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はてなブックマーク - ルミネCM炎上で見えた「ネトフェミ」とは? - 無要の葉
好意的なレッテル貼りっていうのは存在するんだろうか? 好意的なものをレッテル貼りと呼んだ記憶がないので、たぶん、別の呼び方があるんだろう。(思いつかない)
レッテル貼りというのは、悪いイメージを持つレッテルを相手に貼り付けることだ。これは一方的な決めつけによって行われる攻撃であり、そこから生まれるのは、賛同と反発。対立構造が明確化するので争いが促進されてしまう。だから、真面目な話し合いがしたいなら、やめた方が無難だよね。と自分は思う。
B「死ねアニ豚」
A「焼き豚wwwwwwwwwwwww」
以下うんこのなすり合い。
なんJでよく見かける光景。お互いにレッテルを貼り合って、定番の決まり文句で煽り合う。うんこしか生産されない。なぜ匿名の場でのレッテル貼りが横行するかといえば、相手の情報がないから、些細な手がかりからレッテルを貼ってわかりやすい対立構造が必要なんだろうね。
「○○はライトノベル」
上の例はレッテルではないけれど、こういう流れからよく荒れているのを見かける。レッテルにも共通して、定義の曖昧なものに対して自己基準による決めつけが行われると間違いなく荒れる。オレオレ定義発表会が開かれたりして、語られるべき本題は放置される。
ちゃんと定義されていないと語りえないものもあるし、曖昧なままじゃないと話が進まないこともある。プログラムでも現実でも定義というのは面倒くさい。
ネトウヨだから○○、はてサだから○○、アニオタだから○○、声豚だから○○、レッテルには簡単に叩くための悪いイメージがついている。だから、レッテルを貼ってしまうと、本来話し合うべき目の前の人物、事柄が無視され、そのレッテルのイメージで叩き合うことになる。結果、無関係な援軍が次々と現れて、うんこの投げ合いに発展する。こうなればもう収拾不可能。本題は闇の中。
レッテル貼りをすることで、レッテル貼りを嫌悪する人間がやってきて、安易にレッテル貼るやつはクソだゴミだとうんこを投げて立ち去っていく。空気が悪くなり、他のうんこも投げやすくなる。
犯罪者がアニメ好きでしたと報じられる度にネットではみんなが憤る。これは過去にオタクは犯罪者予備軍だとイメージ付けされたことによる防衛反応だろう。
各人がいろいろな趣味趣向を持ち、様々なコミュニティに属している。レッテルは曖昧なものが多いから、貼ろうと思えば色んなレッテルを自分に貼ることができちゃう。
レッテルを貼った人は特定の対象を叩くために使うけど、その言葉は似たような属性を持つ人たちにもしっかりと突き刺さっている。その結果、流れ弾で傷ついた人が続々と援軍として駆けつけてぐちゃぐちゃになる。
というわけで、思いつくままに書いてみた。
以上のような行為類型を相互に重ねるためには多くの場合、主人公とヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである。
空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活でゲームをする例と、『俺ガイル』における部活でクッキーを作る例を比較してみたい。
結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公とヒロインは相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公はヒロインの姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公の洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。
その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。
あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公とヒロインの関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。
「ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公とヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。
くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。
押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメ『エウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公とヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗な表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。
そしてラノベである「ボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。
いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである。最初の依頼ではヒロインは自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公はヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分をスールにするよう依頼するが、それが主人公へ自分の困難を押し付けることでもあることの認識から、ヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロインが自分の困難を解決した物語の最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋な好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。
同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価は秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語の最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。
