はてなキーワード: 言及とは
女性が地方から姿を消している・・・ なぜ?本音を聞いてみた - クローズアップ現代 取材ノート - NHK みんなでプラス
https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic101.html
03 東海 -2% (-2%) 0%
04 近畿 -2% (-6%) 4%
05 九州 -7% (-7%) 0%
06 北関東 -8% (-8%) 0%
Mrs.GREEN APPLEの『コロンブス』という曲のMVが「歴史や文化的な背景への理解に欠ける表現が含まれていたため」取り下げられた。はてな界隈ではこれはキャンセルカルチャーだということで大変に盛り上がっている。しかし、そもそもキャンセルカルチャーとは何か?ということで了解が取れていないように思う。
ではキャンセルカルチャーについて反実仮想的に考えてみるのはどうだろう?キャンセルカルチャーがない世界ではコロンブスのMVはどう反応されるのだろうか?キャンセルカルチャーの有無でどのように反応が異なっていたかを考えることで、キャンセルカルチャーとは何かをあぶりだしていきたい。いろいろなケースを考えてみた。これがすべてではないと思うが、たたき台として使ってほしい。またキャンセルカルチャーがない世界で起きること(実証的)とキャンセルカルチャーがない世界で起こるべきこと(規範的)の二つの側面があると思うので、それも考慮したい。
書いてみると、現在の状況は、帰結でいうと4に近いと思うが、これはキャンセルカルチャーのない世界でも普通に起こりうる話のように思った。なお、キャンセルカルチャーがあるとされる現在でも批判されたMVのみが消され、音源もアーティストも無傷である。そのためキャンセルカルチャーがない場合でも、アーティストのその他の活動に全く影響はないと仮定した。
どういう意図で作られたか?ではなくて、どう受け取られたか?が重要で、それによってレーベルやタイアップ企業のイメージがどうなると予想されるか?が問題の本質でしょう?
それなのに、見る側の解釈のせいにしたり分析力のせいにしたりする人を見かける
それってどうでもいい細部にこだわっているだけのように見える
たとえばラーメンを見せれば糾弾される社会があり、そこでうどんの絵を描いたらラーメンと誤認され糾弾された、としよう
そこにラーメンを見せたいという意図がなかったことが分かっていたとしても、ナルトとメンマとチャーシュー乗せたうどんの絵を描けば、そりゃあ批判は免れないでしょ、ってなるのが普通だと思う
現実、多くの人がラーメンと誤認したわけだから、それが本当はうどんだったかどうかなんて関係ないよね、って
でも、現実今回のコロンブスの件で擁護している人たち (擁護ではなく事実の論理的説明だ、という表現もあるが) は、なぜか麵の太さを執拗に解説するような姿勢を見せている
でも、その主張に対する素直な感想としては、うどんなのはそうかもしれないけど、じゃあナルトとメンマとチャーシュー乗せずにかまぼこと海老天くらいにしとけばよかったよね、って思う
だって絵のうどんかラーメンを見分けるポイントってそういう記号的なものから来る印象でしかないのが現実だから
だから、印象を超えた厳密な解釈なんて世の中では広く受け入れられることはない
残念ながら世の中には不文律があって、ここまではOKだけどこれを表現したらアウトね、っていうルールがなんとなく存在する
そのルールを参照したときに、違反に該当すると思われたものは、公には存在できないのがこの世の中の慣習
それがいいか悪いかは議論があると思うし、全面的にいいとは思わないけど、それを言ったところで世の中は変わらないんだから仕方ない
公に、っていうのは、大きな企業が複数絡み、社会的イメージを良好に保ちたい人たちが大勢関わっているときに、という意味合い
アーティストが個人レーベルで、表現に自信や信念がある場合、その表現を取り下げたいと願う関係者が存在しないことから、問題ある表現も取り下げる必要はなく存在できる
でも、今回の件は、アーティスト個人の問題ではなく、所属レーベルとコカコーラのイメージも絡んでいる
「厳密な解釈では差別意図がないのは明白」だとしても、それを主張し続けるよりも企業イメージを優先したいのは当然
シンプルにそれだけの話だ
実際彼らは最短で取り下げ謝罪し、ダメージを最小限に抑える正しい振る舞いをしたわけだ
誉められていいと思う
