら、今の日本人の多くは心中も殉死も理解しない。だから私は心中も殉死もする気がない。そんなことしてもスベるだけだし。
なら、どういう風に死にたいか。すまない、語らせてくれ。
私は、皆が笑えるような死に方をしたい。
冒頭で話したような、配信中のアクシデントで死ぬような死に方はかなり理想的だ。自殺を聞くと人々は悲しむが、こういう死に方なら笑う人もいるだろう。いいなー、ずるいなー、私もこういうくだらない死に方したいよ。面白い死に方したいよ。
人が死んで笑うなんて不謹慎だ、なんて言う人もいるかもしれない。
だけど、悲しんで欲しくて死ぬ人がどれだけいるだろう。多分少数派だと思うけど。私がニコ生の彼なら滑り落ちながらガッツポーズしてただろうな。今のは良かった、絶対に話題になる、最高に笑える、面白い、マーベラス!
もしあなたが、バンジージャンプの紐が切れて死人が出た、というニュースを耳にしたら──死んだのは私かもしれない。その時は多いに笑ってくれ。それが私の望みなのだから。
どもども(・∀・)ノシ
今日は増田が専業主夫になった経緯をぽまえらにきいてもらおうと思うお(^ω^ ≡ ^ω^)
増田はそう裕福ではないものの、教育費を惜しまない家庭に生まれたんだお!増田はわりかし学校の勉強が得意だったから、中学受験も大学受験も第一志望に合格したで!進学したら周りが賢くて、自分なんか全然・・・みたいな話をたまに聞くけど、幸か不幸か増田は進学先でもデキる方やったんや。女の子にもそこそこモテたし、就活も無双やったんで(※無理なところは狙わなかったのもデカイ!)、人生楽勝ワロリンコ〜!!!と・・・思ってた・・・んやけど・・・・・・・
就職後、わいの配属先はざっくり言うとバックオフィス系やったんや。人生で初めて(社内とはいえ)望んだところに行けなかったわいは、人生初の挫折を味わった、と、当時は思ったもんだお(^ω^)わいの行きたかった部署に配属された同期はひぃひぃ言いながら連日残業三昧で、「俺なら絶対もっとやれる」と根拠なく思っていた・・・んだお・・・・・・・・・・
2年後、増田は自分から希望を出して、花形の部署に異動したんだお!それが地獄のはじまりだったお〜〜〜!!
端的に言うと、増田は仕事ができなかった!!その仕事では、計画を立てることや計画通りの進行はもちろんのこと、なにより臨機応変な行動が求められたんや。その柔軟さとか空気を読んだ駆け引きとかが、わいには難しかったんや・・・。
上司との相性も悪かった。上司は昔ながらの「根性があれば何でもできる!」「やる気!元気!いわき!」ってタイプで、面倒見がいい代わりにパワハラポケモンだったんだお。出来る部下、可愛い後輩のミスは全力でフォローする一方、一度ダメなやつ認定した部下の扱いはゴミ以下で、もちろん増田はゴミ側やった。
同期たちとも仲良くやってるつもりやったが、デキる面してた増田がからっきし使えないとわかって、同期の中の扱いも変わってきたんや。簡単に言えばいじられキャラになった。今思えば、いじってくれるだけマシだったしそれも気遣いだったのかもしれんが、わいには耐えられんかった・・・。その場では笑って過ごせても、家に帰ると涙が止まらんかった。こうして少しずつ、わいの心は壊れていったんや・・・。
休職を余儀なくされたわいには、復帰できる保証もなかった。当時の彼女は「支えられる自信がない」とすたこら逃げて、1年後には弁護士の奥さんになってたお。
1年後に復職したものの、すぐにまた休職するはめに・・・部署も変えてもらったんだけど・・・あからさまな窓際で、「もう自分の人生は終ったんだなぁ」と、生産性のないクリックとスクロールを繰り返すのが、情けなくて情けなくて・・・1番死にたかった時期だお・・・。
そんな時、同期の女子に飲みに行こうと誘われたんや。この同期は武士のような女で、忠義!礼儀!剛毅!みたいな・・・。とにかく自分に自信があってひるまないタイプというか、上司からのパワハラも「出るとこでんぞゴラァ」ができるし、それでいて基本は忠実・「お世辞は言わぬが上司を立てる」をやるもんだから、不思議と可愛がられているというわけのわからない女であった。増田の苦手な臨機応変が得意で、ちょっとガサツなところもあるけどとにかくデキる女やった・・・。