また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公とヒロインの遭遇、そして物語の最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロインの台詞で遭遇は始まり、最後は主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まり、ラストは楽しそうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。
『乃木坂春香の秘密』はヒロインの秘密が主人公に漏洩したのち、ヒロインは物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公は最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的な依存関係の存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。
『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロインの自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。
このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公とヒロインの「反転」によっても主人公とヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。
例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しかし物語の最後においては主人公はヒロインに対し、自分はヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。
いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。
ヒロインの好きな人が主人公にバレる、という出来事に対して主人公はヒロインに自分の好きな人を明かす。ヒロインに主人公は故意にボールをぶつけられ、ヒロインに主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロインを主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキーを主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロインは主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。
さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロインは自身の恋路への助力を一方的に主人公へ要求し、主人公の承諾をもって名前で呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロインは主人公の呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公はヒロインに一方的にヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロインを名前で呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公の名前を呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。
対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なからず存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公とヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。
ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。
主人公の個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公が活躍していれば話は自然と盛り上がる
林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』
なるほど。ところで人気アニメや漫画の二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。
二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである。
キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌えが理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。
キャラ萌えに依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにのみ依存したラノベと比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。
才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである。
本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術を言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。
「青年誌でやれえええ」的な、性的接触描写を回避しない漫画を少年誌で描いている漫画家が、「体面とか世間体を気にする必要がなければ、世の中の人は、みなエロや下ネタ大好きなのだろうと、ごく最近まで思っていた」的なことを言っていた、というような話を小耳に挟んだ。
というのは前フリ。
性的な表現が規制された近未来を描いた、とあるガガガ系のライトノベルがこの夏にアニメ化するので、マンガやアニメの宣伝にちょっとかかわる自分のところにも情報が回ってきた。それで想起したのだが、たしか出版当時、表現規制に絡めて「こういう作品が出せる世界こそ自由」「これが許さない人間こそファシスト」的なことを言っていた人がいたような記憶がある(出オチ的近未来ものといえば漢字が読めない妹とかもあったなあ)。
