はてなキーワード: 伝統とは
選ばれたわけでもないのに「あの人とは付き合えない」的な上から目線を異性にかましてしまう愚かさと、ブルーインパルスの写真をあげる=五輪万歳!だと思い込んでる世の中の状況を理解できない浅はかさを感じられる良い増田。
コロナがない世界で東京オリンピックが開催されていたら、いったいどんな感じになっていたのだろうと夢想する。
開催直前になると、日本のメディアが現地に押しかけて、その都市の魅力や現地の様子をレポートしたりして、いつもわくわくしてくる。
いつもは海外で開催されるオリンピックが自国で開催されるのだ。
海外からたくさんのメディアや観戦客が押し寄せ、競技以外にも、日本の様々なものが世界中に配信される。
また、東京だけでなく、東京周辺に各国のキャンプがきて、親善イベントなども行われる。
そして、SNSでの投稿や、個人での生配信など、我々の当たり前が、良くも悪くも海外にたくさん伝えられることになる。
開会式も、例のMikiko案で、日本文化の伝統やサブカル、そして今でこそすっかり影を潜めているが、日本の電機メーカーや自動車メーカーなどが趣向を凝らしたハイテクを披露。
競技中継も、フルスペックの5Gで多視点での映像や、立体データを配信して、世界初のVR観戦で、世界中のファンとつながるとか、AIを使った競技分析などが瞬時にでき、日本のITも捨てたもんじゃないね、なんて言って。
肝心の競技の方も、ホームということもあり、いつもよりちょっと多めのメダルが取れちゃったりする。
それを見た日本人観客が街で溢れかえってこ盛り上がり、地方でも、選手のふるさとや卒業学校などのパブリックビューイングで、これまた大盛り上がり。
お店も大盤振る舞いで、酔っ払いが街中にあふれて、外国人観光客と意気投合したりして、それはそれで楽しい思い出に。
メダルを取った選手は、次から次へとテレビ局をはしごし、さんまとかジャニタレとかとキャッキャッとバカ騒ぎ。
ついでに、ネトウヨは、韓国の選手団の一挙手一投足をチクチクツイートして、相変わらずの低脳をさらし、これに応えるかのように、韓国も、日本の対応の悪さや旭日旗を見つけては大騒ぎ。
そして、いつものオリンピックのように、大会も後半に差し掛かり、あぁ、あと数日で終わるなあ、サッカーも決勝か、そして、いよいよマラソンかぁ、とお祭りが終わってしまう寂しさがやってくる。
力を出せず引退するベテラン選手、無名の選手の大健闘、下積み時代の苦労、最後まで応援しながらも亡くなったお父さんとの思い出、ライバル国(多分、韓国)との友情シーン、油断からの敗戦、胸熱の大逆転…
なんだかんだでドラマは必ず起きる(作られる)
これらのドラマがメディアによって繰り返し流されながら、最終日の閉会式の演出を見ながら
「やっぱオリンピックっていいよな」
今回は、自国開催なので、普段オリンピックを見ない人たちも話題になると思う。
そして、なんだかんだで、自国開催オリンピックを誇りに思うだろう。
これからの日本は人口減の影響がどんどん大きくなり、中流国としてどんどん没落していくのは既定路線だ。
そんな中で、このTOKYOオリンピック2020は、日本という国の最後の輝きになるはずだった。
それが、このような形になってしまったのは本当に残念だ。
選手はもちろん、関係者の皆さんが少しでも満足のできる大会になってほしいと心から願う。
特に、運営で陰ながら努力しているスタッフも大勢いるのだろう。(いなきゃこんなイベントできないしね。)
無能なトップのせいで、多くのスタッフがつらい思いをしながら頑張っているのではないかと思う。
オリンピックを応援することが、菅総理を応援することみたいで不服に思う気持ちはないでもないが、それとこれとは切り分けて考えたいと思う。
90年代前半、自分が18歳の時に区役所に住民票と戸籍謄本を取りに行った際に父親の名前を聞かれたので答えたところ、違うと言われて怒られた。「君、自分の親の名前なんで知らないの?おかしいでしょ」
父の名前は音読みで通っていて、父の親、つまり祖父母も音読みで呼んでいたし父自身もそれが本名だと言っており仕事で使う名刺の振り仮名も音読みだった。
更にもっとおかしな事に気が付いた。父方の祖父母の名前も違う。普段使っていて手紙や軽い法的文書(学校に出す認書など)にも書き、預金通帳にも記され、付き合いのある人に呼ばれる名前は通名だったのだ。本人が全く名乗った事もなく出てきた事もない本名が別にあったのである。
更に自分の苗字も今まで使っていた当用漢字と違い、戸籍では旧字体だという事にも気が付いた。知らなかったので学校の学生証も卒業証書も銀行口座も当用漢字で、それで通っていた。