結局のところ
あのMVが公開され続けるべきか否か?という問いに対しては、ステークホルダーがイメージダウンを懸念する以上存在できない、一般人はその判断に関われない、が答えとなる
じゃあそのイメージダウンに関して、あのMVは本当にイメージダウンにつながるか?という問いに対しては、一定の割合が直感的に問題のある表現と感じた以上はイメージダウンはある、というのが答え
で、そんなわかりきった事実に対して、きちんと解釈すればどうこう、ってのは、正直この問題の本筋から完全に外れた遊びとしか思えない
まさに、解釈なんてどうでもええやん、解釈は本質ちゃうやんって話
本当にそんなにMVの内容解釈にこだわりたいのなら「公開され続けるべき」とか「批判者の解釈は正しくない」とかとは離れた文脈で、フラットに「こういう解釈が正しかろう」という文学的な解説であるべきだ
もちろん批判者側も、センシティブなイメージを想起させるMV内の表現のみに対してアウトを表明する権利があるだけ
アーティストの音楽性そのものを批判するのはもちろん違うし、それどころか人間性や知性について言及するのは完全に間違っている
そこはちゃんとわきまえなきゃいけないのはわかってほしいところ
実名顔出しのアカウントのツイートに対して寄ってたかって人格攻撃してる
IDだけ出してる分際のブクマカにも同じこと言ってりゃいいけど
財布に骨を入れて持ち歩いているとして、それはその人にとって大事なことだろうと思うから言及しないと思う。
一方、わたしがそういうことを受け入れようと思えるのは、相手がわたしにとても配慮してくれていて、
決して前の奥様と比較するようなことはしないし、劣らず大事にしてくれているのがわかるから
お骨を受けれいてほしいなら、相手にそれを伝える際も配慮したり、愛情が決して劣っているわけでないと伝えたり、
男性側も気を遣う必要があって、自分の辛いことをわかってくれ受け入れてくれ、だけじゃお付き合いは成立しないと思う。
それは死別してようがしてまいが人付き合いの基本だと思う。
読んでないじゃーーん
都政やってほしい
鬼滅、おもろい!
炭治郎すごいすごい
こんなもんです。
なーんも覚えてないです。
体が軽いお姉さんとか蝶っぽいよね!
名前わかんねーな
覚えてどうするんや。
結論から言うと、SNS等での個人の発信(の集合)が力を持ちすぎて『批判的な意見を述べる』ことと『表現をキャンセルする』という本来距離があるべき行いが近くなりすぎた事が根本的な原因だと思う。
あのMVは題材としたコロンブスの行いに対する無知が原因であって、積極的にコロンブスの残虐行為を正当化する意図はなかったであろうことは状況証拠も含めて多くの人が納得できると思う。
また件のMVをみて『コロンブスの虐殺は正しかったんだ』といった感想を持つ人は観測できなかったので、MVが存在することによる直接的な問題というのはない(あるいはあったとしても非常に距離がある)ように思える。
一方で明確な問題点として題材の調査不足による表現としての拙さ、表現としての伝わりづらさなどの作品として不出来な部分があることは事実であって、それらへの批判的な意見は十分に成り立つしアーティストや製作会社にとっても有益となりえる意見だろう。
令和6年現在、SNSで批判的な意見が噴き上がるだけで表現はいとも簡単にキャンセルされる。批判的な意見を述べることと表現をキャンセルすること、本来まったく異なる行為は同じ意味を持ちつつある。またこれはSNSだけの問題ではなく、企業側がSNS時代に対応出来ていないことで批判に対して過激な反応を起こしてしまうことや、距離が近くなったことを利用して気に入らない表現をキャンセルしようとする一部界隈の問題も含んでいる。(後者に関しては鶏と卵という感じもする)
またこの現象は否定派にとっては「正当な批判を行っただけ」肯定派にとっては「表現をキャンセルされた」という認識の違いを生み出し更なる分断の原因にもなっている。このボタンの掛け違いがある以上、議論は一生平行線なのでまずはお互いの立場を認識した上で議論を進める必要がある。
近年のキャンセルカルチャの問題について憂慮する気持ちは非常に共感できる。一方で批判的な意見もまた守るべき表現であり、長期的に見てよりよい表現を育てるために必要な物だろう。
また今回のMVのように表現の意図にまで踏み込んだ話をするのであれば、批判的な意見に対してもそれが「作品の不出来な箇所を指摘する」目的なのか、単に「気に入らない表現をキャンセルしたい」のかという意図についても検討する必要があると思う。
