あらためて思う。
あるいは、日本人が得意とするコミュニケーション技法であるホンネとタテマエのうちの、タテマエ程度にしか受け止めていないのではないか?
例えていうなら、オリンピックという料理の食材は脂ぎって腐臭のする酷いものだということだ。
にもかかわらず、それが権威ある大会であり続けられるのは、いかにも貴族的で浮世離れした崇高な理念が濃厚なソースとなっているからに他ならない。
積み重ねられた歴史も虚飾に彩られて伝統というストーリーとなり、このソースをさらに高尚なものとしている。
つまるところオリンピックとは、酷い食材を最高のソースで仕上げた伝統料理に他ならない。
私たちは、料理において最も重要なのはソースであることを知っている。
素材の味を生かすことこそが最高の調理法であり、素材の味がわからなくなるほどの味付けは禁忌とされる。
また、高級な料理になる程この傾向は強くなる。
ここから先は想像に過ぎないが、日本人はオリンピックという高級料理を作るにあたり、この日本料理の流儀を取り入れてしまったのではないか。
オリンピックの理念から程遠い人物が利害調整の能力だけを買われて組織委員会のトップに君臨していたことが、それを如実に物語っている。
理念というソースより、商業主義という素材、すなわちオリンピックの本質に正面から取り組んでしまい、その最低の素材の味を人々に感じさせてしまったことこそが、失敗の根源ではないか。
素材の味は極力隠しながら、伝統のソースを自国風にアレンジして完成度を高めることに全力を尽くすことこそが、オリンピックを成功させる正しい調理法だ。
理念に殉じるような情熱溢れる人物を表に立て、理念を共有できる人間で周りを固めていれば、このようなことにはなっていなかったはずだ。
たとえ、コロナ禍であったとしても。