何れも父方の関係である。何故こういう風になっているのか良く判らなかった。が、調べる方法を知らなかったしものを知る大人が近くに居なかったので説明を得られなかった。
その後10年以上が経過して図書館で調べる方法を知り、更にネットという道具を得た。その結果歴史的な背景がある事が判った。我々はほんの十数年前の事すら知らない。核家族化によって大文字の伝統から外された風俗も伝授されない。
日本は中華文化圏の周縁にあった。独立した文化ではあったが風物の認識には漢籍(中国で書かれた書物)が参照される。梅雨があるのにそれを無視して「四季」なんていうのもそうだ。漢詩での季題に倣って詩やうたを詠んだ事に由る。
昔の中国では親に貰った本名を親を除いて他人が呼んではいけない。本人も使ってはいけない。これは諱(忌み名)であり墓場まで持って行く。他人が本名を呼ぶのは殺人に値する非礼である。
この風習が日本でも倣われ、江戸時代まではやはり出生時に親に貰った本名は親以外が使ってはいけなかった。幼少時には幼名を使い成長した後には仮名(けみょう)を使う。仮名というのは後世の歴史用語であって当時の人達は本名を絶対使わないのだから「名」といったらこれのみである。
武士の場合は朝廷の官名を名乗った。大岡越前守の越前守は律令制時代の越前国の長官だ。それを名乗っている。水戸黄門は変則的で黄門は中国での中納言の事である。漢籍=知的であるので漢語で名乗ったものだ。~~左衛門~~右衛門というのは宮廷の衛兵の事だ。だから家光公なんて言い方は後世のもので当時の人は絶対に言わない。言ったら死刑だ。
外国の報道では天皇の名にemperorを付けるが日本語の報道では絶対に名を呼ばないのはその名残である。
明治になるとこの風習は廃され、どこでも本名を使う事が定められ、諱の併称も禁止された。だから明治以後は本名一本主義である。
…のだが実際は人々は従わなかった。相変わらず通名も使われ続け、更に一般化したのが有職読みだ。
有職(ゆうそく)読みは訓読みする語を音読みする事である。特に名前での使用が顕著であった。
例えば名付けする時に音読みも訓読みも出来る名にする。本名は訓読みとして戸籍に記す。だが一般に使うのは音読みの名前とした。
一般と言っても法的な行動含めほぼ一生の生活の全部である。不動産を買ったり婚姻届け出す以外ではそれで問題は起きなかった。現在常識化している正しい本名をどこでも使うのを求められるようになったのはバブル以後の30年位でしかないからだ。
だから歴史で伊藤博文(ひろぶみ)と習っても、当時の人はひろぶみなんて呼ぶ人は恐らく一人も居ない。呼び方は「はくぶん」だ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13120057343
「イヌカイ キ」とフリガナを振っている。日本人の名に「き」はちょっと変だが、訓読みの本名を音読みするのが当たり前なのでそう書いてあるのである。当然本人の名乗りだけでなく世間の通りも「き」なので当然の事だ。
戦前の新聞を見れば歴史で習うのと違い、政治家の名前はほぼ全て音読みのフリガナが振られている。原敬なら「ハラ ケイ」である。
戦後になると流石にこの風習は廃れた。特に戦後生まれの団塊世代はこの倣いに従わなかったし、その親である戦中派の多数派も有職読みで子を呼ぶ事をしなかった。
しかし保守的な家庭ではこの倣いを続ける所もあった。それが私の父方だったのだ。祖父は旧職業軍人で戦後も神社や右翼人士と付き合いがある右翼シンパであった。
こんな感じで段々とこの倣いは細くなって行ったのだがバブル期~90年代前半にトドメがさされた。
銀行口座はそれまでハンコと通帳だけを参照するもので、本人確認もろくに行っていなかった。だから仮名での口座開設も簡単であり、銀行自体がそれを止めていなった。日本人で外国人名の口座をもっている人もいるし、法人格獲得していない社名でも口座が開設出来た。
だが当時日本はストックの急拡大により急激に国際的な地位を獲得しつつあり、マネーロンダリングへの対策を求められる事になった。これで仮名での口座開設は不可能になり、本人確認書類も必要になった。口座の文字は本名の字と一致させる必要がある。
更にIDカードが常に参照される社会になって行った。90年代初頭では「欧米では何するにもIDカード提示させられるのでID携行必須なんだよ」というのが珍しい事として語られていたのだが、90年代後半の日本はその欧米と同じ状態になっていた。
こうして本名との完全一致は常に求められうようになったので有職読みとか通称使用とかは完全に無くなって行ったのであった。