既に述べたが批判的な意見もまた重要な表現であって、健全な表現を守るために必要な物だ。
しかし芸能人のSNS炎上による自死問題の際にも散々話題になったことだが、正当な批判も数が集まれば暴力になり得る。何か思うことがあったとしても『既に十分に話題として騒がれていたら言及を控える』、『悪意によらず過失や無知による行いであればトーンを弱める』などの配慮は当然に必要になってくる時代だし、それらを欠いて正当な批判をしただけと主張するのはナイーブがすぎる。
批判とキャンセルは距離が近づきすぎて区別がつきづらくなっているが、本来は異なる物であるべき
肯定派と否定派はそれぞれ批判としての観点、キャンセルとしての観点から事態を観察しており根本的にボタンの掛け違いがある
それぞれが今自分がどの立場から発言していて、また相手側の立場からどう見えているのか自覚的し、節度をもったインターネットの利用が求められる
少し調べればコンキスタドールの動機が宗教心などではなくカトリックのそれとは大きくことなったいたのは分かるだろうし、文明宗教と言う点で非人間化していたってはなしだよね。そもそも宗教心に篤いなら奴隷化や殺戮掠奪ではなく教化が一番初めに来るはずだし、本当馬鹿だなこいつ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240616133159
のブコメについて
顕名 vs匿名で非対称的なのが気になるのはわかるけどさ、lady-jokerさんは別にそれに言及せずに反論したわけだよ。
上記の非対称性は双方納得済みの事項で、外野の私達が咎められる点ではないよね?
そもそも匿名批判が悪いのなら、増田の初めのエントリの時点で「匿名の言うことだから」で切り捨てなければおかしいよね?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240613203515
なぜ増田の反論の時点で匿名であることを今になって持ち出したか、
「あ、これに反論するのめんどくさいけどなんか言わないと負けたことになる、
ここは増田が匿名だから無条件で負け、ということにしておこう」
と思ったのかな?
そう思われてもしょうがないよね?
②「読む価値ないから読んでない」「反論を続けようとする態度が悪い」「増田は頭がおかしいやつだから放置」
筋の通った反論するでもなく、増田の質問に回答するでもなく上記のコメントをつけて悦に浸るのは知性のある行動かい?
「読んでない」
読んでるよね?
読んでないことにして自分が反論しなくて良い理由を作ったんだよね?
「反論を続けようとする態度が悪い」
無茶苦茶じゃん。
そのガチの人にガチで応対したlady-jokerさんもガチの人で、
触らないほうが良い人、ということで良い?
lady-jokerのエントリは増田のはてブの不誠実さの批判に真っ向から答えたものだけど、
はてブに知性がない、誠実さがない、という批判に対する回答がこれで、
という風に私id:p__o__nは思いました。
以上
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志摩スペイン村の入園料5700円に「安すぎません?」広報直撃! 大盛況報道で生まれた復活イメージに“中の人”が困惑する理由 | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け https://shueisha.online/articles/-/250821
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上記記事に以下のコメントを付けたら、意外と評判良かったので、色々補足しつつスペイン村について語ってみる。
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ここ10年毎年1,2回スペイン村行ってる身からすると、vtuber好きっぽい雰囲気の客が昔の1割、多くても2割体感増えた印象。USJとレゴランドの間くらいのクオリティ。スペイン村は伊勢志摩旅行とセットで良さが出る場所
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## vTuberの影響で増えてるのか?