この作品で描かれている社会も極端だが、じゃあ、いま我々が身をおいているこの社会は極端ではないのだろうか、ということが頭に兆した。たしかに最近でも女性器をかたどったアートで逮捕される的なことはあるけど、性的な表現はわりあいフリーダムに思えるこの国の社会。
「18歳未満禁止」、「この作品には性的な表現が含まれます」といった、とりあえずの警告を「もちろんわかってますよ、皆こういうの大好きですもの。でも、体面とか世間体とかを気にするあなたは、ちょっと注意してくださいねえ」くらいの意味に思っているとしたら。
「わかってますよ、あなたがたの預言者を絵にしてはいけないんでしたね、でも、そんなタブーに何の意味もないんですけどね、周りの目もあるから怒ってるだけでしょう? まあ今のあなた方では難しいかもしれませんが、私たちが本当の自由を教えてあげますからね」
そんな感じに考えているとしたら。
あんがい我々も、大義名分を掲げ実力をつけた少数の性嫌悪者と、それに引きずられ、"体面とか世間体"を気にして"向こう側"についた多勢に焼き殺されることになるかもしれない(それとも、いざそのときになったら自由もなにもかなぐり捨てて"多勢"の方にもぐり込むのだろうか)。
@FAtype100R 片っ端から自分の言葉の定義を説明してたらアレは1万文字超えてただろうから省いたまでです。個々の作品のどこが低俗化という話までやったらそのぐらいになるし、それをやっても誰も喜びません。また、底意地が悪くくどいだけなので、カットしました— 三沢文也 (@tm2501) 2015, 2月 1
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賞味期限切れのネタにたかっちゃダメさw書くのは構わないし、便乗するのはいいんだけど、ネタの鮮度が切れてから参戦するのが下手でダメさ! / “ライトノベルをバカにしていた私と読まないで批判する愚かさと『かくいう私も青二才でね』への返…” http://t.co/ETs0h76krE— 三沢文也 (@tm2501) 2015, 2月 6
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昔は~、最近のライトノベルは~といった話がしたいわけじゃないけど、現在のライトノベルが停滞してるのは間違いない。
かつてSFやミステリーが辿った衰退の道をラノベも現在進行形で辿っていってる。かつて自由だったはずのそれらのジャンルが成熟するにつれて次第に多様性を失っていったように、こうあるべきという定義付けがラノベの幅を狭めていってるんだよ。
現役のラノベ作家さんで、いまのラノベ業界を自由だと感じる人はまずいないだろう。ライトノベルを成立させるための決まり事にがんじがらめにされていると感じてる人は多いはずだ。いわばモータースポーツでいうところのレギュレーションみたいなものか。
もっとも、出版社の側はそれをレギュレーションとは捉えておらず、売れる作品を作るためにぜひ押さえておきたいポイントなんだろうが。
その押さえるべきポイントが完全に古くなってしまっているのに、意識を切り替えて新たな地平に踏み出せないのが、いまのラノベ業界が直面している大きな問題だ。だから停滞という言葉を持ち出させてもらった。
こうなってしまってるのには作家の責任も大きい。特にラノベブームが世間にもしられるようになった00年代後半に入ってからヒットを飛ばした作家が、その時期に得たノウハウを長く活用していくため、いまのレギュレーションの形成に積極的に関与したからだ。
これは強調しておきたいのだが、いまのライトノベルにおける決まり事は何も昔からあったものじゃない。
おおまかなレギュレーションは昔からありましたけど、それが断定的になったのは00年代後半に入ってからだ。
そうなるように業界を導いた彼らからすれば、自分たちの方法論をラノベのスタンダードにしたかったんだろうな。
その年代の作家たちと組んできた編集も、いまちょうどレーベル内でそれなりの権限をもった地位にある。あんまり売れてないのに仕事がとぎれない人たちが多いのはそういうことだ。
これって結局、いつまでもバブル時代のノリを引きずってるフジテレビのバラエティと同じことが起こってるんだと思う。対象とする読者層は絶えず変化していってるのに、アップデートが追いついてない。いや、する気がないのかもしれない。
バカにもされやすい一因はそこにもあるよ。時代遅れのバラエティ番組が失笑しか買わないように。
あとね、他にも問題はある。
その最たるものは、業界内での売れてる作品へのリスペクトの乏しさ。
最近のライトノベルをバカにしているという意味では、そもそも作り手側の人間がいまのライトノベルを侮ってる。
もちろん、文章が稚拙だとかフォント弄りが云々とか、そんなどうでもいいところをあげつらったりはしないよ。
ただね、「どうせ運が良くて売れただけ」、「特に我々が読む必要はない作品」そういうニュアンスでの侮りは作り手側に蔓延してる。
作品とは別に、作家の人となりについては認め合ってる人たちが多いから諍いの火種にはなりづらいけど。
最近のライトノベルは~論へのバッシングに対して、そんなことはないと反論してくれた人たちがいてくれたのはうれしかったけど、具体的に挙げてくれた作品に正しくライト層向けの売れ線作品がほとんど見られなかったのは残念でもあった。
いまのレギュレーションがこの先も続くのだとしたら、せめてライトノベルの側に立つ人たちの間だけでもそのレギュレーションを正しく守ってる作品を認め合っていかないとむなしいと思うよ。
まあ、僕としては面白さの原点に立ち返るべきだとは言いたいがね。
まぁ、わかるよ。
スレイヤーズ全巻読んでたけど今のライトノベルのほうが技巧的にもアイディア的にもはるかに凝ってるしわかりやすい作品も多い。
スレイヤーズにスレイヤーズの良さは当然あるけど決して今と比較して持ち上げられるレベルのものではない。
ライトノベル談義が盛り上がっているが、あえて挑発的なことを述べたい。
最近増加しているなろう出身のノベルスやビブリアのようなボーダー小説も含めれば山ほどでている。
その中には女の子が多い物もあれば30代のおっさんが主人公のライトノベルなども存在する。
また、あえて平易な文章を書きわかりやすくしているものもあれば衒学的にわかりづらい文章や回りくどい表現をしているものもある。
ところがアニメ化するライトノベルは女性キャラが多かったりするものが多いような傾向があるという。
それはなぜなのか?