だから私が区役所で怒られる数年前までは細々と続いていた風習であったが、現代っ子であった私は自分の周囲がそういう古い倣いに従っていた事に気づかずに居たのである。
そして私を叱った区役所の役人は自分が生まれた頃にはまだかなり現役の風習に気づかず40年以上生きてきたのである。更に戸籍や住民票を扱う部署に配属されてなお知らなかったのである。常識とは視野を狭くする事の一例だ。常識があるが故に保守的な風習が認識できないというのは寓話的だ。
こういう事が判ってから母型の家系を調べると、やはり曾祖父母として認識されていた名前が戸籍に出てこないケースがあった。認識されていた名前と本名が違うのだろう。
現代っ子の自分は時代の常識に則り祖父母の名を本人に代わり書く時も本名を使うようになったが、この辺の知識が無かったのでその時バツが悪い思いをしているだろうという事に気が付かなかった。直接聞いた訳ではないが生まれてから数十年それが名前であったのだから言うまでもない。
親にキラキラネーム付けられて成人してから変名するケースが増えているが、この問題も昔の知恵なら問題にならない。
そもそも親がまともかバカかというのは子がベット出来ないギャンブルだ。そしてやたらとおかしな名前をつける親というのは戦前には結構いた。ダジャレで付けたり有名芸者の名前付けたり、バカ親は戦前でもバカ親である。
でも通名を別につける方法が残されているから問題が無い。「親に貰った名前を変えていいのですか?だって?親に貰った名前を名乗れるかよ!」と言えたのだ。
更に変な読みを付けられても有職読みすればいいのだから問題ない。「今鹿」で「なうしか」と付けられても「こんろく」と名乗ればいい。これは今でも教育現場でも会社でも本来の読みに固執しているのが問題であってそんな例外なきルールなんて精々30位の歴史しか無い。困った問題が続出しているなら破棄すればいいだけの問題だ。
なので硬いルールと思っているものが実は30年程度の風習でしかない事に気が付くべきだし、柔軟にしたら解決する問題もあるという事に気づくべきだ。伝統というものは伝統と思っているものの外側にある事がある。そしてその伝統が問題を解決する術を持っている事もあるという事に気づくべきだ。
最後に、あの区役所のおっさんにこの「自分の親の名前の読み方を知らない理由」を言って聞かせたいもんだが、もう鬼籍に入っちゃってるだろうなぁ。あんたの叱責のおかげで日本の伝統について知ることが出来たぜ。
今の戦後生まれ老害世代って伝統的な日本のもの=年寄り臭くてダサいみたいな固定観念があるからな
こいつらがオシャレだと思うものはロックとかジアメカジとかワインの知識があるとか若者世代の感覚からすると絶妙にオッサン臭いものばかり
ただ、即興で作った開会式のBGMを使うとか母国語の母音子音を基準に入場国を入れ替えるとかゲームの音楽のオーケストラ仕様を入場曲に採用するとか中国の冬季五輪でこのアイデアを利用しそうで怖い。
日本の文化は豊富だが時間をあまりかけていないしあえて低予算臭さを出したというのはものすごい景気悪くてお金のない中国にとってはうってつけのアイデア。
さすがに入場国の順番を変えることはないが即席の開会式BGMとか人によっては滑稽にも感じる入場曲の採用は真似しそう。
中国はゲームやアニメのIPとか日本ほどではないにせよそこそこあるだろうし。
いや、これは皮肉的な意味で100点満点と評価せざるを得ないかもしれない。
東京五輪がもしかしたらおそらく平昌でも踏襲されていただろう暗黙の伝統をひっくり返す革命的な事例になるのかもしれないのだから。
・地中が映って選手メタファーの種から芽が生えてくる→なんで種?それで表現するなら選手という花から種が散布される感じだろ?
・コロナっぽい練習風景→取って付けたようなコロナアピール。突貫工事としてはマシな方か。でもつまんね。
・四季っぽいなにか→せっかく作ったので無理やり入れました感。いらんわ。まあ発注したから金払わん訳にもいかんししゃーないっていう公共事業の常か?
・抽選会の思い出映像→普通。文句はないが褒める気もない。まあ意味不よりマシか。
・歴代選手と自衛隊による国旗運び→伝統だからしゃーないんだが、いっちにーいっちにーはダサすぎ。練度の低さ全世界放映すんな。
・国歌→まあ・・・日本の文化レベルじゃアレが限界だろ。頑張ったな。
・謎のIOCのオッサンやスポンサーの映像→いらねー。まあ舞台のセットし直しがあるからしゃーないか。でも言ってることと実態があってなさすぎ。
・大工タップダンス→ザ・ゴミ。仕事してるふりして踊ってるだけの人たちはなんかのメタファーか?国辱レベル。
・提灯軍団→提灯持ちの入場だ~~~~~。なんかのメタファーか?