上記コメントでもあるように、体感では以前よりも1〜2割増えた印象。
id:marilyn-yasuさんがコメントで補足してくれてる。
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id:mak_inさんが書いてることの裏付けとして過去に資料で年間入園数の推移を読んだところ1割強ほどの増加量。コラボ期間が主なので平時から1割とは言わんが無視できないくらいの人数が来てるのは間違いない感じ。
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実体感をもっと詳細に記載すると、コラボ期間に入る前から、ンゴちゃんの言及からのスペイン村ブームになった時点で既に1割くらい増えてた印象で、イベント期間に行った際は2割くらい増えてた印象。
以前から見かけた組み合わせとしては、乳児から小学生くらいまでの小さな子どもを連れた親子連れ、カップル、2-3人での女子旅、たまに大学生仲間っぽい男女、これがほとんどだった。
これがンゴちゃん言及以後、元々いた人たちの数はあまり変わっていないものの、以前はあまり見なかった組み合わせの人たちを見かけるようになった。
総じて、なんとなくオタクっぽい雰囲気に、何らかのvTuberグッズを身に着けてるのでなんとなく分かる。
中高生1人を連れた親子、2-3人男旅、ソロで来てる人(男女ともにいる。ただソロ率は女性の方が高いような……)。
大学生仲間っぽい男女も増えてて、前は比較的陽のオーラ強めの集まりが多かったが、陰のオーラ強めの人が増えてる。
これら以前見なかった属性が増えたことでだいたい1-2割増という感じ。
## なんでそんなこと詳細に体感で分かるんだ?
僕自身が遊園地苦手過ぎて、ワイフや子ども達がアトラクションに並んでいる間、乗り物に乗れない子と待ってるから。
うちは子ども4人で、一番小さい子は常に誰かベビーカーに乗ってて、誰かが乗り物に乗れない。
そうなると、待っている間、特に何もすることなく、ずっとぼーっと園内を眺めてることになる。
ただぼーっと眺めてるだけなので、自然と人間観察とかしてしまう……
## 何故そんなにスペイン村に行っているのか?
子どもが産まれてからは、ワイフの実家によった際には必ずスペイン村に行くことになっている。
これは志摩スペイン村が志摩市民向けに格安のチケットを提供してることが関係してる。
https://www.parque-net.com/ticket/isepassport/index.html
昔はチケットの購入条件が緩く、価格ももっと安かったのでこれを悪用し、スペイン村の近くのコンビニの前で、駐車場の案内みたいな雰囲気でパラレルの下、椅子に座ってるオババがダフ屋みたいなことをやっていた。
10年近く前に対策されて、受付で志摩市民だと証明しないと入場できないようになった。
今このチケットは志摩市民が年間パスポート買ってからでないと別途チケットを購入できなくなったので、子沢山だと知る義父母のご近所さんが、帰省シーズンになるとくれるようになった。