ぶっちゃけてしまうとアニメを視聴する層がそのような作品を望んでいるからだ。
あれだけ多くのライトノベルの中からアニメ視聴者に売れるものはどれか?
ということを考えるとそのような作品を選ばざるをえないからだ。
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
>技量の高さが正確に定量化できない時点で「帰結させられる論理」が成立するわけがないことに気付けや
どんなに不人気だろうが批判されようが
「ヒットするかどうかわかりっこないから」
とか言って逃げる。
どんなに個別具体的な指摘が積み重なっても
その指摘に具体的に反論できるでもなく
そうやって反省しない連中がまた性懲りもなく
そりゃクソアニメ減りませんわ。
スポンサーをだまくらかして金を引っ張るのに
いちばん都合がいいんだろうけど
それって無能な奴が淘汰されずに
ずっと仕事続けるってことだもんな。
ライトノベルなら続刊も新刊も書かせてもらえない奴、
まかりとおって、素知らぬ顔で次の仕事を始めるわけだ。
「なんでこいつに仕事を回し続けるんだ」ってさ。
まー、なんか答え出てしまっているけど、なぜ、と問うた増田自身がもう自分で答えを出して納得しちゃってるので、今さら外野がなにか言うのもアレなんだが、その問いについては、ライトノベルというのは、「馬鹿にされることをみずから望んでいるジャンル」だから、という話にしかならない。
ここらへんが、「オレたちをブンガクとして認めろ!」という異議申し立てを行った、SFやミステリや大衆文学とは根本的に異なる。
なぜなら、ライトノベルというのは、マンガしか読んだことのない、マンガしか読めない小中学生に、「これならぼくでも読めそう!」と思わせなければならないジャンルだからである。
ラノベ側が「オレたちはブンガクだ!」と異議申し立てをした瞬間、「そんな難しいものぼくたちには読めません」と、このメインの読者を取り逃がすことになる。
ライトノベルとは言わば駄菓子であって、そのチープな雰囲気こそが最大の魅力であり、みんながよってたかって馬鹿にすることによってこそ、「そんな本ならぼくでも読めるかも……」と小説を読んだことのないガキを引き寄せるのである(その内容が本当に「駄」で「チープ」かはまた別の話だ)。
たとえ本人がそのつもりでも、あれはラノベのステマなのである。
だって今日から一年間、ありとあらゆる人間が、「ライトノベルは素晴らしいブンガクだ! みんな石川博品を読め!」と大合唱をはじめて見ろ。少数のブンガクオタクと引き替えに中学生が離れて速攻で滅ぶ。
そういうわけで、繰り返すが答えは、
「ライトノベルというジャンルが馬鹿にされることを望んでいるから」
ということになる。
以下余談:
「ラノベというのは、漫画でいえば少年漫画のようなものではないか。」という指摘は、半分正しく、半分間違っている。
実際「ライトノベルとはマンガしか読めない中学生が読めるマンガのような小説」であるのなら、「ジャンプに載ってるマンガみたいな小説」が、いっぱい読めるジャンルになっていてもおかしくはなかった。
……何かが奇跡的に上手くいって、ジャンプみたいな小説、サンデーみたいな小説、マガジンみたいな小説が並び、ちょっとコアな読者向けにアフタヌーンみたいな小説とかコンプエースみたいな小説も並び、そんな多様な「マンガみたいな小説」がいっぱいあって、「マンガみたい」だと馬鹿にされるから、小説より遙かに広い、マンガと同じだけの読者層を持つようになる。それが、私がかつて夢想した、ラノベの未来であった。
なぜそうならずに、
「コンプエースに載ってるマンガみたいな小説」しか読めないジャンル
になったかと言えば、これはもう単純で、シェア握ってるのが今も昔もKADOKAWAだから、という話にしかならない。
ジャンプもマガジンもサンデーも、みんなコンプエースの後追いしかしない少年マンガ界……というのが、残念ながら現在のライトノベルである。
が……それはそうと、もう少し別の形のライトノベルは、ありえたのではなかろうか、とは常々思っている。
冒頭の一文、確かにわかりにくかったので修正……。ごめんよ、ラノベ天狗、せっかく褒めて貰ったんだけど、そういう意味じゃなかったんだ……。