・東京五輪のときの木→過去の栄光にすがりついてカーゴカルトするの辞めろっつってんだろ。
・ゲーム音楽入場→日本の文化なんてゲームぐらいしかねーんだと割り切れて大正解。そうだよ。こんな島国に求められてんのなんてそれぐらい。客の求めてるもんだしときゃ良いんだ素直に。
・各国選手入場→政治大好きちゃんじゃないからチャイニーズタイペイ~~とかはどうでもいいですわ。マッチョな旗手とか居たのが面白かったな~~ぐらい。正直道短いんだけどさ、これぐらいの方が今どの国がメインか分かりやすいしいいんじゃねーかなとは思った。
・積み木ゴッコ→キモいマスゲームだな~~~とは思ったけどロゴのコンセプトを伝える努力をしたのは良かった。パクリロゴだったら出来てなかったと思うと感慨深いね。
・ドローン→ええんとちゃう?最後世界地図になるってのも後付っぽいけどオリンピックらしさがあってよかったんじゃない。
・色んな人の宣誓→言ってる内容と実態が全く噛み合ってない棒読みはなんかのメタファーか?とりあえず言っておけばいいって感じのメタファーか?宣誓の内容を聞く限りは開催するに値する状態じゃなかったようにしか思えないぞ。
・お歌のコーナー→まあ、無難。つうかバッハがクソすぎて脳がもう判断力失ってる。
・ピクトグラムコーナー→こういうのってわざわざ「俺凄いでしょ~~~」って言い出したら負けだと思う。
ごく個人的な事だけれど、残しておきたかったのでここに書く。自分の今も心にわだかまる、あるささやかな思い出の話だ。
地元の町では毎年、みどりの日(今でいう昭和の日)にお祭りがある。
朝早くから山車(だんじり、という。これで大体出身地は絞り込めるかな)を、町内会ごとに、男たちが威勢の良い掛け声と共に担ぎあげる。だんじりは、筋骨隆々の大人の男性が数十人でようやく持ち上げられるほど重く、立派だ。
だんじりの中心は幕で覆われており、中には大きな太鼓がひとつ。次代の町内を担う小学生の男子たちが、太鼓を交代で延々と叩き続けリズムを作る。
それぞれがそれぞれのルートで出発しては町を練り歩き、八幡の神社に昼前くらいに集まる。
それから神社で何やら神事らしき事をおこなったのち、昼過ぎくらい出発しては、どの町内会のだんじりも、夕日がさすくらいまでに再び担ぎ出して帰る。
さて、僕の話だ。
僕ら一家は町内会①に、祖父母が少し遠い町内会②に暮していた。
両親は、仕事から帰ってくるまでの間の僕の世話面倒を祖父母に任せていたので、
保育園の迎えは祖母だったし、放課後は祖父母の家…つまり町内会②で過ごしていた。
両親は仕事が終わると迎えに来てくれ、夜は町内会①で暮らす。そんな日々をずっと送ってきた。
友だちも、まあそれなりにいた。たいていは子どもの自由時間である放課後に過ごす町内会②での繋がりで。
なにせ、僕は祭りの日にだんじりに一度も乗ることができなかったからだ。
町内会①も②にも僕が乗ることはなかった。
祭りが近づくと町内会の子らが太鼓の練習に当たり前のように行く中、
とても寂しく切ない気持ちを抱えて、1人で遊んでいたように思う。
覚えてないが、乗りたくないと言ったのか。親が町内会との折り合いが悪かったのか、はたまた本当に地域の慣習上疎外されるべき存在だったのか(なんらかの伝統的な基準を満たさなかったのか、次男だったからなのか)、分からない。
ただ当時の僕は、「自分が町内会①と②のどっちつかずだから、どっちにも認めてもらえないのだ」と思っていた。
両親も、まともに祭りに参加していなかった。住んでいる町内会①の祭りには、ろくに出ていなかったように思う。
一方で、祖父はみんなが担ぐだんじりの上に乗るという栄誉(と思われる)にあずかった事もあるくらい、祭りには毎年参加していた。その写真が、額縁に今も飾られている。
僕はそれを見ながら、誇らしい気持ちと共に、寂しく切ない気持ちになる。
一度だけ、祭りの日に友だちについて行って、違う町内会の休憩しているだんじりの太鼓をこっそり叩いた事がある。どうしても叩いてみたかったんだ。
みんなは練習しているから、カッコよく慣れた手つきで叩くし、どこでどんな風に叩いたら良いかも分かっているなか、僕だけがみっともなく不恰好な太鼓を叩いている。
その居心地の悪さは今でも覚えている。
自分の町内会でもない太鼓で、練習してもない腕で、太鼓を叩いているグロテスクさへの嫌悪感と
自分が欲しかったのは太鼓を叩く事ではなく、当たり前のように太鼓を叩くことを求められ、それを、当たり前に思う帰属意識だったのだとわかった失望。
幼かったので言葉にはできなかったけれど、「これは違うんだ」と、だんじりから降りてからジリジリと、違和感を感じていた。
……
その後、ありがたい事にお勉強ができた僕は、東京の困難な大学へ合格し、就職。
10年ちかくキャリアを積んで、いま長年の夢を叶え、働きたかった会社で働いている。
東京の暮らしは心地よかった、だって、ここでは本当に他所者なんだから。
名実ともに故郷であるはずのふるさとに、疎外感を感じながら居ることの方がつらいのだ。
………
こうして僕は、ついぞ大人になる過程の中で故郷という居場所を得ることはなかった。
いや、地元は好きだよ?でも僕の帰る場所じゃない。そんな思いが根強くある。
でもぼんやり思う…もし僕があの頃、本当の意味で太鼓を叩いていたなら、人生は変わっていただろうか?
いや、きっと何も変わらないのだろうけど。
でも老後の暮らしの選択肢に故郷がないのは、きっとこのせいだぜ。
おわり。
ただ1人、こんな淋しさを抱えて生きている僕という人間がいる、と自分を悲劇的に酔いながら書いただけの話だ。
何の薬にもならないだろう。
誰か知らないけど、読んでくれてありがとう。
暑いわね。
違う違う、
猛暑到来!って感じ!