入場の際には、義父母と一緒に受付し、僕らだけ入場するようにしてる。
チケットくれるご近所さんには、こちらのお土産を持っていってる。
## スペイン村の噂: 東京ディズニーランド超えの待ち時間、園内ガラガラ、どっちが正しいのか?
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ガラガラだった志摩スペイン村が客急増でディズニーRより待ち時間長く…なぜ
https://biz-journal.jp/company/post_380711.html
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スペイン村は、単純に敷地がデカく、その割に客が少ないので、一見ガラガラなのは今も昔も変わってない。
先に書いたように増えたのは1-2割なのに、何故激混みの印象を与えるような待ち時間が長い、という話があるのか。
それは、ンゴちゃん言及以前から、スプラッシュモンセラーと氷の城は並んでいたから。
特にスプラッシュモンセラーは回転率がかなり悪い割に、人気のあるアトラクションだ。元々シーズン中は60分待ちとかは普通だった。
これは、スプラッシュモンセラーが必ず1組1台で乗せ、1台辺り2分程かかるので30組いれば1時間はかかるから。
https://www.parque-net.com/attraction/splash_montserrat.html
スペイン村、場所の広さの割に客が少ないだけで、客自体はちゃんといるので、普段からそれくらいかかる。
他は一度に何人も遊ぶので、混むことはほぼない。
ただ今回のイベントで増えた比較的若い層が、とりあえずスプラッシュモンセラーに流れたこともあり、いつもより待ち時間が長くなったように感じる。
先の言及で、ソロで来てる人が増えた、と書いたのは、スプラッシュモンセラーを待ってる間、以前はいなかった一人で乗る人を結構見かけたから。
遊園地を一人で!?と一瞬思ったが、混んでないからか、広いからか、親子が多いからか、何か分からないけど、遊園地はみんなで!みたいな集団圧力みたいなのがココには全く無いので自分の好きなまま楽しめるのは、なんかめっちゃ良いな、と思った。
ちなみにスペイン村で一番有名なアトラクション、ジェットコースターのピレネーは一度も複数人で乗れることもあり、ほぼ待ち無しで乗れる。
そもそもスペイン村に来るような層は、ピレネーはハードルが高過ぎて、スプラッシュモンセラーくらいがちょうど良く、ニーズが少ないのかもしれない。
普通に美味しい。
名古屋スペイン協会の人らと仲良かったこともあり、結構色んなスペイン料理屋には行き色々教えてもらい分かってる方だと思うが、スペイン村の料理はちゃんと作ってあり、遊園地の中であるにも関わらず、外で普通のスペイン料理店で食べるクオリティで出してくれる。
僕が遊園地苦手な理由の一つに、何も彼にも全てが高い割に、だいたいファーストフードにも満たないひどい味だ、というのがある。金払うのは良いけど、払うならちゃんとしたものが食べたい……
外だと普通のものが遊園地の中で食べられるだけで、異常に美味しく感じてしまうかもしれない。
同じ理由で、大人気、ンゴちゃんイチオシの世界一美味しいチュロスは、遊園地の中では世界一美味しいかもしれないと思わせてくれる。
ちなみにレビューとか見ると、スペイン村の中のレストランの中で、いくつか酷評されてる場所があるが、コレは価格が遊園地にしては安く、味が遊園地っぽい場所である。
お財布と好みで選んでもらうと良い。
キャラクターショーが、ドン・キホーテ、チャッキーなどのキャラがパティオの飾りを競うコンテストを行う、という内容だったのだが、バイキンマン的な立ち位置のアレハンドロが優勝して、盛り上がる内容だったこと。
娘のアンパンマン見てていつもバイキンマン可哀想だと思ってたので、何故か無駄に感動してしまった。
https://www.parque-net.com/kids/zukan/arejandoro.html
あと、フリーレンとフェルンのコスプレしてる人がおり、勇者ヒンメルになりたい息子のために一緒に写真を撮ってもらった。
息子は恥ずかしながらも目茶苦茶喜んで、あれから勇者ヒンメルごっこを良くやるようになった。
僕は遊園地が苦手でも家族の希望で連れて行かれる。コロナ明けてから両方に行った。
USJは単純に派手だし楽しめる場所だよ!!という空気感が凄かった。