ライトノベル『魔法科高校の劣等生』を読んで、ネットの評判に流されてしまっていた自分を実感した話
http://d.hatena.ne.jp/thun2/20150104/p1
この記事を読んだわけだ。
で、ブコメとか色々読んでこれ以上魔法科高校の劣等生を読んで不幸な人が出る前に誤解を正しておいたほうが良いと思ってな。
題名:魔法科高校の劣等生 -The Irregular at Magic High School-
・2008年10月12日、小説家になろうにアマチュアWeb作家として連載開始。
・2011年に電撃文庫化。担当編集は三木一馬((「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」「とある魔術の禁書目録」「ソードアート・オンライン」の担当編集も務める有名編集者))。現在の総発行部数は公称560万部。
・体系化された魔法を扱う職業「魔法師」を養成する架空の教育機関「魔法科高校」を舞台とした学園バトルアクション
・作者は本作品をSFエンターティメントの一種「超能力もの」であると述べている。
まず、初めに言っておきたいのが魔法科高校の劣等生はロードオブ・ザ・リングみてえなハイファンタジーじゃなくて、「とある魔術の禁書目録」みてえなよくある超能力ものだ。たまに勘違いしてる奴がいるけど、ただの超能力ものだ。
このへん押さえとけ。
「あと、俺TUEEEEEじゃなくて敵YOEEEEEなんだもんなぁ。」とかのたまってる奴たまにいるけど、お前の見たいもんは俺TUEEEEEでは見れないから。
例えばドラゴンボールを俺TUEEEEEだと呼ぶ奴が一部でいる。
なんでそんなこと言われるかって悟空が圧倒的戦力差で持って敵を蹂躙するからだ。
代表的なのがVSナッパの話だ。
戦闘力4000程度のナッパ相手に悟空がぼっこぼこに無双して、上から目線で説教するからだ。
でもドラゴンボールはそこまで俺TUEEEEとは呼ばれてない。
なぜならそのあとすぐに超強いベジータが出てくるからだ。主人校と敵の戦力差が重要なわけだ。
敵が銀河系破壊できるキャラなら主人公は5次元に移動して一方的に相手を粉砕するから。
つまり強い敵が出てきた時点でもう俺TUEEEEじゃねえんだ。
あと、俺TUEEEEがすきだからって努力が嫌いとは限らんから。
普通に史上最強の弟子ケンイチとか僕のヒーローアカデミアとか読むから。
子供みたいなこと言ってないで大人になろう?
あと、魔法科高校の劣等生でたまに物理学が云々とか言ってる奴いるけど、殆ど関係ないから。核融合とエネルギー保存法則の部分だけだから。
あの世界の魔法の仕組み、オブジェクト指向プログラミングだから。
オブジェクトの情報を操作して魔法発動させてるだけで物理学とか殆ど関係ないから、適当知識で知ったかするのいい加減やめろ。
あと、てめぇの空想の中のパーフェクトワールドと比較すんの大概にしろ。
知ったかで適当に難癖つけてストレル発散するのいい加減やめとこか
あと、リベラルキチガイは宗教だから、作品世界の中の話と主張をごっちゃにしちゃうから読むのやめとけ。
別に作品世界=作者の主張とも限らないし、それを理由に特定個人の誹謗中傷もいい加減やめとけ。
※追記
id:fusanosuke_n 残念ながら名前だけでそれを期待して実際見たら違ったのでめためたに叩きまくってる奴がいたんだなこれがぁ。
id:harisenbon_fukurahagi そしたらそれは俺TUEEEEに似たなにかであって俺TUEEEEじゃないってことだ。技術がどうとかの問題じゃない。
良い俺TUEEEEEとか言って自分の都合のいい作品を持ってきて片方を貶めすのはやめろ。それはおめーにとっての俺TUEEEEだろうが。
id:kori3110 批判してはいけないんじゃなくて、適当知識でしったかしたり無理やり屁理屈持ってきて批判するなってことだ。
敵YOEEEEEなんだよなぁなんてのは最たるものでミステリ読みながら剣と魔法が出てこないとか文句行ってるようなもんだ。
id:yajicco そういう極論使って誇張すんのもやめろ。どう考えても蟻にはならねえだろ。それともお前は人間が蟻にでも見えるのか?脳みそイカレてんのか?