暑いわー、
日傘ないと表も歩けやしないわ。
でさ、
東京オリンピックが始まる前に、
三度笠みたいな手ぶらでかぶれるタイプの日傘を披露していた暢気な時代があったわよねー。
もう誰もそれどころじゃないというか、
私はあんまりたぶんニュースで耳にするのを聞くことしかないだろうけど
それよりも
心の中で達成してみたい
マリオカート8デラックスの48戦連続耐久レースフル出場!ってのをどっかの休みのタイミングでやりたいのよねーと思っても
ちょっとそれは体力が持たないわ。
でもさ、
バカじゃ無いのって思うわ。
最低限の住み心地は確保してあるんじゃないの?って思うけど
まあそう言うオリンピックゲームの選手村の仕組みはどうなってるのかよく分からないけど、
コンドーム無料配布とかはあれは本当にやってるのかしら?って都市伝説じゃないの?って思う最中、
通常運転のオリンピックゲームならもしかしたら家族はパートナーを連れてきてもオーケーってルールなのかも知れないけど、
なんか伝統とばかり重んじていることを重要としているのか分からないけど
謎のコンドーム無料配布ってのは伝統として受け継がれているみたいよ。
全く滑稽よね。
学校で応援する時に飲む飲み物はスポーンサーの飲み物にして下さい!って
いくら綾瀬はるかちゃんに頼まれたら仕方なくまあ飲むかも知れないけど、
冷蔵庫にも貼られることすらもないそう言うプリントに書かれていたとしても、
誰も気が付かないし
むしろ大塚製薬の微炭酸飲料のマッチがどこに売ってるのよ!?って売ってるところでは売ってるけど
売ってないところでは全然売ってないのよ!
知ってた?
ポカリスエットとシンビーノジャワティーストレートと微炭酸飲料のマッチしか飲んじゃいけないことになるから
それはそれで
すごい何かが課せられている感じがするわ。
本当にオリンピックなんて都市伝説の何物でも無いし本当に開催されているのかしらって
別の世界線の話でもあるような気がするわ。
オリンピックがなかろうとあろうと、
冷たく冷やしたら甘くて美味しいことに改めて気が付いた夏にしたいし
今年の夏は今年のうちに!って
スイカ食べまくるぞって
今まで面倒くさいからって
よく読んでくれてる人は知ってるかも知れないけど
知らない人は知らない話しで
私はカッツスイカをよく夏買っていたのね。
最近見直されつつある
今年の夏、
どんどんスイカを食べようと思うけど、
もっといいこと教えてあげようか?
トマト!トマトよ!冷やしトマトをそのままかぶりつくっていうのが、
今年の夏は全私で流行りそうよ。
だってあれ、
パクパク行けちゃうわけじゃない。
冷たくて涼が取れるしね。
流行るといいわよね。
レジャーの一つとして
浜辺で焼きそば焼いてる暇があったらトマト割りにも興じて欲しいところよ。
もちろんカチ割ったトマトはみんなで美味しく食べられるしね!
イチゴ味のダッツの味を「イチゴイチゴしてる!」って言うぐらいの
だから宇宙船トマト号の食堂の名物スピードメニューの冷やしトマト、
タムラコック長が
そんなにみんなしてトマトを食べると
塩がなくなるだろ塩が!って
塩を使って切らしてしまった日には
マックス艦長もスピードメニューの冷やしトマトを塩かけて食べるわけには行かないのよ。
それぐらい塩が宇宙船内でなくなったらいかに大変なことだって分かると思うわ。
宇宙船トマト号の名物スピードメニューの冷やしトマト私も食べてみたいなぁー。
宇宙船育ちの水耕栽培されたなんかハイテクトマトはとても美味しいって噂よ。
はい!
するっと行けちゃう朝のパワーの源は頼経!なんつって
違う違う
最近ずっとこればかりだけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
- 台湾のポケモンGOは複端末使いが普通におって認められてる感もあるな。数十台使いのおじさんがニュースにも出てASUSがスポンサー買って出てた記憶。街中でも5、6台使いレベルの高齢者は普通に見かける。
- ポケモンGOは複垢禁止です。 https://asus.blog.jp/archives/1077014382.html
- ポケモンgo 日本だって両手に足りない端末持ってワゴン車にみっしり詰まってるジジババどもいるし自分が回復アイテムの使用回数制限突破の升を使ってるのに位置偽装晒すと息巻くガキはいるし
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210720123332
上の増田の条件にほぼほぼあうのはポケモンGoだと思う。ある程度ポケストがある街を歩けば、端末複数持ったおじさん達は1日一人くらいは見かけるし、ジムは明白に複垢・位置偽装に占拠されているし、通称ブランコという歩数稼ぎのアイテムを使えば家の中だけでポケゴーをプレイできる。もちろん町中にあってもオートでゲットできる規約違反のサードパーティ製のグッズを使えるし、コミュニティに入ればこれらのどれかしらは目にする。ほとんどのコミュニティは規約違反を「表向き」は禁止しているが、実際はやりたい放題だし見つからないようにプレイするというのが暗黙のルールであることは誰でも知っている。