実は増田、この同期には一度告白されているんや。まだバックオフィスにいた頃で(女武士は最初から花形配属やった)、入社1年経ってなかったと思う。同期数人との飲み会帰りに、普通に「好きだから付き合わない?」って言われた。いやマジでびびったし、彼女がいたし、タイプじゃなかったから断った。武士は「そう」とだけ言って、その後は普通に会話して帰った。その後も態度は変わることなく、部署が一緒になってからもメチャメチャ助けてくれたんや。パワハラポケモンに理不尽精神論(まあでも一理あるっちゃある)で詰められて、軽いいじめみたいのにあった時、表立ってかばってくれたのはこの女武士だけだった。当時は「女子に守られて・・・鬱だ氏のう・・・」という思いもなくもなかったが、それをきっかけに味方が増えたし、それきっかけで「パワハラポケモンは上司であって神ではない」ってのが増田を含めて部署のみんなにも伝わったのではなかろうか。神に嫌われたら死ぬしかないが、上司に嫌われるなら道はいろいろあるのである。結局休職したんだけどね(^ω^)(ドッ)
二度目の休職はさすがにセカイノオワリ感がすごくて、出世はおろか会社にも長くはいられないとは思ってて、転職も・・・くだらないと思うかもしれんが、自分のプライドを満たすような転職先にはもうありつけない。増田を「デキるお兄ちゃん」として誇りに思ってくれてる実家に帰って腫れ物に触る扱いをされるくらいなら死にたい。金銭的な問題もあるが、今思えば当時の増田を殺しかけていたのは、他でもない自分のプライドやったんや。
会社の同期たちとは疎遠になっとった。みんなデキる子で、それぞれ活躍していたし品の良い奴らが品よく向ける「無理すんなよ」が一番プライド(←またこれ)にクるからだお。でも女武士との交流は続いていた。なぜならす女武士は規格外すぎて既に自分と比べる対象ですらなくなっていたし、女武士は憐れむ素振りを全く見せなかったからだお。気は使ってくれてたと思うが。
久しぶりの飲みの席で、女武士は転職すると話してくれた。外資のでかいとこ。海外転勤あり。素直に寂しくなるなと思った。女武士は、その頃の増田が唯一かっこつけずに話せる友人だったので・・・。
そこで「ついてくるか」と聞かれた。あっけにとられたが、「結婚して専業主夫やらないか。少なくとも金銭面での苦労はかけない」という話だった。かっこよすぎね????流石に即「抱いて・・・」とはならんし戸惑ったが、女武士に会えなくなるのは嫌だった。これが恋愛感情かはわからなかったし、まぁたぶん違うんだけど、なぜか自然に「それもありやな」と思った。
その後のことは、結論から言うと増田と女武士は半年たたずに結婚した。親は死ぬほど驚いていたし、父親は一時キレていたけどまあそれは・・・仕方ないね・・・。増田は専業主夫を数年、そこから自宅でちょっとした仕事を始めた。でも基軸は子育てと家事。専業主婦の女性が抱く不満を増田も抱き、片働きの夫が言うようなセリフをたまに女武士が吐くが、わりかし仲良くやっている。
プライドの高い増田が、どうして専業主夫の道を選べたか。それは自分でもちょっとわからない。「激務の妻を支える」という大義名分のある、単なる逃げ道だったのかもしれない。専業主夫は思ったよりも大変で(特に子供が産まれてからは)増田がヒス起こしたりもしたけれど、臨機応変な対応が身についたようにも思う。外で働くのとは違うプレッシャーがあるが、増田はこちらの方が向いていたっぽい。
妻に対する感情は、今でもよくわからない。付き合っても結婚しても、いわゆるときめき?みたいなものはほとんどなかったが、安心感がぱない。妻と一緒に住み始めたら不眠が治った。かたじけない、かたじけない・・・。増田に対しては基本的にはよきにはからえスタイルだが、たまに「いざ出陣!!!!」って場面があって振り回されるけど、妻のことはすごく信頼している。恋愛をすっとばして家族になったって感じだろうか・・・
終わり方がわからなくなってきた。とりあえず、来週は妻の誕生日なので、レモンケーキを焼くつもりだお(^ω^)(^ω^)(^ω^)!