別に敵は普通の人間だよ。ただし、主人公は大陸吹っ飛ばせるけどな。
id:yunker_y 魔法科高校の劣等生の世界(パラレルワールド)ではそういった魔法や超能力や神通力のようなオカルトの力は全て同じ仕組で動いており、忍術もその1種です。
つまり、火遁の術で火を噴いたりミズグモの術で水面を走ったりというような架空の話は実在したのだ。という世界観なわけです。実際敵キャラに超能力を使ってくる敵ものちのち出てきますしちゃんと設定を読んでいれば忍術というのも別段おかしくはないというわけです。
ちなみにキャラの中には先祖が魔女だったという人も出てきますよ。まぁ、字面で笑ってしまうというのもなんとなくわからんでもないですけどね。
id:nemuibayashi ところがブコメを見ても分かる通り、極論か藁人形たたきの人間が9割以上なんですなこれが。ただの体の良いおもちゃにして遊んでるだけですよ。まじめに議論してる人がほとんどいない。重箱の隅をつつくか極論で遊んでるだけですよ。
そういうアホどもに別の作品読んでろよと言ってるわけです。
id:YukeSkywalker っていう
id:suna_kago 魔法科の問題で特徴的なのが肝心の魔法科の内容がどんな話なのかよくわからないと言うところに尽きますね。批判する側も私も含めて基本的に作品設定の外やまるで関係ない事柄ばかりが取り上げられて場外乱闘を繰り広げている状態で何が問題なのかという点が一向に明らかにならないので。
ブコメを見ても批判しているという点のみが共通しており、肝心の内容はまるで統一性が感じられずカオスな状態に陥ってしまっています。(このエントリーのブコメにかぎらず。)
保健医の先生が言った。先生の長い黒髪がさらり、と肩に落ち、羽織った白衣に黒い曲線を描いた。白衣の下に紫のセーターが覗いている。先生は続けた。
「それを好んで買い集めるものもいれば、嫌うものもいる。それを嫌う彼らにとっては、ライトノベルは生理的に受け付けないのかも知れないな」
ストーブに乗ったヤカンがシューシューと音を立てている。保健室の窓から覗く外は、もう暗かった。
「面白いと思わないか?ライトノベルを嫌う彼らは『自分はライトノベルが嫌いだ』と言って回るんだ。ネットにそう書き込んだりしてね」
先生の声は女性にしては、少し低い。でもそれは、先生の口調とよく合っているように思えた。
「でもね、本当にライトノベルに興味が無いのだったら、ただ無視すればいい。私にとっては駅前の『富士そば』が視界に入らないのと同じだよ。だが彼らは違う。ライトノベルは気持ち悪い、低俗なゴミクズだ、と声高に叫ぶんだ。いや、『叫ばずにはいられない』んだ」 先生の丸眼鏡から覗く瞳が、ぎらり、と光った。目の錯覚か、片方の瞳が赤色に輝いたように感じられた。
ザアッ、と強い風が吹き、窓から見える木が大きく揺れた。黄色味を帯びた年代物の蛍光灯がチチチ、と点滅し、そして消えた。保健室は真っ暗になった。
「やれやれ、これだから田舎は」蛍光灯の紐を二度、ガチャ、ガチャ、と引っ張る音が聞こえた。
たっぷり5秒の間を置いて、蛍光灯が、ききき、きーん、と小さな音を立てた。蛍光灯が部屋を照らした。
『何か』だった。
人のような形をしたその『何か』は、細い、黒いハリガネのようなものの塊だった。うねうねと蠢くハリガネに目を凝らすと、各々が形を持っているのがわかった。『保険医』 『黒髪』 『白衣』 ---- ハリガネの一つ一つが、文字を形作っている。文字記号の塊が集まって、人の形をして動いているのだった。馬鹿げたことに、文字記号はどれも明朝体のフォントで書かれていた。
『ハスキーボイス』 『男口調』 『紫の縦縞セーター』 …塊から覗く、どこかで見たことのある記号たち。記号が集まり人形となって、人のフリをして動いていることが急におぞましく感じられた。全身の毛がぞわり、と総毛立った。
「おい、どうかしたのか?」 塊が言った。動くたびに、がちゃ、がちゃ、と音が鳴った。塊がぐるり、とこちらを向いた。頭らしき場所にある『丸眼鏡』と『灼眼』の二つの文字がぶつかり、ギギギィ、と耳障りな音を立てた。
「顔が青いぞ。大丈夫か?」 塊の右腕らしきものがこちらに伸びてくる。腕には『実は主人公の事が好き』の文字が見えた。限界だった。もうやめてくれ、と叫ばずにはいられなかった。腕を振り払い、塊を突き飛ばした。塊は尻餅をついた。その拍子にぶつかったヤカンから、熱湯が飛び散った。