そもそも規約違反であることを意識していない場合も多い。SNSには堂々と複垢を名乗る人が多いし会う人のなかにも自身が複垢であることを告げるパターンはかなり多い。コミュの中で引退勢の垢を引き継ぐことは一種の伝統だったりする。
Youtubeで違法動画をみるのと同じ感覚でポケゴーをしている人は気軽にそういう不正行為をしている。これは事実であり肌感覚としては3割強がそれに該当する。もちろんそれは目に見える分だけだ。実際はより多いだろう。単にサーチツールを使うだけの人も規約違反に加担しているのは明白だ。そういうのを含めれば、ポケモンGoをしているプレイヤーで不正行為に全く加担していない人など存在するのか疑うレベルだ。
確かに複垢はポケモンGoでは禁止されている。しかしそれ自体がゲームに多大な悪影響を及ぼすものではないのは明白だ。
学校における「廊下を走るな」程度の注意に等しいというのが自分の中での価値観。走って怪我をする可能性があがるのはわかるが、禁止にするほど危険な行為ではない。マルチプレイヤーゲームにおいて複垢が有利不利につながることは承知だが、そもそもコレクション主体のゲームにおいてはソロが大半でありジム戦にも加わらない人が多いのだ。ほとんどの人にとって重要なことは「たくさんのポケモンを捕まえられる」「新種やイロチや衣装付きのレアポケモンを捕まえる」「強いポケモンを捕まえる」ということに集約される。そうするとどうしても不正は横行するのだが、だからといってポケゴーの不正がそういう大半の人にとって不公平感につながるわけではない。
「不正して捕まえたポケモンを自慢されたくない」という意見はあるが、他人の行為にそこまでシビアになるゲームではないことを忘れてはいけない。これが例えば限定品グッズなら話はわかるが、あくまでもゲーム内で誰でも入手の可能性があるポケモンというデータだ。自分が必死に数時間かけてやっとゲットした伝説ポケモンを他人が不正しながら100匹捕まえた、ということに怒る気持ちはわかる。だが無視できる話だし自分に害は一切ないのだから問題ないはずだ。
不正をしていたも両方とも楽しんだことに変わりはない。仮にその不正プレイヤーが垢を売買する目的で使っていたとして、自分がそれに怒る根拠はあるのだろうか。それ自体は法律には違反していない。単に運営にとって不都合なだけでプレイヤー自身にはほぼ影響がない。いやジムという糞システムには影響あるが、あれはそもそも不正が起こりやすくほとんどの人に意味のないものなので無視していいだろう。
不正がイヤなら自分がしなければいいだけだし、街ナカで普通に見る行為であり同じコミュニティで
これだけ不正が堂々とされていると世間からもプレイヤーからも認知されているものは多くない。運営当初からこの問題は取り上げられているが抜本的な解決は何もされず、放置されているのが実情だ。現在のポケモンGoの姿は不正プレイヤーとともに形作られていると言っても過言ではない。
にもかかわらず数々のゲーム賞を受賞している。つまりポケモンGoの楽しさは不正自体も内包していると言っていいのだ。
そのわかりやすい例が台湾のオジさんだ。彼は堂々と複垢をしてスポンサーまでついている。しかし彼を咎める声より応援する声のほうが多い。なぜなら彼は全力でポケモンGoを楽しんでいるからだ。
そう、複垢をしているから不正をしているからといってポケモンGoが楽しくないわけではない。むしろ彼のように堂々と活動することで不正であっても楽しめる姿をみせたほうが良い例だってある。
コロナによって位置情報ゲームは窮地に立たされたと思われた。しかしポケモンGoはそんな中でも頑強にいき、逆に売上を伸ばしたほどだ。公式による位置偽装ツールが登場しサークルが拡張された。遠隔地との交換の範囲も大幅に伸びた。これはNianticの位置情報ゲームにおいて現地で行うことが必ずしも重要ではないことを意味するし、現実にそういう声明も出している。
今までがおかしかったのだ。ひとり1アカウントに固執し、現実のフィールドでプレイすることを強要し、人と距離を縮めることを良しとしたことは正解とは言えなかった。
それな。自分は女性スーツ職だったときオーダー5万くらいで2着くらいつくったけど
(それこそウエストのちがうボトム2本つけてくれりゃいいのに)
総じていまいちだった。
結局女性に着せるスーツなんか人類そのものがあまり考えちゃいないんだとおもう(さすがにココ・シャネルのは着てないでいってるけど)
ヲタ恋の映画版みたけど女優でさえ着ているスーツが安くてペラペラのコスプレ風だったもんね
かといって伝統的な留め袖+帯ならいいかっていうとそれで仕事できるのやーさんの愛人くらいだろうし本当強い女の服はめんどくさかった
今は職にもよるけどやわらかいひらひらでものによっては1500円くらいの服(夏物トップスならそのくらいだよね)でも職場できられて
あらためて思う。
あるいは、日本人が得意とするコミュニケーション技法であるホンネとタテマエのうちの、タテマエ程度にしか受け止めていないのではないか?