ただ人気の場所だということもあり、人がとにかく多いのと、それに伴う攻略法を予習してこなしていかないとマトモに遊べないのは正直しんどかった。
一方で、沿道をまわるショーは、スペイン村も遜色ない気はした。
なんやかんや言って、長い歴史と本場スペインダンサー達のパフォーマンスが、資金力の差を埋めてる気がする。
レゴランドは、よく「子ども騙しだ」と言われることがあったが、良くも悪くも大人よりも子どもに刺さるコンテンツが多い気がした。
レゴのアニメや、マイクラ、ロブロックスのおかげで、レゴの世界観は、思った以上に子どもらに刺さったみたいで、大人の満足感の少なさの割に、子どもの満足感がかなり大きかった。
一方、スペイン村はキャラクターショーなどはちゃんとあるものの、キャラクター自身のコンテンツ力が弱いせいか、子どもらの刺さり具合は弱かった。ショーの良さや遊園地全体で挽回、という感じ。
というわけで、レゴランド以上、USJ未満、という感じで、USJでは強すぎ、レゴランドでは弱すぎ、という人にはスペイン村がちょうど良いのかもしれない。
## 実際に自分がやってるまわり方
シーズン中、もうスペイン村には行き慣れてる or 僕のように遊園地のアトラクションが得意でない人は、ムーンライトパスが良いのかもしれない。
16時以降入場だが、物販や代表的なアトラクションはだいたい17時までやってるので、ササッと目的のものだけ消化し、ナイトショーを楽しむ。
ナイトショーは、ショー自体のクオリティも高いが、花火の量も凄いので、価格の割にかなり楽しめる。
ただし、スペイン村は伊勢志摩旅行とセットで楽しむと良さが引き立つ場所であり、伊勢志摩旅行の魅力の大きな点に宿の食事が挙げられるので、スペイン村のホテルでない限り、どちらかを選ばざるを得ないことが難しいところ。
元気があったら、こんな感じで続編として経験談からの伊勢志摩旅行のポイントもまとめるかも……
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追記:
↓
はてな記法で書き換えたんだが、どうも上手くいかず……スマホからだとあかんのか……?微妙に間違えてる??
読みにくいのは承知してますが、仕方なく、Markdownのままにしてます。
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スペイン村だったら、フラメンコショーのことも触れてー!!あれは生で見たら素直に感動する。
↓
評判が目茶苦茶良いことは、噂には聞いてるのですが、常に乳児を連れてる状態だと子どもらが我慢できないので入れなくて、スペイン村20回以上行ってるのに、結局一度も観れてないです。
なので、言及できてないだけです。
逆に言えば、スペイン村の客の大多数を占める親子連れが、うちと同じく、このフラメンコショーには行けてないので、特に事情がなければさっと入れるのでオススメです。
名古屋スペイン協会繋がりで何度かプロのフラメンコショーは見に行ったことあるので、その際にはそこと対比しながらコメントできれば。
働き方の未来2035ではその転職とかする人の方が先進的とも言える
プロジェクトが終われば解散してまた別な仕事につくスタイルと働き方を自由に組める社会ね
君は多分自分がその友人たちの中で一番まともだと思ってるかもしれないし、他に言及してる人もいるけど仕事一筋は普遍的な価値観ではないからね
責任者が自分でフォローして解決すべきことで、それ以外は言われたことだけやってればいいだろ
そんなくだらないことに時間と脳みそを割くぐらいなら今日と明日の献立考えるほうが大事
庶民感覚が足りないなお前は
お前は匿名で個人攻撃してる時点でレディージョーカー未満だよ。依頼されたら削除される存在なのに。
俺は違う。増田しか叩かない。増田は匿名なので問題なし。特定の個人が問題なのだ。
匿名ダイアリーでは、「言及された当事者から削除の申し立てがあった場合、発信者への意見照会を経ずに削除を行う」という特殊なルールを設けています。また、サービスの匿名性は、特定の対象を攻撃する目的に使われるべきでないと考えています
まずlady-jokerさんが逃げずに応答したことに敬意を表したい。
これだけではてな民の中の最良の人であって、
人格的にも能力的にもはてブ民の代表選手と見なしてよいと思う。
またこれ以前から人格的にはてなの中では抜きん出た人だと感じている。
印象としては
及第点は7と言う感じ。
>「考えるべき」ってのは具体的に何についてどんな思考をすることなの?