「やれやれ」
塊が言った。
「君はきっと『大丈夫』だと思ったんだが」 さほど驚いた様子もなく、塊は続けた。
「『視えて』しまうんだろう。私の姿が。残念なことだ」 塊は立ち上がり、ぱん、ぱん、と掛かった熱湯を払う。
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20141225/1419531038
こちらのサイトで90年台オタクがとか00年台オタクが、とか言ってるけどいまいち自分のオタクとしての立ち位置がわからない。
私は平成元年生まれで小学生の時から兄の影響でガンダムを見て、MSの型式番号を覚えたりオタオタしぃ一人遊びが好きだった(エロい意味ではない
友達もいるにはいたものの特にオタク趣味を持っている友人はいなかったし、そもそもそこまで友人も多くなかった。
中学に上がっても一人でライトノベルを読みあさったり漫画を買いまくって一人で読んだりアニメも一人で見てワクワクしていた。(Flash倉庫とか一人で見てニヤニヤしていた気がする。
それにはオタク趣味をもっているのが恥ずかしいという意識もあったし、またたまにオタク話を降ってもついてこれる人は誰もいなかった。今にして思えば、小学生でベルセルクとかシスタープリンセスの話をしてもそりゃ誰も知らんがなwという感じだが。
基本的に一人で消費・消化してオタク生活を送ってきた。(情報自体は取得していたが
ところが最近Twitterだのブログだのに手を出してオタクとしての横のつながりを初めて意識するようになった。
するとどうだろう、なんかみんな90年台のオタクがどうのだの迫害がどうのだのサブカルが~とかこんなオタクなりの横のつながりを、みんな持っていたのを初めて知ってしまったわけだ。
今でこそニコニコ動画だとかTwitterで横のつながりは当たり前になっておりその点に関しては確かに時代は変わったなぁ。とその点から考えると斑目のような90年台型っぽくはあるし、2000年台に学生をやっていたので笹原的なオタクっているんだろうなぁという感覚分からないでもない。
更に2000年台後期には大学生で周囲はニコニコ動画が流行っていて容易に横のつながりが出来るという状況も見てきたので最近のオタク感が薄くなってきたという空気もわかる。
正直、ノリがすごすぎて若干ついていけなかったが。
つまりかなり子供のころからオタクをやっていた上にオタク友達を作る気もなかったのでいまいち自分の立ち位置がわからない。
2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。
才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。
これが意味するところは、才能のあるワナビは他人の書いた創作技術本を読んで必死にトレースしたりなどしなかった、という非情な現実である。ノウハウ本を欲するのはいつだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビは今日も選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。
スティーブン・キングがプロットなど不要だと言う一方でディーン・クーンツはプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方は世界から作らないようでは話にならないと言う。
ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。
実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。
手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。
もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。
大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。
Hard work beats talent when talent doesn't work hard.