例えていうなら、オリンピックという料理の食材は脂ぎって腐臭のする酷いものだということだ。
にもかかわらず、それが権威ある大会であり続けられるのは、いかにも貴族的で浮世離れした崇高な理念が濃厚なソースとなっているからに他ならない。
積み重ねられた歴史も虚飾に彩られて伝統というストーリーとなり、このソースをさらに高尚なものとしている。
つまるところオリンピックとは、酷い食材を最高のソースで仕上げた伝統料理に他ならない。
私たちは、料理において最も重要なのはソースであることを知っている。
素材の味を生かすことこそが最高の調理法であり、素材の味がわからなくなるほどの味付けは禁忌とされる。
また、高級な料理になる程この傾向は強くなる。
ここから先は想像に過ぎないが、日本人はオリンピックという高級料理を作るにあたり、この日本料理の流儀を取り入れてしまったのではないか。
オリンピックの理念から程遠い人物が利害調整の能力だけを買われて組織委員会のトップに君臨していたことが、それを如実に物語っている。
理念というソースより、商業主義という素材、すなわちオリンピックの本質に正面から取り組んでしまい、その最低の素材の味を人々に感じさせてしまったことこそが、失敗の根源ではないか。
素材の味は極力隠しながら、伝統のソースを自国風にアレンジして完成度を高めることに全力を尽くすことこそが、オリンピックを成功させる正しい調理法だ。
理念に殉じるような情熱溢れる人物を表に立て、理念を共有できる人間で周りを固めていれば、このようなことにはなっていなかったはずだ。
たとえ、コロナ禍であったとしても。
「欧米では、薬の場合もワクチンの場合も、起きてほしくない症状が生じると同じく『有害事象』と呼びます。しかし、日本は薬の有害事象を『副作用』、ワクチン接種後だと『副反応』と呼び分けています。『副反応』には“一時的な現象であり、あまり危険ではない”という印象があり、人に与える印象をまったく別のものにします。ワクチン接種後の有害事象は薬と同じく『副作用』と呼ぶべきです」
現在のルールでは、ワクチン接種後に「副作用」が疑われる場合、診断した医師や病院は予防接種法に基づいて国に報告する必要がある。その報告に基づいて厚労省の審議会が安全性を検討し、死亡者の年齢や性別、接種日などを記した報告書が公表される。
「しかし厚労省の審議会は、“伝統的”にワクチンと死亡の因果関係を認めたがらない。2009年に流行した新型インフルエンザのワクチンでは、接種5分後に心肺停止で亡くなってもワクチンで死亡したと認定しませんでした。同様に新型コロナワクチンでも審議会の検討結果をそのまま信じることは難しい」
ドリフターズは、昭和44年から昭和62年まで続き、最高視聴率50.5%を記録した、TBSの土曜夜8時「八時だよ!全員集合」において、過度のいたずら、食物を大切にしない態度、汚い言葉づかい、いじめ思考などを子供達に植えつけ、そのモラルを引き下げた。
タモリはそれまでタブーだった地方(田舎)を馬鹿にする言葉について、テレビに「市民権」を持たせた。
それ以前は、東北や四国、九州などを、少しでもその都市化の遅れゆえに貶めるような発言は、
テレビの中では、絶対的にご法度だった。ほんの少しでも、地方を馬鹿にした言葉が誰かの口から出ると、
「ただいま、放送上不適切な発言がありましたことをお詫びいたします・・・・・・」
と謝罪の言葉を、司会者は述べさせられていた。しかしタモリは、
「イーじゃねーか、本当のことなんだから」などとニヤニヤ笑いながら言い、「チバラギ、ダサイタマ」などという言葉を放送に乗せ、地方(田舎)を馬鹿にする風潮を、テレビの中に定着させた。
「どちらからいらっしゃいました?」
などという出だしのシーンがよく見られ、またそのシロウト参加者も
「ボクにも笑いが取れました」
とばかりにうれしそうな顔をするが、まったく嘆かわしいことである。
方言は、その地方の人にとっての昔からの伝統的な標準語である。
なお沖縄は、政治的な問題を抱える地域なので、こうした笑いの取り方は、少なくとも
タモリについては、「社空きの化粧厚塗りギャグ」のように、人の悪口を面白おかしく囃したてる、心の荒んだトークについても、「許容されないライン」のかなりの引き下げに、関与した罪は大きい。
などと笑いをとりながら、汚い言葉といじめ遊びをブラウン管に乗せた罪は、免れられない。これは、現在の極まりない悪意に満ちたいじめなどと比べれば、ずっと無邪気な、許されてもいいようなレベルのものではあるが、次世代に一層の悪化をまねいたその足場を作ったものとして、責められるべきものは、間違いなくあった。
ビートたけしは最近は、映画監督・文化人としてのイメージを高めているが、たとえばベネチア映画祭でグランプリを取ったのだとしても、悪いものは悪い、大いに批判されるべきタレントである。「早く死ね、このババア」といっていたことを、99年8月に母親を亡くした後も後悔していないか、聞いてみたいものだ。
90年代前半のとんねるずは「うるせえんだよ!」ダウンタウンは「じゃかあしい、このガキ!」とテレビカメラやライブ会場に向かって、青筋を立てて怒声を浴びせるところまで、凶暴さを増した。よりキレた、狂的な凄みで押しまくるスタイル。いじめも一層残酷で、理不尽なものとなっていった
90年代後半に台頭してきたナインティナイン、ウッチャンナンチャン、ロンドンブーツ1号2号は、それと比べると一見、やや静かで落ち着いた、おとなしい話し方をするが、サッと一瞬人の隙を突いて見せるようないじめ、暴言などは、一層いやらしさを増し、カマトト顔の裏で、陰湿さをさらに増した性格が、見てとれる。