上記に記した「非人間化」のプロセスが我々の内面に存在していることを知り、その危険性を認識することであろう。
このような思考を積み重ねることで、己の内面において非人間化が発生した場合にはそれを検知し自省する、
他者において発生した場合には、その思考を思いとどまらせるために働きかけるなど、行動面においても変化が起きれば尚良いだろう。
「虐殺の歴史の本から我々人類の内面のおぞましきプロセスを学んだことで、
己の内面にそれが現れた時は検知して自制し、
他者に現れた時はそれを制して変化を促す行動を起こせる。」
とのこと。
パッとみ大変立派な感じだが
残念ながらそのような思考の積み重ねで人間の頭や人格が良くなることはない。
(これは後で具体例とともに説明する)
まず我々自身の心の悪い動きはそんな本をいくら読んでも検知できるようにはならない。
行動面の良い変化についても期待できない。
「「コロンブスのコスプレMVをしたミュージシャン」というその問題とかけ離れた対象にぶつけている。
どう考えてもあのミュージシャンの内面にあなたの言うようなおぞましいプロセスは生じてねーだろ。
あれを見る視聴者にしても同様。
あなたはいま歴史上の虐殺について頑張って抽象化してみせたのに
その抽象化を目の前の現実に当てはめる努力か才能が全く足りてないために
人類普遍の良くない心の動きがあると本を読んでわかった!恐ろしい!我々に出来る抵抗と警戒は?
「同じような帽子をかぶってる奴」「同じような衣装をまとってる奴」「同じ名前の奴」をキャンセルする!
これはアホと言わず何と言えばよいのか。
その内容について頑張ったであろう抽象化を並べて、
そのアウトプットがこれなんだから、残念ながらあなたが読書にかけた期待は間違いだ。
全く違う。
ウイグル話法と言うのは簡潔に
・ 「日本の左派は中韓への批判は避ける」という前提(偏見?)に立ち
・ 日本の左派がどこかの虐殺を批判したら「でもあなた方は中国によるウイグル虐殺はスルーですよね?」と言って当て擦りをしよう
「なんでアメリカ大陸入植者のおぞましい歴史への憎悪や批判の気持ちを日本人コスプレMVに向けてるのですか?」
「どうしてもその憎悪で現代の人を裁きたいなら、アメリカの人や国土の方がまだそれにふさわしいのではないですか?」
「ていうかあのバンドがネイティブアメリカンにどんな虐殺や収奪をしたっつーの?」
というツッコミ。
見てわかるように、
lady_jokerさんは「ウイグル話法」と言う概念は仕入れたものの
その咀嚼や抽象化に失敗したため自分で使える道具になっておらず、
「「~なら先にこちらを批判しろ」のような末端の表象だけで話法を判別・検出している。
lady_jokerさんの知的レベルや認知のクオリティについての重要な手がかりだと思う。
(繰り返しになるが、この人ははてな民平均よりはだいぶ頭がいい。)
しかしその本で学んだことを目の前の現実に適用したいとなったとき、
虐殺の歴史のお勉強をして義憤によって現代の誰かを殴りたくなったとき、
その本来コンキスタドールへのものだったはずの憎悪と非難が向かうべき先としてより適切なのはどちらか?
順番なら2であって、
と言っている。
別に反米しようぜとかさあ2を殴ろうとか言ってるんではなくて、
「2すら殴ってないのに1を殴るあなたはなんかおかしくないですか、再検討をお願いします」と言っている。
日頃から2を殴りまくってる人が1すら許さんぞと襲い掛かっていくなら
やべー奴な気はするけど一貫した美しい狂人だと思う。
それはせいぜい思考の混乱しきった愚図か、殴りやすいものだけを狙う卑怯者ではないですか?