Tim Notke
本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点でラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的な努力を実現する上での一助となれば幸いである。
本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベルの新人賞に向けてワナビが執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的なラノベの定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題はこのラノベの本質的定義の限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。
本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。
まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。
ラノベ作家は商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田はキャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞は商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビの承認欲求を満たすためにあるわけではない。
新城はラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生」であるとする。飯田はさらにラノベの読者はアニメや漫画、ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本も西谷も水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。
ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。
新人賞の下読みの多くは大学生のバイトであり(あるいは主婦や新人編集者)、選考するのはプロの作家であり、プロの編集者である。いずれにせよ選考過程に中高生は存在しない。
読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロの作家とワナビでは立場が違う。ワナビはラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者が想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本は現実の中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実の中高生には圧倒的にウケるが20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである。
行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかしプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説の煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。
最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア、原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディア、プロット、原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。
本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家も存在する。
一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題を引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。
以下、それぞれの段階についての各論に入る。
「アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語、キーワード、フレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである。
冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディアを連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。
しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。
この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方は主題、世界、人物、物語、文体の5種であるとするし、榎本はキャラクター、世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体が意味を持つものではないが、それぞれが独自の用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。
本稿では主題とテーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである。冲方や大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。
主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚は作成した主人公像の要素を深化させそこから主題を抽出するとしている。榎本はプロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷は執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。
このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。
繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題と関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアとアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。
この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。
設定資料集が好きな人が存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定の物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語の設定資料集など誰も目を通してくれはしない。
このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本は主題を台詞や地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツは主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞や地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。
本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報(名前、性格や容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。
一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則、身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界」である。
いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方や水島は世界が先だとするし、大塚や西谷は登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。
しかしながら冲方と大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。
冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界と時代に左右されたもの」と言い、このような世界だからこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性を要求する。
大塚もまた登場人物の個性については「キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性を要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方も大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。
ワナビの「世界」について「リアリティが自分の身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校とコンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。
冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。
その一方で登場人物については、冲方はそれが主題に関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島も登場人物はプロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初に長大なキャラ表を作るというワナビにありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物は存在していない」と断じる。
だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツはプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長、体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。
「登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合は最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。
これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときのリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャートを作成するのが良いとして、さらには性格、趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。
ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。
最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである。 Permalink | 記事への反応(5) | 20:41
5つ星のもののリストとしていますが、正確には5つ星で、レビュー数が3以上のもののリストです。
レビュー数が1件、2件で5つ星のものがあるのは除外しています。
初版、改訂版、文庫本など複数の版がある場合はなるべくレビュー数の多い物だったか、
なるべく初版に近い方だったかを基準にしたような気がしますが、
ややうろ覚えで自信はありません。
漫画、ライトノベルなどの続き物で巻数の指定のない場合は第1巻で判断しています。
同じ本を挙げている方が複数いる場合は、先にコメントされた方のコメントにリンクするようにしようと思ったのですが、
途中グチャグチャになったので多分間違っているところがあります。
1065冊確認した中で4.5以上の評価のものは429冊。ちょっとフィルタリング結果が多くなり過ぎと判断して、5つ星以上に限定しています。
評価は星の画像で判断しているので0.5星ステップ。0.1星ステップの評価がテキストで書かれているのには今日気が付きました。
星4.5と、星5の面白さに差があるとも思えないので、
星でフィルタリングせずに、単にジャンル分けだけするというのもひとつの手だったかもしれません。
1000冊以上の本の評価を確認するというのは大変ではありましたが(手動でやってます)、
普段触れる機会のないジャンルの本に触れられて楽しい経験でもありました。