こうしたタレントの作り出す“笑い”びたりとなっている子供たちが、弱いものいじめに走るのは、
ずっとやっていたせいか、体に染み付いてしまったので気にならないでやっているが、
これを官公庁が要望を出したらしいという話で、呆れがさらに加速した。
時代遅れどころの話じゃないんだよな。
そもそもお辞儀はんこが当たり前と言われた時代も、こんな馬鹿げた事をやっていることに疑問があった。
『お辞儀』
書類の提出時に「よろしくおねがいします」「ご確認おねがいします」って際にぺこりとするだけでいい話だ。
それをはんこというものにまで強いている時点で、頭がおかしいのだよ。
老害が残したくだらない伝統は、もうこの時代には不要のものなんだよ。それを若い世代に押し付ける必要はないし、存在すらもはや不要だろう。
「昔は、お辞儀はんこなんてのがあったんだよ」
と思い出話に出てくる程度で良いものを、だ。
なぜ令和になった今も続けようとするのか、お前らは斜めなったはんこじゃないと文字が読めんのかと。
逆さまに押すのは、どうだ?と思うが、まっすぐで十分だろうに多少曲がることもあるだろうが、それはそれで良い。
自然な流れでお辞儀のように押印したのだって、別にいい。それは自然に起こる動作みたいなもんだ。
首が斜めになってるのかね。お偉い役人さん型は。
海外で賞賛される「日本の伝統木造住宅」の価値を我々はどこまで理解しているか
https://news.livedoor.com/article/detail/20527573/
一方、海外で一目置かれる日本の木造の技能は、これとは似て非なる「伝統木造(伝統構法)」と呼ばれるものの方である。戦後の建築基準法は「伝統木造」を素通りし、現代において一般化した「在来木造」を法制度の拡充を通じて作り上げてきた。
「国の大型事業を始め、伝統木造はさまざまな実験がされており、安全性が検証されてきました。ところが、大変な状況が改善されないように、積極的に法制度に反映されません。その理由の一つは、計算で安全性を証明できないからだ、といわれています。それならば何のために国費を投じて実物大の建物で耐震実験までしたのでしょうか。
米国では戦前、戦後と日本の庭園と木造が流行した時代もあるそうで、ドイツ、オーストリア、フランスなどでも日本の大工棟梁への賞賛を聞くのはいつものことです。
伝統的木造建築(ただの木造全般では無くて伝統的なもの)は世界で評価されているが
うまく生かし切れていないらしい。
有名YouTuber兼格闘家の朝倉未来が開いた大会で、BreakingDownという大会がある。これは刃牙作者の板垣恵介がストリートで一分間なら相撲取りが一番強いのではないか、と発言したことに由来する格闘技大会で、格闘技と言っても試合経験の浅い(もしくはアマチュア試合経験しかない)素人だけが集まる大会だ。
試合に集まる猛者たちは経験者も入れば大東流合気柔術の師範がいたり、伝統派の空手家がいたり、散打の中国拳法がいたりと盛りだくさんだ。このラインナップを見て数年前に行われた巌流島という大会を想起した人は結構いたと思う。
試合は朝倉未来のチャンネルで無料配信されたばかりなので見てみてほしい。いわゆる街の喧嘩自慢レベルの試合から、明らかにプロ目指しているものまでいる。素早い動きで寝技とパウンド展開に持ち込んでいる試合もあれば、立技だけで激しい打ち合いを演じているものもある。
で、個人的な感想として、それぞれの力量云々の前に、突進系の前に前に出てゆくアグレッシブファイターが強かった点が心に引っかかった。1分ルールなので様子見しているより手っ取り早く打ち合っ他方がポイントを稼ぎやすい。この大会独自の寝技10秒ルールも相まって寝技が決まり切る前にブレイクがかかる点も打撃優勢を加速させた(これに関してはパンクラスのキャッチルールを採用してはどうかという話も出ていた。技に入ったと確定した次点で10秒ルールを棄却して試合を見守る追加ルールのことだ)。
こうなると気になるのは突進系の圧力をかけてくる人たちをどう捌くか、という話になってくる。素人の自分が捌くなら、という前提で色々見ていたのだが、まず突進してくる相手に前蹴りという手段は、よほどなれていて体格が同一程度でないと掴まれるケースが多くなるようだった。実際前蹴り系で上手に距離を測れていたのは、突きで上下の散らしを入れられていた菊野選手のみだ。つまり素人は攻撃を上下に振ることすら念頭に登らない。緊張してそれどころではなくなってしまう。
次に考えられたのは、突進する相手に軸ずらしを多用してジャブ&ワンツーを連続させ、ケージ(金網)際で首を引っ掛けて対を入れ替える、という手法だ。これはサイドステップを行うということだが、ひたすら追いかけてくる相手を集中して何度もかわしてゆく必要性があり、かなりの慣れが必要になる。この最中にタックルを切る動作を考慮しなければならないので、終始緊張の糸が切れない。
個人的に蹴り技が得意なので、蹴りが通用しない状態を見ると結構唸るものがあった。一発蹴る間に二発のワンツーが飛び込みと同時に襲ってくる。下手すると前蹴りよりも素直にローとカーフを蹴ったほうが効くような気もする。ただこれだと効き始めるまでにラグがありすぎて1分を想定しているとは言えない。
しかしこの大会は柔術歴8年や柔道歴18年などの猛者がゴロゴロいたので、一体素人の喧嘩ってなんだろうという気がしなくもないが。