こんなツッコミは虐殺と虐殺をぶつけて相殺を狙うようなwhataboutismではないですよね。
「「あんたがたは頭悪いか卑怯もんかどっちかではないですか?」と指摘しているだけ。
これは良くも悪くも(多分悪い方向に)ウイグル話法と一ミリも関係ない。
また私は過去のブコメにおいて、繰り返し非人間化のプロセスを取り上げ、その文脈でコンキスタドールの入植についても言及している。
これはある意味で一番ひどい。
同じ0点でも上2問とは深刻度合いが違う。
増田の話
「過去の「おぞましい歴史」「暗部」に関連付けて現代の誰かを殴る行動は何の意味があるのか」
「どうしても殴りたいなら一番の関係者はアメ公であろう、コスプレMVなんかに八つ当たりしてんじゃあないよ」
本当に真剣にやってる誤読なのか故意の詭弁の遁辞なのかちょっと悩むが
これ国語の点数いくつだよ。
はてな民の中では頭がいい方であるlady-jokerさんですら
抽象化とか認知と言う能力について相当ヤベーという事を見てきた。
世間的には十分知的な方の人であって問題意識もって本を読んでる人だ。それでこれ。
誰かにまとめてもらったテキストから抽象化してなお現実への適用に失敗する。
何かの「悪」の概念を憎んで闘争しようと思っても、実装としては無関係な人間をリンチに掛けるぐらいしかできない。
これはあなた方の人格が悪いからでもなく、不真面目だからでもなく、能力的な限界なんだと思う。
MVを声高に批判した人達に「どこが問題なの?」と聞いても答えが返ってこない。
具体的な説明からも、MVの内容の批評からもひたすら逃走する。
代わりに言い返せることは
「コロンブス自体がタブーだから」「バッファローの骨はシンボルだから」「常識だから」
「アメリカでそう決まったから」「不勉強」「「そんなことに疑問を持つなんてこれだから〇〇は」
(ちょっとしつこく聞いてるとどんどん差別的な悪罵になっていく。)
これらが村の迷信深い古老の警句に酷似しているのは、脳の同じ部分を使ってるからだと思う。
ガバガバフィードバックで表象を吉兆凶兆として祝ったりリンチしたりすることしかできない。
コンキスタドールの侵略と征服に宗教が重要な役割を果たしたことは
本を読むことだけは得意な人なら大体知っていると思う。
その目にはたとえば異教のアイコンなんかはさぞ忌まわしく禍々しく映っただろう。
ネイティブインディアンのトーテムなんか見た時彼等がどんな感情に襲われたか。
「なんでそんなものを拝んでいるのか」
「常識として何が正しいかわかってるはずなのにトーテムと縁を切ろうとしない」
自分達の"常識的感覚"に疑義を呈されると不快でたまらなくなってしまう者、
こいつらどう見てもコンキスタドールと同じ脳波を出してるだろ。
な?出来てないだろ?
笑っちゃうんすよね。
以上から、
あなた方は論客ごっこをしなくてよろしいと思う。そんな能力はないから。
あなた方の直観やガバガバモラルなど社会に何の良い影響ももたらさないから。
それはあなた方の人格や姿勢が悪いんじゃなくて単に能力の問題だから、別に恥ずべきことでもない。
そういう出来もしない大それたことよりも、
そういうことがあなた方を社会に参加させるしあなた方を善良な人にすると思うよ。
そういう人を尊敬する。
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
焼かれる前に引っ込めたのは、引っ込めなかったら焼かれるから。すぐ手を出すチンピラよりも「みなさんの賢明な判断を期待していますよ」と微笑むマフィアの方が怖い。って話やろ。
一般論としてキャンセルカルチャーの傾向について語るならそれでもいい。が、
類人猿の見た目から、猿の惑星をモチーフにしてるなとは感じた。
ただ、元がコロンブスなのに猿の惑星は直接の繋がりはないので、これは邪推だけど、「いかにも原住民」な姿にすると炎上要素が強すぎるので、猿の惑星にすることで批判をかわせると思ったんじゃないかな。反省文では、批判の可能性について当初から考慮していたと言及もしてたしね。当初はある意味「配慮できた」とさえ思って満足していたかもしれない。
『家、ついて行ってイイですか?』でギャラクシー賞を受賞。鷲見アナウンサーを人気アナウンサーにした。
弱男ものというより底辺ものかな(anond:20240616011041)
群の中に入って目立たないと危険度が下がって合理的だから阿武ちゃんは普通になりたいらしい
作中では言及も示唆もされないが、阿武ちゃんも河原もどっちも発達障害っぽい